文革期における派閥構造と成因
資源動員論のアプローチから
楊 麗君
Ⅰ 課題と先行研究
プロレタリア文化大革命(以下、文革と略記する)研究の分野において、派閥構造とその 成因はきわめて重要な研究課題であり、これまで多くの研究者によって論じられてきた。 紅衛兵組織に関する代表的な研究については、李鴻永(Lee, 1978)とローセン(Rosen, 1982) が挙げられる。また、労働者造反組織に関する代表的な研究については、ウォルダー (Walder, 1986)と王紹光(Wang, 1995)が挙げられる。これらの先行研究では、大衆組織内部 における保守派と造反派の対立構造の形成が文革以前に社会的に構造化されていた出身階 級や「パトロンクライアント」関係に起因すると指摘されている。出身階級と派閥化と の間に何らかの関連性が存在することは明らかである。しかし、出身階級などの構造的条 件、あるいは複数の構造的条件が折り重なることによって生み出される不平不満が、派閥 化の直接的な原因であるとは必ずしもいえない。派閥化の過程を資源動員論の視点から考 えると、民衆の中の土着組織や既存集団のネットワークなどを利用した動員メカニズムが 説得力をもつ。 ウォルダーは、文革開始前後の北京大学における工作隊と紅衛兵運動との関係に関する 事例研究を行い、紅衛兵組織の派閥分化と対立が、文革開始後に上部から政治介入される 過程において、紅衛兵が自らの立場を正当化し、かつ自己防衛に迫られた結果によって引 き起こされたと解釈している(Walder, 2002: 437–471)。ウォルダーの研究は、派閥結成を政 治過程の中で把握している点においては、従来の研究と大きく異なっている。ただし、派 閥を単一の集合行為者として扱い、メンバーの派閥に対する連帯感と集団忠誠度などの質 的相違を見落としているという点においては、従来の研究と同様である。派閥は参加動機 や連帯感が異なる人々によって重層的に構成されており、これらのメンバーの派閥への加 入離脱の時期や、派閥内部における役割は明らかに異なっている。したがって、派閥行 為を論じる際には、その重層化された内部構造を分析し、派閥が人々の相互行為を通して 構成されていく細部過程の解明が不可欠となる。 近年、日本の文革研究分野において新たな研究が登場しはじめた。国分良成研究グルー プは様々な事例研究を通して、文革の本質を国家と社会の側との相関分析の中から解き明 かしている(国分、2003)。しかしながら、派閥構成要因に関する分析においては上に指摘したような従来の研究枠組みを超えていない。筆者は、かつて制度論のアプローチを用い て派閥行為を理論的に分析し、派閥行為を特定の政治制度下における参加者間の公民権獲 得競争と位置づけた(楊、2003)。しかし、公民権の獲得競争を行う際の派閥内部の動員手 段や競争戦略など、ミクロレベルでの分析については、今後の課題とした。派閥行為を構 造的に解明するためにはミクロレベルでの分析がきわめて重要である。 上述した先行研究の問題点をもたらした要因の 1 つは一次資料の不足である。筆者は 2001 年 3 月に山西省楡次市東方紅紡績工場(文革期の使用名)の「档案室」に入る機会を得 て、工場の文革関連資料を入手した。これらの資料を用いて、本稿では山西省楡次市東方 紅紡績工場を事例とした実証分析を行う。 さらに、楡次市東方紅紡績工場の文革関連資料の分析は、地方における文革の展開を探 る上においても興味深い。楡次市は当時軽工業を主とした都市人口約 50 万人の一般的な 小規模地方都市であったにもかかわらず、文革期には大都市と同じような凄まじい派閥対 立が生じた。この点から考えると、東方紅紡績工場の派閥闘争を分析することは地方にお ける文革の展開を理解する一助になるものと思われる。また、政治的特徴からみれば、楡 次市は晋中地区党政機構の所在地であり、山西省党政機構所在地の太原に隣接しており、 農業モデルとされた大寨にも地理的にきわめて近い。また、楡次市には当時大型国営企業 が 3 社存在しており、東方紅紡績工場はその中の 1 社であった。中共中央、山西省、晋中 地区、楡次市の 4 つのレベルで展開された党政幹部間の権力闘争、党政幹部と軍幹部の間、 軍内幹部間の権力闘争、さらに当時毛沢東に高く評価された大寨の陳永貴(全国労働模範) と党政軍幹部の間の対立、という複雑な政治混乱の中で東方紅紡績工場の派閥闘争がいか に展開されたのかという問題はミクロレベルから文革を理解するための絶好の素材であ る。ただし、これらの点は本論の分析対象の核心的部分でないため、別稿で論じたい。 筆者は、上に述べた従来の文革研究と異なり、文革期における派閥を「政治構造」 (po-litical construct)と捉える。筆者の研究課題は、東方紅紡績工場における派閥闘争について、 重層的な権力闘争を分析しながら、派閥化の「政治構造」を解明することである。本稿で はこの研究課題の第一項として、本研究課題の分析方法を検討した上で、派閥リーダーの 形成と派閥リーダーが派閥結成に果した役割について分析する。
Ⅱ 研究方法
1.Ʒᮾ᳣ᅀᗕǽΡΈ͛ǠǷոኝ╋᠊ 文革期における派閥は既存組織ではなく、「政治構造」である。派閥を「政治構造」と みなす発想は、欧米における社会運動研究の影響を受けたものである。そこで、ここでは 本稿の研究方法を説明する準備作業として、「政治構造」に関連する理論を整理する。 社会運動に関する研究は、主に政治的機会構造(political opportunities)、動員メカニズム(mobilizing structures)、構造過程(framing processes)の 3 つの側面から行われている(McAdam, McCarthy, and Zald, 1996)。政治的機会構造の議論においては、集合行為の発生、発展、衰退 などの過程や形態がいかに国家の政治構造や権力関係などに制約されてきたのか、という
側面に焦点が当てられている(Tarrow, 1989)。動員メカニズムの議論においては、行為者が
使用する共通資源ないし手段(collective vehicles)および資源を調達するメカニズムを重要
視する(McCarthy and Zald, 1973)。資源動員論(RMT: resource mobilization theory)と政治過程論
(political process model)は代表的な動員メカニズムの議論である。構造過程論は社会運動の
中で共有された価値規範意義(shared meanings)に重点をおいている。このアプローチ
では、社会心理的要素を強調する一方で(Snow and Benford, 1988: 197–217)、文化的要素およ
