mism-upamigra
考
早 島
理
始 め に
イ ン ド 大 乗 仏 教 瑞 伽 行 唯 識 学 派 で 弥 靭J論 書 の ー に 数 え ら れ るrMaha-y
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大乗荘厳経論J
(以下MSA)
に.仏菩薩のはたらきを表 す要語としてr
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とその派生訴r
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複 合 語r
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党英 辞 典 』 に はr
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など と記されている。「混じり合った,融合した」などの意味であるが,仏菩i
薩 のはたらきのなかで.f
やl の意味│い内人付j容を:芯t
跨干薩のh
修芸行附梯の似初4
j見.
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日
1l1..1:から考察するのが本稿の!十H
二::1(的l内句でで、ある。1.仏のはたらさにおける r
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くakaryaJ
MSA
第IX
章「菩提品」第2
9
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3
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備 は , 仏 の は た ら き を 太 陽 光 線 < rf輪) に警えて.次のように言う。 [号│用1]
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mÎ~ra・upamÎ基ra 考
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たとえば,太陽の光輪において無数の光線が,混じり合い常にhl]ー のはたらきをなして,世界を!照らす様に, (第2
9
偽) そのように,無術界において i市仏には,為すべきことについて,無 量にして,混じり合った岡ーのは在らきがあり, (それが)智惑の 光 明 を 放 っ と 云 わ れ る 。 ( 第3
0
偽) 第 1備は,光線が一つに混じり作って同ーのはたらきをなすことの醤え により,諸仏には共通のはたらきがあることを示す。光線が同ーのはた らきをなすことは,成熟させる,乾燥させるなどの共通のはたらきがあ ることから理解すべきである。 第2
備は,無漏界において(諸仏には)化(身)などによる為すべきこ とについて混じり合った同ーのはたらきがある(と理解すべきである)。 ここでは,太陽光線のはたらきの持鳴をもって,諸仏のはたらきが説かれ ている。日輪の無数の光線は二様にはたらく,一つに混じり合ってはたらく (安慈釈:'d
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と, 1ft]ーのはたらきをなす(同:bya ba
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とである。すなわち,太陽の無数の光線が一つに混じり合い, 同ーのはたらきをするように, ~消仏の無数のはたらきも,一つに混じり合い, 同一にはたらくというのである。 留意すべきは r一つに混じり合う」と「同ーのはたらきをなすJ との二 様のはたらきが別々にはたらくのではなく,r
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混じり合って 同一にはたらく」のである。したがって,r
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混じり合ってJ はたらき, 同時にr
ekakarya
同一にはたらく」のでもある。 さらに,無数の太陽光線が一つに混じり合って同一にはたらく場合,それ ぞれの光線が混じり合い, しかもある光線(
a
)
と別の光線(
b
)
(
c
)
・..ーなどが同- 2
一
migra.upami!ira jJ ーのはたらき(安慧釈:泥棒の大地を乾燥させる,穀物を成熟させる)をす ると説かれている。このはたらき方からすると,光線(a)がはたらく時.同 時に光線(b)(c)・..…も同じはたらきをしていることになる。同様に,諸仏そ れぞれのはたらきがそれぞれのままに混じり合って同ーのはたらき(安悲: 釈:煩悩を乾燥させ‘衆生の普を成熟させる)をするのであるから,仏(a) がたとえばある衆生を成熟させるはたらきをするH払 111J時に仏(b)(c)・..…も 同じくその衆生を成熟させていることになる。したがって諸仏すべてがそれ ぞれ同時にその衆生成熟という同ーのはたらきをしていることになる。その ことがまた rjnanalokakara 智惑の光明を放つ」と言われる。この??慈の 光明について続く第
3
1
偽は次のように言う。日
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用 ト2
]MSA IX
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1
yathaikarasminiり
saratsarvarasmivinil)srtiり/
bhanos tathaiva buddhanarp jneya jnanavinil)srtil)/
