スピツツベルゲンの歴史地理学的考察(その3)
社会科教育研究室 中 川 浩 一
条約に参加した国々の多くは,4世紀にまたがるスピ7 スピッツベルゲンの政治地理
ッツベルゲンの領有抗争に際して,複雑な利害を有して 1925年8月14日以降,スピッツベルゲン諸島におい きた。そのことに対する総決算が,パリ条約によってな ては,ノルウェーの主権が行使されてきた。海洋国家と されたことになる。
してのノルウェーの領域は,ノルウェー本土と俗称され 条約に調印した国々についてみていくと,イタリア,
るスカンジナビアScand inavia半島とその属島のほか, 日本の参加に対して,ソビエト連邦(ロシア)の不参加 北極海・北大西洋(ノルウェー海)の孤島としてのスピ に注意がふりむけられる。前二国の場合には,従来はス
ヅツベルゲン諸島・ベア島Bear Island,ヤン・マイヤ ピッツベルゲン諸島に対して,なんらの具体的行動もな ン島J。nM。y,n I,landと醐海の2麟とよって撚さ してこなかっ煽こもかカあらず,条約調印国となった
れるが,スピッツベルゲン諸島の場合には,ベア島とと のは,ベルサイユ体制の中で,世界政治の動向をつちか もにスパールバルSvalbardと総称され,特殊な行政地 う五大列強の地位によっていた。注4
域を形づくってきた。 ロシア革命にもとつく労農政権が成立はしたものの,
オランダ人.・レンツによるスピ。ッベ,げンの発齢 ドイ帰国と単独講和を結び,国内的セこは反輪雌と
なされて以来,約300年にわたる領有抗争は,古今未曽 の抗争が継続していたロシアの場合には,パリに代表を 有と称された第一次世界大戦の政治的終結をとりしきっ 送りうる状況ではない。条約参加国の中には,反革命政 たベルサイユ㈱のもとで,・ルウ。一の主張を原則的 権を支援して出兵中の国家さえ存在した『5
には認める形をとって落着した。 戦敗国としてのドイツは,この問題に関しては,ノル注3
ベルサイユ体制のもとで,スピッツベルゲン領有問題 ウェーの主張を是認するとの態度を事前に表明していた に決着をつける要因となったのは,ドイツ帝国とロシア のである。当然の結果ではあるけれど,ソビエト連邦政 労農政権の間に結ばれたブレストーリトボスク条約であ 府は,パリ条約の決定を承認しなかった。
る。ロシア側にとっては屈辱的な結果に終ったこのとり パリ条約調印国の中で,これを最後に批准したのは,
きめの中で,両国はスピ。ツベル〃の国際的婚理に 日本である瘡6ソビェト連邦政府の場合ぴこは,、924年2月 対して.同一行動をとることを議定していた。 になって,ノルウェーがソビエト連邦をロシアにおける
この事件は,当然の結果としてノルウェー政府の強い 合法的な国家である事実を承認することを前提にしたう 関心をよびさました。スピッツベルゲンに対する主権は えで,パリ条約によって定められたノルウェーの権利を 過去の実績にてらして,それがノルウェーに帰属すべき 承認するとの意思表示を行っていた。
ものであるとの主張が,なされることになる。 スピッツベルゲン諸島がベア島とともに,ノルウェー スピッツベルゲン領有問題は,世界大戦の平和会議に の主権に帰属したのは,1925年8月7日のことであった。
かかわる内容であるとのノルウェー政府の要請は,国際 同じ月の14日に,ノルウェー政府司法大臣が国王の宣言 的な承認を得ることができた。 書を,ロングイヤービンにおいて朗読する儀式が実施さ イギリスとその自治領,合衆国,フランス,イタリア, れた。ソビエト連邦がパリ条約の条項を,正式に承認し 日本,オランダ,デンマーク,ノルウェー,スウェーデ たのは,1934年2月のことである1)
ンの各代表が署名したパリ条約によって,スピッツベル さて,パリ条約は,スバールバルの軍事的利用を禁じ ゲン諸島とベア島に対するノルウェーの主権行使が承認 ると同時に,この地域で操業してきた各国企業の既得権 された。1920年2月9日のことである。 を認め,ノルウェーに対しては,自国の企業に対する優
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遇措置を行わないことを求めている。外国企業に対して まれ,国王と政府はイギリスに亡命を余儀なくされた。
は・ノルウェー政府は鉱業税を賦課しえないし,設定済 国内には,親ナチス分子による{鬼偲政権が樹立されるに の鉱区の配分を合法化する作業は,デンマークが主宰す 到ったが,こうした状況裡に,ドイツ軍によるスピッツ る裁定委員会に委託されることになったr) ベルゲン占働㍉塒的にではあるカ・実施される。
ノルウェーによるスバールパルの領有が,20世紀の初 ドイツの敗戦によって,スパールパルに対するノルウ め以来,着実になされていた施策の成果であったことは, エーの主権は回復する。パリ条約によって付与されてい 疑いをいれぬところである。 た鉱区に伴う権益は,イギリス,スウェーデン,オラン 1911年以来,ノルウェー政府は,スピッツベルゲン島 ダの各企業が撤収済であったため,単純化はされていた 注7
