JIA
M A G A Z I N E
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OCTOBER 2013建築家
a r c h i t e c t s 1991 年 4 月 16 日第三種郵便物認可 2013 年 10 月 15 日発行 毎月 1 回発行 通巻 297 号 ●特集建築・都市のパラダイムシフト—
ライフスタイルの転換
⑰
あえてアマチュアの技術にこだわり建築をつくる 王 澍(ワン・シュー) ●シンポジウム 代々木体育館ができるまで ●JIA 建築家大会 2013 北海道■加入資格 JIAの会員および会員がいる事務所に勤務する役員・従業員の方 (2013年12月1日時点で満69歳以下) ■保険期間 2013年12月1日午後4時~ 2014年12月1日午後4時(1年間) ■申込締切 2013年11月8日㈮まで ■申込方法 同封の加入申込書をFAXいただきますと、加入依頼書類一式をご送付いたします。 ■保 険 料 年1回払い(11月25日㈪までにお振り込み) ※この案内は概要を説明したものです。 資料請求・詳細につきましては、下記代理店および保険会社までお問い合わせください。
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JIA傷害総合保険
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プラン名 N1 N2 N3 死亡 195 万円 392 万円 586 万円 入院日額 5,000 円 10,000 円 15,000 円 手術 (入院中、外来を問わず)入院中に受けた手術 20 倍、外来で受けた手術 5 倍、重大手術 40 倍 通院日額 2,500 円 5,000 円 7,500 円 年間保険料 6,000 円 12,000 円 18,000 円 (保険期間 1 年、職種級別 A 級、団体割引 10%、天災危険補償特約、就業中のみの危険補償特約、 手術保険金倍率変更特約、重大手術保険金倍率変更特約) ★お問い合わせ・資料請求先【引受保険会社】株式会社損害保険ジャパン
営業開発第2部第2課 (受付時間:平日9:00 ~ 17:00) 〒100-8965 東京都千代田区霞ヶ関3-7-3 TEL:03-3593-6453 FAX:03-3593-6751【幹事代理店】 株式会社建築家会館
(受付時間:平日9:00 ~ 17:00) 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-3-16 TEL:03-3401-6281 FAX:03-3401-8010 E-mail:info@kenchikuka-kaikan.jp【提携代理店】 株式会社安田システムサービス
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Cover Story
JIA
MAGAZINE
C
O N T E N T S
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OCTOBER 2013特集
建築・都市のパラダイムシフト
――ライフスタイルの転換
⑰
002 王澍(ワン・シュー)氏に聞くあえてアマチュアの技術にこだわり建築をつくる
010 シンポジウム 代々木体育館ができるまで [神谷宏治×川口衞] 012海外レポート
国際関係のなかでの JIA ❶ 佐野吉彦 014JIA 建築家大会 2013 北海道
014 大会を終えて 015 大会式典・基調講演・シンポジウム 016 「北からの提言」連続セミナー 017 震災復興シンポジウム 2013 / 板金ワークショップ「職人業を間近で見て・触れて体験しよう」 018 田中裕也セミナー「ガウディ建築を解く はかるとちえ」/ シンポジウム「建築家資格制度の目指すところⅡ」 020 よくわかる建築家賠償責任保険 ケンバイの誕生 戸田幸生 021JIA NEWS
本部便り/編集後記The Japan Institute of Architects
I J A JIA-kan,2-3-18 Jingumae,Shibuya-ku, マチュ・ピチュ遺跡(ペルー) 世界で最も有名な世界遺産の一つであるマ チュ・ピチュは 15 世紀頃につくられたイ ンカ帝国の遺跡である。南米アンデス山中 のウルバンバ谷に沿った標高 2,430mの山 の尾根にあり、空中都市とも呼ばれる。 1911 年、アメリカの探検家ハイラム・ビ ンガムによって発見されたといわれている が、既に地域の人々によって発見されてい たともいわれる。 下を流れるウルバンバ川から 600m 以上の 高地にあり、下から見えないよう、そして 近づけないようにつくられている。マチュ・ ピチュ(Machu Picchu)とは、現地の言葉 で老いた峰(Old Peak)を意味するそうだ。 遺 跡 の 背 後 に 見 え る 尖 っ た 山 は 標 高 2,720mのワイナ・ピチュ (若い峰)で、対 比をなす。山腹にはマチュ・ピチュの太陽 の神殿に対する月の神殿が存在する。 山の尾根に北西から南東にちょうど馬の鞍 を載せたように町はつくられ、尾根から 下った東と西の斜面に段々畑が続く。東西 とも急斜面になっていてそこから先は深い 谷である。圧倒する景色である。 しかし町というには小さく、集落にしては 重要な施設が多く建っている。 廃墟は宮殿、神殿、風呂、150 ほどの住居 から成る。それらの建物群は多角形に削ら れた白い御影石で薄い剃刀も入らない精度 でつくられているため、現在でも強固な壁 として残っている。 ここはいったいどのような場所だったのか 諸説あるが、太陽から暦をつくり、太陽に 祈りを捧げる儀礼の場であったとする説が 有力である。 古来インカの人々は太陽を崇めた。確かに ここに登ると太陽に近いところに来たよう な感じになる。周囲の神々しい山々を見渡 す山頂の遺跡空間は宗教建築としても圧倒 的に優れている。 断崖にそそり立つ尾根からは終日太陽の動 きが見える。実際に太陽の神殿には壁が 2 つつくられていて、夏至と冬至が区別でき るようになっている。 建設が困難と思われるこの尾根に、これら の遺跡群をつくり上げた古代インカの人々 の執念を思う時、ただただ感動を覚えるの である。 (写真・文:古市徹雄)
建築家
a r c h i t e c t s
特集
建築・都市
の
パラダイムシフト
———
ライフスタイルの転換
⓱
王澍(ワン・シュー)氏に聞く
中国で最も美しい町と言える杭州