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3
1
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ekakale sarvarasmivinil)srtya sarvabuddhanam ekakale jnanapravr -ttirp darsayati / たとえば太陽は,一本の光線が放たれると(同時に)すべての光線 が放たれるように.同様に諸仏は智慧が放たれるのであると知るべ き で あ る 。 ( 第3
1
偽) 同一時にすべての光線が放たれる(という磐喰)によって.一切諸仏に 智慧が同一時に起こることを示す。 つまり仏(a)の智慧の光が放たれると fii]1時に仏(b)(c)・..…の??惑の光も放た れているのである。さらにその放たれた光は次のように説かれる。 日│用ト3
]MSA IX
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2
-
3
3
yathaivadityarasminarll vrttau nasti mamayitaq1/ tathaiva buddhaj白ananarpvrttau nasti mamayitarp/
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- 3一
mi!ira.upami!5ra考
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たとえば,太陽の光線が発せられたときに我がものとすることはな い。まさにそのように,諸々の仏科が発動したときに我がものとす る こ と は な い 。 ( 第3
2
偏) たとえば,太陽が一時に放った多くの光線によって,生命ある若が 照らされる。まさにそのように,多くの仏智によって知られるべき す べ て の も の が 同 時 に 照 ら さ れ る の で あ る 。 ( 第3
3
偽) (この)両偽は,順次,(
1
)
我がものといフことが無いこと,(
2
)
知られ るべきものが同時に照らされることについて(述べられにその意味は 明らかである。 この両備によると, r諸仏の無数のはたらきが一つに混じり合い.同一には たらく」のは,仏智の光明は(1)我がものということが無く,(
2
)
知られるべ きもの(安慧:すべての所知法)を同時に照らすからであるという。無分別 .智としてはたらく仏智には「わたしのJ,rあなたの」はたらきという分別は はたらかないから.仏(a)の智慈の光がはたらくことは,同時に仏(
b
)
(
c
)
・..… の智慧の光がはたらくことを意味している。また仏(a)の智惑のー光がすべて の衆生にはたらくことはそのまま同時に仏(
b
)
(
c
)
・..…の智慈の光がすべての 衆生にはたらいていることになるというのである。 さらにこのr
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混じり合った!日l
ーのはたらき」について. 同じ第IX章「菩提品」第82-85備は, 11~1 別の諸河川と一つの大海の醤喰をも って,菩薩と諸仏のはたらきを説いている。 臼│用2] MSA IX, 82-85buddhanam anyonyam e
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諸仏が相互に同ーのはたらきを持つことについて四備がある。 まだ大海に入っていない諸河川│は,その河川流域は別々であり‘水 流は別々であり.水量は少なく,作用は各々別にはたらき,水中に 棲 む 生 物 の 享 受 す る も の は 徴 少 で あ る 。 ( 第8
2
偶) 大海原に入ると, (諸河川の水)すべてが一つの場所にあり,同ー の広大な水となり.混じり合っていl
ー の は た ら き を し 水 被 生 物 の 群 が 享 受 す る 所 は 常 に 大 き い 。 ( 第8
3
偽) 仰性にまだ悟入していない賢者(菩薩)は.拠り所(身体)が別々 であり,思考が別々であり,悟った所は極めて少なく. 1'1ら実践す る(詳薩行)は各々別であり,いつも限られた衆生利益を以て ( 人 々 の ) 享 受 の 対 象 と な る 。 ( 第8
4
侮) 悌性に悟入すると.彼らすべては,拠り所が同一であり,大きな情 りは同一であり,混じり合って同ーのはたらさをし,常に衆~t の大mi~ra叫)ami~ra 考 きな集りにとって偉大な享受の対象となる。 (第
8
5
イ品) ここでは,諸菩薩と諸仏が,個々の河川と大海原との醤憶をもって説かれて いる。仏性という大海原に流れ込むと,それまで側々別々(
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に流れていた河川に警えられる諸菩薩のl
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々別々の様々な 菩薩行は.混じり合ってーっとなり同ーのはたらきをなす仏のはたらきへと 転換するのである。 以上兄てきたように,イ昂額自体が仏のはたらきとしてr
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を説く(
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のであるが,先の第2
9
-
3
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備が,諸仏の「出じり合っ たIliJーのはたらき」を説くことに重点が置かれていたのに対し,ここ第8
