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2015年度茨城大学人文科学研究科修士論文要約

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 『茨城大学人文科学研究』第8 2016年度  

2015 年度茨城大学人文科学研究科 修士論文要約

茨城大学人文科学研究科では、2010年度より本研究科修了生による研究成果を江湖に問 い、また学術的情報交換および切磋琢磨の情報発信源として修了生の更なる発展の機会を担 保すべく、『茨城大学人文科学研究』を発行しています。

7号に引き続き、本研究科の2015年度修了生による修士論文の要約を紹介することと しました。これらの資料が本研究科における研究成果として今後の研究テーマ発掘のための 情報源、あるいは院生指導上の参考資料として活用されれば幸いです。

本号掲載修士論文要約

 文化科学専攻

藍原  怜(14LM101F 室町・戦国期における常陸国人層の一族結合 飯田麻由実(14LM102X 水戸藩における海防と地域社会

市川 大暉(14LM103R 「常総の内海」地域における領主と住民

一之瀬敬一(14LM104H 小規模墳墓からみる古墳出現前後の地域間相互作用 大城 泰平(14LM105A 近代沖縄の風俗改良運動

金森まりえ(14LM107N 汪曾祺論

髙田 敦史(14LM109Y 佐竹氏領国における越相同盟の政治的意義  ―「東方之衆」の盟主化を見通して―

高橋 拓也(14LM110A 総力戦と社会大衆党

 ―「麻生グループ」を中心に―

安田 千明(14LM111T 幕末京都の政治社会と京都留守居―肥後藩を中心に―

嚴  暲美(14LM112N 金来成の初期作品から見る〈江戸川乱歩とその時代〉

 ―「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺人」、

「探偵小説の本格的要件」を中心に―

黄  鶯鶯(14LM114Y 徐悲鴻の美術思想と日本

謝  宗勲(14LM115S 安部公房の作品における「仮説」と「科学」

 ―『第四間氷期』、『砂の女』、『人間そっくり』

を中心に―

杜  逸丹(14LM116L 中国人日本語学習者のテンスとアスペクトに関する習得研究

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李   珏(14LM117F 「典型報道」の社会的影響と中国における世論形成 木村 昌平(13LM103H 《アルジェの女》とフランス植民地主義

栗原  悠(13LM104A 古墳時代における「模造品」の偏在性に関する研究

 ―中期初頭を中心として―

蔡  倩如(13LM114S 東日本大震災の復興に関わる人々の間の「ズレ」とその機能  ―石塚観光ボランティアバスの活動事例を通して―

石田友里恵(12LM101R 縄文時代中期から後期の東関東における葬墓制の研究

地域政策専攻

小野田 明(14LM201S 原発災害避難自治体におけるまちづくりの課題と展望  ―福島県双葉町の待避者・避難者を事例に―

王  春淦(14LM203F 中国の消費者団体なき消費者運動 賀   莉(14LM204X 中国の出稼ぎ農民工についての一考察

對馬  卓(13LM203X 三位一体改革後の地方交付税総額のあり方に関する一考察 庄   婕(13LM209G 中国における農民工の労働・生活実態と政策課題

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室町・戦国期における常陸国人層の一族結合

藍原  怜

本論文では、南北朝内乱の終結した室町期から戦国期における武士団の一族結合について 検討する。武士団の結合形態に関しては最近でも精力的に研究がなされている。しかし、管 見の限りではあるが、南北朝期と戦国期の間の時代における武士団の結合形態に関する研究 は多くないと思われる。先行研究の成果から明らかなように、南北朝期と戦国期では武士団 結合の構造が変化しており、両時代をつなぐ研究が必要であると思われる。本論文では南北 朝期から戦国期における武士団結合の変遷がどのように進むのか、南北朝期の成果である一 族結合を起点として明らかにしていく。また、武士団に統制される側の中小領主からの視点 ではあまり論じられていないことから、「統制される側」の中小領主層の動向に注目し、彼 らが被官化・家臣化していく意味も併せて検討していく。

第一章では「常陸平氏」における惣領制を検討した。南北朝期直後までは「常陸平氏」を 大掾氏が国衙在庁の権力などを背景として維持していたが、鎌倉府と対立したことで、上杉 禅秀・小栗の乱後は鎌倉府による圧迫を受けることになる。そのため、大掾氏は「常陸平 氏」の惣領としての実力を失い、擬制的な「常陸平氏」惣領制はその構成秩序を失った。

「常陸平氏」庶子のうち、国人領主真壁氏は、当初京都扶持衆として所領を確保していたが、

鎌倉府との対立で、所領を没収されてしまった。その所領を回復するために、逆に鎌倉府に 接近するという方策をとったのである。それによって真壁氏内部でも抗争が起きたが、真壁 惣領朝幹は、鎌倉府の影響力を背景にして家臣団の再編を行おうとしたのである。「常陸平 氏」庶子の最小単位である土豪クラスの石川氏は、南北朝期頃までは大掾氏との惣領制的関 係を見出すことができるが、大掾氏が反鎌倉府である上杉禅秀に与した時は、石川氏は鎌倉 府奉公衆だった宍戸氏に属すことを選択した。常陸国における鎌倉府の影響力が弱まった後 は、佐竹氏の秩序に有効性を見出し、その有力国人である江戸氏に被官化していく。「常陸 平氏」は、鎌倉府と室町幕府との抗争の中で解体された。大掾氏が京都扶持衆として室町幕 府に接近し弱体化した一方で、庶子たちは鎌倉府との関係によって、個々の「一族」を再編 成したり、あるいはそうした国人の「一族」再編成の中に組み込まれていったのである。

第二章では、まず、小野崎通宗の譲状を中心に考察し、小野崎氏惣領といくつかの小野崎 庶子が存在しており、それら庶子たちは公事役などにおいて惣領の下に統制されていたこと を明らかにし、至徳二年(一三八五)時点の小野崎氏においては、惣領制が布かれていた とみなすことが出来るとした。応永末年から永享の乱までの小野崎氏は、従来は小野崎氏内 部でも鎌倉府と室町幕府の両陣営に分かれていたとされてきたが、実際には小野崎氏は「一 族」として佐竹義憲に編成されていた。それは、佐竹の乱、あるいは鎌倉府と室町幕府の抗

