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Ecological Studies ard the Maintenance Concept for Forest Landscape in the Satoyama Area (V) -'Laputa, the Castle of the Sky'' and the Self-Enjoynent

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(1)

SURE: Shizuoka University REpository

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Title

里山域の森林景観の生態学的基本構造とその整備に関す

る研究(V) : アニメ「天空の城ラピュタ」とその「充足情

報」の分析より

Author(s)

藤本, 征司

Citation

静岡大学農学部演習林報告. 37, p. 13-32

Issue Date

2013-05-31

URL

http://doi.org/10.14945/00007455

Version

publisher

Rights

(2)

里山域の森林景観の生態学的基本構造とその整備に関する研究

(V)

一 アニメ『天空の城 ラピュタ

Jと

その「充足情報」の分析よ リー

藤 本 征 司拿

Ecological Studies

ard

the Maintenance Concept for Forest Landscape

in

the

Satoyama Area

(V)

-'Laputa,

the Castle of the

Sky''

and

the

Self-Enjoynent Information

Seishi FuJIMoTO lま じ め に 別報 (藤本・藤 田、

2013)で

は、今後の森林景観情報の資源化や森林景観整備 を考える上で重 要な意味を持って くると考えられた「ラピュタの木 (岩付きのフサザクラ大径木)」 の現地調査結 果の取 りま とめなどを行い、その情報資源 としての重要性、特に、その「充足情報 (見田、1996)」 資源 としての重要性や、森林景観整備 を行 つてい く上での重要性な どについて論議 した。本稿は その別報であ り、「ラピュタの木」の情報資源化 を考える上で、その前提条件のひ とつ となると思 われた、「ラピュタの木」の出所であるアニメ 「天空の城 ラピュタ」(宮崎・亀岡、

1986)が

直接 または間接的に発信 していると思われ る諸情報、メッセニジ・ メタメッセージ、特に、その 「充 足情報」の読み込みを試み、「ラピュタの木」の情報資源化のための一助 とした。また、別報 (藤 本・藤 田、

2013)で

は不充分なまま終わつた 「充足情報」概念の明確化や、森林景観情報の資源 化 と森林景観整備 の進め方 についての検討 も本報の課題 にカロえ、アニメの分析結果 を参考にして 論究 した。 なお、本報は、別報 (藤本・藤 田、

2013)と

同時進行的に執筆 したもので、その続報にあたる ものではない。従つて、各所で相互参照 されているので、その旨を了解 され、両報を同時並行的 にお読み頂ければ幸いである。また、本報告では、本来、分析の対象 としたアニメ 「天空の城 ラ ピュタ」のあらす じをできるだけ詳 しく紹介 した うえで、分析 を試み る必要があるとも考えられ たが、私見が入 ることを懸念 したことと、有名 なアニメであ り、すでにご存 じの方が殆 どであろ うことを考慮に入れて、概ねこれを省略 し、直接、重要 と思われた箇所の分析へ と論 を進めるこ とに した。従つて、もし、このアニメをまだ見てお られない場合は、是非、前 もつて

DVDな

ど でご覧頂き、さらには、その小説版 (宮崎・亀岡、

1986)も

お読み頂いた上で、本報 と別報に 目 を通 して頂 くこともお勧め しておきたい。

*静

岡大学農 学部附属地域 フィール ド科学教育研 究セ ンター Center for Educatbn and Research of Field Sciences,

Un市ershy

静 岡市駿河 区大谷 886

Faculty of ttCulture,Shzuoka

(3)

分析対魚 と分析法 本稿の分析対象は、アニメ 「天空の城 ラピュタ」(宮崎・亀岡

(1986)で

ある。 まず、そのあらす じを大雑把に振 り返つてお く。「ラピュタ」は、科学の力で作 り上げた巨大な 「飛行石」を抱 くことによつて空を飛ぶ「天空の城」であ り、地球を完全に支配 していた らしい。 しか し、所詮、大地に根 ざさないものは生き永 らえられない。やがて、ラピュタは衰退 し、つい には、飛行石のみを抱 く

1本

の巨木 となって、天空の彼方に去ってい く。 ここまでがアニメのあ らす じだが、その後、一体、ラピュタはどうなったのか

?

宇宙の彼方に消え去 り、消滅 して し まったのか。それ とも、飛行石の力が衰退 して しまった りして、地球に舞い戻つているのか (ラ ピュタの木の誕生?)。 しか し、一体、ラピュタとは何なのか

?

それ らは一体、我々に如何なる 情報 を発信 しているのか

?

この作品を見てt充 足感を得 る人は少なくない。しか し、それでは、 この作品の発信 している 「充足情報」 とは、 どのような内容のものなのか。 この作品を巡 ること で、考えさせ られることは少なくない。 宮崎のアニメは、どの作品でも結構良質な環境思想を提供 してお り、それは、たぶん、「天空の 城 ラピュタ」にも当てはまる。従つて、環境倫理の面から、この作品を評価 してみることが重要 な視点のひ とつ となる。また、現在では、リア リティの在 り処が「実在的」なものか ら「潜在的」 なもの、「バーチャル」なものに多分に移つてお り、「(アニメーシ ョンのよ うな)仮想現実の方が 現実を上回つた」(宮崎・庵野、

1986)時

代、いわゆる「アニメ 。まんが的 リア リズム」(大塚、

2003)の

時代なのだ とい う。 もしそ うであるな らば、「科学」は リア リティのある「現実」を分 析す る知的営為 といえるので、現代では、アニメは完全に科学的分析の対象物だ とい うことにな るだろ う。すなわち、その意味で、この作品を 「科学」的に分析することもまた有効な方法 とな るだろ う。また、ジブ リの世界は、東洋や 日本の伝統にも充分通 じた思考を展開 していると考え られ る。従つて、東洋や 日本の伝統的思考パタンで読み解 く道 もあることになる。東洋 ,日本の 伝統思考 といつても様々だが、その精華は、何 と言つても、近代の物心二元的思考を超 える 「能 所不二(主客不二)」 的思考にある。そ して、ジブ リの世界 も、 ミクロコスモスがマクロコスモス と相等 しく、世界の輝 きが個の輝 きと共振 しあ う「明るく力強い無無明の曼茶羅世界」を展開 し ているように思える。また、能所不二的思考は、現代哲学か らの解答でもある(例えば廣松、199う。 従つて、「ラピュタ

Jを

哲学的に読み解 くこともできるだろう。「ラピュタ」が 「充足情報」であ るならば、一義的にそれは、意味不明の 「真言・ 陀羅尼」のようなものであ り、あらか じめその 意味を明か してお く必要はない とも考えられる。そ して、「森羅及び万象は一法の所印」は 句経 ; 友松、198め なので、何 もしなくても、森林・ 自然か ら、各人が各人な りの充足情報 を引き出せ るとい うこともできる。 しか し、それは、やは り、正 しさの一面を語つているに過ぎず、「之を説 き、之を黙す る、並びに仏意に契え り」(空海 :般若心経秘鍵

)で

、意を説 くも説かぬも、ともに 意味あることと考えられる。特に、高質な情報の発掘に期待する場合には、あ らか じめ、かな り の程度まで意 を解いてお くことが必要 となると考えられる。 以上のよ うな見通 しに従つて、「ラピュタの木」のオ リジナルであるアニメ「天空の城 ラピュタ」 について、環境倫理(環境思想)、科学、伝統的思考お よび哲学的に分析 を進めてい くことにす る。

(4)

「ゴン ドアの谷の歌」 「土に根をおろ し風 と共に生きよう。種 と共に冬を越え、鳥 と共に春を謳お う (―どんなに恐 ろしい武器 を持っても、かわいそ うなロボ ッ トたちを操っても、上を離れては生きられないのよ)」 (宮崎・亀岡、1986)。 「天空の城 ラピュタ」か ら、まず、この一節 (「ゴン ドアの谷の歌」と呼ばれている