シ岸のグリーンハーバー(Green Harbour) に無電局 が,ソビエト連邦との関係は微妙であった。
と気象観測所を設置した邑)この無電局は,1918年当時は, ソビエト連邦政府は,1926年4月15日付の布告によっ
注8ベルゲン(Bergen),インゴ島(Ingo Island)と並ぶ て,北極海では,32°4 35〃Eと168°49 30〃Wの経線
・ルゥ。吻三大無電局のひとつであったま) の間では,すでに発見された土地はもち論のこと,将来 ノルウェー国籍による石炭会社の操業実績も,すでに 発見される土地もすべてソビエト連邦に帰属すると宣言 その実態を明らかにしたように,ノルウェーの領有権に した。いわゆる扇形領有論にもとつく主張である曾注9 対する主張を強固にした存在といえるだろう。 32°4,35〃Eは,当時のソ連・フィンランド国境が,
スピッツベルゲン諸島に対する領有抗争は,その周辺 バレンツ海と接する地点を通過する。この経線は,当然 海域が捕鯨のための好漁場を構成した17世紀の期間に, の結果として,スピッツベルゲン諸島を含むスパールパ イギリス,オランダ,デンマークによって,激しくなさ ルの位置に抵触し,ギリスランド(Gilli、 land鼠そ れてきた。 れ以東に位置することになる。
捕鯨の衰退によって自然消減の形となった領有問題が けれども,ソビエト連邦政府は,すでにパリ条約にか 再度登場するのは,1823年以降のことである。あいつい かわる条項に対する内諾を表明してきたから,扇形領有 で実施された探検によって,石炭をはじめとする地下資 主張が,二国間での紛争には発展しなかった。
源の埋蔵が確認される一方,帝国主義的な領土拡張政策 ところでソビエト連邦は,第二次世界大戦の一環とし の中で,居住の有無にかかわらず,世界の陸地の分割が ての対フィンランド戦争によって,フィンランドからバ 激しく進展した事態の一コマが,N。 ma㎡s landとし レンツ海に面する一画を割譲させ,ノルウェーと直接に てのスピッツベルゲンをも,その渦中にまきこんだとい 国境を接することになった。そのため,扇形領有論にも えるだろう。 とつく西縁の経線もさらに西方へ移動することになる。
1870年代から,デンマーク,スウェーデン(ノルウェ こういう事態をふまえて,1944年秋には,ソビエト連 一),ロシアなどの国々が,スピ・ツベルゲンの領有を 邦政府から,パリ条約の改訂問題がノルウェー政府に打 主張し,1907年には,ノルウェーが,国際会議の開催を 診されぜ!
要求するに至った。 スピッツベルゲンの共同防衛提案を背景としたソビエ 第1回の会議は,オスP(当時はクリスチァニア)で ト連邦による軍事基地設置要求は,ノルウェー国民に対 開かれたが,なんの成果もなく,1912年に再度開かれた して,東方の巨人としての脅威を肌に感じとらせる事件 会議も無効であった。 であった。その軍事的背景については,これを次節に譲 1914年には,地球上に残された帰属未定地を一括処理 るけれども,結果はノルウェーをして西側軍事同盟の一一 する目的で,イギリス,フランス,ベルギー,合衆国, 員にはしらせることになる。1947年3月3日,ノルウェ オランダ,ドイツの各国が協議したが,世界大戦の突発 一議会は,スピッツベルゲンに対するソビエト連邦の軍 によって,沙汰やみとなっていた ) 事要求を拒否することになった卸
スピッツベルゲン諸島をめぐる政治情勢に,再度複難 さて,今日のスピッツベルゲン諸島は,ベア島を含め な問題をひきおこしたのは,第二次世界大戦に伴うこの て,スバール・ミルとよばれる行政区画を構成し,冒ング 領域の処理であった。 イヤーピンに駐在するスパールパル総督が行政権を行使
ドイツ軍による保障占領要求に端を発した対ノルウェ する。地方自治制度が施行されるノルウェー本土とは別 一作戦によって,ノルウェーは第二次世界大戦にまきこ 箇の存在で,財政。経済的には無関税地域free portを
撚するため・ベルゲンとス・ミール・ミ・レを連絡するスピ られた宿舎に,作業員の妻を居住させたのは融身用と ッツベルゲン急行便は,ノルウェー領海を離れると,無 して建設されたものの主旨に反し,かつノルウェー主権 税の酒類を販売するという。ただし,スピッツベルゲン に対する侵害であると抗議したのに対して,ソ連側は,
諸島内部ではアルコール分の強い酒類の販売は禁止され, 宿舎居住協定には,夫人の居住禁止規定はないと主張し
島内の住民が日常購入しうるのは・1日ピール1本に限 て,双方が主張を譲らなかったことに起因するという。られるとのことである撫楽澱の不足,・日じゅう夜 この問題は,双方で住みこ嫁族の総員数をきめ,仲
