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『虞美人草』 : 小野さんの物語

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﹃虞美人草﹄は明治四十年六月二十三日から十月二十九日まで、 百二十七回にわたって、朝日新聞に連載された漱石初の長編小説 である。漱石は四十歳。大学と高等学校の教職を辞して朝日新聞 社に入社し、職業作家として第一歩を踏み出した。発表当時の世 評は極めて高いものであったが、正宗白鳥等自然主義の作家から は、初めから厳しい批判を受けている。白鳥は漱石が封建的な道 義を振りかざしていると指摘し、﹃虞美人草﹄を旧式な道徳に締 られた﹁勧善懲感﹂ の作品としてとちぇた。後に漱石自身が﹃虞 美人草﹄を否定したことなどから、この作品は失敗作としてのみ 記憶され、その後の評価は白鳥の指摘と大差なかったといえるで あろう。この定説に対して平岡敏夫氏は ﹁﹃虞美人草﹄は何より も﹃文明﹄批判小説として読まれねばならない﹂㊥と新しい見解

を示し、諸家により様々な角度で甥再考が始まっている。しかし 漱石文学の研究の中では立ち遅れていることは否めない事実であ り、未だ普及されていない点が多く残されている。 物語は甲野さんと宗近君が叡山に登っている場面から始まる。 ﹁只死と云ふ事丈が其だよ﹂ ︵こといううららかな春の景色に 似つかわしくない ﹁死﹂ の話題は二者の藤尾の朗読の中に受け継 がれていく。藤尾は二度目登場場面でも 二年に一度だけれども、 死ねば今年限りぢあありませんかし ︵六︶と﹁死﹂を繰り返して おり、それが藤尾にクレオパトラの自殺に見合う程劇的な放期が 五十五黄

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訪れることを匂わせる重要な伏線となっている。叩野さんは ﹁楽 のないものは自殺する気遣がないし ﹁御前の様に楽の多いものは 危ないよし ︵十二︶と藤尾の死を予期していた人物であるが、腹 違いの妹に対して ﹁為すが櫨の発展に任せて、磐手をだにFL ︵ 十九︶ そうとはしなかった。それに対して西垣勤氏は﹁妹が小野 さんと結婚したいと思い、それを実行に移そうとしただけで、妹 のその気持ちと行為を﹃業深き人の所為﹄と思い、その自殺とい う﹃悲劇﹄に至るのもやむをえないと見ていることになる﹂ ②甲 野さんの心埋が全く埋解できないと述べている。 甲野さんがL﹁作中人物でありながら作品世界の現実を生きてい ないJ③ため、日常性に欠けるという指摘は否定できないであろ ゝ つ 。 高い、暗い、口のあたらぬ所から、うら1かな春の世を、 寄り付けぬ遠くに眺めて居るのが甲野さんの世界である。

、二

とあるように﹃虞美人草﹄の世界が日常生活の・﹁喜劇﹂ そのもの である中で甲野さん一人が現実の世界から掛け離れてしまってい る。﹁無二の友達とは云へ、父方の縁続きとは云へ、迂闊には天 機を洩らし難い﹂ ︵三︶ と自分の世界に宗近君さえも立ち入らせ ない甲野さんは、まさに孤高の人である。おそらく甲野さんを理 解できるのは ﹁開きたい事、話したい事も沢山あった。惜しい事 をした﹂ ︵十五︶ と言わせる四カ月前に死んでしまった彼の父親 であろう。﹁親父は貝の人である﹂ とは言っていても﹁父は死ん で居る。然し活きた母よりも憶かだよ。憶かだよ﹂ ︵十七︶ と父 親の持つ ﹁活きた恨﹂ にうつる自分を見つめて甲野さんは自らを ﹁不肖の子﹂ ︵十五︶と思うのである。 ﹁本当の哲学者になると、頭ばかりになって、只考へる丈か、 丸で達磨だね﹂ ︵一︶ と宗近君に批判され、﹁毎日々々愚図々々 して、卒業してから今日迄もう二年にもなるのに。いくら哲学だ って自分一八位どうにか﹂ ︵八︶すればよいのにと母には病癖を 起こされる甲野さんは﹁哲学で超絶してゐるんだから特別﹂ ︵二︶ だと藤尾の口から説明される。その厭世的な甲野さんと現実をか ろうじてつないでいるのは、﹁眼﹂ である。﹁瀾々相擁して思索 の郷に、吾を忘る1とき、惧悩の頭を上げて、此蝦にはたりと逢 へば、あっ、在ったなと思ふ﹂ ︵十五︶ この父の ﹁活きた眼﹂が 坪野さんを現実の世界に引き戻す。﹁活きた限﹂が甲野さんに迫 るように甲野さんも又、その ﹁蝦﹂ で実世界を見つめている。十 五輩における甲野さんの視線に注目してみたい。 五 十 六 一 息