古市●本日はお忙しいところインタビューを引き受けて 下さり、ありがとうございます。私たちはこれまで建 築・都市のパラダイムシフトというテーマで特集を続け てきました。 いま杭州にある王澍(ワン・シュー)さんが教鞭を取ら れる中国美術学院にうかがっています。私はいまから約 30年前の1983年に杭州を訪れたことがあります。当時、 まだ開発が進んでいなくて、通りの両側には木造家屋が 並び、並木があり、大変美しい街並だったと記憶してい ますが、今では高層ビルが立ち並び、古い景観は失われ てしまった感じがします。 王澍●でも、西湖の周辺のエリアでは今でも昔からの街 並が残っていますよ。 古市●しかし、駅周辺エリアの中心街は完全に変わって しまいましたね。 王澍●そうですね。少なくとも当時に比べて街は10倍 の大きさになり巨大化しています。ただ、いま言ったよ うに湖の周囲にあるエリアに行くと、まさにそこはかつ ての杭州の風景が残っています。それらは大体市域の 20%くらいで、残り80%が非常にモダンな街になって います。私は車の運転はしないのですが、家内の運転で 街の西の方に行ったとき、どこまで行っても街が続いて いて高層ビルや大きな建物が連続していました。そのよ うに杭州は拡大を続けています。あえてアマチュアの
技術にこだわり建築をつくる
中
国人建築家として初めて、2012 年にプリツカー賞を受賞した王澍(ワン・シュー)氏。昨今目覚まし
い経済成長を遂げ、大都市に次々とハイテク建築がひしめく中国にあって、伝統的な建築材料・手
法でつくられた王澍氏の建築は、それらとは一線を画しています。そこにはこれからの私たち建築家が目
指すべき建築のヒントになるものが数多くあると感じます。
(『JIA MAGAZINE』編集長 古市徹雄)特集
建築・都市
の
パラダイムシフト
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ライフスタイルの転換⓱
古市●ところで、王澍さんは中国のどちらのご出身です か? 王澍●私は新疆ウイグル自治区ウルムチに生まれました。 古市●どうして杭州に事務所を開設したのでしょうか? 王澍●私が生まれたところは砂漠地域で、ほとんど水も 木もないところでしたが、ここは美しく豊かな緑と水に 恵まれています。30年ほど前に、たまたま旅行でここに きたときに、湖のほとりに滞在し、その美しい風景に感 動しました。水も緑も本当に綺麗でした。それは私の故 郷には無いものだったのです。 古市●同感です。杭州は中国でも、いや世界でも最も美 しい街の一つといえますね。 王澍●そうですね。ここはまさに自然が作り出す力を強 く感じさせてくれます。 古市●杭州はかつて、高度な文化が栄えた南宋の首都、 臨安でした。当時、日本から多くの学生や僧侶たちが、 書道、芸術、仏教を学習するためにここに派遣されまし た。そういうこともあり、日本では杭州はよく知られた 街です。 王澍●杭州は昔から日本と深いつながりがありますね。プロへの批判を込めて付けた事務所名
古市●震災前の日本は機械やコンピューター、最新の技 術を駆使して突き進んできましたが、震災後、我々は人 と人との繋がりや、本当の幸せとは何なのか、歴史・文 化とは何なのかを考え始めました。現在のようにコン ピューターで何でもできる時代になって、人と人との繋 がりが失われるのではないかという問題も起こるのでは ないかと危惧し始めたのです。 そんな時代にあって、私は王澍さんの仕事を大変興味 深く思っていました。最初に私が「業餘建築工作室(ア マチュア・アーキテクチャー・スタジオ)」という王澍さん のオフィスの名前を見た時には衝撃を受けました。とい うのも、現在中国ではコンピューター技術を駆使した現 代的な建物が次々と建てられているのに、どうしてその ようなオフィス名を付けたのでしょうか。 王澍●私たちは現在中国でつくられている現代建築や、 現代都市のデザインに用いられているようなコンピュー ター技術を使わないことにしています。 このところずっと、中国の多くの都市では現代的で巨 大な建築が求められています。そのためには、よりプロ フェッショナルな技術が必要です。でも私はそれが正し いとは思いません。新しい建築や新しい都市によって、 人々は人間らしい生活との関わりを失ってしまいました。 古市●それは伝統的な人間の関係や社会との関係のこと ですか? 王澍●そうですね。でも現在の中国人は、そういったも のとは異なる、便利なモダンライフを望むようになって きています。 私は旅が大好きで、これまで中国の田舎や、地方の集 落や街並、人々の生活など、旅を通じてさまざまなリ サーチをしてきました。そして地方の人々は、未だに素 晴らしい伝統的な生活を営んでいることを学びました。 建築に関しても、いろいろな工夫やアイディアを発見で きました。私から見れば、現代建築は退屈になる一方で、 それはプロフェッショナルな建築家や都市計画家に責任 があるのではないでしょうか。ですからそれが、私がア マチュアという言葉を好んで使う理由なのです。コンピューターで考えた建築の落とし穴
古市●王澍さんは、コンピューターが作り出す自由な形 態による現代建築をどのようにお考えですか? 現在の 一般社会では受けますが、私にはあまり意味が無いもの と思えます。 王澍●流行のファッションのようですよね。コンピュー ターでは、いとも簡単に設計ができてしまいます。そう すると実際に建築が簡単につくれるとつい思ってしまい がちですが、それは錯覚や勘違いによるもので、現実の 世界ではそれらは意味をなしません。実際の現場では施 工が難しく、時には不可能なものになってしまいます。 そのことに関して印象的なできごとがありました。そ れはシンガポールで学生のための超高層アパートのコン ペの審査員をした時のことです。私は中国人の学生がデ ザインした2つの案を選びました。1つの案はコンピュー ターによってつくられたもので、強いフォルムを持っ た山の頂上にデザインされたものでした。もう1つは敷 地に忠実にランドスケープを取り入れた案でした。結果 的にそのランドスケープ案が選ばれましたが、全ての審 寧波歴史博物館(2008 年)査を終えたあとに学生達が私達審査員のところにやって きて、山の上の案の方がいいじゃないかと主張し議論し ました。しかし、山の上の案は敷地や周囲環境を全く考 慮していない案だったのです。けれども学生達はコン ピューターが作り出した新しい形態に惹かれたようでし た。今やそのようなコンピューターによる造形が主流に なってしまいました。
事務所でのコンピューターの使い方
