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声のことば、文字のことば : 古事記と万葉集から、古代日本の口頭語を考える

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Academic year: 2021

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Title

声のことば、文字のことば : 古事記と万葉集から、古代日本の

口頭語を考える

Author(s)

奥村, 悦三

Citation

奥村悦三:古代学(奈良女子大学古代学学術研究センター), 第4号,

pp.1-10

Issue Date

2012-03-30

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/3672

Textversion

publisher

Nara Women's University Digital Information Repository

(2)

文字のことば

声のことば、

と 『 万 葉 集 』 か ら 、 古 代 日 本 の 口 頭 語 を 考 え る − ー『古事記』 悦三(奈良女子大学) 一一誰にせよ、長いあいだにわたって、また、多くを書くという行為をなさなかった ならば、即席のそうした言論をいくら躍起になって練習してみても、それを手に入れ ることはできないだろう。 (キケロー) 奥村 ノ マニマカキシル は「其言の随に書録さしめJ.た書だとする彼の主張が、 客観的な推論に基づいた判断と言えるのか、主観的な願 望に過ぎないものではなかったかについて、いま一度、 考えてみなければならないであろう。 例えば、次の箇所について、そこから「言にいふJま まのことばをよみとるのは、簡単なことではないように (現行の注釈書では、それぞれに、お 思われるのである おむね、下段に示すような訓が付されている) (3。) 囚其所レ生子者、刺三挟木俣ー而返。故、名二其子一、云二 木俣神一亦名調−御井神一也。 5 7) そのうめるこは、きのまたにさしはさみてかへりき。 かれ、そのこをなづけてきまたの神といひ、亦の名は (上、 本居宣長が、古代日本の真実の姿を明らかにすべく『古 事記』を読み解こうとしたさい、それが、『日本書紀』な どと異なり、「い〉さかもさかしらを鋪へずて、古より ヒ へ アヒカナヒ 云伝たるま〉に記されたれば、その意も事も言も相称て、 マコト みな上代の実」を示すものだと説き、その理由として、 ノ ノ それが、「帝皇日継と、先代の旧辞とを…彼阿礼に仰せ ノ ヨ ミ ヅ コ ト て、其口に請うかべさせ…、万の事は言にいふばかり フミ リ は、書にはかき取がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊 ク に漢文にしも書ならひなりしかば、古語を違へじとでは、 いよ〉善説がたき故に、まづ人の口にツ議ラ請ならはし ノ マニマカキシル めて後に、其言の随に書録さしめ Jる過程を経て成立し た書であると推定されることを挙げている点については みゐの神といふ。 その推論が基づく (1)、その文体論的評価はさておき、 言語観ー「口に」出される「昔Jこそが、「意」 を知る 図故、因二其麻之三勾遺ー市、名二其地ー謂二美和一也。 (中、 11 2) かれ、そのをのみわのこりしによりて、そこをなづ けてみわといふ。 手立てとなる、真に生きた、研究するに値するものであ るという考え方一ーに関しては、次のような近代言語学の 論説に照らしても、現在もなお、基本的には受け入れら と言うのは、宣長は、『古事記伝』において、「総論J ケ テ ノ ヲ フ で、例巴に即して、「名二其子一、云二木俣神ーとあるた ノ ノ ヲ フ ノ ノ ト ノ ぐひ、古語にか〉ば、其子名云ー木俣神ーとか、其 ヲ ク ノ ノ ト 子名ー木俣神ーとか有べしj と言われるであろう一一(2。) れるものだ、 言語と書とは二つの分明な記号体系である.後者 語 一 言 の唯一の存在理由は,前者を表記することだ. と述べるとともに(4)、訓 学の対象は,書かれた語と話された語との結合であ 上に引いた 2つの箇所に対し、 読本文で、 るとは定義されない;後者のみでその対象をなすの である. 圃ソノウミマセルミコヲバ、キノマタニサシハサミテ カヘリマシキ。カレソノミコノナヲキノマタノカミ 口頭語こそが、真の言語、人が心 このように、 さて、 ソコヲミワト トマヲス。 園カレソノヲノミワノコレルニヨリテ、 イヒケル。 に思うことをそのままに表現することばであるとすれば、 古代日本人の真実の思いを知ることを願っていた宣長に とっては、『古事記』は、ぜひとも、彼らの声のことばを このように、その考えに基づいた訓みを示してもいるの さながらに記したものでなければならなかったことが理 解されよう。ただ、そうであってみれば、逆に、『古事記』

(3)

