瀬戸内海地域における真宗の伝播
ー周防・長門国を事例として
大谷大学大
畑
博
嗣
はじめに
中世、瀬戸内海は多くの人・物を運ぶ流通路であった。畿内と中国・四国・九州を商人が往来し、囲内だけでは なく、遣明船貿易の交通路としても利用されていた。このような、交通路であった瀬戸内海では、様々な人聞が活 躍 し て い た 。 はじめに挙げられるのは、商人であろう。鈴木敦子氏は、地域市場の観点から厳島門前町について考察し、厳島 は信仰の対象だけでなく、畿内と九州を結ぶ瀬戸内海流通の中継地点であり、堺や京都の商人が多く往来していた と指摘している。また、地域市場として、厳島とその対岸である廿日市は瀬戸内海ル l トにより運ばれた物資を安 芸囲内へ輸送するために廿日市が必要であり、また廿日市も厳島同様に安芸園内から物資を広範な流通ルi
トに乗せるために相互に機能していたと指摘している。 次に海賊衆である。中世の瀬戸内海で活躍していたのが、因島・能島・来島の村上氏である。山内譲氏は、来島 村上氏が東寺領伊予国弓削島荘の所務を請負い、弓削籍船での水運活動に積極的に参加していたのではないかと指 摘し、伊予の領主である河野氏配下の諸領主が高野山へ参詣する際に、来島村上氏の水運力を頼っており、村上氏 は伊予近海から堺にかけてル l トを確保し、定期的に便船を派遣していたとしている。そして、この村上氏の畿内 ︵ 2 ︶ に向けての水運活動は商業活動への関与があったのではないかと指摘している。 このような、商人や海賊衆が瀬戸内海交易ル l トを使い、畿内と中国・四国・九州など瀬戸内海沿岸地域を往来 していたと同時に、宗教も瀬戸内海を往来していた。児玉識氏は、大坂周辺の寺院が中園地方に進出する契機として、 ﹁瀬戸内海交易の実権を握る畿内商人と無関係ではなかったことを想像させる﹂と指摘しており、また﹁布教のた めに商業が利用されるだけでなく、商業のために宗教が利用される﹂といった﹁相互依存﹂の関係であったと指摘 ︵ 3 ︶ し て い る 。 それに加えて、北西弘氏は、﹁紫雲殿由縁記﹄に実如十三回忌法要の時に﹁御文﹂が開版されたことについて触 れているが、この﹁御文﹂の開版は﹁金宝寺の献言と証如の承認により実現されたことになる﹂が、﹁おそらく輿 正寺と堺商人の考えによって始め﹂たと指摘しており、﹁御文﹂の開版とその普及は、興正寺の西国布教に関わる ︵ 5 ︶ ものであると指摘している。 このように、児玉氏や北西氏の指摘では、西国布教における中心的役割を担った人物に関する検討のみが行われ ているが、輿正寺による西国布教の実態について、あまり検討がなされていないように思われる。そこで、本稿で は児玉氏や北西氏が指摘するような、﹁布教のために商業が利用されるだけでなく、商業のために宗教が利用﹂さ れた真宗の西国布教が、どのような人聞が中心的に行い、どのような方法で布教していたのかという布教構造の検 瀬戸内海地域における真宗の伝播
瀬戸内海地域における真宗の伝播 討を行う。またこれにより筆者は先行研究が引用する﹃大谷本願寺通記で﹃紫雲殿由縁記﹂の記事にある西国布教 の実態を把握できると考えているため、﹃大谷本願寺通記﹄・﹃紫雲殿由縁記﹂に記載されている西国に布教された 真宗が、当該地でどのように展開されたのかについて近世の在地史料を用いて検討を行っていく。
一、堺から伝播した真宗
||﹁大谷本願寺通紀﹂・﹁紫雲殿由縁記﹄の記述と布教の実平l
児玉氏によると中世西日本に進出した真宗は、関東の明光派以外に、東坊・端坊を含めた興正寺、仏照寺、善教 寺等、大坂近辺の寺院であるとしている。そして、これらの寺院が拠点とする地方寺院が、当時の交通の要所に建 立されていることに注目し、瀬戸内海沿岸の要港として繁栄していた地域に集中していることは、畿内寺院の発展 ︵ 6 ︶ が瀬戸内海交通の実権を握る畿内商人と無関係ではなかったと指摘している。 このような指摘から、畿内商人であった堺商人がどのように真宗の伝播に関わったのかを児玉氏の研究に依拠し つつ、布教の構造と実態を検討していきたい。 堺から伝播する以前の周防・長門の真宗 堺から西国へ伝播した真宗がどのような布教構造であったかということを検討する前に、堺から伝播する以前の 当該地域の真宗がどのように展開していたのかについて述べる必要があるのではないか考える。まず、ここでは堺 から伝播する以前の周防・長門両国内での真宗について先行研究に依拠しつつ概観していく。 ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ はじめに、山口県内の自治体史から見てみると、端坊が存在する﹃山口市史﹄や﹁萩市史﹄等には中世での真宗 の流入に関する記述や、端坊の布教に関する記述がされていない。これらの自治体史では、主に近世初頭に毛利氏が山口へ転封して以後、毛利氏が行った宗教政策の枠組みの中でしか、真宗について論じられていない。そこで、 陸続きであった隣国の備後国・安芸国の事例と同様ではなかったかと考え、ここでは、備後国・安芸国の真宗教団 の 展 開 に つ い て 述 べ て い く 。 ︵ 9 ︶ ︵
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︶ ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶ 田中清三郎氏をはじめ、宮崎聞遵氏、和田睦美氏、岡村喜史氏などによると、南北朝期に備後固へ荒木門徒系の 明光系教団が布教活動を行い、備後国招隈郡山南に光照寺を創建し、そこを中心として展開したとしている。また、 宮崎氏や和田氏は備後の真宗教団の主要な人物として慶円の名前を挙げており、和田氏は慶円等による明光系教団 が成立したのは、光照寺や宝田院に所蔵される﹃一流相承系図﹂︵絵系図︶の年号から、嘉一謄元︵一三二六︶年で は な い か と 指 摘 し て い る 。 しかし、備後の明光系教団は蓮如・実如期になり、本願寺系真宗の流入により本願寺系真宗へ属することになる。 岡村氏によると、明応七︵一四九八︶年に山南光照寺の上寺である相模最宝寺が実如から方便法身尊形を下付され、 ︵ U ︶ この頃に最宝寺が本願寺系となり、下寺の光照寺も本願寺に属することとなったとしている。このような事例とし て、岡山県笹岡浄心寺には、蓮如筆の﹁六字名号﹂や実如判﹁御文﹂が所蔵されている。この寺院には﹁絵系図﹂ ︵ 江 川 ︶ が所蔵されている。また、広島県下山南宝光寺には、実如判﹁御文﹂が所蔵されており、蓮如・実如期にはこれら の地域で本願寺系真宗へと編入されたのではないかと考える。 また、安芸国では仏護寺の存在も注目される。仏護寺は安芸武田氏の祈願寺として創建された天台宗寺院であっ たが、明応五︵一四九六︶年に塔頭の意見を容れて、武田氏及び一山の同意を得て天台宗を真宗に改宗したとして ︵ 日 ︶ いる。毛利氏が仏護寺を保護した理由について、山中寿夫氏は、仏護寺が天文二十一年頃に真宗へ転派していた点 と、仏護寺三世超順を真宗の有力坊主衆として認識しており、真宗勢力の利用と仏護寺の旧地龍原が交通の要所で 戦略的必要性を重視した点、毛利家家臣内にも真宗門徒が次第に出来ており、最初にその中心であった照林坊を、 瀬戸内海地域における真宗の伝播一
一
