呉昌碩書画の長崎における受容について
著者名(日) 松村 茂樹
雑誌名 大妻女子大学紀要. 文系
巻 44
ページ 109‑117
発行年 2012‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00000139/
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大 妻 女 子 大 学 紀 要
︱ 文 系
︱ 第 四 十 四 号
︑ 平 成 二 十 四( 二
〇 一 二) 年 三 月
呉 昌 碩 書 画 の 長 崎 に お け る 受 容 に つ い て
松 村 茂 樹
は じめ に 清末 民 初の 上 海 で活 躍 し
︑詩 書 画 印四 絶 をも っ て
︑「 中国 最 後の 文 人」 と 称せ られ る呉 昌碩
(
一 八四 四︱ 一九 二七) の 書画 は︑ 日本 人士 に も好 まれ
︑多 くの 作品 が日 本に 伝わ って いる
︒ 呉昌 碩が 活躍 した 上海 と︑ 最も 緊密 なつ なが りを 有し てい た日 本の 都 市が 長崎 であ る1()
︒ よっ て︑ 当時 の長 崎に も︑ 呉昌 碩の 書画 が少 なか ら ずも たら され てい る︒ 本稿 では
︑呉 昌碩 書画 の長 崎に おけ る受 容に つい て︑ 林源 吉( 一八 八 三︱ 一九 六三) お よび 彼が 開催 した 呉昌 碩展 とそ の図 録を 起点 に論 じ てみ たい
︒こ のこ とに より
︑日 本に おけ る呉 昌碩 受容 の一 断面 を明 か にで きる だろ う︒ 一
︑
「
呉 昌 碩 作画 展」
と 呉 昌 碩先 生 画 帖 一九 二〇年 七 月 二四
〜 二 六日
︑ 長 崎県 立 長崎 図 書 館で
︑「 呉 昌碩 作 画 展」 が開 催さ れた
︒県 立長 崎図 書館 編集 県 立長 崎図 書館 50年 史
(
一 九六 三
︑ 三︑ 三 一
・県 立 長 崎図 書 館) に よ ると
︑ 入 場者 は 一三 九
四人 であ った とい う︒ 同年 三月 六〜 八日 開催 の「 栗原 玉葉 女史 近作 画 展」 が二 六〇 五人
︑五 月二 九〜 三一 日開 催の
「
山 口八 九子 作画 展」 が 二〇 七 六人
︑一 一月 三〜 一二 日 開催 の「 長崎 美 術展」 が 一三 一一 四人
︑ 一一 月二 七〜 二八 日開 催の 大阪 朝日 新聞 長崎 通信 部・ 長崎 市教 育会 主 催「 世界 自由 画展」 が 一五 七八 一人
︑一 二月 二五
〜二 六日 開催 の「 小 比賀 画伯 半折 画展」 が 七五 六人 であ るか ら︑ 個展 とし ては さほ ど多 く もな いが
︑少 なす ぎる こと もな い入 場者 数と いえ よう こ ︒ の展 覧会 出 品作 の図 録が 林 源吉 編輯 兼発 行 呉 昌 碩 先 生 画 帖( 一 九二
〇︑ 一二
︑三
〇・ 双 樹園) で ある
︒ まず は︑ その 序 文「 呉昌 碩先 生 画帖 発刊 に就 て」 の全 文を 掲げ て おく
︒ 呉 昌 碩 書 画 の 長 崎 に お け る 受 容 に つ い て
呉昌碩先生画帖 呉昌碩題字
本 帖は 長崎 県立 長崎 図書 館に 於て 大正 九年 七月 下旬 開催 した る呉 昌 碩先 生作 画展 覧会 出品 の一 部を 撰み 撮影 記念 帖と なし 之を 先生 に 贈呈 此機 会を 以て 同好 の人 々へ 頒ち 度く 又編 者の 為め 描か れた る 近作 二件 並に 先生 最近 の小 像王 一亭 先生 の先 生小 叙生 礦碑 文題 字 五十 一種 の印 譜な どを 収め 先生 と親 しく 面接 識見 に手 腕に 随喜 渇 仰の 編者 斯界 奉仕 の一 と念 じ茲 に本 帖発 刊の 実を 得た るを 光栄 と し展 覧会 の開 催よ り本 帖発 行に 至る 甚大 の御 援助 を賜 はり し永 山 時英 氏奥 田啓 市氏 白石 六三 郎氏 友永 傳次 郎氏 丹羽 末廣 氏杉 山吉 太 郎氏 大久 保玉 岷氏 始め 特志 家諸 賢の 御好 意を 謹み て感 謝す 大正 九年 十二 月二 十日 双 樹園 主人 林源 吉 これ に より
︑ こ の 展覧 会 開催 と 図 録刊 行 は︑ 林 源 吉が
︑「 特 志家 諸 賢」 の 助力 を得 て行 った こと
︑ま た︑ 図録 贈呈 のた め︑ 上海 に呉 昌碩 を 訪ね