が続く長い冬ごもりの生活に加えて・相対的にではある 間同士でやりくりする方式でケリがついたとのことであ にしても,ノルウェー本土に比べると高い賃金水準が保 るが,1975年のクリスマスに発生して以来,妥協成立ま たれることによる住民の懐相場がからみあって,酒に起 でに5か月あまりを要したという事実が,複雑微妙なス 因するトラブルが多発するであろう事態を,おもんぱか パールバル情勢の反映であろう?なおこのニュースに関
っての措置と思われる・ 連して,ソビエト連邦側での航空業務を実施しているの 島内のノルウェー人居住地域では,ノルウェーの単位 は,ソ連国営航空(アエロフロート)である事実が明ら 通貨であるクローネKro neが流通するほか,流通地区を かにされている。 . 限定した金券が使用されているとのことである評総督の
権限にもとつくものであるのか,石炭蝶の責任で発行 8スピッツベルゲンの軍事地理
されたものであるか闘らかでな瀞 パリ条練よって非武装地域とさ撫こも力輔蝋
ソビエト連邦籍の石炭企業が操業する地区での行政の スピッツベルゲン諸島とその周辺海域は,軍事的にみだ 実態は知りえないが・次に記す事態を考慮すると,かな 場合,数奇な運命をたどっている。
り大巾な権限が,ソビエト側に付与されていると判断さ すでに述べたように,第二次世界大戦に際して,連合 れる。 軍は,スピッツベルゲンの諸施設を破壊した。ナチス.
1975年に到って,ロングイヤーピンに空港が開設され, ドイツが得意とする電撃戦の形式をとって,ノルウェー スカンジナビア航空による定期便が運行を始めた事実は, 侵攻が開始され,開戦と同時に,ドイツ陸軍山岳戦部隊 前回これを記述したが,その年末には空港付設の要員宿 が,ノルウェー北部の不凍港ナルビクを占領する。
舎の使用をめぐって・両国の間にトラブルが発生した。 キルナ,エリパレに代表されるスウェーデンの高品位 朝日新聞が・〈ノルウェー通信〉の報道として掲載し 鉄鉱石を,スカンジナビア半島の分水嶺こしにナルビク た記事によると, 地上作業員用としてソ連側に割りあて に輸送し,舶載する作業は,ドイ ツの軍需生産継続のた
.蹴蕪押灘駿難/昌襯ご響F辮 i ハ,ご 魅然 」
図1 北極地方の政治地図
The Polar Wbrldから作成
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めの重要な要素であった。スピッツベルゲンにおける炭 この場合,イギリスからの援助物資は,ノルウェー海 鉱開発が,ロフォーテン鉄道と称されるこの鉄道の機関 ・パレンッ海を経由して,コラ半島の不凍港としてのム 車用炭確保と強くかかわりあっていた事情は前述した。 ルマンスクか,白海にのぞむアルハンゲリスクに送達す
ところで,スピッツベルゲンの軍事的重要性は,ナチ る以外に途はない。
ス・ドイツの対ソビエト連邦戦争の開始によって,にわ 独ソ開戦から2か月たらずの間に,最初の対ソ船団が かに重要性を帯びるに至った。 イギリスの港をあとにした。だが,すでにノルウェー全
1941年6月22日に発動されたパルパロッサ作戦は,ソ 土を制圧し,パレンッ海にのぞむ地点に航空基地を配置 ピエト連邦の独裁者としてのスターリンが重大な誤算を したドイツ空軍の脅威が,夏季における対ソ船団の運航 犯したという条件のもとで,急激な展開をみせることに を不可能にした。加えて,沿岸のフィヨルドを絶好の根 なる。 拠地とするドイッ海軍の存在も意識しなければならない。
戦争準備を欠く状態で開戦にたち至ったソビエト連邦 夏の数か月は,夜のない日が続くか白夜が存続する北 軍は,前線の各処で総崩れとなり,ドイッ軍はヨーロッ 極圏の自然は,船団の防御を著しく困難にする。冬のお パ・ロシアの奥深く侵入する。 とずれとともに,極前線が南下し,ノルウェー海とパレ
対ソ戦の開始によって,フランスの降伏以後,地中海 ンツ海は嵐とくらやみの海となる。こうした自然のかく やバルカン半島を主戦場として展開されていたナチス・ れみのを利して,ドイッ海空軍の監視の目をすりぬけよ ドイツの対イギリス軍事圧力は,相対的に減少した。 うとする対 D船団を,確実に捕捉するためには,付近一
こうした情勢の中で,ナチス・ドイツの対ソ戦が継続 帯の海域に対する確実な気象情報が必要となる。そのた することは,イギリスにとっては好しい現象である。そ めの欠くことのできぬ地点のひとつが,スピッツベルゲ うして,ソビエト連邦の戦争継続能力を維持させる目的 ン諸島であり,とりわけそこに配置された無電局は,重 をもって,イギリス政府は,ソビエト連邦に対する軍需 要な存在であった。
物資の供与を申しでる。 ナチス・ドイツによるノルウェーの軍事占領以後も,
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図2 第二次世界大戦下のノルウェー海とバレンツ海
(Atlas of the Second World Warから引用)
スピノツベルゲンとノルウェー本土との海上交通は継続 部隊は,徹底的な艦砲射撃によって,ノルウェー軍の施 注12
