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香 川 大 学 経 済 論 叢 第 67巻 第 3・4号 1995年2月 99-115

市場社会主義論争

これまで市場社会主義論についていくつかの研究を積み重ねてきた。 しかしながら,欧 課 題 設 定 私は, 市場社会主義論は,日本の学会では旧社会主義研究者でももはや少数派であり, ましては原論研究者ではほとんど見あたらない状況である。 米のラディカノレ経済学(あるいはポリテイカ/レ・エコノミー) では,賛否を含 とは めて活発に議論されている。非常に好対照な状況にあるといってもよい。 いえ,私のアプローチは欧米のアプローチとは異なっている。私は,マルクス マルクスの『資本論』 自身の共産主義思想、からは遠く離れてしまっているが, の精神には沿った形で(私は, 味であると考えている),市場社会主義論を展開してきた。その意味では,欧米 これこそがマルクスの思想、を継承するという意 のラディカノレ経済学にはない独自性があると自負している。 そうした私のアプローチに立脚して,最近の欧米の市場社会主義論 について検討してみようとするものである。現在の市場社会主義論の論争点は, 本稿IIIで紹介するように,もはや市場と社会主義の結合といった論点にあるの ではない。なぜなら,主士会主義に市場を導入することはすでに自明の前提とさ 本稿は, れているからである。問題は,市場を導入する以上効率性を実現することは明 それが社会主義の社会主義たる所以である平等性とか民主制と か連帯とかいった伝統的な社会主義理念といかに両立させることができるかで らかであるが, その両立を保証するために,いかなる所有形態を考えたらよいのかとい そこでは「所有とは何か」 あり, という問題が繰り返 う点、にあるのである。それ故, し取り上げられることとなる。本稿では,かかる観点からワイスコフとレーマー そうした検討のなかから,私自身の立場を再確 の市場社会主義論を取り上げ,

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100 香川大学経済論叢 762 認することとなるであろう。 II 私の市場社会主義論 私のアプローチは,上述のように『資本論』レベルに立ち返って市場社会主 義論を再構成しようとするものであった。というのは,私自身は,今日なお『資 本論』が単に資本主義分析の書として意義をもつだけでなく,社会主義を考え る際にも欠かせない論点を提供していると考えるからである。私のいままでの 論考を簡単にまとめると次のようになる。 まず,体制選択の問題として,いうまでもなく「資本主義が最終的に勝利し た」という主張には賛成していない。のみならず,資本主義に対するオーノレタ ナティブとしての社会主義(といつでもあくまでも市場社会主義であるが)は いまなお検討に値する議論であると理解している。こうした問題意識(価値観) が研究の出発点であると同時に,一連の研究の基礎となっているものである。 拙 著 (

5

)では,第一に資本論』の商品・貨幣論のなかに,社会主義での 商品・貨幣関係の利用という問題を取り入れて資本論』をめぐる論争を再検 討した。そして,社会主義への市場の導入(=市場社会主義)という議論は, マルクス自身の未来社会像とは一致しないことは明らかであるが,科学の書と しての『資本論』と矛盾するものではないことを明らかにした。第二に,商品・ 貨幣関係の利用(市場の導入)は,同時に市場で機能する主体(資本)の導入 をも必然化する。即ち,市場で決まる価格をみて,より安く買いたい・より高 く売りたいと考える主体(資本)を登場させ,更に,そのためには生産活動を 担う主体(資本)も登場させなければならない。そうして始めて市場は完全に 機能することとなる。つまり,主体(資本)が機能する場が市場(商品・貨幣) であり,場としての市場(商品・貨幣)と主体(資本)との間には相互前提関 係が成立するのである。かかる問題は資本論』レベルでは「貨幣の資本への 転化」論(または「資本形式」論)で扱われるべき問題である。しかし,通常 考えられているように,もし「貨幣の資本への転イ七」が産業資本を導く議論で あるとすると,社会主義に市場の導入それ故資本の導入を主張するわれわれの

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763 市 場 社 会 主 義 論 争 101 主張は,社会主義の資本主義への転化を主張する議論となってしまうであろう。 したがって,この問題は『資本論』の「貨幣の資本への転イじ」論の根本的な再 検討を必要とすることとなる。以上が拙著(5

J

で解明した点である。拙著(5

J

の出版は1987年であるが,こうした論点を最初に提起したのが1970年代末で あったことに注意していただければ幸いで、ある。 拙 稿 (6

J

は,拙著(5

J

を前提にして,私自身の市場社会主義論を明確に 提示したものである。上述のように,市場社会主義を展開すればするほど,資 本主義との違いは一体何かが間われてくることとなってくるので,拙稿(6