)を

取 り上 げてみる。 しか し、この一節は、本当のところは一体何を語 つているのか。 さしあた り、これを、ひ とつの結構良質な環境倫理を語る言葉 とみることは、充分可能である。 この一節は、文字通 りに解釈すると、大地に定着 し、大地 (土

)を

耕 し、そ して、他の生物たち とも共生 しあ う農耕民的な暮 らしぶ りを詠つていることになる。そ うすると、これは自然 。人間 共生系を語 る「里山

Jを

詠 う言葉 ともなる。このよ うに考えると、「ラピュタの本」は、大地を離 れ、長い間漂泊 したのち、やっと本来の場に帰 りついたことになる。懐かしい故郷への帰還だ。 これか ら先、「ラピュタの木」は、いのち尽 きるまで、本来の大地に根をおろして生きてい くこと になるだろ う。 また、この一節は「『 土』に根をおろし『 風』 と共に生 きよう」なので、それは「風土」の中で 暮 らす ことを示唆 している。「風」は気ままで、厳 しい冬を凌 ぎがたいほど過酷なものに変え、時 には大 きな災厄 をもた らす。従つて、 どんな場であつても、風 と共に生きている気分になれ ると は限 らない。 しか し、「故郷」とい う空間では、例え、耐 え難 く凌ぎがたい 「風

Jで

あっても話は 別で、そんな風 も己の別名であ り、己も、まわ りのものすべても、すでに己自身のこととして了 解済みであ り、それ らが主客未分の状態で 「風土」を構成 してぃる。そ してそこに人々はあるべ くしてある。すなわち、「風土」 とは 「自己了解」の仕方であるわけだ (和辻、1935)。 このよ う に考えていっても、「ゴン ドアの谷の歌」は、やは り「帰郷の詩」であるように思えてくる。 しか し、「ラピュタ

Jが

空に浮かび、大勢の人々が大地 を離れて空を飛びか う、アニメ「天空の 城 ラピュタ」の総体風景に 目を向けると、「ゴン ドアの谷の歌」の真意が、「帰郷の詩」 とは少 し 違った ところにあるかもしれないことにも気づ く。アニメ 「天空の城 ラピュタ」は、そもそも土 に根 をおろして生きるものたちの物語ではない。パズーは、空に向かって トランペ ットを吹き、 天空に向かって旅立つ冒険少年であ り、シータもまた、本質的には然 りだ といえる。海賊・山賊 ならぬ空賊までが出没 し、舞台は完全に天空にある。少なくとも、それは天空にまで及んでいる。 そんな天空の詩が、天空には「生きる空間」な どないことを悟るための試練物語なのだとしたら、 物語は最初か ら破たん していた としか言いようがなくなる。「天空の城ラピュタ」が、スチーブン ソンの 「宝島」や宮崎駿の 「未来少年 コナン」な どと同様の冒険物語であることは自明の前提 と いえるが、そんな冒険が、地に根 を下ろさない ものの必滅を知るための旅であ り、廃墟 (バベル の塔

)の

確認 (中村、

2007)に

過ぎないもの とは考えられない。シータもパズーも、瞳を輝かせ、 夢をもつてヵ強 く、天空へ と旅立ったのであ り、大地を離れ ることへの不安など微塵もなかった のだといえる。 このよ うに考えられ るのだとした ら、「ラピュタの木」の見え方 も変わってくる。 「ラピュタの木」の終着駅は「大地」ではありえない。「ラピュタの木」は、いずれまた、天空ヘ と旅立つに違いない。 こんな光景が浮かび上がる。 文字通 りに解釈すれば、「ゴン ドアの谷の歌」は、確かに、「帰郷の詩」 となる。この歌のリテ

-15-―

(5)

ラルなメッセージは 「帰郷のすすめ」にあるのだろ う。 しか し、この一節で、大地を象徴するも のは、実質的には 「土」 しかない。「風」も「鳥」も、基本的には、大地か ら遊離 した天空のもの である。「種」は地上のものだが、これは厳 しい冬を乗 り切 る「仮 りの姿」に過ぎず、春になれば 発芽 し、天空をめざして成長 してい く。それに、大地を象徴す る「土」 とい うものも、地球の一 部 として、宇宙 とい う天空を飛び回つているわけで、結局、「土」もまた、天空に親和的なものだ と考えることもできる。 このよ うに考えていくと、この歌には、 リテラルなメッセージとは直接 的には真逆の 「天空へ とはばたけ

!

生きるとは天空へ とはばたいてい くことなのだ!」 といつ たメタメッセージが込められてい るようにも思えてくる。 子供は風のように気ままだ。鳥を見れば鳥にな り、風 と出会 えば風になる。猫を見れば猫にな る。 もちろん、子供は魔法使いではない。だか ら、鳥になるといつても、実在物である何 らかの 鳥になるわけではない。そ うではなく、そもそも、それぞれの子供は何者か として実在す る (実 体的なもの として存在する

)の

ではない し、鳥 も風 も、あ らか じめ、他から切 り離 されて別箇に 実在す る何 ものか としてあるわけでもない。本来、それぞれの子供は何者でもない し、彼 らが出 会 う諸々の 「もの」も、本来、その名 さえ定かでないバーチヤルなものに過 ぎない。実在的な両 者 に先立って 「出会い」が出会われ る。出会いは風景の開示であ り、風景は現相的世界 として主 客分離以前的に開かれる (廣松、1988)。 従つて、出会われた時点においては、両者は能所不二 (主客不二

)の

関係にあ り、だか ら、彼 らはまず、必然的に出会われた ところのもの となる。 このよ うな能所不二的関係性の開示は、本来、子供だけのものではなく、誰にとつても開かれ るはずのもの といえる。誰 にとつても 「風」は、本来、大地や人間か ら切 り離 されてある、客観 的な無機的環境条件のひ とつを意味 しない。東洋 。日本の伝統的思考を通 して考えれば、それは 因業 (原因・条件・環境条件

)を

生み出す ことがあるように見えても、本来、因業 自体ではない (風は風大、風大は訂字であ り、訂字は因業不可得 (原因や条件 を超 えていること

)を

表す (空 海 :即 身成仏義)。 それは宇宙の他のもの (地水火・人間

)と

相応 してあるものの別名 に過 ぎず、 風 と大地が相応 して宇宙 (風土

)を

構成 し、風 と人間も、相即相入 し、人が風を生み、風が人を 生み、時には人が風になつて、主客未分の状態で風景を開示 させ る。頬を撫でる風は、対象物で ある風の感覚 とも、人間の頬の感覚 とも区別がつかない(廣松は腕 に刺 さつた トゲを例に挙げて、 己と対象物の主客不二性・能所不二性 を論 じている ;廣 松、1972)。 出会いによつて、人は風 と 共に生き、主客未分の状態で風景を開示 させる。風景の感覚は、それを「能 くするもの」の感覚 であると同時に、共振 した 「所のもの

Jの

感覚でもあ り、そ こでは、本来的に、「能所不二」が成 立 している。 「ゴン ドアの谷の歌」も、結局は、このように自由に羽ばたき、変幻 してい く「能所不二」的 関係の開示の連続 を歌つているもの と考えられ る。 本来的に、あらゆるものが不二的関係 にあ り、一にして二、二に して一の関係で、共存 。共生 している。シータの本当の故郷が、「ゴン ドアの谷」なのではなく、空飛ぶ「ラピュタ」に設定 さ れていたように、「ゴン ドアの谷」と「ラピュタ」は本来相等 しく、これ らは、互いに別箇の実在 ではなく、ひ とつの関係性の右 と左であるに過 ぎない。そ して、このよ うな関係があ らゆるもの に当てはま り、ラピュタは、本来、地球 と不二であ り、パズーはシータと不二の関係 にある。ま

