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鳩摩羅什の没年問題の再検討

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(1)

鳩摩羅什の没年問題の再検討

はじめに

鳩摩羅什は五世紀初めに中国において多くの仏典を漢訳し︑仏教史上大きな業績を残した︒そのため羅什の生

涯や訳経に関する記録が少なからず存在している︒しかし︑これらの記録には伝説的要素も含まれ︑また相互に

矛君する内容を持つものが並存しているため︑羅什の生涯について不明な点も多い︒替にその没年については︑

羅什訳仏典の訳出事情にかかわることでもありながら︑諸説あって未だに定説誌ない︒

筆者は現在︑羅什の伝記・関連研究の文献百録を作成中であり︑それらの文献を調べてきた︒ところがこの没

年問題については︑どの先行語究も完全に満足のいく論証・結論を出し得ていないように患えた︒そこで先行研

究の成果を参照し補いながら改めて関連記録を考察した結果︑筆者は羅什の没年を弘拾二二(茜震四一二年頃

と推定するに到った︒本稿の

E

的は︑羅什の没年問題を再検討しこの新たな説を提示することにある︒

国際仏教学大学院大学研究紀要第三号平成十二年三月

ヨ王

(2)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

一 一

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第一章羅什の没年に関する諸説

羅什の没年については表一のようにいくつかの説がある︒

羅什の没年諸説

その他

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※本稿では以下︑羅行の弘弟

( 茜

一 磐

O九)年死没説を︿西O九年説﹀と略記する︒地の没年の説も再じ方式で略記す

(3)

表の中の︿四

O

五・西

O

六年説﹀辻吉議が主張しているが根拠辻示していない︒この説辻羅行の訳経の記録上

反証が多く︑吉蔵の後︑伝統的に誤りとみなされてい討︒筆者も同意見なので︑以下本稿でも考慮の対象外とす

O諸説の内︑特に重要なのが︿四九年説﹀と八四一三年説﹀である︒ る ︒

現存文献の中で最も早く︿因︒九年説﹀を主張しているのは﹁梁高僧伝﹂の羅什伝である︒その後この説を踏

襲するものはあったが︑この史料のわくを越えて説の妥当性を論証しようとした研究は長い間なかったようであ

る︒近代以降最初に︑関連諸史料を批判的に検討した上で︿四

O

九年説﹀を公表したの辻詑令実円氏である(表

一の能令氏論文)︒筆者の考えでは︑能令氏による︿回二二年説﹀の難点の指摘は納得のいく点が多く︑︿四二二

年説﹀批判として画期的なものである )Oその後塚本善監氏も三論文(表ニで諸史料を考察し︿四O九年説﹀を

主張しだ︒塚本氏の研究以詩︑日本では︿因︒九年説﹀が有力である︒

一方︿西一三年説﹀は︑僧肇作とされる﹁鳩摩羅什法師諒﹂による主張で︑現存文献の中では円照﹃貞一克録﹄

が最も早く主張している︒過去この説をとる研究者は多く︑中冨や欧米で辻︑塚本氏の研究が思知となった後で

も︑こちらの方が優勢であ足︒

表一に示したとおり︑再説のどちらかをとる研究は枚挙にいとまないが︑どちらにしても筆者は今までの研究

に問題を感じる︒それは︑自説に'有利な史料の提示や考察は十分だが︑不利な史料の方は不十分という煩向がか

なり見られるからである︒しかし問題はそれだけではない︒羅什の没年に関する史料は︑没年の提示やその考察

を意図した類のもの(以後﹁(没年)言及史料﹂と呼ぶ)と︑そうでないもの(以後﹁(没年)関係史料﹂と呼ぶ)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

t

(4)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

‑ ^ ‑

の二つに大きく分けられるが︑そもそも前者の史料の示す没年(弘始七・八・一一・一五年)のどれかが絶対正

しいと言い切れるのであろうか︒そして後者の史料による知見も一旦︑既存の没年説にとらわれずに見直してみ

るべきではないか︒先行研究はこうした問題意識に十分に答えているとは思えないのである︒

以上の問題点を念頭に置きながら︑第二章では﹁没年言及史料﹂︑第三章では︑﹁没年関係史料﹂を考察する︒

第二章没年言及史料

︿

西

O

九年説﹀と︿四二二年説﹀の基本史料である﹃梁高僧伝﹄羅仔伝と﹁鳩摩羅什法蘇誌﹂を考察す

る︒地にも﹁言及史料﹂はあるが︑者︑上述二史料を基本典拠にしていたり︑それ以上の詳しい情報を含まなかっ

たりなので︑本稿では取り上げない︒

﹃梁高舘伝﹂二︑羅行伝の問題の笛所は次のとおり︒

熱行死年月︑諸記不同︒或云弘始七年︑或云八年︑或云十一年︒尋七与十一︑字或詑誤︑市訳経録伝中︑猶

有十一年者︒恐雷同三家︑無以正罵

G

この部分には抜本により字句の違いがある︒字句が引用の通りなら︑慧絞が︿四

O

九年説﹀を選んだのは一つに

辻︑訳経録の中に弘始一一年とするものがあったからのようである︒しかし慧絞の︿四

O

九年説﹀の直接の典拠

や理出はそれ以上わからない︒この記録自体には信憲性を確かめる手がかりは含まれず︑真偽を決定するには他

の史科に依存する誌かない︒

さて次は﹁鳩摩羅日付法一部東﹂(以下﹁諒﹂と略称)である︒誌は︑死者の望棋をたたえ哀悼の意を表するため

の文章で為足︒上述﹁諒﹂について論ずべき問題は多いが︑論議が繁雑になるのを避けるためここでは﹁諒﹂の

(5)