だけれども、しかし、現に書かれている形が「さらに古 語にかなはず、ぼしかくさまの文といへども、ことさら ソノカミ ク に好みてにはあらざるめれど、当時物書には、なべて 漢文のみになれぬるから、とりはづしては、おのづから ことが必要である。これにはやはり「原古事記」(現 古事記や日本書紀の材料となった旧記群資料群を仮 称する)の表記法をまづ問題としなければならない。 マジ か〉ることも雑れるなるべしJというだけの理由で(5、) もし、このように、『古事記』が、声によってのみ伝承 それに忠実な訓を斥け、「長言の雇正j、そんなふうに訓 されたものではないとすれば、また、もし、それが、そ むのは、あまりに独断に過ぎるように思われるから、で う説く論者が併せて述べているように(8、) ある。 とは、「名∼云… Jなどと書かれているのは、もしかす ると、『古事記』が、まずは、「なれぬる」漢文によって 綴られたために現れ出てきた結果であるのかもしれない、 ということである。 つまり、例囚の地名起源誇なと、に見られる書きょうは、 コト 「言にいふばかり Jが書き取られることで出現した表記 というよりも、漢文(中国語)に頻出する「百姓仰望−黄 帝銃上じ天,乃抱二其弓奥胡様競ー.故後世因名ニ其慮一日二 鼎湖一其弓日−烏競一。」(『史記』巻 28、封調書)と いう文型が引き写されることで出て来た表現であるよう にも思えるのである(6。) 今、古事記の仮名書の例を任意にとり出し、これ を日本書紀と比較すれば、次の知くなる(括弧内は 日本書紀の本文)。 (上巻) 宇土多加礼許巴日岐豆(膿沸轟流)。八俣遠目智 (八岐大蛇)。須々賀々斯(清々之)0 • • • ・・これらの例によって考へると、『古事記』に於 ては、『原古事記』の本文をなるべくやさしくその ょ まま訓めるやうに仮名書にし、日本書紀ではこれを 漢文的にしたものではないかと思はれる。 稗田阿礼の「諦習」とは、耳で聞いたことを記憶し、 このような成書過程を経たものであり、阿礼の前に置か 口に出して語り次世代に継承させていくことであったと れていた「『原古事記』の本文は、むしろこの日本書紀の だけ考えられるべきでないことは、すでに、次のとおり それ(但し日本書紀全巻を指すのではない)に近いもの」 指摘されているところであった_(7。) であったろうと言えるのだとすれば川、「名二其子一、云 …阿礼の「度レ目請レ口」と云ふ才能は、文字通り 「諦」する前に目にみるべき文献があることを意味 する。古事記伝(巻二)に、 「度レ目諦レ口」とは、ーたび見たる善をば、 ヨ ム やがて空にうかべて、よく調請をいふ とあるのは、一部は正しい説であって、語部によっ て語り伝へられた口頭の伝承物を口うつしに暗請し たものではない。 但し文献による「語jの解釈には依然として問題 が残る。…漢字で書かれた旧記を、日本語としてそ のまま通ずるやうに、知何に正しく伝へるかがまづ 問題である。そのために、旧記の「よみ」(訓即ち解 釈)をも含めて暗請へ至るために、「語習」を繰返す 二木俣神_Jというのは、「古語」が初めにあって、それ に対して文字が後から宛てられることで出現した一一結 果的には不適切なものになっているけれども、書記者が、 ヒ へ 宣長の言うように、「古より云伝たるま〉に J訓まれる ことを意図して用いた一一表記だ、とは考えられないであ ろう。 それは、むしろ、阿礼の「講習」の過程で、「日本語と マニマ してそのまま通ずる」ことばを宛てて、「言の随J を明示 する形に書き換えられることもなく、「原古事記jの、漢 文的な表現がさながら残されたものだ、とも考えられょ

そうであるとすれば、関われなければならないであろ うーその表記は、そもそも、原筆記者が、「古よりま

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ぶ た るま>Jを記そうとしたものなのだろうか、また、阿礼