(6)

た、パズーやシータは世界の少年・少女のそれぞれ と不二であ り、そ して、世界の人々 とラピュ タが不二の関係 にある。ラピュタと地球が不二の関係 にある以上、「天空の城ラピュタ」と「ラピ ュタの木」 も当然不二であ り、各人 と 「ラピュタの木」も不二であることにな り、己は、パズー であ り、シータであ り、「ラピュタの木」であ り、さらに膨張すれば「地球」とな り、宇宙の総体 とな り、逆に収縮すれば、宇宙を構成する諸生物、諸分子 とな り、個々人の心 とな り、精神 とさ えなるだろ う。そ して、このように膨縮 しても、能所不二的関係は本来的には消滅 しない。 以上のように、本来的には、すべてが不二的関係、 さらには能所不二的関係 にある。 しか し、 その場合大切なことは、このよ うな能所不二的関係 が、出会いによつて しか開かれないことであ るだろ う。主客がまずあつて、それ らが不二的関係 にあるのではなく、出会いによつて能所不二 的関係がその都度開かれ るに過 ぎない。出会いなくしては、能所不二的関係 (風景

)は

開かれず、 その意味で、出会いを出会 うべ く、時には冒険の旅に旅立つ ことになる。すなわち、「ゴン ドアの 谷の歌」には、リテラルなメッセージの裏に、たぶん、「帰郷の詩」とはかな り異質な、出会いに よつて開かれる能所不二的風景へ といざな う「旅立ちの詩」がメタメッセージとして隠 されてい ると見てお く必要があるだろ う。単なる帰郷の勧めであるな らば、たぶん、風 と共に生き、鳥 と 共に謳 うとは表現 しない。 これは、風 と鳥 とい う天空 と親和的なもの との共生を歌 う詩であ り、 故郷に帰還 して、田畑を耕 し、地道 に生きることを勧 める詩 としてのみ捉えることはできない。 結局、メッセージとメタメッセージも不二の関係の右 と左、シータとパズー、「ラピュタ」と「地 球」なのだろ う。「土に根 をお ろし

Jと

は、実在的な土地、特定の場に定着す ることを意味 しては いない。大地 と己との関係は、例 え天空を目指そ うとも立ち消えるものではなく、己が例 え飛行 体のよ うに、天空を行 き来 しても、決 して、 自由運動す る「物体的・粒子的」存在ではなく、己 は、大地 と不一不二の肢体的関係 にある一方向を指す に過ぎない。そ して、それ故、 どんな場合 でも、同 じ、大地 と肢体的関係 にある天空 と海、そ して、風 と共に生きていることにな り、結局、 特定の場に留まろ うと、その場か ら飛び立 とうと、それは全 く同 じことなのであ り、ただ、すべ ては、主客に先行す る 「出会い」によつて開かれ る風景であ り、その意味で、時には冒険の旅に 出かけることも必要 となるとい うことなのだ と考えられる。 「君をのせて」 出会いによつて開かれる 「能所不二」的風景は、アニメ 「天空の城 ラピュタ」のエンデ ィング テーマ曲 「君をのせて」にも明確に認 められ る。 あの地平線 輝 くのは、 どこかに君をか くしているか ら たくさんの灯が なつか しいのは、その どれかひ とつに 君がいるか ら さあ でかけよう ひ ときれのパン、ナイフ ランプ かばんにつめこんで 父 さんが残 した 熱い想い、母 さんが くれた あのまなざし 地球はまわる 君をかくして、輝 く瞳 きらめく灯 地球はまわる 君をのせて、いつかきつと出会 う ぼ くらをのせて まず、「天空の城 ラピュタ」のあ らす じにそつて考えると、さしあた り、歌い手 (主観 の側

)は

少年パズーで、 これは、パズーが 「君」を探 して旅立つ歌 と言 うことになる。 もちろん、出会い ―-17-―

(7)

の前に、実体的なパズーは想定できないので、これは 「主観・客観図式」に仮託 した読解 といえ る。 しか し、まずは、このように想定 して解読 してい くことに しよう。 す ると、は じめに、「君

Jと

は何 (誰

)を

指すのかが問題 になるが、さしあた りは、シータのこ とだ と見るべきだろ う。 もちろん、パズーがずっと探 し求めていたものが 「ラピュタ」であるこ とに留意すれば、「君」は、む しろ「ラピュタ」を指す ようにも思えて くる。 しか し、パズーが初 めてシータと出会ったのちは、パズーの 「ラピュタ」のイメージは 「ラピュタ

=シ

ータ」 となっ たはずで、「ラピュタ

Jと

「シータ」は本来不二なのだといえる。従つて、「君」は、シータと考 えても、「ラピュタ」と考えても同 じことにな り、まずは、主観・客観図式に仮話 して解釈を進め るのであれば、「君」は人称なので、人称的なシータと見なすのが順当だ とい うことになる。 第一節では、地平線が輝いている光景が詠われ、 どこかにシータが隠 されていることが、地平 線が輝 く理由なのだ とつぶや く。地平線が輝 くのは、主観・客観 図式で考える限 り、物理的な事 象に過 ぎない。 もちろん、そんな輝 きがパズーの 目に映るのは、パズーが 日を開け、それを眺め ているか らなので、ここですでに、地平線が輝 く光景は、パズーの側 も関与 した事象 となってい ると考えることはできる。 しか し、ここで大切なのは、地平線はただ輝いているのではなく、美 しく輝いていることであ り、そ して、 どうしてそんなに美 しく輝 くのかが問題にされていること といえる。「君をのせて」の英語バージ ョンでは、ここは “

Whyitshnes sO beauぽ

ully?"と 歌 われている。地平線の輝 きがパズーの 目に映 り、地平線の眺めをパズーが模写 しているだけなら、 それは物理的現象、客観的現象だ とい うことにな り、それが美 しく輝いた り、ま してや、シータ を隠 しているか ら美 しく輝 くなどとい うことは起 こ りえない。す ると、それは物理的 (客観的) 現象であると同時に心理的 (主観的

)現

象だ とい うことになるのか

?

しか し、このよ うな解釈 は論理矛盾 としか言いようがない。そもそも、物理的現象でない現象を心理現象 と呼び、心理的 現象でないものを物理的現象 と考えているのであるか ら、このような前提に従 うな らば、物理的 現象であると同時に心理的現象なのだ とする解釈は論理的に成 り立たず、結局、この節の光景は、 まず、「物心分離以前的な知覚風景的現相」(廣松渉、1988)力 `浮かび上がったのだ とい うことに なるもの と考えられ る。 輝 く地平線がまず客観的にあ り、パズーが輝 く地平線 と出会つたのではない。それは、パズー に対 して客観的に実在する対象世界であったのではな く、出会いによつてはじめて開かれた風景 である。そ して、この出会いは、まだ、地平線 との出会いに過 ぎない。 この段階では、まだ、パ ズーはシータとは出会つていない。 しか し、その時、一体シータは何処にいるのか

?

輝 く地平 線の中にいるのか

?

それ とも、地平線の彼方にいるのか

?

さらに、中にいるにせ よ、彼方に いるにせ よ、その内のどこにいるのか

?