オ,炭鉱も操業を続けていた。 設を破壊する。増援をうけて150人の兵力に再編されて こうした状況を中断させたのが,1941年7月末から実 いたノルウェー守備隊は,圧倒的な戦力の来襲を前にし 施された連合軍コマンド部隊によるスピッツベルゲン占 て手も足もでず,逼塞のほかに途はなかった。けれども 領作戦である。 かれらは,なお要地を確保する13)1944年夏には,ドイ
コマンド部隊は,1941年9月3日に撤退したが,その ツ潜水艦によるノルウェー軍施設の攻撃が実施されてい 14)
ロには,ロソグイヤービン,バレンツブルグ,グルマン る。
トの炭鉱施設が破壊されている。 連合軍の侵攻・ノルウェー軍の駐留にもかかわらず,
1942年5月,この海域の海況が船舶の寄航を可能にす スパールバルには,戦争の全期間を通じて,ドイツ軍の ると同時に,60人編成のノルウェー軍部隊が,スピッッ 気象観測所と無電局が存在した。スピッツベルゲン諸島 ベルゲンに派遣された。かれらの大半は,かつての炭鉱 とノルウェー本土の中間海域に位置するベア島をはじめ,
関係者であるも ホッペン島Hopen I sland,クロスフィヨールKrossfj一 これらの部隊の目的は,連合軍コマンド部隊の撤退後 orden,リーフフィヨールbiefdefjordenにおかれたも注13
も活動を継続したドイツ側の気象観測所を破壊し,スピ のが,その代表である。後二者は,北東ランドNorth ッツベルゲン諸島を連合軍の占領地域とするところにあ East Landに設けられていた15)
った。 これらの気象観測所からの情報を利用して,パレンツ パレンッブルグ付近の海上で,ドイッ空軍の攻撃をう 海に出撃するドイツ海空軍によって,連合国の対ソ船団 け,甚大な損害を蒙りながらも,ノルウェー軍部隊はロ が蒙った被害は,甚大であった。その中でも,1942年6 ングイヤ_ビン,バレンッブルグを占領したP 月にアルハンゲリスクをめざしたPQ17船団の悲劇がよ
こうした状態に痛撃を加える目的のもとに,ドイッ海 く知られている。
軍は,u北の女王 と仇名され,対ソ船団の重大な脅威 対ソ船団攻撃の目的をもって,1942年2月以降,ノル となっていた戦艦ティルピッツTirpizに,巡洋戦艦シ ウェー北部水域に派遣され,存在することによって意義 ヤルンホルストScharnhorst・駆逐艦10隻を配する強力 を示した戦艦ティルピッツは,いつとも予測しえぬ出撃 な部隊を,スピッツベルゲンに派遣する。 によって,連合軍を洞渇し続けてきた夢)
1943年9月8日,イスフィヨルに侵入したドイツ海軍 戦艦ティルピ・ツの出撃に伴って,一括捕捉の危険を
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図3 第二次世界大戦後のパレンツブルグ
(Svalbard−Norway in the Areticから引用)
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合衆国による軍事圧力に抗する手段のひとつとして,ノ ぐ嘉舞叢訴鍔. 嚥≠\一噸藩転ノ. r籾1蟻
ルウェー政府に対するスピッツベルゲンの共同防衛提案 ニ軍事基地貸与要求を行ったのである。
@ノルウェー政府は,ソ連の要求を拒否する態度をかた ゚る一方,自国の防衛に対する強国の保障を痛感し,そ フことが,北大西洋条約に調印し,NATO体制の一翼 ニなる決意をかためさせることになるlo)
@だが,こうした状況にもかかわらず,ノルウェー政府 ヘ,合衆国政府が1949年に打診したスパールパルにおけ 骭R事基地貸与要求を,拒否している。パリ条約の規定 ノ反してこれを実施し,ソ連側を刺激することを恐れた スめと思われる。
@ところで,スピヅツベルゲンのすぐ東に位置するフラ
〔コ崩囮・勘回伽 漸一 ⑳配・8研99㌘ 加一脚o
[:コーハ嘱.鋤繊
シ:コ〃融鈍回飢 ☆吻舩財ノMrO .一血r 碑
?セ歯曜勲僧 幽砂勘噸醐伽 ンツ。ヨゼフランド(Franz Josef Land)には,ソ連 の航空基地がおかれていると伝えられている。これに対 図4 第二次世界大戦後の北極地方軍事情勢 応して・グリーンランドのチューレ(Thule)には・合
(Dierck Wもltatlasから引用) 衆国空軍の大軍事基地が存在する。
そうした情勢の中で,中間地点に位置するスピッツベ おもんぱかり,分散待避したPQ 17船団の輸送船は,次 ルゲンが,非武装地域として存続しうるのは,過去数世 には潜水艦と航空機によって各個撃破の形で攻撃をうけ, 紀にわたって,No−mI㎡s Landとして存在し・かつ多 33隻中の23隻を失う結果の中で,莫大な物資と人員の損 くの国々の利害が輻奏したスピッツベルゲンの歴史・政 害を蒙っている 治・地理的位置に由来するのである。
第二次世界大戦が終了すると,ほどなく世界は米ソの