- 2

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の訓みは、まちがいなく、そのままのものだ、ったのだろ うか、さらに、安万日は、ほんとうに、熟慮のうえで、 誰もがそのとおりに訓めると考えて原表記を採ったのだ ろうか、と。 2. とは言え、『古事記』は、『日本書紀』などとは対極的 マニマカキシル な性質のものであって、まちがいなく、「言の随に書録」 そうとしている書であると言う人は、なお、多いに違い ない。 なぜなら、たしかに、「名∼云…」などという表記は、 声のことばで言われるままに書く人ならばするはずのな い、よほど「とりはづし」た書きざまだと言わざるをえ ないものかもしれないが、しかし(あるいは、むしろ、 マジ だからこそ)、それは、所詮、ただたまたま「雑」った ノ だけのものであって、『古事記』が、おおむね、「其言の マニマカキシル 随に書録jすことを書記の原則としており、しかも、声 のことばをできる限り忠実に記録するために工夫を凝ら したものであることは揺るがないと考えられるかもしれ ないから、である。 例えば、その表記の特質について次のように説く論も 見られるのである一一(10。) から始まり「後遷ー科長大陵一也」に終る、上巻・中 巻・下巻の本文である。 …古事記の本文は、訪日点資料ないし古辞書に見ら れるような漢字の訓を、任意に利用して当時の日本 語を当該漢字で表わしたというような恋意的なもの ではない。古事記では、丁度音仮名の用法に統ーが 見られるように、表意の漢字の用法にも、一定漢字 に一定の訓を対応させる原則に基づく、用字法の統 一性が見られる。それは、正格の漢文を訓読して理 解する場とは異なり、一定漢字を一定訓に対応させ、 この関係を利用して、日本語文を漢字で表現すると いう場における工夫の所産である。この一定訓を担 った漢字のそれぞれの訓一ーそのような漢字を「訓漢 字」と呼ぶーーを復元する作業は、訓点資料や古辞書 の訓を恋意的に流用するだけでは出来上らない。 このように、『古事記』に関しては、訓字についても、か なとまったく同様に、書かれているとおりに訓まれるべ きだと言えるのだとすれば、「名∼云…」を「∼をなづけ て…といふ」と訓んでよいし、それは一一と言うよりも、む しろ、それこそが一一阿礼の声のことばでもあった、と考え られるであろう。 ただ、もちろん、それに対しては、宣長の説に従おうと 一体、漢文と呼ばれる文章は、日本語に依って読 する立場からの反論はありえよう。そういうことを表現し 解したり日本語文として表現したりするという表現 ようとするときに、万葉集では (11) 目的から見ると、二種類に分けられる。一つは、主 に中国大陸で作成されたり、又はこれに準じて日本 で作成されたりした文章を、日本語によって読解す るものであり、その方法は訓読によるのが普通であ る。もう一つは、日本語文を、漢字を連ねて書き表 したものであり、和化漢文ないし記録体などといわ れるのがその主内容である。前者は表現と共に理解 を目的とし、後者は表現に重点がある。両者の聞に は、漢字の用法や、構文の法格などに差異がある。… 古事記の文章も、右の見方からすればすれば、二 つの種類に分けられる。一つは、序文といわれる、 安万自の上表文であり、もう一つは「天地初発之時J … 与 日 之 奈 倍 此 橘 乎 等 伎 自 久 能 可 久 能 木 実 等 名附家良之母 ( 1 8、41 1 1) … 宜 し な へ こ の 橘 を 時 じ く の 香 菓 と 名 付 け けらしも このように言われていることを挙げて、「一定漢字を一 定訓に対応させjて得られるそのような訓みは、「言の マニマ 随」の表現になっていない、と反論されるかもしれない のである。それは、「日本語としてそのまま通ずる Jこと ばではなかったろう、とさえ言う人もありえよう。 しかし、「∼をなづけて…といふ」が、万葉集に見られな 3

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-いことに拠って、声のことばでなかったとまで考えるべき ではない、と言われるのでないだろうかーーそのことは、た だ、それが歌のことばではなかったことを意味するだけか もしれないから、である。 いや、さらに言って、むしろ、字−訓を「対応させる原 則Jに従つで訓むことで得られるそのような表現こそが、 散文のなかでは、ふつうに用いられる一一と言うだけでなく、 ち、三

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例が( B)を占める。残る五例のうち、四 例は

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為」という熟字の用法であり、一例だけ、 「兄寄秋山之下氷壮夫、弟智春山之霞壮長」(巻中 6 9 3)の対句用法で例外となる。一方、「名」は三 十七例のうち、五例が「なづケて」と司

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まれて例外 となる。 それでしか表わせない意味を担った、日本語に不可欠な一一 ここで述べられているとおり、名称を示すのに、「名は 言い方であった、と主張されるかもしれない。 …」と言うのと、「名づく」を用いるのとでは、表現とし 『古事記』に現れる「名」について、そこに用いられ て区別があったろうことは認められてよいであろうし、 る文字を、日本語を表現するための訓漢字と位置づけた それらが、おおむね、表記し分けられていたろうことも、 論者は、次のようにも述べている一一 (12。) 認められてよいであろう。 平安時代以前の国語では、( A)元来そういう名が あるものについて、その名称を紹介する場合と、 (B)今、改めて新たな命名をする場合とでは区別 されて表現され、( A)は「名をば…といふj、( B) は「名づけて…といふJ と表現し分ける。 (A)金主豆、さぬきのみやつことなむいひける。(竹取 物語) (B)千歌二十巻、名づけて「古今和歌集jといふ。(古 今和歌集序)… 古事記でも、この( A) ( B)二つの用法があり、 共にその例数が多い。 (A)御調之大使、宮

