博 士 ( 文 学 ) 田 中 伸 司
学 位 論 文 題 名
対話とアポリアーソクラテス的探究の対話としての構造 学位論文内容の要旨
序章
ソク ラテスの対話篇はっねにアポリアに終わる。もしそれが何らかの学説の論証と提示を目 指し ているなら、それがアポリアに陥ることは探求の挫折を意味する。しかし、ソクラテスの 対話 はたんなる言説の吟味ではありえない。ソクラテスとの対話が「神からの贈り物」である のは 、ソクラテスを受けとめることによって、我々が自分の知の思いなしとその傲慢さから解 放されるからである。それゆえ、それは同時に対話を行う人自身の吟味の場である。「私わが吟 味す るのは、何よりも言論そのものだけれども、しかしそうすることによって、おそらく、質 問するほうのこの私も、答えるほうのあなたも、ともに吟味を受ける結果になることでしょう。J プラ トンの対話篇に描かれた探求は、孤独な思索の軌跡ではなく、問う人と答える人、その対 話の場に臨む人々が織りなすその都度の思考の運動である。ソクラテスの対話による探求には、
それ に触れる者の生が刻印されている。しかも、この探求がアポリアに陥る。本稿の目的は、
この ようなソクラテス的探求の「対話として構造」を明らかにし、ソクラテスの探求がアポリ アに陥ることの意義を対話の展開に即して読み解くことである。
第一章根源的な探求
第ー章は『ラケス』前半の分析から、リュシマコスやラケスやニキアスなどの対話者たちが、
言論 の信頼性を、その言論の内容よりもその言論を主張する人の信頼性によって判断しようと する など、言論を言論そのものとして扱うことを避けようとしていることを指摘し、ソクラテ スは そのような対話者たちを、言論の意味を直截に問う「より根源的な考察」へと導くことに よっ て、彼らの思想の内的矛盾を彼ら自身に自覚させる地平を準備したと論ずる。ソクラテス の対 話が、日常の惰性的な言語使用の被覆を剥ぎ取る働きをもっことを、ソクラテスの外見的 に は 誤 謬 推 論 と も 見 え る 論 駁 過 程 を 綿 密 に 追 跡 す る こ と に よ っ て 解 明 し て い る 。 第二章ソクラテスの対話相手であること
まず 『プロタゴラス』の中に、詩を解釈する言葉と哲学的対話の言葉の間の位相の違いを析 出する。詩の解釈では詩人の意図がどこにあるかが問題になるが、ソクラテスの哲学的対話で′
は自 分自身の意見が問われる。ソクラテスがソフイストとの対話において、その位相の違いを いか に橋渡しし、いかに乗り越えていったか。言い換えれば、擬似対話から裸の対話へという 語 り 方の 移 行 をい か に 遂行 し た か を、 対 話 の進 行 に 密着 し つ つ説 得 的 に解 明し てゆく。
次の『 リュシス』は、ソクラテスがりュシスとメネクセノスという二人の少年を相手に「友 だち」と は何かを話題とする対話篇である。田中氏は、この二人の少年が対話の進行にともな っていか に変化してゆくかに注目する。しかも、ソクラテスはりュシスに対する時とメネクセ
´ノスに 対する時では、語り掛け方を変えていることも見逃せない。ソクラテスは必ずしもいつ も論理的 に相手を反駁するとは限らない。その論駁を、だれを相手に、いつ、どのような形で 始めるな らば、その効果を最も発揮するかを心得ている。
第三章こ とぱのカ
『ゴ ルギアス』に登場するソクラテスの相手は、弁論家ゴルギアス、その弟子ポロス、辣腕 の政治家 カリクレスである。彼らいずれも強かな利己主義者であり現実主義者である。なかで も、最後 の対話相手であるカリクレスは、弱肉強食の自然至上主義を主張する過激な思想家で ある。本 論文の分析のメスは、彼の議論を俎上に置くとき最も鋭く冴え、このカリクレスが過 激な言論 の主唱者であるに止まらず、言論そのものの否定者であることを剔り出す。そして、