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争の中で生き残るために、独立性を持っていた小野崎氏各家が、一族として結集し、陣営に 加わっていったことを示している。永享の乱後の小野崎氏は、石神小野崎氏が、佐竹五郎六 郎合戦において、小野崎氏内における自身の立場を保障してくれるというこれまでの実益を 考慮し、義憲に従ったのだとした。この時期に山尾小野崎氏と石神小野崎氏は一時的に対立 関係に陥るが、その後も小野崎一族として内外に認識されていたとし、その関係が明らかに 変化するのは戦国期に入ってからである。それは、佐竹宗家の支配が確立したことによって、

本質的には独立的だった小野崎各氏が、佐竹氏との関係性を以てその独立性を顕にしてい く。戦国期までの小野崎氏は、惣庶ともに独立性を持ちながらも、佐竹氏や鎌倉府などの外 的要因によって、「小野崎氏」という一族として結集しようとしていた。検討を加えた結果、

「小野崎氏」の分立とは、背景に都鄙間抗争と佐竹氏の内乱があり、そうした上位の問題に 対応した「一族結合」の必要性が無くなったためだったのである。

以上の二つの章で検討を加えてきた結果、常陸国においては、室町期においても、種々の 内乱に対して、「一族」的な結合がなされていたことが明らかになった。その意味では、呉 座が指摘していた、遠国においては応永の平和が成立していなかった、つまり非常時が継続 していたため、一族的な結合が進んだとも考えられる。しかし、本論で見てきたとおり、結 合には決して血縁は重要な要素ではなかった。室町・戦国期の一族結合とは、むしろ地縁や 鎌倉府・室町幕府という上位権力に対応していくために、利害をともにした擬制的に再編成 された「一族」だったのである。

水戸藩における海防と地域社会

飯田 麻由実

本研究においては、文化・文政期から天保・安政期に至る水戸藩の海防について考察して いきたい。従来の研究で時代の転換点と評価されてきたペリー来航はそれまでの日本の歴史 を決定的に断裂したものではなく、その前後において連続性をもったものである。先行研究 において捨象されてきた時代に実は歴史上の重要な転換期・契機があったのではないか。こ の点を水戸藩の海防という観点から論じていきたい。

従来の研究では、ペリー来航を軸とした海防問題やペリー来航後の幕府側の対応に関する 研究の蓄積は数多くある。しかし、ペリー来航との関連性に乏しいとも思える文化・文政期 における海防問題に対しては、これまであまり目が向けられてこなかったと言っても過言で はない。おそらくは、幕末という時代を誘発した要因であるペリーに注目が集まり、その他 の大事な諸要素、事件の重要性が見えなくなってしまったものであろう。

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従来の幕末の海防に関する研究は、その軸が明らかにペリー来航に固定され、多角的な視 点から見ることには成功しても、結局はペリー来航に収束するという問題からの脱却ができ ていないと思われる。そこで、本論では研究蓄積が多くはない文化・文政期を含めた考察を することによってペリー来航以前の海防問題に関する研究を進めていく一助になればと思っ ている。

ここで筆者が強調しておきたいのは、ペリー来航という従来の研究が注目してきた重要な 転換点ではなく、それ以前からの時代の変遷の中に埋没してしまいかけている事件を契機と した変革が、実は重要な転換点になっているのではないかということである。

また、先行研究においてはあまり注目されていない農兵の制度に関して、先行研究の枠に とらわれずに新しい発見をしていければとも期待している。

本論では筆者のそうした考えのもとに文化・文政・天保の時代を注進として論じていく。

また、従来の研究ではやや捨象されていた面があることは否定し得ないが、沿岸部に住む 人々、特に漁民たちは貴重な情報源で有り、常態的に存在する見張りの役目をも負っていた。

その住民たちと異国人・異国船との接触を恐れた幕府は新たな海岸防備の体制を整備・模索 し始めることになる。それは、水戸藩においては農民に海防への協力姿勢を制度化すること であった。

幕府は通常、異国からの脅威に対して村人を含めた、今で言う国家単位での日本を防禦し ようとしていたのである。しかし、実際には防禦されているはずの国民にとっては、むしろ 幕府がしいた負担よりも異国船及びその船員の報に対する近親感があったのではないかとい う矛盾が実はここで生まれていた。

ところが、それは水戸藩においては水戸藩当局の手によって海防体制が整備されていくに つれて失われていくことになる。海岸防備に武士だけでなく農民をも協力させて、食料や備 品を捻出させるだけではなく、臨時の農兵として異国船対策をさせていったのである。

さらに、農兵・農民たちの面から考えると、天保七年に建設された助川海防城・友部海防 陣屋の設置や運営は並々ならぬ義務を近隣の農民が負担した成果であるともとることができ る。

つまり、文化・文政・天保と時代が移り変わり、海岸防備に関する水戸藩の体制が整備・

洗練されていく中で、要であったのは実はその地域に暮らしていた人々だったのではないか と筆者は考える。この時代の海岸防備は人足の面においても手間の面においても費用の面に おいても地域住民の支えによって成り立っていたのである。

ここで注目するべきは、ペリー来航以前から農兵への取り組み、農兵を使った海岸防備方 法は幕府や水戸藩の中で息づいていたという点である。それはとりもなおさず、農兵の価値 を水戸藩が認めていたことにほかならないのである。

水戸藩にとっては、海岸の防禦に関する農兵こそが従来からとられていた防御の体制であ り、そこに水戸藩の特徴があるのではなかろうか。

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筆者は海防体制において農兵を捨象し、台場や砲台の設置によって体制を整えていったと いう主張に対して以前から疑念を感じていたが、やはり水戸藩においては農兵こそが要だっ たと思う。こうしたことに関して筆者は述べていく。

