〈
紹
介
〉
『
批 判 的
パ ーリ
語 辞
典
』 の理
解
のた め
に
Ole
Holten
Pind
武
田龍
訳
・引
田弘
道 補
『批 判 的パ ー リ語 辞 典
』
(
A
Citical
Pali
Dictionary
bcgun
by
V
,Trenckner
,
略
CPD
)
はVol
.H
(
17
分冊)
の 出版 を終わ り, い よい よ近 くVol
,IH
,1
の 出版が始まる、 これ には 日本か らも出版 援 助が な されてい る。 こ こにこれ までの 成果
を回顧 し紹介
して お きたい 。CPD
は デ ンマ ー ク学士 院 主宰
の もと に編纂
さ れて きた。V
.トレ ン ク ナ ー (Trenckner
)
に よっ て始め ら れた こ の 辞 典は,1924年
に第
… 巻第 1
分 冊 を 出版
し, そ の学 問
的水 準
の高
さ を 世 に示
し た。爾 来
,Dines
ア ナ ス ン(
Andersen
)
,Helmer
ス ミッ ト(
Smith
)
らの 碩 学に よっ て この事
業が推 進 されて き た。 こ の 頃の
事情
は 前出惠學博
士 に よっ て詳
し く報 じ ら れて い る(
前
田 惠學 「デ ン マ ーク学
士院の 『批 判的
パ ー リ語辞典
』その
沿革
と現 状」 『東 方 学 』 第
24
輯, 第25
輯 )。 続 い て桜 部 建 博士 は 前田博士報 告以 降のCPD
の 現状 を追 加報
告さ れ た(
桜 部 建 「Critical
PRIi
Dictionary
編纂
の 現段階 と その 問題点
」 『印度学仏教学研 究
』第
16
巻第 2 号)
。 最 近では ノ …マ ン教授
の報 告の 中に,
CPD
の現 況がふ れ られてい る(
K
.R
.Norman
,A
Report
onPEIi
Dicti
。11aries ,1985
,森
祖道訳 「パ ー リ語諸辞
典編纂事業
の現 況」 「仏 教 研究』第
15
号,145
−158
頁)
。こ の
CPD
の第
一巻の 分 冊 は既 に前田博
士に よ っ て 紹 介 さ れて い る(
前掲
,第
24
輯,103
頁)
。 た だ第
二 巻の 分 冊 に関 して は ま と まっ た形では報告
され て い ない の で, こ こ にこ の巻
の分
冊の 出版年
と編集
ギ任
を列挙
してお きたい 。96
ノe− Ui学:イ!、孝攵文 で匕ij
”:第二 巻
第 1
分冊(
a.adhikappika )1960年
第
2
分 丗(
adhikappika −apattikusalata )1962
年第
3
分 冊(
apattikusalata −ayu)
1965
年
第 4
分冊(
ayu 一臼ropeti)
1967
年
第 5
分冊(
aroha −aha) 1968
年,L
.ア ル ス ドル フ(
Alsdorf)
第
6
分 冊 (aha −lnda
)1970
年, 同第 7
分 冊(
lnda
−ugg/haLima
)
197
.1
年
,同第
8
分 冊(
uggh頭
yati
−udaka −sakupika) 1973年
, 同第
9
分冊 (udaka −sahkhata −1ユpakkama )1975年
, 同第
IO
分 冊(
upakkama −uparima)
同第
U
分 冊 (uparima −uposathakiriya )1981年
,K
R
.Norman
第
12
分 冊(
uposathakumara −ulumpa)1982 年
,阿第13分
冊(
ulurnpa −ekato) 1985 年
,K
.R
.Norman
,Chr
,Lindtner
(
editor )第
1
護づ}冊(
ekato −ekayana)
1987 年
,K
.R
,NQrman
第15
分冊(
ekayana −evam −adhippaya)
1988
年
, 同第
16
分
冊(
evam −adhimutti −odissaka )1989
年
, 同第17
分 冊(
。dissaka
−lohTleti
)1990
年
, 同こ れ を見る と明 らか なよ うに,
第 5
分 冊か ら第10
分 冊にかけて の 編 集 主任 の責
を努
め たL
.アル ス ドル フ, そして第
l
!分
冊か ら第
17
分冊 に か けての責
を果た したK
,R
.ノ ーマ ン の こ の辞
書 編纂
にかけた情 熱を窺い 知る こ とがで きる。ま た最 近の分 冊の
執筆i者
には, ノ ーマ ン教 授の ほ か ,o
.H
.ピン ト(
Pind
, デ ン マ ー ク),N
.バ ル ビル(
Balbir
, フ ラン ス ),F
.ロ ッ タ ーモ ザ(
Lottermoser
, ドイ ッ ,)
,C
.カイ ヤ ー(
Caiilat
, フ ラ ン ス)
の 名が挙 げられてい る 。 さ らに は カル カ ッ タ の サ ン ス ク リ ッ ト ・カ レ ッ ジ内にあるCPD
セ ン タ ーの 果た し て い る 役 割 も 見 逃す こ と は 出 来 な い 。 今後
