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太宰府崇福寺跡発掘調査資料に関する研究 -九大崇福寺瓦による中世瓦の編年考察 [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)太宰府崇福寺跡発掘調査資料に関する研究 - 九大崇福寺瓦による中世瓦の編年考察 -. 大屋 綾乃 1. 研究の背景と目的* 1,2,3,4. が発達していた。 また九州は本州と隔絶されている点 ・. 九 州 大 学 工 学 部 建 築 学 科 に は、 昭 和 42 年 の 太 宰. 朝 鮮 瓦 の 影 響 が 多 分 に あ る 点 か ら、 そ の 技 術 の 変 遷. 府崇福寺跡発掘調査で出土した瓦 ・ 土器類が仮蔵さ. は全く異なる流れをくんでいる。. れている。 (以下、 崇福寺瓦. (注1. ・ 崇福寺土師器). 例 え ば、 佐 川 氏 の 丸 瓦 凹 面. 崇福寺は 1240 年の開山後は後嵯峨院から 「西都法. に対する分析も九州では当て. 窟」 の勅額を賜るなど、 当初より博多はじめ北部九州. はまらない。 粘着度向上として. 禅林文化の拠点として機能した寺院である。 また永禄. 採用されているのは吊り紐の数. (注. を増やすという手法であり、 平. 建立と併せて禅林文化構築の要となった。 現在、 崇. 均して少なくとも5本以上~十. 福寺瓦は九州の中世瓦編年の示準として参照されてお. 数本通されている (注8 。 その他、. ~天正初期には大友氏の支配下にあって、 寿林寺 2. り. (注3. 、 共伴した土師器についても同様である。 しかし. 丸瓦凹面のコビキ A 痕 ・ 凸面. ながら、 これらの実年代に関する十分な考証が行われ. の縄目の叩き痕なども同様で、. ているとは言いがたい。 太宰府中世史の大きな転換期 (注4. 図 1:九州型の吊紐痕. 近世まで技法が踏襲される場. の撤退にあると捉え、 この. 合が多い。 九州大学建築学科. 年代観を瓦 ・ 土師器編年の断絶に重ねる状態が続い. は永禄~九州出兵期以前とみ. ているためである。. られる立花山城の丸瓦を 1 点. は 1499 年の武藤少弍氏. 仮 蔵 し て い る が、 先 述 し た 痕. 今回、 九大崇福寺瓦と併せて九州歴史資料館が所 蔵する昭和 42 年発掘調査の原資料 『太田静六資料 5. (注. 跡を全て確認できる。. 』 を精査する機会を得た。 太田資料から確認された. したがって瓦の実年代を与. 二期 (創建期 ・ 再建期) の遺構面と出土物の実年代. える資料が必要不可欠であり、 その場合土師器が多く利用さ. について 『崇福寺文書』 より推察した結果、従来の瓦・ 図 2:立花山城丸瓦拡大. 土 師 器 編 年 に 疑 問 が 生 じ た。 そ こ で 本 稿 で は 崇 福 寺. 上 : 縄目の叩き痕 下 : 吊り紐痕 コビキ A 痕. 瓦の編年案を再検証した。 2. 中世瓦編年 : 技術論 2-1. 先行研究. * 4,16. れるが、 先述したように九州で は 1350 年ころを境に土師器の. 出土量が激減する。 崇福寺土師器も中世後期の数少. (注6. ない例の一つであり、 このころの土師器編年には不確. 1980 年代までの瓦研究で最も有効な判断材料は軒. 定な点が多い。. 丸瓦や軒平瓦の瓦当文様分析であり、 それに補足す. 3. 太田静六資料. るような形で顎形態の変化など製作技術による分析が. 3-1. 概要* 5,6,7,8,9. 行われていた。 しかし文様分析や顎形態をもとにした. 昭和 42 年 7 月 7 日より2ヶ月にわたり、 太田静六氏を. 編 年 に は 限 界 が あ り、 数 十 年 の 年 代 判 定 を 瓦 の 形 態. 調査主任とした調査団によって崇福寺別院の発掘調査が. そのものから与えることは非常に困難であった。. 行われた。 昭和 43 年には太田ほか4名により 『崇福寺跡. このような瓦研究を飛躍的に発展させたのが佐川正. 発掘調査報告』、 昭和 45 年に追加報告として土田充義ら. である。 佐川氏は丸瓦の製作技法に着目し、. により 『崇福寺跡発掘調査報告 (2)』 『崇福寺跡発掘調. まず丸瓦凹面にあらわれる布目と吊り紐痕の状態で年. 査報告 (3)』 が発表された。 一連の報告では検出された. 代を細分した。. 二つの時期の遺構面について、 礎石や基壇といった寺院. 2-2. 九州. の建築的な要素に関わる部分のみが取り上げられており、. 博多 ・ 太宰府は本州 (当時、 本州での瓦生産の中. 本調査で出土した大量の遺物は清書図面の中から省略さ. 心地は大和 ・ 和泉 ・ 京都であった) に劣らず瓦生産. れている。 いずれの報告でも、 考古遺物に関する調査. 敏氏. (注7. は 「後の追加報告に期待する」 と述べられるに留まった。 27-1.