真贋問題を中心に論ずるのみとする︒

﹁控訴﹂には﹁葵丑之年︑年七十︑四月十三日嘉子大寺︒﹂と没年が明示されている︒弘始年中の﹁笑丑﹂は一五

年なので︑これが︿四一三年説﹀の根拠となってい足︒作者は伝統的に羅什の直弟子の僧肇とされているため︑

︿四一三年説﹀をとる者はこの没年の信意性が高いと考えている︒しかし﹁諒﹂は︑慧設や吉蔵︑﹃歴代三宝記﹂

の費長一房や﹁関元録﹂の智昇らがいずれも参照した形跡がないので︑︿西

O

九年説﹀を取る者はこれを後世の偽

(

)G

このような問題を含みながらも︑﹁議﹂は内容自体の検証によって真贋が論じられることはほ

とんどなかっ問︒筆者は︑内容から晃て﹁諒﹂は稽肇作ではなく詩作と考えるので︑以下その理由を示そう︒

故大秦符・挑二天王一時旅以延之︒斯二王也︑心遊大覚之内︑形鎮万化之上︒外揚義和之風︑内盛弘法之街︒

道契神交︑届為形授︒公以宗匠不重期其道不尊︑設蓮壊神宝︑感而後動︒

(それ故︑大秦国の符氏と挑氏の二人の天王は︑軍隊をさし向けてお迎えすることとなった︒この二人の天

王は偉大な覚者(仏)の門に︑むを遊ばせつつ︑万象が変化する世俗の支配者として︑外に向かっては義和に

もたぐうべき風教を宣揚し︑内にたいしては仏法弘布の方途を盛大にしていたが︑真理法びたちと一致して

心は通い︑お招きした上でじきじきの伝授をと願ったのである︒公は宗匠がどっしりとしていなければ真理

は尊ばれぬと考えられ︑かくて神秘の宝を婦に秘め︑求めに応じておもむかれがよ)

現存の羅行の缶記から考えると︑このような一節が羅什の誌にあっても一見不思議はないが︑本当に後秦治下

の僧肇が書いたとすると大分おかしい

G

他の羅什の伝記を考えあわせると︑この大秦符・銚二天王は前秦の存堅と後秦の挑輿を指していると見てよい︒

つまり﹁諒﹂では︑大秦の名のもとに後秦競氏と一くくりにして︑羅行招致や仏教興陸上の功績が前秦存堅の事

鳩牽羅什の没年詞題の再検討(斉藤)

L

(6)

鳩壁羅什の没年開題の再検討(斉藤)

=

績としても語られているのである︒仏教儲から見れば︑ここでは羅什と関係して両王が好意的に叙述されている

と言える︒しかしここで前秦存氏と後秦競弐の関係を考えてみる必要がある︒

後秦王朝は︑前秦王朝が崩壊し銑氏が存氏を滅ぼすことによって確立した︒両氏の間には︑存堅が銚裏(競興

のおじ)を殺し銚蓑(挑輿の父)が存堅を殺し銚興が存登(存堅の同族)を殺したという倭穆な歴史があり︑再

王朝は不倶戴天の敵どうしなのであ足︒このような霊史を持つ後秦の治下において︑前秦・後秦を一区別せず存堅

を後秦挑氏と同列に好意的に評価した文章を書くことは︑王朝イデオロギi上︑公的にははばかられることであ

る︒権力から遠い一般庶民ならまだしも︑後秦王轄の手厚い保護を受ける仏教教匝の僧肇がこうした問題のある

文章を敢えて書くと辻思えない︒

﹁諒﹂を儀作と見る理由をもう一つ挙げよう︒先の引用部の少し後に次の一節がある︒

如彼維章︑跡参域坊︒形撞円応︑神沖帝郷︒来教難妙︑何走以戒︒

(かの維摩居士と同じように︑暮らすの辻野の中︒肉体はすべてに円満に応ずるものの︑精神は天帝の郷へ

とたかく舞いあがる︒連れの女は器量よしだが︑とりたてて言うほどのことは何もないのだよ)