はOskar
von ヒ ニ ュ ー バ ー(
Hini
’ber
)教 授(
ドイッ)
の 助力
をあお ぎな が ら, ピン ト氏を中心 と して成〈紹 介〉『批 判 的パ ーリ語辞典』 の理 解の ため に
97
果
が刊行
さ れて い くも
の と期待
され る。先 般 ,
K
. R .ノ ーマ ン 教 授の 跡を受けた0
.H
.ピン ト氏 が 来 日 さ れ,CPD
の 現状を報 告 さ れ た。 こ のCPD
の壮 大な事 業が 速か に推
進 され るよ う期 待 したい 。 これから紹 介 するのは ピン ト氏
の講演
を邦 訳 し た もの である。(
引田弘
道)
ACritical
Pali
Dictionary
の歴
史
一 一
経
過
と
現 状
と
将 来
へ の展 望
01e
Holten
Pind
(
武
田
龍
訳
)
1
A
Critical
Pali
Dictionary [
CPD
】
の 歴 史は,19
世紀
の デ ンマー ク に お い て
進
展 し たパ ー リ研 究の 歴 史に ほ か な らない 。 そ れ を 理解 す る に は,CPD
編纂事
業 を取 り巻い て悩 ませ 続けて きた諸問 題 を理解 する こ とが必 要で あり, その た めには19
世紀
の デ ン マ ー ク の パ ー リ研究
の背
景 を知る こ とが 必 要 と な る。 周 知の ごと く,CPD
は デ ン マ ー ク人学 者 トレ ン ク ナ ー (Carl
Wilhelm
Trenckner
,1824
−1891
)が収 集 した資料
に基づ くもの であ り, ア ナ ス ン(
Dines
Andersen )
がス ミ ッ ト(
Helmer
Smith
)
と共 同で編 集 し,
1924
年
に刊行
を開 始した もの であ る。 トレン クナ ーの 資料は, その 性 質上, 利 用 するにつ い て の 難 点が あ り,CPD
の 編纂事
業に少な か らぬ 困 難 を強い て い る。 し か し, トレ ン クナーに よ る周
到な準 備作 業
を抜 きに して はCPD
が あ りえ ない こ と も事
実で あ る。 トレ ン ク ナ ー は , パ ー リ聖 典 協 会 (PTS
) のTipitakath
Concordance
に は見 られ ない動
詞の活
用 形を灘
多
く聖典か ら収集
し,資料
と して 蓄積
した。CPD
の 歴史
が, その 大半
は実 際に執 筆と出版 に携
わ っ た学 者た ちに負 う もの として も, トレ ン ク ナ ー 自身の業績 とCPD
編 集 者 と して
98
パ ーリ学仏 教 文 化 学果た した彼の
貢献
は特筆
に値
する。 そ れ を記 す前に, 先 ずデ ンマー
ク とヨ ー一
ロ ッパ の パ ー リ研
究
の 草創 期
に お ける卓越 し た存 在 で あ っ た フ ァ ウ ス ベ ルCMjchael
Viggo
Fausbvall
)
と トレ ン ク ナー とい う二 人の巨匠
の生涯
を手 短
か にふ り返っ て み たい 。〔
プア ウス ベ ル〕
フ ァ ウス ベ ル は, ユ
82
ユ年
9
月22U
に北ユ トラ ン ドのLemvig
近 くの 小 村で 生ま れ ,1908
年
6
月3
円に コ ペ ンハ ーゲ ンで歿 した。 コ ペ ンハ ーゲ ン大学
で神
学を学ぶ う ちにサ ン ス ク リッ ト語
に興味
を持
ち,1843
年に はサ ン ス ク リ ッ ト構
文法
の研 究に よ り, コ ペ ン ハ ーゲ ン大学
か ら金 賞を授 与され る とい う栄誉
に輝 く。 卒 業後は サ ン ス ク リッ ト研 究の か た わ ら, コ ペ ンハ ーゲ ン 王立図 書館 所 蔵の パ ー リ写本 (
デ ン マ ー ク人言 語 学 者Rasmus
Rask
が セ イ ロ ンか ら将 来 した もの)
を研 究 する こ とに よ り,パ ー リ語 を習得
した 。1855
年, フ ァ ゥス ベ ル はDhammapadam
(
パ ー リ原 文 とラ テ ン語 訳)
を完
成し出版
した。 これが, ヨ ー ロ ッ パ にお ける学
術 的なパ ー リ研 究の 幕 開け とな る もの で あっ た。 こ の業績
に よ り,学界にお ける彼の 名 声は一躍に して高
まっ た、, 後に デ ンマ ・一ク政府
・ ベ ル リ ン ア カ デ ミー ・イン ド政府
か ら資
金援
助を得て , 記 念碑
的労作
と もいう
べ きJataka
7
vols ,(LQndon )
を1875
年
か ら1896
年にか けて 出版 する こ とがで きた。 彼は ,デ ン マ ークの 東洋 学 者ウェ ス ター ゴ …ル
(
N
.L
.Wes
しergaard )の後を承 けて1878
年
にコ ペ ンハ ー ゲ ン大
学の イン ド文 献学
の教授
に就 任 し,1879
年には名誉 博
士号 を受
け,1890
年には ロ ン ドン ・アジ ア協
会の名誉 会 員と なっ た。 ス ッ タニ パ ー タ に関 する研 究では , 有 名な翻 訳(