「常総の内海」地域における領主と住民

市川 大暉

本論文では、「常総の内海」周辺の地域社会の特徴を、南北朝期から室町期の常陸国南部 を対象として、領主と住民の関係から考察する。「常総の内海」とは、中世において存在し た、現在の霞ヶ浦・北浦・手賀沼・印旛沼などをあわせた、常陸・下総国間に横たわる広大 な海域を指し、近年、常陸南部・下総北部の地域を特徴付けるものとして注目されている。

特に、当該地域が商品・貨幣流通の先進地域たることを明らかにした成果は大きく、従来

「後進地」とされてきた東国の評価に、一石を投じるものであったといえよう。しかし、こ れまでの研究で提示されてきた自治や剰余の問題は、領主と住民との関係性のなかで再検討 する必要があると思われる。

以上のような問題関心から、第一章では、まず、常陸国側の「海夫注文」四通を検討した。

その結果、「海夫注文」に見える津々は性格が一様ではなく、その支配関係も複雑であるこ とが明らかとなった。また、この複雑さは海夫による地頭との結びつきや、時には「悪党」

として活動する海夫の性格によるものであり、指摘されてきた不整合性は、海夫と地頭、さ らに香取社との利害関係のなかで生まれたものであることを確認した。また、「常陸国有人 注文」の分析では、鎌倉府の支配を積極的に利用する在地の動向が存在し、政治的対立が在 地においても影響を及ぼすことを明らかにした。そして、富有人たちは、その対立を活用し ながら、自らの経済活動を展開していったと推察した。

第二章では、信太荘および古渡津について検討を加えた。信太荘は、「常総の内海」に連 なる地域ゆえに活発な流通が看取され、富が蓄積される環境にあったことが明らかになっ た。また、古渡津の僧侶の自治的結合組織を検討することで、宿の「おとな」(有徳人)集 団の内部矛盾を指摘した。流通の発達や富の集積は、これまで指摘されてきたような「豊か さ」をもたらすとともに、各人が自らの経済活動に正当性を付与する上位権力と結びつくと いう動向を現出させたのである。そして、その矛盾の表出として発生したのが、近年指摘さ れる「信太庄争乱」であると位置づけた。また、鳥名木氏の所領の展開から、「常総の内海」

沿岸地域において、所領規模に規定されない、広範な領主の活動があったことを見出した。

第三章では、烟田氏の所領相論を事例に、鎌倉府奉公衆と在地領主の相論のなかに、住民

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層の動向が深くかかわることを指摘した。また、鎌倉府奉公衆の入部に協力する勢力がある 一方で、現地の秩序を優先してそれに対抗する場合もあったことを明らかにした。

これらの成果を踏まえ、今一度これまでの「常総の内海」像を見返すと、そこでは「豊饒 さ」が強調されすぎていると指摘できよう。内海がもたらす富や活発な経済活動を否定する ものではないが、「豊かさ」をもたらすがゆえに、対立や競合といった矛盾が内包される地 域という「両面性」を把握すべきではないだろうか。

また、当該期の住民層の結合についてもわずかながら考察を加えた。室町期東国の「郷」

においては、個別に領主と結びつき、問題解決を図る百姓の姿が明らかにされてきた。しか し、このような領主と結んで問題解決を図る当該期住民層の姿をして「自治組織としては未 熟な状態」と評価してしまうのは、東国における住民層の独自な活動を見出す視角を放棄す ることになりかねないだろう。本論文では、時には横にも連帯しながら、領主と繋がること で要求を達成しようとする住民の姿を見出した。このような領主と住民の「タテ」の関係を、

「自治」という枠から外して考察することも重要な視角であろう。領主権力に支配されなが らも、時に主体的に支配者を戴きながら、自らの要求を実現しようとした住民層の動向こそ 注意深く評価するべきだろう。

本論文での検討の結果、「常総の内海」地域は、大きな利益をもたらすゆえに、そこには 対立・競合が不可避的に存在したということが明らかになった。このような対立構造が不断 に生まれることによって、強大な権力が出現せず、多くの中小領主が存続したのではないだ ろうか。

今後は、対立や矛盾を抱える「豊かな」内海の「二面性」を、統一的にとらえていくこと が課題となるだろう。

小規模墳墓からみる古墳出現前後の地域間相互作用

一之瀬 敬一

本研究は、これまで考えられてきた古墳時代の枠組みに疑問符が付けられるようになった こと、そして近年古墳時代研究が明らかにしてきた前方後円墳の被葬者層をめぐる議論と関 連して、古墳時代の地域集団を考え直そうというものである。

特に、筆者が小規模墳墓と呼ぶ墓制は、弥生時代後期〜古墳時代にかけて溝や墳丘などの 何らかの区画を持って構築される墓制である。研究史的には、様々な解釈が存在し、古墳 なのか、古墳でないのかがはっきり明らかにならず見解が対立してきた。これらの小規模墳 墓は、古墳時代にも残存するものが研究の早い段階から明らかにされてきたが、前方後円墳

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の被葬者を中心とした階層秩序の中で下位層の墓とみなされ、あまり積極的に扱われてこな かった。ところが、古墳時代研究の大枠であった発展段階が、疑問視されはじめ、古墳時代 研究でも前方後円墳が階層化社会の成立を意味しないとの議論まで巻き起こった。さらに副 葬品研究の進展に伴って、前方後円墳の被葬者がむしろ集団よりであり、これまで強調され た隔絶性が見出しにくい点が指摘されている。本稿では、その点を前提として、小規模墳墓 から、地域集団から各地の組織化や交流のあり方を描くことで、地域から古墳の成立を巻き 起こした変化を考えようと言うものである。

