花岳寺は,昔,華蔵寺を含む広大な境内を有していました。修理が
行き届かず,荒れ果ててしまった花岳寺を修復したのが,東条城主吉
良持広でした。なお,現在の本堂は,吉良上野介義央の姉の尽力によ
り,1684年に修築されたものです。
勉強をしてきた感想
花岳寺に勉強に行ったとき,和尚さんから吉良家と徳川家が親戚だと教えていただき
ました。そのことを知って,わたしはびっくりしました。あと,吉良義央からの寄付で
「三十六歌仙絵巻」や「古今和歌集帖」などがあることも分かりました。
吉良家のお墓
和尚さんに詳しく聞きました!
⇒17代目の吉良義央と18代目の義周だけお墓が小さい!? 元禄事件で,吉良家はお家断絶になってしまい,吉良家がお金を出せなくな ってしまいました。お墓が無いのはかわいそうだと,吉良の人たちの寄付金で たてたので,他のお墓に比べて小さいそうです。華蔵寺は,江戸時代につくられました。
枯山水庭園
枯山水庭園は,石などで自然を表現した
庭園です。
とても自然を感じられるお庭でした。
他にも… 吉良さんが寄付した経蔵,梵鐘,鐘 楼と文化財に指定されている木像が あります。清水 一学
一学は,吉良町宮迫の農家の家に生まれました。一学は,小さい
頃から武術を好んで吉良家の岡山陣屋に通って,学問と剣道を学ん
でいたといわれています。
そして,赤穂浪士の討入りの際は,義央を守ろうとしましたが,
討死をしてしまいました。そのとき一学は,25歳でした。
清水一学の子孫は今,名前を変えて「児玉」としています。その
児玉家には,一学の遺品と伝えられている刀と槍が保存されている
そうです。
『吉良の人物史より』
円融寺には,吉良義央の家来である清水一学のお墓があります。
吉良さんは,とても親切で優しい人だなと思います。吉良の人たちが, 大水でお米がとれなくて困っていたのを,吉良さんが黄金堤をつくり農民 たちを助けました。 また,妻の富子さんの長年の眼病供養のために富好新田を拓きました。 そして,真正寺伝には,富子の好みということで富好新田と名付けられた と書いてあります。また,農民のためにつくったともいわれているので, 家族思いで農民思いの人だなと思います。 「忠臣蔵」では浅野長矩さんにうそを教えたり,意地悪をしたりしてい たといわれています。でも,本当に意地悪な人だったら,農民や家族のた めに黄金堤や新田をつくらないと思います。 だから,吉良さんは優しくて,家族や農民に対する思いがとても強い人 だと思います。 『吉良の歴史』 85 吉良義央木像
黄金堤のつくり 北東~南西 長さ180m,高さ4m,厚さ 寄名山と背撫山のすそを利用して堤防をつくりました を引いて水量を調節しました。さらに,寺島用水 活用しました。 吉良町に伝わる話には色々なものがあります 説 わらべうた』には,黄金堤を一夜でつくったという の形のものを一夜にしてつくることは不可能だというのですが 思う吉良の人たちの思いから,このような話が 黄金堤がつくられたわけ 『吉良の伝説 わらべうた』より 毎年,入梅の時期になると西尾の川がはんらんして の大水が,吉良の方へ流れ込み,農民たちの大切 ました。吉良義央は,農民たちが困る様子を見 に頼み,黄金堤がつくられることになりました 黄金堤には,吉良義央をはじめ,様々な人の ことができます。 さ3.5m をつくりました。また,須美川から用水路 寺島用水や雑田川を整備し,悪水路として なものがあります。わたしたちが勉強した『吉良の伝 でつくったという言い伝えがあります。現在 だというのですが,吉良さんを大切に が語りつがれてきたのだと思います。 がはんらんして,大水になっていました。そ 大切なお米はめちゃくちゃになってい 見て,彼らを助けるために西尾の殿様 がつくられることになりました。 の願いが込められて作られたと考える
◎高家 高家とは,家柄のよい家のことです。家康は,江戸幕府を開くと間もな く,名家の中から人を選んで高家という制度をつくりました。その後,幕 府の政治が固まり始め,朝廷への儀式や交渉,大名・旗本の城内における 礼節・儀式が重んじられるようになりました。 吉良家は,高家の中でも筆頭の大役を務めました。高家の数は,だんだ ん増加して,幕末には20家以上に及びました。高家は,その仕事の関係 から身分・地位は非常に高く格付けされていました。 『吉良の歴史』参照 ◎吉良家の身分や地位 吉良義央は,従四位上少将で大々名や老中と同じくらいを受けていまし た。大名は,一万石以上持っているので,吉良家よりは経済的には数段上 でした。しかし,身分や位は吉良家の方が上でした。 『吉良の歴史』参照 ◎高家の主な仕事 ①勅使(ちょくし)・院使(いんし)のおもてなし ②大名たちへ儀式などの作法の指導 ③将軍の代参や朝廷への代理のあいさつ ④朝鮮通信使・琉球使節のおもてなし 『吉良の歴史』参照
◎元禄事件とは,赤穂藩の浪士たちが主君浅野長矩 ◎松の廊下事件~元禄事件 吉良義央は,以前から浅野内匠守(たくみのかみ 浅野内匠守が我慢できなくなり【色々な説があります の中で刀を抜くことは,禁止されていました。 訪れる日でした。幕府にとって,とても大切な その日の内に切腹するよう命じました。一方, され,おとがめなしとされました。武士の世の 申し立てたが認められず,赤穂藩は取りつぶしとなってしまった 赤穂藩の浪士は,江戸にある吉良邸に討ち入りました ◎元禄事件の結末 赤穂浪士たちは,吉良邸の隅から隅まで探し ◎義周・吉良家のその後 義周も奮戦し,重傷を負ってしまいました。 高島藩諏訪安芸守にお預けとなり,3年間の幽閉生活 吉良家に仕え,討ち入り当夜に亡くなった者 小林平八郎央道 ・ 清水 一学 ・ 左右田 須藤与市右衛門定利 ・ 小堀 源次郎 主君浅野長矩の仇討をするために,吉良邸に討ち入った事件。 たくみのかみ)に意地悪をしていたとされています。それに対し, があります】,江戸城内で刀を抜いてしまいました。江戸城 。しかも,その日は,朝廷の人(天皇の使い)が江戸城を な日を血で汚されたと将軍綱吉は腹を立て,浅野内匠守に ,吉良義は,襲われながらも刀を抜かなかったことを評価 の中は,昔から「喧嘩両成敗」であると,赤穂藩は異議を りつぶしとなってしまった。不公平な裁きに対し,不満をもった りました。 し,吉良義央を見つけ,その首を取りました。 。しかし,家長の命を守れなかったことを責められ,信州 幽閉生活の後亡くなり,高家吉良家は断絶します。 者 左右田 源八郎 ・ 斎藤清左衛門 ・ 新貝 弥七郎 ・ 笠原長右衛門 他 , 江戸城 を に 評価 を をもった 信州
陣屋とは,一般には役所と呼ばれていて,吉良 した。 甘縄藩(後の大多喜藩)は,小牧村に陣屋を設 藩2万2000石のおよそ半分は三河にあり,小牧陣屋 旗本吉良家は岡山村に陣屋を設け,岡山・横須賀 また,乙川姫山にも陣屋を設け,乙川や富好新田 たといわれています。