﹁諒﹂を訳した吉川忠夫氏によれば﹁来教難妙︑何足弘戴﹂辻︑羅行の身辺に妓女が・仕えていたことに言及し

ているとい%︒妓女の事を﹁試さがどう評植しているかは措くとして︑油田肇が師の羅什の諒の中でその生涯の汚

点にわざわざ触れることはありそうにない︒一一部や墓誌銘は故人の生前の功績をたたえ哀悼の意を表するための文

章であ号︑故人にとって不名誉なことは普通ことさらに触れたりしないからである︒

以上の内容に関するこ点からも︑﹁諒﹂が僧肇や後秦時代の人間の作ではないことは明らかである︒掲作者は︑

前秦・後秦王顎や羅什の生涯をはるか過去のこととしてしか意識し得ない後代の人間であろ切︒

や誌り﹁守一部﹂は由来が不確かで︑羅什の伝記文献としての史料的錨植は高く評殖できない︒したがって少なく

(7)

とも︑﹁諒﹂が僅肇自身の作であるからそこに明記された死没年月日は信頼しうるといった議論は成り立たなく

なったと言える︒︿四二二年説﹀も正しさを‑証明するには︑他の﹁没年関係史料﹂の中にもっと信頼しうる根拠

を求めなければならないのである︒

ザ 第 三 音 十

没年関係史料

本章では﹁没年関係史料﹂を考察する︒︿西

O

九年説﹀と︿西二ニ年説﹀で意見がわかれるのは弘始二一(四

O

)

年以降の羅什の生存についてなので︑本稿で取り上げる史料もこの年以降の事柄に関するものだけとする︒

) 

︒僧肇﹁答劉遺民書﹂(﹁肇論﹂所収︑引用部分は大正四五︑一五五頁下)

不面在昔︑件想足労︒慧明道人至︑得去年十二月疏井問︒披尋返覆︑欣若暫対︒涼風届節︑頃常如侍︒貧

道労疾︑多不住耳︒信南返︒不悉︒人月十五

5 0

:

由使異典勝僧方遠語至︑霊鷲之風︑李於姦土︒領公遠挙︑乃千載之津梁也︒於西域還︑得方等経二百余部︑

語大乗禅師一人・三蔵法師一人・毘婆沙法陣二人︒什法師於大在寺出新至諸経︒法蔵滞壊︑呂存異開︒禅

師於瓦官寺教習禅道︒門徒数百︑夙夜壁輝︑何邑畠薫薫︑致化放楽︒三歳法師於中寺出律義︒本末精悉︑若

観初制︒毘婆沙法師於石羊寺出舎利弗阿毘曇胡本︒難未及訳︑時間中事︑発言新奇︒

この書は︑僧肇﹁般若無知論﹂についての鶴遺民の質問に対する僧肇の屈答で︑当時の羅什とその周辺の動向

も書かれており重要な史料である︒

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

(8)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

引用部からは︑この書がある年の八月一五

E

に書かれ側︑当時羅什は鍵在で訳経活動を継続中であったことがわかる判︒そして外国出身舗の活動について以下のことも知ちれ足︒

相﹁禅師(司仏駄践陀羅)﹂が瓦官寺で多くの弟子達に禅道を教授している︒

(

)

的﹁昆婆沙法諦(二入院曇牽耶舎・曇牽掘多)が﹁舎利弗河毘曇論﹄訳出(に徒一軒)︒ただし実擦の翻訳には至つ

こうした内容から︑この書の作成年代がわかればその時の羅什の鍵在が確認できるのであるが︑この書にはそ

の年代が明示されていない︒そのため作成年代は古くから数多く論じられており一致した見解誌な時︒だから改

めてその年代を確認する必要がある︒そのため︑佐一道生・裂遺民と前記例・的の関連記録を次に挙︑げ︑さらにそ

の内容とつきあわせて﹁答劉遺民書﹂の作成年代を年表の形で示す︒(繁雑になるのを避けるため︑制の関連史

料は史料名と共に表二の中に一不すだけとした︒長安退出後の仏歎猿陀羅については本章己参照︒)

︒竺道生の動向(工)

‑①去年夏末︑始克(佐一道)生上人示無知論︒(﹁劉遺民書間的﹂︑﹃肇論﹄所収︑大正四五︑一五五頁上)

I②(道生)遂与始輿慧叡・東安慧巌・道場慧観同往長安︑従羅什受学︒関中指衆︑成称其秀官︒義黒五(四O

)

::

(

)

︒劉遺民の没年

( E )

E①額程之︑字仲思︑彰域緊里入︑漢楚元王之百喬也︒:::凡居出(産出)十有二年︒白正月感疾︑:::至六月

拐︑果見自宅相︑次見仏真影︒:::至二十七吾︑僧衆成集︑遺民日︑今道夫︒予気尽︑勿突以栢悩乱︒

. .  