J

では,その点に焦点、を当てる形になっている。まず,社会主義への市場の導入 は(資本の導入から更に進んで)労働力市場の導入を要請することになるが, 社会主義における労働力市場の導入は資本論』レベノレでは労働力の商品化と いう問題の再検討を要請することとなる。宇野理論では,資本主義の究極的な 根拠が労働力の商品化であるといわれ,労働力商品化の否定が主士会主義成立の メノレクマールとされることが多かった。資本主義の否定=社会主義成立のメル クマールを,労働力の商品化の否定にだけ求めることには必ずしも賛成ではな い が , 拙 稿 (6

J

では,労働力が商品化するための「二重の意味での自由」と いう概念を再検討することによって,そもそも労働力市場を社会主義に導入す ることが必ずしも労働力の商品化に直結するわけではないということを明らか にした。問題は,労働者が労働力市場で配分が決定されるとしても,生産過程 でいかに労働し,いかにその成果を配分するかであり,その場で,労働者が自 らの運命を自ら決めることができるかどうかにかかっている。いうまでもなく, 労働者が生産や分配に関わる決定に多かれ少なかれ参加する(市場社会主義で は市場で決定されることが多くの部分を占めるから,労働者自らが発言するこ とには自ずから制限があることに注意されたい)システムこそが社会主義であ るから,もしそうしたことが許容されるシステムが実現しているとすれば,労 働力の商品化は実現していない(成立するとしても不十分なものに留まる)と いうことになる。ここで重要なことは,労働力の商品化で出てくる「生産手段 からの自由=生産手段を所有していない」という場合の所有とは,法律的な形

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102 香川大学経済論議 764 態のことではなく,生産過程や分配過程への関わり方のことを意味していると いうことである。逆にいえば,生産手段を私的所有から国家的所有に変更した だげでは,いわゆる社会的所有が実現するわけではない。もちろん,私的所有 形態から国家的所有形態への移行が何も意味を持たないものではないことは明 らかであるが,それだけでは社会主義を規定する社会的所有を実現するもので はない。社会主義の主人公たる労働者自身が,生産に関する決定や分配に対す る決定にいかに主体的に関わるかこそが,社会的所有の内容を与えるものであ る。労働者が主体的に決定することは,労働の評価と労働の支出に分かれる。 労働の評価は分配過程の問題である。そこには経営者の評価や個々の労働者の 評価問題もあるが,市場が前提になる以上,中心部分は,付加価値を消費と投 資(現在の支出と将来の支出)の聞にいかに分割するかという選択の問題にな る。拙稿

C6

]

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7

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頁参照。他方,労働の支出は生産過程の問題である。 これは「労働の支出の量的側面J 何時間労働するか(労働と余暇の選択)の問 題と「労働の支出の質的側面J いかに労働するか(労働者相互の連帯関係)の 問題に分かれ,いずれも労働者の主体的な決定がどこまで実現するかが問われ ることとなる。そして,こうした関係の総体が所有そのものなのである。拙稿 C 6 )のもう一つの論点は,社会主義(市場社会主義)と資本主義を分けるも のが何かという点について積極的に究明することであった。拙稿 C6 )で、は, 労働力市場を社会主義に導入しでもそれだけで労働力が商品化するわけではな いと捉えているので,労働力商品化が成立しているかどうか(われわれの理解 では,誰が生産・分配に関する決定権をもっているかが労働力商品化が成立す るかどうかの鍵となる)も体制を分かつ一つのポイントとなるが,それだけで は不十分であり,体制を分かつもう一つのポイントとして,搾取が成立するか どうかが問われねばならない(もちろんそれには労働力の商品化も当然関連す るが)と提起した。但し,そこでは『資本論』の搾取概念をそのまま前提とし たものであった。 拙稿 C8 )では,資本主義と社会主義を分けるものとしての搾取について, 再検討した。まず,資本主義的搾取とは何かを検討し,それを踏まえて,社会