Sacred
B
。Qks ofThe
East
, vol .X
.Oxford
1881 )
と, 聖 典 本 文 the
Sutta
Nipata
,being
a collection G[ some ofGotama
Buddha
’
s
dialog
しles anddisc
。urses (PTS
l885
)の 出版が あ り, これ に は語 源 的 語 彙 集と註記が添加
さ れ た(
PTS
I894
)。 ロ ン ドン滞 在 中(
1858
−1860
)に は , モ ッ ガ ッ ラ ー ナ 長 老の パ ・・一一リ語 文法
(12
世 紀)
に 対 す る註釈 書Payogasiddhi
(13
世 紀)
を 書 写 してお り, こ の写 本は今 もコ ペ ンハ ーゲ ンのCPD
事
務 局の金 庫 に大 切〈紹 介〉『批 判 的パ ーリ 語辞 典」 の 理解の た めに
99
に保管
されて い る。〔
トレ ンク ナ ー〕フ ァ ウ スベ ル の パ ー リ研
究
は , その 著作
か らは勿 論の こ と,彼
の 持 っ てい た チ ル ダース の 7パ ー リ語 辞 典』 に夥 しい傍
註を書き加えた こ とか らもわ か る ように,幅の 広い 辞書学 的な もの で あっ た。 しか し彼がパ ー リ語の 辞 典を作
ろうと試み た こ と は.度 もなか っ た。 辞 典 編纂の 端緒 とな っ たの は トレ ン ク ナーの辞書
学 的研 究で あ り,彼
の収集
した資料
こそ がCPD
を基礎づ けた の で ある。 トレ ン クナー は,1824 年 2
月26
日コ ペ ン ハ ー 一ゲ ン に生 まれ た。1841年
に コ ペ ン ハ ーゲ ン大 学に入学 し,ギ リシア ・ラ テ ン とい う古 典 語 を学 ぶ と と もに, ペ ル シ ア語や ア ラ ビ ア語 な ど幾つ か の東洋
の 言語 も手 が けた 。 彼はペ ル シ ア語とア ラ ビア語
に熟達
する と, 一層
の言
語 研究
の ため にコ ベ ン ハ ーゲ ン王 立図書館 に職を得
ようと し たが, 有力
な推 薦が あっ た に もか か わ らず そ れに失 敗 し, よ うや くコ ペ ンハ ーゲ ン の孤児
院 に先生 と して さ さや か な職を得
た。 奇妙なよ うだ が, こ の 立派 な学者
は大学
の学位
と は終生無
縁で あっ た。トレン ク ナ ー は, ウェ ス タ ーゴ…ル の
指導
を受
け て イン ド学
に取 り組み, サ ン ス ク リッ ト語を学んだ。 彼がパ ー リ研 究を志 すにつ い ては ,師の影 響が あっ た もの と思 わ れ る。 当 時は研 究用 に使 えるパ ー リ聖 典の 刊本
は実 質 的に は何 もな く, その た め トレ ン ク ナ ーが先
ず着手
したの は, コ ペ ンハ ーゲ ン王 立 図書館 所蔵
の 重 要 な聖 典 と蔵外
の パ ー リ文 献の 写本
をつ くる こ とで あ っ た。 彼の 写本 は ,刊 行 され た聖典 に比べ て よ り良い 読み方や解 釈 を数多 く含
ん で い る た め , 刊 本を補っ て余
りある価値
をもつ もの と言
わ れる。 この 写本 は今
で もCPD
事 務
局の金
庫に大 切に保 存
さ れ て い る が ,残念
な こ とに,Ailguttaranilcaya
とMal1
。rathapnra 珥 の 写 本は 所 在不 明で あ る。 そ れ ら は1880
年 代 にPTS
の 触 guttaranikaya の 編 集に従事
して い た英
国の モ リス(
M
。rris) 博
上に トレ ン クナーが貸
し出し た もの だ が, モ リス の 死 後は行 丿∫
不 明 とな り, 以 来
1Ll
];fit
{己, とうに紛 失 した もの と思 われて きた。 しか し , 最
1
〔〕0
パ ーリ‘学 仏 教 文 イヒ学近 ヒニ ュ ーバ ー.・(
Oskar
vonllin
〔1ber) 教授が筆
者に語 っ た とこ ろ に よ れ ば,教授
は偶然
に も大 英 図 書館で当該 写 本 を発 見 し た とい う。 お そ ら く大英 図書館
がモ リス の 蔵 書 を購 入した時に紛れ 込ん で引 き取 ら れ た もの で あろ う。 本 来の 所 有者であるCPD
の 許に返 還 さ れ る こ と を願っ てい る。トレ ン ク ナーは, コ ペ ン ハ ーゲン所 蔵の パ ー リ写 本を
単
に写 すこ と だけ を 目的に転
写 したの で はな か っ た 。 彼は細 心の 沖 意を払 っ て写 し取 り, その 作 業 中に, 時には 璽典 本 文に註 を加 え, 並行句
の 互 照録 を作 り, 本文の 訂正 を 示 唆 し た 。 こ うし て最初
か らパ ー リ語辞典
の編纂
を 目的 として資料
が収集
さ れたの であ る。 パ ー ・一 1 丿語の 文法
と構
文法
を体系
的に捉 える彼の 研 究 方 法は, 構 文 法を包摂 したパ ー リ語の文 法書
を構
