論 説
スポーツと共生─野球をケースとして
池 井
優
*Baseball and Kyosei
Masaru IKEI*Abstract
I will examine the question of the relationship between sports and shared community living through the analytical lens of baseball. It will set forth five prerequisites for baseball. Baseball’s diffusion and widespread acceptance and use that theoretical framework to elucidate the significance of the franchise system in Major League Baseball, Japan’s colonial rule in Taiwan, Manchuria, Korea, and Japan’s high school amateur baseball and professional baseball. Additional, the paper will highlight the Olympic Games, World Baseball Classic (WBC) and Hand Hit-ball as case studies of Japan’s symbiotic relations with the world.
Key Words:Baseball, National High School Baseball Tournament, Olympics, World
Baseball Classic (WBC), Hand Hit-ball
キーワード:野球、全国高校野球選手権大会、オリンピック、WBC、三角ベース 1 .はじめに スポーツが果たす役割は大きい。体位の向上にはじまり、スポーツマンシップの習得、 練 習を重ねて技量を向上させ、記録に挑戦し成果を出す、試合に勝つ喜び、負けた悔しさ から 得るもの、国民体育大会、甲子園の高校野球に見られるように地域代表として出場す る選手 やチームに対する地元の期待、世界選手権大会、オリンピックなどメダル獲得を期 待され、 自国の栄光を背負っての選手の活躍、スポーツイベントを通じての国際親善への 寄与などさ まざまな面がある。 本稿は、スポーツと共生について、野球をケースにとり、野球が普及、発展する条件を 提 示し、地域、世界との共生について具体例をあげながら考察する。 2015 年 2 月 16 日受付、2015 年 3 月 4 日受理 * 慶應義塾大学名誉教授 E-mail:[email protected]
2 .野球の普及、発展の条件 野球というスポーツが普及し、発展する条件は 5 つある。 第 1 は、気候、風土がベースボールに適していることである。現在では経済的に恵まれ た国、地方では屋内練習場、ドーム球場で季節に関係なく野球がやれるが、かっては冬の 間や、寒冷地で野球をやることは不可能であった。また公式試合をおこなうには整備され たグラウンドをもつ球場も必要だ。「屋内で大リーグの試合が楽しめる」この夢を実現し た のは 1965 年テキサス州ヒューストンにオープンしたアストロドームであった。世界 7 不 思議に加え「世界 8 番目の不思議」とさえいわれたドーム球場であったが問題が生じた。 芝を植え、それを育てるため天井をガラス張りとし、日光を通すようにしたのだが、昼間 の 試合フライが上がるとガラスに反射する日光によってボールを見失うことになったのだ。 光 を遮る塗料をガラスに塗ると芝が育たない。天然芝をはがし、人口芝に変えた。天然芝 ほど 手入れが必要でなく、人工芝の球場は自動車ショウ、コンサートなど多目的にも使用 できる とあって、ドーム以外の屋外球場も人工芝に代えるところが出てきた。だが、選手 からは不 評だった。コンクリートの上に人工芝を張ったようなグラウンドは固く足腰への 負担が大き く、また屋外球場の真夏のゲームは太陽の反射熱でグラウンドの気温は 40 度以 上にもなり、 健康維持とプレーに支障がでたのである。