び認知フレームワークやアイデンティティなどを強調する議論もみられる(Melucci, 1988: 329–348)。また、社会運動自身が共有された価値規範意義を構築する過程であると主 張する研究もみられる(Tilly, 1978)。 上述した社会運動における 3 つのレベルの研究は、社会運動の異なる側面に分析の重点 をおいているが、本稿では、動員メカニズムの側面に焦点を当て、社会運動の組織者(本 稿では派閥リーダーを指す)を主要な分析対象としてとりあげる。その理由としては以下の 3 点があげられる。第 1 に、政治的機会構造にせよ、構造過程にせよ、社会運動組織者が いかに構造を利用するかが鍵となる。第 2 に、社会運動組織者は政治的機会構造と構造過 程を結合させる機能をもつ。そのため、社会運動組織者を分析することにより、上述した 社会運動の 3 つの要素が相互に作用しながら運動を組織する過程を明らかにすることがで きる。第 3 に、社会運動組織者を中心とした分析により文革の地域性を解明することがで きる。地方における文革の展開は、共通点をもつ一方で地域的な特徴も鮮明に現れている。 地域差が生まれた主な原因は、地方における大衆運動の動員メカニズム、とくに運動組織 者の資源調達能力や戦略などに差異が生じたためであると考えられる。 2.Ʒ✇ᛠؔݲǽؔຎոኝᅀᗕ 派閥の「政治構造」における分析方法を構築するに際しては、特定の派閥における「政 治構造」と派閥間の相互作用という 2 つのレベルからアプローチをする必要がある。もち ろん、両レベルにおいても派閥リーダーを分析の中心とする。 社会運動は集団的行為であるが、最初の時点での運動への参加者は往々にして少数であ る。それらの少数者は後に運動のリーダーや積極的な参加者になる可能性が大きい。図に 示すように、派閥 A をみる際に少なくとも派閥リーダー A1、積極的メンバー A2とフリー ライダー A3の三層に分けて考える必要がある。最初の少数者が様々な原因によって組織 化して反逆行動を行う。運動のコストを下げることや運動の影響力を増すためには大勢の 参加者あるいは支持者を動員する必要がある。派閥リーダー A1の動員能力と戦略が有効 になればなるほどメンバー A2と A3が増加する可能性は大きくなり、運動の影響力も増大 していく。一方で、メンバーの増加と運動の影響力の増大は派閥リーダー A1に勇気を与
え、より大規模な反逆行動を組織させる可能性が出てくる。また、反逆行動の成否はメン バーの増減と動員コストに影響を与える。このように、派閥 A の構造と構成は派閥リー ダー A1の動員力と組織力によって絶えず変化している。したがって、派閥 A をみるとき には動態的重層的な分析の視点が必要となる。 文革期において、それぞれの「単位」や都市には名称が異なる大衆組織が多数存在し、 対立する 2 つの派閥間において衝突が繰り返された。図の中で A と B は特定の「単位」内 において対立する 2 つの派閥を意味する。派閥 A と派閥 B はほぼ同時に形成される可能性 があるが、そうではない可能性もある。派閥 B も派閥 A と同様に動態的重層的に捉えなけ ればならない。また、派閥 A と派閥 B の間で行われた競争、およびそれによってもたらさ れた相互作用も、動態的重層的に捉える必要がある。便宜上、派閥 A と派閥 B の外部にお かれた地域を C と規定する。C 地域に属する者は無所属の個人であるか、あるいは派閥 A および派閥 B と比べて戦闘力や規模などが比較的に小さい他の派閥に属している可能性が ある。運動が発生する以前には「単位」のあらゆる成員が C 地域にいるが、運動の直前あ るいは初期に様々な要因によって、対立する派閥 A と派閥 B の中核である A1と B1が出来 上がり、その組織化によって派閥 A と派閥 B が結成される。A1と B1にとって、C 地域は 動員可能な資源、とくに人的資源のプールである。派閥は忠誠的メンバーが必要であると 同時に、効率性を目指すためにはフリーライダーも必要である。なぜなら、それは、宣伝 文書の作成と発送、ビラ貼り、情報収集などにおいて大勢の参加者を必要とするからであ る。すなわち、集合行為にとっては多数のメンバーをもつことが重要であり、派閥間の競 争とは派閥リーダーが資源を確保する競争であるといえる。 派閥対立は基本的に派閥リーダー間の対立である。派閥の周辺へと離れれば離れるほど メンバーの派閥への求心力も逓減し、対立派閥への流動性も増加する。A3と B3は、派閥 A と派閥 B の周辺地域に属すために、派閥への求心力がリーダー(A1と B1)や積極的なメ ンバー(A2と B2)と比べて弱い。これとは逆に A3や B3の対立派閥への流動性は、A1や B1、A2や B2よりも強い。中間地帯 C にいる者の、派閥 A ないし派閥 B の選択、あるいは 派閥周辺にいるメンバー(A3と B3)の対立派閥への移動の決断は、主に以下の 3 つの要素 (出所) 筆者作成。
によって決定される。第 1 に、政策や政治指導者の言動がどちらの派閥に有利であるのか、 といった政治的機会構造という要素である。第 2 に、派閥リーダーの資源動員能力と戦略 の有効性という要素である。第 3 に、「時流に乗る」(bandwagoning)という要素であり、混 迷した政治環境の中で、多数派の選択に従えば安全であるという大衆心理である。 以上の分析手法は組織論の研究の中でよく用いられているが、筆者がこの手法を文革研 究に導入するのには以下の 2 つの理由がある。1 つは、派閥を単一の集合行為者として扱 うという従来の文革研究の問題点を補足するためであり、もう 1 つは、派閥行為の動員お よび戦略手段を有効に理解するためである。
Ⅲ 実証分析
東方紅紡績工場における派閥の対立は、主に「東聯」(「東方紅紡績工場革命組織聯合站」の 略称)と「捍衛兵団」(「捍衛毛沢東思想革命造反兵団」の略称)の 2 つの連合組織の間で展開 された。「東聯」は 1967 年 1 月 5 日に結成された。結成当時のメンバー数は約 500 人であっ たが、1 ヶ月後には急増し、最盛期にはほぼ 4,000 人ものメンバーを有していた。「東聯」 で中心的な役割を果していたのは、後述する「四清」運動中の失脚幹部と迫害を受けた 人々であった。「捍衛兵団」は 1967 年 2 月に結成された。この派閥は結成当時約 1,200 か ら 1,300 人のメンバーを有しており、「四清」幹部、「四清」代表、「四清」運動中に現われ た積極分子を数多く含んでいた。「捍衛兵団」の結成時期は「東聯」より遅かったが、「捍 衛兵団」は 1966 年 9 月に結成された「紅衛兵総部」と 1967 年 1 月 7 日に結成された「捍 衛ステーション」(「捍衛毛沢東思想連絡ステーション」の略称)の再編派閥であり、組織的な 基盤作りは「捍衛兵団」のほうが早かったといえる。 