少頃合掌︑酉向荷造︒・:・:開義熊六年実戎終︒春秋五十七︒(諌舜愈﹁麗山記﹄巻三︑劉遺民伝︑大正五一︑

(9)

﹁答劉遺民書﹂関連年表※点隷内は上記書の内容に適合する時期

4 1 4  4 1 3   4 1 2   4 1 1   4 1 0   4 0 9   4 0 8   4 0 7   西暦

/ /   /  /  /  /  / 

1 6   1 5   1 4   1 3   1 2   11  1 0   9  弘始

/ /   / 

/  /  / 

/  / 

1 0   9  8  7  s  5  4  3  義 照

4 1 3   4 1 0   4 0 9  

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②康帰

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君主主計予か

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鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

(10)

鳩牽羅仔の没年開題の再検討(斉藤)

jZg 

O

三九頁)

立②劉程之︑字伸思︑彰域入︑漢楚元王之後︒:::却与衆別︑弘床上面酉合手気絶︒:::時義照六年也︒春秋五

十九︒︹死亡の月日の記載なし︺(﹁仏担統記﹂巻二六︑十八賢伝︑劉程之の条)

j i l

豆③塵出遠法師作額公伝云︑鶴程之︑字仲思︑彰域入︑漢楚元王喬也︒:::義照︑公候成砕命︑皆遜辞以免︒九 (侯)

年︑大尉劉公知其野志沖選︑乃以高尚人望相札︑遂其放心︒居山十存二年卒︒︹死亡年月日の記載なし︺(元

康﹁肇議疏﹂巻中所引︑郵公缶︑大正四五︑一八一頁下)

O傍線部

e

以弘始十二年︑歳在上章掩茂︑請粛賓三蔵沙門仏詑事舎出律蔵四分四十巻︑十四年託︒(﹁出三﹂九︑舘肇

)

︒﹁舎利弗開毘曇論﹂の訳出事情(持活線部

f )

百以秦弘始九年︑命書党文︒至十年︑尋応令出︒担以経趣徹遠︑非徒関言所契︑有被匙不相領官︑直委之訳人

者︑恐津梁之要未尽於善︒停至十六年︑経師漸罷秦語︑令白宣訳︒(﹁出三﹂一O

︑道標﹁舎利弗阿毘曇序﹂)

表二でわかるとおり﹁答劉遺民書﹂の内容d

e ‑

f

O年か四一一年の八月十五日になる︒そ

して先立つ質問書を劉遺民が書いたのはその前年の一二月である

( a

︒ところで劉遺民は四一O年六月二十七

)

日に死んだという記録がある

( E

)

西

O年二一月に劉遺民は倭肇に手紙を書けないわけで︑

そうすると﹁答劉遺民書﹂は翌年四一一年執筆の可詑性がなくなる︒しかし豆①を含む﹁産山記﹂の史料的信値

を疑う意見もあり︑また義照九(回二ニ)年に劉遺民の生存を示す史料もある

( E

③接続部)︒通説では劉遺民

O

E①・②と豆③のどちらが正しいか完全に決定できる史料は他に見当たらな

いようなので︑本当は︑その没年を四一O年で確定済とするのは問題がある︒このような理由から︑﹁答劉遺民

(11)

O

年か四一一年のどちらかの八月一五日であると言うにとどめておきたい︒しかしどちらにせ

西

O

年八月一五司に羅什が健在であったということは言えるのである︒

引用史料や表二でわかるように︑増肇﹁答劉遺民書﹂は︑別系統の関連史料がいくつもあり︑それらとの矛震

も特に見られないので︑信頼できる没年関係史料と言える︒以上により﹁答器遺民書﹂は︿四

O

九年説﹀の重大

な反証であると筆者も考える︒

仁)

次は﹁或実論﹄訳出に関わる記録である︒

大秦弘始十三年︑歳次家章︑九月八日︑尚書令競顕請出比論︑至来年九月十五呂託︒外国法師拘摩羅香婆手

執拐本︑口自伝訳︑曇墨筆受︒(﹁出三﹂一一︑﹁成実論記﹂︑大正五五︑七八頁上)

羅什の没年を考える上でこれも重要な史料である︒この記述が正しければ︑当然羅什は弘始一回(四一二)年

九月一五日まで生きていたことになり︑︿四

O

九年説﹀には大変都合が悪い︒そのため龍令実円氏や塚本善隆氏

らは︑いくつか理由を挙げてこの史料の信憲性を疑い︑その訳出年時の記載を認めていな(問︒一方︿匝

O

に反対の研究者は皆︑自説の正しさの重要な証拠としてこの史料を挙げる将︑ほとんどがその信憲性を考憲せず︑

両者の議論は噛み合わぬままになっている︒したがって改めて﹁成実論記﹂の史料的髄値や﹁成実論﹂訳出持期

を判定する必要がある︒

まず辻右引用部の﹁尚書令競顕﹂の真掲の問題である︒この記述については信悪性を疑う意見があち︑それは

弘始二二年の尚書令を挑弼とする考えに基づ一円︒﹁音書﹂巻一一人挑輿載記下には確かに競顕と焼弼の尚書令在

住の記述があるが︑挑弼の尚書令就任年月は示されていない︒やはり¥豆墨田﹂によるかぎり︑弘始二二年九月

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

三 百 二

(12)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

プ て

頃の尚書令を特定することは無理であろ汚

c

したがって︑﹁尚書令競顕﹂の真偽の決定は保留せざるを得ず︑こ

の部分は﹁成実論記﹂の史料的倍値の判断祥科にしないことにする︒

次に訳出時期について見てみる︒弘始二二年訳出は﹁或実論記﹂の他に︑それと同系統と思われる﹁成実論大

(

西

i

五二二年)にも記載されてい足︒これらによれば︑梁代初めにはすでに弘始二二年

訳出が伝えられていたことは確かである︒しかし訳出時期には異説がある︒﹃歴代三宝記﹂巻入(大正四九︑七

八頁下

i

)