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765 市 場 社 会 主 義 論 争 -103 主義とは資本主義的搾取を否定した社会であるととりあえず規定した。しかし, 資本主義的搾取が否定されたとしても,人聞が搾り取られるという意味での搾 取は完全に止揚できることになるのであろうか。市場社会主義社会も社会主義 である以上,資本主義的な意味での搾取は明確に否定されることとなる。しか し,もし市場社会主義の下で公的企業であろうと労働者自主管理型の企業であ ろうと,それが価値法則の激流のなかに投げ込まれるとすれば,価値増殖のた めの価値増殖が強制され,経営者も労働者も両方とも少ない分配に甘んじて, 競争に勝ち抜こうとすることも成立することとなるO 経営者も「やめればただ の人となる」と言われる日本資本主義の現状をみる時,こうした想定は決して 非現実的なものではない。拙稿作〕では, (ちょうど,遺伝子がわれわれの体 を乗り物として利用しながら,悠久の時聞を旅するように)資本が無限の自己 増殖を続けるために,人間を利用している=人間を搾り取っているということ こ そ が 根 源 的 な 意 味 で の 搾 取 で は な い か と 考 え た 。 こ こ で も 資 本 論 』 の 搾 取 概念からは靖離することとなっているが,搾取概念を物象化論的な立場から再 構成した形になっている。もちろん r社会主義とは資本主義的な搾取(資本・ 賃労働関係)を否定したものである」という点を軽視するものではないが,よ り根源的に搾取を捉え直すことには今日的にみて大きな意義があるのではない か と 考 え る も の で あ る 。 こ う し て , 拙 稿 (8 )では,資本主義と社会主義を分 かつものは,第一に搾取が否定されているかどうか,第二に誰が生産に関する (1) 根源的な搾取という表現が正しいかどうか問題があるかもしれない。拙稿 C8 )では, まずレーマーの「所有の不平等に基づく搾取」を批判し,論理的にはレーマーが設定する 搾取関係は存在しうるが,資本主義的な搾取とはあくまでも「労働力以外売るものをもた ない」労働者階級が存在するという条件の下で設定されるべきであり,それがマルクスが 設定した搾取であるとした。ところが,最終的には,私自身も,資本主義的な搾取関係が 成立しないという条件の下で「資本の論理に人聞が搾り取られるという意味での搾取」を 提起している。確かに成立はするが,それは(資本主義的条件とはいえない)特定の条件 の下で成立するという窓味では,レーマーの搾取概念と類似したものともいえる。した がって,私の搾取概念を根源的な搾取というためには,マルクス的な資本主義的搾取をも (より根源的なところで)包摂したものでなければならない。これは広くいえば,現代の 日本資本主義の変質をみて,もはや資本主義でないものに変化したと捉えるか,むしろ本 質的にはより純粋な資本主義に変化したと捉えるかという問題と関連してくる。私自身 は後者の立場に立っている。

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704 香川大学経済論叢 766 決定権を握るか(労働力の商品化が否定されているかどうか)の二点にあると 結論づけている。 このように,私が行ってきたことは,市場社会主義を念頭に

i

置 き な が ら 資 本論』を読み直し資本論』の精神にしたがって f資本論』を再編することで あったO 「商品・貨幣」論を社会主義での市場の利用という観点から読み直すこ と I貨幣の資本への転イ七」論を市場で機能する主体(資本)を明らかにする「資 本形式」論として読み直すこと,労働者がその職業選択を労働力市場で自由な 判断の下で決定するとしても,それがそのまま労働力の商品化ではないとして, 労働力の商品化論を読み直すこと,搾取概念を「無限に価値増殖するという資 本の論理に(労働者のみならず経営者も含めて)人間すべてが翻弄され,資本 の価値増殖欲に適合的に行動することなってしまうこと」に読み直すこと,等々 はすべて『資本論』を再編することを必然化し,その再編のなかから始めて, 資本主義のオールタナティブとしての市場社会主義の内容(その社会主義的側 面とは何か)が明らかにされるというものであった。したが、って,それは欧米 の市場社会主義とは全く異質の論理構成となっており,この違いを前提にして, 欧米の市場社会主義論を検討することには少なからぬ意義があることであろ フ。 III 欧米の市場担会主義論争の現段階 ここでは,ワイスコフやレーマーの意見の検討に入る前に,最近の欧米にお ける市場社会主義論についてまとめをしておこう。ここでは,パーダン・レー マー[1)にしたがって,市場紅会主義論争を整理すれば(それは主としてハ イエクの立場を踏襲したものとなっている),次のようになる。 第一段階は,社会主義者が価格が社会主義の経済計算で使用されねばならな いことを認めた段階である。即ち,社会主義者たちも,エネノレギーとか体化さ れた労働とかいった自然な単位で経済計算をするわけにはいかないことを承認 したというわけである。第二段階は,ワ/レラスの一般均衡理論を使い,複雑な 同時方程式体系を解くことによって,均衡価格を計算することができると主張