このような派閥構造の形成要因および形成過程を解明するために、本稿では、1965 年 11 月上旬における「四清」運動の展開から 1967 年 3 月末における「捍衛兵団」の一時解 散までの期間を取り上げ、①派閥リーダーの形成、②派閥リーダーによる資源動員、③派 閥競争の 3 つの側面に分けて分析する。 1.Ʒᘐ⬇ɲʀɈʀǽബ༔ 派閥の形成が政治構造過程であると同じく、派閥リーダーの形成もまた政治構造過程で ある。ただし、派閥リーダーの形成は、従来の上から下への政治動員と、文革期の下から 上への政治動員という矛盾する大衆運動スタイルの衝突によって構造化された政治過程で ある。すなわち、派閥リーダーの形成および派閥間の対立には、「四清」運動の展開が深 く関わっている。これは従来の文革研究で等閑視されてきたところであるが、東方紅紡績 工場における派閥闘争を考察する限り、対立する両派閥の中核は「四清」幹部「四清」 代表と「四不清」幹部の対立という政治過程から直接的に生まれたものである。この点について、本稿では、1965 年 11 月の「四清」運動の展開から 1967 年 1 月上旬の大衆造反運 動の興起までの約 1 年間における工場の政治動向について、以下の 4 段階に分けて分析す る。 第 1 段階は、「四清」代表の選出による両陣営の基盤創出の段階である。東方紅紡績工 場における「四清」運動は 1965 年 11 月に展開された。工場には約 100 人の工作団が派遣 され、晋中地区党副書記の卜虹雲が団長となった(東方紅紡績厰档案資料、1967)。工作団の 最初の仕事は、工場の「四清」代表を選出することであった。工作団は档案資料を閲覧し 聞き取り調査を行った結果、約 3 ヶ月後の 1966 年 2 月に党員と積極分子から 345 人の「四 清」代表を選出した(東方紅紡績厰档案資料、1965)。 「四清」代表の文革期の命運は、その選出の瞬間に決まったといっても過言ではない。 すなわち、「四清」代表への着任は、彼らが他の従業員、とくに重要な調査対象である党 政幹部と対立することを意味した。「四清」代表が、数回にわたって行われた「審幹」(党 政幹部に対する政治審査)に協力し、文革期に「黒材料」と呼ばれた档案資料を記録したた めである。工場党委員会の「四清」代表は党書記の宋明遠と政治部副主任の李更羊であっ た。文革期に宋明遠と李更羊は、工作団団長の卜虹雲とともに「党内の資本主義の道を歩 む実権派」として批判された。他の「四清」代表は 1967 年 1 月に権力を奪取した「東聯」 によって「車間」(「車間」とは職場の単位である。例えば工場の組立て班などである)に下放さ れ監視労働を課せられた(東方紅紡績厰聯合指揮部、1967)。また、組織の連帯性からみると、 「四清」代表の大多数は「紅衛兵総部」と「捍衛ステーション」のメンバーであり、その 中核であった。後述するように、「四清」代表への着任は、文革期における彼らの政治的 機会構造に関する選択の可能性と資源動員の戦略的可能性を制限することとなった。「四 清」代表は懸命に保守的といわれた立場から脱却しようとしたにもかかわらず、その努力 が実を結ぶことはなかった。 第 2 段階は、「審幹」が幹部党員グループに亀裂をもたらし、派閥リーダーの資源調 達ネットワークが形成された段階である。都市における「四清」運動の目標は、「政治 思想組織経済における粛清」であった。1966 年 2 月にこの 4 項目の粛清を目標として、 各級党政幹部と党員労働者に対する政治審査が展開された。「審幹」は档案記録の参照、 自白および関係者からの聞き取り調査によって行われた。個々の調査対象にとって自らの 問題点を告白し、他者の問題を密告することが義務付けられていたが、同時に自分自身が 密告される可能性もあった。調査結果に基づいて、党政幹部と党員労働者は、その態度が ①良好なグループ、②比較的良好なグループ、③問題を含むグループ、④重大な問題を含 むグループの 4 つに分類された。①および②グループは「四清」幹部党員であり、③お よび④グループは「四不清」幹部党員であった。とりわけ第 4 グループは闘争対象とさ れた(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966a)。 幹部党員を上述のように分類しようとした方法が集団対立を招いた根本的要因であ る。しかし、それ以上に、被審査者に他者の問題点の密告を要請し、この要請に対して積
極的な者を奨励し、消極的な者を処罰するという一連の行政手段が、幹部党員の間の亀 裂を修復不可能なものにし、集団対立を促進した。文革期に上演された人間闘争ドラマの 種はこの「四清」運動期に撒かれたといえる。期待された通りに情報を提供できない者は、 党の仕事に対して抵抗的な態度を示し党に対する忠誠心が薄らいでいると指摘された。こ のように情報提供の程度によって革命対象グループから粛清対象グループに転落した者も 少なくなかった(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966c)。 整風、審幹、反革命粛清は、延安時代の整風運動から確立された三段階にわたる党の政 治思想運動である。「四清」運動もその例外ではなかった。「審幹」を通じて「二車間」反 革命集団、南食堂汚職窃盗集団などが「四清」運動の主要な成果として上級党組織に報告 された。これらの事件との関連者の数は約 200 人にのぼった。党委員である王兆彬、郭驥、 郭俊山、師尊仁は、政治歴史問題や汚職問題などを追及されたことで「党内の資本主義を 歩む実権派」として闘争対象に認定された(東方紅紡績厰革命組織連絡站、1967b)。秘密結社 やスパイ活動への参加経歴を隠していたとして約 180 人の中層基層幹部が摘発され、そ の中で小組長以上の職務を務めたことがあると判明された約 50 人が闘争対象に認定され た。これらの闘争対象と認定された者の多くは、半年後には工場に対する最初の反逆者に 転じ、一部の者は「東聯」のリーダーになった(東方紅紡績厰捍衛毛沢東思想革命造反兵団第 十分団、1967)。 幹部党員労働者の「四清」と「四不清」への分類、さらに積極分子と闘争対象の選別 は、文革期の派閥結成と対立に大きな影響を与えた。とくに反革命集団などの摘発は、そ もそも連帯意識をもたない人々に対して、連帯意識を抱くきっかけを与えることとなっ た。連帯感の醸成は文革期の派閥リーダーが動員可能かつ重要な資源を得るための背景と なった1)。 第 3 段階は派閥の胚胎が形成された段階である。「紅衛兵総部」と文革準備委員会の結 成および中層幹部指導層の職位調整によって「四清」運動の昇進者と降職者が明確に示さ れ、派閥化が促された。