(2) 3-2. 出土物* 4,20. 3-4. 土師器* 10,11,12,13,14,15. 崇福寺発掘調査で出土した瓦器類は、軒平瓦 39 点・. 今 回 出 土 し た 土 師 器 群 は、 杯 2 点 ・ 小 皿 A 2 点 ・ 小. 丸 瓦 11 点 ・ 軒 丸 瓦 34 点 ・ 土 師 器 12 点 ・ 鬼 瓦 そ の. 皿 B 7点 ・ その他1点であった 㻺㼛㻚 ฟᅵᒙ఩. 他 が 21 点 で あ る。 こ れ ら 117 点 の 出 土 物 に つ い て、 写真撮影 ・ 採寸. (注9. ・ 可 能 な 限 り の 分 類 を 行 な っ た。. について述べる. (注 10. 㻡㻞. 㻣㻟. 㻝㻣. 㻝㻚㻣. 㻠. 㻞 ➨୕ᒙ. 㻟㻥. 㻢㻡. 㻞㻝. 㻞㻚㻝. 㻠. 㻢㻞. 㻣㻠. 㻝㻢. 㻞㻚㻟. 㻡. 㻡㻜. 㻣㻞. 㻞㻜. 㻝㻚㻠. 㻟. 㻠 㻡 㻢. 。. ➨୍ᮇ 䝍䝍䜻㠃 ➨஧ᮇ ᩥ໬㠃 ୙᫂ 䠄ᅵሐὶ㎸ ➨஧ᮇ ᩥ໬㠃 ➨୍ᮇ ᩥ໬㠃. 㻞㻟. 㻝. 㻞㻚㻡 㻡. ᑠ─㻮 ᑠ─㻮 ᑠ─㻮 ᑠ─㻭 䠛 ᆗ. 㻝㻞㻝. 㻞㻥. 㻝㻚㻝. 㻝㻞㻣. 㻟㻝. 㻝㻚㻡. 㻠. 䝦䝷. ᆗ. 㻤 ➨஧ᒙ. 㻤㻜. 㻝㻞㻞. 㻞㻜. 㻜㻚㻥. 㻟. 䝦䝷. ᑠ─㻭 䠛. 㻥 ➨୕ᒙ. 㻢㻜. 㻣㻡. 㻝㻠. 㻞㻚㻟. 㻠. 㻠㻡. 㻢㻡. 㻞㻞. 㻞㻚㻥. 㻡. ➨୍ᮇ 㻝㻝 㑇ᵓ㠃 ➨஧ᮇ 㻝㻞 ᩥ໬㠃. ᅇ㌿ ⣒ษ䜚 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚. ᑠ─㻮 ᑠ─㻮. 㻠㻤. 㻣㻢. 㻝㻤. 㻝㻚㻟. 㻟. ୙᫂. ᑠ─㻮. 㻝㻡㻡. 㻟㻟㻠 㻔᥎ᐃ㻕. 㻝㻞㻜. 㻝㻚㻠. 㻝㻜. ୙᫂. ᆗ㻮. 表 2:崇福寺土師器詳細. いずれの分類も二つの層から出土している。 土師器 は耐用年数が短いという前提条件にのると. (注 15. 、 創建. 期の終焉から再建期形成までの時期差はそれほど長く. 図 4: Ⅱ型軒平瓦 No.12 線描がほとんど消えか かっているが、Ⅲ型と ( 注 11 は異范型である 外形はⅠ型に続き、肉 厚で反りも大きい。. なかったのではと考えられる。 また、創建期出土の 「小 皿 B」 などは創建期末~再建期形成前に製作されたも のではないだろうか。 崇福寺の土師器は従来. 図 5: Ⅲ型軒平瓦 No.35 Ⅰ型に比べ線描文様の 退化が見られる。また 外形が扁平になり、Ⅰ Ⅱ型から下った印象。. 15 世 紀 ま で に お さ ま る も のと理解されてきたが、 こ れは観世音寺の最上層 溝 SD1805 より出土した類. 図 6: Ⅳ型軒平瓦 No.2 宝珠が肉彫りになるほ か唐草文が変化し、再 び曲線性が強くなる。 Ⅲ型とⅣ型の前後関係 は明示できない。 図 7: Ⅴ型軒平瓦 No.14 唐草文の巻きなど若干 退化し、宝珠脇の支葉 にも変化が見られる。 外形がやや扁平になっ た印象である。. 似 形 の 土 師 器 15 点. ( 注 16. を参照している (図 10)。. 