天然芝に戻したり、開閉式ドーム にして天気や温 度によって屋根を開け、日光や風を通し天然芝が育つ環境を整えていかざ るを得なかった。 このように設備の整備が野球の普及、発展に大きくかかわることになる。 大リーグでカナダ のトロントにブルージェイズ、日本プロ野球で北海道の札幌に日本ハム と北の寒冷地にプロ 野球チームがフランチャイズを置けるようになったのもドーム球場の 建設と使用が可能だっ たからである。 第 2 は、ある程度の経済的な余裕が必要である。野球特に硬式野球をやるには、ボール、 バット、グラブ、ミット、マスクにプロテクターなどの用具に加え、ユニフォームも揃え た い。サッカーがボールひとつあればプレーが可能なのに対し、野球は用具を含め金銭的 負担 が掛る。野球用具も年毎に進化していった。グラブも投手用、内野手用、外野手用な どポジ ション別に形やスタイルが変わり、スパイクシューズも軽くなり、プロテクターも 改良が加 えられ、ユニフォームやアンダーシャツの素材も夏用、春秋用と多種がメーカー によって試 作され、選手に提供されるようになった。打席に立つにはヘルメットの着用も 義務となった。 画期的だったのは、金属バットの登場であった。野球のバットといえば木 と限られていたが、 木材の不足、耐久性、経済性から金属バットが考えられ、練習のみな らず甲子園の高校野球 など実戦でも使用されるようになったのだ。強いチームを作るには 打撃練習用のピッチング マシーンの導入も必要だ。グラウンドの整備の費用もかさむ。こ のように野球は経済的にか なりの負担を覚悟して成り立つスポーツである。 第 3 に、野球はルールが複雑で、公認野球規則は「もっともよくできた法律書だ」とい われるほどである。したがってその複雑なルールに則ってゲームをおこなうには選手を教
え育てる指導者が必要である。まずキャッチボールからはじまり、投手ならボールの握り、 コントロールの付け方、直球、変化球の投げ方、牽制、守備ならゴロ、フライの捕り方、 守 備位置の取り方、送球、打者ならトスバッティング、フリーバッティング、選球、変化 球の 打ち方、バント、ランナーを進めるプレースヒッティング、作戦面なら先発メンバー の選び 方、選手の交代、盗塁、ヒットエンドラン、犠牲バント、スクイズバントなど教え る指導者 の存在が欠かせない。ボランティアでやっている街のおじさんの少年野球からリ トルリーグ、 高校、大学、社会人、プロにいたるまでチームを強化し、地区大会やリーグ 戦で勝ち、全国 大会に出場するには優れたコーチ、監督の存在が欠かせない。甲子園に出 場する高校野球の 名門チーム、プロ野球の常勝軍団には名監督と呼ばれるひとびとが何人 もいた。名監督とい われるひとびとは、野球に精通し、選手の信頼を得て、いかに高校野 球ならトーナメント戦 で 1 戦 1 戦勝ちを収めるか、大学ならリーグ戦で勝ち点を積み重ね 優勝に導くか、プロな ら長期ペナントレースを戦い抜いてリーグ優勝、そして日本シリー ズに勝利して日本一にな るかの手腕が問われる。 第 4 に欠かせないのが統率する組織の存在である。例えば、日本の高校野球は日本高校 野球連盟(高野連)の下に東京都、北海道、各県に支部があり予選から組み合わせ、試合 日 程、球場や審判の手配まで面倒をみる。大学野球では全日本大学野球連盟のもと北海道 に北 海道学生、札幌学生、東北に北東北大学、仙台六大学、南東北大学、関東甲信越に千 葉県大 学、関甲新大学、東京新大学、東京六大学、東都大学、首都大学、神奈川大学の 7 連盟、北 陸・東海に愛知大学、東海地区大学、北陸大学、関西に関西六大学、関西学生、 阪神大学、 近畿学生、京滋大学の 5 連盟、中国・四国に広島六大学、中国地区大学、四国 地区大学、 九州・沖縄に九州六大学、福岡六大学、九州地区大学と全国で合計 26 の大学野 球連盟が存在 し、リーグ戦や地区大会、さらに全国大会の開催をまかなう。ヨーロッパで 野球が普及しな い原因の一つは、ベースボールを支えるきちんとした組織がないことであ る。 第 5 は、マディアなどのバックアップである。高校野球がこれほどまでに人気がでて、 国民的行事になった裏には、新聞とテレビの力によるところが大きい。