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_金波鎮漢紀誠一、此人深知一 薬方一(巻下16 9) 可レ遣ニ維、名鳴女一(巻上45 7) なづケて いふ ト (B)故、号−其地一謂ー楯津一(巻中1 3) なづケて いふ ト 故、号二其伊耶那美神命ー謂ニ黄泉津大神一。亦云 官 。 く ト 以二其追斯伎斯−而守二道敷大神一。(巻上14 7-149) (A)は既にそういう名のあるものの名称を云い表 す用法であり、(B)はいずれも新たな命名をする用 法である。古事記では、(A)には「名」を用いて「名 は…トいふjと訓み、(B)には「号jを用いて「な づケて…トいふ」「…トなづく Jと訓んで、漢字を使 い分け、訓み分けているのである。「号」三五例のう だが、そうではあっても、「名ー其子一、云二木俣神−」と 記されていることについて、それは、命名の場合である ゆえに、「名云−金波鎮漢紀武一」と異なる表現と解され るべきだと言うのは正当だとしても、その表記が、原則 に照らして著しく「例外となる」ものだと言うだけでは 一一そう考えれば、それが「とりはづし」た書きざまであ ることも説明できる、と言われるかもしれないが一一それ に対して与えられる訓みが妥当なものであると結論する ことはできないであろう。 なぜなら、命名する場合の表現として、それを、「その こをなづけてきまたの神といひ」と訓んでよいのか、「カ レソノミコノナヲキノマタノカミトマヲス」とすべきな のかはいまだ不明だから、である。前者の訓は「古語に かなは」ないものではないと考えてよいのかを見るため に、宣長の「仮字文かくこと始まりて後の、物語文など には、かへりてかくの如き調つきなる文はなきをもてし るべし J との助言に従って (13)、平安時代の、それも散 文を探ると(14、) さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人 とを四家と名づけて、皆門分かちたまへりけり。そ の武智麿をば南家と名づけ、二郎房前をば北家と名 づけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家と名づけ、 その弟の麿をば京家と名づけたまひて、これを、藤 氏の四家とは名づけられたるなりけり。 4

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-(『大鏡』、人) そこに見出される用例は、常に「…トなづく」の表現で あって、「なづケて…トいふ」という形は絶えてないよう に思える、ということがあるのである。 と言えば、もちろん、そんなことが言えるはずがない と批判されるに違いない。「なづケて…トいふ」などにつ いて説く前掲の引用論文においても、『古今和歌集』の序 文にその例は示されていたのだし、同じような例は(15、) …すがた秋の月のほがらかに、ことば春の花のに ほひあるをば、千うたこも〉ち十あまり八つを撰び てはたまきとせり。名づけて後拾遺和歌抄といふ。 (『後拾遺和歌抄』序) …過ぎにける方も年久しく、今行く先もはるかに と立まらむため、この集を名づけて千載和歌集とい ふ。 (『千載和歌集』序) …すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古 今和歌集といふ。 (『新古今和歌集』仮名序) このように、他にも一一八代集のいくつかの序文に一一見 出されるのである。 してみれば、「なづケて…トいふJが、ふつうに使われ た表現であること、また、『古事記』が、字−訓の対応原 則に従って表記しており、だから、その原則に拠って訓 漢字を訓んでいくべきものであること、また、それによ って妥当な訓みに達せられることは疑いない、と断ずる 人は少なくないであろう。 3. しかし、「なづけて…といふj表現が、平安時代のかな 作品にも時に見出され、また、それを作る語はすべてあ りふれたものでありはするけれども、そのような形で用 いられるものを、日本語としてふつうのことばだ、ったと 解そうとすることに対しては、なお、疑義がありえよう。 とは、第1には、その表現が、かな文学中で、ふつう でないものとして現われているように思われるというこ とがあるから、である。 例えば、命名することを言うのに、繰り返して「…と 名づく」と表現している例を示した『大鏡』においても、 …ってにうけたまはれば、「法華経一部を説きた てまつらんとてこそ、まづ余教をば説きたまひけれ。 それを名づけて五時教とは言ふ」にこそはあなれ。 (『大鏡』、天) このように、その表現を用いる箇所が見出されるのだけ れども、それは、考えつつ思いを述べていることばでな くて、例えば(16、) …故文云。十方仏土中唯有二一乗法一。無レ二無 レ三沼正直捨二方便一。但説二無上道一。苛旦為二菩薩一。 不レ為ニ小乗一。世間相常住。聖時人未レ得二法華妙旨一。 但見三部内有二三車窮子化城等警一。乃謂レ不レ及ニ余 経一。蓋不レ知下重挙二前四時権一独顕中大車上。但付二 家業−唯至二宝所一。故致ニ誹誘之名手一也。約レ時則日輪 当レ午。害警無二側影ー。露五約レ味則従二熟蘇−出ニ醍醐−。 此従二摩詞般若−出二法華一。員票…問将二五味一対二五時 教一。其意知何。答有レ二。ー者但取二相生次第一。… 二者取ー其濃淡一。… (『天台四教儀』) このような論を踏まえた(あるいは、そういったものに 類似の「文J を直訳した)表現であるように思われるの である。つまり、それは、仏典の訓読から生じたことば だとも解されよう、と言うのである。 さらには、命名することを言うのにその表現を用いる 勅撰集についても、それを見直せば明らかなように、用 例はいずれも序文に見出されるのであって、『古事記』と 同じく、漢文の文体の1つである「表J に通じる箇所に 現れるものだ、と言えるように思えるのである。そして、 それらの勅撰集で、真名序が付されているものについて、 仮名序の引用部分に対応する箇所を検すれば、 …勅為一二十巻一。名目ー古今和歌集一。 5