古市●王澍さんは、事務所でデザインをする時どのよう に進めるのでしょうか。手描きですか、それともコン ピューターを使うのでしょうか? 王澍●私はコンピューターを使うことは好きではなくて、 鉛筆を使います。そして数多くの手描きのスケッチと 図面を描いていきます。模型も作りません。(スケッチ を見せながら)本当にこのようなスケッチだけなのです。 模型を作るとしてもそれは設計あるいは工事が完了した 後です。 古市●スタッフはどうなのでしょうか? 王澍●彼らは全員コンピューターを利用しています。そ の一方で紙で図面を描きますし、模型も作ります。通常 私の事務所の仕事の進め方は、私が詳細まで含めたかな り綿密に描いたスケッチや図面を渡すと、彼らはまるで 翻訳者のように、それらのスケッチをコンピューターに よる図面に置き換えてくれます。 古市●それはいいですね。フランク・O.ゲーリーは時々 自分の手で模型を作るそうですよ。その模型をスタッフ がコンピューターで形をコピーし図面に落とし込んでい くそうです。 王澍●私の場合はスタッフがコンピューターを使うにし ても、私の手描きのスケッチを完全にフォローできるよ うな使い方をします。例えばコンピューターのデータの 中に私が気に入った仕上げ材をコピーしておき、また図 面を作る時にも現実的な仕上げの表現を貼り合わせなが ら、コンピューターの中でできるだけ正確な詳細図を作 成し、現実に近いものに作り上げていきます。 つまり、私たちはコンピューターで仮想の建物を作っ ているのです。 古市●それなら施工する大工さん達にも簡単に理解して もらえそうですね。 王澍●我々の図面は製作図のようなものです。それもア イソメの表現にして工事の段階ごとに、どのように作ら れていくか、図面化します。 古市●まるで現場で建築が作られていくように、段階を 追って非常にわかりやすく表現するのですね。それで、 王澍さんの建築では、かなり正確な納まりができるわけ ですね。事務所は小規模なままで
古市●先日、寧波歴史博物館(2008年)を拝見しました。 煉瓦、コンクリート、そこに納まる建具、あるいはそれ に関連する様々な詳細の部分が、とても正確にできてい ました。 王澍●中国では設計時間が充分もらえないことが多いの ですが、私は上手くやっている方だと思います。でも、 どのようにやるかは秘密です(笑)。私は施主と打ち合わ せをする場合、デザインに3ヵ月時間を下さい、その代 わり3ヵ月経ったら工事を始めてもいいですよと頼みま す。でも、時々3ヵ月で完全に設計を終わらせることが できないときがあります。そのときは現場の工程に合わ せてさらにデザインを詰めていきます。 古市●工事とデザインが同時進行ということですか。工 事中にもかかわらず、まだ図面を描いているということ でしょうか。 王澍●そのような状態で現場と平行しながら1年間もデ ザインを進めていくことがあります。納得いくものをつ くるには、とにかく時間が必要ですね。 古市●それは同感です。 王澍●本当に良い仕事をしたいのなら、このスタイルで やる必要があると思います。 古市●中国に限らず、大手の事務所では常に効率的に設 計を行い、時間を短縮しようという傾向があります。 王澍●残念ながら中国の施主はまだ、本当にいい建築は 何かということを知らない人がいます。そういう人は大 概3ヵ月でデザインを終えろと言うものですから、設計 事務所は3ヵ月後には図面を提出して工事がスタートし ます。でも実際にデザインが終了しているわけではあり ません。しかし、そういう事務所は施主に対して何も言 いません。そのため施主も理解できないことがあるので す。 寧波歴史博物館(2008 年)特集
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古市●一般の人々が建築の図面、例えば平面図や断面図 などから建築を理解することは難しいことです。しかし 王澍さんがやられているように、工事の段階をわかりや すく表現していく方法を取るなら理解することも可能で しょう。 王澍●私が設計した寧波歴史博物館の例ですが、施主は 大変面白い人でした。彼は建築工事に関して多くの経験 があり、彼に「他の一般的な会社だと縮尺100分の1く らいの図面で終えることが多いのに、あなたの事務所は なぜそんなにたくさん図面を描くのですか」と聞かれま した。私の事務所では、多くの図面を描くことは普通の ことなのです。 古市●しかし、図面が増えるとコストも増えますね。 王澍●そうですね、私の事務所が小規模のままなのは、 コストの問題が理由でもあります。もし事務所の規模が 大きかったら、維持できないでしょうね。 古市●現在事務所のスタッフは、何人ほどいるのです か? 王澍●10人程度で、かなり小規模です。 古市●中国には、時々スタッフが2,000~3,000人とい う大規模な事務所があるなか、王澍さんの事務所では経 営に頭を悩ませることはありませんか。大抵の建築家は 資金繰りと経営にいつも頭を悩ませていると思います。 王澍●私にとってはいまの事務所の形態が、一番いい方 法だと考えています。事務所が大きくなると巨大なプロ ジェクトをこなす必要が出てきますが、10人程度ですと そんなに大きなプロジェクトは必要ない。私達の事務所 は毎年、人が入ったとしてもスタッフは全員合わせて 10人以内に抑えています。そうすると、年1つか2つの プロジェクトがあれば十分なのです。 古市●そうするとスタッフとも関係が密になりますね。 だからスタッフはあなたの描かれたスケッチの意図や考 え方を充分理解してくれるのですね。伝統的な煉瓦を再利用した寧波歴史博物館
古市●王澍さんの設計された建築には、どことなく中国 の伝統的なものを感じます。 例えば寧波歴史博物館。うまく言えませんが伝統的な ものを直接引用するのではなく、それでいて王澍さんの オリジナリティ、そして中国らしさを感じます。それは どのようにして生まれてくるのでしょうか。 王澍●非常に簡単なことです。まず、よい設計をしよう とすることです。設計の際には私はすべての決定を行い ます。そしてデザインには明確な理由が求められます。 それは私にとって重要なことです。例えば、私が寧波歴 史博物館を設計したとき、重要なテーマは「伝統」でし た。しかし、現在は残念ながらそのような歴史や生活は 失われつつあります。私が設計を始め敷地を訪れたと き、周辺に非常に美しい場所を見つけました。それは古 い村でした。しかし村の人々は古い建物を壊していまし て、私が人々に尋ねると、この地域にはそのような村が 30ヵ所ほどあったのに、残されていたのはそれが最後 のものだと説明してくれました。伝統が消えようとして いたのです。私は古い村の記憶を残すために、それらを 何とか再建できないかと考えました。村の人たちに聞い ていくうちに、この地域独特の素晴らしい伝統技術を見 つけました。それは材料を再利用するということです。 このエリアでは、夏に大きな台風がきて、それによる 建物の倒壊もあります。すると農民たちは、本当に上手 にそこにある材料をもとに建物を再建していくのです。 それは大変美しく、どの建物も建築としても傑作でした。 私はこれを使おうと決めました。