成実論二十巻︹割注︺或十六巻︒弘始八年出︒曇略筆受︒見二秦録︒此論仏滅後八百余年︑詞梨政摩造︒

とあ号︑訳出は弘始八年とされている︒

( )

この再説のうち︑塚本善蓋氏と木村宣彰氏辻弘始八年説をとる︒その根拠となるのは次の二史料である︒

(挑)輿勅住遺遥圏︑助什訳経︒初出成実論︑凡誇論問答︑皆次弟往反︒影捜其支離︑乃結為五番︑寛以呈

什︒什日︑大善︑深得吾意︒什後出妙法華経︑:::(﹃梁高増伝﹂六︑曇影長)

什一所翻経︑叡並参正︒昔竺法護出正法華経︑受決品云︑天見入︑人見天︒行訳経至北︑乃言︑比語与西域義

問︑佳在言遇案︒叡日︑容非人天交接︑両得栢見︒什喜日︑実然︒其領悟標出︑皆此類世︒後出成実論︑令

叡講之︒(同前書開巻︑錆叡伝)

前述両氏の考察を参考にLてこの二史料を考えると次のことが言える︒﹁成実論﹂訳出について︑前者の史料は

﹁法華経﹂より前︑後者は﹁法華経﹂より後とする︒二史料は互いに矛虐しているように見えるが︑﹁成実論﹄の

弘始八年訳出説に有利な記述である︒なぜなら﹁或実論﹄訳出が﹁法華経﹄訳出を挟んであるいは並行して︑ほ

ほ同時期に行われたと考えた場合伺み︑二史料がそのまま両立するからである︒﹁法華経﹂訳出は弘始八

( )

六)年なので(﹁出三﹂八﹁法華宗要序﹂)︑﹁成実論﹄訳出を弘始八年とするとうまく合致する︒

( 四

O

(13)

一方︑訳出を弘始二二年からとする﹁成実議記﹂・﹁成実論大義記﹂を支持する別種の史料はない︒このように︑

支持する別系統の史料の宥無によって判定すれば︑﹁壁代三宝記﹄の弘始入年訳出説の方が有利である︒したがっ

て︑﹁成実論記﹂は重大な反証があり︑内容は十分岳頼できるとは言えない︒決定的な価値を持つ﹁没年関係史

料﹂として扱うの無理である︒

)

弘始二ニi一五年に関する史料としては︑次の仏駄践陀羅(以下︑覚賢の名を患いる)の記録が重要である︒

一一山仏駄駿詑伝には︑当人が長安仏教教団からの追放を命じられた後のこととして次のような記事が

﹁ 出 二 一

乃与弟子慧観等四十余人倶発︑持志従容︑初無異色0

先是憲出釈慧遠久報其底︑乃遣使入関致書折請︒後関其被斥︑乃致室田﹂

H 7

競主解其譲事︑欲迎出禅法︒頃之︑

仏賢

( H H仏駄抜陀羅)至麗由︑遠公栢見欣然︑傾蓋若田︒自夏迄冬︑訳出禅数諸経︒

仏賢志在遊化︑居無求安︒以義黒人年︑遂適菊州

0

時諌郡蓑豹為宋武帝太尉長史︑在荊州︒仏賢将弟子慧観詣豹乞食︒・:・:既布(豹)潤慧観日︑此沙門荷如入︒

観答日︑徳量高進︑非凡入所説︒豹深歎異︑以啓太尉︒太尉請与椙見︑甚崇敬之︑資供備至︒俄而太尉還都︑

講与倶婦︑安止道場寺︒

また﹁梁高信伝﹂二の仏款践詑羅伝には前掲C‑Dに対応する以下の記述がある︒

C賢志在遊化︑居無求安︑停止歳許︑復西適江陵︒

D時陳郡衰豹為宋武帝太尉長史︑宋武南討劉毅︑隠府届子江援︒襲将弟子慧観詣豹乞食︑・

鴻摩羅什の没年需題の再検討(斉藤)

ーヒ

(14)

鴻牽羅什の没年開題の再検討(斉藤)

以上の史料によると︑長安から追放された覚賢は弟子の慧観らと共に産山に向かった︒そしてそこで慧遠に歓

迎され一年ほど滞在した(以上A

B C)

︒そしてその関の夏から冬にかけて禅経を訳出した

( B

) ︒その後覚

賢は義黒人(西=乙年に麗山から荊州(日江陵)に向かった

( C

︒荊州には︑都毅討伎のため額裕(後の宋)