本稿ではその目標を果たすため、①小規模墳墓の墳丘形態、②埋葬施設、③古墳群(前方 後円(方)墳)との関連性をはかることの3点から、地域社会における前方後円墳秩序の浸 透度を測ってきた。①からは、墳墓の形態変化という点に着目して、地域間の交流の一様相 を明らかにした。特に前方後方形のものや、筆者が「不整形」と呼ぶ崩れた形態を持つも のから、地域間の様子を明らかにした。②の埋葬施設からは、こういった小規模墳墓自体に も前方後円墳などに比するような施設が存在し、前方後円墳と小規模墳墓の距離自体が、量 的格差はともかく質的には見出せないと判断した。そして③から、地域社会における小規模 墳墓の地位は可変的であり、弥生時代後期から継続されてくる地域と比べ、古墳時代に突然 前方後方墳が出現するような地域では、これまで必要とされてきた階層分化などよりもむし ろ、地域間の交流が重要であると考えられ、その様な中から、埋葬施設分析で見えたような 前方後円(方)墳と小規模墳墓の間を行き来できる、当時の社会を中部高地という場所の複 数のケーススタディから観察した。

近代沖縄の風俗改良運動

大城 泰平

本論文は、①日清戦争の終結後、明治三十年代から沖縄で実施された「風俗改良運動」を 概観し、「同化」、「皇民化」政策の一環とされている同運動が、日清・日露戦争期を中心に して、どう展開されたか追求したあと、同化の論理が如何なる文脈で働いていたか把握する。

②この運動の「同化」、「皇民化」から外れる側面にも着目することで、沖縄の社会が直面し た状況と、同運動にはどのような関連性があったか検討する。③風俗改良運動で生じた矛盾 や限界を検討して、最後に当該期の風俗改良運動の歴史的位置づけを包括的に検討すること である。以上の三点の課題を設定したうえで、修士論文を執筆した。

第一章は、風俗改良運動の前史に当たる部分を中心に概観して、沖縄県の統治構想を検討 した。その際に、内務省から派遣された一木喜徳郎の統治構想がまとめられた『一木書記官

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取調書』を考察する。次いで、沖縄の言論界を占めた『琉球新報』と『琉球教育』創刊の経 緯を確認する。その上で、「統治者」と「被統治者」の単純な構図に留まらない社会事情が、

沖縄を取り巻いていたことを概観する。

第二章は、風俗改良運動の展開について概観して、風俗改良の具体策から、如何なる統治 を目指していたのか考察することを試みた。第一節は、統制された風俗をめぐり、沖縄県政 の構想について読み解く。第二節は、推奨された風俗から、当時の沖縄がどのような状況に 直面していたのか概観して、「同化」から微妙に外れる「衛生」、「合理化」、「啓蒙」に見ら れる近代化の回路を提示しながら、統治者側が如何なる規範を求めたのか省察した。そのな かで、同化政策と近代化政策の区分を行い、沖縄を巡る社会不安を考察した。

第三章は、風俗改良運動をめぐって発生した対立や矛盾に焦点をあてた。先行研究では、

同運動は失敗に終わったという評価が占めている。この理由と、先行研究のまとめを行った。

本章で意識した問題関心は、県内各地における県政当局や教育組織との連携が風俗改良会に よって深められたことや、一つの間切内で自治を完遂していた集落が、限界を迎えていたこ とはあまり言及されていない事実である。先行研究があまりまとめられていない着眼点を基 に、執筆を進めた。第一節では、一章で取り上げた『琉球新報』と『琉球教育』がそれぞれ 捉えた風俗改良には深い溝があり、言論空間上で発生した対立構造を再検討する。二つの言 論機関が発した言説には温度差があり、互いに「同化」の志向性が異なっていたことを、実 際の風俗改良運動と照合して考察する。第二節は、毛遊び規制のため実施された風俗改良の 反応と、地域に根付いた風俗を撲滅出来ない理由について言及する。日清戦争後における風 俗改良の実態と、言論上との隔たりを第一節との関連で読み解く。第三節は、これまで通観 してきた同運動の限界と歴史的位置づけを、当時の沖縄が迎えていた政治的、社会的状況を 視野に入れながら総括する。

汪曾祺論

金森 まりえ

中国近現代の男性作家である汪曾祺(1920-1997)は、文化大革命の前後を通して作品を 執筆し続けた中国文学史上めずらしい作家である。汪曾祺は1946年に最初の短編小説「復讐」

を書き、同作品を1982年に改訂している。文化大革命を挟んで作品が書き直されたという 事実は興味深く、著者は卒業論文で「復讐」における1946年と1982年の汪曾祺の変化を調 査した。その結果、1946年と1982年で汪曾祺の文体が洗練され、人生経験が加筆されてい ることが明らかになった。また、1946年と1982年では、「復讐」の主題である人間尊重の

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心が変わらずに描かれていることと、中国古典文学や魯迅、菊池寛の作風を取り入れて、モ ダニズムの手法のもと執筆していることが明らかになった。

本研究では、「復讐」が書き直された1982年が、文化大革命後であることも含め、汪曾祺 にとって人生の転換期であることに注目した。人生の転換期である1982年前後に注目する と、三篇一組で構成された七つの作品が1980年代前半から半ばにかけて集中的に書かれて いることが分かった。そこで、三篇一組作品を分析することによって1980年代前半が汪曾 祺にとって人生の転換期であることを証明し、作家としての汪曾祺を見直すために、「復讐」

の主題や作風が、三篇一組作品でも同じように見られるかを調査した。なお、これまでに、

三篇一組作品とその執筆時期に注目した先行研究はなかった。

結果として、三篇一組作品が西洋の昔話の語り口の要素を持っていることと、人間の人生 と生活を主題として書かれていることが分かった。「復讐」に描かれた人間尊重の心は変わ らずに三篇一組作品にも描かれていた。また、「復讐」で中国古典文学や、魯迅と菊池寛が 用いた歴史小説を書きながら現代への諷刺を行うという作風に近い創作姿勢も見られた。三 篇一組作品において、昔話の語り口を用いて、現代社会に通じる普遍的な人間に関する主 題を提示しているという創作姿勢が、「復讐」の古いものを書きながら新しいものを書くと いう作風と一致していた。したがって、1980年代前半が汪曾祺にとって人間の存在や生活 を深く見つめ直した時期であることが明らかになった。また、三篇一組作品が昔話の要素を 持った作品であるという位置づけができた。さらに、作家汪曾祺は、文化大革命前後に執筆 を続けためずらしい作家であるというだけでなく、時代の変わり目に、古い作品舞台と現在 の主題を同時に書く作風を持つ作家であることが明らかになった。