1966 年 8 月中旬から、工場の「四清」運動は「審幹」によって区 切りがつけられ、「敵に対する闘争」という「大四清」時期に入った。「審幹」によって摘 発された「反革命的分子」などに対する闘争会が頻繁に開かれた(呉晋増、1967)。一方、 1966 年 8 月には政治環境の全国的な趨勢として、文革準備委員会が文革指導機構として各 「単位」で樹立され始めていた。工場においても 8 月 14 日には文革準備委員会が工作団に よって樹立された。文革準備委員会は「四清」幹部、「四清」代表、「四清」積極分子から 選出された 214 人によって構成された(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966b)。工場党常務 委員の智風が主任を務め、「四清」代表である李更羊と王福貴が副主任を担当した。3 人と も「審幹」によって第一類型と判定された幹部党員であった。とくに、王福貴は「四清」 代表に選ばれる前には党員労働者であったが、半年後に文革委員会の副主任に任命され、 さらに 10 月に臨時指導班維修科副主任兼党支部書記に任命された。王福貴は 1966 年 12 月 に党委員会の指示を受け、工場に進駐しようとした「串聯」学生に対抗するために「東風
隊」を結成して隊長を務めた(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966b; 中共東方紅紡績厰党委員 会、1966b)。1967 年 1 月に文革委員会が民主選挙によって結成されていないという反逆者 からの糾弾を受けて活動停止となったが、党委員会の指導下で「文革」代表は党総支部 党支部を単位として大衆組織を結成し、「串聯」学生および反逆者との対抗活動を続けた。 1967 年 1 月 6 日にこれらの大衆組織が連合して「捍衛ステーション」を結成した(東方紅 紡績厰革命組織連絡站宣伝部編印、1967)。 1966 年 8 月はちょうど毛沢東が天安門で紅衛兵に接見した時期であった。山西省と北京 の間には政治的「時差」が存在し、なおかつ文革は、当時文化教育分野に限定されていた ため、東方紅紡績工場では依然として工作団が絶対的指導権を握っていた。にもかかわら ず、マスコミに大きく扱われた紅衛兵組織が工場にも成立し始めた。ただし、北京の紅衛 兵組織と比べて工場における紅衛兵組織は自発的に結成されたものではなく、工作団と党 委員会の指導の下で組織されたものであった。紅衛兵になる資格は「紅五類」出身階級者 と限定され、人数は各党支部の総人数の 3% と制限された。これは 13.7% の党員比率より も遥かに低かった。その結果、「四清」幹部党員と積極分子のみが紅衛兵になる権利を 得ていた。1966 年 9 月中旬には約 200 人の紅衛兵組織が結成されるが、学生紅衛兵組織と 区別するために「紅衛兵総部」と名づけられた。この時、第 1 任の総責任者は保衛科副科 長の粟福年であった。メンバーの中で各級党組織の責任者が大きな比率を占めていたた め、「紅衛兵総部」に党の権力構造が自動的に持ち込まれた(東方紅紡績厰革命組織連絡站、 1967a)。そのため、党組織の指導の合法性が維持されている限り、党組織から逸脱した「紅 衛兵総部」の行動は構造的に不可能であった。 一方、劉少奇によって提案された工作組の派遣が毛沢東に非難された結果、工場におけ る「四清」工作団も 1966 年 10 月に撤退の運命を迎えた。工作団は撤退する直前に、各部 門における臨時指導責任者を指定し、中層幹部の交替を大幅に行った。旧来の中層幹部層 の半分以上が免職降職された一方、一部の中層幹部が昇進し、党員労働者と党政機関幹 事(各部門の秘書)の合計 28 人が中層幹部層に昇進した。後に「紅衛兵総部」の第 2 任総 責任者を務める劉桂山も新任中層幹部の 1 人であった。99 人の臨時指導者の中で、74 人 が後に「捍衛兵団」に参加し、25 人が「東聯」に参加した(中共東方紅紡績厰党委員会、 1966a)。档案記録によると、「東聯」に参加した 25 人の中で、24 人が非「紅五類」出身階 級者かあるいは政治歴史問題と経済問題が原因で降職や昇進の停止を余儀なくされている ものであった(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966d)。一方、党員労働者と党政機関幹事か ら一気に中層幹部層に昇進した 28 人の中で、25 人が「捍衛兵団」に参加した。とくに、 王富貴、李健、王友山が派閥のリーダーを終始務めており、派閥の維持存続に重要な役 割を果した(東方紅紡績厰档案資料、1965–1967)。工場における昇進者グループと降職者グ ループという差別化は、当時全国に展開された保守派と造反派の争い、すなわち派閥対立 にほぼそのまま移行していった。 第 4 段階は派閥が形成された段階である。「四清」運動と文革という矛盾した政治スタ
イルの衝突が工場における幹部間の利害の衝突として表面化したことが、派閥形成の要因 となった。1966 年末における劉少奇鄧小平における「資産階級の反動路線」摘発の明確 化、工作組から弾圧を受けた者に対する名誉回復に関する中央文件の通達、上海「安亭事 件」の正当化、「串聯」紅衛兵による革命スタイルの輸入などの一連の政治環境の変化は、 「四清」期の政治不運者にチャンスを与えた。12 月には、一部の「四不清」幹部党員が「四 清」運動期に受けた不正な扱いを訴え、名誉回復と職位回復を要求する大字報を貼り出し た。大字報の多くは実名を隠すために某戦闘隊と署名され、「四清」運動期に不正な扱い を受けた複数の人によって書かれていた。12 月 25 日に劉鄧批判が公然化され、26 日の 『人民日報』に労働者の組織化を提唱する社説が掲載されると、工場における反逆行動が 公然と行われるようになり、類似する組織も急速に増えた(東方紅紡績厰革命組織連絡站宣 伝部、1966–1968)。 1967 年 1 月 5 日に 20 近くの戦闘隊によって連合組織の「東聯」が結成され、「四清」運 動期の失脚幹部である李金龍と彭躍䔽が司令と副司令に着任した。また、「四清」運動期 に「反党的分子」と判定された周漢卿と「四不清」幹部の常連通などが常務委員に選出さ れた。工場党委員であった失脚幹部の郭偹、郭俊山、師尊仁、王兆彬は名義上では「東聯」 のメンバーではなかったが、事実上指導的な役割を果していた(東方紅紡績厰捍衛毛沢東思 想革命造反兵団第十分団、1967)。「東聯」を結成した当初、リーダーとメンバーの大多数は 「四清」運動期に政治歴史問題と経済問題があると判定された者であった。