図 10:観世音寺出土土師器. こ れ ら が 「 文 亀 元 年 (1501 年 )」 銘 の 木 簡 と 共 伴 し て 出土しており、 また観世音寺土師器より下った型の土 師器が出土していないためである。 観世音寺や崇福寺 の土師器は中世太宰府編年の最下限として示準化して おり、 15 世紀以降の編年は全くと言っていいほど組ま れていない。 し か し、 SD1805 か ら は. 図 8: Ⅵ型軒平瓦 No.25 宝珠が簡素になり、唐 草文も明らかに退化し ているが、支葉の形が Ⅴ型を引き継いでい る。 ศ㢮 ๰ᘓᮇ ෌ᘓᮇ ୙᫂ ィ 䊠ᆺ 㻞 㻡 䚷䚷䚷 㻣 䊡ᆺ 㻜 㻜 㻝 㻝 䊢ᆺ 㻜 㻝 㻜 㻝 䊣ᆺ 㻝 㻝 㻜 㻞 䊤ᆺ 㻝 㻥 㻞 㻝㻞 䊥ᆺ 㻜 㻝㻝 㻝 㻝㻞 ィ 㻠 㻞㻣 㻠 㻟㻡. 㻝㻝㻤. ᑠ─㻮. 㻢㻤. 㻝㻜 ୙᫂. 図 9:崇福寺土師器. 㻡㻤. 䝦䝷䠛 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚 ᅇ㌿ ⣒ษ䜚. 㻤㻠. 㻣. 図 3: Ⅰ型軒平瓦 No.4 線描の文様は曲線が豊 かで、左右が非均一で ある。外形は反りが大 きく肉厚で、平安期の 面影を残す。. 。. ୙᫂ 㻝 䠄ᒾ┙ୖ㠃䠅. 㻟. 以下では、 編年の要となる軒平瓦の瓦当文様と土師器. (注 12 ・ 13 ・ 14. ᗏᚄ㻔㼙㼙㻕 ཱྀᚄ㻔㼙㼙㻕 ჾ㧗㻔㼙㼙㻕 ჾ㧗ẚ⋡ ჾቨཌ㻔㼙㼙㻕 ᗏ㒊ษ㞳䛧 ศ㢮. 他にも平安期瓦 (図 11) や木製品など全く年代の 異なるものが出土してお り、 非 常 に 長 い 時 代 を ま た が っ た 層 で あ る。 そ の. Ⅰ~Ⅵ型を通してみると、 先述 したようにⅢ ・ Ⅳ型の厳密な前後. (注 17. 図 11:観世音寺出土軒平瓦. ため、 土師器の年代を木. 関 係 は 不 明 だ が、 最 後 尾 と み る. 簡1点の共伴より 1500 年と断定するのは疑問が残る。. Ⅵ型が全て第二層より出土してい. たしかに観世音寺土師器は概して 13 世紀以降である. ることから、 概ねこの順序に問題. 特徴が見受けられるが、 形状から年代の下限が 1500. はないように思われる。 また、 ⅠⅣⅤ型はいずれも二. 年かどうかまでは現編年では推定できないように思われ. つの層にまたがって出土しているが、 Ⅰ型とⅤ型では. る。 つまり、 以上の考古学的検証では実年代を与える. 形態的に明らかな時期差が生じているのが分かる。 中. には至らなかった。. で も Ⅴ 型 は 再 建 期 に 偏 っ て 出 土 し て い る こ と か ら、 こ. そのため、 今回崇福寺瓦については土師器ではなく. の型は創建期中でも末期の所産ではないかと推察でき. 以降述べる 『崇福寺文書』 によって層位年代を整合. る。 しかし、 瓦当文様ふくむ形態分析で明らかにでき. 的に理解し、 土師器の実年代についても検証したい。. 表 1: 軒平瓦出土層位分布. るのは相対的な順序のみであった。 27-2.