武帝)と部下の衰豹が来ておち

( D

) ︑覚賢は慧観と共に嚢豹のところに行って仔乞し︑それがきっかけで額裕

にも手一厚くもてなされ︑劉袴の帰還に伴って建康に至った

( D

)

Dにある器搭の裂毅討伎は﹃宋書﹄巻二武帝紀中にも記録され︑それによると袈裕は義黒人(四一一一)年一一

月に荊州に到差し︑翌年二月に建康に戻ったことがわか足︒したがって覚賢と衰豹・劉諮との交渉は四二一年末

から回二二年初めということになる︒

さらに

DDによると覚賢が荊到に行く時慧観が同行していたことがわかる︒﹃梁高僧伝﹄七には慧観伝があ

り︑その中で当人が羅行の下で﹁詰華宗要浮﹂を書いたことが述べられた後︑次の一節が続く︒

E什日︑善男子所論甚快︑君小部当高遊江漢之問︑善以弘通為務︒什亡後︑運南適荊州︒

この中で慧観の荊州行きは﹁南適﹂と表現されているので︑それまで当人のいた︑北方の長安が窮州にりきの起点

として考えられているはずである︒だから︑﹁什亡後﹂というのは長安からの出発時を含むと解釈してよい︒細

かい解釈を試ればこのようになるが︑ともかくEからは︑慧観が南下して荊州に行ったのが羅什の死没後であっ

Eと先の

A以下を考えあわせると︑慧観が覚賢と共に荊州で哀豹に会ったのは四二一年末から四二二年初

めの関であり︑その時にはすでに羅什は死没していたことになる︒そうすると﹁諒﹂による羅什死没の日(四一

三年四月十三宮)は否定される︒以上の考え方は龍令実丹氏や塚本善藍氏の説によったものであ足︒上掲の史料

開に辻重大な矛窟がなく︑管見のかぎり有効な反証もない︒そこで筆者も上掲諸史料の信懇性を認め︑龍令氏ら

(15)

覚賢の長安退出後の行動 題一

(A) 

年︑ヲ

q u

a A τ

建康に行く月!﹁

i

在 2

廿

t n i

1 年ほど嵐山滞在一一‑一一帯 列 f

r‑‑‑

経訳出‑一一‑,

冬 、 に

4 1 2 年 行 1 1 1

8 / 1 5   4 1 1 年

羅什脇鰯綴観揚揚揚後

健在綴鰯級協磁館筋磁

羅什死没時期 西 暦 4 1 0 年

1 年ほど麗山滞在‑

‑‑荊

震 建 夏 糸 州ー・ーー豹‑‑‑

‑康

、、 bこに~:

禅経訳出一ー行 会 行

く う く

1 1

2

Jj 

4 1 3 年

1 1   1

I 1 1   I  '  I  1 

i

裕荊粥滞在

(B) 

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

8 / 1 5   4 1 1 年 8 / 1 5

羅 什 羅 什 健 在 ?

健在勿~勿勿勿w/z後務揚物務援護

羅 什 死 没 時 期 茜 暦 4 1 0 年

の説を基本的に正しいと考える︒これに対し︿四二二年

説﹀の甜から辻有効な反論はなされていな時︒

次に︑前述の史料を用いて羅什の死没時期をできるだ

前掲AjEの史料によって︑覚賢の行動は︑(羅什死

没後)長安退出ii産出に一年ほど滞在(その需の夏か

ら冬に禅経訳出

)1

1

(

)i

i衰豹

に会う(四一二年末から四二二年初め

)i

i劉裕と共に

建康へ行く(西二二年二月頃)︑という願序になる︒そ

して︑産山における夏から冬の禅経訳出が何年なのかを

O

年八月一五日までは少なくとも羅什は

健在なので(﹁答劉遺民書﹂︑本章付参照)︑この年では

なく翌年以降である︒そして麗出から荊州へ行くのは四

一二年なので︑結局可能性があるのは四一一年か西二一

年だけということになる(図一参児学もし禅経訳出を

四一二年とすると︑確かに覚賢の麗山到着後の行動はか

なりつまって時間的にきつい感じがするが︑

( B )

した通り不可能ではない︒また現存史料に辻︑弾経訳出

がどちらの年かを決定する決め手はない︒そのため覚賢

二 一 一 九

(16)

鳩産羅什の没年開題の再検討(斉藤)

一 四 ( )

の各行動の時詩的誰移は函の

( A )

(

B ) の二通りに解釈できる︒

今震は羅什死没のありうる時期を考えると︑覚賢の行動が

( A )

の通りであるなら︑産山での禅経訳出誌四一

一年夏からになり︑羅什の死没は四一

O

年入月一五日より後︑四一一年春頃までということになる︒一方

( B )

の通ちであるなら︑産出での禅経訳出は四一二年夏からにな号︑羅什の死没は四一

O

年八月一五ヨよち後︑四一

二年春頃までということになる︒ただし︑もし﹁答劉遺民書﹂が四一一年の作であるなら︑当年八月一五日まで

は羅什は健在ということになり︑その場合可能なのは

( B )