@ 9 スピッツベルゲンの書誌学的考察 対立にまきこまれる。戦争中の時点において,アメリカ
合衆国は,アイスランド,グリーンランドに軍事基地を スピッツベルゲンの一般的情勢を把握するための基礎 設けていた。 的な文献となるのは,Tim Greve(1975):Svalbard
デンマークと同君連合国を構成したアイスランドは, −Norge i Nordi shavet, Grodah1と思われる。この ナチス・ドイツによるデンマークの占領以来,連絡をた 書物は,ノルウェーによるスバールバル統治50周年を記 たれて独立状態におかれていたが,1940年5月にはイギ 念した出版物であり,位置,気候,植生・動物,歴史,
リス軍の占領するところになった。翌年に至って,アメ 行政,経済活動,居住・集落,交通,探検。調査につい リカ軍が占領を交代する形で駐留した。 て記すほか,環境保全,小地名語源事典を収載する。同 米ソの冷戦が始まると,アメリカ軍は,アイスランド 時に装丁をペーパーパックにした英語版としてのSval一 に設けた空軍基地の半永久的使用をアイスランド政府に bard−Norway in the Arcticが刊行されている。
承認させている18)アイスランドは,第二次世界大戦中は より簡単な,しかし信頼度においては確実性の高し情 大西洋を渡る船団の中継点となり,また対ソ船団の基地 報を提供するのは,The Statesman s Year−B。okで
としても使用された。 ある。1863年創刊以来,毎年かかさず刊行されてきた グリーンランドについては,1941年4月9日にデンマー この世界情勢ハンドブックには,1925年以来,ノルウ ク亡命政権とグリーンランド保護条約を結び,同年9 エーの項目の一部として,スピッツベルゲン(ス・ミール 月に保護占領を実施し,戦後もこれを継続しだ!)グリー パル)を収めている。1976−77年版を開いて,記載事
ンランドを中継点にすると,ニューヨークとモスクワを 項の最後を構成する書誌に目をはしらせると,さらに加 結ぶ航空路は,大圏コースに近く,到達距離を著しく短 えて3種類の文献の参照が指示される・
縮することが,重大な戦略的意味を持つことになる。 Norsk Polarinstitutt・Skrifter・Oslo・from こうした状況の中で,一ソビエト連邦政府は,冷戦下の 1948(under different titles from 1922)
Svalbard−Spitsbergen. Bergen,1961. 階での到達点として,前記の2つの資料からえた結果を,
Orvin, A. K.:Twenty−five Years of Norwei一 次に記しておく。
gian Sovereignty in Svalbard 1925−1950(in Sir Martin Conway(1906):No ma㎡s Land,
The Polar Record,1951) AHistory of Spitsbergen, Cambridge.
これらについては,筆者は未見である。ノルウェー極 Isachsen, G・(1916):Expeditien I sachsen au 地協会は,この国の極地調査事業を総括する組織で,ス Spitsberg 1909〜10, R6sultate scientifiques,
ピッツベルゲンの調査にも,年々多くの努力をいまなお Christiania・
一
X注している。その年報が,すでに70年に近い刊行歴を Wieder, F.C.(1919):The Dutch Diseovery 誇るわけである。 and Mappery of Spitsbergen 1596〜1829, Amster一
筆者が,スピヅツベルゲンについて調べる手がかりを dam.
得た最初の文献は,Encyclopaedia Britannicaの9版 Holmsen, G・(1919):Spi tsbergens Natur og His一
・10版・11版・14版(1936,1970)であった。百科事典の torie, Christiania.
使用は学問的でないとの批判をうけるきずかいもあるけ Rudmose Brown(1920):Spitsbergen, An account れど,使用した後での感想を記しておくと,後に記すい of e)Φloration, hunting, the mineral riches and
くつかの学術的文献に比べて,決して劣るところはない。 future Potentialities of an arctic archipelago,
いや特定の個処においては,Britamicaから得た情報 London・
が最も詳しかったとさえいえる。探検史について記述す Fridtjof Nansen(1920):En ferd til Spitsberr る場合,最大のよりどころはBrita皿icaであった。 gen, Kri stiania.