ソクラテ スによる論駁がカリクレスの生き方と、彼の人としての在り方を崩壊させることを明 快に論証 する。
第四章「 何であるか」の問いを語ることぱの在りかた
『国 家』はプラトン中期の作品であるが、その第一巻はそれ以後の巻からの独立性が強く、
初期対話 篇と同様にソクラテスの対話の典型を示すと見なされている。本章は、ここに登場す るケパロ ス、ポレマルコス、トラシュマコスの三人の語り方を分析し、彼らの語り方と彼らの 人として 在り方が相即不離であることを証明する。ケパロスの「正義」についての語りには、
自己一身 への配慮のみがあり、ポレマルコスの「正義」の語りからは、彼の関心がただ行為の 結果のみ にあって、行為の目的に盲目であることが露わになる。これに対して、トラシュマコ スの「正 義とは強者の利益である」という説は、何よりも「事実」を重んずるように見せかけ ながら、 じっは彼がたんに偏狭な「似非知」の信奉者にすぎないことが暴露される。その上で、
田中氏は 『国家』第二巻以後に展開される哲学的探求の語り方を、それ以後の対話者の語り方 との対比 によって浮き彫りにすることを試みている。
第五章ア ポリアの意味
『メ ノン』はプラトンの初期と中期に位置する作品であり、プラトンはここで「ソクラテス 的対話」 の総ざらいを試みたと見ることができる。対話の主題は「徳」についてだが、プラト ンの問題 はソクラテスの「無知」と「知」の可能性の関係にあると見られる。ここで、田中氏 はっねに アポリアに終わるソクラテスの対話の存在意義を問う。田中氏によれば、むしろ対話 者の間で 対話が成立するのは何故かが、まず問われなければならない。対話が成立しなければ、
アポリア さえも成立しないからである。対話を成立させるのは、名指しと同意による了解であ る。ここ に知の可能性がある。しかし、それはいわばアポリアの認識可能性であって、知識(学 説)の習 得ではあり得ない。「探求することとは、全体として想起なのであり、それは探求の挫 折と見え るアポリアから出発するのである。」これがテキストから必然的に帰結することを、田 中氏はこ れまでの先行研究に対抗して説得的に論証している。
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学位論文審査の要旨 主査 教授 坂井昭宏 副査 教授 新田孝彦 副査 助教授 千葉 恵
学 位 論 文 題 名
対話とアポリアーソクラテス的探究の対話としての構造
本論文の独創性は、ソクラテスの対話の進行過程における対話者の語り方の変化に注目し、こ れを組織的に分析したところにある。この作業は、対話という独自の方法によったソクラテスを 研究対象とするとき不可欠の作業であるにも関わらず、従来の研究では断片的散発的な言及に止 まっていた。本論文における著者田中氏の試みは、新たな問題領域を切り開いたという意味で積 極的に評価できる。同時に、本論文はソクラテスに何らかの学説を帰することを一切拒否するが、
こうした視点は今後多くの論争を呼び起こすものと考えられる。
他方、本論文各章で取り扱われた各対話編の分析と解釈はきわめて精緻かつ独創的であり、そ れ自体が極めて高い評価に値する。たとえば、ラケスの「勇気とは魂の何らかの忍耐強さである」
という答えに、ソクラテスは思慮を徳、無思慮を悪徳として規定して、ラケスから彼の修正され た答え「思慮ある忍耐強さ」を導き出す。さらに、ソクラテスはこれに対して思慮を知識や専門 技術と同義と規定して、「思慮を欠きながら危険を冒す人は勇敢な人である」という回答を導き 出す。これはまさにアポリアであるが、従来の解釈では、この箇所におけるソクラテスの一連の 議論はラケスのニつの答えに対する別個の論駁を構成し、同時にソクラテスは「思慮」を二義的 に使用 しているが、これはラケスの「思慮」理解が不十分であることを示す、とされていた。