佐竹氏領国における越相同盟の政治的意義

―「東方之衆」の盟主化を見通して

髙田 敦史

本論文では、常陸国に勢力を広げた戦国大名佐竹氏に、永禄一二年(一五六九)の越後国 の上杉謙信と相模国の北条氏康の越相同盟が与えた影響を明らかにする。これまでの研究史 で佐竹氏は越相同盟をへることで上杉氏に頼らないで北条氏に対抗する力をつけたといわれ ているが、越相同盟が破綻したあとでも上杉氏に関東への出陣=越山を求めており、これま での評価が妥当であるのかあらためて検討する必要があると考えたからである。また、佐竹 氏は天正六年(一五七八)の小川台合戦で、反北条領主連合である「東方之衆」の盟主になっ たとされているため、佐竹氏の「東方之衆」の盟主化を見通したうえで、佐竹氏にとって越

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相同盟とはなんだったのか、その意義を解明する。

越相同盟が佐竹氏領内にどのような影響を与えたのかを明らかにするために、越相同盟以 前・越相同盟成立期・越相同盟破綻以後の三つの時期に分けて考察する。また、永禄〜天 正期の佐竹氏の政治史を概観した研究は少なく、佐竹氏の活動が分かりづらい部分もあるた め、可能な限り政治史の復元も行いたいと思う。

第一章では、越相同盟以前の佐竹氏と上杉氏の関係を復元した。佐竹氏と上杉氏の関係は、

永禄三年に佐竹義昭が北条氏康に対抗するため上杉謙信に越山を要請したことに始まり、両 者は協力して関東経略をすすめた。永禄九年までは良好な関係を築いていたが、上杉氏が佐 竹氏の配下にまで支配を及ぼそうとしたため義重が反発し関係が悪化する。かろうじて通交 はあるが共同して軍事作戦を起こすことはなくなる。

第二章では、越相同盟成立期の佐竹氏の活動を明らかにした。越相同盟は甲斐の武田信玄 が駿河の今川氏真を攻めたことで、氏真を支援する北条氏康が武田氏に対抗するために、上 杉謙信に同盟を申し込んだものである。信玄が氏真を攻めて、信玄と氏康が敵対すると佐竹 義重は謙信に北条氏を攻めることを求めたが、謙信は越相同盟の交渉を行っていたため義重 の要請には応じなかった。義重の越山要請は、北条氏を倒すためだけでなく、当時北条氏に 攻められていた関宿の簗田氏救援の意味もあったが、謙信が応じないため関宿の後詰として 独力で小田城を攻めた。そしてそれ以降謙信からの参陣要請に応じなくなったのである。謙 信との関係が悪化する一方で佐竹氏は武田氏と協力関係になり、新たな道を模索する。この 越相同盟成立期は、佐竹氏が最も上杉氏から独立した行動を取った時期だといえる。しかし、

越相同盟が破綻したことで、北条氏と武田氏の関係が改善されると、佐竹・武田間は疎遠と なる。

第三章では、越相同盟破綻後の佐竹氏と上杉氏の関係を明らかにした。越相同盟が破綻し 再び北条氏が関宿を攻めると、佐竹氏と上杉氏が接近する。しかし、義重家中には謙信に疑 心を抱く者がいてうまく連携を取ることができなかった。すると関宿が北条氏に落とされ、

その後、小山も北条氏のものとなる。小山に北条氏が攻め寄せたころから再度佐竹氏と上杉 氏が協力をし始めるのだが、これまでは謙信が義重に同陣を求めていたが、この段階では連 携してそれぞれ別の場所を攻撃するというかたちに変化した。これは義重家中の我侭な行動 に対して謙信がとった対策であった。しかしそれでも小山は北条氏のものになってしまい、

小山が北条氏に落とされてからは、小山・壬生・結城あたりがおもな戦地となっていく。そ して天正六年小川台合戦が起こり、この合戦をへることで佐竹氏は「東方之衆」の盟主への 道を開くことができたのである。これまでは小川台合戦で「東方之衆」の盟主になったとさ れてきたが、正確にはこの合戦後に佐竹氏が以前の上杉謙信のように出馬要請をうけてそれ に応えていくことで盟主となったのである。

越相同盟は、佐竹氏の上杉氏からの自立化を促す要因であったといえる。それだけにとど まらず、上杉氏なしで軍事行動を起こすことで「東方之衆」形成の一要因ともなっていた。

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総力戦と社会大衆党

―「麻生グループ」を中心に

高橋 拓也

本研究の目的は、昭和初期の無産政党である社会大衆党の政策構想を分析し、総力戦体制 下の日本における社会大衆党の位置づけをはかることである。

従来の研究では、社会大衆党が日中戦争を通じて社会主義から国家社会主義へ転じるとい う視点で扱われることが多く、その中心的役割を担った社会大衆党書記長麻生久を取り扱う 研究が多く、麻生をはじめとする旧日労系(「中間派」)と呼ばれるグループが国家社会主義 化の中核を担っていたという理論で描かれている。しかし、社会大衆党の国家社会主義化を 推進したのは「中間派」だけではなく、旧社民系(「右派」)の一部も加わっていることから、

「中間派」イコール国家社会主義化を推進するという論理では不十分であると考えられる。

そのため、本研究では、国家社会主義化の中心となったグループをまとめて「麻生グループ」

と規定し、彼等が社会大衆党内において実権を掌握していく過程も同時に分析している。ま た、社会大衆党の政策について、これまでの研究では主に日中戦争下における経済統制は取 り上げられてきたが、社会政策に関してはあまり論じられてこなかった。しかし、日中戦争 から始まる戦時体制が「総力戦」であった事を考えると、国民の生活を安定させ、なおかつ 総力戦を円滑に遂行させようとした社会政策・福祉政策には言及しておく必要があると思わ れる。以上の観点から、社大党における「麻生グループ」の権力掌握過程を政策面、軍部と の関係性を中心に分析しながら、彼等が戦時体制下で実現させようとした政策について検討 し、総力戦との関連付けを図ろうとしたのが本論文の趣旨である。