だから寧波歴史博物館 の外装に用いられた煉瓦の積み方は私が開発したもので はないのです。そして工事が始まる前に、これらの煉瓦 をできるだけ集めてくれるよう、お願いしました。 古市●寧波歴史博物館では外装に黒い煉瓦が大量に使わ れているのを見ました。それらは村から集められたもの の再利用なのですね。 王澍●しかし、再利用と言っても単なるリサイクルでは ありません。私は、さまざまな種類や大きさの異なる伝 統煉瓦を組み合わせて、いかにデザインや建築そのもの をつくり上げていくかに興味がありました。そのように さまざまに異なるものを一緒に組み合わせるのは中国的 な伝統だと思います。 古市●その方法は地域ごとに異なるのでしょうか。 王澍●ひとつの地域内でも多くの違いを見つけることが できます。例えば建築材料では、ちょうど寧波歴史博物 館でも使いましたが、40種類もの煉瓦のサイズがありま した。それらは見え方も異なっています。 屋上に立ち上がっているいくつもの棟には、少なくと も20種類以上の煉瓦が使われています。色も、大きさも、厚さも異なり、驚くほど違った種類があります。
伝統技術を残すには
王澍●工事は村の人達がやりましたが、何も問題なく、 非常に美しく仕上がりました。 古市●村の農民たちなんですか。 王澍●はい、素晴らしい才能だと思います。私の親しい フランスの友人も言っています。この村の農民は世界で 最も才能溢れる人たちだと(笑)。 古市●彼らは常にリサイクルを行っていて、技術が伝承 されているわけですね。 王澍●そうです。彼らにとってはいつも実践しているこ となのでしょう。 古市●王澍さんのオフィス名が「アマチュア」というよ うに、実は施工をした農民は、アマチュアですが実は仕 事はプロフェッショナルと言えるわけですね。 王澍●しかしそのような技術者は減少傾向にあります。 古市●非常に優秀な伝統技術が失われつつあるわけです ね。どうやってそれらを残していけば良いとお考えです か? 王澍●いま、それらを残していくための試みが行われて います。ただ技術を継承するだけではなく、例えばイタ リアのタイル技術者と、お互いの伝統を融合させて共同 で研究するとか。伝統技術をどう残すか、それは中国に おいて非常に難しい問題です。 私が考えることとして、例えば煉瓦の場合、1つの方 法として、私あるいは他の建築家が自分のデザインに大 量に使用することにします。すると現場ではそれを施工 する煉瓦職人が必要になります。つまり職人達はより実 践する機会を得ることができるわけです。そのような機 会が失われると伝統技術も失われます。 また他の方法として、教育に関しても考えなければな らないと思っています。しかし、それは非常に困難なこ とです。何か手を打たなくてはいけないと、ある学校で 伝統技術を若者に教える試みが行われました。そのとき は授業料も宿舎も食事も無料で学生を募集しましたが、 そんなにいい条件なのに学生はほとんど集まりませんで した。 古市●工事の現場の仕事は大変だからでしょうか。 王澍●そうですね。そういう仕事を若い人はやりたく ないものです。しかし私には別のアイディアがありま す。それは私が教鞭をとっている大学(中国美術学院)で、 伝統技術を含めた実践的な教育を行うことです。友人の 何人かは「それは良いアイディアだ」と言ってくれます。 古市●王澍さんが教えている中国美術学院では、伝統的 集落や古い街の調査をしていますか? 王澍●最新の現代建築デザインを教える一方で、地方の 古い集落の調査を同時並行で行っています。 古市●調査は、例えばどこに行かれるのでしょうか。中 国国内ですか? 王澍●中国のたくさんの場所を調査しましたが、特にこ の近くである杭州周辺の調査が多いです。私は学生に幅 広い考え方を持ってほしいと思っています。中国につい て、世界について。そして同時に、ある特定の地域に関 しては非常に深く考察してほしいと考えています。 古市●それがここ杭州になるのですね。それは重要なこ とだと思います。手と体を使う教習
古市●中国美術学院ではいつから教えていらっしゃるの でしょうか。 王澍●2001年に中国美術学院の中に新しい建築学校が 設立された時に教授になりました。 古市●それが、ここ杭州の建築芸術学院ですね。 王澍●2007年からは、私が院長を務めています。 古市●学生に対し、どのような建築の教育をされている のでしょうか。 王澍●私は学生に実際に建てるという経験をさせたい と考えています。例えば、入学してから最初の3年間は、 手や体を使った実際の製作をさせるようにしています。 古市●3年間もですか。それは非常に大切なことだと思 います。 王澍●1年目の半分は大工の技術を学ばなければなりま せん。 中国美術学院象山キャンパス(2004、2007 年)特集
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古市●それはすばらしいですね。例えば家具を実際に 作ったりもするのですか? 王澍●そうです。2年目はどのようにして伝統的なレン ガを積んでいくかなどの体験をします。そして地方の古 い集落において、膨大なスケッチを描きながら多くの調 査を行います。 学生たちには手や体を使ってリアルな体験を通じて、 実際の現場でどのように建築がつくられていくのかを学 ばせます。 古市●学生に工事現場や実施図面などを見せて学ばせて いるわけですね。非常に重要なことを学生に教えている と思います。それは王澍さんが言うようにコンピュー ターによってCGを作ったり図面を描くのは非常にたや すいのですが、実際の現場でそれをつくることは非常に 難しいことだからです。いま世界中で一般的な大学の建 築教育の場では、イメージやコンセプチュアルな教育が 中心です。 王澍●そうですね。頭で考えるイメージや言葉を使った 教育です。Too much image. Too much talking.(笑) 古市●ところで、建築芸術学院には杭州だけでなく、他 の地域からも学生は来ていますか? 王澍●はい。しかし、学生の半分はこの地域の出身者で す。 古市●王澍さんご自身の生活の中で、教育と設計の仕事 の割合はどのくらいでしょうか? 王澍●教育とデザインの仕事だけでなく、展覧会、講演 のための旅行もありますので、3分の1ずつの割合です ね。 古市●それでは、1年のうちの多くの時間、国外にいらっ しゃることも多いのですね。差異をデザインする