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-(『古今和歌集』真名序) …裁成而得二二千首一、類衆而為ニ二十巻ー名目二 新古今和歌集ー失。 (『新古今和歌集』真名序) まさにそのような表現を生じさせる書き方が見出されも するのである。 また、その表現が本来の日本語と解しがたく思われる 第2の理由として、その語が用いられる際の文型に関わ る異常さが指摘されるであろう。 とは、「なづく」のような、「∼を…と(に)ーする」 という文型で使われる動詞について、そのような意味を 表すのに、「ーする J に当たる文字 V1と、「いう」と訓 まれる文字 Vzなどとを併用し、「 Vl∼V2…Jの形式を 用いる場合が、古くは、たしかに見られるのであるが、 それは、漢字を専用する(漢文のような)文献に限られ ているように思える、ということである。 それに対して、ふつうの日本語では、そのような、英 文法の用語を借用すれば不完全他動詞とでも呼ぶべきも のは、「なづくjに限らず、すべての語について、常に、 「∼を…と(に)Jに続けて「ーするJ意味の動詞Vlを 1つだけ用いるのが、『万葉集』から見ると、絶対の原則 であった(そして、現代語でも、それはまったく同様で ある)ように思える、ということがあるのである。例を見 てみよう一一(17。) … 御 食 向 木 庖 之 宮 乎 常 宮 跡 定 賜 … (2、19 6) … 御 食 向 か ふ 城 上 の 宮 を 常 宮 と 定 め た ま ひ て … … 浪 音 乃 茂 浜 辺 乎 敷 妙 乃 枕 が 為 而 荒 床 自 伏 君 之 家 知 者 往 而 毛 将 レ 告 … (2、22 0) … 波 の 音 の 繁 き 浜 辺 を し き た へ の 枕 に な し て 荒床に こ ろ 臥 す 君 が 家 知 ら ば 行 き て も 告 げ む・.. 宣 奈 倍 吾 背 乃 君 之 負 来 信 之 此 勢 能 山 乎 妹 者 不レ喚 (3、 2 8 6) 宜 し な へ 我 が 背 の 君 が 負 ひ 来 に し この背の山 を 妹 と は 呼 ば じ …阿乎夜疑遠 加豆良保志都〉 阿素回比久良佐奈 (5、82 5) … 青 柳 を 鰻 に し つ つ 遊 び 暮 さ な 人 皆 者 芽 子 乎 秋 云 縦 吾 等 者 乎 花 之 末 平 秋 跡 者将レ言 ( 1 0、21 1 0) 人 皆 は 萩 を 秋 と 言 ふ よ し 我 は 尾 花 が 末 を 秋 とは言はむ このような例を参照すれば、「名ー其子一云二木俣神_J という表記は、「不完全他動調」の1つである「なづく」 と訓むべき字が用いられていることを考えると、「上代 マコト の実Jのことばで訓もうとするのなら、当時「言にいふJ ことが絶えてなかったはずの「そのこをなづけてきまたの 神といひjという訓を採るべきものではなくて、「ソノミ コノナヲキノマタノカミトマヲス」と訓まなければなら ないものだ、と言われるであろう。 しかし、そう言えば、『古事記』において、その表記を そのように訓むというのは、ありえないこと、あっては ならないことだ、と批判されるであろう。なぜなら、『古 事記』に対してそういう訓み方を採るべきだというのは、 それが、次のような、宣長が『日本書紀』に即して述べ たのと同様の書き方で綴られたものと解するのと同じこ とだ、と考えられょうから、であるー (18。) …凡て言語は、其世々のふり〉有て、人のしわざ心 ばへと諸官へる物なるに、書紀の人の言語は、五代 シ ワ ザ のありさま、人の事態心ばへに、かなはざることの スギ 多かるは、漢文のかざりの過たる故なり、... ヨ ム