瀬戸内海地域における真宗の伝播 四 ︵ げ ︶ 後に仏護寺を中心として対真宗政策を進めたとしている。 周防・長門国の近隣では右に述べたように、明光派系教団や仏護寺の活動が見られるが、周防・長門国でも、実 ︵ 同 時 ︶ 際に近世の史料である﹃防長風土注進案﹄に光照寺末や仏護寺末の寺院が見られ、堺から伝播した真宗が流入する 前にこれらの寺院が周防・長門囲内で布教活動を行っていた可能性があると考えられる。 このような周防・長門囲内の宗教状況の中、堺から真宗が伝播されたのであるが、次に堺から伝播した真宗がど のような布教構造であったのかを検討していく。 2 布教主体 ︵ m m ︶ まず、誰が主体となって西国へ布教していたかという問題である。これに関して、﹁紫雲殿由縁記﹄に、 ①︵前略︶堺ニテハ嘗東之坊伯父束之坊一段俗形ニテ西国商人トナリ、天文四年ノ春剃髪、ン、東之坊ト名乗リ 西国ヘ下向ス、並ニ山科逐電シタル端坊、堺ニ出テ西国商ヲシ渡世シタリケルヵ、両坊トモニ西国廻リ覚、ンヲ 幸ニ、興正寺モ得心、両坊トモニ渡世ノ為ニ毎歳下向ス、︵後略︶︵波線部筆者︶ と あ り 、 ま た 他 の 部 分 に は 、 ②︵前略︶西国九州方ヘ毎歳売出、其ノ人体ハ城川劃劃剰刺劃齢、削劃似照剖兄六右衛門、堺南庄路東坊体甚 平、車餅川剖蜘献域判川、コノ外西国表ヘ売買ニ出ル輩僧俗ニコレアリ、人々知之、︵後略︶︵波線部筆者︶ とあり、西国布教に参加した各寺院が堺に進出し、僧体のまま﹁西国商﹂を営んでおり、毎年渡世のために西国へ 下向している様子が窺うことができる。 こ れ ら の 記 載 か ら 判 明 す る の は 、 真 宗 の 西 国 布 教 に 参 加 し て い た 寺 院 は 、 ﹁ 堺 南 庄 束 坊 ﹂ ・ ﹁ 端 坊 ﹂ ・ ﹁ 堺 善 教 寺 ﹂ ・ ﹁中島仏照寺﹂の四ヶ寺である。この四ケ寺のうち、堺善教寺と端坊の二ケ寺に注目していく。善教寺は、堺にお
いて、堺三坊主︵天文期では真宗寺顕勝・慈光寺円教・善教寺性祐︶として堺門徒衆の中心を担い、堺門徒衆を統 ︵ 加 ︶ 括し、堺坊を与力していた。﹃天文日記﹄には、﹁堺坊之日記﹂を大坂本願寺へ納めている記事や、堺門徒衆から堺 ︵ 幻 ︶ 坊に対する志納金の台帳である﹁堺坊納帳﹂を大坂へ届けている。 次に端坊であるが、端坊は、もともと興正寺の一支坊であり、興正寺の移転に伴い、山科、大坂を経て近世初期 に京都六条に移転する︵京都端坊︶。そして、中世末期に西国布教に乗り出し、拠点として山口に端坊を建立する ︵山口端坊︶。その後、毛利氏の萩移転に伴い、慶長十三年︵一六
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八︶萩にも端坊を建立する︵萩端坊︶。明治期 に京都端坊は廃寺となり、今では山口と萩の端坊が現存している。 こ の よ う に 、 ﹁ 堺 南 庄 東 坊 ﹂ ・ ﹁ 端 坊 ﹂ ・ ﹁ 堺 善 教 寺 ﹂ ・ ﹁ 中 島 仏 照 寺 ﹂ の 四 ケ 寺 が 主 体 と な っ て 、 西 国 へ 下 向 し 、 布 教を行っていたことが史料上から読み取ることができる。それでは、これらの四ケ寺がどのような方法で布教して い た の か 、 以 後 検 討 を 重 ね て い く 。 布教方法 先に挙げた﹃紫雲殿由縁記﹄の記事に見える東坊・端坊・善教寺・仏照寺は、堺を基盤とし、西国へ布教活動を 行っていたが、実際にどのような布教活動を行っていたのであろうか。﹁大谷本願寺通紀﹄、﹃紫雲殿由縁記﹂には 同様な記事が記載されており、彼らが行っていた商行為について詳しく書かれている。﹃大谷本願寺通紀﹂では、 ︵ 1 ︶天文年中興正寺蓮秀輔佐証宗主。頗有専権之勢。衆亦帰之。輿端坊東坊等相謀。毎年遊歴西閏。巡村勧 化。衆倣銭財。於中興正寺授光明本。為一宗絵讃。又抄録蓮宗主勧章輿之。蓮淳患其不利子本山。︵後略︶ とあり、天文年中に端坊と東坊が共に毎年西国へ下向し、その時に村々を回り、布施を集め、その代わりに輿正寺 ︵3
︶ は ﹁ 光 明 本 ﹂ と ﹁ 蓮 宗 主 勧 章 ﹂ ︵ 御 文 ︶ の抄録を授けているという内容である。言い換えれば、西国の村々へ﹁光 瀬戸内海地域における真宗の伝播 五瀬戸内海地域における真宗の伝播
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ム ノ 、 ︵ M ︶ 明 本 ﹂ ・ ﹁ 御 文 ﹂ を 頒 布 し て い た の で あ る 。 ま た 、 ﹃ 紫 雲 殿 由 縁 記 ﹂ で は 、 ③殊ニ西国エモ坊主ヲ下シ、其上光明本ヲ宗円安置ノ絵讃ト定出シ輿ヘラレ、蓮師ノ勧文等モ抜キ出シ売物ト 一ハ興隆仏法、二ニハ賄相続ノ為ニ、勧文コレ迄モ望ノ人アレハ代筆ヲ致シ、自判ヲスヘラレ輿ル 処、山科混乱ノ前後今日ニ至ルニカツテ望メル人モ無之、然レハ板行ニ致、自判ヲ押シ出スヘシト存スト、 ︵ 後 略 ︶ セ ラ ル 、 、 とあり、﹁光明本﹂を﹁宗門安置ノ絵讃﹂と定め、﹁蓮師ノ勧文﹂を抜書きして頒布の対象としている。さらに、こ の行動は﹁興隆仏法﹂・﹁賄相続﹂のために行われている。そして、﹁御文﹂は木版で印刷され、自判を押して西国 で流通している状況であった。これらの↓記事から、東坊・端坊など興正寺系寺院が、独自に西国で﹁光明本﹂や ﹁御文﹂を頒布の対象として用いながら、教化活動を行っていたということがわかる。なぜ、これほどまでに興正 寺一派は﹁光明本﹂や﹁御文﹂などの法宝物を頒布の対象として用いたのであろうか。その理由として、﹃紫雲殿 ︵ お ︶ 由 縁 記 ﹄ に は 、 ④︵前略︶殊ニ興正寺ヨリ常楽寺台伝授写シ輿ヘルトテ料物ヲ定メ売物トス光明本、皆々一ツハ興正寺娼訣ノ 為ニ同行ニ信施ヲ貧調安置、坊主分又頭同行ノ富家エハ興正寺ヨリ輿へ料物定之通ニハ三増倍ノ売物トナル、 誠ニ如此ニ蓮秀興奪盗心トナラル、コト、人ハ恐ルヘシ︵後略︶︵波線部筆者︶ とあり、興正寺が常楽台から伝授された﹁光明本﹂を、ある一定の科物を定めて門徒に頒布するのは、興正寺が ﹁蝿訣ノ為﹂に門徒の信施を振るい立たせるためであり、﹁坊主分又頭同行﹂などの裕福な家には興正寺から﹁光 明本﹂を下付され、興正寺が定めた﹁料物定﹂によれば、それを頒布すると村々を巡って布施を集めるために﹁光 明本﹂を頒布するよりも興正寺に三倍の利益が粛されていたことが記されている。この記事から、﹁光明本﹂など 法宝物の頒布が莫大な利益を生むことを興正寺が認識しており、興正寺が率先して東坊や端坊、善教寺などに西国へ下向させ、法宝物を頒布していたのではないかと考えられる。 ところで、中世堺商人の商業圏は、どこまで及んでいたのであろうか。これに関して、二つの史料を挙げる。 唐荷駄別役銭之事、村上善露丸愁訴之条、被仰付候処、厳島其外於津々浦々荷物点検之問、迷惑之由言上之趣 遂披露、被成御心得候、然者於堺津、日向、薩摩、唐荷役如旧例可被申付候也、対村上堅固被成御下知候、各 得其心無煩往返之覚悟肝要也、的状如件、 五 月 廿 一 日 隆 著 ︵ 花 押 ︶ 興 理 ︵ 花 押 ︶ 隆 景 ︵ 花 押 ︶ 各 ( 五 堺 中 哲 郎 津 ( 右 紅 波 衛 屋 線 門 部 男 筆 者 京堺之諸商人号駄別料、近年対村上右近太夫隆重、於芸州厳島可受用之由、先代被申付候、件之駄別之事更無 謂事之条、為当代被停止候、右之駄別之事者、至薩摩従堺之浜往返之商人、前々者遂其節之由申候、於厳島隆 重受用之儀者、曽以不可有之候、此等之趣御一門中江御演説肝要候、猶江良丹後守可申候、恐々謹言、 卯 月 廿 日 晴 賢 村上太郎殿 瀬戸内海地域における真宗の伝播 七
瀬戸内海地域における真宗の伝播 ︵ 幻 ︶ 御 宿 所 ︵ 波 線 部 筆 者 ︶ J¥ 今岡伯者守殿 この二点の史料については、以前に﹃天文日記﹄に記載がある遣明船に関して大内氏・本願寺・土佐一条氏・堺 ︵ お ︶ の関係を検討したが、その中で、大内氏と堺商人との関係を述べる際、引用した文書である。史料の詳しい検討内 容はそちらに譲るとして、二つの史料に付した波線部に注目したい。﹁京・堺之諸商人﹂は堺・日向・薩摩聞を往 来していることが記されている。そこで、堺商人の商圏は瀬戸内海地域だけでなく、九州まで広がっていたことが 明らかであり、当然、瀬戸内海を堺商人が往来していたと考えられ、今回検討した興正寺主導による法宝物の頒布 による布教活動は、瀬戸内海交易ル l トを媒介に行われていたと言えるのではないだろうか。 先にみた一連の記事より明らかになるのは、西国において、﹁光明本﹂・﹁御文﹂などの法宝物による真宗布教が 行われており、その効果は絶大であったように思われる。また、堺商人の商圏は瀬戸内海の交易ル l トにより、そ の範囲は瀬戸内海沿岸地域から九州南部にまで及んでいることから、西国への真宗布教は堺商人の交易ル l ト を 利 用し、端坊・束坊・堺善教寺などの興正寺系寺院による法宝物の頒布による真宗布教が行われていたと考えられる。 ︵ 4 ︶ 布教の実態 前節まで検討してきた端坊・東坊・堺善教寺などの輿正寺系寺院による西国への真宗布教が、実際にはどのよう なものであったのだろうか。﹃大谷本願寺通紀﹄に記載されているように、興正寺系寺院による西国への真宗布教 が行われていたとされる天文期の史料と端坊の由緒書である﹁端坊由緒書﹄を検討し、端坊を中心に当該期の動向 を 見 て い き た い と 思 う 。 興正寺系寺院が西国布教を行っていたとされる天文期に本願寺宗主であった、証如の日記である﹃天文日記﹂に