しかし、この解釈が正しいなら、ソクラテスは「思慮」という言葉のニつの意味を操作し、ラ ケスを不正にアポリアに導いたことになる。しかし、田中氏によれば、ソクラテスの議論は全体 としてーつの論駁を構成し、ラケスは思慮の有無に関わらず、「それらがその状況においてそう であるのが正しいと判断されるかぎり、それは勇気の証明となる」と考えているかぎりで、そこ に矛盾はない。しかし、ラケスには勇気の有無に関する個別の判断と、勇気について語る言説と を架橋する術がない。それゆえ、それに一般性をもたせようとすると、上述のアポリアに陥らざ るをえない。ここから、田中氏はラケスが論駁されたのは「思慮」に対する理解の不十分さから ではな く、個別の判断と一般的言説との間の断絶を解消できないからであると結諭する。 , また、ソクラテスは『ゴルギアス』篇で(1)「不正を行うことは、不正を受けることよりも悪 い(損害になる)」という有名な詭弁的主張を論証しようとする。すなわち、(2)前提1「不正を 行うことは、不正を受けることよりも醜い。」(3)前提2「美レさは快楽と善によって定義され、
醜 さは 苦痛 と損害によって定義さ れる。」(4)「二つの醜い もののうち、一方がより醜 い場合には、
苦 痛 あ る い は損 害に よっ て 勝っ てい る。 」(5)「 不正 を 行う こと は不 正 を受 ける こと より も 醜い の は 、 苦 痛 に よ っ て 勝 っ て い る か 、 ある いは 損害 によ っ て、 ある いは そ の両 方で 勝っ てい る から で
´ある。」(6) 前提3「不正を行うことは苦 痛によって、不正を受けることに勝っているのではない。」
(7)「 不 正 を 行 う こ と は 不 正 を 受 け る こ と よ り も 、 損 害 に よ っ て 勝 っ て い る の で よ り 悪 い 。 」 従 来 、 こ の 議 論 に は ニ つ の 難 点 が指 摘さ れて きた 。 第一 は、 「醜 さ 」の 定義 に関 レて 限 定条 件 の 操 作 が あ る、 とい う点 で ある 。ポ 口ス が 前提1に同 意 した とき 、こ の 「よ り醜 しゝ 」を 「 社会 の 人 々 か ら 見 て醜 しゝ 」と い う意 味で 理解 し てい た。 他方 、前 提3の「 苦 痛」 は当 事者 にと っ ての 苦 痛 で あ っ て 、 こ う し た ソ ク ラ テ ス の限 定条 件の 操作 を 見逃 した から ポ 口ス は論 駁さ れた 、 とい う の で あ る 。 第 二 は 、 快 苦 の 判 断 に 関 し て 前 提2と 前 提3の 問 に 限 定 条 件 の 操 作 と い う 点 で ある 。 っ ま り 、 前 提2で は 快 苦 の 判 断 が 「 眺 め る 人 」 と い う 条 件 下 で な さ れ る の に 対 し て 、 前提3で は 「不 正を 行う 人」 「 不正 を受 ける 人」という当事者に関し てなされてしゝる。ポ口ス は「不正を行 う 人 は 、 ( 眺 め る 人 に と っ て は 恨 みや 嫉み とい う) 苦 痛の 点で 不正 を 行う 人よ りも 勝っ て いる 」 と 反論 し、 (7*) 「不 正を 行 うこ とは 不正 を受 け るこ とよ りも、損害によって勝って いないので悪 く な い 」 と 主 張 す る な ら 、 論 駁 さ れる こと はな かっ た 。し たが って 、 上述 のニ つの 難点 が 克服 で き な い な ら 、 ソ ク ラ テ ス の 議 論 は 彼自 身の 策略 とポ 口 スの 無能 に依 存 する から 、論 証と し て妥 当 性ではないこと になる。
