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関西中世史研究会 2014/07/26 @京都大学文学部

マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて

甲南大学文学部 中町 信孝

0.はじめに:「政教分離」をめぐる議論

「ウラマーʻulamāʼ」を定義づけることの困難さ、様々な訳語:「(イスラーム)知識人」「聖職者」「法学者」 ……階層として未成熟/教会・大学等組織の未発達/俗語文化の未成長/聖俗両域の未分離 小杉2006:政教一元論=そもそも宗教と統治(司法)が区別されておらず、政教一致・分離という区分自体が 当てはまらない ≠ ローマ帝国とキリスト教会の「結婚」 池内 2001:政治と宗教の不可分性の議論はあくまで理念的範疇、実際には政治権力者と「ウラマー」とで管 轄領域が分化(10 世紀以降)。 →中世ウラマーによる政治思想の展開を分析 佐藤 2004:実証的研究から国家・王権像を構築、「ムスリム知識人(ウラマー)が唱えてきたイマーム論や統 治論とはかなり異質なものとなるはずである」 →知識人像については後進に残された課題

1.中世イスラーム世界の「知」のあり方

ファーラービー(d. 950)、フワーリズミー(d. 997)、ガザーリー(d. 1111)、イブン・ハルドゥーン(d. 1406)らの学芸 論 =アラブ/非アラブ、伝統(伝承)/哲学(理性)の区分 → 法学や歴史の位置は? ※ 書籍商イブン・ナディーム(d. 990 頃)の目録:「アラブの学問といにしえの学問」 ※ ソールズベリのジョン(d. 1180) ウラマーがどのような知を身につけ、どのように行使していたか?

2.アイニー家系史へのアプローチ

Maḥmūd b. Aḥmad b. Mūsá b. Aḥmad b. Ḥusayn b. Yūsuf b. Maḥmūd al-ʽAyntābī (1361-1451)を頂点とする一族 史料: ナサブ(人名中の系譜情報)から分かる家系図 マフムードの執筆した諸著作(年代記『真珠の首飾り』『満月の歴史』) 〜マフムードの自筆本に見られる自伝的情報+弟アフマド筆写本に見られる奥付・欄外書込 同時代、後代の歴史家による年代記、人名辞典 関連施設のワクフ文書 アイニー家成員の居住地と役職:マフムードの6 世代前からムスリム名を持つ祖先 ① ムーサー:アンカラ→アレッポ→アインターブ。カーディー代理(1310-30 頃)、河川管理人。 ② アフマド:アレッポ→アインターブ。カーディー代理、アインターブのカーディー。 ③ マフムード:アインターブ→遍歴→1399 カイロ。市場監督官(8 期)、ワクフ監督官(2 期)、ハナフィ ー派大カーディー(2 期)。マフムーディーヤ学院法学教授、ムアイヤディーヤ学院ハディース学教授。 ④ アフマド:アインターブ→ダマスカス→カイロ。無官。〜書写本の欄外に多くの個人情報載せる。 ⑤ アブドゥッラヒーム:カイロ没。ワクフ監督官。 ⑥ カースィム:カイロ没。無官。 ⑦ アフマド(イブン・アイニー):カイロ生、メディナで没。千人隊長として政治の中枢にあるが失脚。