は、端坊に関する記事が五十四件存在する。しかし、その多くは端坊が本願寺への当番役を務めている記事や斎の 相伴を務めている記事がほとんどである。このような記事以外には、 ︵ 前 略 ︶
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従輿正寺門徒坊主衆井惣門徒就去年興正寺ヲ成一家たる、為礼五種十荷来。使ハ端坊、東坊、堺阿 弥 陀 寺 也 。 ︵ 後 略 ︶ とあるように、昨年︵天文四年︶に興正寺の一家衆成について、興正寺坊主衆・門徒衆を代表して、東坊・堺阿弥 陀寺と共に証如へ礼の品を届けている。また、 ︵ ぬ ︶ ︵ 前 略 ︶O
夜子刻過ニ端坊家屋焼揚、則打消之。付火也云々。彼家半分も不焼也。 とあり、大坂寺内町内にあった端坊の家屋が火災にあったことが記されており、これらの↓記事から、天文期におけ ︵ 況 ︶ る端坊の活動の中心地は畿内、特に大坂ではないかと考えられる。また、端坊は﹃端坊由緒書﹄によると、蓮如在 世期の文明十三︵一四八一︶年に興正寺経豪︵蓮教︶の本願寺帰参のきっかけを作り、蓮教帰参後から各地に布教 ︵ 認 ︶ を行っており、多くの門徒が帰依している記事がある。﹁天文日記﹄でも天文期に豊後国で端坊末寺院が確認され、 端坊が各地を巡り、布教活動を行っていた形跡が見られる。 し か し 、 ﹃ 端 坊 由 緒 書 ﹄ に は 、 ︵ 前 略 ︶ 端坊儀毛利家江御頼有之候ニ付、明念度々御法儀相続のため、中国・九州へ罷下候節、周防固山口ニ おいて一寺建立仕候趣、則中国之大守毛利陸奥守元就卿へ相頼候処、長門固小郡ニ而八木百俵御寄附被成、大 ︵ お ︶ 守 よ り 作 事 御 申 附 候 而 、 成 就 之 上 端 坊 与 号 し 候 、 ︵ 後 略 ︶ とあり、端坊は毛利家との関係から、明念︵端坊十代住持︶は﹁法儀相続﹂のために度々中国や九州地方に下向し ︵ 担 ︶ て布教活動を行っており、永禄六︵一五六三︶年に毛利元就の申し付けにより山口に端坊を建立し、長門国小郡か ら米百俵の寄進があったとしている。 瀬戸内海地域における真宗の伝播 九瀬戸内海地域における真宗の伝播
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前 節 で 検 討 し た ﹁ 大 谷 本 願 寺 通 紀 ﹄ ・ ﹃ 紫 雲 殿 由 縁 記 ﹂ で は 、 天 文 年 間 に ﹁ 光 明 本 ﹂ ・ ﹁ 蓮 宗 主 勧 章 ﹂ ︵ ﹁ 御 文 ﹂ ︶ に よる西国布教が行われていたとしているが、同時代史料である﹁天文日記﹄には、天文期に豊後屈で端坊末寺院が 確認できるが、中園地方では端坊末寺院は確認できない。このようなことから、輿正寺系寺院による西国布教は、 ﹁大谷本願寺通紀﹄・﹃紫雲殿由縁記﹂にある記事のような布教が行われていたと考えられる。しかし、中園地方に おける端坊の活動時期は﹃大谷本願寺通紀で﹃紫雲殿由縁記﹄にあるように、天文年間ではなく、山口に端坊が建 立された永禄六年以降に本格的に行われたのではないかと考えられる。 それでは、興正寺系寺院による法宝物の頒布により、真宗が伝播した地域ではどのように展開されていたのであ ろうか。次に周防・長門国を事例に近世の本末関係を手がかりとして検討することにする。二、堺から瀬戸内海地域への真宗の伝播
−|周防・長門国の事例|| 興正寺の主導による堺を介した西国への真宗伝播は、当該地ではどのように受け入れられ、展開していったので あろうか。その特徴が顕著に現れている事例として、周防・長門両国を取り上げ、近世の本末関係を検討すること により中世の布教状況を検討していきたい。 本章で主に検討していく在地の史料として、﹁防長風土注進案﹄︵以下﹃注進案﹂と略す︶という史料がある。ま ずは史料の性格・書誌情報を概観しておく。﹃注進案﹄の原本は、天保十二年︵一八四一︶正月に長州藩における 藩政改革に関連して﹁国郡志﹂の編纂を企画し、藩の全領域各町村から﹁地理産業仕出﹂の名目によって一定項目 による実施調査を行い、郡代官の管区である宰判ごとにまとめたものを注進したものである。全部で十七宰判、三 百九十五冊にも及ぶ。また、史料の名称であるが、各宰判の注進するところにしたがって、風土記、地理史、書出などの名称があったが、藩府で﹁風土注進案﹂と題した。固有の題はないが、この史料が刊行されるにあたり、原 ︵ お ︶ 題に﹁防長﹂を付して﹃防長風土注進案﹄と題を付したとしている。 それでは、﹁注進案﹄から真宗寺院の本末関係について見ていき、﹃大谷本願寺通記﹄・﹃紫雲殿由縁記﹄に記載さ れている興正寺系寺院の真宗布教がどのように展開したかを検討していきたいと思う。 ﹃注進案﹂の史料的検討と﹃注進案﹄に見える周防・長門両国での真宗の展開 ﹁注進案﹂に記載がある本末関係から当該地域における真宗の展開を検討する前に、天保期に作成された﹃注進 案﹄を使い、中世の周防・長門両国における真宗の展開を検討するには、﹃注進案﹄の記述に史料的信愚性を欠く と考えられる。そこで、中世から本末関係を継承していると考えられる近世初期において、西本願寺により作成さ ︵ お ︶ れた、木仏・親鷲などの歴代御影を全国の末寺に下付した記録である﹃木仏之留﹄・﹃御影様之留﹄の周防・長門両 国の記事と対照する。そうすることにより﹁注進案﹄に記載されている記述が、中世まで遡ることが可能であると 考え、三つの史料を対照し、﹃注進案﹄の史料的検討を行っていく。 ︵ 1 ︶ まず、﹃木仏之留﹄と﹃注進案﹄の対照である。﹃木仏之留﹄には周防・長門両国の寺院が六十六件抽出できるが、 その内=一十六件が﹃注進案﹄にも確認ができ、その本末関係も一致する︵内訳として堺善教寺末八ヶ寺、興正寺・ 端坊末十四ケ寺、九州系端坊末︵豊前専想寺・長久寺末︶四ヶ寺、興正寺・東坊末一ヶ寺、直末三ケ寺、不明四ケ 寺︶︵表一参照︶。次に﹃御影様之留﹂と﹁注進案﹄を対照していく。﹁御影様之留﹄には周防・長門両国の寺院が 五十五件抽出できるが、その内の一一十一件が﹃注進案﹄にも確認ができ、その本末関係も一致する︵内訳として、 堺善教寺末九ケ寺、輿正寺・端坊末コ一ヶ寺、九州系端坊末︵豊前専想寺・長久寺末︶四ケ寺、興正寺・東坊末三ケ 寺 、 不 明 二 ケ 寺 ︶ ︵ 表 二 参 照 ︶ 。 こ の よ う に ﹃ 木 仏 之 留 ﹂ ・ ﹁ 御 影 様 之 留 ﹄ と ﹁ 注 進 案 ﹄ を 対 照 す る と 、 ﹃ 木 仏 之 留 ﹂ ・ 瀬戸内海地域における真宗の伝播