(3) 4. 崇福寺関連文献資料* 17,18,19,20,21. ではまだ僧が下向しておらず、 その上であくまでも塔主で. 『福岡市史』 では全 29 通の書状を収録しており、 今回. ある宗悦自身に下向を求めているのだ。. はそのうち再建期前後~廃絶期で再興事業に関連すると. 永禄十年以前 (推定) の 『怡雲宗悦書状』 では. みられる以下 15 通の書状を概観した。 (表 3) ␒ྕ ᭩≧ྡ ኱ᐓᗓᕷྐ ୰ୡ㈨ᩱ 㧗ᶫ㚷✀᭩≧ 㻟㻟㻤 ⚟ᒸᕷྐ䚷ᓫ⚟ᑎᩥ᭩. ᪥௜. ᕪฟே. Ọ⚘஬ᖺ 㚷✀ ୕᭶༑භ᪥ Ọ⚘஬ᖺ ⩏㙠 භ᭶༑୕᪥. ୐. ኱཭⩏㙠᭩≧. ஧༑ᅄ. ኱཭⩏㙠᭩≧᱌. ஧༑୍. ኱཭Ặᖺᐤ㐃⨫≧. ஑. 㧗ᶫ㚷✀᭩≧. ஬. ኱཭᐀㯌᭩≧. ஧༑஧. ኱཭Ặᖺᐤ㐃⨫≧. ༑ඵ. ᛱ㞼᐀ᝋ᭩≧. ⮞᭶ᛕ୕. ༑. 㧗ᶫ㚷✀᭩≧. ඖடᘨᖺ 㚷✀ ୕᭶ᘘ஬᪥. ඵ. ඖடᅄᖺ ኱཭Ặᖺᐤ㐃⨫ዊ᭩᱌ භ᭶༑᪥. ㉺୰Ᏺ ㏆ỤᏲ ᏳᡣᏲ ⣖ఀ௓. ඖடᅄᖺ ኱཭᐀㯌᭩≧ୗ᱌ භ᭶༑᪥ ⮻ᯂ㚷㏿᭩≧ ༑᭶༑୐᪥ ᑠ᪩ᕝᐙ⮧㐃⨫ ኳṇ༑஬ᖺ ᓫ⚟ᑎ㡿␊᪉ᙜᅵ㈉ὀ ஻୎༑᭶ᘘ ᩥ ஧᪥ ኳṇ༑஬ᖺ ᓫ⚟ᑎ㡿ὀᩥ ༑᭶ᘘභ᪥. 㚷㏿ ஭ୖཪྑ⾨㛛ᑚ 㬼㣫᪂ྑ⾨㛛ᑚ ᱇ᐑෆᑡ㍜. ༑୍ ༑஧ ༑஑ ஧༑ ஧༑஬. ᯾ぬ᭩. Ọ⚘஬ᖺ ⩏㙠 භ᭶ᘘ୕᪥ 䠄ⓑᯂ䠅㚷㏿ Ọ⚘஬ᖺ 䠄ᡞḟ䠅㚷㐃 ඵ᭶භ᪥ 䠄ྜྷᘯ䠅㚷⌮ 䠄ྜྷᒸ㛗ቑ䠅᐀່ Ọ⚘භᖺ 㚷✀ ୕᭶୍᪥ Ọ⚘භᖺ ༑୍᭶༑භ ᐀㯌 ᪥ Ọ⚘භᖺ Ⰴ㏿ ༑୍᭶༑භ ᐀Ḽ ᪥. ஬᭶ඵ᪥. ᛱ㞼᐀ᝋ. ᐄඛ. 「当寺之儀、及断絶之由候、天下無其隠禅窟之事候条、. せ᪨. ( 中略 ) 先以方丈可有建立候、仍大応国師御影卓絶崖. ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ⾗୰ ᓫ⚟ᑎಖㆤ䛾せㄳ. 之賛令寄附畢、必来春者、可被成寺家再興之御下知候、. ኱཭䛾ᓫ⚟ᑎಖㆤ ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ⾗୰ Ᏺㆤ୙ධ Ọ⚘୕ᖺ䛾ⅆ⅏䛻ᑐ䛩䜛෌ᘓ䛾ᣦ♧ ᛱ㞼࿴ᑦ ᓫ⚟ᑎ෌⯆䜈ྥ䛡䚸 ౝ⪅⚙ᖌ ⍞ᓟ㝔䜈䛾ൔୗྥ䛾せㄳ ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ⾗୰. 至諸末寺入魂専一候、愚老卿不可有心疎候、( 以下略 )」 とあり、 崇福寺が再興途中であること ・ 宗悦和尚が崇福寺. Ᏺㆤ୙ධ Ọ⚘୕ᖺ䛾ⅆ⅏䛾グ㏙. を 「天下無其隠禅窟」 と高く評価していること ・ 大応国師. ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ⚙ᖌ ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ ᫴㤳ᗙ. ൔ䛾ᚚୗྥ䛾䛯䜑䛻䜒 ᓫ⚟ᑎ䛾෌⯆䜢᥎䛧㐍䜑䜛䜘䛖ᣦ♧. の肖像を贈り、 自らも再興事業を心に留めていると伝えて. ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ ᫴㤳ᗙ ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ ᫴㤳ᗙ ᶓᓅᒣ ຾⚙㝔 ౝྖୗ. いることが読み取れ、 先述の働きかけが宗悦和尚にも伝. Ọ⚘༑ᖺ௨๓䛾᭩≧䛸᥎ᐃ. わっていることがわかる。. ᑑᯘᑎ. ᑑᯘᑎ䜈ᓫ⚟ᑎ䜢㑏㝃䛩䜛. また、 「天下無其隠禅窟」 といった禅寺としての高い評. ᕥ⾨㛛╩ධ㐨᐀㯌 ᑑᯘᑎ. ᑑᯘᑎ䜈ᓫ⚟ᑎ䜢㑏㝃䛩䜛. 