例えば、リー ダー組織である「多壮志戦闘隊」と「長纓戦闘隊」は合計 11 人で構成されていたが、そ の中の 8 人が政治歴史問題をもつと判定された者であった(東方紅紡績厰捍衛毛沢東思想革命 造反兵団第十分団、1967)。「捍衛兵団」の調査結果によると、「東聯」のメンバーは 1967 年 2 月にはすでに 4,000 人以上に膨れ上がっていたが、その小隊長以上のリーダー約 300 人の うち、100 人以上が出身階級問題、政治歴史問題、経済問題などをもっていた(東方紅紡績 厰革命組織連絡站、1967c: 11)。 一方、「東聯」に対抗するために、党委員会から支持を受け、「四清」幹部と積極分子を 中心とした連合組織「捍衛ステーション」が 1967 年 1 月 6 月に結成された。その下部組織 は、前述した「文革」代表から組織化された 14 の大衆組織によって構成された。前述し た「東風隊」はそのリーダー組織であった(東方紅紡績厰革命組織連絡站宣伝部編印、1967: 12– 13)。また、1 月 7 日には「紅衛兵総部」において派閥を存続させるためにリーダーの人事 異動が行われた。その背景には、総責任者である保衛科副科長の粟福年らが「四清」運動 期の大衆弾圧に直接に関わっており、反逆者から激しく糾弾されたという経緯があった。 「紅衛兵総部」がイデオロギー上の正統性を保つためには、粟福年らを辞任させざるを得 なかったのである。臨時責任部の新任総隊長は保全科党員労働者積極分子の張治祥で あったが、実際に総責任者として活躍したのは新任中層幹部であり復員軍人の劉桂山で あった。18 人によって構成された臨時責任部は、そのほとんどが「文革」代表、「四清」 代表と新任中層幹部によって占められていた(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1967, 1966b; 中
共東方紅紡績厰党委員会、1966b)。また、1967 年 2 月 3 日に「紅衛兵総部」と「捍衛ステーショ ン」のリーダーが共に組織解散を宣告し、「捍衛兵団」という新たな名称の組織を結成し て派閥競争に再び参入した。そのため「捍衛兵団」は、事実上「紅衛兵総部」と「捍衛ス テーション」の残留メンバーを再編したものであった。再編前の「紅衛兵総部」と「捍衛 ステーション」、および再編後の「捍衛兵団」には大きな相違がみられないので、以下で は分析の便宜上、再編前後の両組織を共に「捍衛兵団」と称することとする。 2.Ʒ⢪ే⬄ϭǷɃȷɐ˩ῲ 以上の考察から以下の 5 点を指摘したい。第 1 に、「四清」運動期から文革初期におけ る権力システムの昇進者と下降者が全く逆転した―すなわち、「四清」運動中の昇進者 は文革期に劉鄧路線の推進者となった一方、失脚者が劉鄧路線から弾圧を受けた者と なった―からこそ、連帯集団間の利害は最初から調和しがたいものであった。なぜなら ば、工場で名誉回復を行う際には失脚幹部の職位復帰も関わっていたからである。失脚幹 部の名誉回復と職位復帰の要求は、「四清」運動期の昇進幹部にとってそれ以前に入手し た権力の剥奪を意味する。極言すれば、派閥間の対立は派閥リーダーによる政治地位と権 力をめぐる争いであったといえる。 第 2 に、連帯集団は、「車間」や党支部など既成のフォーマルな組織関係に基づいて形 成された。その主な原因は、文革が政治動員型社会運動であったため、連帯集団の形成も またその過程において政治運動の動員の仕組みから大きな影響を受けていた。政治動員は 党組織と「単位」の行政構造に基づいて行われた。東方紅紡績工場では、「車間」「科室」 (「科室」とは職場の行政担当部門である。例えば工場の総務科や医務室などである)ないし「車間」 の下部組織の「班組」を単位として「四清」運動が行われた。こうした手続きは、派閥の 形成に次のような影響を与えた。まず、派閥リーダーが既成のネットワークを利用するこ とにより、動員の範囲をコストをかけずに拡大できた。次に、問題摘発と幹部の職位調整 が面識のある者の間で行われたために、人間関係などの複雑な要素が問題摘発と職位調整 に反映された。その結果、派閥リーダーに対して動員可能な資源が豊富に提供されること となり、コストをかけずに利害対立の強い連帯集団を結成することができた。さらに、「車 間」「班組」に基づいて行われた政治動員は、連帯集団を小規模化し、同質連帯集団によ る連合集団の結成を容易にした。換言すれば、「車間」「班組」を単位として形成された 連帯集団が、政治的環境の変化によってほぼ同時に組織化され、これらの複数の小規模な 組織は瞬時に横断的連合を実現することができた。「東聯」と「捍衛兵団」は、両方とも 各「車間」「班組」を単位として形成された下部組織(戦闘隊など)からなる連合組織で あったので、リーダーはそのネットワークを利用して効率的な動員を実現できた。 第 3 に、連帯関係の自覚から派閥形成に至るまでには、政治的環境の変化という外的要 素が重要な役割を果した。すなわち、派閥の形成基盤になる連帯関係は「四清」運動中に 形成されたが、その自覚および集団的利益を追求する信念は、その後の 1967 年前後の中
央指導層における政治動員、「串聯」学生の煽動、工場党組織の権力合法性の喪失など、 政治的環境の変化の中で生まれたものであった。政治的環境の変化は、連帯関係を自覚さ せ、集合行為の機会を創出した。例えば、「紅衛兵総部」は、成立した当初、組織目標を 全くもっていなかった。しかし、失われつつある政治的地位を守ろうとする中で派閥連帯 意識が芽生え、次第に明確な組織目標をもつにいたったのである。 第 4 に、派閥対立の中核は、「四清」運動中の昇進幹部党員と失脚幹部党員であり、 先行研究で指摘されているように「紅五類」と非「紅五類」でなければ、「パトロンク ライアント」関係でもなかった。もちろん、最盛期の派閥構成からみれば「紅五類」党 員積極分子は「捍衛兵団」に多く、非「紅五類」一般大衆「落後分子」は「東聯」に 多いという特徴はみられる。しかし、これらの特徴は派閥リーダーの動員および政治的機 会構造によって生じた結果であり、表面的な現象にすぎなかった。運動に参加する必要性 から考えると、強い利害対立をもつ職位の昇進者と下降者こそが運動への積極的参加者に なろう。権力配分システムから遠ざけられた一般大衆と「落後分子」は、先頭に立って行 動しても昇進の可能性は皆無であり、対立派閥のどちらが権力を握ろうとも自分たちの命 運とは全く無関係であった。 また、政治資源フローの側面からみると、「紅衛兵総部」が成立した当時はリーダーた ちが豊富な政治資源をコントロールしていたので、組織への参加を希望する者が大勢い た。しかし、希望者の大多数は出身階級や政治歴史問題などの様々な理由によって組織へ の加入を拒否された。当時もしも「紅衛兵総部」が閉鎖的でなければ、「捍衛兵団」と「東 聯」の派閥構成の特徴は変わっていたかもしれない。