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瀬戸内海地域における真宗の伝播 ﹃御影様之留﹄に記載されている寺院の内、半数以上が﹁注進案﹄と本末関係が一致することが判明する。このこ とから、﹁注進案﹄に記載されている寺院の本末関係は、中世まで遡りうると考えられ、以後、﹃注進案﹄から周 防・長門両国における輿正寺系寺院の真宗布教の展開を検討していく。 まず始めに﹁大谷本願寺通紀﹄・﹃紫雲殿由縁記﹄で西国布教に参加していたと記載されている堺善教寺末寺院が 多く確認できる大島宰判の例から検討していく。大島宰判内で真宗寺院は、十九ケ寺が﹃注進案﹂から確認できる。 その内十六ヶ寺が大本山を西本願寺、中本山を堺善教寺としている。同様に﹁注進案﹄から堺善教寺末寺院が確認 できる大島宰判以外の事例を見てみると、前山代宰判一ヶ寺、上関宰判三十三ヶ寺、熊毛宰判十三ヶ寺、都濃宰判 十三ケ寺、コ一田尻宰判八ケ寺、徳地宰判では六ヶ寺と、現在の山口県中・東部に集中して堺善教寺が分布している ことが確認できる。しかし、山口宰判以西︵現在の山口県西部︶になると堺善教寺末寺院が減少し、その代わりに 興正寺・端坊末、九州系端坊末︵豊前専想寺末・長久寺末︶、仏照寺末寺院が多く確認することができる︵表四参 照 ︶ 。 これらの事例から、山口県中・東部には堺善教寺、山口県西部には興正寺・端坊、九州系端坊、仏照寺と分布範 囲が分かれており、これら四ヶ寺で互いの布教する伝播ル l ト・地域が住み分けされていた可能性があると考えら れ る 。 このように右に挙げた四ヶ寺が、互いに伝播ル l ト・地域の住み分けがなされていたことが確認できたが、次に ﹃大谷本願寺通紀﹄・﹁紫雲殿由縁記﹂に書かれていた布教方法を、近世に周防・長門両国の宰判ごとで作成された ﹃ 防 長 寺 社 由 来 ﹄ を 検 討 し 、 そ こ に 記 載 さ れ て い る 法 宝 物 か ら ﹃ 大 谷 本 願 寺 通 紀 ﹄ ・ ﹃ 紫 雲 殿 由 縁 記 ﹂ の 記 載 と 差 異 が あ る か 検 討 を 行 っ て い く 。
周防・長門両国での真宗伝播の実態 前 章 で 検 討 を 行 っ た ﹃ 大 谷 本 願 寺 通 紀 ﹄ ・ ﹁ 紫 雲 殿 由 縁 記 ﹄ ︵
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︶ の記載では、堺善教寺、端坊などの輿正寺系寺院が西 国布教を行った際に、布教の媒介として﹁光明本﹂や﹁蓮宗主勧章﹂︵御文︶を用いていたことを指摘した。しか し、近世に作成され、周防・長門国内の寺院・神社の由緒書・法宝物等を書き上げたものを各宰判でまとめた﹃防 ︵ 訂 ︶ 長寺社由来﹄という史料で、周防・長門囲内の真宗寺院の法宝物類を確認すると﹁光明本﹂が所蔵されている記載 はなく、ほとんどの寺院では﹁御文﹂と﹁六字名号﹂が記されている。そのうち﹃防長寺社由来﹄に記載がある堺 善教寺末寺院八ヶ寺に注目すると、﹁御丈﹂一点、﹁六字名号﹂・﹁名号﹂は十一点確認できる︵表三参照︶。これら の法宝物類に注目してみると、まず﹁御文﹂に関して、証如直筆の﹁御文﹂を所蔵している旨が﹁防長寺社由来﹂ に記載されているが、瓜生氏の調査によると、山口県内には証如証判の﹁御文﹂は、四点のみしか確認がされてい ︵ お ︶ な し 。 次に﹁六字名号﹂・﹁名号﹂に注目していく。﹃防長寺社由来﹂では周防国麻郷村光泉寺は、寛永二年に建立の寺 伝があるが、蓮如筆の﹁名号﹂を所蔵している記述がある。また、周防国末武村浄蓮寺は慶長十五年に寺号が下付 されているのに対し、蓮如筆﹁六字名号﹂を所蔵しているといった、寺院の閉幕一年代、木仏・寺号が下付された年 代が近世であるのに対し、蓮如・実如・証如から下付された﹁六字名号﹂・﹁名号﹂を所蔵しているといった、開基 年代と所蔵している﹁名号﹂の下付年代にずれが生じている事例や、寺院の由緒自体が不明であるため﹁名号﹂の 詳細な伝来を記したものが存在しない寺院があることから、正式に本山から下付された﹁名号﹂であるか不明な点 が あ る ︵ 表 三 参 照 ︶ 。 また、宮崎固遵氏は、豊後国専想寺の所伝に蓮如から専想寺開基天然が蓮知直筆の名号百幅を授与され、天然は ︵ め ︶ 名号を有縁の地に頒けたことを指摘している。そして、現在山口県内には、﹁光明本尊﹂が現存していないことか 瀬戸内海地域における真宗の伝播一
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瀬戸内海地域における真宗の伝播 四 ら、﹁光明本﹂は﹁光明本尊﹂を差すのではなく、﹁名号﹂を指すと考えられ、輿正寺系寺院は天然の所伝と同様に ﹁名号﹂を持ち歩き、西国へ赴いて現地で布教活動を行っていたと考えられる。そして、この時に用いられた﹁名 号﹂は、﹁光明本﹂と書かれているため、金泥で光明を放った﹁名号﹂ではなかったかと考えられる。現在でも広 島県高林坊に所蔵されている﹁六字名号﹂は、損傷が激しいため光明が確認できないが、金泥で書かれた﹁六字名 ︵ 位 ︶ 号﹂である。また、兵庫県英賀本徳寺にも、蓮如期の物とされ伝親驚筆とされている紺地金泥の﹁六字名号﹂が所 ︵ 必 ︶ 蔵されている。﹃防長寺社由来﹂には、﹁六字名号﹂としか記載がなく、金泥か墨跡の﹁名号﹂かどうか判断が難し いが、周防・長門でも播磨や備後と同様に金泥の﹁六字名号﹂が流布しており、輿正寺系寺院も金泥の﹁六字名 号﹂による布教を行っていたのではないかと考えられる。 これらの検討から、﹃大谷本願寺通紀﹄・﹃紫雲殿由縁記﹄に記載されているような﹁御文﹂・﹁光明本﹂による布 教活動ではなく、天然の所伝の如く﹁名号﹂を持ち歩き、西国へ赴いて現地で金泥の﹁六字名号﹂を媒介とした布 教活動を行っていたと考えられる。また、﹃防長寺社由来﹂ では、開基年代と所蔵している法宝物類の下付時期が ずれるため、開基された当該期の宗主と時期がずれる法宝物類が周防・長門囲内で流布していたのではないかと考 え ら れ る 。 むすびにかえて
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今後の課題と展望|| 本稿では、堺を拠点として、畿内にある真宗寺院が西国へ布教していた事例と、その布教の結果、西国に真宗が どのように展開していたかについて近世の寺院の本末関係と由緒書を用いて考察を行った。最後に今回の考察によ り明らかになったことをまとめ、今後の展望・課題を挙げつつ、むすびに代えたいと思う。 ﹃大谷本願寺通記﹄・﹁紫雲殿由縁記﹄などの記載されている堺を拠点とした真宗布教は、東坊・端坊・堺善教寺などの輿正寺系寺院が主体となり、堺から西国へ﹁光明本﹂や﹁蓮師ノ勧文﹂︵﹁御文﹂︶を媒介とした布教活動が行 われており、布教ル l トは堺商人の瀬戸内海交易ル
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トを利用した布教活動を行っていた。また、﹃天文日記﹂に は端坊に関する記事が多く記載されているが、その多くは当番役を務めている記事や斎の相伴を務めている記事が 掲載されている。そして﹁端坊由結書﹄ では毛利氏との関係から度々中国・九州地方へ下向し布教活動を行ってお り、永禄六年には毛利元就の取り持ちにより、山口端坊を建立しており、元就から米百俵を寄進されている。この ようなことから、実際、東坊・端坊・堺善教寺などの興正寺系寺院の布教は防長両国への布教活動が行われていた と考えられるが、﹁大谷本願寺通記﹄に記載されているように﹁天文年中﹂ではなく、山口端坊が建立された永禄 六年以降に本格的に中国・九州地方と関係を持ったのではないかと考えられる。 次 に 二 つ 目 と し て ﹃ 注 進 案 ﹄ の記事から周防国大島郡では、堺善教寺末の寺院が多数あり、大島宰判内の真宗寺 院十九ヶ寺の内、十六ケ寺が大本山を西本願寺、中本山を堺善教寺としている。その他大島宰判以外の地域では、 前山代・上関・熊毛・都濃・三田尻・徳地宰判で大島宰判と同様に堺善教寺末寺が多く分布しているが、山口宰判 以西の地域では興正寺・端坊・九州系端坊末寺・仏照寺末の寺院の流入が目立っており、防長両国における真宗の 伝 播 ル l トとしては、堺善教寺、興正寺・端坊末、九州の端坊末、仏照寺末と住み分けがなされていたのではない か と 考 え ら れ る 。 