2
-8
5
備はr
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自│々別々の菩薩行」と「混じり合った│司ーのはたらきをなす仏のは たらき」との対比,及ぴ前者「限られた利他行を実践する帯i
嵯行」から後者 「無限の利他行である仏のはたらき」への転換(河川│から大海への流入)を 示すことに重点が置かれていることに注意しておこう。 このr
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古│々別々の菩薩行」から「混じり合って同ーのはたらきをなす仏の はたらき」への最終的な転換は,第8
4
-
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備にr
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asarppravi~tã刊I~ 性にまだ悟入していない(菩薩)J ・ rbuddhatva
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ãs 刊I~ 性に '1詩人した(菩薩)Jとあるように,最終的には菩薩の第十地から仏地に悟入した段階 で完成すると説かれている。それでは,「個々別々にはたらく菩薩行」から 「混じり合って同ーのはたらきをなす仏のはたらき」への転換は菩薩の階梯 のどの段階での修行により.菩薩地のどこから始まるのであろうか。またそ れは菩薩の実践行においてどの様な意味を有するのであろうか。以下にはこ の問題を考察しよう。
2
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菩薩の修行階梯における「時
mJpamisJJ
MSA
が菩薩の実践行に関連して.r
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を説く筒所はそれほど多くな6
-mi~ra.upallli!íra 考 い。以下にその用例を.章の!頓に引用する。 臼│用
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す べ て ( の 菩 薩 た ち ) と 同 ー の は た ら き を な す あ り 方 に 達 し て いるからである。(第8偽d) [世親釈]MSA X
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そして(
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すべての偉大な菩薩たちと同ーのはたらきをなすあり方に達 している点からとは.すべてのはたらきが混じり合い円融して(はたら いて)いるからである。 [無性釈]MSAT
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「すべてのはたらきが混じり合い円融して(はたらいて)いるからであ る。」とは,「混じり介いm
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(だけ)では不充分であることを示し た。 [安懇釈]SAVBh. X
V
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comm. P
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b
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それぞれ(の供養)において,一人の菩薩が衆生を成熟させる時司そこ に肘イトわせる他の:問権も(衆生を)成熟させているから,あらゆる行為 は 「 混 じ り 介 いm
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と 胃 う 。 一 人 の 菩 薩 が 如 来 を 供 養 す る 時 . そ こに肘介わせるすべてのJ
年薩もまた(如来を)供養するのである。それ ゆえr
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と言うのである。この
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諸 仏 へ の ど の よ う な 供 養 が 最 高 で あ る と 理 解 す べ き で あ ろ う か 」 と い う 導 入 に導かれてr
dharmadhimukti
人・乗の教法への信解」などの五相を説くので あ る が , そ の 第5
番u
が こ のr
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す べ て の は た ら き が 混 じ り 合 い 円 融7
-migra.upamigra考 して(はたらいて)いるから」という。安懇釈の「一人の菩薩が衆生を成熟 させる
ι
1
1