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767 市 場 社 会 主 義 論 争 105 するものである。したがって,強力なコンピュータの改良を待つだけでよいと いう考えが第二段階を特徴づけている。これに対して,第三段階は,社会主義 者たちが,ある種の市場が社会主義的均衡に到達するためには必要不可欠であ ることを認めた段階である。その典型がランゲの立場であり,ランゲは,消費 財の価格(そして労働力の価格)は市場によって決まるとし,生産財の価格だ けが中央計画当局と企業の聞の「模索過程J(シミュレーション過程)を通して 決定されるというものである。 以上の論争が,ランゲやハイエクを中心とした机上のものであったとすれば, 第四段階は,ソ連・東欧の現実の改革の時期に対応したものであり,コルナイ・ プルス・ノーブ等がその代表的な論客ということになる。ソ連・東欧の社会主 義が計画経済と国家的所有と共産党独裁の三位一体として定式化されるとすれ ば,かれらの市場社会主義論は,-計画と市場の結合」や「所有形態の多様化」 を内容とするものであった。しかしながら,共産党独裁という制約条件がそう した改革の内容を空洞化し,結局,改革の挫折を導くものとなっていった。 そして最近の論争が,市場社会主義論の第五段階に相当する。ここでは,ソ 連・東欧の社会主義社会の崩壊が前提となっており,第三段階までの机上の議 論に戻る形になっている。問題意識としては,資本主義へのオールタナティブ としての市場社会主義が存立しうるかどうかである。そこでは,第一に,第四 段階で言われた「市場と計画の結合」ではなしすべての市場が社会主義理念 と矛盾しない限りで導入されることとなる。第二に,国家的所有は否定される が,だからといって私的所有が全面的に是認されるわけではない。企業は国家 から相対的に独立した決定権限が与えられるが,社会主義的に理念に沿うよう に所有形態に規制が加えられることとなる。「もし狭い意味での公的所有がいま や必要条件として落ちるとすると,第五世代モデルはいかなる光によって,社 会主義モデルと呼ばれるに値するのか。基本的な点は,企業はこれらのモデル では私的所有として保持されるのではないということである。非固有化は私有 化を意味するのではない。かなりの異なった種類の所有権があり,それらは企 業経営者に利潤極大化一一一少なくとも資本主義大企業と同様に効率的に一一ーを

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106ー 香川大学経済論叢 768 誘引するが,利潤が資本主義で特徴的なようにきわめて不平等に市民に分配さ れることは妨げるであろうJ(p..7-8)。もし分配の不平等性を是正するのが社会 主義モデルであるというなら,社会民主主義的な社会主義モデlレをそれを実践 してきたものといってもよい。したがって,市場社会主義モデノレの特徴は,ま さに分配の不平等性を所有の問題と関わらせるところにあるといわなければな らない。 パー夕、ン・レーマー[1)の市場社会主義論争の整理には,これ以外のいく つかの論点が紹介されている。それはまた別稿で検討することとして,本稿で は,市場社会主義と所有の問題に限定して,以下ワイスコフとレーマーの見解 を検討することとしよう。

I

V

ワイスコフの市場社会主義論 まず,ワイスコフ

C3

)は,社会主義の目標を,均等性・民主制・連帯・効 率性の4つの指標にまとめた上で, 1989年がもっ歴史的な意味を,ソ連・東欧 の共産党指導型の社会主義社会が最終的に崩壊したものと位置づけ,その崩壊 を受けてなお社会主義を主張する学派として,一つは,自由・民主的な社会主 義があり,もう一つは,共産主義的な社会主義があるとする。共産党指導の独 裁的な政治・経済体制のあり方が旧体制崩壊の原因であるとすれば,新しい社 会主義はいずれも民主制の確立が前提となっている。このうち,前者の学派で は,-市民の権利や自由」や「民主的な選挙を含む政治体制」を重視するため, 自由を実現した民主制がその絶対的な前提条件であり,均等性とか連帯とかは (社会主義の目標であるから否定することは決してないが)あくまでその前提 条件の上に築かれねばならないということになる。そして,-自由の確立」は「市 場」を通して実現される以外にないとすれば,必然的に「市場社会主義」がそ のモデルケースとなる。これに対して,後者の学派は,連帯に基づいた民主制 がその理念となり,前者より均等性が重視される。逆にいえば,自由は絶対的 な条件とはならず,それ故,市場による調整は否定される。そして,連帯は共 同体構成員の「参加」を通して実現される以上,必然的に「参加型社会主義」

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769 市 場 社 会 主 義 論 争 7' AU 7 A がそのモデノレケースとなる。 参加型社会主義には,ユーゴスラィビアの経験からいっても,いくつかの間 題点が指摘される。ワイスコフは,こうした疑問に対して,現代社会で急速に 発展しつつある「↑青報通信革命Jr情報ハイウェイ構想」等を念頭に置きながら, 新しい形態による解決方法も提起している。但し,ワイスコフ自体は最終的に は参加型社会主義より市場社会主義を選択しているので,ここでは取り上げな いこととする。 他方,市場社会主義にもいくつかの間題点が指摘されている。問題点は,以 下の通りである。