三 つ 日 に 防 長 両 国 に 伝 わ る 法 宝 物 に 注 目 す る と 、 ﹃ 大 谷 本 願 寺 通 記 ﹄ ・ ﹃ 紫 雲 殿 由 縁 記 ﹂ で は ﹁ 御 文 ﹂ ・ ﹁ 光 明 本 ﹂ を媒介とした布教活動をしていた記事が見られるが、防長両国の寺院、神社に関する由緒書・法宝物等を書き上げ たものを各宰判でまとめたものである﹃防長寺社由来﹄に記載されている法宝物類は﹁御文﹂・﹁名号﹂が多く記載 されているが、﹁御文﹂に関しては山口県内には証如証判の﹁御文﹂は四点のみ現存しているという調査結果があ る。また﹁六字名号﹂・﹁名号﹂に関しては、﹁防長寺社由来﹂によれば、寺院の開基年代と﹁名号﹂の下付年代に 瀬戸内海地域における真宗の伝播 五瀬 戸 内 海 地 域 に お け る 真 宗 の 伝 播 ム ノ、 差異がある。そして、豊前回専想寺の所伝では開基である天然が蓮如から下付された﹁名号﹂を持ち歩いて布教活 動を行っていたという宮崎氏の指摘がある。さらに、この時に用いられた﹁名号﹂は、播磨や備後の寺院で現存す る金泥で書かれた﹁六字名号﹂であったと考えられる。このようなことから、﹁御文﹂・金泥の﹁名号﹂を持ち歩き、 布教活動を行っていたと考えられ、﹃防長寺社由来﹂では開基年代と所蔵している法宝物類の下付時期がずれるた め、当該期の宗主と時期がずれる法宝物類が周防・長門両国内で流布していた可能性があるのではないかと考えら れ る 。 今回、周防・長門国内での興正寺系寺院の布教活動に関して検討を加えてきたが、周防・長門囲内の真宗伝播が、 他の西国諸国では堺から真宗が伝播していたという同様な事象があったのだろうか。それを明らかにするためには、 四国・九州地方ではどのような真宗の布教がされており、どのように真宗が展開していたかを検討することが必要 である。また、中国・四国・九州地方の真宗伝播に関して、検討を加えることにより、西日本の真宗布教の実態が 明らかになるのではないかと考える。今後は、四国・九州地方の真宗伝播について検討を行い、最終的に西日本全 体の真宗伝播に関して検討していきたいと考えている。 註 ︵ 1 ︶ 鈴 木 敦 子 ﹁ 地 域 市 場 と し て の 厳 島 門 前 町 と 流 通 ﹂ ︵ ﹁ 日 本 中 世 社 会 の 流 通 機 構 ﹄ 第 一 部 第 三 章 、 校 倉 書 房 、 二 O O O 年 ︶ ︵ 2 ︶ 山 内 譲 ﹁ 中 世 後 期 瀬 戸 内 海 の 海 賊 衆 と 水 運 ﹂ ︵ ﹃ 瀬 戸 内 海 地 域 史 研 究 ﹄ 第 一 輯 、 瀬 戸 内 海 地 域 史 研 究 会 、 一 九 八 七 年 ︶ ︵ 3 ︶ 児 玉 識 A ﹁ 西 日 本 真 宗 の 源 流 ﹂ ︵ ﹃ 近 世 真 宗 の 展 開 過 程 | | 西 日 本 を 中 心 と し て | | ﹄ 第 一 章 第 二 節 、 古 川 弘 文 館 、 一 九 七 六 年 ︶
︵ 4 ︶ 北 西 弘 ﹁ 解 説 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 三 巻 、 同 朋 舎 、 ︵ 5 ︶前掲註︵ 4 ︶ ︵ 6 ︶前掲児玉氏論文 A ︵ 7 ︶ ﹃ 山 口 市 史 ﹄ ︵ 山 口 市 史 編 纂 委 員 会 編 、 一 九 八 二 年 ︶ ︵ 8 ︶﹃萩市史﹄第一巻︵萩市史編纂委員会編、一九八三年︶ ︵ 9 ︶田中清三郎﹁真宗芸備地方教団発展の性格﹂︵﹃史学研究﹄第四十九号、広島史学研究会、一九五二年︶ ︵叩︶宮崎園遵﹁仏光寺教団の発展に関する一考察﹂︵﹃真宗史の研究﹄上巻、同朋舎、一九八七年所収、﹁宗学院論輯﹄ 第 十 二 輯 、 一 九 三 三 年 初 出 ︶ ︵日︶和田睦美﹁中園地方における真宗教団の展開﹂︵﹁史窓﹄十七・十八号、一九六 O 年 ︶ ︵臼︶岡村喜史﹁中園地方における真宗の展開||備後山南光照寺の中本山的性格の分析 1 1 ﹂ ︵ ﹃ 龍 谷 大 学 仏 教 文 化 研 究所紀要﹄第三十三集、龍谷大学仏教文化研究所、一九九四年︶ ︵ 日 ︶ 前 掲 註 ︵ 日 ︶ ︵ 凶 ︶ 前 掲 註 ︵ 臼 ︶ ︵日︶同朋大学仏教文化研究所所蔵調査カ l ド に よ る 。 ︵時︶﹃広島県史﹄中世通史 E ︵ 広 島 県 、 一 九 八 四 年 ︶ ︵口︶山中寿夫﹁戦国時代における安芸国一向宗の性格について||仏護寺を中心とせる||﹂︵﹃毛利氏の研究﹂戦国 大名論集十四巻、藤木久志編、吉川弘文館、一九八四年︶ ︵ 凶 ︶ ﹃ 防 長 風 土 注 進 案 ﹄ ︵ 山 口 県 文 書 館 編 修 、 一 九 六 O 年 ︶ ︵ 国 ︶ ﹁ 真 宗 全 書 ﹄ 第 七 十 巻 ︵ 史 料 a ︶ ︵ 国 書 刊 行 会 、 一 九 七 六 年 、 一 九 一 三 年 初 版 発 行 ︶ ︵却︶﹃天文日記﹄︵以下﹃日記﹄と略す、﹃石山本願寺日記﹄上巻、清文堂出版、一九三 O 年初版、一九六六年復刻版 発刊、一九八四年復刻版再刊︶天文六年四月二十八日条 ︵ 幻 ︶ ﹁ 日 記 ﹄ 天 文 五 年 二 月 一 日 条 ︵沼︶児玉識 B ﹁毛利・小早川氏と真宗||山口端坊文書の分析||﹂︵赤松俊秀教授退官記念﹃国史論集﹄一九七二 年初出、後に児玉氏著書﹃近世真宗の展開過程 1 1 1 西日本を中心として||﹄古川弘文館、一九七六年に所収︶ ︵幻︶﹃真宗全書﹄第六十八巻︵史料 b ︶ ︵ 国 書 刊 行 会 、 一 九 七 六 年 、 一 九 一 一 一 一 年 初 版 発 行 ︶ 一 九 七 九 年 ︶ 瀬 戸 内 海 地 域 に お け る 真 宗 の 伝 播 七
瀬 戸 内 海 地 域 に お け る 真 宗 の 伝 播 J¥ ︵出︶前掲史料 a ︵ 註 凹 ︶ ︵お︶前掲史料 a ︵ 註 凹 ︶ ︵ お ︶ ﹁ 厳 島 野 坂 文 書 ﹂ 四 十 四 号 ︵ ﹃ 広 島 県 史 ﹄ 古 代 中 世 資 料 編 E 、 広 島 県 、 一 九 七 六 年 ︶ ︵ 訂 ︶ ﹁ 大 願 寺 文 書 ﹂ 六 十 七 号 ︵ ﹁ 広 島 県 史 ﹄ 古 代 中 世 資 料 編 皿 、 広 島 県 、 一 九 七 八 年 ︶ ︵沼︶拙稿﹁遣明船における本願寺・大内氏・土佐一条氏・堺の関係||﹁天文日記﹄を中心に
il
﹂ ︵ ﹃ 歴 史 の 広 場 ﹄ 第九号、大谷大学日本史の会、二 O O 七 年 ︶ ︵却︶﹃日記﹄天文五年四月二十九日条 ︵却︶﹁日記﹄天文十三年間十一月十九日条 ︵担︶大原誠﹁﹁端坊由緒書﹂について﹂︵﹃働教史研究﹂第四十号、龍谷大学偽教史研究会、二 O O 四 年 ︶ ︵ 沼 ︶ ﹃ 日 記 ﹄ 天 文 六 年 七 月 十 日 条 ︵ お ︶ 前 掲 ︵ 註 凹 ︶ ︵担︶大原誠﹁﹃時慶卿記﹄にみられる端坊||文禄の役前後|l
﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研 究 ﹄ 第 四 十 七 輯 、 真 宗 連 合 学 会 、 二 00 三 年 ︶ ︵ お ︶ ﹃ 防 長 風 土 注 進 案 ﹂ 第 二 巻 大 島 宰 判 ﹁ 凡 例 ﹂ ︵ 山 口 県 図 書 館 、 一 九 六 一 年 ︶ ︵お︶﹃木仏之留御影様之留﹄︵本願寺史料集成第一巻、千葉乗隆編、同朋舎、一九八 O 年 ︶ ︵ 釘 ︶ ﹃ 防 長 寺 社 由 来 ﹄ ︵ 山 口 県 文 書 館 編 、 一 九 八 二 年 ︶ ︵お︶瓜生等勝﹁歴代宗主による﹃御文章﹄の刊行||開版前及び証如・顕如両宗主による開版・刊行||﹂︵﹃龍谷教 学﹄二十五号、一九九 O 年︶によると、山口県内では個人蔵が 2 点、美祢市︵吉田宰判︶長楽寺蔵、油谷町︵先大 津 宰 判 ︶ 真 光 寺 蔵 と な っ て い る 。 ︵却︶宮崎園遵﹁九州真宗の源流﹂︵宮崎固遵著作集第七巻﹃仏教文化の研究﹂、思文閣出版、一九九 O 年 所 収 、 ﹃ 龍 谷 大 学 論 集 ﹄ 第 三 一 三 八 号 、 一 九 五 O 年 初 出 ︶ ︵却︶﹃真宗重宝来英﹄第二巻︵同朋舎、一九八七年︶の﹁現存光明本尊一覧表﹂には山口県内では、光明本尊は確認 さ れ な い 。 ︵ 但 ︶ ﹃ 真 宗 重 宝 来 英 ﹄ 第 一 巻 ︵ 同 朋 舎 、 一 九 八 八 年 ︶ ︵必︶同朋大学仏教文化研究所所蔵調査カ l ド に よ る 。番号 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 !と服] キt 滑産状化 j採納トがト Q!_l~ {._!.<;; γ-M-m 基ゆ似葉信号点在日芸是認眠+<田正経伝:」喜重採 1時会 I回二 {..! o 制 {..!' l@:: 蜜