そして、それらを明らかにしていくため、第一章では「麻生グループ」の成立過程につい て、大正期の労働運動、無産政党運動に遡って分析を行い、「麻生グループ」としての基盤 が一九二〇年代の時点で既に完成されつつあったこと、「麻生グループ」が無産政党運動を 通じて徐々に「運動」をリードするようになっていたことを明らかにした。

第二章では、「麻生グループ」が社会大衆党内における主導権を掌握する過程を分析して いく。本章で特に注目すべきは社会大衆党と軍部の関わりであり、同党が国家社会主義化し たのは、軍部の圧力に「屈服」し、「転向」を余儀なくされたからであるというのが従来の 研究の視角であった。これに対し、本研究では、麻生が既に軍部と個人的つながりを持って いたこと、社会大衆党結成以前の段階で軍部と無産政党結合の正当性を主張していたという 点から、「麻生グループ」は軍部に「屈服」したのではなく、軍部を利用することによって 党の影響力を強めようとしていたという視点で論を展開していく。

第三章では、戦時体制下における社会大衆党の政策について、社会福祉政策、国民再組織

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を中心に論じる。社会大衆党は陸軍の「広義国防」論を支持する立場から「国民生活の安定」

をめざした社会政策、福祉政策を打ち出していくが、それは一方で、総力戦下における人的 資源の創出を意味するものでもあった。社会大衆党は国家総動員法案の成立を積極的に推し 進め、総動員体制下でこれらの政策の実現に向けて画策していくことになるが、日中戦争の 長期化は、兵力動員の増加によって労働力不足を招くほか、円ブロック中心の貿易が外貨の 不足を招くなど、経済統制の行き詰まりを露呈した。社会大衆党はこれらの行き詰まりを打 開するため、国民再組織による強力な「一国一党」内閣の樹立、すなわち「近衛新党」の確 立を目指していくのである。

幕末京都の政治社会と京都留守居

―肥後藩を中心に

安田 千明

本稿の目的は、文久二年(一八六二)内勅降下以降の肥後藩の京都における政治過程の検 討と、その過程のなかで肥後藩京都留守居上田久兵衛の評価を再検討するものである。

戦前以来、幕末維新政治史研究は、主に近代天皇制絶対主義の成立をめぐる過程として、

その歴史的意義に焦点が当てられた。一九八〇年代になると、宮地正人氏の「過渡期国家」

論や原口清氏の「国是」論の提起に伴い、幕末維新期は新たな国家意志の創出に向けた政治 変革過程として議論される。近年では個別実証研究の蓄積により、新たな国家意志の確立過 程において多様な政治勢力の影響が指摘されるようになった。このような幕末政治史研究の 潮流の一方で、井上勲氏に端を発する「公議」を軸に幕末政治史を考える潮流がある。近年 は、幕末維新をより総体的に論ずる上で、「天皇」と並ぶ重要な概念として注目されている。

奈良勝司氏は、幕末期を「国力結集の観点から身分制の原則が揺らぐなか、ニンベン「公儀」

に代わって、ゴンベンの「公議」が新たな政治概念として普及・定着」していった時代であ ると位置付けている。

第一章では、文久二年(一八六二)七月の内勅降下以降の肥後藩の政治動向について検討 した。ここでは、朝廷の期待する京都警衛の役割が文久三年五月の姉小路公知暗殺事件、そ して同年八月十八日の政変を契機に、対外国の京都警衛から、対過激志士の公家守衛へと変 容していく様子を明らかにした。公家守衛については文久二年の段階で、すでに朝廷側では 構想されていたが、朝幕間の関係を考えると、朝廷が勝手に公家守衛のための衛士を募集す ることは危険であるとも認識されていた。そのため、公家に危険が及んだ姉小路暗殺事件と 八月十八日の政変は、朝廷に衛士募集を諸藩にする絶好の大義名分になった。

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また、当該期、京都に政治的基盤を持っていなかった肥後藩を支えた存在として肥後勤王 党の藩士と肥後藩主弟長岡護美の動向を明らかにした。肥後勤王党は、藩側の思い通りに動 かない可能性のある存在として、勤王党に周旋させる案が出た当初から肥後藩から危険視さ れていた。そのため、八月十八日の政変以降、肥後藩は一転して勤王党の活動を抑制するこ ととなる。その後、京都において周旋活動を中心的に担ったのは肥後藩主慶順の弟、長岡護 美であった。一度目の上京時に構築していた公家達との関係に加え、二度目の上京時には参 与諸侯との関係を構築し、朝幕融和のため肥後藩の建白を通さんがため周旋を行った。

第二章では、久兵衛の動向ならびに特徴を中央政局と公家との日常的やりとりのなかで検 討した。久兵衛は、中央政局のなかで将軍上洛工作や将軍参内問題において、朝廷と幕府の 間を取りもつなど周旋活動を行ってきた。その一方で、歌を詠む文化的素養と機転のきいた 会話術によって、政治上では肥後藩と相対する薩摩藩側の近衛と関係を築いていた。そのう えで、久兵衛は近衛へ政治的議論を奉伺していることから、政治的議論を正面切って行うの ではなく、歌を用いて「政敵」の警戒心を解いてから政治的議題を伺う久兵衛の渉外担当と しての素養が垣間見えるといえよう。