古市●寧波美術館(2005年)を拝見した際に、空間が非 常にダイナミックだと感じました。私が想像するに、断 面の検討に多くの時間を割いているのではないかと思い ましたが、いかがでしょうか? 王澍●私は設計は平面からではなく、断面の検討から始 めます。断面とは内部空間を意味します。空間デザイン と同時に人がどう動いていくのか、どこで休むのか、仕 上げはどうするか、ここの部分の空間はどうなっている のか、そしてここは、さらにここは、とそれぞれの部分 部分のイメージを検証しながら設計を進めていきます。 私の建築では内部空間が最も重要と考えています。 古市●なるほど、そうなのですね。 王澍●そういうイメージと、それを実現する施工法を同 時に考えていきます。 古市●寧波美術館では、天井が非常に低いところがあっ たり、反対に非常に高いところがあったりします。設計 の段階で王澍さんがイメージされていた空間と、実際に 竣工した建築の空間はほとんど同じでしょうか。 王澍●かなり近いと思います。それは体感で得たスケー ル感がベースになっている一方で、空間構成、イメージ はさまざまな場所で見た空間の関係性が大きな助けにな ります。例えば中国の庭園で見た小さな石ころが、どの ような形・色・質感で山の表現をつくり出していたかを 脳の訓練によって記憶することができ、それを実際の設 計に応用することができます。 古市●つまりさまざまな調査・体験を通じて、王澍さん は実際の寸法感覚を磨いているわけですね。寧波美術館 を訪れた際、屋根の造形や、さまざまな建物が立ち並ぶ 姿が、伝統的な集落のように感じられたのですが、どの ようなイメージで設計されたのですか。 王澍●私のデザインにおけるキーワードは「差異」です。 それぞれが同じように見えながら、違いを持っていると いうことです。 古市●大きさや素材もそうですね。 王澍●スケールでもさまざまなスケールが組み合されて いくと表情が豊かになります。伝統的文化をデザインし直す
古市●今回、王澍さんが設計された中国美術学院の象山 キャンパスを見に行きました。ここで教えていらっしゃ るのですか。 王澍●そうです。中国美術学院は、国内で最も大きな規 模の美術大学ですので、学科も多く、いくつかのキャン パスに分かれています。象山キャンパスは、第1期(2004 年)、第2期(2007年)に分けて完成しました。 古市●キャンパスの中でさまざまなタイプの建築があり、 王澍さんのデザインした校舎にはいずれも中庭がありま した。中国の伝統的な庭園、そして中庭は非常に美しいと思います。しかし、この象山キャンパスの中庭ももち ろん美しいのですが、中国の伝統的な中庭をそのまま表 現したものではなく、伝統を現代的に翻訳したデザイン だと感じました。伝統的中庭について王澍さんはどのよ うにお考えですか? 王澍●伝統的中庭は明確な意味を持ったものです。しか し、私にとっての中庭は生活の場と考えています。中庭 は本来、人々が思考したりする場所で、そこは小宇宙で あり平安な場所を意味していました。しかし、現在その 意味や感覚は失われつつあります。そこで新しい意味を 探す必要があり、私は伝統的な文化をデザインし直した いと思いました。伝統的な中庭を、より興味深いかたち で新しく見せることができたら、伝統はまた違う意味合 いを持ち始めることでしょう。 例えば、伝統的中庭は四方が閉じていますが、この建 築のように一方を開くことで新しい空間を生み出します。 古市●まったく新しいデザインが生まれるわけですね。 水に対して開いたりすることは、空間のデザインですね。 王澍●確かに空間のデザインですが、「空間デザイン」と いう言葉は抽象的過ぎますので、私は「場所」をデザイ ンすると考えます。場所にはさまざまな記憶が埋め込ま れています。 古市●キャンパスは丘の上に位置していて、平らではあ りません。普通、中国の伝統的な庭園は平らです。しか し、王澍さんが設計したこのキャンパスは自然の地形に 合わせ、建物の配置においても一つひとつ自由な角度で 配置されています。 王澍●設計する前に敷地を訪れたとき、池があり、木々 があり起伏がある場所だと確認しました。 古市●水盤がありますが、既存のものですか?あるいは 新たに設計したものですか? 王澍●既存のものです。 古市●だから自然と調和しているのですね。 王澍●極力、そこにある丘、池、川を残してデザインし ました。そのために建物の距離が離れていて歩く距離が 増え、学生や教員たちに不便をかけさせているかもしれ ません(笑)。
7 年間の空白を越えて
古市●ところで、王澍さんが設計事務所を設立したのは いつですか? 王澍●1997年です。1985年に南京市の南京工学院を卒 業しましたが、その後は修士に進んだり、現在の中国美 術学院の前身である浙江美術学院などで、事務所を設立 するまで建築の研究をしていました。 古市●そのころ多くの中国の若手建築家はコンピュー ターによって特異な形態を生み出す、いわゆる「ファッ ション建築」を指向していたと思います。潮流に従うの は極めて自然なことですが、王澍さんは完全に別の道を 選んでいますね。 王澍●1990年位から6、7年間ほど建築設計をやめた時 期がありました。当時、私は湖の周りや山を歩いたりし ながら、私が未来に対してできること、やるべきことは 何だろうかと考えていました。 古市●7年間もですか。南京工学院を卒業してからは建 築の設計を始めたのですか? 王澍●そうです。しかも私は卒業してすぐに大きな仕事 を得て、超高層ホテルを完成させました。若手建築家と してはすばらしい成功だったと思います。 しかし、大きな作品を設計したあと、これで良いのか 自問し始めたのです。そして自分の将来のことを真剣に 考えるようになりました。 そして杭州市に移って書に取り組んだり、本を読んだ り湖や山を歩き回り、浙江美術学院に勤めて研究をして、 自然の中で考え続けました。当時都市部の建築家はとて も忙しそうで、多くの建築家が大金を稼いでいました。 しかし、私は約7年間、仕事をするのをやめたのです。 古市●そのことが、あなたが他の建築家と一線を画する 理由なのですね。 王澍●でも、もしかすると、愚かだったのかもしれませ ん。なぜなら、その7年間で自分の考えが明快になった わけではありませんでしたから。 古市●王澍さんは、子供のころ芸術家になりたかったと 聞きました。しかし、ご両親はあなたに技術者になって ほしかったのですよね。ご両親も技術者なのですか? 王澍●私の父は音楽家で、母は教師でした。 寧波美術館(2005 年)特集
建築・都市
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ライフスタイルの転換⓱
古市●では、お父様の影響が大きかったのですか? 王澍●いいえ、むしろ母の影響の方が強かったと思いま す。母は私に文学を教えてくれました。その影響で多く の本を読みました。 古市●どのような本ですか? 王澍●哲学書、小説、詩集など多くのジャンルです。そ して海外の本で中国語に翻訳されたものも多く読みまし た。老子の哲学から学んだこと