1967 年 1 月、「紅衛兵総部」はそれ までの閉鎖的性格を変え、メンバーを増やすために尽力したが、その時にはすでに政治資 源フローは対立派閥である「東聯」に流れてしまっていた。繰り返しいえば、派閥構造の 特徴は、政治運動の発展によってもたらされたものであり、政治資源フローと関連してい た。1967 年初頭に「捍衛兵団」は自らの政治的合法性を強調するために、「東聯」には問 題を抱えた者が大勢おり、そのリーダーたちは「牛鬼蛇神」(日本語で化け物や妖怪を指す。 主に文革期に旧地主や資本家、学界の権威を例えた)の集合体であると指摘した。このような やり方は「血統論」を批判する時代的潮流に逆行するものであった。また、「四清」運動 期に一般の労働者に対しても政治歴史調査が行われた。出身階級や政治歴史問題などを強 調する「捍衛兵団」のリーダーのやり方は一般の労働者に反感をもたらし、かえって「四 清」運動期の被抑圧者間の連帯感を強化させることとなった。 第 5 に、政治目標を利用して派閥目標を達成するやり方は、イデオロギーや政治スロー ガンなどの大義名分と私的利益の境界を曖昧にした。大義名分と利益の混同は、動員範囲 の拡大や利益競争と関わりが薄い人々の関心を引きつけやすくするというメリットを有し ており、政治動員型社会運動の派閥リーダーにとってはきわめて好都合な方策であった。
3.Ʒᘐ⬇ɲʀɈʀǽ✇ᛠؔݲ 派閥結成が政治運動の結果であるならば、派閥の発展と存続、維持はリーダーが行う資 源動員と戦略競争の結果である。文革期に動員可能な諸資源は、①イデオロギーやそれと 関連する事件などの政治資源、②人的資源、③宣伝車を含む宣伝設備、印刷設備、資金な どの財物資源に分けられる。この 3 種類の資源はともに派閥競争結果に影響を与える主要 な変数であり、財物資源の獲得状況は政治資源の競争結果に強く依存していた。したがっ て、ここでは、主に政治資源と人的資源をめぐる動員方法とその効果について検討したい。 まず、政治資源をめぐる動員方法とその効果について検討しよう。文革期における動員 可能な諸資源の中で、政治資源の獲得は派閥リーダーにとって最も重要であった。政治資 源の利用方法は多岐にわたっているが、派閥の存続において最も決定的なインパクトを与 えたのは、イデオロギー上の正当性の獲得であった。しかし、両派閥のリーダーにとって 政治的機会構造の利用可能な範囲と限界という初期条件が異なっていたために、諸政治資 源への接近方法と動員コストに違いが生まれた。「捍衛兵団」リーダーの多くは工場の支 配構造の恩恵を受けている幹部党員で、党政組織への制度的かつ低コストの接近手段を もつ一方、損失と利益も党政組織と命運を分かち合っていた。なぜならば、工場党委員会 の命令執行機関は党支部党総支部であり、党支部党総支部の大衆組織化は、党委員会 が指導上の正当性を維持している限り、党支部党総支部の構成員である「捍衛兵団」の リーダーが党委員会の行政命令を執行しなければならなかったからである。また、利益関 係からみると、諸利益のすべてが権力取得に還元され、党政幹部の任命権が上級党政組織 によって掌握されている制度環境の下では、党支部党総支部構成員にとって、党委員会 の権力失墜は自らの権力と利益の喪失を指した。行政執行機関としての党支部党総支部 と自らの権力利益を保護する「捍衛兵団」の組織上の重畳は、派閥リーダーによる政治 的機会構造を利用する限界と資源動員の方法を決定付けた。 派閥結成の 1967 年 1 月 6 日から組織解散を宣告した 3 月 24 日までの 2 ヶ月半のうち、1 月末を境として「捍衛兵団」はきわめて特異な行動様式をとった。1 月末以前には、「捍衛 兵団」は党委員会の指示に従って「串聯」学生による造反煽動に抵抗し、主として権力シ ステムの維持と档案資料の保護を行っていたが、党委員会の権力失墜が決定的となる 1 月 末には、「捍衛兵団」は逆に宋明遠を主とする党委員会の主要幹部を激しく糾弾するよう になった。表面的には、「捍衛兵団」の立場は党委員会の「支持者」から「批判者」に「寝 返って」おり、その行動は矛盾しているかのようにみえる。しかし、捉え方によっては、 派閥の存続維持と権力取得競争の目的を実現するために、リーダーが競争手段と資源動員 の戦略を変えたに過ぎない、ともいえる。 一方、「東聯」リーダーの多くは、従来の支配構造の脱落者であるものの、「資産階級の 反動路線」によって抑圧された経験があることから、文革の初期段階にイデオロギー上の 正当性を獲得するのが比較的容易であった。1967 年 1 月に「東聯」リーダーが「串聯」学
生から支援を受けて「黒材料」の奪取を行いながら、党委員会の批判を積極的に展開した。 また、党委員会から権力を奪取するために、工場外部の反逆勢力を結集して、地区造反派 連合組織である「総司」(「晋中地区革命造反総司令部」の略称)を結成し、工場党委員会より も大きい政治勢力と結びつこうとした。その結果、「東聯」は 1 月 18 日に工場党委員会か ら権力を奪取したと宣告し、さらに、晋中地区党政機関における権力闘争での連携政治勢 力の勝利によって、1 月末には工場の党政権力の掌握を事実上実現した。さらに 3 月 4 日 に「東聯」リーダーは党委常務委員の智風と連携関係を結び、「三結合政権」の工場革命 委員会の樹立をとおして工場の指導権を確実なものにした。 政治資源の獲得において、イデオロギーの正当性が付与された政治的指導者ないし政治 組織と関係を結ぶことは重要な動員方法であった。彼らからの支持は派閥にとって有利に 働く。例えば、1967 年 1 月 26 日に「東聯」が「資産階級の反動路線」の批判大会を開催 した時、念願だった軍分区 4558 部隊幹部の会議への参加および同会議での発言を実現し た。これは両派閥の構成に大きな影響を与えた。中立的な立場の者の多くが「東聯」に加 わった一方で、「捍衛兵団」からはメンバーが脱退していった。また、軍分区 4558 部隊に よる 3 日後の 29 日の「東聯」のデモ行進への参加は、さらに「捍衛兵団」のメンバー脱 退を加速させた。もちろん、対立グループに加わるのは容易なことではなかった。例えば、 「紅衛兵総部」分隊長である宋明旺は、対立グループに入るために投降書を書かされ、そ の投降書が対立派の陣営を分化させ中立陣営からメンバーを吸収する宣伝材料として町中 に大量に配られた。他の「捍衛兵団」メンバーも元の組織と決別する意思を「東聯」に伝 えるために、腕章に唾を吐くなどをさせられた(東方紅紡績厰革命組織学生聯絡站、1967)。 注意しておきたいのは、脱退者の中には派閥リーダーが少なかったことである。