こ う し た 定 説 的 解 釈 に 対 し て 、 田 中 氏 は 第 一 に ポ 口 ス が 前 提1に 同 意し たの は、 ポ□ ス の生 の 在 り 方 の ゆ え で あ る と 指 摘 す る 。 ポ口 スの 理想 は弁 論 家と して 成功 す るこ とで あり 、そ の ため に は 大 衆 に 迎 合 し 「 法 と 慣 習 」 に 従 って 前提1を 受け 入れ ざる を えな し〕 から であ る 。前 提3に関 し て も 同 様 で あ る 。 不 正 行 為 を 問 題 にす る際 、何 より も 当事 者に 目を 向 ける のが 当然 であ り 、不 正 を 受 け る 人 は 不 正 を 行 う 人 よ り も 多く の苦 痛を 受け る から 、「 法と 慣 習」 は不 正を 行う 人 に刑 罰 を 与 え 、 正 義 を 回 復 し よ う と す る の で あ る 。 し た が っ て 、 難 点1は 解 消 す る 。 前 提1と 前 提3の 間には限定条件 の不正な操作は存在しないか らである。
第 二 の 難 点 に 関 し て は 、 前 提2の い う 快 苦 の 判 断 は 、 必 ず し も「 眺 める 人」 に限 定さ れ ない 。 む し ろ 、 あ る 行 為 に つ い て そ の 快 苦を 判断 する のは 、 それ を外 から 眺 める 人で はな く、 そ の行 為 の 当 事 者 で あ る 方 が 自 然 で あ り 、 ソク ラテ スの 例証 に おい ても 「眺 め る人 」に 特定 され な い。 む ろ ん 、 ポ 口 ス は こ れ を 「 眺 め る 人 」に 限定 して 、ソ ク ラテ スに 反論 す るこ とも 可能 であ る 。し か し 、 ポ 口 ス は こ の 方 策 を 採 用 で き ない 。ポ 口ス が弁 論 家と して 生き よ うと する かぎ り、 「 法と 慣 習 」 に 従 っ て[ 前提3] 「不 正を 行 うこ とは 苦痛 によ っ て、 不正 を受 け るこ とに 勝っ てい る ので は ない」を認めざ るをえないからである。
こ こ か ら 、 田 中 氏 は 以 下 の よ う に結 論す る。 ポ口 ス に残 され た道 は ニつ にー つで ある 。 弁論 家 と し て の 彼 の 生 き 方 を 規 定 し て い る「 法と 慣習 」と い う社 会規 範へ の 支持 を取 り下 げる か 。あ る し ゝは 、論 駁を 受け 入 れ、 不正 行為 によ る 成功 者の 道を 断 念す るか 。本 論文 に おいて 、田中氏がソ ク ラ テ ス の 対 話 は 相 手 の 生 き 方 を 暴 露 す る と い う の は 、 じ っ に こ う し た 意 味 に お い て で ある 。 以 上 、 第 一 章 の ラ ケ ス 論 駁 と 第 三章 のポ 口ス 論駁 の 概要 を紹 介し た が、 第二 章リ ュシ ス 論駁 に お け る 「 第 一 の 友 の ア ポ リ ア 」 の 解明 、第 三章 のゴ ル ギア ス論 駁と 第 四章 のポ レマ ルコ ス 論駁 等 に 関 し て も 、 同 様 の 精 緻 な テ キ ス トの 読解 と独 創的 な 解釈 の提 示が 見 られ る。 これ らは 、 いず れ ―83―
も プ ラ ト ン 初 期 対 話 篇 の 研 究 に 独 自 の 貢 献 を な す も の と し て 高 く 評 価 で き る 。 以上のような理由に基づぃて、本審査委員会は全員一致で本学位申請論文が博士(文学)を授 与するにふさわしいという結諭に達した。