もちろん、まだシータと出会っていないパズーにはそ れが分か らない。 しかも、分か らないのは、パズーが知っていないだけのことではない。そもそ も、シータと出会 う前に、輝 く地平線の中にシータがいるかいないかが予め定まっているわけで もなければ、例えシータが輝 く地平線の中にいた としても、そのどこにシータがいるかも定まっ ていないはずだ (廣松は、現代物理学的知見を前提にしつつ、 ミズ不マシの例で、 このことに触 れている⇒廣松 (1977))。 しか し、そ うか といって、シータはどこにもいないとい うわけでもな い。すなわち、シータはまさに隠 されてアルのであ り、しかも、どこか特定の地点に隠 されてい

(8)

るのではなく、地平線が輝 く風景の中に、まるで風景そのものであるかのように、遍在的に隠 さ れてアルのであ り、だか らこそ、バズーには、地平線が輝 く風景の総体が美 しく見えてきたのだ といえる。 たぶん、第二節は、パズーが、シータを探 して、輝 く地平線にさらに突き進み、た くさんの灯 がはつき りと見える地点にまで到達 した光景を詠つたものであろ う。第二節でもまだパズーはシ ータと出会っていない。従 つて、この時点でも、シータの居場所は不明であ り、シータはたくさ んの灯の総体に遍在的に隠 されている。 しか し、何故か、パズーにはそれが懐か しい光景である よ うに見えて くる。そ して、そんなにも懐か しく思えるのは、その灯のひ とつにシータがいるせ いだ と思 う。 このよ うな風景が開かれ るのは、たぶん、パズーが以前にこれ と同 じような光景に 出会つたか らであ り、そ して、その時は、その どれかひ とつで 「シータ」 と出会えたか らに違い ない。だか ら、パズーの中に、あの どれかひ とつにシータがいるに違いない とい う確信が生れ、 た くさんの灯が懐か しく思えてくるのも、そのためだ と一瞬思 うに至つたとい うことなのだろ う。 「その懐かしい風景は、まるで故郷の風景のように思える。父 さんと母 さんがいる故郷の風景 であるかのよ うだ。 もしそ うだとした ら、 自分が探 し求めている風景 も、彼方にある『 たくさん の灯』なのではなく、旅立 とうとしている背後の風景、戻るべき故郷であるのかもしれない」。パ ズーに一瞬、 こんな思いが走つたかもしれない。しか し、彼方に見えるた くさんの灯は、それに もま して、美 しく爆めく。「もどるべき故郷な どどこにもない。例 え、『 故郷』 と呼んで もよい風 景があ り得 るとしても、それは、未来において出会われ るべき風景であ り、そ して、如何なる風 景であつても、出会いを求めて旅立つ ことなく開かれ る風景な ど何処にもないはずだ」。パズーは そ う思い直 したに違いない。 さあ出かけよ う。ピクニ ックではないので、食べ ものは、一切れのパ ンで充分で、「ナイフ・父 さん 。熱い思い」 と 「ランプ・母 さん 。あの眼差 し」の

2つ

の トリアーデで、旅支度は万全だ。 第二、第四節か らのメッセージはこんなところでよいだろ う。 次の第五節の 「輝 く瞳」 と「きらめく灯」の並置は、 さしあた りはパズーにとっての対象世界 である 「シータの輝 く瞳」 と 「きらめく灯の総体」の不二的開示が端的に表現 されていると解釈 できる。 ここで 「きらめく灯」は、確かにパズーの 日に映つているので、パズーの瞳は実際的に も輝いていることになる。 さらに、そんな光景の総体を見ている鑑賞者の 目もまた、物理的にも 輝 くことになるだろ う。従つて、ここで 「輝 く瞳」をパズーの瞳や、さらには、作品の鑑賞者の 瞳だ と見な した りす ることも可能ではある。 しか し、すでに触れたよ うに、このような対象物 と その写像の関係 は、 「物理的現象」 として、第二者的・反省的・ 「主観・客観図式」的に捉 えら れたものに過 ぎず、そこか ら、なぜ灯が美 しく輝 き、連めくのかは了解できない。ま してや、こ のような 「物理的現象」か ら、即座 に、世界の総体 と己の一致のような、梵我一如 (廣松・ 吉田

(1979)で

は、批判的にこの概念を紹介 している

)的

な境地が浮かび上がるのだ とした ら、それ はまさに主観的な 「思い」で しかな くなる。そ うではなく、ここで開かれ るのも、主客分離以前 的・能所不二的に開かれ る風景であ り、 さらに、シータが遍在的に不在である段階で開かれ る風 景なのだ といえ、結局、そこで開かれ るのは、シータときらめく灯の一致だ とい うことになる。 しか し、第六節、パズー とシータが再び出会 うとき、そこか ら開かれ る「能所不二」的風景は

(9)

-19-一変す る。 まず 、 シー タはラ ピュタ、パ ズーはシータ とラピュタ とな り、そ して、シー タとパズ ー のい るラピュタは地球 とな るのだ ろ う。そ して、その延長線上に、 「ゴン ドアの谷 の歌」の解 釈 の ところです でに触れ た よ うな、「ゴン ドアの谷」 と「ラピュタ」、パ ズーや シー タ と世界 の少 年・少女、世界 の人 々 とラ ピュタ、「ラピュタ」 と「ラ ピュタの木 」、地球 と「ラピュタの木」、各 人 と 「ラ ピュタの木」 の不 二的風景 も開示 され てい くことにな るだ ろ う。 もちろん、 しか し、そ れ らはすべて、主客 に先行 して開かれ る出会 いを出会 うこ とに よつては じめて現実化す る事項で あ り、出会い以前 においては、すべ てがまだ、潜在的な事項 に留 まつてい る。すなわち、パズー の出会 い を求 め る旅 はまだ始 まったばか りだ し、能所不二的風景は、パズーのよ うに出会いを出 会 うべ く、我 々 自身 が何 らかの意味での 「旅

Jを

続 けるこ とな くしては開かれ続 かない ものであ る とい える。 たぶん、「君 をのせ て」は 「ゴン ドアの谷 の歌」のメタメ ッセー ジのメ ッセージ化であ り、出会 い によつてのみ 開かれ る 「能所不二」的風景を求 めた 「旅立ち・ 冒険」を直裁的に歌つたもの と い える。パ ズー は さらな る出会い (さ らなる「能所不二

J的

風景

)を

求 めて明る く力強 く旅 立 ち、 冒険の旅 (固定的 な己を乗 り超 える旅

)を

続 けることになるに違 いない。 総合考察 は じめに 以上のように、「天空の城 ラピュタ」を巡って、観想 させ られ ることは少なくない。そ して、そ れ らは、主客未分のかたちでその都度出会われる 「出会いの連続」 としての 「能所不二的風景J へ と収飲 してい くものと考えられる。 まず、この作品では、以上のような、その都度出会われる「能所不二的風景」のそれぞれが「能 所不二的充足情報」に相当 していると見てよい。パズーは、「地平線の輝 き」に充足 し、 さらに、 「浬めく灯」に充足する。 もちろん、シータとの再会もまた充足情報を生み出すだろ う。また、 パズーの別名であ り、シータの別名である、この作品を鑑賞する我々にも、何 らかの 「能所不二 的充足情報」が次々 と伝播 してい く。もちろん、能所不二的風景はその都度開かれ るものなので、 そんな「能所不二的充足情報」の連鎖には限 りがない。それは欲望の連鎖のように(熟考す ると、 それは「欲望」の連鎖そのもの として把握できるようになるだろ う)、 さらなる出会い (能所不二 的風景

)へ

と、パズーを、そ して、我々を促 してい くことになるだろ う。 以下では、そんな風景の開示によってもた らされる「充足情報」、特に、「能所不二的充足情報」 について、より詳細に、その何であるかについて考えてい く。また、そんな 「能所不二的情報」 の資源化や、このよ うな情報資源化に向けた景観整備の進 め方について、論究の対象 を森林風景 にシフ トさせ、考察 してい くことにす る。 「充足情報」と「能所不二的充足情報」 本稿で問題 とした 「充足情報」概念は、見田(19961に従つたものである。 見田によれば、まず、「情報は、基本的に二つの種類、あるいは作用

e齢

日)を持つJ。 すなわち、 情報は、「認識情報偲 知情報、知識 としての情報)」 、「行動情報(指令情報、プログラムとしての 情報)」、「美 としての情報(充足情報、歓び としての情報)」 に分けられ、知識情報・ デザイン情