そこに問介わせる他の菩薩も(衆生を)成熟させているから,あ らゆる行為は ra~ じり合 misra Jと言う。」との説明は,上記仏のはたら きにおける rmisraikakaryaJの内容と同一である。しかし仏については r misraikakaryaJと説かれていたそのはたらきが,ここ菩薩の修習では rmisra・upamisraJと記されている。「混じり合いmisra(だけ)では不充 分であることを示した」という無性釈によれば,菩薩行では rmisraJのみ では不充分なので rupamisraJというさらなる修行が必要になる。安慧は 「菩薩が衆生を成熟させる」のが rmisraJで, r菩薩が如来を供養する」 のは rupamisraJという。この安慈の理解に無性釈を重ねることが許され るならば,菩薩の修習としては「衆生成熟J(misra)のみでは不充分で・ 「如来への供養J(upamisra)も併修する必要があることになる。換言すれ ば.「衆生成熟」という利他行と「如来への供養Jという自利行とが一体と なってはたらくことにより大乗の菩薩行となるのであろう。とすれば, r misraJと rupamisraJは実践行の区別(成熟と供養にあるいは対象の 区別(衆生と如来)を説いてはいるが.実際は rmisraJとrupamisraJは 一体としてはたらいていることになる。いずれにしても, r misra-upamisra. , dres pa nye bar 'dres paJはDvandva並列複合語である。[
ヨ
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用
4]MSA XVIII-44c para汀latvena 12)故勝なるという点で(第44偶c) [世親釈] MSA,XVIII-44 comm. 12) katharl1paramatvena,
parini~pannãnãm anabhoga!nisropamis -rabhavanat/ 12) r抗!惨なるというより;で」とは如何にしてなのか。(第八地以上で修習 を)完成した者は無功J
J
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こi
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じり合い円刷!して修習するからである。 [無性釈]MSA T, XVIII-44 comm. P. 165a3-4- 8一
mi!ira-upamisra考 「混じり合い円融して修習するから」とは.第八地以
1
:
Iこおいてである。 第卜地と仏地においてはあますなく(修宵を)完成しているから r(修 宵の)完成者」となるのである。 [安懇釈]SA
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最勝なるという点で.とは知何にしてなのか.完成した者たちは …・・」などと言ううち.最勝なあり方の点、で如何様に殊勝であるのかと 問うならば,第八地では四念慮の修習を円満にしているのである。努力 なしに無功用に修習して‘混じり合い円融する仕方で修狩するから.最 !除なあり方の点で殊勝で-ある。 このうち.第八地に悟入した菩薩は,一人が凹念慮を修問する時.他 (の菩薩)もまた修習するのであり,他(の菩│議)が修稗することはま た1'1分が修宵することなのである。それ故 rü~ じり合い川融して」と云 フ。 あるいは,第七地から最初に第八地に悟入した手JIJ.IISが「混じり介いm
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と言われる。その後,第八地の第2
手JI却15以降,第九地に悟入 するまでが「円融upam
諮問」と言われる。 第X
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章 第4
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也の菩薩 もまたその同じ四念慮を修習するのであり,他の帯│峰が匹l
念場主を修宵するこ とはまた自分が修習することなのである」は. 上記「仏のはたら:
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一にはたらく」と同一内字脊手である。 j注主!けl
すべきは‘ 無h
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~無眼功用とあるように'第八地以上では意志的な努力なしに修行が実践 されることを説いている。安慧によればさらに第七地から第八地への悟入が9
-misra・upamisra考 r misraJ.第八・九地の修認が rupamisraJであるとされる。またこのJlJ 例でも rmisra-upamisraJは並列複合語である。 [引用 5]MSA XX
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XXI・12cd ekãyanapathasli~to 'nimittaikantikal
)
pathal
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/
/12cd animitte 'py anabhogal
)
k~etrasya ca visodhana / 13ab7
)唯一同ーの道に直結し無相なることに一向専念する道である。 (第1
2
1
1
品cd) 8 )無相なることにも無功用であり,また仏国土の浄化である。 (第13f品ab) [世親釈]MSA XX・12cdcomm. 7) saptamyarpmisropamisratven~ikãyanapathasyã号tamasya viha -rasyasli~ta animittikaikantiko margal
)
/
8) a叫amyamanimitte. 'py anabhogo nirabhisarpskaranimittavihar -itvad buddhak号etraparisodhanaca / 7 ) 第 七 ( 地 ) に お い て , 他 の ( 第 七 地 の 諸 菩 薩 と ) 混 じ り 合 い (misra), (第八地の他の諸菩薩と)融合する (upamisra)ことにより, IIfgーh
.