想 した こ と に も現れ て い る。 トレン ク ナーがパ ー リ構 文 法を著そ うと試
み て か ら約 百年後
の今
円で も, パ ー リ聖 典の 異なる層の 文 章 構 造を記し た理解 し易い パ ー リ構 文 法は, 相 変わ らず待 望の 書 と なっ てい る。幸
い な こ とに, ヒ ニ ュ ーバ ー教授
のKaSUS
−syntax は , パ ー リ文法 文献の この空 白
部分を埋 め て くれる もの である。 トレン ク ナ ーの 当初の計
画は,Abhidhanappadlpika
(
12
世紀セ イロ ン の モ ッ ガ ッ ラ ーナ長 老 が著
したパ ー リ辞典)
をア ル フ ァ ベ ッ ト川貞に索
引をつ けて批判
的に編集す
る こ とで あ っ た。1850年代
の彼
はこ の 辞 書 学 的作 業に従事 したけ れ ど も, 理 由 は不 嘆だ が その計
画 を途中で 断 念 して, パ ー り語 辞 典 編纂
へ と研究 活 動をll
多 正し た。 同時
に,D1ghanikaya
の部分
とMilindapafiha
全体
の写本
を作
っ た。1860
年 代 に は,Maljhimanikaya
,Papaficas
(idanl ,Atthasalinl
,Sarasafigaha
,Sainyuttanikaya
,D
エghanikaya
の残
りの 部 分 とお そ ら くAfiguttaranikaya
の写本を作 り,
70
年 代 にはモ ッ ガ ッ ラーナの
文法書
,Jataka
,Paramatthajotika
,Dhammapad
礁hakatha
,Parivara
,ParamatthadrpanT
の部 分の 写 本を作 り,最
終 的 にUdana
,Itivuttaka
,Suttanipata
,BuddhavaMsa
,Cariyapi
仁aka ,Thera
−alldTher
τgatha
の 写 本を作っ た。 ま た1885
年にはManorathapUrapl
を写 本か ら新たに復元 し完成 させ たこ とで も知ら れてい る。
印
象の 強烈なこ の リス トか ら も分か るように, トレ ンクナ ーの 写 本は 聖典の 主 要部
分 を網 羅 し て い る、, パ ー リの 註釈
書も出版
さ れ るよう
にな り ,律蔵
の 語彙
は オル デ ンベ〈紹 介〉 「
批 判 的パ ー一 1丿語 辞 典
エ の理解の た めに
1011
ル クの 刊 本
The
Vinaya
PitakaTp (1879
−1883)
か ら収 集で きる よう
になってい た。
Pali
Miscellany
(「パ ・一リ雑 録」
1879)
は例外
と して ,Mihndapa
血ha (
PTS
1880)
は厳 密な編 集の 成 果で あ り,Majjhimanikaya
vo!.1
(PTS
ユ888)
は批 判 的編 集の 成 果で ある。残念
なこ とに彼
は こ の第
1
巻
を出版 したの ち 世 を去 っ た。 鉛 筆 を 用 い た ト レ ン ク ナ ー手
ず か ら のMajjhimanikaya
とMHindapaiha
の 写 本は, 今で はCPD
図 書館
の 貴重 な資 料と なっ てい る。彼は t/小 さな 青い 紙片 に
独特
の速
記法
で辞 書の 記 事 を書 きとめ た。 ほ とん どの註 記が彼
白身
の 写本
に対す る もの で ,約1
世 紀の 時 を隔て た 現在
,CPD
の 重要な仕事
の 一つ に ,CPD
が参
照 す る ヨ ー ロ ッ パ 刊 本 に対
応 す る トレ ン ク ナ ーの 註記 を一つ残
さず追跡 し確か め る作 業が加
わっ た 。 これ まで もア ナ ス ン やス ミッ トに よっ て多
少は体 系 的に行われて きた が ,往
々 に して トレ ン クナー直筆
の註記
の単
なる書
き替 え作 業
に と どま りが ちで ,時には重 要な註 記 を見 落 として し まうこ と さえ あっ た 。 そ れゆ え今で も絶 えず トレ ン ク ナー 自身が書写 した紙 片を参 照 する こ とが 必 要である。 実 際, トレン ク ナ ー が遺 し た 辞 書資料
の性 質
か らみ て ,CPD
の 編集
と出版
にある程 度の 時聞 を要 す るの は当然
とい える。トレ ン クナ ー は ,収 集 し た資 料か ら
名
詞と不 変 詞と を選 り分け,動
詞は ウェ ス ター ゴ ー一・ル の
Radices
Linguae
Sanskritae
(「サ ン ス ク リッ ト語の 語 根」)
に ならい , そ れ ぞ れの 語根 と接頭
辞
の も とに分 類 した。 トレ ン ク ナーの
Radiccs
Linguae
Pa
!icae
(「パ … リ語の 語 根」)
は , ア ナ ス ン に よ る註 記
と補
筆
と共
に,CPD
のL
台 と して必 須且 つ 不動
の 地位
を占め て い る 。 ある意 味 では, こ の資
料は名 詞と不変 詞 を収
集した トレン クナーの 意図以 上 に有 益 な もの か も しれ ない 。 彼は,1