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穂君主点 1 恒−_) -"-j3:'-¥tt1"0 表 1 『木仏之留』・『防長風土注進案』対応表 木仏下付年代 所在地 願主 木仏下付場所 宰判・藩 本末関係 注進案 備考 慶長一 0 年五月十七日 周口口口郡大口村 釈浄正 ム 慶長一二年六月二十日 周防国玖珂郡通津村 釈了空 堺善教寺 ム 慶長一一年七月 五日 周防困佐波郡二回尻村 釈宗善 明覚寺 二回尻。
慶長一二年八月 十日 周防国吉敷郡山口庄物小路 釈了,心 正善寺 山口 興正寺・端坊。
慶長一二年十月十九日 長州 i 宰原清水村 釈善西 西光寺 興正寺・端坊 ム 慶長一二年十月十九日 周防国佐波郡得地村 釈了意 善蔵寺 ム 慶長一二年十月二十六日 周防国岩国村 釈了順 常通寺 岩国 よ込 慶長一三年三月二十八日 長州長主主山 釈了賢 明楽寺 上関。
慶長一三年五月二十二日 長州豊良郡小月村 釈宗円 明円寺 長府 or/ 青末 正斗 慶長一三年六月 周防園内鯖郡八坂村口地 釈教善 妙蓮寺 長府 i 己 慶長一三年十二月三十八日 長門国豊浦郡 釈了順 徳応、寺 先大津 仏照寺・永照寺。
※(豊注前進案長久) 寺末 慶長一四年七月二十七日 周防図下津令村 釈教願 妙蓮寺 小郡 堺善教寺・善宗寺。
慶長一四年七月二十七日 長門国安部郡下小川村 釈正誓 正法寺 奥阿武 興正寺・端坊 × 慶長一五年七月二十一日 長州美祢郡於福西村 釈正信 吉田 興正寺・端坊 × 慶長一六年七月二十二日 長門国赤之山 釈行誓 明安寺 当島 興正寺・端坊。
元和四年七月 二日 周防国吉敷郡山口吉敷 釈明尊 円正寺 山口 興正寺・端坊。
冗和九年八月二十七日 長門国豊束郡幡生村 釈教善 光明寺 i 青末 堺善教寺 ム 元和九年八月二十九日 長門国厚狭郡 船木市惣同行 舟木 ど』 7C 和九年九月 十日 長門国美祢郡長谷村 釈誓雲 長ゴロ 端坊 i ご〉 元和九年十一月 廿日 周防国熊毛郡波野村 釈宗順 専福寺 上関 善教寺。
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21 寛永一八年八月 十二日 長門国厚狭郡梶之浦 釈玄知 西福寺 舟木 端坊。
22 寛永一八年八月十二日 長門国厚狭郡山井村 釈正善 光円寺 吉田 端坊。
23 寛永一八年八月十六日 防州玖賀郡山代郷畑村 釈浄念 西教寺 岩国 輿正寺・東坊 ,6 24 寛永一八年八月十六日 長州阿武郡江崎村 釈明順 教専寺 奥阿武 興正寺・端坊。
※ r主進は教案では、 と 寺あ号り。 導寺 25 寛永一八年八月十九日 防州都野郡温見村 釈願了 徳山 善宗寺 ,6 26 寛永一八年八月 十九日 防州吉敷郡山口庄 釈円西 西覚寺 山口 興正寺・端坊。
27 寛永一八年八月十九日 防州吉敷郡山口庄 釈浄円 光照寺 山口 興正寺・端坊 × 28 寛永一八年八月十九日 長州厚東郡吉部村 釈玄商 常光寺 舟木 興正寺・端坊・長久寺。
※(注豊前進案長) 久寺末 29 寛永一八年八月十九日 長州美祢郡真名村 釈念西 法栄寺 美祢 興正寺・端坊・長久寺。
※(注豊前進案長) 久寺末 30 寛永一八年八月二十二日 防州大島郡大畠浦 長泉寺 大島 堺善教寺 × 31 寛永一八年八月二十二日 長州豊西郡下関 釈空昌 極楽守 長府 仏照寺・永照寺 ,6 32 寛永一八年八月二十三日 防州大島郡遠崎浦 釈教寂 妙円寺 大島 善教寺・誓光寺。
33 寛永一八年八月二十三日 防州玖賀郡高森市 釈教西 明専寺 熊毛 堺善教寺。
34 寛永一八年八月二十三日 長州阿武郡下小川村 釈慶念 妙権寺 奥阿武 興正寺・端坊 × 35 寛永一八年八月二十三日 長州大津郡深川庄 釈教順 光浄寺 先大津 興正寺・端坊。
36 寛永一八年八月二十四日 防州都野郡柳沢村 釈教盛 正覚寺 都濃 堺善教寺・善宗寺。
37 寛永一八年八月二十四日 防州都野郡成村 釈善正 西楽寺 徳山 堺善教寺・善宗寺 乙込 38 寛永一八年八月二十五日 長州厚狭郡棚井村 釈勝, L 、 浄念寺 舟木 興光寺 正寺・端坊・専想寺・法。
※( 1 豊主前進法案光) 寺末 39 寛永一八年八月二十五日 長州厚狭郡福田村 釈浄秀 浄慶寺 吉田 興正寺・端坊 × 40 寛永一八年八月ー十五日 長州阿武郡須佐村 釈教順 浄蓮寺 奥阿武 興正寺・端坊。
41 寛永一八年八月二十五日 長州豊田郡有留村 釈善了 専徳寺 長府 興正寺・端坊 ,6 42 寛永一八年八月一十五日 長州豊田郡殿井村 釈了西 西教寺 前大津 興正寺・端坊。
43 寛永一八年八月二十五日 防州都濃郡中須村 釈信了 教念寺 前山代 興竜寺 正寺・東坊・仏護寺・円。
44 寛永一八年八月二十五日 防州美禰郡加万之郷八代村 釈宗玄 明教寺 美祢 興正寺・端坊。
45 寛永一八年八月二十六日 防州吉敷郡恒富村 釈信了 円浄寺 山口 円竜寺 × 46 寛永一八年八月二十六日 防州吉敷郡山口村 釈玄西 立専寺 山口 円竜寺 × 47 寛永一八年八月二十六日 防州吉敷郡 釈慶乗 光円寺 山口 円竜寺。
48 寛永一八年 八月二十六日 防州吉敷郡山口庄 釈了願 万徳寺 山口 興正寺・端坊
。
49 寛永一八年八月二十七日 長州豊西郡黒井郷 釈浄秀 蓮行寺 長府 仏照寺・永照寺・長福寺 正己 50 寛永一八年 八月二十七日 長州豊西郡屋日村 釈教伝 西覚寺 先大津 西円寺。
51 寛永一八年八月二十八日 防州玖珂郡中村 釈念西 妙(明)久寺 熊毛 堺善教寺・受徳寺。
※号注り 進案明 では、 寺あ は久寺と 52 寛永一八年八月二十八日 長州大津郡三隅庄 釈道真 西福寺 前大津 興正寺・端坊。
53 寛永一八年八月二十八日 防州都濃郡 釈願了 堺善教寺・善宗寺 ~ 54 寛永一八年八月二十八日 (防州カ)都野郡須万村 釈了恵 徳正寺 都濃 堺善教寺・善宗寺。
55 寛文二年十一月十七日 周防国佐波郡三田尻町 釈智誓 西 i 去寺 二回尻 堺善教寺・善宗寺・明覚寺。
56 寛文二年十一月二十一日 周防図佐波郡宮市村 釈正円 万行寺 三田尻 直末。
57 寛文一年十一月一十一日 周防国佐波郡田嶋村 釈正善 信行寺 二回尻 光宗寺。
58 寛文二年十一月二十一日 周防図玖珂郡北方村 釈宗善 浄信寺 削山代 堺善教寺・受徳寺 × ※寺号と同時 59 寛文二年十一月二十一日 周防国玖珂郡岩国泊村 釈誓知 善行寺 岩国 堺善教寺・誓光寺 6 ※寺号と同時 60 寛文二年十二月二十四日 長門国阿武郡萩 釈玄智 興正寺・端坊・称讃寺 正 L 61 寛文三年四月十八日 防州吉敷郡小俣村 釈恵順 明善寺 小郡 直末。
※寺号と同時 62 寛文三年六月二十七日 長門国豊田郡八路村 釈仙祐 覚証寺 長府 輿久寺正寺・西・光端寺 坊・専想寺・長 ム ※寺号のみ 63 寛文三年十二月 三日 長門国大津郡深川村 釈宗与 明専寺 前大津 興正寺・端坊。
※寺号と同時 64 寛文三年十二月 三日 長州豊西郡川棚庄 釈玄祖 正琳寺 長府 興光寺正・寺浄・念端寺坊・・安専楽想寺 寺・法 正己 ※寺号左同時 65 寛文四年七月 六日 長州豊田郡阿川村 釈宗樹 善照寺 先大津 仏勝安照寺 寺・永照寺・長福寺・。
※寺号と同時 66 寛文四年八月 J¥ 日 長州大津郡日置村 釈浄林 浄円寺 先大津 輿久寺 正寺・端坊・専想寺・長。
※寺号と同時 ※凡例:0
・…ー『木仏之留 j .『防長風土注進案J
両方に記載があり、且つ本末関係が合致するもの。 ×……『木仏之留 j には記載があるが、『防長風土注進案』では確認ができないもの。 ム……『木仏之留』には記載があるが、下付場所が特定できなかったり、下付場所が『防長風土注進案J