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書紀を訓読こといとかたし、いかにといふに、ま ノ カラフ.ミ づ、上件に論へる如く、漢籍のふりをならひて、話 マ かざりの文多ければなり、…全く古言古意のま〉に訓 カカハ むとならば、さらに文に拘らず、字にすがらず、たゾ ヒ 其所のすべての意をよく思て、古事記万葉の語の サ マ 格をよく考へて訓べし、然せむには、十字二十字な ステ ム どをも、みながら捨て読まじき処々なども

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ぺきな り、 - 6

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もし、『日本書紀』について言われる、このような、「字 にすがらず」訓むべき箇所が含まれるという特徴を、『古 事記』も、少なくともその一部に、もっているのだとす れば、それは、『日本書紀』と(少なくとも、部分的には) 同種の文章なのだ、と考えなければならないであろう。 とは、つまり、それは、その本文も、「日本語文として表 現」した文章というよりも、「日本語に依って読解」され るべきものであった、と言うのである。 だが、そうだとすれば、『古事記』は、その文字を、日 本語の表現を記す訓漢字と考えて奇

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めるものでないのは 当然のこととして、それとは対

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底的な、宣長の立場から も、訓むことができないものだ、と言うべきことになろ ぅ。なぜなら、見てきたように、その本文にも「謡て誘 ノ ヨミ まじき処々も有」のだとすると、阿礼が「其口に請うか べ」たことばがどのようなものであったのかを、その文 字によっては知りがたい、と考えざるをえないように思 えるから、である。 4. しかし、そもそも、阿礼は、「漢字で書かれた旧記」を ばを探ろうとする限りは(そうする以外に、それを探り 当てる方法はないであろうが)、得られる訪

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みは、訓読的 表現を含む一一ただし、後世のものとは方法も結果も相当 に違っていたろうと想像されるーーものにならざるをえ ないように思えるから、である。 そして、じつは、古代にあっても、声のことばが、司

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カラプミ 読によって作り出された−

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漢籍のふりをなら Jった 一一表現を含んでいたろうことは、『続日本紀』の宣命な どを見れば、認めるほかないように思えるのであった(19。) そのことについて、例えば、次に挙げる宣命中の不完全 他動詞の用法に即して検討してみよう一一(20。) …故改慶雲五年而和銅元年為市御世年号止定賜。… (第

4

詔) …カレ、ケイウンノイツトセヲアラタメテ、ワドウノ ハジメノトシトシテ、ミヨノナトサダメタマフ。… ここで「改むJが取っている文型は、中国において、ふ つうに改元を言う場合の(21) 訓むのに、どのようなことばを口にしたのであろうか、 元嘉元年秋八月丁酉,大三赦天下一,改ニ景平二年一 また、そもそも、訓むとは、どのようなことだ、ったと考 篤二元嘉元年一。… (『宋書』巻5、本紀) えるべきであろうかーーその時代の、声のことばがどのよ 可三大三赦天下一,改二景和元年一篤二泰始元年一。賜こ うなものであったのかを考えることを通して、検討して 民爵二級一。… (『宋書』巻8、本紀) みよう。 宣長が『古事記』を称揚したのは、もとより、それが、 このような表現法を引き写したものであって、「古語を ヒ ヘ マコト 彼の目指す、「古より云伝たるま).Jの「上代の実」を 違へjない日本語でなら(22、) 知る手立てになるものだと考えてのことであったわけだ が、そう考えられるためには、そこには、「古言古意の ま).Jが記されていると信じなければならなかったし、 カラブミ 阿礼が口にしたのが、まったく「漢籍のふりをなら」っ た表現を含まない声のことばでなければならなかったの ノ マニマ であり、それゆえに、『古事記』は「其言の随」を記し ていると主張した、と言うことができょう。とは言え、 もちろん、これまでの検討からも、宣長の主張が全面的 に認められるものでないことは、明らかであろう。 なぜなら、書かれたものによって阿礼の諦習したこと かうて野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達 部の平張に物まゐり、御装束ども(を)、直衣、狩の 装ひなどにあらためたまふほどに、六条院より、御 酒、御くだものなど奉らせたまへり。 (『源氏物語』、行幸) このように言われたはずだと考えられよう。 また、立太子などを言う場合の 7