「夏の甲子園」と して 知られる全国高校野球選手権大会は、野球人気に目を付けた朝日新聞社が各地の中学 校の代 表を集めて全国大会を開けば世間の注目を浴び、それを報道する新聞の部数も伸び ると考え、 1915 年全国中等学校優勝野球大会の実現にこぎつけた。朝日に対抗して毎日新 聞は、夏の大 会が終わってから最上級生を除く部員で各地区で戦い、その勝敗、スコアな どを参考に選抜 し、春休みを利用しての「選抜大会」を考えた。1923 年のことであった。 朝日、毎日がアマ チュア野球に力を入れたのに対し、後発の読売新聞はプロ野球に目を付 けた。1934 年当時人 気絶頂のベーブ・ルース招聘を実現し、全米選抜軍と戦う日本代表 チームを母体に日本に プロ野球が誕生したのであった。朝日、毎日、読売の 3 大新聞の主 催、後援に加え、1927 年から始まったラジオの実況中継、1954 年 NHK が始めた甲子園の
高校野球のテレビ中継は、アナウンサーの巧みな情景描写、さらに解説者の登場によって 野 球人気と野球知識の普及に大きな役割を果たした。特に夏の高校野球は「汗と泥と涙の 甲子 園」に象徴されるひたむきにプレーする選手、スタンドで声をからす応援団、テレビ を見な がらチームの勝利を願う出場校の地元のひとびとの表情、「青春の思い出」として 甲子園の土 を泣きながら集めて帰る敗れたチームのナイン……などテレビ放映のコンテン ツに最適の素 材である。プロ野球の世界でも「夏、冷えたビールを飲みながらのテレビの 巨人戦を見る」 のは“もっとも安上がりなサラリーマンの娯楽”であり、ON(王、長嶋) に代表されるスー パースターを生んでいった。熱心なファンはスポーツ新聞で前日の結果 を再確認し、選手、 監督の試合後の談話、ボックススコアに示される数字にさらなる楽し みを見出したのである。 このように 5 つの条件がそろって野球は普及、発展する。 3 .野球と地域の共生 ベースボールは、アメリカで生まれ南北戦争によって北部から南部へと広がっていった。 やがて高度のプレーを入場料をとって見せるプロ野球が誕生した。1876 年に結成された ナショナル・リーグは当初シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、セントルイスなどは東 部 の 8 都市で発足し、これに対抗してアメリカンリーグが 1890 年ボルチモア、デトロイト、 ワシントンなど 7 球団でスタートした。都市をバックとすることで地元の代表として地域 住民との関係を深めていった。1950 年代後半、ニューヨークの人気チーム─ブルックリ ン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸のロサンゼルスとサンフランシス コに移っていった。移動の手段に飛行機が利用できるようになり、大リーグ球団の数も 30 球団にまで増え、そのフランチャイズも西部、南部、さらにカナダにまで拡大したのであ る。各チームはニックネームの前に必ずフランチャイズのある都市名あるいは州名を付け 地域との一体感を図る。また年に 1 回行われるオールスターゲームは、毎年 30 球団の所在 地を順番に回り、開催地となった都市は両リーグのスター選手を迎え、前夜祭を含め大変 な盛り上がりをみせる。 ベースボールはアメリカから中南米へと波及した。いまや中南米のベネズエラ、ドミニ カ、 キューバなどからのプレーヤーなしの大リーグは考えられない。またアメリカから日 本に導 入されたベースボールは「野球」と訳され、柔道、剣道、弓道のように学校教育の 一環とし て学校を中心に普及し、日本は日清戦争の結果獲得した台湾、日露戦争の結果進 出した南満 州、さらに 1910 年に併合した朝鮮半島……と植民地支配の手段のひとつとして 野球を活用し ていった。日本でおこなわれる全国大会に台湾、満州、朝鮮代表を参加させ、 内地との一体 化を計ったのである。2014 年に台湾で製作された映画「KANO」は大ヒッ トとなった。日本 人、台湾人、台湾少数民族の混合チーム嘉義農林が日本人監督による猛 練習の結果、台湾代 表となって昭和 6 年全国中等学校野球優勝大会に出場、甲子園で内地