3.アイニー家の知の獲得と行使

①ムーサー、②アフマド:「契約と文書の作成で能力を有し、書を能くした」「実定法と法源に対応できる法

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学者(faqīh)であり、法的文書作成や行政文書の諸事に熟達していた」 ③マフムード:32 名の師につく(表1参照)。法学・ハディース学等、伝統的学問への偏重。 【『真珠』中の長老シ ャ イ フサルマーリー伝記】[クルアーンの]解釈に通じた法学者で、称号をシャラフッディー ンといった。ハナフィー派導師たちの頭にして、ハナフィー派法学の柱であった。……アミールや法官、 様々な事柄の監督官から、禄をはむことは決してなかったし、軍役にも就かなかった。……私は何年もの 間彼に付き添い、数多くの知識を得て、彼のもとでたくさんの本を読んだが、それについては近々説明す るとしよう、もし神が望むならばイ ン ・ シ ャ ー ア ・ ッ ラ ー フ。そうして彼は私に、法的見解と教授、説教、についての 免 許イジャーザを与え てくれ、めでたき御手でもって私に[免状を]書いてくださった。 【『真珠』中の長老ブルキーニー伝記】彼には多くの著書があり、……私は多くの会合に[出席し]彼の もとでそれらの大半を聴講した。それについて彼は、私に免状を与えてくれた。彼は、私が理解し知識を 得た師匠たちのうちの1人であった。[彼の著書の]中には、ティルミズィーの[ハディース]解説書や、 ザマフシャリーの[クルアーン解釈]探求の書があったが、未完であった。またそれら以外にはシャーフ ィイー法学派の注釈書や、ハディース、法源学、アラビア語学の書もあった。 【サハーウィーのアイニー伝記】アシュラフ(・バルスバーイ)が王位に就くと、彼を友とし寵愛し、自 らのもとで彼の地位を上げてやった。その間[アイニーは]彼の夜とぎをするようになり、アラビア語で 編纂した歴史書を彼のために読み上げ、それから2言語で提供するために彼のためにトルコ語で解説し、 信仰の所持を彼に教えるようになった。ついにはアシュラフ王が『もし彼がいなければ我らのイスラーム に何があったであろうか』と言うまでになったと言われた。 【イブン・タグリービルディーの年代記】アイニーは彼(バルスバーイ)にとって、もっとも偉大な側近、 もっとも近しい人物であったが、王国の諸事に彼を介入させることは決してなかった。それどころか、歴 史や人々の戦い、およびそれに類することの講話以外には、彼を会議の場に座らせることはなかった。そ してそのときから私は、歴史を愛し、歴史に傾倒し、歴史に従事するようになったのである。 ④アフマド:兄同様の学問修行→遅れ。官職求めるもかなわず。兄の年代記を書写 →説教とワクフ 「私の邸宅を道場として、高貴な知識を聞かせるために友人や同郷人を集め、彼らに歴史や征服譚や預言 者伝を語った。……その晩、私は彼らへ施しとして、自分の財産から、胡椒飯と甘い飯、ザクロの粒、そ して最後はスイカを振る舞った。彼らは心ゆくまで食し、中には料理や飯を家に持ち帰る者までいた。私 は彼らのために 3 ヶ月間説教をし、その後夏が来たが、彼らは夜になると眠くて座っていられなくなり、 私が読んでいるのに彼らは眠ってろくに聞いていなかったので、私は放っておいた。」 ⑥カースィム:。〜夭逝した息子のため④アフマドが多くの情報書き残す。「アラビア語とトルコ語」「会計学 と工学」「文字の学」「天文学」「暦と時間の学」「錬金術と文字魔術の学」「医学」に通じるほか、マフムード のもとで法学とアラビア語学 ⑦イブン・アイニー:スルタン・フシュカダムの乳兄弟として成長、厩舎長官として財務を握る。スルタンの代 替わりで失脚。 〜官僚的実務に長けていたと思われるが、知的社会での経歴は不明。

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4.おわりに

マフムード③の実践から:習得、行使の両面において「伝統的学問」の重視。「理性的学問」および書記術等 実務の軽視。ただし市場監督官等の官僚職から大きな利益。 アフマド④:兄と相似形の知的実践、伝統的学問への偏重も。 ≠ それ以外の成員:実践的(官僚的)学問への志向(カースィム⑥に代表) 一見すると聖俗の職域は分離/しかしすべてが伝統的学問の枠内であり、政教一元的

参考文献

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『真珠の首飾り』: Maḥmūd al-ʽAynī, ʽIqd al-Jumān fī Taʼrīkh Ahl al-Zamān, MS Ahmet III (Topkapı Sarayı Müzesi Kütüphanesi) 2911, a17-a19; MS Veliyyüddin Effendi (Bayazit Devlet Kütüphanesi) 2394; ʽAbd al-Rāziq al-Ṭanṭāwī al-Qarmūṭ ed., 2 vols., Cairo, 1985-1989.

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アフマド④が書物に付したワクフ文書

『流星の歴史』第一葉

Ⅰ この巻のすべてを停止し固定し道に供し永遠とする(waqafa wa-ḥabbasa wa-sabbala wa-abbada)。これは『流 星の歴史と輝く月云々(al-Taʾrīkh al-Shihābī wal-Qamar al-Munīr wa-mā baʿd-hu)』の第2[巻]であり、 それは7巻をもって完成する。その著者にして書き手は、神を求めるしもべであるシハーブッディー ン・アフマド(略)である。 Ⅱ 4法学派すべてからの、高貴なる知識を求める学生にして、学習(mutālaʿa)の美点を備えた者が、読誦(qirāʾa) と学習と書写(naskh)においてそれを活用すること。 Ⅲ 護られたるカイロのアズハル・モスクにおいて、毎晩の日没の礼拝後と、朝の礼拝後に、モスクの中庭に て椅子に腰掛けてそれを読誦すること。金曜礼拝の後にもである。 Ⅳ また我が兄であり著名なる知識あるイマーム、大法官のバドルッディーン・アブー・ムハンマド・マフム ード[・アイニー]の学院においては、金曜(laylat al-jumʿa)と月曜(laylat al-ithnayn)における、朝の礼拝 後と日没の礼拝後あるいは宵の最後の礼拝後に読誦すること。