の調査範 囲外であるために確認ができないもの。 軍基 IQ £:!史認餐 ~..q 台時峨峨 ~!):1 諜 I gr I獲旦歪幾重司餐 !1~ 士 >Q 幅削除 Cl 足懇 I m11 表 2 『御影様之留
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・『防長風土注進案』対応表 番号 御影下付年代 所在地 願主 下付御影 御影下付寺院 宰判・藩 本末関係 注進案 備考 01 寛永一一年十月二日 長州豊束郡幡生村 釈了秀 准如 円光寺 長府藩 興正寺・端坊 ム 02 寛永一一年十一月 六日 長州豊西郡川棚庄松屋村 釈教清 蓮如 安楽寺 長府藩 興正寺・端坊 i 斗 03 寛永一一年十一月 六日 長州豊浦郡府中 釈浄周 太子 長府藩 仏照寺・永照寺 ム 04 寛永一一年十一月 五日 防州大島郡八代嶋森村 釈教順 准如 西方寺 大島 善教寺。
05 寛永一三年一月廿一日 長州萩 釈順西 准立日 光明坊 当島 本・照行林寺坊 ・光照寺 × 06 寛永一三年七月廿七日 周防大嶋郡祐嶋 釈教誓 親鷲 正覚寺 大島? 興護正寺寺・正・東明坊坊 ・仏 × 07 寛永一三年七月廿七日 長門国阿武郡萩 釈甫順 蓮如 西正寺 当島 or 浜崎 本・照行林寺坊・光・光照明寺 坊 × 08 寛永一二年八月廿七日 長州厚束郡吉部村 釈玄西 親鴛 常光寺 舟木 興正寺・端坊。
09 寛永一三年七月廿七日 長州厚束郡吉部村 釈玄西 准如 常光寺 舟木 興正寺・端坊。
10 寛永一三年八月三日 周防佐波郡上右田村 釈受慶 親鷺 乗円寺 三田尻 輿護正寺寺・円・東竜坊寺 ・仏。
11 寛永一三年八月三日 周防佐波郡上右田村 釈受慶 准如 乗円寺 三田尻 輿護寺正寺・円・東竜坊寺 ・仏。
12 寛永一二年九月廿一日 長門国美祢郡伊佐別府長谷村 釈誓雲 親鷺 長照寺 吉田 輿正寺・端坊 × 13 寛永一三年九月廿一日 周防玖珂郡向棚井村 釈了春 親鷲 教蓮寺 岩国藩 善教寺・受徳寺 Lo. 14 寛永一四年二月十一日 防州玖珂郡岩国村 釈恵秀 准如 西福寺 岩国務 争 ム 15 寛永一四年二月十一日 周防国玖珂郡高森村 釈教円 親鴛 ※地名大系で 受徳寺 熊毛 善教寺 × は受光寺とあ り。 16 寛永一四年五月廿九日 周防困都濃郡須々関村 釈祐盛 親鷺 普徳、寺 都渡 善教寺・善宗寺。
17 寛永一四年五月廿九日 周防国玖珂郡与田村 釈恵、秀 親驚 安立寺 岩田藩 善教寺・善宗寺 正ご斗 18 寛永一四年五月廿九日 周防園都濃郡遠石 釈宗善 親鷺 徳応寺 徳山藩 善教寺・善宗寺 工 h 19 寛永一三年十二月七日 周防国玖珂郡野口村 釈受教 親驚 大福寺 岩田藩 善教寺 よ斗 20 寛永一四年六月廿一日 周防国玖賀郡岩国給人町 釈理宝 准如 翻能寺 岩国藩 ? i 己 21 寛永一九年二月十五日 長州豊田郡高山村 釈秀円 親鷺 長府藩 勝光寺 ム ※下付寺院は 浄林寺ヵ22 寛永一九年十二月十六日 長州美祢郡厚村 釈[ 親驚 西円寺 吉田 フ
。
※厚村は厚保 村ヵ 23 寛永一九年十一月十六日 長州美祢郡伊佐別府長谷村 釈誓雲 太子・高僧 長照寺 吉田 興正寺・端坊 × 24 寛永一九年十二月十七日 長州阿武郡萩 釈順西 親驚 光明坊 当島 本・照行林寺坊 ・光照寺 × 25 寛永一九年十二月十七日 長州阿武郡萩河嶋 釈祐寂 親驚 明円寺 当島 本・照行林寺坊・光・高照林寺 坊 × ※『寺社由 −明教寺 来 J にあり。 26 寛永一九年十二月十九日 周防国吉敷郡山口中讃井 釈明信 親鷲 円龍寺 山口 予。
27 慶安二年九月汁十日 長州安郡萩 釈祐貞 祐教真影 明円寺 当島 本・照行林寺坊・光・高照林寺 坊 × ※『寺社由 −明教寺 来』にあり。 28 慶安三年四月十八日 周防国吉敷郡小鯖庄内産道村 釈了珍 太子・高僧 立正寺 山口 興護正寺寺・円・束竜坊寺 仏 × 29 慶安三年四月廿六日 長州阿武郡萩 釈版元 順西真影 光明坊 当島 本・照行林寺坊・光・高照林寺 坊 × ※『寺社由 −明教寺 来 J にあり。 30 慶安三年四月廿六日 周防国玖賀郡今津村 釈宗遊 准如 (浄念寺ヵ) 岩国藩 興護正寺 寺・東坊・仏 6 31 慶安四年一月十五日 長門国厚狭郡須恵村 釈行誓 親驚 蓮光寺 舟木 興正寺・端坊。
32 慶安四年四月十四日 周防国吉敷郡小鯖庄内下津令 釈正口 太子・品僧 山口 善教寺・善宗寺 × 33 明暦二年四月八日 周防国熊毛郡田布施村 釈了尊 親驚 真光寺 上関 善教寺・善宗寺。
34 明暦一年四月八日 防州熊毛郡田布施村 釈正賢 太子・高僧 浄専寺 上関 善教寺・善宗寺。
35 明暦二年四月八日 防州熊毛郡田布施村 釈了尊 蓮如 真光寺 上関 善教寺・善宗寺。
36 明暦三年間四月六日 周防国玖珂郡河内村 釈南達 親驚 徳宝寺 岩山代 国藩 or 奥 善教寺・受徳寺 ム 37 明暦二年六月七日 周防国玖珂郡与田村 釈, L 、教 太子・品僧 安立寺 岩国藩 善教寺・善宗寺 ム 38 明暦一年八月十二日 周防園都野郡生野屋村 釈教善 親驚 教相寺 徳山藩 普教寺・善宗寺 ム 39 明暦二年十月九日 周防園都濃郡次之問松尾 釈賢秀 太子・高僧 善徳寺 都濃 善教寺・善宗寺。
40 明暦二年十月十三日 周防国人代嶋安下庄 釈宗口 蓮知 浄光寺 大島 善・昭教顕寺寺・善・浄宗満寺 寺。
41 明暦二年十月廿三日 周防国玖珂郡与田村 釈順知 太子・高僧 正蓮寺 岩国藩 善教寺・善宗寺 正込 42 明暦二年十一月十日 長門国美祢郡真名村 釈関貞 絵伝 法栄寺 美祢 興久正寺 寺・端坊・長。
※豊前長久寺 末(注進案) 導要 IQ 歪縫製鍍 l 」 .;q :!ご ,.zi ,域自国 ~l 五線 I §Ill軍基 IQ-K'. 史認望号 !1.W '!ご ,Qj 味。時 E; lll 態 I g:rgi 43 明暦三年三月七日 長州原東郡吉部村 釈[ 太子・高僧 常光寺 舟木 興久正寺 寺・端坊・長
。
※豊前長久寺 末(注進案) 44 明暦三年二月廿一日 周防園都濃郡生野屋村 釈教善 太子・高僧 教相寺 徳、山藩 善教寺・善宗寺 ム 45 明暦二年三月廿二日 長門国大津郡渋木村 釈道寿 親驚 浄土寺 前大津 興正寺・端坊 × 興想正寺寺・長・端久坊寺 ・専 ※豊前専想 46 明暦三年三月廿六日 長門国美祢郡綾木村 釈了伝 絵伝 明林寺 美祢。
寺・長久寺末 (注進案) 47 万治 年十一月十六日 周防国大嶋安下庄 釈宗心 太子・高僧 浄念寺 大島 善教寺・誓光寺 × 48 万治二年十二月廿日 長門国大津郡日置村 釈了専 太子・高僧 浄専寺 先大津 仏・善照照寺寺 ・永照寺 × 49 万治二年十二月廿一日 防州吉敷郡嘉保庄引野村 釈玄栄 蓮如 明栄寺 小郡 善・明教覚寺寺 ・善宗寺。
50 万治二年十二月廿四日 防州熊毛郡波野村 釈了喜 蓮如 誓立寺 上関 善教寺・善宗寺。
51 万治二年十二月廿二日 防州都野郡成村 釈教知 蓮如 西楽寺 徳山藩 善教寺・善宗寺 i 斗 52 万治元年十一月二日 長門国厚狭郡吉見村 釈正)頓 蓮如 照覚寺 舟木 輿想念正寺 寺寺・法・端光坊寺・・専 浄。
※正覚寺(注 進案) 53 防州玖珂郡口口村 釈一底 七良高如僧 ・太子 大福寺 岩国藩 善教寺・受徳寺 ム 54 長門国厚狭郡梶浦 釈玄知 蓮如 西福寺 吉田 興正正寺寺・教・端覚坊寺 ・覚 × 55 周防国熊毛郡三尾村 釈宗英 親鴛 常妙寺 熊毛 興護正寺寺・円・東竜坊寺 ・仏。
※凡例:0
・…・・『御影様之留J
.『防長風土注進案J
両方に記載があり、且つ本末関係が合致するもの。 ×……『御影様之留』には記載があるが、『防長風土注進案』では確認ができないもの O ム…・・・『御影様之留』には記載があるが、下付場所が特定できなかったり、下付場所が『防長風土注進案 j の調査 範囲外であるために確認ができないもの。表 3 『防長寺社由来
J
法宝物所蔵リスト 番号 在所 宰判 寺院名 開基年代 本末関係糧費量
裏書官接?