(10)

報・充足情報の

3類

型はその言い換 えとなる。 また、この

3類

型は、情報を 「認知情報」、「評価 情報」および 「指令情報」の

3つ

に区分す る吉田

(1990)の

情報類型を参考にして構成 されたも の と考えられ、世界が物質 (エネルギーを含む

)の

みか らなるのではなく、もうひ とつの構成要 素 として 「情報」があ り、情報的世界は極めて広大だ と考えるウィーナー

(1957)の

考え方を引 き継いでいる点でも吉田の理論 と一致 している。また、およそ、「認識情報」 と「デザイン情報」 は、それぞれ、吉田

(1990)の

「認知情報」 と「指令情報」に対応 し、「充足情報」は 「評価情 報」に対応 してお り、両者の共通点は少なくない。 しか し、吉田と見田では類型区分の基準や視 点が違ってお り、吉田のそれが情報を受 け取つた側の応答の質的相違 (つま り、認知す るか、評 価す るか、それ とも指令す るかの違い

)に

よる区分であるのに対 して、見田のそれは、情報が提 供す る価値に着 目し、その価値の質的相違に基づき区分 したもので、 さしあた りは、それぞれを ギ リシア哲学以来の

3つ

の価値審級である真・善・美に対応 させたもの と見てよい。見田も示唆 しているように、カン トの 「純粋理性」ノ「実践理性」ノ「判断力」、「認知的」ノ「意志的」/「審美 的」の

3つ

に対応 させ ることもできるだろ う。また、見田が情報の持つ価値に着 目す るのは、そ れを人間にとつての何 らかの 「資源」、さらには「消費」の対象 と見なしていることと関係 してお り、これ も見 田の区分の特徴 といえる。また、情報の価値に着 目する見田の価値判断の基準はか な り特異で、資源・環境問題な ど現代社会の矛盾の解決にどれだけ寄与 し得 るかを判断基準 とし ているところが大きい。その意味で、人間環境への負荷を伴わない 「情報」である 「充足情報」 を重要視 した類型区分でもあ り、このこともまた、吉田とは異なる見田の区分の特徴 といえる。 以上のよ うな見田の類型区分に従つて、充足情報概念について取 りま とめると、充足情報 とは、 如何なるものの手段にはな らず、結果的にマテ リアルな資源の消費を極力抑 え、美や歓び、充足 感などが与え られる (開示 され る)「情報」全般 とい うことになる。 さしあた りは、以上のよ うな情報であれば何でも 「充足情報」 と呼んでよい。春の芽吹きも、 一輪の花 も、違めく灯 も、黒 と薄緑がお りなす針広混交林 も「充足情報」を発 している。山々を 巡 り彼方へ と繋がる鉄塔の連鎖 さえも、「充足情報」 とな り得 る。「森羅万象」が 「充足情報」に 満 ちていることになる。また、「知識情報」や 「デザイン情報」とされ るものにも、程度の差はあ れ、充足情報が含まれている。人間は知識 を得て充足 し、色々な技術 。手法・ レシピを得て充足 す る。何の充足感 も得 られない情報 を受け取ろ うとす る人間は、たぶんいない。 このように考え てい くと、「充足情報」の範囲がいかに広いかがわかる。すでに触れた ように、ウィーナー (1957) によると、世界は 「物質・エネルギー

Jの

みか らなるのではな く、それ とともに無限量の 「情報J か らなる。そ して、「情報

Jは

「物質・エネルギーの時間的・空間的、定性的・定量的パタン」(ウ ィーナー、

1957;吉

田、

1990)で

あ り、それ らが遍 く世界に広がっている。そ して、それ らの中 には、我々に「知識」を供与す るものもあれば、「デザイン・事物のア レンジメン ト」を供与す る ものもある。 しか し、これ ら、「手段

Jを

提供す る「情報」の背後には、我々に何の「手段」を提 供するわけで もない無限量の 「充足情報」が控 えている。また、これ ら「充足情報」の中には、 日で見えるかたちに顕在化 した 「充足情報」もあるが、それはほんの僅かで、その多 くは、潜在 的なまま留ま り、出会われ、開示 され るべ く待機 しているもの と考えられ る。 すなわち、本稿及び別稿 (藤本・藤 田、

2013)で

取 り上げた 「能所不二的充足情報」 とは、そ ―-21-―

(11)

の本来の姿 としては、以上のよ うな、「充足情報」の うちの、全 く、もしくは、まだ充分顕在化 さ れていない 「充足情報」に相当す ると見ることができ、このような 「能所不二的充足情報」はま さに無限量のものであるといえる。 通常、「情報」は、端的には「もの」ではないとしても、ものに付帯す る価値や機能 として客体 化 された、対象世界の側のもの と考えられている。この考え方に従 うな らば、「能所不二的充足情 報」は、対象世界にあらか じめあるものではないので、「情報」には相当しない ことになって しま う。 しか し、このよ うな解釈は、物心二元的思考にわざわい された誤謬に しか過ぎず、そのこと は、情報開示がなされ る場である「風景」の開かれ方に 目を向けることで明 らか となる。 まず、「風景」と呼ばれ るものは、本来的には、主観 と客観に先立って開かれる世界 (物心分離 以前的に開かれる現相的世界 。知覚風景的現相 ;廣松、

1988)で

あ り、その意味で、風景の開示 に先立って主客があらか じめアルわけではない (藤本、2003、 2008b)。 風景を知覚・認識す る 主体のみならず、それを利用 し、所有 し、支配 し、愛で 。享受す る主体 もあらか じめなく、また、 利用・所有・支配・享受 される客観的世界 も、あらか じめアルわけではない。このことは、また、 風景が、利用・所有・支配・享受の対象 となる価値や機能をあらか じめ内在化 させているわけで はないことも、当然、意味 している。なお、このことは、一般的には、風景が多分に主観的な側 面を持つ概念であるのに対 して、景観は客観的な対象物 を指す概念 として理解 されているが、本 来的には、景観は風景 と同義であることも意味 している。従つて、い くら客観的な対象物を指す 「景観」なる概念を用いたとしても、そのことによって、客観的な世界が保障されるようになる わけでもなければ、世界が、利用 。所有・ 支配・ 享受の対象 となる価値や機能をあらか じめ内在 化 させ得 るよ うになるわけでもないことも、蛇足なが ら指摘 してお く。 すなわち、以上のことを 「情報」の面か ら捉え直す と、情報の発信源である「物質・ エネルギ ー (そこには、物化 され、主観化 された人間も含む)」 自体が、本来、能所不二的に開かれたもの の二次的物象化によってもた らされたものに過 ぎず、従つて、そんな 「もの」に付帯す るとされ る 「情報」も、「能所不二的充足情報」のみならず、すべての「情報」が、本来、主観か ら切 り離 された対象世界の側のものとは言えない と考えられ る。すなわち、対象側のものと見なすに至 る のは、「物質・エネルギー」の場合 と類似のプロセスにより、あたかも対象物の属性・価値・機能 と錯視す るに至るため (すなわち、物性化の所産

)に

過 ぎず、このことは、対象側のものではな い とい う意味で、それを 「情報」か ら除かなければならないな ら、すべての 「情報

Jが

「情報」 に相当しないことになることを意味 している。すなわち、以上のように、すべての 「情報」が、 本来、対象側 に付帯するものではない以上、「能所不二的充足情報」のみを、対象に内在 したもの ではない とい う理 由で、「情報」一般か ら排除す る理由はどこにもな く、「能所不二的充足情報」 もまた 「情報」 と見な してよい と考えられ る。 また、以下で触れるように、情報的世界の中で、情報の開示の本来的形態を指 し示 しているの は、能所不二的充足情報のみであ り、顕在化 され、対象化 された 「充足情報」は疎外化 された二 次的情報にしか過 ぎないことの意味は大きく、このような情報では充分な充足感は期待できない 可能性が高いことには充分留意する必要がある。例えば、富士山とい う対象物に美的価値が内在 化 しているものと見なす ことで、富士山か ら「顕在化 された充足情報」が発信 され るようになる。