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藤尾の母が型どおりの挨拶をしているとき、﹁洋卓の下を覗き 込しみ、﹁不図眼を上げ﹂ ﹁首を向け直して、窓の方を見﹂ ﹁眩 しさうな蝦を扇骨木から離した﹂ と甲野さんの視線はよく動いて いる。そして母が本題に入って初めて甲野さんの視線は母の上に 固 定 さ れ る 。 ﹁だから、家も財産もみんな藤尾にやると云ふんです﹂ と 感 熱 に 云 ふ 。 ﹁あれも、あんな、ノ気の勝った子で、顧御前さんの気に障 る事もあらうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒 を見て遣って下さい﹂ 甲野さんは腕組の櫨、じっと、深い唾を母の上に据ゑた。 母の眼は何故か洋卓の上に落ちてゐる。 甲野さんは依然として額に加へた手の下から母を眺めてゐ る。 右の眉は矢張り手の下に隠れてゐる。娘の光は深い。・けれ ども鋭い点は何所にも見えぬ。 本題に入ると今度は苺の方が視線をそらしている様子が巧みに措 かれている。甲野さんにとって母が ﹁手の付け様のない人﹂ であ り、言っても無駄と取り合っていない様子は彼の眼の動きによっ て物語られ、非難は言葉ではなく眼によって、その心情は﹁淋し い笑﹂によってのみ表れる。﹁さうですか。−夫ぢや、好いで せう﹂ ﹁はあ∼。ぢや無いんでせう﹂ ﹁そりゃ、横はないです﹂ ﹁ぢや小野にするさ﹂ と甲野さんは結局相手に自分の意見を言お うとはしない。彼の意見はその眼の動きによってのみ外界に表れ、 積極性を欠いているのである。 妹との場合はどうであろうか。甲野さんと藤尾が会話をする場 面は、十二軍、十二章、十五車で、そのうち十二輩では甲野さん の方から藤尾の部屋を訪れており、十五車では甲野さんが藤尾を 部屋に呼んでいる。どちらの場合も話し合うきっかけを作ったの は甲野さんからであり、母の場合と違って藤尾に対しては視線が 固 定 さ れ て い る 。 甲野さんは返事をする前に、峠を長い服の真申に鋸ゑてつ くづくと母の顔を眺めた。やがて、 ﹁驚くうちは楽があるんもんだ。女は楽が多くて仕合せだ 五十七真

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ね﹂ と甲野さんは長い体躯を真直に立てた儲藤尾を見下した。 ︵ 十 一 ︶ 男は、眼さへ動かさない。蒼い顔で見下してゐる。向き蔽 った女の観を幌と見下してゐる。︵十二︶ 甲野さんが藤尾から視線を離さない埋由は、藤尾が甲野さんの視 線を受け止めて真っ直ぐに見返す真刺さを持っているからであろ う。しかし、だからといって甲野さんと藤尾が対等に語をしてい るわけではない。甲野さんは必ず藤尾を見下す位置で話をする。 これは単に物理的な記述ではなく、作品中における藤尾と甲野さ んの位置関係をも表している。﹁藤尾には兄の云ふ事が丸で分ら など ﹁段が遠ふものが喧嘩をすると妙な現象が起る﹂と、明ら かに甲野さん藤尾よりも高所に位置する存在として設定されてい る の で あ る 。 甲野さんの眼を適して母の ﹁小細工﹂ は暴かれ、藤尾は下位に 位置づけられ、﹃虞美人草﹄の ﹁喜劇﹂が物語られていく。甲野 さんは作品世界を客観的に見ている存在で、進行に伴う成長の見 受けられない一貫した人物として描かれているが、非常に不可解 な次のような発言をしている。・ 甲野さんは幌と眼を凝らして正面に何物をか見詰めて居る。 恰も前にある母の存在を認めざる如くである。 ﹁夫で漸く − 御前どうか御為かいし ﹁母かさん、藤尾は承知なんでせうね﹂ ﹁ 無 論 知 っ て ゐ る よ 。 何 故 ﹂ 甲野さんは、矢張り遠方を見てゐる。やがて瞬を一つする と共に、眼は急に近くなった。 ﹁宗近は不可ないんですかしと聞く。︵十五︶ 宗近君が藤尾をもらいたいと書った時、 ﹁塩基な跳ね返りものだ。 小野に遣って仕舞へ﹂ ︵十七︶ と自分の妹を辞した甲野さんが藤 尾を宗近にやった方がいいと濱ったのは次のような理由からであ る。 ﹁約束でもありやしなかったですか﹂ ﹁約束と云ふ程の事はなかったよ﹂ ﹁何だか父さんが時計を遣るとか云つた事がある様に覚え て ゐ ま す が ﹂ 五十八五