価は 『筑前国続風土記』 でもみられ、 貝原は崇福寺の頁. ᓫ⚟ᑎ⣡ᡤ. を 「四條院仁治元年に、 湛慧、 太宰府横岳に一寺を建 ᓫ⚟ᑎ⾗୰. ᓫ⚟ᑎ䛾ᑎ㡿ሗ࿌. 立す。 (中略) 聖一の師經山の佛鑑禪師無準和尚能書な. ྂ㊧ᩥ᭩ ⪥ᕝ䛾ྜᡓ䛻䜘䜚 ᖖಟᆓ䝜஦䜰䝸䚸 ᒾᒇᇛⴠᇛ. りしが、勅賜萬年崇福禅寺の扁額を、自筆して聖一に興ふ。. 表 3: 書状一覧・概要. まず永禄五年六月 (1562 年) の 『大友義鎮書状』 に. 聖一其額を持来り、 此寺に掲て寺號とす。 (中略) 後嵯. 「筑前国横岳山崇福寺領末寺領之事、 (中略)去々年諸. 峨院寛元元年に勅詔有て、 博多の承天寺と同時に官寺と. 堂塔炎上之由候条、(中略)先以仮堂之格護肝要候、. なり、 西都法窟と云 勅額を賜ふ。」 と始め、 後嵯峨院よ. (以下略) 」 とあり、 「(永禄五年から) 二年前 (永禄三年). り 「西都法窟」 という勅額を賜った事実などを述べている。. に火災が発生した」 と解釈できる。 それに対し、大友は 「ま. 大友の継続的かつ周囲への強い働きかけが作用し、 元. ず仮堂の格護が肝要である=仮堂. (注 18. から再建せよ」 と. 亀四年六月には宗悦和尚が下向、寿林寺を開山している。. 指示している。 今回精査した野帳および発掘当事者への聴き取り. その時の 『大友宗麟書状下案』 にて「横岳山崇福寺之 (注 19. 事、依為御本寺令還附乞、云寺家、云寺領、如前々被. により、 創建期には焼土層があったことが判明している。. 成御存知、全寺務、修造・勤行等、不可有怠慢之状如. 焼土層の原因の一つとして永禄三年の火災の可能性が挙. 件、 」とし、 寿林寺へ崇福寺を還附している。 寿林寺の事. げられるだろう。 以降は、 この再興事業が実際に機能して. 業と並行して崇福寺再興を推し進め、 建設事業と事業運. いたのかを検証する。. 営いずれも一定の水準に達したことがうかがえる。. まず、 仮堂再建を指示した同年六月の 『大友義鎮書状. このように崇福寺再興に関して大友は各方面で動いてお. 案』 で「筑前国横岳山崇福寺領末寺領之事、近年依乱. り、 他の書状でも建設作業の進捗を伺ったり再建が滞らな. 国、諸堂塔及破脚候、彼寺之事、既為御本寺上者、号. いよう留意させるなどしている。 これら一連のやりとりは元. 住持職、誰有卿下向、( 以下略 )」とあり、 火災により荒. 亀四年 (1573 年) ころまでみられ (注 21 、 この復興事業は. 廃した崇福寺を立て直すために本寺である大徳寺の瑞峯. 一定の結果を生んでいると考えるのが妥当であろう。. 院より僧をよこすよう要請している。. また、 天正十五年の 『崇福寺領注文 ( 注 22』 では、 「(端裏書) 「崇福寺」三笠郡横岳山崇福寺領之事(中略). しかし、 僧の下向は簡単にはいかなかったようだ。 「西都 法窟」 とされた崇福寺であったが、 都から遠く離れた西国. 以上四拾町六段、当知行分、. の寺へ僧を遣ることに大徳寺側は前向きになれなかったの. 