1

市場システムは,体制的に,一般的公的利益に奉仕しようとする努力を 台無しにすることはないだろうか。

2

市場システムは,幸運に対して不公平に報酬を与えることはないのか。 3 市場システムは,均等性とか民主制とかいった社会主義的目標とは矛盾 することを導くことはないだろうか。 4 市場は,連帯や共同体を掘り崩すことはないだろうか。 5 市場社会主義は,社会主義的目標を達成するのに,資本主義の担会民主 主義的な変種よりうまくいくのだろうか。 これに対する答えとして 1~4 までの疑問点については,いかなるシステ ムでも多かれ少なかれ発生するものであることを押さえた上で,市場社会主義 では資本主義よりマイナス面が少ない形で処理できるというのがワイスコフの 主張である。問題は5の論点である。ワイスコフは,市場社会主義が洗練して くると,社会民主主義との差が小さくなることを認めながらも,最終的には「市 場社会主義は,市場が機能する前に市場システムに介入するが,他方,社会民 主主義は, (主として)市場が機能した後に介入する」印刷11-12)とし,そこに 根本的な違いを設定することとなる。そして r市場が機能する前に市場システ (2 ) といっても,参加型社会主義を全く否定しているわけではない。ワイスコフは市場社会 主義から参加型社会主義への移行という議論を提起し,人間の窓識の変革(“homo

ew四omIGu.s"から“homo50αalis"へ)が参加型社会主義には不可欠であり,それは可能

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~l08 香川大学経済論叢 770 ムに介入する」際の鍵となるのが,所有権のあり方ということになJる。 問題となる所有権について,ワイスコフは,所有概念が種々の権利を含んだ 複雑な概念であるとした上で,そこに工つの権利を区別し,取り出すことが有 用であるとする。一つは,企業の支配権であり(いかに企業を機能させるか, 誰をいかなる条件で雇うか,いかなる局面で拡大・縮小・売却・清算をするか 等々),もう一つは,企業に発生した剰余(固定した債務への支払いを除いた純 所得)の分配権である。この二つの権利のあり方から, (組み合わせとしては

4

つがありうるが,事実上)二つの組み合わせ,即ち,公的所有形態(国家によっ て任命された経営者によって支配され,剰余は,市民共同体を代表する国家に 分配される)と労働者所有形態(労働者組織によって任命された経営者によっ て支配され,剰余はその企業の労働者に分配される)の二形態である。かくし て,市場社会主義には,二つのタイプが存在することとなる。 ワイスコア C

3

)は,結論部分で,二つの市場社会主義モデルを比較検討す る。そこでは,たとえば労働効率性や民主制や連帯といった観点、からは,労働 者所有形態が有利で、あるが,資本効率性とか平等性とかいった観点からは,公 的所有形態が有利になるとされている。したがって,一義的にどちらがよいと は断定できず,そこから,大企業や相対的に広い外部性をもっ企業は,公的所 有形態がよく,小企業や外部性が少ない企業は,労働者所有形態がよい,とい うことになっている (p.20)。 以上の説明から明らかなIように,ワイスコフの市場社会主義はわれわれの市 場社会主義と基本的には同ーのものであるが,われわれの市場社会主義は資 本論』レベノレに戻して市場社会主義における所有の意味を展開しているので, それがワイスコフとわれわれの違いとなる。即ち,ワイスコフC

3

J

と拙稿C

6

J

の違いは,一つは,拙稿では,市場社会主義を二つのタイプに分けることをし ていないことである。公的所有形態における支配権のあり方は,労働者自身が 生産過程の主人公になるという論理からは遠いと言わざるを得ず,それ故『資 本論』レベノレから提起するのは困難である。ワイスコフのように,大企業や広 い外部性をもつものは公的企業形態が望ましいと考えるかどうかは別として,

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771 市 場 社 会 主 義 論 争 109 どこかで検討されるべき問題である。もう一つの違いは,拙稿[

6

)

では,労 働者自主管理型企業を対象にしながら,経営者の役割を明示的に導入していな い点である。ワイスコフがいう「企業の支配権」は,拙稿(6) では労働者の 立場からのみ捉えるため労働の支出の問題に限定されているし,ワイスコアが いう「剰余の分配権」は,拙稿(6 )では労働者の立場からのみ捉えるからた め労働の評価の問題に限定されている。他方,ワイスコアでは取り上げられず に,われわれのなか?のみ取り上げられているのは,拙稿 C8 )で搾取概念を 根源的なところから捉え直していることである。これは資本論』から離れた ところで議論を展開している(物象化論が受け入れられそうにない)欧米のラ デイカル経済学には存在しない議論であろう。しかし,それだけではないかも しれない。おそらしわれわれの場合は日本資本主義の現状を射程に入れざる をえないところに原因があるのではないだろうか。 V レーマーの市場社会主義論 レーマー C2 )では,まず, principal-agentの問題を提起する。即ち,旧社 会主義であれば,経済主体として経営者・労働者・計画者・公衆が存在し,た とえば経営者 (principal,以下ではpと略記する)はインセンティブを与えて 労働者 (agent,以下ではaと略記する)が働くように行動する。計画者(P)と経 営者(a)との間,市民・公衆(P)と計画者(a)の聞にも同じような関係が成立する。 労働者と公衆がどこかで重なるとすれば,この社会は相互に主人公であると同 時に代理人であるという関係が成立することになる。ただ,そうしたprincipal -agent問題がうまく解決できなかったため,旧社会主義は崩壊することとなっ た。これに対して資本主義では,計画者のところに株主が入る形で,同じよう なprincipal-agent問題が成立し,旧社会主義とは異なり,相互関係がうまく機 能してきたため,効率性を実現し,体制の維持を実現してきたというわけであ る。 さて,問題は市場社会主義についてである。市場社会主義が市場を導入する 限り,旧社会主義の図式のなかの計画者はもはや登場せず,当然株主が登場す