︑会 って いる こと もわ かる
︒ さら に
︑ 林は 後 年︑「 長 崎 美術 及 び 史料 展 覧会 回 顧」(
長 崎 日日 新 聞「 月曜 読物」
・一 九三
〇︑ 一〇
︑二 七・ 長崎 日日 新聞 社) 2() の中 で︑ 私 が得 意で 計画 した 展覧 会に 大正 九年 七月 開催 の 呉昌 碩展 と 大 正十 五年 一月 開催 の 絵像 展 があ る︒ 呉昌 碩展 開催 に就 ては 上 海の 虚明 軒友 永傳 次郎
︑六 三亭 白石 六三 郎両 氏の 後援 に依 り遂 行し 記念 とし て写 真 帖を 調整 呉昌 碩先 生へ 寄贈 する こ とが 出来 た︒ と 記し
︑呉 昌碩 作画 展の
「
後 援」 者と して
︑上 海在 住の 友永 傳次 郎︑ 白 石六 三郎 の両 名を あげ てい る︒ ちな みに 同文 に︑「 出 品画 五十 三点」 と あり
︑「 呉 昌碩 作画 展」 の出 品 数が わか る︒ 二
︑林 源 吉 とは この 林 源吉 と は
︑ どの よ うな 人 物 なの で あろ う か
︒ 島内 八 郎 越 中 哲 也編 集 双樹 園の おも かげ 林 源吉 氏遺 稿・ 思い 出
(
一 九六 五︑ 六
︑二 五・ 双樹 園友 の会) 所 収「 林源 吉先 生略 歴」 を見 よう
(
双 樹園
は 林 源 吉 の 号 で
︑
「
林」 字 が「 双」 つ の「 木」 つま り「 樹」 から なる こと によ る)
︒ 鍛冶 屋町 の旧 家に 生 れ︑ 家業 を営 んだ 後 長崎 商品 陳列 所商 工 主事 補︑ 私立 長崎 博 物館 主事 を歴 任す る かた わら 長崎 県文 化 財専 門委 員︑ 同公 園 審議 会委 員︑ 長崎 県市 美術 展覧 会審 査員
︑史 談会 幹事 とし て市 の 郷土 史︑ 観光
︑商 工界 に大 きな 貢献 をな し︑ 文化 財功 労者 とし て 文部 省︑ 長崎 県よ り表 彰さ れ︑ 長崎 新聞 文化 章も 授け られ た︒ 氏の 最も 造詣 深か った のは 古美 術で 特に 陶磁 器に 対す る知 識鑑 識 眼は 日本 的に 知ら れ専 門書 茶 わん の 寄稿 家で あっ たが
︑別 に 若い 頃 彭城 貞徳 につ いて 絵を 学ん だの で︑ 品格 のよ い絵 も画 かれ た︒ 昭和 三十 八年 八月 九日 長逝
︑享 年八 十才 ま た︑ 生前 の林 と親 交が あっ た中 山文 孝の
「
亡 くな られ た林 さん を 憶う」(
長 崎文 化 第十 号
・一 九 六三
︑九
︑三
〇
・長 崎国 際文 化 協会) には
︑以 下の よう にあ る︒ 元来 林さ んの お宅 は現 在の 銀嶺 の東 角か らボ ンソ ワー ルま での 表 区劃 で裏 の溝 川ま でブ チ抜 いた 大き な丸 一家 具店 で︑ 令兄 三人 の 方が 朝鮮 で貿 易商 を営 んで 居ら れた 為に 四男 坊で あり なが ら家 業 を継 がれ たも ので
︑利 潤追 求よ りも
︑商 品の 質と 意匠 の向 上に 専 念さ れた
︒青 貝入 り漆 器細 具の 創作 は︑ 長崎 工芸 史に 特筆 され る べき だと 今に 思っ てお りま す︒( 中 略) 大正 六年 林さ んは 家業 を癈 めら れて 商品 陳列 所( 現在 日本 銀行 支 店在 地) に入 られ
︑一 般工 芸品 の意 匠製 作指 導︑ 鑑定 に当 られ
︑
林源吉肖像
(中山孝 「亡くなられた林さんを憶う」
より)
傍古 典伝 統の 研究 に 没頭 され まし たた め此 面薀 蓄は 大 した もの で︑ ま た陶 器の 研究 も此 頃か ら特 に深 めら れ過 般物 故さ れた 富本 憲吉 氏 との 交流 も繁 かっ た様 に聞 き及 んで おり まし た︒ 昭 和十 四年 林さ んは 博物 館に 入ら れ︑ 郷土 史研 究に 邁進 され る事 に なら れま した
︒そ の結 実を 常に 新聞
︑雑 誌に 発表 され まし た︒ 其 頃か ら郷 土玩 具︑ 寺社 建築
︑仏 教芸 術等
︑文 献に
︑実 地踏 査に 研 究を 進め られ
︑其 足跡 は鎌 倉︑ 京都
︑奈 良︑ 遠く は朝 鮮︑ 満支 に も伸 ばさ れま した
︒環 境と 健康 に恵 まれ たこ うし た御 仕合 せを 実 に羨 まし く思 われ まし た︒ この 二つ の略 歴か ら︑ 美術 工芸 に造 詣の 深い 大店 の主 人が