Ⅴ そして[この]歴史書の読誦が終わった後には、[神の]書の開示章を読誦し、その著者にして書き手であ る前述したシハーブッディーン・アフマドへのドゥアーをし、書物による報いを捧げること。 Ⅵ その設置場所(maqarr)は、私の存命中は私の元とし、私の[没]後には前述したアズハル・モスクの書庫の

中とし、それについての監督(al-nāẓir)は我が妻である al-sitt al-muṣawwana al-Ḥājja Ḥalīm bint al-Ḥājj Sulaymān とし、彼女の後は前述したアズハル・モスクの監督に委ねるものとする。

Ⅶ 読誦あるいは書写のためにそれを求める者には、その学生が信仰ある人々のうちの善良な人物であるか、 よく知られている場合には、それを禁じてはならないが、1巻だけを与えて、その巻を返してきた時 に他の巻を取らせること。返してきた物はすべて、先述したアズハル・モスクの書庫に置き、シャイ フのSharaf al-Dīn ʿĪsā(中略)の読誦に送り、彼の後は他の法学者(al-fuqahāʾ)でそれに精通した者の[読 誦に送ること]。

Ⅷ「遺言を聞いた後で変更する者があれば、罪はこれを変更する者にある。まことに神はよく聞き、よく知り たもうお方である。」(クルアーン2:181)

Ⅸ この著者である先述したシハーブッディーン・アフマドに対する証言は、預言者のヒジュラ暦 834 年 3 月 中日(1430 年 12 月 1 日)にカイロにて行われた。

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61 バドルッディーン・アイニーの学問的キャリア マムルーク朝ウラマーの一事例 19 イブン・タグリービルディーは、 アイニーがその父の没後、 つまり784年7月/1382 年10月以降にアレッポに旅立ったと記すが、 サハーウィーは、 783/1381,82年に旅立っ たのち一度故郷に戻り、 父の没後再度旅立ったと記す。ここではサハーウィーの記述 に従う。 19 イブン・タグリービルディーは、 アイニーがその父の没後、 つまり784年7月/1382 年10月以降にアレッポに旅立ったと記すが、 サハーウィーは、 783/1381,82年に旅立っ たのち一度故郷に戻り、 父の没後再度旅立ったと記す。ここではサハーウィーの記述 に従う。 時 期 番 号 人  名 法 学 派 分野 教授地 出身地 アイニー 自著中の 伝記記事 ※  1 ※  2 その他の死亡録中の伝記記事 I 1 Ah4 mad b. Mūsá b. Ah 4 mad al-Ayntābī Hf 法 A P : 128a. ○ ○ I: 2/107; M: 2/231. 2 Mah 4 mūd b. Ah 4

mad b. Ibrāhīm al-Qazwīnī

  書 A カズ ウィ ーン : 205b.       3 Muh 4 . b. Alī b. Ubayd Allāh Ibn Zayn al-Arab Hf? 書・読 A R : 197a       4H 4 usayn b. Muh 4 . b. Isrāīl al-Ayntābī Hf 読 A A? : 187b.       5 Ah4

mad b. Khalīl b. Yūsuf

al-Ayntābī   読・源 A A? : 64a.       6 Mīkāīl b. H 4

usayn b. Isrāīl

al-Ayntābī Hf 法 A 東方 : 216a. ○     7 Mah 4 mūd b. Muh 4 . b.