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-110 香川大学経済論叢 772 ることとなる。しかし,そうすると資本主義の場合の構図と変わらないことと なるから,株主(P)と経営者(a)の関係がいかにあるべきかが問われることとなる。 いうまでもなく,企業経営の効率性は企業収益に反映し,企業収益は株式価格 に反映するから,株主→株式市場が企業経営を監視する役割を担うこととなる。 ところが,株式市場は同時に株式所有の格差をもたらし,資産や所得の不平等 を生む要因となり,社会主義の目標たる所得分配の平等性と(後に述べるレー マー自身の社会主義の定義と)矛盾する可能性を生むこととなる。したがって, 市場社会主義を提起したいレーマーにとっては, (社会主義のように)株式所有 の格差に基づく資産や所得の不平等を生むことなしなおかつ(資本主義のよ うに)企業経営が効率的に行われるような監視メカニズムを構築できないかと いうことが焦点となる。 レ ー マ ー (

2

)の提案はクーポン経済である。いま,大企業が

A

B

C

D

,一一と存在するとし,株式を所有するファンドがイ,ロ,ノ¥,一ーと存在 するとする。そして,すべての国民は,ファンドへの権利(ファンドが企業か ら受け取る収入を分配してもらう権利)をクーポン券という形で均等にもっと する。モデルをわかりやすく説明するために単純化するとすれば,まず,大企 業の株式はすべてファンドに所有されるとしよう。そして,ファンドは株式所 有のポートフォリオを(たとえばA企業を売り B企業を買うというように)変 更することができる。したがって,企業経営が効率的でなく,企業収益の悪化 が予想されるなら,ファンドはその企業の株を売却するから,当然株式価格が 低下し,資本主義における株式市場と同様の監視機能を果たすこととなる。他 方,国民は企業の株式は持たないが,クーポン券をもっており,このクーポン 券を使ってどのファンドに自らの権利を多く所有するかを決めることができる とする。つまり,国民は各フアンド間でポートフォリオを変更することができ る。この結果,大企業の株式所有を通して大企業を監視するファンドは,国民 のクーポン券のポートフォリオの変更を通して監視されることとなる。社会主 (3 ) ここでレーマーは大企業と限定している。さまざまな革新は小規模企業によって引き 起こされるという信念に基づいてであろうが,小企業については対象から外している。

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773 市 場 社 会 主 義 論 争 -111-義である以上,その主人公は平等な市民でなければならないが,この図式でも, 企業ープアンドを最終的に支配しているのは市民であることが貫かれている。 ただ,企業 ファンド 市民という連鎖がどこまで有効にチェック機能を果た すかという問題があるが,レーマーは,このチェック機能を補強するものとし て銀行の役割を追加している。いま企業はファイナンスをすべて銀行に依存し ているとする。その時,もし株式価格の低下があったとすればそれだけでも企 業経営者への監視機能が作用することになるが,この上に,銀行ローンの利用 可能性という問題が加わることにより,より強く作用することとなる。レーマー は,日本の「系列」融資関係を取り出して,株主が企業の決定にほとんど発言 権をもっていない下で,銀行を核とする「系列」が有効に機能するだろうとし ている。企業の行動には短期的な利益の追求だけでなく,長期的な利益の追求 も必要であり,企業内部の事情がよく把握できる銀行によるチェック機能には そのような期待も込めているのかもしれない。 しかし,これだけの提案なら,株式所有の大衆化といった現代資本主義の状 況とどこが違うのか,程度の差ではないのかという疑問を惹起することとなる。 そこで,レーマーの提案の独自性は,国民がファンドに対しでもつ権利(クー ポン券)を売って現金化することはできないとしていることである。したがっ て,特定の個人がファンドのポートフォリオをうまく選択することによって, 多くの所得を得ることはあるとしても,クーポン券の売買がないのであるから, 特定の個人にクーポン券が集中するということは発生しないこととなる。これ によって,資産や所得の不平等が一定以上広がることを歯止めすることとなる。 市場社会主義の社会主義たる所以である。 レーマー C2