「東聯」 の記録によると、1967 年 1 月から 3 月までの間に「東聯」に転向した「捍衛兵団」リーダー は、宋明旺、閻小平、宋喜桃、王同生の 4 人だけであった(東方紅紡績厰革命組織連絡站宣伝 部編印、1967: 1–33)。 派閥が政治的指導者ないし政治組織から支持を得ることは容易なことではなかった。そ の場合には、宣伝や心理的誘導など様々な戦略的手段が派閥リーダーによってとられた。 例えば、1967 年、派閥対立を鎮静化させるために毛沢東は人民解放軍を文革に介入させた。 工場に進駐したのは山西省軍分区の 4655 部隊で、3 月 11 日のことであった。人民解放軍 が工場に進駐した初期の段階では、対立する両派閥に中立的な態度をとったため、両派と も解放軍から支持を得るために積極的に行動した一方で、自らの派閥こそが支持されてい るという見せ掛け作業を行った。「捍衛兵団」が「解放軍の工場文革への介入は、一握り の牛鬼蛇神に対する総攻撃を発動する時期の到来を示している」と宣伝し、「東聯」に対 抗する勢力の再結集を図った。一方、「東聯」は軍との連携関係を示す具体的な証拠を作 ろうとした。例えば、解放軍が訓練を終えて駐在地の工場に戻ってきた際に、「東聯」リー ダーがメンバーを解放軍隊伍の後ろに並ばせ、解放軍と共にスローガンを叫ばせて軍と行 動を共にしていることを強調した。その目的は、組織の求心力の強化と対立派の勢力結集
の防止であった。 政治的指導者から派閥が支持を得ることは、政治資源の獲得に有利であるが、関係する 政治的指導者が失脚した際には、派閥は政治資源の流失に直面せざるを得ない。例えば、 「捍衛兵団」は、最初のうちは工場党書記の宋明遠と地区党書記の王綉錦から支持を受け ていたが、1967 年 1 月下旬に王綉錦が地区党幹部の任井夫王振国との権力闘争に敗北し たことによって、「捍衛兵団」の存続の合法性も問われるようになった。不利な状況を打 開するため、「捍衛兵団」が連携行動を行ってきた「総ステーション」(全称は「晋中地区無 産階級革命派聯絡総ステーション」であり、1 月 15 日に結成された地区保守派連合組織である。こ の組織は晋中地区党書記王綉錦から直接に指示を受けていた)から脱退声明を発表し、矛先を 180 度変えて王綉錦を積極的に批判した。しかし、期待した効果はあげられなかった。1 月末になると、「捍衛兵団」にはリーダーと積極的メンバーしか残らなかった。一方、「東 聯」が上部組織である地区造反派連合組織の「総司」(1967 年 1 月 18 日に結成され、晋中地区 党幹部の任井夫王振国から直接に指導を受けていた)と共に王綉錦の政敵である任井夫王 振国を支持したため、任王の勝利によって「東聯」も大勝利を収めた。軍の支持とパト ロンの勝利は「東聯」リーダーの動員コストを下げ、組織の急速な発展をもたらした。 また、イデオロギーの正当性を色濃く反映した政治事件の利用も政治資源を動員する主 要な方法であった。例えば、「資産階級の反動路線」批判と名誉回復の政治環境の中で、「張 鉄保黒店」などの事件、および 1958 年に工場党委員会によって判定された「何文華反党 集団」などは、「何文華迫害事件」や「張鉄保迫害事件」として、政治資源を動員するた めに、派閥リーダーによって大きく取り上げられた(東方紅紡績厰革命組織聯絡站翻印、1967; 東方紅紡績厰革命組織連絡站、1967d)。 次に、人的資源をめぐる動員方法とその効果を述べよう。派閥対立は集団的行為である ため、人的資源の獲得も政治資源と同じく重要であった。派閥構造が同質ではないのと同 様に、派閥リーダーにとって動員可能な人的資源も同質ではなく、異なる動員方法が必要 であった。人的資源は、①一般的参加者、②既存のネットワークあるいは意思決定者への アクセス能力をもつ人や組織、宣伝、講演などの能力をもつ人、③旧党幹部らとかつて政 治的弾圧を受けた人々の 3 つに分けられる。 派閥リーダーにとって、これら 3 種類の資源はいずれも大切であるが、動員方法は動員 対象によって多少異なっていた。一般の参加者に対しては、映画のチケットや毛沢東の バッチを与えるなどの物質的な手段による奨励と利益誘導を通じたメンバーの吸収や、脅 威を与える行動を通じた強制参加、大字報への署名を根拠に派閥メンバーとりこむという 既成事実につながる巧妙な戦略などが用いられた(東方紅紡績厰捍衛毛沢東思想革命造反兵団 第十分団、1967)。各種の才能をもつ人的資源に対しては、説得や思想的動員を通じて彼ら を派閥内に吸収しようとした。第 3 の種類の人的資源に対しては、懐柔と批判の併用が動 員の手段としてしばしば用いられた。弾圧経験をもつ人々を資源競争の対象とした原因 は、政治事件の利用と同様に、彼らが効率的な動員を実現しうる政治資源であったからで
ある。党幹部が資源対象とされた原因は、1967 年の「三結合」政権を樹立する政治情勢の 中で、派閥が旧党幹部から支持されれば、派閥のリーダーが「三結合」政権に加わる可能 性があるからである。しかし、両派の争いの間に挟まれた党政幹部らにとって、両派への 対応は困難をきわめた。態度を表明しないと両派から批判されるが、一方の派を支持する 態度を表明すると、対立派から激しく批判される。また、両派のどちらも支持しないと態 度表明すれば、両派から糾弾されて最悪の結果となる。 人的資源を動員する際、「東聯」のリーダーにとって「黒材料」の公布は効果的に人的 資源を動員する最適の方法であった。一方、「捍衛兵団」のリーダーは、1967 年 1 月の段 階には必死に「黒材料」を守ろうとしたが、2 月末になると戦略を変えて「東聯」リーダー の政治歴史問題や経済問題を公開し、「東聯」リーダーが真の「左派」ではなく、「牛鬼蛇 神」であり、彼らの行動は権力奪取という私利私欲に基づく単なる私憤であると糾弾した。 すなわち、「黒材料」を争奪することは政治資源をめぐる獲得競争でもあった。 4.Ʒᘐ⬇ᴽ̕ 派閥間の競争はまさに資源動員競争であった。一方が最初に優位にたてば、他方はさら に動員努力をし、さらに有力な集合行為の戦略を練り直す。そして、今度はそれが前者の 動員努力、戦略、集合行為に変化を引き起こす。派閥間の競争はその繰り返しであった。 ここで資源競争の方法を以下に 3 つに区分して説明したい。 第 1 に、対立する両派による同一資源をめぐる競争である。文革期における資源競争、 とくに政治資源をめぐる競争のほとんどはこの類型にあてはまる。派閥形成は階級闘争の イデオロギーを基盤とする政治構造過程であったため、両派閥は同一目標を目指している にもかかわらず、行動を競争的対立的に行わなければならず、両者が同時に勝利を獲得す ることは不可能であった。その結果、中央指導層の指令が伝えられるたびに、両派間にイ デオロギーの正当性をめぐる資源争奪が展開された。両派閥はそれぞれ盛大なイベントを 行い、自分の派閥が最も早くかつ最も徹底的に中共中央ないし毛沢東の指示を貫徹してい ると主張し、その過程において両派間は競争したりお互いに妨害し攻撃した。政治資源の 競争は、表面的には「革命」的で暴力的な行為としか映らないが、実は「革命」的で暴力 的な特徴こそが、当時競争に勝つために最も人々に幅広く受け入れられた手段ないし 「しゃれた包装」と自己利益をからめたアピールであった。なぜならば、派閥は権力層か ら支持を得るために、中共中央の政策を積極的に推進する姿勢を示す必要がある一方、派 閥内の求心力を増加し、対立派ないし中立層から新たなメンバーを吸収するためには、派 閥リーダーはイデオロギー的正当性をより大きなインパクトとともに示す必要があったた めである。 また、文革は政策対立であり、権力闘争でもあった。そのため、政治資源フローは中央 指導層の政策調整やトップリーダーの失脚などによって常に変化し、その変化は派閥目 標、資源動員の方法と手段、派閥の構造と構成などにも影響を及ぼした。両派閥を超越す