Axel so㎜e(ed.)(1968):AGeography of Fridtjof Nansen罐1):spits㎞rgen, Leipzig・
Norden, HeinemIm.は,1960年にコペンハーゲンで開 Mathi sen, T.(1954):Svalbard in the cha㎎i㎎
催された第19回国際地理学会議に際して刊行された北欧 Aretic, Oslo・
四か国(デンマーク,ノルウェー,スウェーデン,フィ
芸 菅 う←
ンランド)とアイスランドを包括する地誌の改訂版であ
る。スピッツベルゲンは,Norweigian Islands in the さて,上に記して8種類の文献のうち,最初の2つは Arcticの項に記載されるが,内容はBritannicaの域を 探検・調査の記録である。 Conway, M.のそれは,1896 でられない。 年以来の成果をまとめたものと判断される。
Frankl i nd. S cott(1975):Scandinavia, Harvard 1919年から1921年にかけて,オランダ,イギリス,
University Press.は,スカンジナビアの政治経済情 ノルウェーの各国が,スピッツベルゲンに関する文献を 勢に対する考察を展開するが,スピッツベルゲンに関す 次々に公にしてきたのは,すでに記したように,ベルサ る記述は簡単である。 イユ体制の中で,スピッツベルゲンに対するノルウェー
Patric D. Baird(1964):The Polar World↓on一 の主権が承認されると同時に,既成の事実と照合して,
gman.は, Geographies for advanced studyと題す 各国の利権が確保されることに対するキャンペーンと思
注14
るシリーズの一巻だが,スピッツベルゲンに関する記述 われる。
では,とくにみるべき個処は少ないように思う。しかし これらとは別箇に,記述の内容を特定の題材に限定し 極地の情勢の一般的な把握のためには,便利な存在であ た文献の存在も,確認される。
る。 A.Miethe und H. Hergesell(191r):Mit Zeppe一 ところで,スピッツベルゲンについて記した書物を, lin nach Spitzbergen, Berlin・
それらの刊行年次をたどり,かつ系統的に調べてみる場 Glen, A. R.(1935):Ybung men in the arctic,
合には,The Statesmanis Year−Book,Encyclopae− London.
dia Britannicaが,それぞれスピッツベルゲンについ Adams, P.(1961):Arctic island hunter,London.
て記述した後に収載する書誌を手がかりとするのが,最 Glenの著作が,どのような内容をもつものであるか も便利であるように思う。最終的には,Nor6k Polarin一 は,書名では判らない。 Adamsのそれは,古くから毛皮
stituttの蔵書調査を行うべきであろうが,筆者の現段 獣を求めて活動してきた冒険的な猟師たちの生活誌を中
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心にしたものであろう。 井上禧之助(1925):極地の群島スピッツベルゲン,
最初の書物は,北極点への探険飛行計画にかかわる題 地球4の2,P・24〜43.
材と考えられる。スピッツベルゲンを根拠地とする北極 井関貢(1939):真夜中の太陽を求めて北緯八十度へ,
点への飛行は,悲劇に終ったアンドレー探検隊のそれを 科学画報28の8,P.55〜59
最初とし,ノビレ探検隊のイタリア号によってしめくく 第二次世界大戦後には,岩田孝三が実地観察にもとづ られる。アンドレー探検隊の自由気球使用についで登場 く地誌的な報告を行っている。
した航空機は飛行船であったが,そのことの第2回目の 岩田孝三(1961):スピッツベルゲン島をたずねて,
企てが,ツェペリン計画と考えられる響15 地理6の3,R42〜48.