つ の 動 詞が そ れ ぞ れの活 用 形に よっ て異
なる意
味に解
釈で きる可 能 性を しき りに示 唆 した が , そ れ をデ ンマ ーク語 で 論述 し たため に, デ ン マ ・・一. ク語の 読め ない 学 者 に理解
させる まで に は至ら な かっ た こ とが惜 し ま れ る。 その資
料は事 実E
パ ー リ語動
詞の ほ ぼ完璧 な辞 書の役割
を果たす もの で , 無論
これ まで もCPD
の 本体に通 ずる文脈
に統
合され て き102
ノ {一リ’¥:イム教 文 イ匕弓≒ てお り, こ れ か らも統 合さ れ続ける もの と思 う。 編集
を異にする別個の 刊 本 を通 し て こ の 貴重 な構 築物 に触れ うる こ とが, 言 語研 究に とっ て 有益 なの で ある。 トレ ン ク ナ ーが手書
きで残
した写
本は, !2
巻で各200
頁の 量で ある。 パ ー リ語の 或る動 詞の 活用 形の 由 来につ い て の トレ ン クナーの 示唆
は刺激
的 な もの で,後
に中期
イン ド語
の 分野で論
議の 的と なっ た。 た とえば彼は ウ ェ ーバ ー(
Albrecht
Weber
)の よう
に, 過去受動
分 詞k
曝ba
<VkT
¥,Uh
> σ曲 か ら動 詞kaddhati
を導
き 出 せ る と言 う。 こ れ には 反 論が あ る(
H
.Ltldersl
Beoba
,:htungeit
.§165参
照)
に もか か わ らず, そ れ は 正しい 派生関係で ある に ちがい ない 。〔
アナス ン〕
トレ ンク ナーが
1891
年に歿 する と, 彼の 意 志 を継い でパ ー リ語 辞 典の 編纂
を実
現させ うる者は誰 もい な くなっ て しまっ た かの よ うに思われ た が, 幸い なこ と に, デ ン マ ー ク人の パ ー リ学者
ア ナス ンが ト レ ン クナ・一の 収集
した資
料
に興味
を持
っ た。事業継
続へ の彼
の 尽 力が あれば こ そ, 『批 判 的パ ー リ語 辞典』 は世に出る こ とがで きたの で ある。 ア ナス ン は,1861
年に デ ン マ ーク のFuncn
島
に生 ま れ,Ullerslev
という寒村
で育
っ た。 コ ペ ン ハ ーゲ ン大学
で は , ギ リ シ ア ・ラ テ ンの古
典 語を専攻
す る か た わ ら,19
世紀の 言 語学の 巨匠
Vilhelm
Thomsen
とKarl
Verner
の2
人 の指導
を受
けて総 合言 語学
に従 .事
し た。 サ ン ス ク リ ッ ト語 は フ ァ ウ ス ベ ル か ら
学
ん だ。1889年
に は,Pancatantra
と1
’litopadeS
a における分 詞の使 用 に関する研 究で コ ペ ン ハ ーゲン 大 学の 金 賞を
受賞
し,1892
年
に は“
On
the use and mealling 。
f
the voicesof the
Sa1
ユskrit verb speciallyillustrated
by
investigatiens
on the usage in theChandogya
−Upanishad
” と題 す る学 位 論 文に よっ て 博士 号を受
け, こ れ に よ っ てパ ー リ学 者 アナス ン の 名 声は 大 い に高まっ た。1891
年に大 学図 書館の 司書
に任命
され, トレ ンク ナ ーの パ ー リ聖 典の写 本
とパ ー リ語 辞典の た め に蓄
積さ れ た紙 片の 集成 と を預か り担
当し た こ とが,学者
と して の彼
の 進 路を決定
づ けた とい え る。彼
は,真
に言語学 的原則で編 集 さ れたパ ー リ語 辞典の 必〈紹 介〉 「批 判 的バ ーリ語辞 典』 の珊 解の た め に
lO3
要性 を痛
感したが, その事業
の難
し さもま た充
分に理解 して い た。 なん とい っ て も, ヨ ー ロ ッパ で刊行
さ れ たパ ー リ聖典
は , 間に合わせ の 性 格が きわ め て 強い 杜 撰 なもの が多か っ た か らで ある。 トレ ン ク ナ ーの 資 料 に取 りか か る 前に, 善 意に解釈
して も未熟
な素
人の手
に な るパ ー リ聖 典の 編 集 をよ り一 層厳密
にする た め に は,彼
は, トレン ク ナ ーの ような聖典の徹底
的な研究
が必 要で あ るこ とや , 聖典
を批判 的 に扱い , ギ リ シ ア ・ラ テ ン とい う古 典語の 研 究方法
を適用するこ とが 必要で あるこ とに気づい たの で ある。 アナ ス ン はパ ー リ研
究 を着 実
に進
め た。1891
年
に はRasavahini
か ら抜 粋 した仏 教 説話 集
の 翻訳 を ま とめ, ユ901
年
には批 判 的に編 集 して註 解 を付 けた経 典 集 を利 用 し易
い読本
の形
に まと め たAPali
Reader
, partI
を 出 版 した。読本
に採
用さ れ た経典
の 用語集