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﹁約束があるなら遣らなくつちや惑い。義理が欠ける﹂ ︵ 十 五 ︶ は此セオリーを説明する為めに全篇をかてゐるのである。 この約束というのは、﹁此時計と藤尾とは線の潔い時計だが之を 御前に遣らう。然し今は遣らない。卒業したら遣る。然し藤尾が 欲しがつて繰つ着いて行くかも知れないが、夫でも好いかつて、 冗談半分に皆の前で一に伸しやったんだよし ︵八︶という藤尾と 甲野さんの父親の言葉から出たものであるが、藤尾の方は﹁應盛 らしい﹂ と相手にしない。藤尾が小野さんにひかれるのは父の約 束︵たとえ冗談めかしていても︶ に反するから宗近君にやらなく ては﹁義埋Lが立たない。そのために ﹁無二の友達﹂ ︵三︶ と思 っている宗近君に﹁業深き人﹂ ︵十九︶ と評する自分の妹をやろ うという甲野さんの思考は埋解に苦しむものである。甲野さんが ﹁現実をわが手に引き受けない特権を与えられて﹂④おり、日常 生活におけるリアリティーの欠落から生まれる矛盾を抱えている のは、彼が﹃虞美人草﹄の中で特別な存在、つまり漱石の ﹁眼﹂ を重ねた人物であることが原因していると考えられる。明治四十 年七月十七日、漱石は小宮豊隆に宛てて次のような書簡を送った。 この吉葉からもうかがえるように﹃虞美人草﹄は漱石の主張す るセオリーが先行して執筆された作品であり、最後の哲学とは十 九章の甲野さんの日記にはかならない。甲野さんは漱石のセオリ ーの語り手として登場し、日常世界と無線なところで、その思想 を 語 る 存 在 で あ る 。 予想した悲劇を、為すが樋の発展に任せて、隻手をだに下 きぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが 故である。悲劇の倍大なるを知るが故である。悲劇の偉大な る勢力を味は1しめて、三世に跨る業を根抵から淡はんが為 で あ る 。 ︵ 十 九 ︶ 最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕 と甲野さんが ﹁悲劇﹂ の為すが櫨に任せた、すなわち母や藤尾を 止める為に働きかけることをしなかった理由が述べられているが、 それに続けて ﹁不親切な為ではない﹂ と説明しているところが、 いかにも弁解がましく感じられる。この蛇足ともいえる説明が、 妹を死に追いやった茸任のがれをしているようにさえ思わせ、か えって説得力を失わせている。この説明が必要であるとすれば、 五十九東

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それは甲野さんの作中人物としての日常性の欠落から生じる甲野 さんの世界と母や藤尾の世界との隔絶という矛痛点をカバーする ためであろう。甲野さんによって打ち出された ﹁人生の第一義は 道義にあり﹂ ︵十九︶ という命題によって小野さんが翻心した形 で﹃虞美人草﹄は終結するが、﹁藤尾の死や小野の翻心︵特に後 者︶が、いかにも不自然な印象を与えるものである﹂⑥という指 摘の通り作品世界の ﹁日常﹂ から掛け離れ、観念の域を出ないセ オリーに、小野さんの決心を覆し、藤尾を死に追いやる結束を招 いたことが﹁自然し なのだと思わせるに足る説得力はありえない。 ︵ 酉 ︶ 二 郎野さんの ﹁セオリー﹂は﹁日常﹂を離れた観念であり、現実 を生きている小野さんとは自然には結び付かない。申野さんと小 野さんとではおかれている立場が全く違うからである。 小野さんは昭い所に生れたっ ある人は私生児だときへ云ふ。 筒袖を着て学校へ通ふ噂から友達に苛められて居た。行く所 で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛い目に遇った小野さ んは帰る家が無くなった。己むなく人の世話になる。 ﹃虞美人草﹄には三人の男性が登場する.甲野欽吾︵二十七歳︶、 窺近一︵二十八歳︶、小野清三 ︵二十七歳︶は大学を卒業した所 謂知識人である。甲野さんは大学を卒業後二年近くなるが就職す る意志がなく、外交官であった父親は四カ月前に死亡しているが 経済的に困った様子は見受けられない。又、宗近君の方も外交官 の試験に落第しても全く気にもとめず京都に遊びに行くなど、甲 野家も宗近家も比較的裕福であると考えられる。それに対して小 野さんは﹁奔走に、六十円に、月々を衣食する﹂ ︵十五︶ような 切り詰めた日々を送っているが、小野さんの生活を保証する家が 存在していないことがその原凶として挙げることができよう。暗 い運命を抱えている点で、小野さんは登場人物の中でも特異な存 在 と い え る 。 小野さんは ﹁頭脳の明噴な男﹂ ︵十二︶ であり、恩賜の ﹁銀時 計﹂ で自分をはかる。甲野さんの書いた﹁哲世界と実世界﹂ ︵十 五︶という論文を読んだことはないが、﹁陛下から銀時計を賜は った﹂ ︵四︶自分の方が ﹁甲野さんより有益な材﹂ ︵十五︶ と考 えている。時計一つで ﹁脳の喜怒﹂ を、人間をはかる小野さんを、 漱石は批判している。しかし、小野さんには小野さんの言い分が 六十庄