代表をつぎつぎと破り、決勝まで進出した史実を映画化した作品は、ヒューマンドラマと し て台湾のひとびとに大きな感動を与えた。 日清戦争以後 50 年間統治した日本に代わって台湾を統治することになった国民党政権は、 日本時代の遺産を払しょくするため、野球もその対象とされた。だがリトルリーグ世界選 手 権大会における台湾代表の優勝に熱狂する本省人(台湾で生まれ育ったひとびと)の姿 に国 民党政権は野球を本省人の融和に利用しようと考えた。共産党軍との内戦に敗れ台湾 に移駐 してきた国民党の本省人に対する圧政に対し、1947 年 2 月に発生した反乱「二二八 事件」 とそれに対する国民党政権の過酷な弾圧は、本省人と外省人(国民党とともに台湾 に移って きたひとびととその子孫)との間に軋轢を生んでいた。野球は本省人の心をつか む有力な手 段となったのである。そして 1989 年には職業棒球(プロ野球)が誕生するまで になった。そ うした背景も踏まえて今回の「KANO −1931 海の向こうの甲子園」の製作、 公開へとつな がったのである。 高校野球、特に夏の大会は各地区の予選を勝ち抜いて甲子園への切符を手にするだけに、 地方予選の段階からひとびとの関心を集め、地元チーム、地元代表に応援することで失わ れ つつある“郷土意識”を目覚めさせる面がある。夏の大会は朝日新聞、春の選抜は毎日 新聞 が後援するが、地方大会、地方予選は地方紙、ローカルテレビもおおきな役割を果た す。新 聞は、朝日、毎日、読売、産経、日経の全国紙、北海道全域をカバーする北海道新 聞、東北 地方の河北新報、九州を基盤とする西日本新聞どのブロック紙、さらに高知新聞、 神奈川新 聞、上毛新聞など各県単位の県紙の 3 つに分けられる。高校野球の地方大会、予 選はまさ にブロック紙と県紙の絶好の報道材料である。夏の大会は北海道は北と南、東京 は東と西の 2 つに分けられるが、あとは各県単位で 6 月中旬から 7 月下旬にかけて地方大 会を行い、勝 ち上がったチームが甲子園に出てくる。従って、予選の段階から地方紙は大 きく紙面を割き、 ローカルテレビはかなりの時間を使って監督、コーチ、選手のみならず 選手の家族、卒業生、 クラスメイトから近所のおじさん、おばさんのファンまで取材の対 象としてさまざまはエピ ソードをきめ細かくつたえ、地元意識をかき立てる。 毎日新聞がプロにいかずに企業に就職した大学野球 OB を中心に都市対抗野球を企画し、 オール大阪、横浜金港クラブ、函館オーシャンなどローカル色豊かなチームが全国のみな ら ず、戦前は満州、台湾、朝鮮半島からも代表チームが参加し、応援風景とあいまって人 気を 博した。しかし、基幹産業、時の花形産業が宣伝と社員の結束のため大会を利用する ように なって、都市対抗ならぬ企業対抗へと変質し、世間の関心も薄れていった。 大リーグが地域対抗、都市対抗的要素が強いのに対し、日本のプロ野球は読売新聞がプ ロ 野球に目を付け巨人軍を創設し、それに刺激されて新聞社 2 社がチーム結成に名乗りを 上 げ、阪神に対抗して阪急など鉄道会社が球団を持ったように企業対抗的色彩が濃かった。 戦 後は時の日本経済を反映して映画、新聞、鉄道の“ご三家”がプロ野球の親会社となり、 地 域性への配慮はあまり払われなかった。一例をあげると関西地区に阪神、阪急、近鉄、
南海の電鉄 4 球団が集中し、甲子園の阪神─巨人戦が 5 万の観衆を集めている一方、同じ 日に藤井寺球場の近鉄ー南海戦が 3,000 人の観客で行われるといった状況さえ見られた。 球団が赤字を出しても、親会社が宣伝費で補てんすればよいという考えるパリーグ球団関 係 者も多かった。 しかし、日本のプロ野球も 1980 年代に入って巨人中心主義から脱却、ホークスが福岡、 日 本ハムが札幌、楽天が仙台、ロッテが千葉……と九州、北海道、東北などを代表する存 在と なった。特に 2013 年東北楽天イーグルスがリーグ優勝したのみならず、巨人を破って 日本チ ャンピオンになったことは東日本大震災で打ちひしがれていたひとびとにいかに勇 気を与え たことか。ようやく日本のプロ野球も地域への定着を目指し、地元商店街との提 携、ファン サービスのさまざまなアイディアなど共生への努力がみられるにいたった。 4 .世界との共生 野球は今後世界とどのように共生を図っていけばよいのであろうか。 