J

の提案を所有論からみてみると次のようになる。レーマーは 論文の冒頭部分で,社会主義と所有の関係を取り上げ I社会主義を,単に公的 (4 ) 拙稿(7)は,旧ソ速や旧東欧社会主義国で進行している「社会主義から資本主義への 移行過程」を分析したものであるが,そこで,クーポン経済は結局クーポン券の売買を適 して,笛の集中をもたらし,それは資本家階級の形成の一翼を担うことになるだろうと推 測した。そして,それは事実進行中のものであった。レーマーもその点を言及しており, それとの決定的な差は,クーポン券の売買を否定していることであるとしている。

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-112 香川大学経済論叢 774 所有があるシステムと定義するのではなく,集計した利潤が多かれ少なかれ 人々に均等に分配される制度的保証があるシステムであると定義するJ (p. 89) としている。先に説明してきたクーポン経済の内容から, この定義を読むと, レーマーの所有論についての主張が理解できることとなる。つまり,企業には 株式会社制度が全面的に展開されているし, その株式をファンドが所有すると いう場合, それはあくまでも私的所有形態である。 この場合の私的所有という 意味は,所有者は自らの利害にしたがって自由に処分(売買)することができ るという意味である。それ故, それは一切の柾会的配慮は必要ないという意味 である。ファンドの権利を市民がクーポン券で所有するという場合も,そのクー ポン券を自由に処分できるという意味では,私的所有権に類似している。こう して,株やクーポン券の所有を通して,市民(P)が経営者(a)を監視するメカニズ ムは機能することとなる。ところが,クーポン券の自由な処分はあくまでもファ ンド間のポートフォリオの変更までであって,売買の自由ではない。 その意味 では,ここには完全な私的所有権が保証されているわけではない。そして,クー ポン券の売買の自由を否定することによって,企業から集計した利潤を人々に ある程度均等に分配することができることとなる。それ故,レーマーにとって, 株式市場・クーポン市場における私的所有がもっ機能(経営者を監視する機能) を残したままで,私的所有に明確な限界を画することを通して,社会主義的な 目標を実現することとなる。 それ故, レーマーにとって所有形態の違いから社 会主義を定義すること自体が意味のないことであったのである。 私は,市場社会主義にとってレーマーの提案は新しい問題提起であると考え る。 レーマーの所有論は, われわれのように,所有を労働者が生産過程や分配 過程にどのように関わるかという観点

(

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資本論』でいえば第l巻の観点)から 捉えているわけではない。むしろ,.市場社会主義における蓄積の問題や資本調 達の問題」を新しく提起するなかから,所有のもつ意味を提起したのがレーマー の主張であると理解することができる。所有論にも抽象から具体へという展開 があるとすれば, より具体的な所有論の展開であると位置づけることもできよ

レーマーが取り上げている principal-agent問題とは,経営者・労働者・株

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775 市 場 社 会 主 義 論 争 113-主・公衆といった経済主体相互の競争関係であるから,まさにそれは『資本論』 第3巻に相当するテーマであり,問題がそこまで一挙に具体化されていると理 解することができる。 私自身は,市場社会主義モデlレでの蓄積や資本調達についてはまだ議論とし ていない。レーマーは r市場社会主義で何が計画されるべきか」という疑問を 提示し,投資のパターンとレベ/レだけは計画化されるべきであるとし,その理 由として, (将来のことが完全に予測できない以上)投資を効率的に配分する市 場が存在しえないことと,投資が大きなプラスの外部性をもっていることをあ げている。したがって,余剰を国家がすべて吸収するようなシステムでは効率 的な経済システムにならないことは明らかであるが,逆に,余剰のすべてを個 別企業に任せるのも問題となる。レーマーのクーポン経済もその一つの有効な 方法であろう。それは,企業が獲得した余剰はそのまま企業の処分に任された 上で,企業が蓄積に伴って利益を拡大していった時に,その分配(株式の配当) に制限を加え,資本所有に基づく分配が株式等の売買を禁止することによって できる限り平等になるようにする考えである。ただ,レーマーが想定している のは,公的企業であって,労働者自主管理企業ではない。労働者自主管理企業 が株式会社形態を採用するかどうか問題であるし,採用するとしても,レーマー のような規制の仕方は労働者自主管理企業に適合したものとはいえないであろ う。しかし他方では,労働者自主管理企業でも,獲得した余剰すべてをそのま ま自由に(消費と投資の選択に)処分できるとすると,社会主義的な均等性に 大きな支障をもたらすことに変わりはない。 かかる問題に対して,一つの解決策を提示していると思われるのが,田中C4