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あり、その言葉の中に甲野さんへの辛辣な非難を込めていること は見逃せない。甲野さんは﹁卒業してから是と云ふ研究もしない 様﹂ 子であり、﹁潔い考を内に薯へて居るかも﹂知れないけれど、 それを出してはおらず、﹁徒然の目を退屈さうに暮らしてゐる﹂。 自分の ﹁立派な頭脳﹂ を使って ﹁世間に貢献するのが天職﹂ とい う意欲を持っている小野さんにとって、何の働きもみせない叩野 さんは ﹁大した人間ではないに極ってゐる﹂ のである。﹁親譲り の貧乏に、蟻も櫨に伏す天の不公平を、己を得ず、今日迄忍んで 来た﹂ という言葉の中に、小野さん自身に責任のない道の感さが あるという弁護が隠されており、 ﹁一腸は率なき人のLにも来た り復ると聞く。願くは傾くは﹂ と日頃念じている資が甲野さんの ような恵まれた人間と対照的に描かれているのである。 母や藤尾は甲野さんの帳を過して播かれてきたが、小野さんが 甲野さんと会話を交わす場面は十二童のみであり、そこでは ﹁第 一義﹂、 ﹁真面目﹂ に関わるような内容には一切触れられていな い。小野さんを説得し、改心させる役割を担っているのは宗近君 な の で あ る 。 何が出来るものかと戟蔑む事もある。露骨でいやになる事も あ る 。 ︵ 十 四 ︶ 小野さんは甲野さんに対するのと同様に、蛮近著に対しても、 学問の上で自分の方が優れている自信があるが、何もしていない 甲野さんへの批判と違って、宗近君への感情は小野さん自身にも ﹁妙な感じ﹂ のする正体不明のものだと説明されている。﹁個人 の義務は相手に愉快を与へるが塚二﹂ と思う小野さんは、不愉快 を受ける宗近君は世の中でも成功は出来ない、 ﹁外交官の試験に 落第するのは当り前﹂だと、宗近君の ﹁無頓着﹂ や ﹁露骨﹂ を嫌 っている。しかし藤尾と小夜子との間で煩悶している小野さんは、 一方では ﹁只あんな気分になれたら顧よからうと、今の苦しみに 引き較べて﹂ 宗近君を羨ましく思ってもいるのである。 小野さんは宗近君のような気分になれたらと羨ましく思っては いるが、宗近君の全てを肯定しているわけではない。 宗近と云ふ男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解 しない。あれで将来何になる気かと不思議に思ふ事がある。 ﹁然し眠気を催しちや困りますね﹂ ﹁眠気を催ふす所が好いんだ。人間でもさうだ。眠気を催 ふす様な人間はどこか尊とい所がある﹂ ﹁古くつて尊といんでせう﹂ 六 十 一 貫