スピッツベルゲン島の北西部に位置するキングス・べ この報告は,コペツハーゲンで実施された第19回国際 イ(Kings Bay)の南端に, ZepPelin Hfn.の地名が 地理学会議が主催したエキスカーシ・ンに参加した際の 存在するのが,そのことの今に残る具体的な証拠である。 見聞をまとめたものである。記述内容を検討すると,参
このほか,スピッツベルゲンを対象とした特定の題材 考になる点も少なくないが,聞きとり能力の不足ないし にかかわる調査報告として,次の2冊があげられる。 は文献調査の不徹底に起因すると考えられる事実誤認の
Seton Gordon(1922):Amid Snowy Wastes, 部分がいくつも見出される。
Wild hfe on the Spitsbergen archipelago, 第二次世界大戦中にロングイヤーピン所在施設が破壊 Cassell and Co.,London. されたのは,ドイッ軍の艦砲射撃によると述べている点
Olaf H。1tedahl(1926):Notes on the Geology は,連合軍コマンド部隊の行動がこれに先だつ点を見落
。f Northwestern Spitsberge恥Oslo. している。アムンゼンの北極探検に関する記述は・事実 前者は筆者の蔵書に加えられているが,オックスフォ と完全に相違する。書誌的探索をおろそかにして論文を 一ド大学探検隊に参加したカメラマンの動植物生態につ 書きがちな地理学関係者の欠点を露呈した悪しき事例と いての観察記録である。しかし巻頭には,当時のスピッ 考えられる。
ツベルゲンの一般的情勢が記され,参考になるところが これとは別に・ノルウェー極地協会が毎年実施してい 多い。 るスピッツベルゲン調査活動に参加した日本人地質学者 のペンによる生活誌的なレポートが,朝日講座・探検と
→← 暑 苦
冒険 に収められている。
日本人がスピッツベルゲンの地に足をふみいれて,そ 太田昌秀(1972):フィヨルドの旅とスピッツベルゲ の印象を記した書物も刊行されてきた。最古の存在は, ン島,探検と冒険6・極地,P.162〜177(朝日新聞社)
その概要をすでに紹介した日下部四郎太の行動記録であ
今← う← 今←
ろう。
日下部四郎太(1911・1912):北極探検談,前・後篇 スピッツベルゲンの実測図としては・ノルウェー極地
(博文館). 協会(Norsk Polarinstittut)セこよる10万分の1地形 日下部の行動は,いわゆるクルーズへの参加客として 図が刊行されている。その成果にもとつく編集図には・
のそれであったが,第一次世界大戦以後,ヨーロッパに 縮尺50万分の1,縮尺100万分の1の2種類がある。前 留学した人々の中からも,スピッツベルゲン・クルーズ 者は西スピッツベルゲン北部,同南部,北東ランド,エ の記録が発表されている。 ツジ島の4図葉によってスパールパルをカパーするのに
それらの中で,文献として最も価値が高いのは.飯塚 対して,後者は1図葉に同じ範囲を収めている。
浩二のペンによるものである。日本山岳会の機関誌「山 スピソッベルゲンの地理事情については,以上のほか 岳」に発表された後,そのほかの旅行記とあわせて,一 に,旅行案内書によって検索する方法がある。日本的な 冊にまとめられた。 常識から考えると,旅行案内書は通俗書であり,学問研 飯塚浩二(1938):北緯79度(三省堂),1971年に古 究の対象にはなり得ないとされるだろうが,19世紀の前 今書院から再版。 半以来,ブルジョワ階層の間に高まった旅行熱にこたえ 雑誌に発表されたものとしては,次の2篇が筆者の目 る形で刊行された旅行案内書の中には,学術的な水準を 注16
ノとまっている。 保つ秀れた存在が少なくない。
この種の旅行案内書の代名詞としても使われるドイッ 3)2)に同じ。
生まれのべデカー(Baedeker Handbuch, Baedeker s 4)The S tatesman s Year−Book 1918 P.1139.
Handbook)には,早くからスピッツベルゲンに関する 5)2)に同じ。
記述がある。1898年刊のドイツ語版がすでに記述を行 6)小牧実繁・川上喜代四:北極と南極(1942年 白楊 っているが,1912年刊の英語版(10th ed.)は,クルー 社・世界地理政治大系)P.141.
ズの案内を含めて,なかなか詳Lい内容を構成する警7 7)The Statesmaガs Year−Book 1949 P、1206.
世界の旅行代理業者の始祖としてのトーマス・クック 8)角田文衛編:北欧史(1975年第7版第17刷 山川
(Thomas Cook&Son Ltd.)が刊行するThe Tra一 出版社)P.299.
veller s Handbookも, Norway, Sweden and Den− 9)太田昌秀:フィヨルドの旅とスピッツベルゲン島,
mark(1923)の中で,スピッッペルゲンについてふれて 探検と冒険6・極地(1972年朝日新聞社)P.174.
いる。だがクルーズに関する記述は参考になるが,地理 10)動こ同じ。
事情については,Encyclopaedia Britamieaの焼き直 11)朝日新聞1976年6月7日朝刊外信らん。
しの域をでない。 12)Tim Greve:Svalbard−Norway in the Arctic,
第二次世界大戦後の旅行案内書においては,Encyclo− P.31.
pedia guideと銘うつスイスのナジェール(Nagel)社 13)Encyclopaedia Britannica Vol.21(14th ed.
刊行のScandinavi a(1958)に,ある程度まとまった記述 1968),P・243, Tim Greve:Svalbard−Norway がなされている曹18 i。th。 Areti, R 3、.
14)13)に同じ。あ と が き
15)Tim Greve:Svalbard−NDrway in the Aretic,
残念なことではあるが,筆者はスピッツベルゲンを訪 P.31.
れたことはない。それゆえ・(その1)から(その3) 16)レオンス・ペイヤール:戦艦ティルピッツを撃沈せ に至る記述は,文献を渉猟したうえでの机上作業にすぎ よ(1970年 早川書房)P.28.