と『ダン マ パ ダ 』 の 語 彙集 とを内容とす る
第 2
部 は1907
年
に出版 され た。1903
年
に は . コ ペ ン ハ ーゲ ン大 学の イ ン ド文 献 学の 教授 に任命
さ れ,1927
年
まで在職
した。1912
年
に ア テ ネで 開催さ れた東洋 学 会で , 彼は コ ペ ンハ ー ゲンで進め ら れ てい るパ ー リ語 辞典 編 纂事 業へ の 国際協力
を要請
し賛
同を得た 。 トレン クナ ーの 資 料の 性 質や王 立 図書 館所蔵
の パ ー リ写本
の蓄積
という実績
に照 ら し て,自
然に コ ペ ンハ ーゲ ンが準 備 作 業の 中心 と見な さ れる ように なっ てい た。 第一一次 大 戦の 勃 発に よ り, 当 初の事 業計
画の 遂行
が不可能になる と,1919
年
にア ナス ンは,彼
自身
の手
で事業
を進
めるた め に, ス ウェ ーデ ン 人学 者で ピ シェ ル(
Pfschel
) と リュ ー ダース (Luders
)の弟 子で あっ た ス ミッ トを雇 い 入れ た。2
人は1913
年に批 判 的 新 版のSuttanipata
(
PTS
)を出版 し, また共 同編 集によ り
The
P
自li
Dhatupatha
and theDhatumai
コjasa
を1921
年 に刊行
してい る。 同 書 は , 編集
にあ たっ た2
人 が 「トレン クナーの パ ー リ語辞典
の 現代 版」 と称 した ように, パ ー リ語辞 典に向
け た準備作 業 と もい うべ き も の で あっ た。 しか し ,1891
年 以 降はPTS
版 ・タ イ国版
・S
.Hewavitarane
遺蔵 版と続々 とパ ー リ聖 典の 新 訂版が刊 行せ られ, 豊富
な新資
料が提 供 され た た め に, トレン クナ ーの 編纂
計画 は次第
に 増広 さ れ , こ う して2
人の 著者
が1924
年
に刊 行 を開 始したパ ー リ語 辞 典は, トレ ン クナ ーの収集
し た紙 片ば か
104
バ ーリ学 仏 教一文化 学りで は な く, トレン ク ナ
ーが見る こ との な かっ たパ ー リ聖 典か ら採 用 し た資
料に も基づ くもの となっ て い た。 辞 典は
ACritieal
Pali
Dictionary
と名づ けら れ た。 この 名 称は ,世にあるパ ー リ聖典の曖 昧な筒 所につ い て , その 読み
方
を確定
する に は聖典
本文の 対 照 批 判が必 要である という
こ とを示
す もの で ある。 ア ナス ンは, 将 来の テ ー ラ ワ ーダ文献
の 比較研究
に備
え, その 基礎
の 確 立 をめ ざした 。 その た めパ ー リ文 献の 研 究に専 念 し, ブ ッ ダゴ ーサ や ダン マ パ ーラ などの 南 方の パ ー リ学 者た ちが 註解 した こ とに よっ て 変形 して しま っ た 聖典
の本文
を対 照
批判
して元の形
に復 す
るこ とに全力
を傾注
した。CPD
の完
成 に要する年
月は, 今で も 正確
には予 測で き ない 。CPD
の内 容 と その編集方針
とを考慮
して み れ ば, アナス ン とス ミッ トが15年
で完成
でき
る と考
えた こ とは驚
き以外
の 何 もの で もない , 母音
a の項
を内容
とする第
1
巻
を編集
出版
する だけで15
年
以 上 か かっ て し まっ た か ら で ある。〔
ス ミッ ト〕
ス ミッ トは,
多
年 にわ た りア ナ ス ン の 共 同研 究 者 と し てCPD
事 業に携・わ っ た人で , 当 時の 最 も著 名 なパ ー リ学 者の1
人で あっ た。 パ ー リ語や中期 イ ン ド語 をめ ぐっ て当 時論議 され た 問 題 に彼が 与えた影
響の全体
を評
価す る こ とは難 しい ,、 な ぜ なら彼の研 究に は, パ ー リ聖 典 中の 問題 と され た章句
を 明 快に再 建 した り, 聖 典 本 文の 問 題 箇 所 へ の 示 唆に富 む批 評 などが多
く , その 大半
が.書簡
の 中に秘 蔵 さ れて い る よ うな状 態だ か らで あ るu多勢
の ヨ ーロ ッ パ の 学者 に宛て た彼の 書 簡の 全て が まとめて 出版で もされ れ ば, パ ー リ研 究 や 中期イ ン ド語学
へ の彼
の貢献
ぶ りも明 らかになろ うという
もの である 。 そ の うちの ア ナス ン に宛て た書 簡はすべ て コ ペ ンハ ーゲ ン のCPD
事
務 局に収 蔵 されてい る。 アナス ン は, パ ー リの 難 問につ い てス ミ ッ トか ら手 紙で意 見 を寄せ られ る と, その つ ど手 紙 に紙 片 を付けてい つ で も参
照 で きる ように し て い た。 とこ ろ がCPD
の外国人 共同研 究 者が ス ミ ッ トの 見解を親
し く知 ろ うとする と, 別の 問 題に悩 まされ る こ とになる。 アナス ン宛ての ス ミッ トの 書簡