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﹁君の様な新式な男はどうしても眠くならない﹂ ﹁ だ か ら 尊 と く な い ﹂ ﹁許ぢやない。ことに依ると、尊とい入関を時候後れだ杯 とけなしたがる﹂ ﹁今日は何だか攻撃ばかりされてゐる。ここいらで御分れ に し ま せ う か ﹂ 小野さんにとって藤尾がどのような存在であったかをみていきた い。 男の我を忘れて、相手を見守るに引き反へて、女は始めよ り、わが前には座はれる人の存在を、膝に開ける一冊のうち に見失ってゐたと見える。︵二︶ 二人は又歩き出す。三人が二人の心を並べた償一所に歩き 出す。双方で双方を敢蔑してゐる。︵十四︶ 一時を噌所に点ぜず、藤尾は帳を上げなかった。只畳に落 す靴足袋の先をちらりと見た丈では1あと悟った。小野さん は座に着かぬ先から、もう舐められてゐるじ ︵十二︶ 十四葦での二八の会話はことごとく小野さんが受け身に播かれて いるが、﹁双方で双方を軽蔑してゐる﹂ とあるように、小野さん の方にも浣近君を軽蔑するだけの埋由がある。それは前述したよ うな ﹁無頓着﹂ や ﹁露骨﹂、そして何よりも﹁詩趣﹂ を解さない ことである。﹁義向人の許嫁を盗んだ程の罪は犯さぬ積﹂ ではあ っても宗近著の藤尾に ﹁気のある所﹂ を推測すると気の毒に思っ ている。しかし衆近着のような ﹁癖の真相を解せぬ男﹂ は詩趣の ある藤尾の ﹁夫には不足し であり、自分の方がふさわしいと考え て い る の で あ る 。 以上のような小野さんから見た甲野さんと浣近著像を掩まえて、 二賓と十二車は、藤尾と小野さんが一対一で会話を交わす場面 である。どちらの場面でも、冒頭から藤尾が小野さんを見下して いる。﹁抑へた女は再び手綱を緩める。小野さんは輝け出さなけ ればならぬ﹂ へ二︶というように、小野さんは、藤尾が思いの櫨 に操ることができる、まさに ﹁玩具﹂なのである。小野さんが常 に下手に出るのは ﹁世の中に気兼をし過ぎる﹂ 性格からでもある が、それにもまして﹁利害の囲係には昭からぬ利巧脅し ︵十二︶ としての計算があることも見逃せない。rあすこには中以上の恒 産があると聞く。腹遠の妹を片付けるに只の箪笥と義持で承知す 六十二嘉

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る様な母親ではない。殊に欽吾は多病である。実の娘に婿を取っ て、か1る気がないとも限らぬ﹂と、小野さんが藤尾の財産に強 くひかれていることは明らかである。 未来の管を覗く度に博士の二字が金色に燃えてゐる。博士 の傍には金時計が天から懸ってゐる。時計の下には赤い柘櫛 石が心臓の焔となって揺れてゐる。其側に黒い眼の藤尾さん が繊い腕を出して手招ぎをしてゐる。凡てが美くしい画であ る。詩人の理想は此画の中の人物となるにある。︵四︶ 引き越して新たに家をなす翌日より、親一人に、子一人に 春忙がしき世帯は、蒸れ易き髪に櫛の歯を入れる暇もない。 不断着の綿入さへ見すぼらしく詩人の眼に映る。−粧は鏡 に向つて凝らす、吸璃瓶議に曽孫の香を浮かして、軽く裏盤 を浸し去る時、墟泊の櫛は条々の翠を解く。− 小野さんは すぐ藤尾の事を恩ひ出した。是だから過去は駄目だと心のう ちに語るものがある。 ﹁栄誉﹂ ︵二︶を象徴する﹁博士﹂ という二字と、﹁富農﹂ を象 徴する ﹁金時計﹂ が、小野さんの理想として金色に輝いている。 しかし ﹁画﹂ ︵四︶ の中で、藤尾本人は時計の ﹁畑﹂ に配置され ていることに注目しなければならない。漱石は藤尾の ﹁己れの為 にする愛﹂ ︵十二︶を批判しているが、小野さんも藤尾との結婚 が自分の利益になることを計算しているのである。 しかし、小野さんにとって藤尾が財産についているだけの女性 だったというわけでもないゎ 九輩において五年ぶりに小夜子に再 会した小野さんは、ことごとく藤尾と比覇している。 小野さんは只面白味のない詩趣に乏しい女だと思った?同 時に波を打って鼻の先に廟へる袖の香が、漉き紫の眉間を掠 めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。 ﹁見すぼらしくし ﹁面白味のない詩趣に乏しい﹂ 小夜子に比べて、 ﹁薄き雛を日毎にして﹂ ︵十二︶ いる美しい容貌や、シェイクス ピアを読み、自分と詩を語る事の出来る藤尾の才能にも心ひかれ るのである。小夜子は小野さんには寄り付けない。 ﹁手を延ばし ても届きさうにないし ︵九︶ し、自分は﹁変りたくても変られ﹂ ないのである。﹁銀時計﹂すら必要とは思わず、﹁百の博士も今 の己れには無益﹂な小夜子よりも﹁わが本領を解する藤尾﹂ ︵十 二︶ に小野さんの心が傾くのは当然であるけ五年前の小野さんに ﹂ハト三 庄