]
ーの道である第八住へと庇結し,無相なることに一向専念する道 がある。 8 )第八(地)において,意図的な努力なくして無相なることに安住す るのであるから,無相なることにも無功用である。また仏│五l
土を浄化す るのである。 [無性釈]MSAT, XX-12 comm. P. 184b8-185a5 「第七(地)において,他の(第七地の諸菩薩と)混じり合い, (第 八地の他の諸菩薩と)融合することにより,唯一同ーの道である第八住 へと直結し,無相なることに一向専念する道である。」と説くうち. r混 じりイトう misraJとは無相に安住した,第七地に住する菩薩(と混じり 合うの)である。「円融upamisraJとは無功用の道を体得した,第八 -10-misra心pamisra考 地に住する-町並(と混じり合うの)である。 (第ー七地の段階でmisropamisraと説かれているが, )第八地を体得 していない時に、
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故に「円融upamisraJというのか。 (upamisra の)rUpaJという(接頭辞)は「近擁する」という(意味で)あり, これは「極近い khad nye baJ(とL寸意味)である。このように. この(第七地の)菩薩,は無相住の究極である項上に安住する(すなわ ち)無功用に安住する(第八地)の極近くに住し(第八地を)間断な く体得するから.r円融upamisraJと言われるのである。 あるいはまた.有功用に(無相への)道を修習するから「混じり合い 円融するmisropamisraJと言われる。 [安懇釈]SA VBh, XX-12 comm. P.281a7-b4 r(第八地の)唯一同ーの道に直結し、無相なることに一向専念する道 であるJ(XX・12cd)と言ううち.菩薩の第七地の特質は‘(第八地の) Pft~ 同ーの道に直結し.無杭!なることに一向専念する道のあり方に悟入 することである。このうち「唯一同~ekayanaJとは第八地である。 第八地においては‘ある時は努力を必要とし, ,8JIな時は努力を必要とせ ずに住するというのではなし無分別三昧に無功用にひたすら住するの であるから,「H佐一同一」という。第七地では第八地と同じように住す るのである。第七地に引き統き第八地を体得するから.この第七地は (第八地の) r唯一!Ii]ーの道と直結する」と言う。第七地においては経 典などの多くのj去を!
1
財11であり差別無きものとし一切の経典の内容は また単一のキ11に他ならないと常に観ずるから,第七地は「無相へと一向 に咋念する道」と言われる。(以下略)MSA 第 XX ・ XXI 章第 10-14備のテーマは rlak~aI)avibhãga (-十一地の)相 の分析」で.菩薩の卜地と仏地の併せて十一地それぞれの特質{laksana}
が論じられる。そのうち本稿のテーマ rmisropamisraJと関連するのは第 七地,第八地である。
mi~ra-upami~ra 考 ここでは第七地に悟入した菩薩は第七地の他の諸菩薩と,第八地に
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入しー た菩薩は第八地の他の諸菩薩と「混じり合い円融する」と説かれている。注H
すべきは,前者第七地は fmisraJであり後者第八地が fupamisraJであ ることは上記[ヲ│用4]とおなじであるが,第七地で fmisropamisraJと して両者とも説かれていることである。このことについて世親釈の fslista il~( 結して」を解いて両復註とも,第七地は第八地に極近接し,第七地を修習 するや否や,引き統き閑断な〈第八地に{悟百入する次第を述べているふ,点』 したい、、。このことを無性釈がL fUp仰amis訂r百-む」の接aJE
顕貞辞 fUp凶a-Jに│関羽述させて 説l町明リ別]しているが,第七地から第八地へ向上する次第で見るから「鰍近接して いる」のであって,第八地から見て第七地が近抜していると云うのではない。 この点は次の[引JlJ6
]を参照されたい。また言うまでもなく,ここの f misraぺlpamisraJも並列複令語である。 日│用 6]MSAXX.XXI
・16aupek手akaQk~etravisodhakas ca
心が偏らない(捨)者であり,また国土を消浄にする者である。 (第16イ品a)
[世親釈]
a号tamyam upek号akaQk~etravisodhakas canabhoganirnimittavihar -itvad misropamisraprayogatas cavinivartaniyabhumipravi手tairbod -hisatvaib / 第八地は,心が偏らない(捨)者であり,また仏│封土を清浄にする者で ある。(順次)無功用に無相なることに住するから,また不退転地に入 った菩薩たちと混じり合い融合する仕方で修行するからである。 [世親釈に対応する安慧釈]SA VBh,
XX.