はス ウェ ーデ ン語で書か れ た た め , 理 解で きるの はス カ ンデ ィナ ヴィ ァ<紹 介>1批 判 的バ ーリ 語 辞 典」 の 理 解の た めに 】
05
人に限られ る か らで あ る。ス ミ ッ トは
1882
年 に ス トッ ク ホ ル ム で 生 ま れ,1908 年
に ウ プサ ラ(
Uppsala
)大 学 で修士号 を取 得 し,1921
年に ル ン ト (Lund )
大 学の イ ン ド 言語 学の 講師とな り,1936年
に ウ プサ ラ大学の 比 較言 語 学とサ ン ス ク リッ ト語
の教授
に任命
され た。1925
年
に ル ン ト大学 か ら名誉博
士号
を授与
さ れ,同
年パ リ の ア ジア協 会の名 誉 会 員,1927
年 に デン マ ー ク学
士 院の外
国会 員
, ]949
年
に王 立 アジア協会セ イロ ン 支 部の 名誉 会 員と なっ た。Paramatthajotika (
4
vols .PTS
)をユ915
年か ら1918
年 にか けて 出 版 し たス ミッ トは ,1925
年にPTS
か ら F1ダ ン マ パ ダ』 の 第1
章
で あ るYamakavagga
の註 釈 を編 集 する ように要請
を受
けた。 ノ ーマ ン版
の当該部分
が絶版
となっ てい た か らである。1928 年
には, 不 朽の名 著
とな るSaddanlti
(
ビル マ の大
文 法 家Aggavaiiisa
に帰せ られ るパ ー リ文 法 書 )全6
巻の第 1 巻
を世に送っ コンコt−タン ス た。 こ の 著 作 には,Saddanlti
と他
の パ ー リ文 典
の要語索引
,本文
と引 用文
との 索 引, ア ッ ガ ヴァ ンサ の文法
用語
の体系的説
明が盛 り込
まれ た。 こ うし た原 文の 対照批 判に発揮
さ れるス ミッ トの手
腕の 冴えは,CPD
を大い に力 づ ける もの であ っ た。彼
は,論文
を起
草 し (アナス ン の 手に よっ て 最終 的に ア ァタnタ ア で ゾ/ −− 文章化
さ れ た もの は最高
の出来
と患う)
, 註釈
や複
註文献
の 抄 録 をつ くっ た ほか, 引用文を批 判 的に検討
で きる ようにする こ とが自分の 使 命と考
えて い た。彼
は, 現存
の パ ー リ聖典の 不 十分 さ を痛 感 し , 重 要な聖典 本文
の 訂正 を示 唆す
る内容
の論文
を精力 的
に執 筆
し た。数年
間の パ リ滞在
期 問 中に 」.Bloch
をは じめ と す るフ ラ ン ス の言 語 学や文献
学の学 者たちと親 密 に交 流 す る よ うに な り,Bloch
の 研究 (
L
’indo
−aryen
du
V6da
auxtemps
medernes ,1934
)
に も寄与 して い る こ とは間違い ない 。 ス ミッ トは,20
世紀の フ ラ ン ス 言 語 学の体 系 的な言 語 分析の 方 法を学ぶ こ と によっ て 中期 イ ン ド語へ と接
近 した。彼
が し き りに寄稿
して, 一 定の 言 語 と は如 何 なる もの で あれ体系
で あ っ て無 作為
な集積物
で は ない , という
こ と を中期
イン ド語 学は考 慮 に入 れて い ない と指
摘 したの はこ の た めである。 た と え ば ,筆 者が最 近目 に した ア ナ ス ン宛て の書簡
の 一節
で は, プ ラ ー ク リ ッ トの奪
格(
ablat 重ve)
の なか に はlO6 パ ーリ学イム孝夊文イ
Ltn
?.: .a血 の形 も認め ら れ る と ギ張 する ドイツ の高 名な学 者の著 作に対 し て, 彼は辛辣
な批評
精神
を存
分に発揮
して い る 。今
日で はそ れがパ ー リ におい て も同 様の例 を数 多 く認め た リュ ー ダース に帰 する学 説で ある こ とは よ く知 ら れ て い る が , ス ミッ トは正 しか っ た の で ある。 −ath とい う形の奪格
はな く,系統
だて て考
えれば, −a血 の 形の奪
格 など全 くあ りえ ない こ とがわかる。 われ わ れ は, 特殊
な格 変 化の 語尾は意識 的に取 り扱わ ない こ とに してお り, む し ろ, .atn の 形が 予想
さ れ る箇所
に 一a の形
が現れ る とい う事実
か ら も明らか な よう
に,占
い 写本
やパ ー リ の音韻
の変化
という
もの を , 個 別の 研究
課題 と し て 取り扱 っ て い る。 語尾 が 一a と 一aih の ど ち ら と も確
定せず に使わ れ る とい う こ とで, それ が補
語的
用法
で ある と結論
でき
る。 ス ミ ッ トは, それ に気
づ い て い た:が ,自
分の 見 解 を論文
に ま とめ て発表
し よ うと は思わなか っ ただけで ある。 皿ア ナス ンが
1940
年に亡 くなる と, ス ミッ トが編 集 長 と なっ て作 業 を続け,第 1
巻 を完 成 させ たが, その 後CPD