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とっていくら小夜子が大きな存在であろうと、﹃成業人革﹄ の申 で、小野さんが小夜子を肯定的に見ている場面は一箇所もない。 ところが小野さんは最後に小夜子を選ぶ。小夜子との結婚を ﹁怖 しい発展﹂ ︵十四︶とし﹁早く藤尾と結婚して仕舞はなければ﹂ ︵十二︶と考えていた小野さんが、藤尾を捨てる決意をしたのは 来近著に説得された時であった。少し良くなるが、その場面をこ こ に 引 用 す る 。 ﹁他人が不安であらうと、泰然として屠なからうと、上皮 許で生きてゐる軽薄な社会では構った事ぢやない。他入所か 自分自身が不安でゐながら得意がってゐる連中も沢山ある。 僕もその一人かも知れない。知れない所ぢやない。懐かに其 一 人 だ ら う ﹂ 小野さんは此時始めて積極的に相手を遮ぎつた。 ﹁貴所は羨しいです。実は貴所の様になれたら結構だと思 って、始終考へてる位です。そんな所へ行くと僕は詰らない 人間に遠ないです﹂ 愛婿に調子を合せるとは恩へないけ 上皮の文明は破れた。 中から本音が出る。悟怨として誠を帯びた声であるけ ﹁僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、 何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云ふより、 なれるからと云つた方が適当だらう。真面目になれる程、自 信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据る事はない。 真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の 前に自分が敵存して居ると云ふ観念は、真面目になって始め て得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。 遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくつちや居られない意味だ よ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手 が小器用に飽いたりするのは、いくら勒いたって真面目ぢや ない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目に なった気持になる。安心する。実を云ふと僕の妹も昨日真面 目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日 も真面目だ。君も此際一度真面目になれ。八一人真面目にな ると当人が助かる許ぢやない。世の中が助かる。−どうだ ね、小野さん、僕の云ふ事は分らないかね﹂ ︵十八︶ 作品中において、甲野さんと宗近君の間で ﹁真面目﹂ について 話されてきてはいるが、小野さんがこの ﹁真面目﹂ を考えるのは この場面がはじめてである。あえていえば、十四車における宗近 六十四寅

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君の ﹁文学者だから上部を奇麗にする必要があるのかぬくl それぢ や文学者だから金線の眼鏡を掛ける必要が起るんだね﹂ という批 判が挙げられるが、それに対して小野さんは﹁どうも、きびしい。 然しある意味で云へば、文学者も多少美術品でせう﹂ と反論して おり ﹁双方で双方を酪蔑﹂しあっていた。ところが十八番におい ては、小野さんは坪野さんに対しても浣近著に対しても自分の方 が優れているとの自信があったにもかかわらず、﹁真面目な処置 は、出来る丈早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨て1は 渚まんです。断はつたのは全く僕が悪かったです。孤堂先生にも 済まんです。僕が恋かつたです。君に対しても済まんです﹂ と宗 近君の前に ﹁櫓然﹂ として頭をたれるのである。﹁小夜子の方は 浅井の返事次第で、どうにかしやう﹂ ︵﹁八︶ と、宗近著の訪れ る直前まで藤尾との大森行きを決心していた小野さんとはまるで 別人である。小野さんの心が小夜子から離れて、藤尾の魅力に傾 いていく様が克明に描かれているのに対して、再び小夜子を選ぶ 時に小野さんが小夜子の魅力に気付いたと描かれてはおらず、宗 近君の説得によって軸心したと解釈するのは、過去への嫌悪や、 名誉や富への強い憧れを持った小野さんにしてはあまりにも不自 然且つ唐突であるとしかいえない。果たして小野さんは本当に宗 近者のいう ﹁第一義﹂ に目覚めて、小夜子を選んだのだろうか。 小野さんが暗い過去を抱えた人問であることは前述した。漱石 は小野さんの過去を次のように描いている。 自然の経路を逆しまにして、暗い土から、根を振り切って、 日の透る波の、明るい渚へ漂ふて来た。− 瓦の底で生れて 一段毎に美しい浮世へ近寄る為には二十七年か∼つた。︵四︶ 暗い所から日の当たる場所に上がることの出来た小野さんが、金 のある生活に憧れ、財産のある藤尾にひかれるのは ﹁自然の数﹂ であるという。小野さんがそう思うには、十分な過去があるのだ と、漱石は克明に描いた。 水底の藻は、僻い所に漂ふて、白帆行く岸辺に日のあたる 事を如らぬ。右に揺かうが、左りになびかうがなぶるのは波 である。礁其時々に逆らはなければ済む。馴れては波も気に ならぬ。波は何物ぞと考へる暇もない。何故波がつらく己れ にあたるかは無論問題には上らぬ。上った所で改良は出来ぬ。 ロバ運命が暗い所に生へて居ろと云ふ。そこで生えてゐる。只 道命が朝な夕なに動けと云ふ。だから動いてゐる。 − 小野 さんは水底の藻であった。︵四︶ 六十五重