第三章では、朝廷の政治機関の変容と、「公議」化していった学習院の存在を示したうえ で、慶応元年(一八六五)十月五日の朝議を「公議」の観点から検討した。ここでは、十月 五日の朝議が「公議」的側面を持ちつつも、根本的な部分では近世的政治意思決定のもと行 われており、「限定的」公議であったと明らかにした。久兵衛は、五日の朝議で述べた久兵 衛自身の意見が勅許というかたちで反映され、さらに、その後の老中小笠原からの諸相談を 受けて久兵衛の意見を述べていることから、当該期、久兵衛は「公議」的な枠組みのなかで 政治活動をしていたといえる。しかし、藩から国許へ帰るよう命ぜられた久兵衛は藩の枠組 み・論理からは離れられない限界性を有していたのである。

金来成の初期作品から見る〈江戸川乱歩とその時代〉

―「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺人」、「探偵小説の本格的要件」を中心に―

嚴  暲美

1.本研究の問題意識と目的

本論では、一九三〇年代に書かれた金来成の日本語作品「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺 人」、「探偵小説の本格的要件」を対象に、各作品の分析を日本探偵小説の黄金期と関連付け て行うとともに、特に金来成と江戸川乱歩との作品の関連性を調査、分析し、戦前探偵小説 に於ける日韓文学交流を証明することを心がけた。さらに、〈探偵小説〉というキーワード

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を中心に植民地としての近代化が朝鮮社会に与えた影響について考察し、朝鮮の〈現実的な 姿〉と〈植民地探偵小説的な姿〉を立体的に捉える作業を試みた。かつての日本は統治下の 朝鮮に対し、植民地政策の一環としてハングルによる純粋な朝鮮文学誌の発行を制限した時 期があった。そのためか、植民地時代における朝鮮人の日本語を使った創作活動に対し、韓 国では今現在も様々な議論がある。しかし当時の朝鮮人の日本語による創作活動は、断絶さ れた文学活動を維持し、創作を続けられる唯一の方法であったと言える。本論では、そのよ うな活動の裏側には、我々が今まで背を向けてきた当時の日韓文学者たちの知られざる交流 があり、国家やイデオロギーを越えた〈文学的精神〉が存在したということが、単なる可能 性ではなく、歴史的事実であることを証明しようと努めた。

2.本研究の構成ならび各章の要約

第一章の「日本探偵小説の黄金期と金来成」では、金来成の日本での活動について述べる とともに、彼がデビューした一九三〇年代のいわゆる〈日本探偵小説の黄金期〉についてま とめた。なお、金来成の処女作「楕円形の鏡」と江戸川乱歩の「恐ろしき錯誤」の類似性を 指摘し、両作品のテキスト分析を行った。

第二章「「現実的雰囲気から浪漫的雰囲気への飛躍的刹那」の『探偵小説家の殺人』」で は、探偵小説と都市文化について乱歩の作品を中心に分析し、その関係性について考察する とともに、一九三〇年代の朝鮮に関する歴史文献及び写真資料を中心に〈植民地としての近 代化〉された朝鮮の姿について論じた。なお、金来成の「探偵小説家の殺人」に描かれた朝 鮮と、歴史文献による朝鮮の姿を比較することで、金来成作品に表れた時代への反発につい て論じた。

第三章「偶然遭遇する衝動への実現「探偵小説の本格的要件」」は、一九三六年に探偵専 門雑誌『ぷろふいる』を舞台に展開された甲賀三郎と木々高太郎の「探偵小説芸術論争」に 対し、金来成が発表した論評『探偵小説の本質的な要件』の分析が中心となっている。この 論争によって展開された金来成の議論を整理し、分析することで、探偵小説に於ける芸術性 について考察した。

現在韓国人のことを朝鮮人とは呼ぶことはなく、特に韓国では朝鮮人という言葉に軽蔑 的、差別的な受け止め方をするのが通常であるが、本論で引用した文献の中には朝鮮人と いう言葉が含まれているものが多く、論文執筆のために朝鮮人という用語を使わざるを得な い。しかし本論で論じる時代にはそのような意識はなかったため、論文はもちろん、引用文 もそのままにした。それ以外も差別的な表現があるが、資料として訂正せずにそのままにし たことを明記する。なお、本論に使われたハングルの文献資料に関しては、できるだけその まま訳したつもりだが、日本語として理解し難い部分に関しては、理解しやすい文脈に意訳 した。

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徐悲鴻の美術思想と日本

黄  鶯鶯

徐悲鴻(18951953)は1917年に日本に半年ほど滞在し、そして国費を以って1919 からパリに留学した。アカデミー・ジュリアンへ入学、主としてデッサンを習っている。し かし、1921年の中国では、政府と対立する軍閥が形成され、政局は非常に混乱した。徐悲 鴻への国費支給も断絶し、当年の秋、徐はドイツに渡り、ベルリン美術院院長のアルチュ ル・カンプ(Arthur Kampf)の指導を受ける。1923年にまたフランスに戻り、1925年に帰 国した。

徐悲鴻の作品においては、油絵より中国画が多く、中国画を分析する論文が多く残ってい る。中国画を重視している徐はなぜわざとヨーロッパに留学し、西洋画を習ったのだろう。

それは、日本での旅が彼に大きな影響を与えたからではないだろうか。1917年の日本人画 家たちは程度こそ異なるが、西洋の画法を重視していた。その成果もすでに作品に現れ始め ていた。発展している日本画のほか、日本人画家である中村不折との交流や、日本の精良な 印刷術や絵画の複製品も徐に深い印象を残した。

このような発展している日本を見て、徐は中国画の停滞を意識した。それゆえ、帰国した 後、19185月に「中国画改良之方法」を発表した。この論文で、徐は、中国画が旧習を 守ることに専念して、形式主義におちいったから、新しいものを受け入れる、取り入れる自 由を失ったと指摘している。さらに、「古法のよいところを守り、途絶えかかっているもの は継承し、よからぬものはこれを改め、足らざるものには加え、西洋画の受け入れる価値が あるものも取り入れる」という改良の方法も指摘している。その改良の方法を勉強するため、

ヨーロッパに留学したのだった。

一方、徐の作品や論文を深く研究すると、彼の矛盾に気がつく。写実主義によって中国画 を改良しようと推し進めるが、彼の作品は理想的なロマン主義に近づいている。彼は文人画 の伝統を批判するが、作品は文人画とさまざまな点において繋がりがある。彼は封建思想や 旧習を守ることを批判するが、文章はほぼ文語体で書く。その矛盾を解剖し分析するのは、