(12)

しか し、美が対象側のものである以上、このような 「顕在化 された充足情報」か ら受け取れ るも のは、「美 しい とされ るもの」の像で しか過 ぎず、受け取った側の充足感は、像の取得 とい う、知 識情報の取得 と大差のない、それほ ど大きな共感の伴わない一方向的な充足感に留まるもの と考 えられ る。 また、充足情報の一種である 「癒 し情報」を例にして考えると、「顕在化 された癒 し情報」は、 精神的に病んだ状態にあるものを 「本来の状態」に戻 させ る機能を持つ とされているが、このよ うな 「癒 し情報

Jに

よつて 「本来の状態」に復帰できた としても、これで 「癒 し効果」が発揮 さ れた と判断できるかには大きな疑間がある。すなわち、このように、己の 「本来的な状態」があ り、それが 「病的状態・非本来的な状態」に陥つた り、それか ら回復 した りすると考える思考パ タンは、主観・客観図式か らの帰結であるに過 ぎず、む しろ、このように、実体的な本来の己を 想定 し、それを「本来の状態」の己 と考えるような心的状態の方が「病的」であ り、その意味で、 「顕在化 された癒 し情報

Jが

もた らす ものは、「癒 し」とは真逆の「病的状態」への逆戻 りである 可能性 もないわけではないことにも充分留意す る必要がある。すなわち、「顕在化 された充足情報」 とされ るものが、実際には、「癒 し」とは真逆の状態への逆戻 りであるか どうかは不間に付す とし ても、いずれにせ よ、その「癒 し」の質はそれほど高いもの とはいえず、本当の「癒 し情報」は、 む しろ、固定的に閉 じ込め られた己 とい う病か ら解放 させて くれる種類の情報を指すべきで、そ の意味で、本稿のアニメの分析から抽出 したよ うな、出会 うことでは じめて己や他者が二次的に 開かれて くるような、主客分離以前 (主客未分

)的

に開かれ る風景情報、すなわち、「能所不二的 充足情報」 こそが、本来の意味での 「充足情報」に相当するのではないか と考えられ る。いずれ にせ よ、このような能所不二的充足情報 を抜きに しては、「充足情報」は語 り得ないものであるこ とだけは明 らか と考えられ る。 なお、能所不二的充足情報は、風景 として開示 され ることか ら、「能所不二的風景情報」と呼び 替えられ るが、例 えば、 さらに、物的情報ではな く、出会いによつてもた らされ る「事的情報」 の一種 と言い換 えてもよいだろ う。また、ドゥルーズの、己と対象世界に先立って開かれる「出 会い」に ともな う観想 (ContemplatiOn)、 すなわち、己があつて、それが外部資源や外部情報を 得 て 、 己 を太 らせ た り、 自己満 足 にひ た る とい つ た類 のエ ゴイ ズ ムで は ない 自己享 楽 (Self‐

ettOyment;ア

ガンベ ン、1996)、 もしくは、そんな 自己享楽をもた らす情報 に相 当す る と考えるのも悪 くない。 しか し、このあた りについては、今後のさらなる分析が必要だろ う。従 って、とりあえずの結論 として述べれば、もし、「質の高い充足情報」とい うものが想定 され るの なら、上述 したよ うな 「能所不二的充足情報」がそれに相 当し、それな くしては、「充足情報」、 さらには 「情報」全般は、本来、語 り得 ないもの と考えてお くことにす る。 「能所不二的充足情報」一 まとめ 以上の考察を図式で取 りまとめると、図

1の

通 りとなる。 世界は、まず、「物質・エネルギー」とその時空的・質的量的分散パタンである「情報」か らな る (ウィーナー、

1957;吉

田、1990)。 また、「情報」は、知識情報、デザイン情報、充足情報の

3つ

に類型 区分できる (見田、1996)。 そ して、 これ ら世界を構成す るものは、常識的には、主 観か ら、もともと独立 した存在 (実在的な存在 もしくはそれに付帯す る価値的・意味的存在・属 ―-23-―

(13)

)と

考えられている。 しか し、これ ら 「情報」は、実際には、能所不二的 (主客不二的、主客 未分的

)に

開かれ る 「風景」が、主観・客観図式的思考に従つて、主観側のもの と客観側のもの に裁断 され、主観か らは独立 した存在 として錯視 されるに至ったものに過ぎず、能所不二的充足 情報のみが、「風景」が主客未分の状態のまま開示 され るとい う、情報の開示の本来の形態を指 し 示 していると考えられ る。その意味で、顕在化 された充足情報は非本来的、「能所不二的充足情報」 が本来的な充足情報 となる。そのため、「能所不二的充足情報」を抜きに しては「情報」の総体は 語 り得ず、また、その意味で、「情報」の資源化を考える場合 も、「能所不二的充足情報」 も含 め て、その資源化を考えてい く必要があることになると考えられ る。 図

1

世界 〈物質・エネルギー と情報)と 風景の関係 (ウィーナー、1957;廣松、1988; 吉田、

1990:見

田、

1996な

どを参考にして作図) これか らの森林景観情報の資源化 と景観整備の進め方 本稿で分析・抽出したような「充足情報」、特に、アニメ「天空の城 ラピュタ」が発信 している よ うな 「能所不二的充足情報」に着 目することで、景観情報は飛躍的に豊かなものに変貌 してい くものと考えられ、それは、もちろん、森林景観情報にも当てはまる。 このような見通 しに従つ て、以下では、森林景観 に分析対象 をシフ トさせて、今後の森林景観情報、特に 「能所不二的充 足情報

Jの

資源化 と、このような情報資源化に向けた景観整備の進め方について考えてい く。な お、ここで、直接、対象 とするのは、里山域の森林景観、 とりわけ、事例対象地である 「静岡大 学上阿多古フィール ド」の森林景観であるが、以下の検討 は、他地域等の森林景観 における情報 資源化や景観整備にも、ある程度まで適用可能 と考えられ る。 まず、物的資源 も含めた森林景観全体の情報資源化や整備の枠組み としては、近年、かな リー 般化 されてきた 「生態系サー ビス」論 (横浜国立大学

21世

COE翻

訳委員会、

2007:藤

岡ほ か、

2010な

)で

充分だろ う。「生態系サー ビス」は、生態系を客観的実在物の集合体 と考え、 それが様々な価値・機能 を持っているとす る考え方を前提にしてお り、その意味で、物象化・物 性化的錯視に基づ く思考 といえる。上述 した通 り、生態系 とい う「風景

(=景

観)」 は、本来、他 か ら切 り離 されて実体的にある客観的対象物ではなく、従つて、それ固有の価値や機能を内在化

物費.

r l ヨ I L

能所不二的に開かれる

風景

(=景

) 能所不二的充足情報 (能所不二的風景情報)

<本

来的

>

主 観 主客分離

(14)

させているわけではないことは論理的に明白で、それは、森林生態系・ 森林景観 にも当然当ては まる。 しか し、このことは何 も、価値や機能を内在化 させた森林景観

(=森

林風景

)が

、如何な る場合にあつても想定不能であることを意味 しているわけではない。想定可能であるばか りか、 常識的にはそのように考えられているのであ り、特に、世界の物象化 。物性化の進行が著 しく、 また、 自然的世界の市場経済への組み込みが進 められてきた近代以降においては、主観・客観図 式に従つて、森林風景を客観的実在物 (も しくはその集合体