だけで︑死没の時期は西一一年八月一五日より後︑

四一二年春頃までということになる︒以上の推定で辻︑覚賢が長安から麓山に至るまでの時間や︑到着から禅経

訳出関拾までの時間は考えに入れず︑羅什死没の可能性のある時期をかなり広くとつである︒

前述のように羅什の死没時期は条件しだいで何通りが考えられるが︑どれにしても四一一年前後の時期におさ

まるので︑死没持期は四一一年頃とすればよいであろう︒覚賢・慧読の関連史料と先の﹁答劉遺民主国﹂は比較的

信頼できる﹁関係史料﹂であるが︑この二つの内容から判翫すると羅什の没年は既存の没年説とは異なったもの

個)

次に︑羅什の長安在住年数に関わる史料を考察する︒

後為(慧)遠入関︑致書羅什︑凡為使命︑十有余年︒

これは︑曇畠が訴の慧遠から羅什への手紙を送る使いの役割を十余年聞はたしてきたことを述べている︒これ

が事実なら当然羅什は長安到着後十余年在住していたことになり︑在住九年目に死去したことになる︿四

O

九年

(17)

説﹀は成り立たなくなる︒そのため︿四一一一一年説﹀の陳世長氏はこの記述を自説の根拠の一つとして挙げていお︒

ところが︿因︒九年説﹀の側からは調の反証・反論も提出されていない︒曇畠のこの活動に関して他に参照す

べき記録が残っていないのでその点は問題であるが︑この一節自体には矛盾や不自然な点はなく︑反証もないの

で︑その内容を疑う理由辻特にない︒そのため筆者は上記の記録を考慮に値する史料と考える︒では︑この史料

は︿四二二年説﹀に亘結する史料かというとそうで誌ない︒確かにその説の通りならば︑羅行の死没は長安在住

一三年自で︑この史料は大変好都合である︒しかし﹁十有余年﹂というのは最低足かけ一一年以上ならよいはず

である︒そうすると︑羅什が四一一年に死去したとしてもやはち羅什の長安在住は﹁十有余年﹂と言い得るであ

ろう︒このように曇畠伝の記述は羅什の死没を四一一年以降と考えるのに有利な史料である︒そして︿四O九年

説﹀の反証と言えるが︑︿回二二年説﹀の決定的証拠とは見なせないのである︒

もう一つの史料は鐸肇﹁浬薬無名論﹂の上表文中の次の一節である︒

肇以入機︑猿蒙霞恩︑得閑居学露︑在什公門下十有余載︒難衆経殊致︑勝趣非一︑熱浬繋一義︑常以聴習為

先 ︒

(わたくし僧肇はとるに足らぬ人関でありながら︑みだりに国家の患恵を蒙り︑心静かに身を学問の場に置

くことができまして︑什公の門下にあること十余年になります︒多くの経典は趣きを異にし︑そのすぐれた

主旨は単一ではありませんが︑浬繋の意義については︑(その関)常に第一のこととして聞き習っておりま

)

この中で需題になるのは﹁在什公門下十有余載﹂である︒僧肇は羅什の涼州時代からの弟子であり︑その後羅

什が後秦王朝の保護下に長安で活動し死去するまで常に共にあつがよそこでもし﹁十宥余載﹂を︑羅什の下にあっ

た長安での年数と解釈すれば︑羅行は因︒一年の長安到着後四一一年頃までは生きていたことになり︑︿四O

鴻牽羅仔の没年問題の再検討(斉藤)

1m 

(18)

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

一 四

年説﹀と矛盾する︒ところがもしこれを︑涼州在住時代の羅什に師事してからの年数と解釈すれば︑上述の説と

の矛盾はなくなる︒このように二つの解釈は微妙な問題を含んでいるが︑今のところ並存したままであ足︒

このどちらの解釈も可能ではあろうが︑筆者は︑長安在住の間とする方がより無理のない解釈と留学えそれは︑

冒頭から﹁学建﹂までの部分の意習は︑羅行の門下に十余年あったのも菌患のおかげという謝意を競興に示すこ

とにある︑と見るためである︒そうするとこの年数は後秦治下の長安でのことと解釈せざるを得ない︒このよう

な理由から上表文の一節も︑羅行の死没を西一一年以降とするのに有利な史料と考える︒

(1i:) 

﹁没年関保史料﹂としては︑以上の他に︑鑓肇﹁浬繋無名論﹂の作成事靖に関する記録と﹁梁高信伝﹂二の卑

牽羅叉伝がある︒これらはすでに能令実丹氏が考察しており︑︿四二二年説﹀に不利な史料としてい討︒筆者も

賛成であるが︑決定的な反証とは思えない︒

また也に︑宗性抄﹁名錆伝抄﹂の原典巻一八抄出部には﹁義黒九年︑有弗若多羅至長安︑与童寿共出十語律︒﹂

という記述があ(針︒これを信ずれば義際九(四二二)年に羅什は弗若多羅と共に鷺在であったことになる︒しか

し︑﹁十議律﹂訳出開始と弗若多羅の死没がずっと前であったことは︑﹁出一二﹂・﹃梁高僧伝﹂等の様々な関連記録

から確かなので︑﹃名僧伝抄﹄の記述はとうてい信用できない︒

以上の史料は︑﹁没年関係史料﹂として決定的な倍値を持つとは思えないので簡単に触れるだけとした︒

おわりに

(19)