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﹃虞美人草﹄ の絢爛豪華な美文は、小野さんの過去には見当らな い。﹁小夜子の方は浅井の返事次第で、どうにかしやう﹂ ﹁自分 に責任がない様に、人が履行を妨げて呉れるのは嬉しい﹂ ︵十八︶ と思うような他動的な面は ﹁水底の正し に象徴される暗い運命か ら発しており、この育ってきた環境の差が ﹁向から正面に質問し てくる﹂ ︵十四︶窺近君と﹁斜めに宗近君を見る﹂ 小野さんとな ってあらわれている。小野さんの ﹁常から世の中に気兼をし過ぎ る﹂ ︵十二︶ところやr姦しい、物に逆はぬ、気の慮しきは彼の 鴫い ﹁過去﹂ から生まれたのである。 向へ行って一歩潔く陥り、此方へ来て一歩深く陥る。双方 へ気兼をして、片足づ1双方へ取られて仕舞ふ。つまりは人 情に絡んで意思に乏しいからである。利害?利賓の念は人情 の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす 第一のカはと聞かれゝば、すぐ人情だと答へる。利害の念は 第三にも第四にも、ことによったら全くなくつても、自分は 矢張り同様の結束に陥るだらうと恩ふ。︵十四︶ 今日藤尾に逢ふ前に先生の所へ来たら、あの嘘を当分見合 せたかも知れぬ。然し嘘を吐いて仕舞った今となって見ると 致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたと云つて差し支な い。− 小野さんは心中でかう云ふ言訳をした。︵十四︶ 面と向かって相手に自分の意見を言えないのは﹁優しい、物に逆 はぬ﹂ ︵十二︶ 小野さんの同情である。自分の運命の浮上するに つれて下り坂になっていく孤堂家を目の当たりにしたとき、小野 さんは気の毒という同情をぬぐい去ることが出来なかったのであ る。 小野さんを支える第一のカは ﹁人情﹂ である。その ﹁人情﹂が 彼の ﹁完き未来﹂ ︵四︶を崩しにかかったとき、小野さんは弧堂 先生との談判を﹁人情に拘泥しない﹂ ︵十四︶浅井に頼んだ。小 野さんの ﹁人情﹂ は気の毒な先生を前にしてその頭を持ち上げる。 ﹁頭で拝へ上げた計画を人情が崩しに﹂ ︵十八︶かかり、どうし ても﹁人情に屈託﹂ ︵十四︶してしまう。それは小野さん自身で はどうしようもない ﹁持って生れた心の作用﹂ ︵十八︶ なのであ る。唐木順三氏は ﹁﹃虞美人草﹄に於ける悲劇と道徳の勝利﹂ は ﹁宗近の義理と人情の封建的正義感の、ブルジョア的軽薄に対す る勝利であった﹂⑥としている。しかし、﹁宗近の義理と人情﹂ を小野さんがそのまま受け止めて翻心したかというと、そうでは 六十六度

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ない。宗近君のいう ﹁人情﹂ と小野さんの解釈した ﹁人情﹂ は大 きく食い違っている。 小野さんは藤尾の件で ﹁宗近君の望﹂ ︵十四︶を閉ざしたこと を ﹁人情としては気の毒﹂ と思っている。しかし、﹁わが悪戯が、 己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、此迷 惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が惑い﹂ というよう に、この気の毒のうちには﹁大いなる己﹂が含まれている。小野 さんの ﹁人情﹂ は自分の為にする人情なのである。 ある。﹁下女の人望をさへ妄りに落す事を好まぬ程﹂ ︵四︶ 世間 体をはばかる小野さんらしい。又宗近君が訪れる直前にも、同じ ように世間の目を恐れている場面がある。 想像のとまった時、急に約束を恩ひ出す。約束の履行から 出る快からぬ結果を恩ひ出す。結果は又も想像の力で曲々の 波瀾を起す。− 良心を質に取られる。生涯受け出す事が出 来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、さうし て礫が曲る。寝覚がわるい。社会が後指を指す。︵十八︶ 恩を忘れる様な不人情な詩人ではない。一飯潔母を徳とす と云ふ故事を弧堂先生から教はつた事さへある。先生の為め ならば是から先何処迄も力になる積でゐる。人の難儀を救ふ のは美くしい詩人の義務である。此義務を果して、出やかな 人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、恩出の詩料 に残すのは温厚なる小野さんに尤も恰好な優しい振舞である。 ︵ 十 二 ︶ ﹁自分を動かす第一の力﹂ ︵十四︶ は ﹁人情﹂ であり、﹁利害の 念﹂ などは及ばないと小野さんは考えているが、この文選から読 み取れる小野さんの ﹁人情﹂ は、自分の人生を飾る美談の一つで 小野さんの翻心によって藤尾は毒を仰ぎ、﹃虞美人草﹄は終結 する。最後に甲野さんの日記が ﹁セオリー﹂ として全面に押し出 され、あたかも ﹁第一義﹂が作品の中で語られたがごとくである。 しかし小野さんは甲野さんや宗近君のいう﹁第一義﹂ に動かされ て ﹁真面目﹂ に目覚めたわけではない。本当に小野さんの心を動 かしたのは ﹁第一義﹂ ではなく、 ﹁人情﹂だったのである。もし 小野さんを訪ねてきたのが宗近君ではなく藤尾やその母であった なら、小野さんは藤尾を選んだかも知れない。それほど小野さん は不安定な心境だったのである。頭でこしらえた ﹁完き未来﹂ ︵ 十四︶と ﹁人情﹂ は、どちらも己のためのものであり、小野さん 六十七頁