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の賃貸型企業論である。田中(4

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の企業モテゃルで>~j:, r(a)企業(勤労者集団) は生産手段(企業資産)の所有・管理関係と純正産物(所得)の分配関係にお いて基本的(質的)に平等な立場の人々からなり,雇用と退職(解雇)は共同 (5 ) レーマー自身は,ユーゴの例は党による政治支配があったため,十分な実験伊jになって いないとし,われわれはまだ労働者所有企業の全体の経済の経験をもっていない」から, 労働者所有企業を分析対象から外すとしている。

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← 114 香川大学経済論叢 776 所有・共同生産者の集団への加入やそこからの離脱として行われるj,

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企業 は,法律その他のかたちで一律に与えられる社会的制約の範囲内で,企業活動 にかんするすべての決定を自立的に採択する。企業自身の意思決定は,勤労者 集団もしくはその被選出代表によって行われるj (239頁)と規定されているか ら労働者自主管理企業を想定していると考えてよい。そして,このモデルで もっとも重要な点は,資本は追加資本も含めてすべて公的ファンドから借りる 形になり(資本使用料を支払う),自己資本の所有は禁じられていることである。 それ故,企業の付加価値は原則として当該企業勤労者の集団的・個人的消費に のみ向けられることとなる。レーマーの場合は企業の自己資本の保有は認めら れているが,田中の場合はそれを否定しているから,資本所有に基づく分配の 不平等をより明確に否定したものとなっている。しかし,その代わり田中の場 合は企業に対するインセンティブは弱くなるかもしれない。この点について, 田中はそれを認めた上で,人類は,生産発展の速度が体制選択の主要基準とは ならない新たな発展段階に近づきつつあるのではないだろうか」とし, ,(所得 の資本化による)刺激を欠落させた市場型社会主義こそ,そうした必要に応え るものではないだろうかj

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頁)としている。これも今後検討されるべき問 題である。 レーマー(

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や 田 中 (

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の提起した問題を『資本論』のレベルに立ち返っ てとらえ直すとすれば,どのような扱いになるのであろうか。いうまでもなく, 蓄積論の問題から資本調達問題に(w資本論』第3巻のレベルの議論),抽象的 な議論からより具体的・現実的な議論に展開するということになろう。もちろ んそこでは市場社会主義論が対象であるから~.資本論』レベルの議論に一定の 条件(たとえば,上述のようにクーポン券の売却は認めない)を導入したら, どのようなワーキングになるかが分析されねばならないだろう。すでに述べた ように,われわれは資本論』が単に資本主義分析の書として意義をもつだけ でなく,市場社会主義を考える場合にも大きな意義をもっていると考えている が,レーマーや田中の議論はそれを証明している。そしてそれは単に市場社会 主義だけでなく,最終的には資本主義分析の内容をも豊かなものとしていくこ

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777 ととなるであろう。

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結 三五 口口 市 場 社 会 主 義 論 争 115-本 稿 は , ど ち ら か と い え ば こ れ ま で の 研 究 を ま と め た 上 で , 欧 米 の 市 場 社 会 主 義 を 検 討 す る と い う も の で あ り , 私 自 身 の 市 場 社 会 主 義 を 新 た に 展 開 す る も の と は な っ て い な い 。 と は い え , こ れ も , 独 り よ が り の 市 場 担 会 主 義 に な ら な い た め に 必 要 不 可 欠 な 総 括 で あ る と 考 え て い る 。 今 後 は , 再 び 市 場 社 会 主 義 の 新しいテーマを追究するつもりである。 引 用 文 献

C 1) Bardhan, P K, and J E.. Ro巴mer“Introduction,"in Market 50αalism, ed P K

Bardhan and J E. Roemer Oxford University Press 1993 (2) Roem巴r,J E

ed P K Bardhan and

l

E Roeme伐 OxfordUn凶1廿iversi抗tyPress 1993 なお,同じ

E

論翁 文が,Foundation0/Anaかtiω1Marxism, Volume II, edJ E.. Roemer にも若干の修 正を伴いつつ収録されている。

( 3) Weisskopf, T. E “Toward a Socialism for the Future, in the Wake of th巴

Demise of th巴Socialismof the Past" Revi伽6ω

0

/

Radzω1 Polilzwl EconomzωVol 24

3&4 1992 ( 4

J

田中雄三「賃貸型社会主義の展望」 木原・泌端・大西編『経済システムの転換』世界 思想社 1993 ( 5 ) 安井修工 n資本論』の競争論的再編』香川大学経済学会 1987 ( 6 ) 安井修二「市場社会主義論序説J I香川大学経済論叢.163-3 1990.12 (7) 安井修二「社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程J I香川大学経済論叢 165-4 1993 3 ( 8 ) 安井修二「搾取についての一考察Jr香川大学経済論叢J66-1 1993 6

参照

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