Abd Allāh al-Rūmī

  語・解・相 A, P R : 64b. ○   I: 5/125; Da: 10/146 8 Isá b. Khāss 44 b. Mah 4 mūd al-Sarmārī Hf 修 ・法 A カフカス : 138b. ○     9 Khalīl b. Ah 4 mad b.Muh 4 . al-Mashriqī Hf 語 A R : 189b.       10 Jibrīl b. S 4 ālih 4 b. Isrāīl al-Baghdādī   解・法 A D, C : 201a. ○     11 Muh 4 . b. al-Rā ī b. Ibrāhīm al-Marāghī     A マラーガ?   ○     12 al-H 4 usām al-Ruhāwī     A エデッサ?   ○   K: 2/10. II 13 Yūsuf b. Mūsá b. Muh 4 . al-Malat 4 ī Hf 法・源 P M : 54b; : 49a. ○ ○ S: 3/1073; Da: 10/335. 14 H4 aydar b. Muh 4 . b. Ibrāhīm al-Rūmī Hf 法・相 P R? ○   Du: 2/82. 15 al-Wālī al-Bahasnī     B B? ○     16 Alā al-Dīn     カ フ タ ー ? ○     17 al-Badr al-Kashshāfī     M ? ○     18 Ibrāhīm b. Muh 4 . b.

Umar Ibn

al-Adīm Hf ハ? P P     S: 3/529; I: 2/192; Da: 1/64; M: 1/171. 19 Ah4 mad b. Muh 4 . al-Sayrāmī Hf 解・法・語 J, C ヘ ラ ート 他 : 146a.   ○ S: 3/588; I: 2/302; Du: 3/588. III 20 Ah4 mad b. Khāss 44 al-Turkī Hf 法・ハ C ? : 87b. ○   I: 6/17; Da: 1/292. 21

Umar b. Raslān al-Bulqīnī

Sh ハ・解 C C : 63a. ○   S: 3/ 11 08 ; I : 5 /1 07 ; Da: 6/ 85 ; M: 8/285. 22 Muh 4 . b. Ah 4 mad b. Muh 4 . al-Asqalānī Hf 読 C ア ス カ ロ ン ?   ○   S: 3/759; I: 3/96; Du: 3/352. 23 Abd al-Rah 4 m ān b. H4 usayn b. Abī Bakr al-Irāqī Sh ハ C Mahrān : 68b. ○   S: 3/1128; I: 5/170. 24 Muh 4 . b. Muh 4 . b. Muh 4 . al-Dajawī Sh ハ C ? : 81a. ○   S: 4/48; I: 6/45. 25

Abd al-Karīm b. Muh

4 . b. H 4 āfi z4 al-H 4 alabī Hf ハ C P : 87b; : 81b. ○   I: 6/34. 26 Alī b.

Abd al-Karīm al-Fūwī

  ハ C ?   ○   I: 8/56. 27 Taghrībirmish Hf ハ C ?   ○   Da: 3/31; M: 4/56. 28

Alī b. Abī Bakr al-Haythamī

Sh ハ? C イラク? : 76a. ○   I: 5/256; Da: 5 /200; M: 8/30. 29 Muh 4 . b. Ah4 mad b. Ismāīl Nās 4 ir a l-D īn Aghā   ス C A btina? : 50b. ○   I: 4/318; Da: 6/294. 30 Ah4

mad b. Ismāīl b. Muh

4 . al-Kushk Hf ハ D D, C   ○   S: 3/ 88 5; I: 3/ 33 9; Du: 1/ 10 7; M: 1/241. 31 M uh4 . b. Muh 4 . b. Abd al-Lat 4 īf Ib n al -K uw ay k Sh 法 D イラク : 133b. ○   S: 4/475; I: 7/341. 32 Jalāl b. Ah 4

mad b. Yūsuf al-Tabbānī

Hf   C R : 186a.     S: 3/756; I: 3/87. ※1:サハーウィーによる伝記記事中に言及あり ※2:イブン・タグリービルディーによる伝記記事中に言及あり 法学派: Hf=ハナフィー派、Sh=シャーフィイー派 地 名:A=アインターブ、B=バハスナー、C=カイロ、D=ダマスクス、J=イェルサレム、M=マラティヤ、P=アレッポ、R=ルー ム地方 分 野: 法 = 法 学、 書 = 書 道 、 読 = ク ル ア ー ン 読 誦 、 源 = 法 源 学、 法 = 法 学、 語 = ア ラ ビ ア 語 学、 解 = ク ル ア ー ン 解 釈 学、 修 = 修 辞 学、 ハ = ハ デ ィース学、ス=スーフィズム 史 料: I= , Da= 4 , Du=, K= 4 , 4