ベースボールが世界 的地位を得るためには、世界のトップアスリートが集うオリンピッ クで行われなければならない。野球は 1956 年のメルボルン大会で公開競技となり、92 年の バルセロナ大会から北京大会まで正式種目であったが、2012 年のロンドン大会から廃止と なった。野球の最大の問題は試合に伴う時間が読めないことである。テレビ放映がオリン ピックに大きな要素を占める時代となって、サッカー、バスケットボールなどはハーフタ イム、ロスタイム、PK などを含め試合開始と終了の時間が予測でき、テレビの放映時間 に合わせることができる。しかし、野球は攻撃、守備の交代を含め 9 回まで 2 時間半か 3 時間か予測できず、延長戦ともなれば終了時間が読めない。このハンディは大きい。オリ ンピックはさまざまな種目で争われ、各競技の放映時間をどうするかは、スポンサーの獲 得、オリンピックの経済的利益と大きくかかわってくるだけに頭の痛い問題である。この 問題を解決するため、2020 年の東京オリンピックでの野球の正式種目復活に向け、 7 イン ニング制の採用、 9 回で同点の場合 1 死満塁など得点が入りやすい状況をつくるタイブ レークの導入など検討が開始された。またソフトボールとタイアップし、「ダイヤモンド スポーツ」として野球とソフトボールを 1 競技 2 種目として、World Baseball Softball Confederation(WBSC)を創設し、会場の共用などを提案、競技の増加に難色を示す IOC に働きかける方策をとることになった。 第 2 の問題は、野球はアメリカと中南米、日本、韓国、台湾などでは盛んだが、開発途 上国とヨーロッパの先進国で普及していないことである。1990 年代後半から大リーグでは、 日本、韓国、台湾など東アジアや中米カリブ海諸国の選手を中心に国際化が進み、アメリ カ 以外の国籍をもつ選手の活躍が目立つようになり、メキシコや日本で開幕戦を開催する など 新たな動きが生まれた。「大リーガーを中心とする世界のトッププレーヤーによる国 別対抗戦 を開催すれば、ベースボールの人気が上がり、経済的効果も見込める」、こうし
た発想から生まれたのがワールド・ベースボール・クラシック(WBC)であった。従来 の野 球のワールドカップは 100 カ国以上の国と地域が参加する国際野球連盟(IBAF)が 統括し ているものだったが、アメリカ大リーグの選手は参加しておらず「世界一」を決め る意味合 いは薄かった。アジア諸国が「完全プロ」で挑むようになったオリンピックの野 球競技も、 アメリカはシーズン中であることを理由に大リーガーの派遣を拒否してきた。 サッカーを例 にあげるまでもなく、世界ナンバー 1 を決めるワールドカップはファンに とって魅力ある イベントであり、テレビ放映による多大な利益も期待できる。サッカーに 比べ、競技人口の 少ない野球を多くに国に拡大するためにも大きな力になる。新版ワール ドカップともいえる WBC の立案に携わったのは大リーグ機構(MLB)であった。2003 年 頃から WBC 構想は世 間に漏れ始めたが、アメリカの球団関係者や大リーグの選手たちの 反応は「アイディアはす ばらしいが、現実的には実現可能か」と疑問視する向きも多かっ た。MLB と大リーグ選手 会(MLBPA)が WBC 開催賛成に転じたのは、明らかにビジネ スとして多大の利益をもたらすと考えたからであった。 当初日本は大リーグ側の一方的な開催 通知やアメリカ中心の利益配分に反発し、参加を 保留したが、大リーグ側は日本の不参加により WBC が不成功に終わった場合経済的補償 を要求すると通告、また国際的孤立を招くであろうと警告した。最終的には、日本プロ野 球選手会の古田敦也会長が参加の決断をおこない参加が決定した。 2006 年 3 月、大リーグ機構が選抜した 16 カ国・地域が参加する第 1 回大会が開催された。 第 1 回大会では、参加 16 カ国・地域を 4 カ国・地域の 4 グループに分け、第 1 ラウンドで は各グループが総当たりリーグ戦をおこなった。A 組─日本、中国、韓国、チャイニーズ タイペイ(台湾)、B 組─カナダ、メキシコ、南アフリカ、アメリカ、C 組─キューバ、 オランダ、パナマ、プエルトリコ、D 組─オーストラリア、ドミニカ、イタリア、ベネズ エラの上位 2 チームが第 2 ラウンドに進出した。