︑趣 味を 本 業と し︑ 郷土 史研 究家 に転 じた 生涯 が窺 える
︒ 三
︑文 化 的 活動 へ 林は
︑「 呉昌 碩作 画展」 を 開催 し︑ 呉昌 碩先 生画 帖 を刊 行し た一 九 二〇
(
大 正九) 年 には
︑す でに 家業 をや め︑ 商品 陳列 所に 入っ てい た
︒ 商品 陳 列 所は
︑「 国 内外 の 生産 品 を蒐 集 し て︑ 公 衆 の縦 覧 に供 す る とと もに 当該 業者 の参 考に 資す る目 的を もっ て︑ 明治 二九
(
一 八九 六) 諏 訪公 園入 口に 設立 され た」 3() 施設 であ り︑ 大店 の主 人で あっ た林 は︑ ここ に入 った こ とで
︑「 当該 業 者」 の 取り まと めを す る立 場 にな っ た と思 われ る︒ そし て林 は︑ この 転職 を機 に︑ 鍛冶 屋町 から 馬町 に転 居し てい る︒ 呉昌 碩先 生画 帖 の奥 付に
︑「 編 輯兼 発行 者 長崎 市馬 町 林 源吉
/発 行 所 長崎 市馬 町二
〇 双 樹園」 と ある 地点 であ る︒ 当時 の地 図を 見て み ると
︑商 品陳 列所 に極 めて 近く
︑す ぐ北 にあ る諏 訪公 園に 入る と︑
「
呉昌 碩作 画展」 の 会場 とな った 長崎 県立 長崎 図書 館も 近い
︒ 諏訪 公 園 は︑「 明 治 六年 の 太 政官 布 達に よ り 明治 七 年 に設 置 され た 長 崎県 下最 古の 公園」 4() で
︑鎮 西大 社諏 訪神 社に 隣接 し︑ 長崎 奉行 所立 山 役所 の跡 地と いう 由緒 ある 土地 であ る︒ 現在 も︑ 長崎 県立 長崎 図書
館︑ 長崎 歴史 文化 博物 館が あり
︑商 品陳 列所 の跡 地に は日 本銀 行長 崎 支店 があ る︒ 林 は︑ この 由緒 ある 土地 に勤 務し
︑そ の近 くに 居住 して
︑文 化的 活 動 を行 っ て い く こ と に な る
︒ そ の 一 つ が「 呉 昌 碩 作 画 展」 の 開 催 と 呉 昌碩 先生 画帖 の 刊行 であ った
︒ 四
︑
「
特 志家 諸 賢」
こ の「 呉昌 碩作 画展」 開 催と 呉 昌碩 先生 画帖 刊 行は︑林 なら で はの 方 法で 行 わ れた
︒ つ まり
︑「 当 該業 者」 の取 り まと め を する 立 場 と︑ 大店 の主 人 時代 の人 脈も 活 かし
︑「 特志 家諸 賢」 の協 力を 得て 行 っ たの であ る︒ 前 出 呉昌 碩先 生画 帖 序文
「
呉 昌碩 先生 画帖 発刊 に就 て」 に見 え る︑ この
「
特 志家 諸賢」 に つい て紹 介し てお こう
︒ 永 山時 英( 一八 六七
︱一 九三 五) は︑ 鹿児 島の 人︒ 第七 高等 学校 造 士館 教 授を 経て
︑一 九一 五年
︑長 崎県 立 長崎 図書 館初 代 館長 に就 任し
︑ 二十 一年 間在 職し た︒ 古賀 十二 郎・ 武藤 長蔵 と共 に︑ 長崎 学の 三羽 烏 と称 され
︑古 賀が 創設 した 長崎 史談 会( 第一 期) の顧 問と して 機関 誌 長崎 談 叢 に 多 く寄 稿 して い る
︒長 崎 史 談会 は
︑ 一九 二 八年
︑ 林 ら が発 起 人と な っ て︑ 再 興 され る こと に な る( 第 二 期)
︒ 林 が ここ で ま ず永 山 の名 を あ げて い るの は
︑「 呉昌 碩 作 画展」
の 会場 と なっ た 図 書 館の 館長 とし ての みな らず
︑自 らも 志す 郷土 史研 究の 先達 とし て敬 意 を表 して いる から であ ろう
︒ 奥 田啓 市( 一八 八三
︱?) は
︑福 岡の 人︒ 東京 市立 日比 谷図 書館 司 書か ら一 九一 五年
︑長 崎県 立長 崎図 書館 司書 に転 じ︑ 一九 二一 年か ら 一九 四四 年ま で鹿 児島 県立 図書 館長 をつ とめ た︒ 大谷 利彦 長 崎南 蛮 余情 永 見徳 太郎 の生 涯( 一九 八八
・長 崎文 献社) が 引く
︑一 九五 三 年三 月一 日付 毎 日新 聞 島内 八郎
「
長 崎で の茂 吉」 に︑「(
斎 藤) 茂 吉氏 は県 立図 書館 の司 書の 前記 奥田 氏を 中心 とす る文 化人 の一 団︑ 永 呉 昌 碩 書 画 の 長 崎 に お け る 受 容 に つ い て