裏書暗号
P
真筆 備考 1 周防国熊毛郡伊保庄中村 上関 正覚寺 天文十八年? 堺寺善末 教寺・誓光 御文 証如 六( 2 字点 ) 親蓮驚如 、 2 周防固熊毛郡伊保庄南村 上関 円勝寺 (不明) 堺寺普末 教寺・誓光 六( 3 字点 ) 蓮親実鷺如如 、、 ※縁起なし 3 周防国熊毛郡佐賀村 上関 浄福寺 (不明) 堺寺善末 教寺・善宗 阿来弥( 2 陀点如 ) 蓮実如如 ・ 六字 証主日 ※縁起なし 4 周防国熊毛郡佐賀村 上関 極楽寺 真言宗から改宗 教相寺末 六字 蓮如 5 周防国熊毛郡大野村 上関 浄円寺 (不明) 堺寺善末 教寺・誓光 六字 蓮如 ※縁起なし 6 周防国熊毛郡麻郷村 上関 光泉寺 寛六永年二(再年建、寛) 政 堺寺善末 教寺・善宗 名号 蓮如 慶(寺長号十下五付年 ) 堺寺善末 教寺・善宗 ※開基教西は天 7 周防園都濃郡末武村 都濃 浄蓮寺 六字 蓮如 文二十年 10 月剃 髪。 8 周防園都濃郡久米村 都濃 栄照寺 (不明) 堺寺善末 教寺・善宗 六字 蓮如 ※縁起なし ※慶長年間に芸 州光妙寺を引寺 9 周防国佐波郡三田尻村 三田尻 光妙寺 文(寺明号六下年 付) 直末 /2 名点号) ヵ) 蓮親鷲如 、 にして、寺領拝 領 ※名号は 「寺社由来」に真 筆とあり 10 周防国吉敷郡山口讃井 山口 円竜寺 文(建明立十) 三年 直末 仮( 10 名冊文 ) 如 I 冊、 9 .証 冊如 : 覚 11 周防国吉敷郡大海村 小郡 東泉寺 宝宗る永寺) 二院年を申(真請 言 (不明) −ノ z 、−* 実如 軍基 IQK 幾重聖書寄:」兵士ト (.l 羽峨峨 f;:;1 ぷ型軽 I gr 同軍華 I 江区幾重司餐: 1 』 ヰ合時制同時 Cl 語草壁 l§K ※寺の由緒に関 京郡都信仏光照寺寺末 ・小 証筆判 如・自 直 して、一度焼失 12 周防国吉敷郡嘉川村 小郡 正法寺 (不明) 御文 六字 親驚 しているため、 中興の教善から 書かれている。 文仁間明帰字依)削、慶(蓮;長
E
如 年 ※六字名号に関 周覚寺防末 国佐波郡明 して、開基慶雲 13 周防国吉敷郡井関村 小郡 明栄寺 六字 蓮如 が文明期に蓮如 に申請したも の。 14 長門国厚狭郡宇部村 舟木 教念寺 如文七下年付明に帰十) (山依四号年)、・寛寺(蓮 永号 萩端坊末 御文 実如筆 六( 2字幅) 蓮実如如 、 15 長門国厚狭郡宇部村 舟木 信行寺 年天に帰文(寺年依号)間免、元(証許禄如 ) 九 厚光狭寺郡末 中野村蓮 六字 証如 16 長門固厚狭郡中山村 舟木 浄円寺 元への和寺) 年院間を真(禅宗 宗 厚光狭寺郡末 須恵村蓮 御文 実如筆 来阿弥陀如 蓮如 立明(寺暦)号、年享改保間) 年(建 間 厚村光狭寺法輪郡末須寺・同恵末 郡村同 蓮 ※二代住持の 17 長門困厚狭郡広瀬村 舟木 西覚寺 六字 蓮如 頃、長福寺とい う寺号。 18 長門困厚狭郡吉見村 舟木 正覚寺 寛(寺政号六下年 付) 厚念狭寺郡末 棚井村浄 名号 親驚 厚念狭寺郡末 棚井村浄 ※元和七年に開 19 長門困厚狭郡木田村 舟木 流泉寺 (不明) 六字 蓮如 基宗玄が准如に 帰依。 ※六字名号に関 して、寛保年間 貞(寺享号三下年 付) 正吉敷寺郡末 吉木村円 の由緒書にな 20 長門国厚狭郡捻小野村 舟木 法泉寺 六字 蓮如 く、寛政年間の 由緒にあり。 ※名号は准如 下付 c 21 長門国厚狭郡市之小野村 舟木 光林寺 天(名文号二下十付三) 年 長木村門明図林美祢寺郡末 綾 六字 実如22 長門局厚狭郡須恵村 舟木 蓮光寺 (不明) 萩端坊末 御幅教幅( 1 文)帽切 l1 )鋤主 ;: 文 型 名号 費証給社 加 1 ※閣基蓮光は蓮 如に帰依。 切幅教 ) 23 長門国厚狭郡吉田村 吉田 教覚寺 (不明) 長原村門善国勝豊浦寺郡末 津 六( 2 字幅 ) 蓮実如如 、 ※開基祐賀は蓮 如に帰依 24 長門固美祢郡真名村 美祢 妙福寺 水議聖書正成年「間品年佐(建 必本仏
?
周寺末防園(直山末口) 円竜 和讃 蓮如 六字 実如 25 長門国豊浦郡滝部村 先大津 西楽寺 大号寛永永・木年十仏九間下年(付建(立寺 ) ) 長部見(豊村竜門浦安寺国郡養豊末殿寺浦) 井郡末 村 滝 阿来 弥陀如 伝証(開如 来基 ) 六( 2 字幅 ) 証実如如 、 ※中山弾正浄貞 開基 26 長門国豊浦郡滝部村 先大津 明専寺 大寛木永文仏年九下付年間) ((建寺号立) ・ 見長部(豊村竜門浦安寺国郡豊養末殿浦寺) 井郡末 村 滝 六字 蓮如 ※中山弾正浄貞 開基 ※蓮如名号は大 坂寵城の時に褒 美として下付さ れる。 ※蓮 如真筆掛字 2 幅 安豊寺浦郡末 角島村勝 名( 3 号幅 ) 蓮法親如 然驚、 、 あり。 ※宝 27 長門国豊浦郡阿川村 先大津 善照寺 (不明) 和讃 親鷲 暦の由緒書には 法然名号はな し。 ※安永 の由緒書には親 驚和讃、親驚名 号、蓮如名号は なし。 軍基 IQE !幾重司祭~』ヰ合令制球時 S !括懇 I EII..¥-J軍i1 正歪縫製望書:」兵士時制 K自同 ~lll 轄 I
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28 長門国豊浦郡神田矢玉村 先大津 西慶寺 天立許(寺) 文)、号寛年・永木間二仏(建 年免 寺豊前末 回小倉法輪 和讃 実伝(開如来基 筆) 六( 2 字幅 ) 蓮実如如 、 ※実如名号は開 基伝来。 29 長門国豊浦郡神田村 先大津 光沢寺 大貞木永享仏年二下付年間) ((建寺号立) ・ 長見田(豊村竜門浦法寺国郡豊船末殿寺浦) 井郡末 村神 六字 正(カ伝)(証 如来) ※中山弾正浄貞 開基 30 長門国先大津郡久富村 先大津 光明寺 下明に(七建付応帰年的年依) (寺闘)、寛号永(蓮永正本如 十仏末 仏照寺末 阿来 弥陀如 蓮(裏如 書) 31 長門国先大津郡日置黄波 先大津 海岸寺 真(延言宝宗八か年ら) 改宗 (萩光明坊) 川貫主日 了如 戸 ※開基了祐が仕 えていた領主と 32 長門国豊浦郡地吉村 前大津 光雲寺 万寺治号二下年付) (木仏・ 小美祢野郡西音大嶺寺村末 麦 御文 実主日筆 共に剃髪し草庵 を結ぶ。年代・事 実かどうか不 明。 33 長門国豊浦郡殿敷村 前大津 千秀寺 寛寺文号七下付年) (木仏ー 豊明寺浦郡末 貴飯村光 和讃 実如筆 34 長門国豊浦郡殿居村 前大津 見竜寺 宗元て亀寺) 三院年を取(真り言 立罷謹
阿来 弥陀如 証如 阿来 弥陀如 ※開基は芸州吉 35 長門国阿武郡萩 当島 蓮正寺 (不明) 萩光明坊 証如 六字 蓮如 田郡光明坊に師 事。 ※ JC は端坊末。 36 長門国阿武郡山田村 当島 光山寺 永禄七年(建立) 興正寺末 六字 蓮如 宝永年中から興 正寺末。 照本明林教行坊寺 寺・・光高林照坊寺・ ・ ※開基は芸州高 37 長門国阿武郡萩 当島 明円寺 慶長十年(建立) 御文 実如筆 六字 蓮如 田郡高林坊に師 事 D※往古は天台宗 ※蓮如名号 は大坂縫城の時 に褒美として下 38 長門国阿武郡萩 当島 三千坊 (不明) 輿正寺・端坊末 六字 蓮如 付される。 ※寺号は下付さ れず。 ※寛 延三年時点では 無住。 寛号永下十付八) 年(寺 ※開基は芸州高 39 長門国阿武郡萩 当島 泉福寺 直末 六字 蓮如 田郡高林坊三 男。 実教部如如 ) (、聖 証 ※元は備後山南 40 長門国阿武郡萩 当島 安楽寺 延付 宝七年(寺号 光源寺 和教讃之、文 聖 六字 蓮如 光照寺末。三代 下) 教信から光源寺 末。 永基八正剃年十髪(木三)仏、年寛下永(付開 十 ) 仏末 照寺・永照寺 蓮実如如 、 ※実如名号裏書 41 長門国赤間関 長府領 極楽寺 和讃 証如 六字 には永正十四年 下付とあり。 42 長門国豊西郡川棚村 長府領 光岸寺 天下付文年) 間(本尊 (不明) 阿来 弥陀如 証如 43 長門国豊西郡川棚村 長府領 正音寺 付天下(木付文) 仏年)、・万寺間治号(本下 四尊 年 (不明) 阿来 弥陀如 証如 44 長門岡豊西郡川棚村 長府領 西方寺 付天下(木付文) 仏年)、・万寺間号治(本元下 尊 年 (不明) 阿来 弥陀如 証如 獲|江宝 j 史認餐:」 4 ヰ f ごト (l 占略保 8 !与恕 1§~
援! Qtξ 縫製望号 !1 兵士 >Zl1 味。時 E;;l ぷ型軽 1 同 O 表 4 『防長風土注進案』宰判別真宗寺院分布表