三笠郡之内:一三町(末寺)定光庵. かもしれない (注 20 。. 一参町(同)光台寺. 同年十一月の 『大友宗麟書状』 では. 一三町(同 岩屋虚空蔵)能満寺. 「横岳山崇福寺之事、宗悦和尚被成御存知、再造之儀、. 那珂郡之内:一三拾町 野多目村 夜須郡之内:一弐拾五町 東小田村. 被仰付候条、急度以下国、寺領末寺等堅固申調、修造. 肥前国神埼:一百町 横岳牟田. 巳下卿不可有緩候、( 以下略 )」とあり、 「宗悦和尚も再. 豊前国田川郡内 : 一三拾町 阿多賀村. 興事業については御存知であるので、 再興事業を間断な. 以上、 百九拾四町、 近年不知行分、 (以下略)」 とある。. くすすめるように」 と晋首座に宛てている。 つまりこの時点 27-3.

(4) 先述した文書であるが、ここでは 「二百三十四町六段」. 脚注 注1)九州大学:木島孝之により参考文献1で仮称。. の領地内訳について 「四拾町六段については知行できて. 注2)崇福寺の本寺であり、崇福寺とあわせ大友氏の禅林文化事業の中心となる。 注3)参考文献2の「九州地方:中世Ⅵ~Ⅷ期」の代表例として取り上げられる。. いる (実効支配ができている)」 が 「百九拾四町について. 注4)太宰府は鎌倉時代になると、頼朝政権によって建久二年(1191 年)ころに は鎮西奉行天野遠景による幕府直属の政務機関が成立していたと言われている。 その後、鎮西に守護として赴任した武藤氏は南北朝期まで大宰府に守護所を構え、. は近年知行できていない」 という部分に注目したい。 まず 「近年不知行」 の要因として、 文書の9年前 (天. 太宰府少弍を世襲した。以降少弍氏は太宰府にて非常に強い影響力を持ち、少弍 氏退転は太宰府中世史において大きな転換期である。. 正六年) の耳川合戦での大敗、 そしてこれを機とする大. 注5)九州歴史資料館所蔵。写真資料:P418『福岡県太宰府市横嶽崇福寺』 図面資料:MD001『横嶽崇福寺発掘調査実測図一式』にて照会可能。これらの資 料精査については参考文献8を参照されたい。. 友家の衰退が想起される。 「近年不知行分」 の領地内訳. 注6)製作技術に関する先行研究は、佐川氏による丸瓦凹面の吊り紐痕による分析を 本論に掲載している。 (参考文献4) 注7)主な論文に『鎌倉時代の軒平瓦の編年研究 - よみがえる中世の瓦 -』『平安時代. には那珂郡 ・ 夜須郡 ・ 肥前国神崎 ・ 豊前国田川郡など があり、 これらはいずれも耳川合戦後に大友氏に反旗を. ~近世の軒丸瓦』 注8)今回実測したものでは、吊り紐の太さが 1mm 程度であれば 10 本程度・太さ 3mm 程度であれば5本程度という相関関係が明らかになった。. 翻す龍造寺氏 ・ 秋月氏 ・ 筑紫氏などの勢力圏に組みこま れた場所であった。 そのほか戦の渦中であっただろう場所. 注9)なお、完形でないものの寸法に関しては、そのままの寸法に加え、完形であっ た場合の寸法を推定出来る場合は追記している。. も含まれ、 「近年」 の時期を耳川合戦 (天正六年) と仮. 注 10)本梗概では編年の中心となる軒平瓦と土師器について述べる。その他、軒丸瓦 などについては本論を参照されたい。. 定すると整合的に理解できる。. 注 11)Ⅱ型と近い印象であるが、Ⅱ型は右端に円上の描写があるため、Ⅲ型とは 異なる范型としている。 