本論の目的の一つでもある。

本論は、今までの徐悲鴻の研究の不足を補いたい。徐悲鴻はもうすでに多くの学者に研究 されたが、彼と日本との関係や、改良論と作品との関連などの研究はまだ不十分である。本 論はこの点に関して、新たな観点と解釈を提起する。

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安部公房の作品における「仮説」と「科学」

―『第四間氷期』、『砂の女』、『人間そっくり』を中心に―

謝  宗勲

安部公房は国際的に注目されている作家である。彼の作風はフランツ・カフカとルイス・

キャロルに影響されたため、変形と異界譚のような幻想的で、非現実的な物語が多かった。

その故、作品は反写実、反リアリズムの傾向があると評され、日本文壇でもアヴァンギャル ド作家として活躍していた。多言語に翻訳された『砂の女』はアヴァンギャルド作家として の安部公房の代表作とされており、実際、安部公房の名を世界に広めたのも『砂の女』であ る。そのため、安部公房の作品について、研究者らはアヴァンギャルド作家の面から研究す る傾向があり、安部公房のSF作家の一面から研究する人が少ないと思われる。

カフカとルイス以外、安部公房もエドガー・アラン・ポーの作品から影響を受けたこと は、彼のエッセイ「ぼくのSF観」に記されている。そして『砂の女』のように、安部公 房のSF作品は代表作品『第四間氷期』があり、「日本における最初の本格的長篇SF」と 奥野健男に評価されている。また、エッセイにおいて空想科学小説やSFについての論述が 多いことと、常に作品に自然科学を解説するような描写が散見されることから、安部公房は SFジャンルに関心を持ち続けていた姿勢が窺える。しかし、彼のSF作品の創作姿勢はあ る事件を境にして変わった。一九六一年ユーリィ・ガガーリンを乗せた人工衛星が宇宙に打 ち上げられたことである。この事件は当時のSF作家たちに、想像力は現実の科学知識に否 定されかねないという恐怖感を与えた。このような事態を受けて、まもなく日本のSF作家 らは一九六一年四月二十八日に座談会「SFは消滅するか」を催した。しかし、安部公房 はこの座談会で人工衛星が宇宙に打ち上げられることを彼はすでに予想していたと述べてお り、さらに、安部公房と手塚治虫らはSF文学の根本は自然科学から取り入れることではな く、「仮設の精神」こそSF文学基本的な精神と指摘した。

この座談会以来、安部公房はSF文学を「仮説の文学」と定義し、そして彼の作品におい て自然科学の位置の扱いも変異した。本来『第四間氷期』のように、自然科学、また自然科 学によって発達した社会という自然科学を中心に語る物語が少なくなり、代わりに、人間が 物語の中心に置かれ、自然科学の産物が使用されるという「脇役」の位置で物語に組み込ま れるという形式の物語に変化し、以後も続けていた。そして一九六六年『SFマガジン』に 掲載された名義的に安部公房最後のSF作品『人間そっくり』においては、自然科学は実体 化すらされておらず、ただ知識として語られただけという位置づけとなった。安部公房は一 体このような変化で読者に何を伝えたいのか、そして彼が定義したSF文学「仮説の文学」

は何を強調したいのか、本論文はまず安部公房の作品において、「科学」と「仮説」の位置

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の分析によって、二つの問題を究明したい。

そして「仮説の文学」の定義について安部公房が述べたのは、SFジャンルの定義を解釈 する時だけではなく、アヴァンギャルドの定義について解釈するとき、彼も「仮説」の重要 性を述べており、そし彼にとって創作スタイルの重要な技法であると述べている。つまり、

SF小説と名乗った『第四間氷期』と『人間そっくり』だけではなく、安部公房が同時に「科 学」と「仮説」を用いられる作品は安部公房式のSF小説として読める可能性を秘めている。

特にガガーリン・ショック事件から『人間そっくり』の執筆が始めるまでの間、安部公房は SFジャンルについて何回でもエッセイで自分の見解を語ることが多く、一九六二年に発表 された『砂の女』は「科学」と「仮説」の要素を用いていることは、SFの創作姿勢の変換 について、それぞれの意義があると考えられる。そしてこの意義を究明するのが本論文の目 的である。

中国人日本語学習者のテンスとアスペクトに関する習得研究

杜  逸丹

本研究の目的は中国人日本語学習者のテンスとアスペクトの習得状況を調査し、その結果 に基づいて、誤用分析を行うことである。それによって中国人日本語学習者が日本人とより よくコミュニケーションできるように、中国における日本語のテンスとアスペクトの教材や 教育方法に生かすことが本研究の最終的な目的である。

本研究は次のような手順で行った。まず、日本語のテンスとアスペクトと中国の時制に関 わる文献を精読し、両者の用法を確認し比較することによって、誤用の基準を作成した。次 に、中国の大連外国語大学で使用されている教科書『新大学日本語』を分析し、その教科書 におけるテンスとアスペクトに関する内容の具体的な取り扱われ方とその不十分な点を指摘 した。また、テンスとアスペクトに関する誤用例を収集し、予備調査票を作成するとともに、

茨城大学の留学生を調査対象として、予備調査を実施した。予備調査を通して、本調査の各 設問の妥当性や表現の適切さを確認し、それに基づいて本調査票を作成した。本調査は、中 国の大連外国語大学において、日本語学習歴別に一年生、二年生、三年生を対象として実施 した。また、比較のために、茨城大学において、日本人学生にも同様な調査を実施した。調 査結果は先行研究の指摘や教科書分析の結果を踏まえて、分析し考察した。

教科書分析を通して、『新大学日本語』において取り上げられているテンスとアスペクト に関する内容には不十分な点があることが分かった。例えば、動詞のタ形について、基本的 な用法のみが取り上げられており、その他の特殊な用法について言及されていないこと、テ

参照

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