第 2 ラウンドでは、A 組と B 組、C 組と D 組のそれぞれ上位 2 カ国が同じ組となり、日本、韓国、アメリカ、メキシコの 1 組は韓 国が 3 勝、日本、アメリカ、メキシコが 1 勝 2 敗で並び、大会規定による失点率で日本が 準決勝に進出した。ドミニカ、キューバ、ベネズエラ、プエルトリコの中南米強豪が集合 した 2 組は「死のグループ」となったがキューバ、ドミニカが勝ち残り、準決勝では日本 が韓国を、キューバがドミニカを下して、決勝は日本対キューバとなった。日本は接戦の 末、10− 6 でキューバを下し、世界一と初代王者の栄冠に輝いたのであった。 日本では、代表チームが優勝したこともあって、決勝戦のテレビ視聴率が全国平均 40% を越えるなど関心は高まったが、さまざまな問題を残した。 第 1 は、著名な大リーガーが参加しなかったことである。バリー・ボンズ、ランディ・ ジョンソン、CC・サバシア(アメリカ)、ホルへ・ポサダ(プエルトリコ)、ペドロ・マ ル ティネス、マニー・ラミレス、ブラディミール・ゲレーロ(ドミニカ)、メルビン・モー ラ (ベネズエラ)、王建民(チャイニーズタイペイ)、松井秀喜、井口資仁(日本)など本
人の意思より、怪我をされては困る、コンディションを崩されては大変だとの球団と代理 人 の意向が働いたと推測された。 第 2 は、開催の時期であった。3 月 3 日の第 1 ラウンドに始まり、18 日の決勝戦までシー ズン開幕前のスプリングキャンプの大事な時期に、チームを離れ、第 2 ラウンド、準決勝、 決勝と場所を移動しながらの対戦は、選手にとってコンディションの維持に気を配る必要 が あり、また“国を代表する重圧”に耐える必要もでてくる。 第 3 は、アメリカ主導への疑問であった。収益が出た場合、各組織の内訳は、大リーグ 機構(MLB)17.5%、大リーグ選手会 17.5%、日本野球機構(NPB) 7 %、韓国野球連盟 と国際野球連盟が 5 %、その他が 1 %とされ、あまりにもアメリカとその他の差が大きい。 強豪キューバとプエルトリコを C 組、ドミニカ、べネズエラを D 組に振り分け、B 組のア メリカとは準決勝でしか当らないよう組み合わせをアメリカが決めるなどその独善的態度 が 問題とされた。皮肉にもアメリカはメキシコに第 2 ラウンドで敗退し、準決勝進出はな ら なかったのだが……。 第 4 は、各国代表といいながら、どの国に所属するかオリンピック憲章のように明確に 決められず、出場資格は次のどれかに該当すればよいとされ、国別、地域別対抗の意味が 薄 れたことであった。①当該国の国籍を持っている、②当該国の永住資格を持っている、 ③当該国で出生している、④親のどちらかが当該国の国籍をもっている、⑤親のどちらか が 当該国で出生している。したがって、複数国で代表資格を持つ選手がでたり、イタリア やイ スラエルのように容易に市民権を与える国の代表はイタリア系アメリカ人、ユダヤ系 アメリ カ人がそれぞれイタリア、イスラエルの選手として出場し、その結果日本、韓国は 別として 対抗戦の意識が希薄になった。準決勝、決勝の進出できなかったことと相まって、 WBC に 対するアメリカ人の関心はほとんどなく、アメリカでのテレビ中継は ESPN 一局 に限られ たことにも示されていた。 その後、WBC は 2009 年に第 2 回、2013 年に第 3 回が開催され、第 1 回、第 2 回の参加 国・地域数は 16 であったが、第 3 回は 28 に増えた。しかし開催時期、シーズンへの影響な ど克服すべき課題は多い。 このように、オリンピックといい、WBC といい野球が世界と共生するには問題も多い。 では、野球をサッカーのように世界に普及、発展させる方策はあるのであろうか。 アフリカの地で蒔かれた一つの小さな試みが芽を出そうとしている。慶應野球部 OB の 一人が「国際的な仕事がしたい」と一端就職した企業を 5 年でやめ国際協力事業団(JICA、 現独立行政法人国際協力機構)に転職した。JICA は、日本政府が開発途上国への援助を おこなうに当り、その実施機関として事業の運営や管理を行う外務省管轄の法人である。 JICA の職員は約 1,600 人、その内約 300 人が主に開発途上国に勤務している。この青年は ガーナ事務所所員としてアフリカに駐在することになった。ガーナは西アフリカの共和国、 イギリスの植民地から 1957 年に独立し、サッカーは盛んだが野球には縁がない貧しい国で