注 12)全体を通して、小皿は概ね B タイプに属することがわかる。. つまり、 これ以前には百九十四町の領地にも実効支配 が行き届いたといえ、 永禄五年~元亀期の崇福寺再興事. 注 13)底部切り離し技法に 11 世紀半ばころから回転糸切り法が加わる。「小皿 B」と は 13 世紀末より出現するタイプであるため、底部はほぼ全て回転糸切りになる。 注 14)no.12 は明らかに大型で今回考察する編年のうちには該当しないが、坏と. 業が実際に機能していたことになる。 5. 結 中世後期瓦は形態そのものから実年代を明らかにするこ とは非常に困難であり、 実年代を与えうる資料が不可欠で ある。 3 章で相対編年を組んだのち崇福寺土師器の与え る実年代の妥当性に疑問を感じ、 『崇福寺文書』 を概観 した。 この一連の史料によって実年代を推定するならば、 崇福寺遺構面の第一層は創建期 (13 世紀末~ 1560 年 前後) ・ 第二層は再建期 (1560 年以降) となる。 従来の編年観では崇福寺瓦はおおむね 15 世紀におさ まるとされ、 それ以降の編年はほぼ断絶していた。 土師 器についても同様で、 15 世紀前後の示準に用いられてき た。 しかし、 再建期遺構面を 1560 年以降のものだとする と、 まず崇福寺軒平瓦Ⅵ型については少なく見積もっても 下限が 60 ~ 70 年下ることになる。. 同じ形状ではあるため便宜上「坏B」としている。後述する観世音寺の「坏B」 とは異なる。以降、個別に補足すると ・no.1 は底部がヘラ切りのようにもみえるが、ナデ消されているようで判別が難 しいため寸法より小皿Bと分類した。 ・no.5 と no.8 はともに口径が大きく「杯」としたいところではあるが、やや器 高が低いように思える。そのため亜種的に「小皿A」とした。 ・ 先 述 し た 編 年 を 鑑 み る と、no.7 と no.8 は 1000 ~ 1050 年 の も の、no.5 と no.6 は 1050 ~ 1100 年ころのものではないかと思われる。 注 15)土師器は陶器や瓦に比べ傷みやすく、そのため相対的に短い時代でしか存 在しないとされており、編年を組む際の前提条件になっている 注 16)寸法をもとに先述した大宰府編年と照らし合わせてみると、小皿Bは口径 6.5 ~ 7.9cm・器高 1.0 ~ 1.4cm と、小皿Bとするには器高がやや小さい。底部 は回転糸切りであるため、寸法を加味して 13 世紀以降の小皿Aとしても問題な いのではないだろうか。また、坏Aは口径 11.1cm・器高 2.5cm と口径 10.6cm・ 器高 3.0cm で回転糸切りで、1350 年以降に予想される寸法に近い。坏Bは口径 10.6 ~ 11.9cm・器高 4.1 ~ 5.5cm で器高がかなり高くなり、底径 4.5 ~ 5.4cm と口径に対し小さいことが特徴と述べられている。底部は回転糸切りなので 10 世紀半ば以降といえるが、坏Aを引き継ぐものなのか並列して存在する別種なの かは明らかでない。 注 17)参考文献 12 にて老司Ⅰ型(7~8世紀)と分類されている。 注 18)この「仮堂」が今回出土した第二層の遺構を指すのか、仮堂を経て再建された 「 (仮堂に対しての)本堂」であるかは文献資料からは明らかにできない。 