【論文】
大川周明の世界構想における 「大東亜戦争」の意味について(前篇)
― 日本の「曖昧性」と新たな世界像の模索 ―
菅 谷 務
ある理想から歴史のリアリティに達するのではない︒歴史のリアリティに突き当たる事が︑歴史の理想を語らせるのだ︒
︵小林秀雄﹁歴史について﹂︵林房雄との対談︶﹃文学界﹄昭和一五年一二月号︶
日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で︑
最も気心の知れない敵であった︒大国を敵とする戦いで︑これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮の中に
置く必要に迫られたことは︑今までにないことであった︒︵中略︶西洋諸国が人間の本性に属することがらとして承認
するにいたった戦時慣例は︑明らかに日本人の眼中にはなかった︒︵ルース・ベネディクト﹃菊と刀﹄︶
一 「東京裁判史観」と近代日本の「曖昧性」
「文明裁判」としての「東京裁判」1
大川周明が太平洋戦争中にラジオや雑誌を通して大いに国民の戦意を煽り︑軍国主義の一翼を担って侵略戦争に加担したということが︑
戦後の東京裁判において民間人で唯一人のA級戦犯として起訴されたことの主たる理由のひとつであった︒これに裁判中に梅毒性の進行性
神経麻痺が発症したしたことも加わり︑裁判からは外されたもののその思想家としてのイメージはほぼ失墜の極みに達したといってよい︒
その後︑何人かの歴史研究者や思想史家の地道な研究によって部分的にはその原像が明らかにされつつあるが︑全体として見れば︑私たち は今もって﹁東京裁判史観﹂というものの枠組みからは自由ではなく︑したがって大川周明についても依然として﹁超国家主義者﹂﹁右翼の
大物﹂という通俗的な認識の域を超えず︑真にリアリティをもった全体像およびその思想史上の位置づけについては謎めいたままという状
況が続いている︒その最大の理由のひとつ﹁東京裁判史観﹂というものは︑よくいわ
れるように勝者が敗者を裁くという意味で政治裁判の典型であるだけではなく︑連合国側の価値基準とその論理によって歴史を裁いたとい
う意味においては間違いなく﹁文明裁判﹂ともいえるものであった︒政治の延長としての戦争に対して﹁政治裁判﹂というかたちでのケジ
メのつけ方はそれなりの﹁合理性﹂もあるが︑﹁文明﹂が﹁文明﹂を裁くということはそれ自体成立することではない︒﹁文明﹂というも
のが一定の自然環境と風土的条件の下に長い時間のなかで徐々に形成され︑それぞれに独自性をもつ人間集団の生き方の総体的表現であ
り︑諸文化をはじめとして法や政治の母体である以上︑一方の﹁文明﹂が他方の﹁文明﹂を法的・政治的に裁くということは原理的にあり得
ないことだからである︒したがって︑現在にいたるまで﹁東京裁判史観﹂の立場から﹁太平
洋戦争﹂︵日露戦争以降におけるアメリカの太平洋進出政策からの命名︶の意味について語られ︑そして語るとき︑多くの日本人の心の奥底で
は﹁曖昧さ﹂が残り︑なにかしら割り切れないものを感じていることは当然のことであろう︒このことは憲法改正問題をめぐる諸論議を待
つまでもなく︑対米︑対中韓関係における歴代の政府の外交姿勢やそれらに対する国民の態度の不明瞭さに表明されているとおりである︒
こうしたことの根柢には日本人の思想と行動の在り方およびその表現の仕方に︑西欧思想史の文脈からいえば︑﹁正統主義﹂に対立する
﹁異端思想﹂として絶えず弾圧と排除の対象とされてきた﹁神秘主義﹂思想と類似するものがあり︑こうした思想史的背景が連合国側と日本
側との間の意思疎通上の障壁となり︑結果として西欧的価値観とそれに基づく英米法による一方的な裁判の展開を加速させ︑﹁敗戦﹂とい
う勝ち負けの結果だけをもって日本が掲げて戦った大東亜戦争の理念とその思想的意味まで断罪してしまったことの隠された要因としては
たらいていたのではないだろうか︒現在文庫本化されていて誰にでも容易に手にすることができる﹃東京裁判 日本の弁明﹄︵小堀圭一郎 編 一九九五︶や﹃秘録 東京裁判﹄︵清瀬一郎著 一九八六︶などに記されている弁明の主旨を虚心に読んでみると︑どうしてもそうし
た感を禁じ得ないのである︒前者は極東国際裁判所の裁判長によって却下された弁護側が作成した膨大な提出資料のうちから重要な一八編
を抜粋したものであり︑後者は日本人弁護団の副団長で東条英機の主任弁護人を務めた清瀬一郎による日本側の弁論の大要を述べたもので
ある︒さらに東京裁判において規範とされた戦時国際法の解釈と適用をめ
ぐる英米法と大陸法との違いが問題として浮上する一方で︑大陸法に準拠しながら独自の主張を展開した日本側弁護団の立場が裁判の過程
中ほとんど裁く側の思慮の枠外におかれ︑判決にほとんど反映されていないということの根柢には︑目的合理性の観点から緻密な論理︑分
析と綜合︑厳密な実証などによる﹁客観性﹂を標榜してきた社会科学および人文科学の基本概念が西欧文明という母体からの所産であり︑ そのことが法文の解釈と適用に無言の作用をあたえていたということがあると思われる︒
こうした点から考えると︑たとえば﹁国家﹂︑﹁社会﹂︑﹁共同体﹂︑﹁国民﹂︑﹁階級﹂︑﹁社会主義﹂︑﹁帝国主義﹂︑﹁全体主義﹂︑﹁ファシズ
ム﹂などという社会科学のキーワードひとつをとってみても本来その意味するところと受容のされ方はそれぞれの文明や文化の在り方によ
り多様であり︑したがって意味内容については一義的に確定され定義できるものではない︒にもかかわらず︑社会科学や人文科学の言葉で
歴史的社会的事象を語ることは︑それが高度の形式性をもつ抽象概念としての自己限定の下ではたいへん有効であることはこれまでの多く
の実績が示しているとおりであるが︑各文明のもつ価値体系の独自性を踏まえることなくあたかも普遍的な実体概念であるかのようにして
一様に適用されると言葉と論理による﹁暴力﹂となり︑コミュニケーションの前提であり目的でもある自︱他間の回路の洞開と合意の形成
であるはずのものが相手方を屈服させ支配するための手段と化すことにもなるのである︒たとえば︑﹁帝国主義﹂や﹁ファシズム﹂という
社会科学の言葉が安易に敵対する国の動きに対する非難の言葉として使われるとき︑歴史の重要な側面を無視した恰好の政治的プロパガン
ダに転換してきたことは国際政治の現実を一目するだけで明らかであろう︒
後述することになるが︑フランス革命に端を発し西欧世界で形成された﹁国民国家﹂という概念が︑近代国家のモデルとして日本や中国︑
朝鮮をはじめアジア諸国︑イスラム諸国にそのまま了解され受け容れられたと考えることは歴史的事実とは明らかに齟齬している︒そこに