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【表1】アイニーの師匠一覧

Konan University

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の職に留まり続け, 最終的にこの職を罷免されたのは 任命から34年目, 853/1449, 50年のことである。 ところで, バルスバーイ期の826年10月23日/1423 年9月23日には, 次のような記述がある。 スルターンはこの著者を呼び, エジプトのアウカー フ (!"#$!%al-!&'($!%) の監督職への就任を提案し たが, 著者はそれを断った。 [‘Iqd / Q : 2 / 95 ; Badr / BN : 158b] この時点ではアイニーは, アフバース監督官の地位 に就いているため, ここで述べられるのはアウカーフ 監督官就任への打診である。 上述のとおり, アフバー ス庁とアウカーフ庁とが当時明確に区別されていたこ とが, このような記述からも裏付けられる。 大カーディー マムルーク朝では, スンナ派の4法学派からそれぞ れ1人ずつ大カーディー (#$!)!$*!+,#-)!$!.) が任命され る体制が確立した。 エジプトにおける大カーディーは, それぞれの法学派の司法組織における頂点であり, 広 くウラマーを代表する存在でもあった。 アイニーは, 彼の属するハナフィー派のエジプト大カーディーとなっ たが, その在任期間は【表4】のとおりである。 彼の大カーディー就任は2回, いずれもバルスバー イ期においてである。 後期マムルーク朝の大カーディー 就任者の経歴を分析した伊藤隆朗が指摘するとおり, アイニーの同職就任にはバルスバーイとの個人的な結 びつきが大きな要因となっていることは明らかであろ う28)。 また, アイニーの1回目の罷免の際には, 当時 シャーフィイー派の大カーディーであった歴史家のイ ブン・ハジャルも同日に解任されているが, それにつ いてはアイニー自著中に以下のような記述がある。 敵対者たち (al-!/)$!0) のある者がアシュラフ王 (バルスバーイ) のもとで, この2人 (アイニー とイブン・ハジャル) のカーディーは争いを続け ており協力することがなく, 両者の間ではムスリ ムたちの利益が失われると [言って] 働きかけた。 彼らはこのような偽りごとしか, この著者を罷免 させる手段を見いださなかったのである。 [‘Iqd / Q : 2 / 372] アイニーとイブン・ハジャルという2人の歴史家の 間の確執についてはよく知られているが29), ここでは 引用の冒頭にある 「敵対者」 について注目したい。 こ の 「敵対者」 とは, この時アイニーに代わって大カー 中町 信孝:バドルッディーン・アイニーの職業的キャリア 241 !表5】アイニーの就いた役職・官職年譜 スルターンと在位年 ワクフでの役職 ムフタスィブ アフバース監督 大カーディー ザーヒル・バルクーク (1382"1399) ザーヒリーヤ学院 ハーディム頭 ナースィル・ファラジュ (1399"1412) マフムーディーヤ学院 法学教授 (バドリーヤ学院完成) 1411.12.16 ムアイヤド・シャイフ (1412"1421) ムアイヤディーヤ学院 ハディース学教授 ザーヒル・タタル (1421) アシュラフ・バルスバーイ (1422"1438) ザーヒル・ジャクマク (1438"1453) 1386∼1388 ? ? 1419.6.11 1399.8.3∼9.2 1399.12.13∼12.15 1400.12.1∼1401.1.22 1416.3.14 1416.5.11 1449, 50 1416.5.24 1401.11.20 1402.6.24 1422.8.9 1426.1.5 1429.12.20 1432.3.3 1426.3.6 1429.11.23 1432.2.28 1438.7.6 1440.8.6 1441.7.21 1443.2.27 1443.6.10 !表4】ハナフィー派大カーディー在任期間 就任日と解任日 (ヒジュラ暦/西暦) 自著中の記述 1 829年4月26, 27日/1426年3月6日 ‘Iqd / Q : 2 / 297, 309 833年2月26日/1429年11月23日 ‘Iqd / Q : 2 / 372 2 835年6月26日/1432年2月28日 ‘Iqd / Q : 2 / 418, 425, 479 842年1月14日/1438年7月6日 ‘Iqd / Q : 2 / 510 Konan University

(7)

マフムード ユースフ フサイン アフマド ムーサー アフマド (1322?-1380) マフムード (1361-1451) アブドゥッラ ヒーム (-1460) アフマド イブン・アイニ ー (1466-1492) ムハンマド アブドゥッラ フマーン (-1419) アブドゥルア ズィーズ (-1415) アリー (-1430) ファーティマ (-1430) イブラーヒー ム (-1430) アフマド (-1430) ザイナブ (-1430) アフマド (1363-??) カースィム (1394-1411)

参照

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