XXI
・16comm. P.292a7-b3 「不退転の作.に入った菩薩たちと混じり合い刷!介する仕方で、修行するか ら」と言ううち,第八地を体得したH
主 第 八 地 に'
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人した(他の)菩薩 述と│士│牲が!日lーとなり働き (phrinlas)が同ーとなるから,不退転地に - 12一
misra叫lamisra考 入った杏薩たちと混じり合い融合するという。先に第七地でも「混じり 介い融合する」と云われ‘ここ第八地の位でも「混じり合い融合する」 と説かれるが、この両者に相違はあるのかと問うならば,相違はある。 先に第七地の時には「第八地と混じり合い融合して、(第八地に)極接 近する」と説かれた。ここでは第八地をすでに体得した菩薩は,第八地 の(他の)脊蒔:達と I~I 性が同ーとなり働きが同ーとなるから「混じり合 い融合する」と説かれたのである。 上記[ヲ|用 5J に続く第 15-16備は rbhüm~
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・同じく「地」についてであるが‘菩薩十地の修行者(
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に焦点を当てて論じられる。!日l
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,ここで、は第八地への悟入が完成し た 視 点 で 論 及 す る と こ ろ に そ の 特 色 が あ る ( 第 八 地 で 説 か れ るm
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。無性ではこの第八地に対する注釈を省略するが‘安慧は 「第七地でのm
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と第八地でのm
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の相違」を「第八 地をすでに体得した菩薩は,第八地の{也の菩薩達と自性(
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が同 ーとなり,働き(
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が同ーとなるから」と説明し,不退転の伎であ る第八地に↑百人すると,菩薩の「向性」や「働き」のレベルで「混じり合い 融合する」と云う(第七地では1'1性や働きが未だ「混じり合い融合して」い ない)。 この安慈釈は興味深いものがある。これまでの注釈には,たとえばm
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は第七地,u
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は第八地と,やや機械的な配当が見られたが,ここで は.m
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は一体としてはたらいている。それ故,第七地でも第八 地でもm
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として説かれるのである。両者の相違は.第七地では 第八地へと向上的に接近しながら修習する菩薩のはたらきと混じり合い融合 するのに対し.第八地では第八地の菩薩達と白性や働きp
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までもが 混じり合ぃ融合するという。混じり合い融合するレベルの差異として考えらmiSra.upamisra考 れていることが分かる。
3
. まとめ
MSAにおける rmisraJ関連の考察は以上である。これまでの考察は次 のようにまとめられる。 1 .一人の仏如来があるはたらき(たとえば衆生の善を成熟させる)をする 時,同時に無数の消仏が同じはたらきをする。無数の諸仏の無数のはたら きが一つに混じり合いながら.同時に同ーのはたらきをするのである。こ れは仏如米に同有のはたらきかたで, r misraikakaryaJと云われる。ま たこの rmisraikakaryaJはMSAの偏碩に説かれている。2
.この仏如来の「一つに混じり合いながら同時に同ーのはたらきをする」 はたらきを大乗の菩薩も千年薩行として修習する。その修習のあり方は安慈 釈に「一人の帯│践が1'L1念慮を修宵する時,他の評議もまた修習するのであ り,他の手\:j鑑が|凡l 念民主を修?-~することはまた自分が修潤することなのであ るJ([引用 4J) と説かれるように,諸仏の rmisraikakãryaJ に í~!~ じた ものであり,菩磁の場合は rmisropail1isra混じり介い鵬合するJ(MSA 世親釈)と呼ばれる。この複合語 rmisra-upamisraJは偽碩.には見当た らず,世親釈に説かれる。また並列複合語と解される。 3 .この rmisropamisraJは菩薩の十地のうち,第七地から第八地以上の 位で修習され,仏地に'悟入した段階で rmisrail王akaryaJに転換する。菩 薩の場合は,特に第七地から第八地への悟入に際し重要な役害Ijを果たすと 説明されている(次の4
.