本稿第二章以下の考察をまず簡単にまとめておく︒

第二章では羅什の﹁没年言及史料﹂を取りあげ︑主として﹁諒﹂が内容から見ても後世の鋳作であることを新

たに明らかにした︒また﹁議﹂や﹁梁高普伝﹂羅什伝の没年の記述は﹁没年関孫史料﹂に依らなければ正しさを

立証できないことも触れておいた︒

第三章では﹁没年関係史料﹂を取ちあげた︒そしてこの種の史料の中で信頼できるのは︑①﹁答劇部遺民書﹂︑

=

退

E

とを示した︒また①・③は︿因︒九年説﹀と矛麗し︑②は︿四二二年説﹀と矛盾していることも指議した︒つま

りノ︑参照すべき﹁関係史料﹂を比較的信頼しうるものにしぼってみても︑やはり既存の没年説はどれも︑関祭諸

史料の一致した支持を得られないことが明らかになったのである︒これを今までの研究が見過ごしてきたの辻︑

上述①・@・③を公平に合わせて評倍しなかったためであろう︒︿四

O

九年説﹀と︿四二二年説﹀のどちらが正

しいかという今までの問題の立て方自体を見産す必要がある︒

今震は逆に①e②・③のどれにも矛居しない没年を考えると︑②の考察で示した弘始二ニ(西暦四一二年頃

Gこの四一一年説を主張しようとすれば︑この年を没年とする史料は過去になく︑この点は確かに問題で

ある︒しかし既存の四つの没年説にしても︑各々の基づく現在﹁言及史料﹂はどれも後世の作で︑藍接の由来・

典拠のわからぬものばかりである凸その点で﹁言及史料﹂の史料的信値は﹁関係史料﹂と比べて特別高いわけで

はない︒それどころか﹁関係史料﹂の中には︑上述①のようにどの﹁言及史料﹂より古いものさえある︒また︑

﹁言及史料﹂だけでは︑どの没年が正しいかを判定できず︑結局判定の中心的役割前をはたすのは﹁関採史料﹂な

のである︒そこで筆者は敢えて﹁没年関係史料﹂本泣に考え︑羅什の死没を弘始二二(四一一)年頃と推定する︒

そして正確な死没時期の記録は︑現存﹁没年言及史料﹂の残された六i八世紀にはすでに伝存していなかったと

鳩摩羅什の没年問題の再検討(斉藤)

一 回 一 一 一

(20)

鳩摩羅什の没年問題の再検許(斉藤)

(2g  (2g 

以上の結論によれば︑六

l

八世紀の羅什の没年間題の歴史は誤解と矛盾の連続ということになる︒しかし現存

の没年関連記録の大半が残されたのはこの持期である︒これは特に︑梁代に﹁出二一﹂・﹁梁高僧伝﹂が書かれ︑持

唐時代に多くの仏典目録の編纂と様々な訳経記録の検討が積み重ねられたことによる︒だから羅什の没年間題が

六ー八世紀にしばしば論じられたことは︑この時期の噌伝・訳経史の研究の進展を反映する一現象であ号︑その

点に中国仏教史上の意味を認めることができるのではないか︒

(

1 )

 

(i

)

(HH

羅什)

の卒年については異説があ

るけれども︑弘始十三年(四一一)といわれている︒﹂と述べているが︑その課拠は示していない︒管見のかぎり積超

氏昌身の研究の中には位に羅什の没年を論じた笛所はないので︑今となってはその真意はわからない︒あるいは何らか

の記種違いによる誤記にすぎないのかもしれない︒

( 2

)  

( 3

)  

能令氏は︑羅什の諒を偽作とし︑﹁成実論﹄を含む弘始一一年以降の訳経の所伝を皆誤りと見なし︑﹃梁高僧伝﹂等の

覚費・慧観の翼連記事を指摘するなど︑︿回二二年説﹀の難点を一()点家h

( 4

)  

塚本氏は︑﹃成実論﹂の弘始二二年からの訳出の記録と羅什の諒の信憲性を疑い︑また﹃梁高僧伝﹂等の覚賢・慧観

の関連記事などを論拠として︿四一三年説﹀を否定した︒しかし塚本氏は後年︑四一一年以降の羅什の生存の可詣性を

( 5

)  

︿西二二年説﹀の主要な根拠はみな諌一九八二に挙げられている︒またロビンソン氏辻塚本氏の説に対する疑問点を

挙げている︒出

o Z

2 0

2 y

参照

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