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にとって容易に選択できる問題ではなかった。宗近君は ﹁人情﹂ と ﹁完き未来﹂ の間で煩悶していた小野さんの目の前に表れ、選 択のきっかけを作ったにすぎず、小野さんは一見宗近著の説得に よって改心したように見えても、決して﹁第一義﹂ に目覚めたわ けてはないのである。 ﹁此小説はノンキ小説トモ、ダラダラ小説トモ、又ハ七転 八倒トモ称シテ容易こに片付ヅク景色ナシ。然シ毎日カタ。﹂ ︵七二二十−∴鈴木三重苫宛︶ * * *   ﹁ 如 何 に 漱 石 が 威 張 っ て も 自 然 の 法 則 に 背 く 訳 に は 参 ら ん 。 従って自然がソレ自身をコンシュームして結末がつく迄は書 かなければならない。﹂ ︵八・五−鈴木三重吉宛︶ ﹁本日虞美人草休業。病癖が起ると細君と下女の頭を正宗 の名刀でスパリと斬ってやり度い。﹂ ︵六二一十一−鈴木 三 重 苦 宛 ︶ ﹁段々暑くなると小説を背くのが厭になるけ﹂ ︵六二一十 九−寺田寅彦宛︶ ﹁虞美人草はいやになった。早く女を殺して仕舞たい。熱 くてうるさくつて馬鹿気てゐる。﹂ ︵七・十六−高浜清宛︶ ﹁虞美人草はだらだら小説七転八倒虞美人草と名づけて未 だ執筆中﹂ ︵七・二十六−鈴木三重苦宛︶ ﹃虞美人草﹄執筆中に漱石が書いた書簡の一部を引用したが、 これらを見ただけでもいかに漱石が苦心していたかがうかがえるけ 高浜清宛の沓暦から藤尾を殺すこと、つまり甲野さんのセオリー を打ち立てることが漱石の目的であったと思われる。漱石はどう しても小野さんを翻心させなければならなかったが、小野さんが 作中人物として一人歩きを始めた為︵周知の通り﹃虞美人草﹄は 連載と並行して執筆され、書き直しが不可能だった︶、漱石自身 収拾が着かなくなって自然に描くことが出来なかったのではある まいか。作品の収束を甲野さんに任せ、甲野さんの代弁者として 宗近君が奔走するが、結局甲野さんや浣近君の意思から離れたと ころで小野さんは改心する。甲野さんの日常性の脱落から生まれ 六十八東

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た矛痛、甲野さんとと小野さんの立場の大きな違い、宗近君の ﹁ 真面目﹂と小野さんの ﹁人情﹂ の微妙なずれに気付いた噂、﹃虞 美人草﹄の世界は崩壊する。小野さんの物語として﹃虞美人草﹄ を見る噂、そこには ﹁第一義﹂ ではなく ﹁人情﹂ の問題が浮かび 上がってくるのである。 注 ① ⑳ ⑧ 呼 へ 別 ︶ /\ ⑥ 平 岡 敏 夫 ﹁ ﹃ 虞 美 人 草 ﹄ 諭 し   ︵ ﹃ 日 本 近 代 文 学 l L 。 昭 四 d ・ 五 ︶ 酋垣勤﹁﹃虞美人草﹄論﹂ へ﹃日本文学﹄昭四九・五︶。 酒井秀行﹁﹁﹃虎男人草﹄論− 小野と小夜子−﹂ ︵﹃日 本 文 学 ﹄ 昭 五 八 ・ 九 ︶ 。 ③ に 同 じ 。 ③ に 同 じ 。 唐 木 腐 三 ﹃ 夏 目 漱 石 ﹄   ︵ 修 道 社 ・ 昭 三 . I I 一 ︶ 。 六十九恵

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