は約15 年
問休 1L
状 態に入る。 ス ミッ ト の後 を継い で1950
年代 半ば に編 集 長 と なっ たデ ン マ ー クの イ ン ド学 者Hans
Hendriksen
が 退 任 する と, もはや 事 業の 復 活 は 困 難と思わ れ た。 だ が,CPD
編纂事業
の継続
に向
けて国際
的な努 力
が幾
つ か試
み ら れ た 。先ず
1957
年
8
月に 開か れ た第
24
回 国 際東 洋
学会
ミュ ンヘ ン大会
で は,1
つ の 決 議が 採択 され た。 「国際東
洋 学 会は , 第24
回大 会にあ た り, デ ンマ ーク学士 院 が着手
したACritical
Pali
Dictionary
の緊
要 性に鑑みて, 仏 教学
の み な らずイン ド
学
や イン ド言 語 学に携
わ る研 究者
の 総意
と して, 同学L
院が デ ン マ ー ク 政府
の援
助 を受けて, 当該
辞 典の編纂業
務を再 開し, その すみや か なる完
成 に向けて必 要な措 置を講ず る こ とを希 望す る」 とい うもの で あっ た。 翌年9
月の コ ペ ン ハ ー ゲ ン 大 会 で も 再 確 認 さ れ た こ の 決 議 に カ ー ル ス ベ ァ (Carlsberg
) 財 団が 応 え,1
年に限 りCPD
業 務の 継 続 を保 証す る代
わ り に,国
際 的広が りの 上 に編 纂事
業 を続 行 する ための 新 しい計 画 を立案
する よう
に〈紹 介〉 『批 判 的パ ーリ語辞 典』 の 理解 為鐙些一 IO7
求
め て き たc デ ンマ ー クの ラ ス ク ・エ ル ス テ ッ ド(
Rask
−Oersted
)
財 団は , 会議の 開催 費用 を拠 出 した。CPD
委
員会
議 長の ハ ン メ リッ ク(
L
,Hammerich
)
教 授は,1958年 6 月
ブ リュ ッ セ ル で開
か れ た萬
国学士
院連 合 (
UAI
)
の 会議 に 重要な提 案 を行 っ た。 そ れは, 同 連 合がCPD
編纂事
業の ため に特 別 委 員 会を設置 して , そ こ で 詳細な事 業計
画を検
討 し,次
回の 会議に提 出 する という
もの である。 そ れ には,CIPSH
の 予算
を充 当で きる よ うに働 きか け る勧
告を行 うこ とが 望 ま れ , そ して ユ ネス コ の 資金援 助を得る とい うこ とで あっ た。 つ い で ハ ン メ リッ ク教授
は , コ ペ ンハ ーゲ ンで 編 集 業務
を継続
す るには どの よう
な あ り方
が望 ま しくR
.つ 可 能で ある か につ い て , 会 議の ゲス トた ち が提
諤を ま とめる よう期 待 する と言 明した。 そ れ がで きな け れば, 事 業 を別 の 場 所へ 移転 する計
画 を発 動せ ざるを えなかっ たの である 。会議
の参加者
の 間に は,CPD
の 編 纂は極め て 重 要な事
業なの で如
何なる犠 牲 を払っ て で も 継 続 すべ きだ とい う合 意があっ たが, 当時す でに デ ンマ ー クの イン ド学 者た ちの負
担は その受
容 限度を はるか に超 えており
,外国
の学者
の助力
な しに事
業
の 遂 行は不ロ∫能 とい うこ とも明 らか であ っ た 。 こ うしてCPD
事
業は国 際 的 な広が りのH
にかろ うじて 継 続 さ れ た が, ま た困 難i
な問題 も抱え込んだ。 数 人の 外国学
者の参
加 を得
た に もか か わ らず,各
分冊の刊 行 速 度 が 早 まる気 配は何 も見 られ な か っ た、、 コ ペ ンハ ーゲ ン のCPD
事
務 局では , デ ン マ ー クの 編 集 責 任 者
Moller
−Kristensen
とElse
Pauly
女
史とが編 集と調 整の2
つ の業務
の ほ と ん ど を担 当
した。 彼 ら はCPD
に多
数の 原 稿 を執筆
し た こ とで も 貢献
してい る。1971
年 まで に, 第2
巻 (母 音A
−O
)の 全 資 料 と第3
巻 の第
1
分冊(
子 音K
−)の 資料
が, チ ェ コ ス ロ ヴァ キア, デ ンマ ー ク , イギ リス , フ ラ ン ス , ドイツ , オラ ン ダ, イン ドな どの 学 者に配 分 され た。彼
らの多
く が,CPD
の採
用 した編纂
の 原 則 に精 通 するため に, コ ペ ンハ ーゲ ン を訪
れ て もい る。CPD
第2
巻 は, .Metler
−Kristensen
の 監修の も とにee
1
分冊か ら 順 次 刊 行 さ れ たが ,第5
分冊以 降は ア ル ス ドル フ(
LAIsdorf
)
教 授 の 責 任 編 集 と なっ て い る。 第1
−4
分冊 で は個
々 の執 筆者
の 言 語 学 的課 題へ の接 近 方 法に か な りの 相違が見 ら れ る が, アル ス ドル フ教授の編 集になる第
5
分
冊lo8 ノマー・リ’蓍をイム教 文 イ匕‘亨: 以