②参照)。 4.この複合語 rmisra-upamisraJについて,無性・安悲tのilhj複注釈は二i様 の解釈を提示する。 ①misraとupamisraを異なるはたらきと理解する場合 • misra:衆生成熟, upamisra:如来への供養 • misra:第七地から第八地へ, upamisra:第八地以上- 1
4
一
misra-upamisra考 ②misraとupamisraを一体として理解する場合 ・第七地におけるmisra・upamisra:第七地で他の菩薩と「混じり合い」 ながら.械接近した第八地へと向十.的に修行する他の菩薩と「融合す る」。 ・第八地におけるmisra・upamisra:第八地に悟入して,第八地の他の 存薩と1'1性 (rangbzhin)や働き (phrinlas)のレベルで「混じり合 い融合する」。 第八地は.不退転であり無功用であり,無相三昧に専念する階位と位置付 けられている。この階位に至って第八地の他の菩薩と rmisropamisraJし て, :~:薩は不退転となり無功用となり無相三昧に専念する等々が成就するよ うになることを考慮すると.②の解釈が一義的であると筆者には忠われる。 5 . こ れ ま で 考 察 し て き た よ う な 意 味 で の rmisraJあ る い は r misropamisraJの用例を球伽行学j恨の他の諸論書(1"中辺分別論J,r~語 大乗論』など)に見lJ'.せないで、いる。
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也の諸論書における用例の調査研究, およぴMSAが菩薩の修行階梯にこの rmisropamisraJの考えを導入し た怠閃の考察は今後の課題としたい。 註及び文献MSA
=
Mahl_lwinasfltralmp.kara, Levi, Sylvain (edよParis,1907 ; rep. Kyoto,1983.今{品i.'t
i
,111:京UUJ~MSAT = Theg仰 chenþO~lÎ mdo sde~lÍ rgyan gyi19ya cher bshad内 *Mαhayanasu tralaη21lara!il
,
a, P. No.5530 : D.No.4029.今無性釈 SA V Bh=
M do sde rgyan gyi Algrel bshad.* Sutrala1?'lkaravrttibha$Ya, P. N o. 5531 ; D.No. 4034.~安慧釈V
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,龍文典研究会 [仏教思想研究1]: r西峨文献による仏教思想研究 1.10979 IJJ喜房仏書林) [仏教思想研究2]: r附蔵文献による仏教思想研究 2.10981 山喜房仏書林) 内藤附文 [内藤2009]: rr大乗荘厳経論Jr菩提品」の講読一一和訳と註解一一一 十'J・党j議溌有l対照テキストJ(2009 永111文昌堂)misra.upamisra考 長尾雅人 [長尾ノート1]: r <大乗荘厳経論>和訳と註解ーー長尾雅人研究ノート(1)---J (2007 長尾文庫) [長尾ノート3]: r <大乗荘厳経論>和訳と註解ーー長尾雅人研究ノート(3)---J (2008 長尾文庫) [長尾ノート4]:
r
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大乗荘厳経論>和訳と註解ーー長尾雅人研究ノート(4)---J (20日 長 尾 文 庫 ) 註 (1) MSAに散見されるこの要語の重要性に注意を喚起されたのは[長尾ノート 1,3.4]及ぴ[内藤2009]である。これらの先行研究に依拠して考察を進める ことができた。記して謝意を表する次第である (2) 以下本稿でのMSA党文テキストは原則[長尾ノート]に従う。またMSA第XVII章,第XX.XXI章の理解は,長尾熟MSA研究会の成果:に負うところ大 なるものがあるが,テキスト解説や翻訳などはすべて筆者の資任である。 (3) IX, 29-30 SA VBh P. 137a2;"b7。 (4) misraikakarya に対する安慧釈の r'drespa gcig tu ‘jllgJとrbyaba gcig tu 'jllgJの二様の説明は.この複合語を rmisra-eka一つに混じり合いJ,
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時に reka・karyaI
司ーのはたらきをする」と理解していることになる。この r misra-eka一つに混じり合う」とし寸解釈は,無数の太陽光線が11輸の一つ の光に混じり合う,個々別々の河川が一つの大海に混じり合うという醤喰にも 合致する。 (5) 無性釈,安慧釈は,教証として r十地経』を度々引用するが,この日輸の醤 轍(太陽光線が泥棒を乾燥させ穀物を成熟させるように,菩薩は衆生の煩悩を 乾燥させ衆生の普を成熟させる。主語は仏如来ではなく第七地の菩薩である)は 同経の第七地に説かれている。(近藤本p.125) (6) IX,31 SAVBh P. 137b7-138a2。
(7) IX,32-33 SAVBh P.138a2-b1。 (8) IX,82-85 SA VBh P. 162a4-163a8。
(9) 安慧釈によれば「水中に棲む生物の享受するものは微少」とは,河川に棲む 生物は少数であり,体型も小さいのに対し,海 1~1 の生物は多数であり体114 も大 きいことを言う。 ( 10) dhiraについて, M. Mayerhofer, A Concise EかmologicalSans/~nï Diction.。