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-…随法然皇后御子他戸親王立為皇太子。… (第50詔) …ノリノマニマニ、オホキサキノミコ、ヲサベノミ コヲタテテ、ヒツギノミコトシタマフ。 このような「立つ」の使い方も、 西周武公之共太子死,有二五庶子ー,母レ適レ立。… 果立一公子径一馬一太子一。 (『史記』巻

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、周本紀) 嘗−是時一,秦嘉己立−景駒−震ー楚王一,軍一彰城東一’ 事記』は、阿礼が口にした(訓読的なものをも含む)日 本語表現を、字ー訓が規則的に対応する司

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漢字を用いて 表記した、だから、その規則を解明し、順守することで 正確に訓める文献である一一ただし、多大の努力を要する がーーと言ってよいことになろう。そのような考え方は、 『古事記』の成立過程と解読方法とについて、まことに 首尾一貫した解釈を与えるものである、とも断ぜられる かもしれない。 だが、そのように説かれて、すべてが解明されたこと になるのかと言えば、それでも、なお疑問が残ると言わ 欲レ距二項梁一。 (『史記』巻

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、項羽本紀) れるであろう。なぜなら、日本語の(直訳的で、本来的 こういった表現例をなぞ、った直訳的表現であって、「言 にいふ」形は(敢えて「立つ J という語を用いるとすれ ば)、 此度の東宮には式部卿の宮をとこそは思し召すべ けれど、一条院の、「はかばかしき御後見なければ、 東宮に当代をたてたてまつるなり」と仰せられしか ば、これも同事なりと思しさだめて、寛仁元年八月 五日こそは、九にて、三宮、東宮にたたせたまひて、 寛仁三年八月二十八日、御年十ーにて、御元服せさ せたまひしか。 (『大鏡』、天) こんなふうになっていたはずだ、と考えられるであろう。 さて、乙のように、声に出して言われた宣命に、訓読 することによって生じた表現が見出されるのであってみ れば、当然、古代日本人も、口頭言語に訓読語を用いる ことがあったと考えられなければならない、と言われる であろう。また、さらに、「名ー其子一、云ー木俣神一」に ついても、字に即して訓むことに何ら問題がないとも言 われるであろう。なぜなら、そのように訓むと、『古事記』 本文に訓読表現が含まれることになりはするが、そうい うものがーーと言うよりも、そういうものこそが一一当代 の(阿礼や、安麻巴を含めた)人々の、声のことばであ ったとも考えられょうから、である。 そして、そのように考えられるのであってみれば、『古 でないものも含んだ)表現が、まずあって、諦習される ままに訓ー字の対応規則に従って訓漢字で(時に、音仮 名で)記されていったのだとすれば、「そのこをなづけてき またの神といひ」と請されたときに、なぜ、「名ー其子一、 云二木俣神ー」と書かれたりしたのかが理解しがたく思わ れるから、である。そのように表現され、表記されたの なら、そこでは「号」が用いられたはずであるのに、な ぜ、「名」が使われて、「『なづケて』と訓まれて例外と なる」ようなことが起きたのかが、説明できないように 思われるのである。 そのように、命名を言う場合に、例外的に「なづケて」 と訓まれる「名」字の現れることが表記の段階で起きる とは思えないのだから、その混用は、表現の過程で生じ た現象であると考えられよう。しかも、それは、例えば 『大鏡』における「∼を…となづく」と「∼をなづけて …といふJ との併用と異なり、意図的に表現し分けたと は思えない、意味のない混用であって、「当存物醤には、 なべて漢文のみになれぬるから、とりはづし」たゆえの 混乱であろう、と考えるしかないであろう。 とは、言い換えれば、あるものに何らかの名を付すこ とを言おうとしたときに、日本語で、しっかりと思いを 取り纏め、日本語らしく「∼を…となづく」と表現し、 それをそのままに(あるいは、ほぼそのままに)記すこ ともあったろうし、そのことだけでも取り敢えずは書き つけようと、表現を整えないままに、それを文字でーーと 言うのは、中国人が使うように、漢字で一一書いたために、 8

(10)