ない。地理学者的発想に従えば,蛇道に堕した態度とい 17)ドナルド。マッキンタイア:海戦一連合軍対ヒトラ われそうに思われる。 一(1973年 早川書房)P.263〜282.カーユス・
文献渉猟に関しては,そのことをひとつの目的として, ベッカー:呪われた海一ドイツ海軍戦闘記録(1973年 1975年夏にノルウェーに渡航し,ある程度の成果をあげ フジ出版社)P.257〜262.
ることができた。また,早くからスピヅツベルゲンとの Brigadier Peter Young:Atlas of the Second 交通の拠点とされてきた北ノルウェーの地方中心都市で Wbrld輪r(1973)Weidenfeld and Nicolson,
あるトロムス(Troms)におもむき,トロムス博物館を London, P.266〜7.
見学して,多くの示唆をうることができた。 18)角田文衛編:北欧史,P.311・314.
そうした点からいえば,日本国内に逼塞した中での結 19)同上P.315〜6.
果ではないことになる。いいわけがましい言辞にはなる 20)同上P.299.
けれど,これまでの考察は,いつの日にかその実現を志
@ 注しているスピッツベルゲン巡検行のための事前研究と考
えて頂ければ幸いである。 注1 ブーブェ島(Bouvet I sland, Bouvetoya)54°
26/S.3°24 E.とペェーター1世島(Peter I 参 考 文 献 Island・Peter I Oya)68°48 S・90°33 Wに
それぞれ位置し,ともに無人である。
1)TimGreve:Svalbard−Norway in the Arctic 注2 正確には再発見と称すべきだろう。確実な発見記
(1g75)Grondahl&Sons Forlag A/S. p 26〜 録の残る最初のケースであった。その詳細は本稿の 28. (その1)に記してある。
2)Encyelopaedia Britannica(12th ed.)Vol.32, 注3 1919年9月29日付で,スピッツベルゲン諸島の p.563. ノルウェー帰属に関する原則が承認されている(The
g4 茨城大学教育学部紀要 第26号
Statesmalfs Year Book 1920 P.1118) 注13いずれもノルウェー語による表記である。
注4 アメリカ合衆国,イギリス,イタリア,日本,フ 注14ライプッィヒで刊行されたナンセンの著述は,そ ランスが五大列強の構成国であり,条約締結交渉は の前年にノルウェー語で刊行されたもののドイツ語 合衆国の主導権のもとに開催され,オランダ,デン 版である。
マーク,スウェーデンが同意を表明していた。 注15最初の企ては,1907年と1909年に,アメリカ人 注5革命政権に対する軍事干渉を最後まで行ったのは W。ウェルマン(Walter Wellman)によってなさ
日本であり,シベリア出兵は,1920年代まで継続し れたが,成功しなかった。
た。 注16 これらの旅行案内書の書誌学的研究としては,筆 注6 1925年1月に日本帝国による批准書が到着して 者自身による次の二篇がある。
いる。(Tim Greve:Svalbard P・28) 中川浩一(1973):Baedeker探索(1)〜(3)一地 注7 ノルウェー流の呼称ではGronfjordenである。 図入旅行案内書の系譜,地図11の2〜4,P.30 注8 ノルウェー語で表記するとlngoya,ほぼ71°N. 〜39・P.21〜28・P.1〜8.
24°Eに位置し,ノルウェー本土の北端に近い。 中川浩一(1976):観光ガイドブックの歴史,月刊 注9 1923年以来,イギリスが南極大陸とその周辺の 百科1976年9月号,P.8〜11.
島々への適用を主張したのが初めである。 注17 Karl B aedeker(191210th ed.):Norway,
注10ノルウェー語で表記するとKvitoyaとなる。 Sweden and Denmark with exeursions to Ice一 注11厚い模造紙に青インクで金額の数字だけを大きく land and Spitzbergen, P.258〜262.
印刷したもので,ノルウェー紙幣と同価値であると 注18The Nagel Travel Guide Series(1959):
いう。 Seandina7ia, Norway P 155〜158.
注12その状況は,「小説新潮」昭和48年5月号に掲載 された岡本好古「北洋のニンフ」の中に,詳しく描 写されている。ただしその全てが事実ではない。
Spitsbergen:A historical geography of military affairs and Political questions Part 3
Koichi Nakagawa Abstract
The question of the sovereigntyof Spitsbergen was raised in the 20th centur防owing to the discoveW of eoalf ields.By the treaty, signed 9 Feh 1920 in Par童s. Norway/s sovereignty over the archipelago was recognized, and it was decided to stand neutral of the archipelago. On 14 A㎎.1925 Spitsbergen was officially incorporated in Norway. Duri㎎World War皿,Spitsbergen was the scene of serious operations. InA㎎.−Sep 1941,an Allied force destoroyed coal mine亀but in the autumn the Germans erected metorogical station. After the war all towns were rebuilt.