)と

みな し、それが様々な価値や機 能を内在化 させていると考えるのが思考の常道 となるに至ってお り、また、それにはそれ相応の 理 由もあると考えられる。また、現に、諸生態系・ 諸景観が市場経済の中に組み込まれ、また、 そのことによ り、大きな負荷を受け、あるいは崩壊 し、あるいはその存続が危ぶまれるに至つて いる以上は、む しろ、積極的に、その価値や機能量を高め、それを計量 して、経済システムの中 に持 ち込 もうとす る方が健全であるとも言え、そ うす ることで、より多 くの予算を環境保全に充 当できるようになるとい う利点もある。すなわち、「生態系サー ビス」論は、基本的には、森林景 観の情報資源化や整備の指針 としても充分有効で、本稿で取 り上げた、「充足情報」や「能所不二 的充足情報」の資源化や景観整備の場合 も、その価値の計量化が困難である (見田、

1996)と

い う問題はあるものの、充分、「生態系サー ビス」の観点か ら進めていけると考 えられ る。 この方向で、考えてい く場合、まず留意すべきことは、「森羅及び万象は一法の所印」(法句経 ; 友松、

1985)で

あ り、その意味で、森林景観 は、伝統的には、能所不二的充足情報の宝庫であ り、 そのことは、今 日においても充分言 えることであると考えられ る。 しか し、もちろん、森林景観 か ら「能所不二的充足情報」を発信 させ るための工夫が皆無では、生態系サー ビス としては通用 しないことも明 らかで、また、充分な工夫なくしては、「漫画・アニメ」に伍 して、豊かな能所不 二的充足情報を発信 してい くことは殆 ど不可能 となると考 えられ る。 残念なが ら、今 日では、漫画やアニメの世界の方がはるかに盛んに能所不二的充足情報を発信 している。本稿では、アニメ 「天空の城 ラピュタ」が、極めて良質な充足情報、能所不二的充足 情報 を発信 させていることを見てきた。「ラピュタ」に限 らず、宮崎のアニメか らは、どの作品か らも良質な能所不二的充足情報を読み取ることができる。宮崎の作品だけではない。アニメの世 界には、能所不二的充足情報を発信 させているものが極めて多い。アニメが多 くの能所不二的充 足情報 を発信 させ得ているのは、アニメの世界では、宙rtual(潜在的・潜勢的)なものの方がreal (実在的

)な

ものよりもずつとrealityが ある、すなわち、本物 (actual)であると考える (例え ば、「アニメ・ まんが的 リア リズム」;大 塚、2003)、 能所不二的思考に直結す る考え方を自明の 前提 としているためで、これでは、実在物の集合体 として しか見 られな くな り、表現 されなくな った「森林景観」が、「能所不二的情報」の発信において遅れをとるに至ったのも無理はないとい える。しか しなが ら、このよ うなアニメも、元を正せば、森林景観のよ うな「森羅万象」の 宙rtual な有 り様 を充分参照 して作 られたもの (つま り、一種の模倣

)で

あ り、その意味で、「森羅万象」 の方が 宙rtualな ものの αセ

halで

あつたことだけは明白である。すなわち、この点に充分留意 して、逆に、アニメに充分学びつつ、森林景観 に見 られ る 「潜在 (潜勢

)的

なものの現実化」(ド ゥルーズ、

1992)を

促す森林整備な どを進 めてい くことで、森林景観 における能所不二的充足情 報の資源化が充分進 めていけるよ うになるもの と考えられ る。 ―-25-―

(15)

このような方向での具体的基盤整備 として、別報 (藤本・藤 田、

2013)で

は、能所不二的思考 を伝 える 「森林体験ルー ト」の設定・整備 について取 り上げた。 このルー トは、事例試験地であ る上阿多古フィール ドに設 けられた、たぶんに山岳修行的な体験ルー トであ り、河畔か ら出発 し、 経巡 つて山頂 に至ることで、「能所不二 (主客未分

)的

J境

地が実体験できるように構成 されてい る (中村、

2012;藤

本、2012b)。 林地・ 岩 といった 「地」的要素、川・沢 といつた 「水」的要 素、樹木な どの生 き物、さらには、「火」、「風」、そ して、「空Jが 、互いに融合 しあつたような 幅晟ual な世界」を演出 してお り、そこに 「ラピュタの木」 も配 されている。 この 「ラピュタの本」は、 「実体的個物」なのではなく、出会 うことによって開かれる「宙乱ualな世界」の総体を映 し出し た ミクロコスモスであ り、それは、まさに、土地や岩、沢 と融合 しつつ、肢体的に総体か ら分岐 し、風 と共に生きつつ、一にして多、多に して一の関係性 を開示 している。そ して、それ 自体が、 このような 「肢体的分節体」の様相 を示 しているものでもあ り (藤本 。藤 田、2013)、 これ らの 延長線上に、出会いにより「能所不二的」関係性が開示 され るもの と考えられ、それが 「能所不 二的充足情報」の発信 となる。すなわち、能所不二的充足情報の資源化に向けた森林景観整備 を 進める場合、対象地によつて様々なバ リエーシ ョンが生 じて くると考えられ るが、基本 とす る指 針・ 方向性はそれほど変わるものではなく、何 らかのかたちでの 「地水火風空

Jの

一体的・融合 的展示 と、構成要素の物的分節化ではあつても、物体 (粒子

)的

分節化ではなく、肢体的分節化 (廣松、

1975;藤

本、

2012a)に

基づ く配置がその基本 となるだろ う。上阿多古フィール ドで試 みてきた 「原始の森」の復元 (藤本、

2009)は

、肢体的分節化を前提 とした動態モデル (藤本、

2012a)を

用いて、上述 したような 「潜在 (潜勢

)的

なものの現実化」(ド ウルーズ、

1992)の

考え方に従い、実体的な「原始林」とは異なる、出会いによつて開かれ る 「宙rtualな 原始林」の 復元を目指そ うとす る試みであ り、その意味で、「能所不二的充足情報」の資源化に繋がる試み と いえ、上阿多古フィール ドだけでなく、他地域における「能所不二的充足情報」の資源化に向け た森林景観整備 にも充分応用可能な試み と考えられる。 充足情報資源は、生態系サー ビスの面か らは、文化的サー ビスの中に位置づけられ るが、「能所 不二的充足情報」の場合 も例外ではないだろう。 しか し、文化的サー ビスにも、既存の形態 とし ても、ハイキング、森林浴、バー ドウォ ッチング、森林探検、精神的癒 し、森林セ ラピー、環境 教育、エコ・ツー リズム、グリーン・ツー リズムなど様々な形態があるが、「能所不二的充足情報」 の場合については、今後期待が持てる文化的サー ビス として、 どのような方向性のものが考えら れるだろ うか。「能所不二的充足情報」が、以上に挙げた全ての形態 と関係 していることは確かだ としても、この情報は、出会 うことによっては じめて開かれるものであるので、あらか じめ出会 われ るものが固定的に定まっている形態や企画は、この情報の伝達には馴染まない。また、本報 のアニメの分析でも示 したように、出会 うためには、旅立つこと (固定的な自己の乗 り超え

)も

必要であることも重要で、その意味で、固定的 自己を前提 としたものも、 この情報の伝達には向 かない と言える。 すなわち、このように考えてい くと、森林探検、環境教育、「エ コ・ッー リズム」当た りが、「能 所不二的充足情報」の伝達に適 した形態 として浮かび上がる。残念なが ら、今 日における文化的 サー ビス とされ るものは、主観・客観図式によつて捉えられたものが殆 どで、それは、森林探検、

(16)