ηは 語 源 が 異 な るdhira1とdhira2をあげ,前名・に Qntelligent,wise, cleverJ, f:走者に rfirm, steady Jの説明を与えている。ここは前者によれば rl資者普l鑑」となり,後者によれば「心堅fi'i]な菩薩」となる。今はjjij者による。 (11) misra.llpamisraのチベット訳は世親釈では 'drespa (dang) nye bar 'dresmisra-upamisra考 paであるが,安慧釈ではその他に.'dres pa shing nye bar 'dres pa.・dres pa dang rab tu 'dres paなどがある。いずれも並列複合語の解釈である。 (12) katama punar buddhapuja parama veditavyety aha / buddhe!?ll p吋aparama svacittat dharmadhimllktyasayato vibhlltvail;l / akalpanopayaparigraheI)a sarvaikakaryatvanivesatas ca //8// それでは r祁仏へのどのような供養が最高であると理解すべきであろうか」 というならば, (答えて)言う。 (以下のIi恥!にもとづく)自らの心からする i活仏への供養が最高である。 (その五相とは.すなわち)(1)(大乗の)教法を信解するからである。 (2)(九種の)怠欲(意楽)があるからである。 (3)(i諸々の)自在力がある からである。 (4)無分別にもとづく方便に包摂されているからである。ま た(5)すべて(の菩薩たち)と同ーのはたらきをなすあり方に達している からである。(第8偏) (13) smrtyupas出anavibhagetray功 slokal;l/ caturdasabhir akarail;lsmrtyupasthanabhavana / dhimatam asamatvat sa tadanyebhyo visiぉ
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//42// katamais catllrdasabhib / nisrayat pratipak号acca avatarat tathaiva ca / alambanamanaskarapraptitas ca visi勃r
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//43// anllkulyanllvrttibhyarp parij白otpattito'para / matraya Qaramatvena bhavanasan1udagan1at//44// 閲念処を分析して三備がある。 智慧ある(菩薩)が四念処を修習するのは卜四の形相を以てである。 そ れ は 無 比 な る が 故 に . 他 の 何 よ り も 勝 れ て い る 。 ( 第42偶) 十阿(の形相)を以てとは何々か。 (智慧ある菩薩の四念処の修習は) 1)依止という点で. 2)対治という点 で.同様に3) (四諦への)悟入という点で. 4) 対象と 5)思索と 6)獲 得 と い う 点 で . 勝 れ て い る 。 ( 第43偽) さらに(その修刊は)7
)
順応する実践と8
)随従する実践の二つの点で, 9 )完全に知ることと 10) 生れるという点で, 11) hl:という点で, 12) 最勝なるという点で, 13) 修習と 14)説得という点で(勝れているの)であ る 。 ( 第44偏) (14) 長尾塾MSA研究会で加納和雄氏(高野山大学准教授.Ph.O.)から写本解 読研究中の Vairocanalak~ita による MSA の注釈書(.S
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i) が紹介された。未公開ではあるが,同氏の承諾を得て該当筒所を引用し,試訳 を提示する。 misra iti / saptamibhumisthanimittaviharibhil;l / upamisra iti samipatve.mi~ra a$tamibhumisthanabhisaqlskaralabhil) / upasya samipa [rtha] tvat / ekaya・ napatha iti明科hi/ patha iti margal) / r misraJとは.第七地で無相に住する者たち(菩薩)と(混じり合っているの である)0 r upamisraJとは.近接しているという意味であり,第八地の佐で 無J}JJ 日を 1~} ている者たち(菩薩)に(近接しているのである)0 (upamisra の)upa(という接頭静)には「近接」という意味があるからである。 r ekayanapathaJとは.第六格である。(偶碩の)r pathaJとは, (世親釈の) rmargaJである。 ( 1 bh5) 口mi手veva pudgalavibhagam arabhya dvau slokau / visuddhadr詩il)suvisuddhasilal)samahito dharmavibhutamanal) / saq1tanasaI11klesavisuddhibhede nirmaI)a ekak号aI)alabdhabuddhil)/ /