注 19)発掘調査当事者の宮小路氏にヒアリングを行った。詳細は参考文献8を参 照されたい。 注 20)参考文献 20 にて同様の解釈あり。 注 21)表3:書状8・11. さらに 4 章での考察により、 仮堂建設の実動時期が元亀. 注 22)不知行分の領地の記載は一部抜粋して再構成している。. ~天正初期にあるような記述も見受けられ、 仮にそうなると 更に下限が 100 年近く下ることになる。 比較的新しい型で. *参考文献・参考資料. あるⅤ型も再建期より相当数出土している点から、 Ⅴ ・ Ⅵ 型生産の実質的なピークがこの時期に存在すると推察でき. 1『大応国師と崇福寺』(福岡市教育委員会:2007 年) 2『港湾都市と対外貿易 / 守護武藤少弐氏と都市太宰府』( 山村信榮 ) 3『季刊考古学第 97 号 / 中世寺院の様相:禅宗寺院』( 山村信榮:2006 年 ). る。. 4『中世瓦の研究』( 山崎信二:2000 年 ) 5 『崇福寺跡発掘調査報告』 ( 太田静六ら : 1967 年 ). これは共伴関係にある土師器にも当てはまり、 1500 年こ. 6 『崇福寺跡発掘調査報告 (2)』 ( 土田充義ら : 1969 年 ) 7 『崇福寺跡発掘調査報告 (3)』 ( 土田充義ら : 1969 年 ) 8 『太宰府崇福寺跡発掘調査資料に関する研究 - 野帳の整理及び分析 -』. ろまでとされた小皿 B の実年代が 1560 年以降になる可能. ( 九州大学 岩田和也 : 2012 年度修士論文 ) 9 『太田静六旧蔵 ・ 崇福寺関連資料 P418 ・ MD001』 ( 九州歴史資料館所蔵 ) 10 『太宰府条坊跡Ⅱ』 ( 財団法人 古都大宰府を守る会 : 1983 年 ). 性がある。 この新編年を観世音寺はじめ中世中後期の出 土物に適用すれば、 年代が下る土師器も相当数出てくる. 11 『大宰府史跡 昭和 56 年度発掘調査概報』 ( 九州歴史資料館 : 1982 年 ) 12 『観世音寺 遺物編Ⅰ』 ( 九州歴史資料館 : 2007 年 ). ことになる。 また、 先述した観世音寺 SD1805 に関する問. 13 『大宰府史跡出土軒瓦 ・ 叩打痕文字瓦 形式一覧』 ( 九州歴史資料館 : 2000 年 ) 14『九州考古学第 82 号 / 土師器食膳具から見た中世博多の土器様相』( 楠瀬慶太:2007 年 ) 15 『概説 中世の土器 ・ 陶磁器』 ( 真陽社 : 1995 年 ). 題にも一定の解決が与えられ、 従来空白だった 16 世紀 の土師器編年を再検証する余地が生まれる。 16 世紀中. 16 『図解 技術の考古学』 (有斐閣 : 1988 年) 17 『筑前国続風土記』 ( 文献出版 ). の生産活動を確認できれば、 中世太宰府の衰退を少弍氏. 18 『福岡市史 / 崇福寺文書』 ( 福岡市教育委員会 ) 19 『崇福寺収蔵品目録4』 ( 福岡市教育委員会 ) 20 『太宰府市史 考古資料編 / 中世資料編』 ( 太宰府市教育委員会 ). 撤退に結びつける現状も再考する必要がある。. 21 『増補編年大友史料二十一』 ( 田北学 編 : 1966 年 ). 27-4.

(5)

参照

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