る調整システムが安定化しない限り、両者間の競争と対立が続く仕組みになっていた。例 えば、1967 年 4 月に晋中地区文革核心小組(党委員会に相当する組織)メンバーの王振国 任井夫張懐英と晋中地区軍分区責任者の崔氷の間で権力闘争が行われた。1967 年初頭の 派閥闘争に勝ち残った「東聯」は崔氷を支持した。しかし、同年 7 月の山西省の問題を解 決する党中央会議において、党中央指導部から非難されたのは崔氷で、党中央から支持さ れたのは王振国であった。その結果、「東聯」は対立側から組織存続の正当性を問われ、 自己批判せざるを得なくなった。これに対して、「捍衛兵団」は最初に崔氷を支持したも のの、内部情報を得て 6 月末には一転して王振国らを支持し始めたことで、失った政治的 正当性を取り戻し、萎縮しつつある組織の再建を実現した。両派閥間の対立とかけひきは その後も政治的環境に影響され、文革終了までに繰り返し行われた。 第 2 に、対立派閥の資源の争奪である。政治資源フローはつねに変化しており、特定の 時期に両派閥に割り当てられた政治資源は均等ではなかった。同一の政治的機会構造を利 用する際に、一方の派閥が所有する資源が明らかに不足している場合、代用の資源で補う か、対立派閥から資源を調達するかしか方法はなかった。例えば、1967 年 1 月中旬、両派 間における対立が膠着状態に陥った時期に、「東聯」リーダーは「捍衛兵団」リーダーが 「東聯」指揮部を訪ねた機会を利用して、あたかも周恩来本人から電話を受けたかのよう に振る舞い、「東聯」が周恩来から支持されたという偽情報を意図的に流した。その目的 は「捍衛兵団」に民心散乱を生じさせることによって、「捍衛兵団」の資源流失を図るこ とにあった。 第 3 に、自派閥の弱体化を回避するための自らの資源の保護である。派閥リーダーが豊 富な資源を持っているかどうかについては、政治的機会構造によって決定される。中央指 導層における政策調整や党政幹部の失脚などは、政治資源フローの変化に影響を与えた。 政治資源の流失を防ぐために、派閥リーダーは派閥目標や連携組織との関係の調整や、組 織内の改革の断行などの手段をとらなければならなかった。「紅衛兵総部」のリーダー交 替、「紅衛兵総部」と「捍衛ステーション」の解散宣告後の「捍衛兵団」としての再出発、 1967 年 3 月 4 日の「捍衛兵団」の組織解散宣言などがこの類型にあてはまる。組織解散宣 告は競争を放棄することではなく、競争に勝つための手段であった。
Ⅳ 結 論
これまでの考察から得られた知見を以下にまとめてみよう。 第 1 に、文革には上部構造によって行われた政治動員と、派閥リーダーによって行われ た資源動員の二重動員が存在していた。前者が後者に機会を提供し、その動員の効用と方 法を制約する一方で、後者が前者を推進する場合もあり、逆に阻害の役割を果たす場合も あった。両者の相互作用によって、文革は発動者の意図から逸脱しながら展開することとなり、「党内の資本主義の反動路線を歩む実権派」の批判を目的とした政治運動が広範囲 におよぶ派閥対立をもたらした。 第 2 に、文革期における派閥対立において、派閥リーダーの組織と動員が重要な役割を 果たした。派閥リーダーの組織と動員がなければ派閥対立は成立しない。この意味で文革 期の社会混乱は政治動員の結果であると同時に、派閥リーダー間における資源動員の競争 の結果でもある。文革期における集合行為を理解する際には、派閥リーダーの動員と戦略 的競争手段という現在まで等閑視されてきた点に注目する必要があろう。 第 3 に、派閥形成は政治構造過程であり、「四清」運動の際と文革の際に行われた政治 動員の方向性を、短期間のうちに正反対にきり変えたために生じた結果である。文革以前 に形成された階級格差や「パトロンクライアント」関係は、資源動員の要素として派閥 形成に一定の役割を果していたが、派閥対立をもたらした直接の要因ではなかった。派閥 意識と派閥利益あるいは大衆間の亀裂は、派閥結成後にリーダーの動員組織に伴う派閥 競争の過程で発生したのである。 本稿から示されたように、派閥間におけるメンバーの流動と特定派閥の内部におけるメ ンバーの補充や脱退は、派閥リーダーの資源動員手段と方法に影響され、派閥の存続を左 右する要素であった。しかしこれらの要素にもまして、派閥リーダーの資源所有量、とり わけ政治資源の所有量は、派閥の存続を左右するより大きな要であった。資源所有の量的 変化は政治的機会構造によって影響を受けるが、両者間の相互作用に関する分析について は今後の課題としたい。 (注) 1) 例えば、「張鉄保黒店」の原因はきわめて単純で、党員である張鉄保が「反革命的分子」の孤孀である 周に好感をもち、長期にわたって彼女に生活上の支援を与えたことで、工作団に党員の立場を喪失し、 不正的男女関係をもつものとして摘発された。張鉄保は不遇な立場から脱出するため、「四不清」問題を もつと判定された他の人と連携して党支部幹部らの問題暴露を積極的に行ったが、逆に工作組に「張鉄 保黒店」と断罪された。この事件によって連座させられた者は 30 人以上に達した。1967 年 12 月末に政 治環境の変化に伴い、張鉄保と彼の連座者が「無産階級硬骨頭戦闘隊」を結成し、彼を拷問した工作組 長や党支部書記などに対する闘争会を開いた。「東聯」が結成された後、「無産階級硬骨頭戦闘隊」は東 聯のリーダー組織の 1 つとして活躍した(東方紅紡績厰四清運動档案資料、1966a)。 (参考文献) ᅠቊ◭ 国分良成(2003)、『中国文化大革命再論』慶應義塾大学出版会。 楊麗君(2003)、『文化大革命と中国の社会構造』お茶の水書房。 ⇠◭
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