環境教育、エ コ・ ツー リズムにも、もちろん、当てはまる。森林探検は、結局、固定的な己によ る新たな事物の発見に行 きつき、環境教育は、多 くの場合、事物教育 と根拠薄弱な環境道徳 の押 しつけに終始 してお り、エコ・ ツー リズムも大人向けの自然環境情報 と環境道徳の供与に過 ぎな い場合が殆 どなのかもしれない。 しか し、森林探検やエ コ・ ツー リズムには、明確 に 「旅立ち」 概念が前提 されてお り、また、企画次第で、出会われ るものが予定 されていない形態にす ること も充分可能 と思われ る。また、環境教育には、「旅立ち

J概

念は前提 されていないが、これ もや り 方次第であ り、「教育

Jな

ので、出会われるものが予定 されていない内容のものにす るのは、森林 探検やエコ・ ツー リズム以上に容易 と言える。なお、以上の

3者

は互いに関連 しているため、こ れ らを融合 させた形態 も考えられ、また、上述 した既存の形態のものにも、それぞれ重要な視点 が含まれてお り、これ らを取 り入れた形態のものを模索することも考えられるだろ う。特に、森 林セラピーや精神的癒 しは、その 「癒 し」の捉 え方を、主観 。客観図式を超 えるものに変えさえ すれば、「能所不二的充足情報」の授受 と同一のもの となるため、潜在的に極めて重要な形態 とい え、これ らの取 り込みも重要 となると考えられる。 「能所不二的充足情報」の供与を目的 とす る 「文化的サー ビス」の実行形態が定まったとする と、次には、それに基づ く企画立案、具体的企画を遂行す るために必要 となる景観整備などが問 題 となって くる。これ らの問題 は極 めて多岐に渡 り、また、難解な課題 も多々残 されているため、 ここで詳述す ることは断念 して、以下で、以上の

3つ

の形態の文化的サー ビスに共通 して重要 と なると思われ る幾つかの問題について書き留めてお くことで次善 としたい。 まず、これ らの形態のサー ビスは、いずれの場合 も、「能所不二的充足情報」の発信 を目的 とす るものなので、その実行に先立って、情報発信す る側が、その前提 となる「能所不二的思考」を 充分深化 。明確化 させ、そのエ ッセンスを情報発信手段 として取 り込んでお くことが不可欠 とな る。別稿 (藤本・藤 田、

2013)で

も触れたように、「能所不二的思考」の深化には、伝統的思考、 環境思想、哲学、科学の

4つ

の方向が考えられ (藤本、2010)、 以上の形態のサー ビスを有効に 提供 しよ うとす る場合は、いずれの場合でも、

4つ

の方向のすべての深化が前提 となる。 ここで は、別稿では、詳 しく取 り上げなかった環境思想 に絞つて多少論究 してお くことにす る。 すなわち、環境思想 についても、その総体の読み込みが必要で、また、そこか ら環境思想のエ ッセンスを取 り出 し、それを情報発信手段 に取 り込む ことになるが、その場合は、ネス (1997) のディープ・エ コロジー、特にそのエ コソフィが充分参照に値す るものを持つていると考えられ る。すなわち、ネスは、「エコロジカルな自己」を考え、「ある人物のエ コロジカルな 自己とは、 その人が同一化 したものである」(ネス、

1997)と

定義 し、また、 自己を自分の身体やその内部 に限 らず、身体を超 えて拡大 してい く自己、エ コロジカルな活動の対象 となる「世界の総体」に まで拡大 してい く大文字の自己 (Selflを 考える (ドレグソン、2001)。 確かに、以上のような 思考の流れ には、 自己イ コール世界の総体 と考えるような 「梵我一致」的エ ゴイズムに繋がる危 険 も指摘できないわけではない。また、神秘主義的思考だ とい う批半」もあ り得 る。 しか し、以上 のよ うなネスの考え方が 「能所不二」的思考に繋がつていることだけは明 らかである。また、能 所不二的充足情報 を受け取ることが、「エ コロジカルな価値観」(廣松、

1994)や

「エ コロジカル な世界観」、すなわち、「共生的世界観」の観取に繋がることを端的に指 し示す思索であ り、さら 一-27-―

(17)

には実践的な環境活動の主体を育む考え方でもあ り、環境教育のみならず、森林探検やエ コ・ ツ ー リズムの場合でも、能所不二的充足情報のひ とつの発信手段 と充分な り得 る思索 といえる。 以上のように、「能所不二的充足情報」は、単に、人間を、環境に負荷 を与えない、非マテ リア ルな資源の消費に向かわせ る「機能 。価値」を開くのみな らず、もつ と積極的な意味を持つた「価 値」を提供す るものでもあるといえる。そんな積極的な 「価値」 としては、以上に挙げた「共生 的世界観」の供与や 「環境活動主体、環境人」の育成以外にも、伝統的思考に近いかたちの「悟 り」や、子供たちへの 「固定的 自我」や 「個性」の強要か らの解放 (たとえば、米村、

2009)な

どもあ り、これ らを「能所不二的充足情報」の関連情報 として、きつち り取 り込んでお くことも、 情報を提供す る側 にとつて不可欠 となるだろ う。 しか しなが ら、一方で、これ らの積極的価値の みを重視す るのでは、「能所不二的充足情報Jの無限の広が りを結局取 り逃が して しま う恐れが生 じることにも充分留意 してかかる必要もある。「能所不二的充足情報」は潜在的なものの総体であ り、「充足情報」の背後に広がる広大な 「潜在性」であるとともに、充足情報 も含めた情報全体や マテ リアルな資源の中にも遍在す る 「潜在的情報」であ り、その意味で、情報や情報資源全般、 さらにはマテ リアルな資源全般 と並置 され るかたちで提供 されてこそ、その真価が発揮 され るよ うになるものと考えられ る。すなわち、このことは、「能所不二的充足情報」の元 となっている「充 足情報

J(見

田、

1996)が

、環境倫理的要請から概念化 されたものではなく、マテ リアルな資源 の限 りない消費の奥にあるもの と同根の、「人間の限 りなき欲望」の延長線上に見出されたもので あることか らも明らか といえる。 まとめにかえて 以上の考察の延長線上に、「能所不二的充足情報」の発信 を目的 とした、どのような、より具体 的な 「エ コ」企画が抽出可能 となるだろ うか。最後に、現時点で考えられ る、このよ うな具体的 企画の一例を挙げてみることで、ま とめにかえたい。 この企画例 も、直接的には、静大上阿多古 フィール ドでの実施 を念頭 においたものであるが、もちろん、他のフィール ドでも充分応用可能 な企画 となると考えられ る。 企画名は、一応、「『 大学の森』探検隊一森で何に出会 えるか?」 としてお く。テーマ ソングは もちろん 「君をのせて」となる。生態系サー ビスの形態 としては、「森林探検」や 「新 しいタイプ のエ コ・ ツー リズム」であ り、また、結果的には 「新 しいタイプの環境教育」的なものを指向 し てお り、実施に際 しては、対象 となる年齢層などにより、プログラムの中身の工夫などが必要だ が、基本的には、小学生低学年か ら高齢者層まで、幅広い層に対応可能な企画 と考 えてお く。 まず、「探検隊」は、探検す る側 と探検 される対象の不二性を表規 し、同様に、「森で何に出会 えるか?」 は、もちろん、出会われ るものが、単なる何の気配 もない 「物の集合体」なのではな く、究極的には、我々と物の集合体に先立って開かれ る「出会いの出会い (つまるところは、能 所不二的風景情報 。充足情報)」 であることを予告 している (藤本、2008b)。 そ して、テーマ ソ ング「君をのせて」は、そんな 「出会いの出会い」を促 し、冒険の旅への出発に際 し、皆で歌わ れ ることになるだろ う。なお、ここで、ついでに、探検につきものの 「弁当」についても心配 し てお くと、当然、「ラピュタバ ン (一切れのパ ンの上に目玉焼き)」 で充分だ とい うことになる。 これは、森林探検隊であ り、冒険の旅への出発だ。冒険の旅は身軽 に限る。重い食料を持つて、

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