古市●私は老子に非常に興味がありますが、王澍さんは いかがでしょうか? 王澍●私もそうですね。 古市●老子の哲学はとても難しいですよね。 王澍●実際にはそれほど難しくありません。とても単純 で、とても深い考え方です。 古市●例えば、老子は王澍さんの考え方にどのような影 響を与えましたか? 王澍●大事なことは、自由であるという考え方です。私 たちが何かをコントロールしようとしても完全に行うこ とはできません。ほんの少しで十分ですが、規則を与え れば、あとは自然に進んでくれます。 古市●自然たれということですか? 王澍●自然とはほんのちょっと接触していればよいので す。それで自然との関係は保たれるのです。 古市●すばらしい考えですが、非常に難しい考え方です ね。 私は王澍さんのデザインの中に自然を尊重する姿勢を 感じました。北京の都市部にある超高層ビルが空調など による人工環境であるのに対し、王澍さんのデザインで は自然光や自然通風を積極的に取り入れているからです。 自然をどのようにデザインに生かしていますか? 王澍●中国の哲学では自然は重要なものであり、そして それを崇拝することは中国の伝統です。自然は建築より 大切なものであり、私たち人間の行為より大切なもので す。つまり、あらゆるものをデザインする際に、自然を 表現する態度を示すことが重要だと思います。 アーバンデザイン計画では特に高さの指定はありませ んが、私たちはまず低層を考えます。多くの超高層ビル が都市部に林立するのに対し、私たちの設計する建築の 多くが低層の建築なのは、自然への敬意を表す態度でも あります。自然復興のルネサンスをめざす
古市●いま中国は急激に変化していると思います。以前 は超高層や現代建築が隆盛を誇りましたが、いま王澍さ んだけでなく何人かの建築家が伝統や中国の文化につい て考え始めています。日本においても同様で、私たちは 近現代化の中で多くの文化を失ってきました。 そこでこれは非常に難しい質問ですが、未来に対して、 例えば豊かな中国の伝統文化がどのような意味をもつと お考えですか? 王澍●中国は素晴らしい伝統文化を有している一方で、 多くの西洋の科学・技術などを導入してきました。それ らは伝統文化を抑制するもので、東アジアの国々では 徐々にアイデンティティ、自信、そして多くの伝統文化 が失われてきました。 そこで我々建築家の職能をもう一度問い直してみる必 要があるのです。本当に我々が必要なものは何か、何を 求めていくのか等を真剣に考えることが大事なのだと思 います。 古市●20世紀までのヨーロッパは、技術や産業によっ て自然をコントロールしてきました。そして21世紀の 現在、私たちは地球環境問題に直面しています。そこで 自然の中でどう生きるか、どう付き合うかが大きなテー マだと思います。 王澍●そうですね。それに対して老子は最も優れた考え 方をしています。老子の言う自然とは、地球の自然、物 理的な自然です。そこにヒントがあるかもしれません。 古市●最後に、王澍さんはこれから、建築の作品を通じ て、どのような方向へ向かっていきたいと考えています か? 王澍●私は自然のルネサンス、つまり自然の再生を求め ていきたいと思っています。自然復興運動のルネサンス です。 古市●なるほど。今日、王澍さんの生い立ちやお話をう かがう前に王澍さんの作品群を拝見しましたが、杭州に 魅せられて7年間も野山を歩き回り、自然の中でずっと 考え続けてこられた上でこれらを実践されたことを知り、 王澍さんをよく理解することができました。 王澍さんの今後の活動を期待します。本日はお忙しい 中、ありがとうございました。 (2013年7月29日 中国・杭州 中国美術学院にて収録) 王澍(ワン・シュー)建築家 1963年 中国新疆ウイグル自治区ウルムチ生まれ 1985年 南京工学院(現東南大学)卒業。1988年に同校で修士号を取得 その後、杭州市に移住 1997年 業餘建築工作室設立 2000年 上海市の同済大学建築・都市計画学院で博士号を取得 2001年 中国美術学院建築芸術学院教授。2007年より院長を務める 2012年 プリツカー賞受賞 おもな作品に、寧波美術館(2005)、中国美術学院象山キャンパス(第1期 2004、第2期 2007)、寧波歴史博物館(2008)、杭州南宋卸街博物館 (2009)、上海万博・寧波滕頭館(2010)代々木体育館ができるまで
シンポジウム
司会:古市徹雄(『JIA MAGAZINE』編集長) 今年 2013 年は丹下健三生誕 100 年。6月25日に、建築家会館ホールにて、建築家・神谷宏治氏と構造家・ 川口衞氏による対談「代々木体育館ができるまで」が開催されました。早々に参加希望者が定員 200 名に達し、 会場では参加者全員が熱心にお二人の話に耳を傾けました。ここでは、シンポジウム後半の質疑応答を中 心に、建築家丹下健三の知られざる面や代々木体育館が完成するまでのエピソードをご紹介します。 わかればどこの国の人間でも設計できますが、代々木は日本人で ある丹下先生だったからできたデザインではないでしょうか。印象的だったこと
古市■意匠設計チームと構造設計チームで頻繁に打合せされたと 思いますが、印象に残っていることは何でしょうか。 純粋で熱い丹下先生 川口●神谷さんは大人ですから、打合せのときも、お互いにクー ルに話していましたが、丹下先生はもちろん大成された方なので すが、いわゆる親分肌で包容力があるタイプというのではなくて、 非常にシャープで純粋な方でした。 絶対に「できない」と言わない 神谷●我々が坪井研究室に、「こんな形でやりたい」と話をすると 必ず「できる」と言う。その次にまた会って、「こんなものをやっ てみたい」というと、それも「できる」と言う。「できない」とは絶 対言わないのです。それが非常に印象的でしたね。 川口●一般の建築家の方に比べると丹下先生は、構造に関して非 常に知識が豊かで世の中の構造がどう進んでいるかという嗅覚も 発達していました。その上で質問されるので、質問のレベルが非 常に高いのです。もちろん我々は世界の構造デザインのレベルや、 どこにどういう難しさがあるか知っていますが、丹下先生は、「こ んなことはまだ君らにはできないだろう」と言わんばかりの質問 をしてこられる。「世の中の構造のレベルをちょっと超えた注文 をすると、こいつらできないんじゃないか」といわんばかりの雰 囲気なんですね。こちらも若いですから、「それならやってやろう じゃないか」となって、「できる」と言ったのでしょうね。設備設計と施工について