ある。ガーナの首都アクラに到着後、キューバの職業訓練学校留学中に野球を覚えた、外 交官の子弟で父が駐在した海外でアメリカ人に教えられた……といったガーナ人チームと 自称アクラ全日本軍の試合が行われた。これが縁となってこの青年はガーナ・ナショナル チームのコーチを依頼されることになった。やがてこの日本人監督に率いられたガーナ チームはシドニーオリンピックのアフリカ予選に出場した。大会終了後アフリカ野球連盟 会長から「アフリカ野球友の会」を作って、帰国後もアフリカ野球をサポートして欲しい と依頼された。特定非営利活動法人アフリカ野球友の会(アフ友)を設立し、日本で中古 の野球用具を集める運動をおこなっていったが思ったように集まらない。そこでひとつの アイディアが浮かんだ。 「そうだ、自分がこどもの頃にやった三角ベースは道具がいらなかった。 1 塁と 2 塁だ けで、人数も 9 人揃わなくても集まったメンバーだけでやれる。柔らかいボールを使って 手で打てばバットもグラブも必要ない。アフリカで野球を広めるには三角ベースが向いて い るのではないか」、野球の底辺を広げる「三角ベース」は英語名を HAND HITBALL と し、 ウガンダ、ガーナ、ザンビア、南アフリカの各地で HAND HITBALL のプロジェク トが 実施されていった。「三角ベース= HAND HITBALL」は日本に逆輸入された。日本 では公 園や学校の校庭では野球禁止である。危険だ、ボールが当ってガラスが割れるなど が禁止の 理由だ。柔らかいボールを手で打つなら危険でもない、こどものみならず、女性、 大人、年 輩者も参加でき家族の連帯にも役立つ、そうした利点を説得材料として関係者が 働きかけた 結果、千葉県習志野市が「低予算で済む、絆という大義名分もある」と町おこ しに活用する ことになった。2005 年 5 月のことであった。こうして習志野市の「三角ベー ス復活プロジ ェクト」は「アフ友」の活動と結びつき、国際三角ベースボール協会へと発 展した。英語名 を INTERNATIONAL HAND HITBALL ASSOCIATION(IHA)とし次
の 4 つのコンセプトの実現を目指している。 ① こどもたちを公園に戻そう ② 世代を越えた交流をしよう ③ 野球の底辺を拡大しよう ④ 国際交流をしよう 野球の原点に戻っての「三角ベース」、まさに環境、地域、世界と の共生の試みが展開 されようとしている。 文献 アメリカ大リーグ発展と都市の関係については、宇佐美陽(2011)「大リーグと都市の物 語」 (平凡社新書) 日本の植民地と野球については、川西玲子(2014)「戦前外地の高校野球ー台湾・朝鮮・ 満州 に花開いた球児たちの夢」(彩流社)、特に台湾と嘉義農林野球部の活躍について
は、 謝仕淵(2012)「 日治時期台湾棒球口述談 」( 国立台湾歴史博物館 )、 池井優 (2015)「李登輝夫妻も涙した映画『KANO』」(『WILL』125 号) 日本プロ野球と親会 社、フランチャイズについては、池井優(2002)「プロ野球経営母体 の研究〜親会社という日本的構図の転機を迎えて」(『ベースボーロジー』 3 号) 都 市対抗野球については、鈴木俊彦(2002)「日本産業の盛衰と社会人野球─都市対抗野 球に見る興亡史」(『ベースボーロジー』 3 号) WBC の起源、発展、問題点に関しては、池井優(2007)「特別リポート─ワールド・ベー スボール・クラシック」(『ブリタニカ国際年鑑 2007』、古内義明(2009)「メジャー リーグの WBC 世界戦略:6000 億円ビジネスのからくり」(PHP 新書) アフリカと野球、「三角ベース」に関しては、友成晋也(2003)「アフリカと白球」(文芸 社)、池井優(2010)「三角ベースの復権」(『ベースボーロジー』11 号) イスラエル、ジンバブエなど野球不毛の地にあった低報酬で「肥大化した夢」を追う野球 選手については、石原豊一(2013)「ベースボール移民─メジャーリーグから“野球 不毛の地”まで」(河出書房)