-「名∼云…Jと記すこともあったろうとも考えられよう、 ということである。 その表記の不統一は、言わば、古代日本人の、思いを 表現に作り上げようとした際の困難と錯誤の証しである、 と言ってもよいであろう。それを語りうるようになるた めに、そして、思いを語る声のことばを作り出すために、 どのように古代人が書くという行為に取り組んだかを、 その表記は示しているのであろう、と言ってもよい。 だから、『古事記』はどのように書かれているのか、あ るいは、そこからどのようなことばが訓みとれるのかと いう問いは、古代日本で、声のことばであれ、文字のこ とばであれ、述べられるべきことが、どのようにして十 全な表現にまで組み立てられたのかという問題と切り離 しては、おそらく答えられないであろう。 それゆえに、繰り返し問われなければならないであろ う一一『古事記』は、どのようなことばで語っているので あろうか、と。 注 (1)引用は、本居宣長『古事記伝』、本居宣長全集第 9 巻、昭和43年、筑摩書房刊、 6頁、および、 31 頁、による。 (2)引用は、ソシュール(小林英夫訳)『一般言語学講 義』改版第1刷、 19 7 2年、岩波書店刊、 40頁、 による。 (3) 『古事記』の引用は、本文および訓、ともに、すべ て、西宮一民『古事記新訂版』、平成2年、おうふ う刊、による。 (4)本居宣長、前掲書、 19頁、による。 (5)本居宣長、同書、 19頁、による。 (6) f史記』の引用は、すべて、評点本二十四史『史記』、 1 9 5 9年、中華書局刊、による。 (7) 小 島 憲 之 『 上 代 日 本 文 学 と 中 国 文 学 』 上 巻 、 昭 和 3 7年、塙書房刊、 16 9∼1 7 0頁、による。 (8)引用は、いずれも、小島、同書、 17 0∼1 7 1頁、 による。 (9)引用は、小島、同書、 17 1頁、による。 (10)引用は、小林芳規「古事記訓読についてJ、青木和 夫他『古事記』、日本思想大系、 19 8 2年、岩波書 店刊、所収、 65 0∼ 6 5 2頁、による。 (11)『万葉集』の引用は、すべて、小島憲之他『万葉集』 ①∼④、新編日本文学全集、平成6∼8年、小学館 刊、による。 (12)引用は、小林芳規「古事記音訓表(下)」、『文学』 47巻・ 11号、 19 7 9年、所収、 80∼8 1頁、 による。 なお、以下の引用箇所で述べられている点につい ては、当該論文で注されてもいるように、夙く、中 田祝夫「日本霊異記訓読小考j、『大坪併治教授退官 記念国語史論集』、昭和51年、表現社刊、所収、に おいて、ほぼ同様の見解が示されている。 (13)引用は、宣長、前掲書、 19頁、による。 (14)『大鏡』の引用は、すべて、橘健二他『大鏡』、新編 日本古典文学全集、 19 9 6年、小学館刊、による。 ただし、句読法については、改めたところがある。 (15)八代集の引用は、すべて、小島憲之他『古今和歌集』、 1 9 8 9年、久保田淳他『後拾遺和歌集』、 19 9 4 年、片野達郎他『千載和歌集』、 19 9 3年、田中裕 他『新古今和歌集』、 19 9 2年、新日本古典文学大 系、岩波書店刊、による。 (16)引用は、『大正新惰大蔵経』第 4 6巻、昭和 2年、 大正一切経刊行会刊、による。 (17)以下に論じる点については、拙稿「文を綴る、文 を作るJ、『叙説』 29号、平成13年、奈良女子大 学国語国文学会刊、所収、において触れたことがあ る。 (18)引用は、本居宣長、前掲書、 11∼1 4頁、による。 (19)以下に論じようとする点については、拙稿「宣命 体 孜J、『叙説』 37号、平成 22年、奈良女子大学 国語国文学会刊、所収、において触れている。 (20)『続日本紀』宣命の引用はJすべて、北川和秀『続 日本紀宣命 校本・総索引』、昭和57年、吉川弘文 館刊、による。ただし、訓については、私意により、 適宜句読点を付す。 9

(11)

-(21)引用は、評点本二十四史『宋書』、 19 5 9年、中華 書局刊、による。 (22)引用は、阿部秋生他『源氏物語』③、新編日本古典 文学全集、 19 9 6年、小学館刊、による。 付記 本稿は、平成23年8月21日に、奈良女子大学古代 学学術研究センター若手研究者支援フログラムの一環と して、奈良県立万葉文化館において開催された公開講 演・シンポジウム「古事記と万葉集」で、筆者が行なっ た講演を文章化したものである。 そこで、乾善彦教授(関西大学)・内田賢徳教授(京都 大学大学院)・榎本福寿教授(仏教大学)のお

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方が、そ れぞれの専攻分野の、最先端の研究動向についてご講演 くださったのに対し、筆者は、一般公開されているゆえ にテーマに惹かれて集まってくださった専門外の方々に、 それらの高度な議論を理解していただく手助けになるよ うに、基礎的な問題について概説的に話しただけなので あるが、それでも、古代日本語を考えるに役立つ点もあ るかもしれないと思い、このような形で公表することと した。 なお、冒頭の引用は、キケロー(大西英文訳)『弁論家 について』キケロー選集

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、1999年、岩波書店刊、によ る。 n u

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