古市■今回は、意匠・構造のお話をうかがいましたが、設備と施 工についてはいかがでしたか。 大口径のノズルで空調 神谷●設備は早稲田大学の井上宇市先生のチームが担当されまし た。最初に井上研が提案してきたものは、空調は各天井面にダク トを這わしてそこから吹き下ろすものでしたが、それだけは絶対 やめてほしいとお願いしました。何か他に良い方法がないかと尋 ねたところ、研究室の一員だった尾島俊雄さんがたまたまその当 時アメリカから帰られて、ノズルによる吹き出しのシステムを持 ち込まれた。この大口径のノズルによって、主体育館内の空気調 整をするシステムを導入しました。 2本のメインケーブルの必然性 参加者1■どうしてメインケーブルを横開きにしたのでしょうか。 神谷●最初は1本のケーブルで通すことにしていましたが、始め てから3ヵ月頃、実施設計が進んだ段階で、照明や換気などの設 備関係を分散するか集中するかという議論が出てきました。ケー ブルが1本の案では、常識的には分散することになりますが、集 最初に、丹下健三のもとで建築意匠設計を担当した神谷宏治氏と、 坪井善勝のもとで構造設計を担当した川口衞氏のプレゼンテー ションが行われました。 「代々木体育館への足跡」(神谷宏治) 神谷氏は、丹下氏の代々木体育館以前の作品を紹介しました。 丹下氏は当初から建物の構造の美しさを極限まで追求する姿勢 を貫き、日本的なデザインを意識し、日本の伝統的な木構造の組 み方をコンクリートで表現しました。また「東京計画1960」では、 長年蓄積してきた都市計画の研究と、さまざまな建築的な手法と デザインをまとめて一つの計画案として発表しました。 それらの作品の経験を経て、1964年に丹下氏の代表作、代々木 体育館が誕生します。最終的なデザインに至るまで何度もスタ ディを重ね、当初の計画案では1本だったメインケーブルが、の ちに2本の紡錘型のケーブルになり、その上に、照明器具や換気、 採光などの設備が載るという現在のイメージにつながりました。 「クリアされた6つの難問」(川口 衞) 川口氏は、代々木体育館について、世界の大空間デザインの流 れの中での位置づけや、構造設計は吊り橋を参考に行われたこと を話しました。また、構造設計の際に直面した6つの問題点(① 適合するケーブルネット曲面が得られない②基本式がないセミ・ リジッド③ケーブルの横開き④届かないセミリジッドメンバー⑤ 回転可能ジョイント⑥耐風設計)を、いかにして解決していった かを説明しました。 そして、施工中・または完成後に直面する問題をどこまで予見 して設計できるかが、構造設計において非常に重要なことであっ たと語りました。 プレゼンテーションのあと、司会の古市編集長からの質問と会場 からの質問に神谷氏と川口氏が応じました。日本人ならではのデザイン
古市■構造設計を担当された川口先生からみて、代々木体育館の デザインについてどのように感じますか。 川口●東京オリンピックの8年後、1972年のミュンヘン・オリン ピックの競技場は、フライ・オットーとフリッツ・レオンハルト の組み合わせでつくられました。代々木体育館と比べると、両方 とも張力構造の合理性を用いてデザイ ンしていますが、結果は全然違います。 代々木は伝統的な日本の造形が入っ ていますが、ミュンヘンは張力構造を 使うとこんなこともできるという張力 そのものの造形と言えるかと思います。 つまりミュンヘン競技場は、理屈が[神谷宏治⊠川口 衞]
井先生はどのような会話をされていたのでしょうか。 川口●坪井先生は言うまでもなく私の恩師で、当時私は東大生産 技術研究所の坪井研究室の研究員という立場で、坪井先生のも とでこの設計をしました。坪井先生が非常にお忙しいときだったこ ともありますが、丹下先生とは対照的で任せるのです。当時私は 28歳でしたが、「こんな若造に、こんな大事な仕事を任せて心配 ではないのか」と感じながら、だからこそこれは間違ってはいけな いと思って取り組みました。もちろん今日お話ししたような大事な 問題は、その都度必ず坪井先生に報告しましたが、非常にスムー ズに仕事を進めることができました。主体的に仕事ができるよう な雰囲気と体制をつくっていただいたことが非常に嬉しかったです。
日本の建築教育の良さ
意匠・構造・設備の基礎知識を共有できる 神谷●この建物の設計では、デザイン・構造・設備、それと芸術 も含めて参加者が極めて密接な形でお互いの意見を率直にぶつけ てお互いに影響し合い、一緒に考えたという成果が非常にきれい に表れました。これは日本の建築教育のひとつの成果だと思って います。我々が建築学科に入ると、構造や設備の授業も必ず受け て単位を取る、先生方もお互いに、誰が何をやっているか理解し 合っている。そういう日本の大学教育の影響がこの空間の中に ぎゅーっと結晶のような形で凝縮されていると思います。 海外の場合は一体的な共同作業があまり行われなくて、建築家、 構造家、設備家がお互いばらばらに、なるべく相手の領域を侵さ ないような形で協力し合っています。 学校教育あるいはそれに伴う設計の考え方が、海外と日本では 違っていて、日本のこの特徴のある建築教育システムを今日認識 し直す方が良いと思います。だんだんそれが海外の形のようにな りつつあると聞いていますが、これからも一体的な教育システム を維持していくことが大事ではないでしょうか。 川口●私も同感ですね。アメリカの学生を教えてつくづく感じま したが、アメリカの建築の学生で構造を知らないというと、本当 に何にも知らないのです。少なくとも日本にはそういう学生はい ませんでした。それはやはり建築学科が工学部にあったからなの でしょう。必修ですから意匠の設計をやりたい人でも、構造の授 業を聞かざるを得ない。これが日本の建築教育の特徴で、よく外 国の建築家やエンジニアと話をして出る話題でもあります。つま り日本のエンジニアとアーキテクトは、少なくとも同じボキャブ ラリーで話ができる。これがヨーロッパやアメリカでは難しいの です。ですから、丹下×坪井チームの打合せについてもお互いに かなり高いレベルで話ができたのだと思います。 古市■本日は、貴重なお話をたくさんうかがうことができました。 ありがとうございました。 中した方が設備上も管理上も効率が良いのです。でも構造設計は どうかわからないから、「こういうのはどうですか」と2本のケー ブルの案を見せて相談すると、「できる」って言うもんですから ……。それならやってみようということで、ケーブルを2本にし て、そこに設備関係を全部入れ込みました。ですからそこには、 迷いがあり対話があり、その結果、成功があったのです。 1年以上縮まった設計施工期間 古市■設計期間が非常に短いことはいかがでしたか。実際に現場 に入ってもずっと設計が続いたそうですね。 神谷●国がアメリカから土地を戻してもらう交渉に時間がかかり、 設計施工期間が1年以上縮まってしまったのです。それがしわ寄 せになって、設計と施工がほとんど入り交じってしまい……。で もオリンピックに間に合わないと何の意味もないですから……。 施工を引き受けた清水建設も大林組もずいぶん苦しい立場に立っ て、みんな徹夜の連続で頑張ってくれました。若い力を結集して
古市■当時設計が始まった段階で丹下先生は40代後半、神谷先 生は30代、川口先生は20代でした。若いスタッフがこれだけの 仕事をしたということは驚きですが、そのチーム体制についても う少し詳しくお話ししていただけますか。 自由に意見がぶつけ合える環境 神谷●URTEC(都市・建築設計研究所)では黙っている奴はいな いんですよ。みんな「オレがオレが」というタイプで、お互いに 意見をぶつけ合って、代々木体育館がこの形になる前にもスタッ フがみんな勝手なことを言って、でもお互いに調整し合っている のです。世代の違いも実力の違いもありましたが、上下の隔たり なく自由に発言する、認めることはみんながOKだという、それ が基本的な丹下研究室の姿勢でした。 参加者2■丹下さんが喜ばれる瞬間と、逆に機嫌を損ねる瞬間は どんな時だったのでしょうか。 神谷●あんまり丹下さんがどう思うかは気にしていなかったです ね。こんなことを言ったりこんな案を出したら怒られるとか、全 然考えていませんでした。自分の気にくわない案が出ていると、 丹下さんは見て見ぬ振りをしてすーっと行ってしまい、逆に面白 そうな案があると、「ここのところ面白そうだなあ」と言う。一度、 丹下さんが「こうしたい」と言うのに、 断固として違うように描き続けていた ら、そのときは怒られました。でもそ の1回だけで、あと怒られた記憶はあ りません。 参加者3■坪井先生のチームはどのよ うな感じでしたか。また丹下先生と坪The World Report
【海外レポート】国際関係のなかでの
JIA
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佐野吉彦
(元国際委員長) いはミュージアム)などの器の使いこなし方などは印象深いもの であった。すぐれた建築を主人公にする姿勢は尊敬に値するもの であろう。 少し振り返ってみると、私がAIA大会に初めて参加したのは 1998年のサンフランシスコで、それからほぼ間断なく大会に参 加してきている。15年前の規模は、現在平均2万人の大会参加者 の半分程度だったが、展示会+セミナー+プロフェッショナルツ アー+交流イヴェントで構成するかたちには変わりがない。この 大会の中で、1989年からAIAとJIAの両会長は〈AIA—JIA会議〉 を催してきている。当初は日米構造協議が始まる局面であり、両 国の実務プロセスに対する理解を深めながら「出口」を探してい た。昨今の日米関係は穏やかに推移しているが、相互への関心は 今も変わることはなく、この場で米国のIPD、日本の資格制度や QBSの動きをめぐって認識共有が図られていった。私が日本の プロジェクトデリバリーについて、2007年のテキサス、サン・ア ントニオでの大会で講演の機会が与えられたのは、そのような背 景から生まれたものだった。 このところは環境やBIM、会員制度などの諸テーマが扱われ ている。今年は、日本のTPP参加の局面にあって、AIAが国と官 民一体で取り組むグローバルビジネス展開戦略の積極さを知る機 会となった。また、AIA Japan(アメリカ建築家協会日本支部)が スタートする若手建築家派遣プログラムもこの場で紹介された。 これはJIAと連携予定の取り組みである。 JIA会長のもうひとつの定例行事は、2002年から始まったイン ターナショナル・プレジデンツ・フォーラムである。ここには各 国協会会長、UIA、ARCASIA会長らが集まり、それぞれの国や 地域が内包している課題にどのように対応してきたかが意見交換 される。建築家はさまざまな機関とどのように連携するか、社会 システムにどのようにコミットするかが論じられる充実したもの で、会を重ねるごとにうまく議論が嚙み合うものとなった。東日 本大震災の年でありUIA東京大会の年であった2011年5月に開 催されたニューオーリンズ大会では、芦原会長の代行として佐野 その1デンバーで見るAIA(アメリカ建築家協会)の動き
6月20日~22日に2013年AIA大会が開催されたデンバー(米・ コロラド州)は、標高1,600mの高地にある。コンベンションセ ンター近傍のダウンタウンには、デンバー・アート・ミュージ アム(2006年増築、ダニエル・リベスキンド設計)などの近作の ほか、歴史的建造物群が綺麗に修復(restoration)して活用され、 快適な都市計画が進められている。空陸交通の結節点としての能 力も急速に高まり、コンベンションシティとしてのクオリティが 感じられる。前回開催の2001年と比べて大きく変貌した。大会 初日に招かれたデンバー市長は「建築家こそが文化をつくる」と 言っているが、ピカピカの大都市ができあがる過程には多くの建 築家が寄与しているのは確かだ。 今回の大会のメインテーマとして扱われたのは、〈専門家は新た なグローバリズムにどう向き合うのか〉という重要な課題である。 ネットワーク化された世界は、さまざまな不均衡や、潜在的にあ る災厄を乗り越えるものとなるのか。基調講演では、キャメロ ン・シンクレアが専門家の連携による直接的アクションについて 報告し、ブレイク・マイコスキーが巧みなビジネスモデル構築に よって社会の課題を解決したケースを語っていた。さらに、コリ ン・パウエル元国務長官は、リーダーシップにおけるヒューマニ ティの大切さを語っていた。 さて、大会では毎年ひとり、AIAゴールドメダルの授与が行わ れる。これまで日本からは安藤忠雄氏、槇文彦氏が受賞している が、2013年はトム・メイン氏が栄誉を受けた。大会では、彼をは じめとする特別なゲスト、国際的なゲストを加えて多くのAIA会 員がいろいろな場面で集い、交流を深め、同じプロフェッション 同士の和やかな交歓が行われる。グローバル時代だからこそ、志 は積極的に共有しなければならないというわけである。交流の場 としては建築的に魅力のある会場が選ばれているが、2006年のボ ストン(公立図書館)、2012年のワシントンDC(建築博物館ある 今月号と来月号の 2 号にわたって、「海外レポート」特別編として元国際委員長の佐野 吉彦氏に JIAの国際活動について紹介していただきます。 AIAゴールドメダルの授与(大画面中央がトム・メイン氏) デンバー公共図書館(1995年、マイケル・グレイブス設計)が出席し、震災直後の状況を報告した。それは日本からの発信が 国際的に大いに関心を集めた年だと記憶している。いずれにして も、国際戦略を強化するAIAにとっては、国際的なリーダーシッ プを示す格好の機会だともいえるだろう。
ところでJIAは、友好関係にある各国協会、すなわちAIA・KIA
(韓国建築家協会)・KIRA(大韓建築士協会)・ASA(タイ王立建築 家協会)を毎秋のJIA建築家大会に招き、二国間会議を開催する のがならわしであった。2012年の横浜大会から各会一堂に会し たスタイルで運営することにしたのは、まさにAIAのプレジデン ツ・フォーラムを先例とした試みである。 その2