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規範科学の一理想型--価値判断と客観性---香川大学学術情報リポジトリ

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規範科学の一理想、型

一 一 価 値 判 断 と 客 観 性 一 一

笠 原 俊 彦

この論文でわたくしが意図するのは,規範科学の一つの理想、型を形成するこ とである。 ここに規範科学とは

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の訳語であり,これはわが国におい て,しばしば規範論ともよばれる。それは,何らかの特定の個別科学を指すも のではなく,むしろ科学そのものについての特定の見方,この支持者にとって は唯一正しい見方,をとる諸々の個別科学を指すものである。 また,理想、型とは,いうまでもなく,マックス・ヴェーパーの

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の 訳語である。

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は,わが国において理念型とも訳される。たしかに

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の一つであるが,しかしそれが理念型ではなく理想型 と訳されなければならないことは,ヴェーパー自身のつぎの論述から明らかで、 あろう。 人".."

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(2)

-42ー 第59巻 第2号 176 すなわち, Idealtypusないしこの複数形である Idealtypenは,論理的意味に おける Idealtypenとしてばかりでなく,存在するべき模範の型(vorbildiche Typen)という笑践的意味でのIdealtypenとして用いられるというのである。 ここに存在するべき模範とは,別言すれば,理想,より正確には一種の理想に ほかならなし、。このようにIdealtypenとしづ言葉が存在するべき模範ないし一 種の理想の型とし、う意味に用いられるのは, Idealという言葉の意味が,まさに 理想だからである。ヴェーパーは,そのいう Idealtypenが実践的意味での理想 型ではなく,論理的意味での理想型であると主張する。そして,ここに論理的 意味での理想とは,かれによれば,純粋に論理的な完全性(einerein logische V ollkommenheit)を意味する。かれは,この意味で理想型(Idealtypus)という 言葉を用いるのである。 さて,わたくしは, この論文の意図が規範科学の一つの理想型を形成すると ころにあると述べたので、あるが, しかし, このことは,わたくしがそのような 理想型の形成それ自体を

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的とLていることを意味しない。規範科学の支持者 でないわたくしにとって,この理想型は,社会科学における価値判断と認識の 客観性との関係を明らかにするための手段である。 価値判断が科学的認識の客観性を阻害することは,多くの研究者によって認 められているところであるが,それがどのような意味で,またはどのようにし て客観性を阻害するかについては,いまだ体系的研究が少なく, したがってま た,多くの研究者のよく知るところではないように思われる。その結果,かれ らは,意図せずして,またはその意図に反して,しばしば,客観性を阻害する 仕方でその研究を進め学説を形成するのである。科学的研究の指導原理(ethos) を真理の追求ないしは客観的知識の追求に求める研究者にとって,このような 事態が望ましくないことは,いうまでもない。 価値判断が科学的認識の客観性に対してもつ意味,あるいはこの客観性に対 するその影響ないし阻害の仕方は,単純ではない。そこには,いくつかの意味 (2) VglM.Weber, a a.O, S..200.

(3)

177 規範科学の 理想型 43-ないし影響の仕方が区別される。そのなかでも,わたくしがまず注目したいの は,価値判断が明示される場合と隠匿される場合とにおけるその意味の相違で ある。このうち,価値判断が明示される場合には,科学的認識の客観性に対す る価値判断の意味がより明確に現れる。そして,ここに現れる意味を研究する ことによって,わたくしは,価値判断が客観性に対してもつ基本的性格を明ら かにすることが可能で、あると考える。 この基本的性格の解明は,価値判断を隠匿することが客観性に対してもつ意 味を解明するための前提lである。それのみではない。それは,価値判断が客観 性に対してもつ意味を体系的に研究しようとするとき,第一に試みられなけれ ばならないことであると思われる。 価値判断を明示し, このことによって科学的認識の客観性という観点、からみ た価値判断の基本的性格をはっきりと示しているのは,規範科学の主張である。 そこで,わたくしは,この主張を検討することによって,価値判断の基本的性 格を明らかにしたし、。 しかも,わたくしは,価値判断の基本的性格を鮮明にするために, この意図 に則した一つの理想型としての規範科学の像を形成したい。価値判断の基本的 性格を示す規範科学の主張は, さまざまな規範科学的学説の個別的検討による よりも,規範科学の統一像の形成によって明らかになり,しかもこの統一像は, マックス・ヴェーパーのいわゆる理想型としてのみ形成することができる,と 考えるからである。この理由は,以下の論述において,明らかになるであろう。 以下では,わたくしは,フリグツ・シェーンブルーク (FritzSchonpflug, 1900 (3) これについては,わたくしは,すでにつぎの論文において,四つの区分を示しておいた。 笠原俊彦稿 「価値前提の選択と道徳的批判一一ミユノレダーノレの所論を中心として一一」 『香川大学経済論叢』 第58巻第1号, 1985年 6月, 213-220ページ。 (4) 価値判断の隠匿が客観性に及ぼす影響をもっとも綿密に考察したのは, ミュノレダーノレ である。〈笠原俊彦稿「社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 一一ミユノレダーノレの所論を中心として一一J"香川大学経済論叢』 第57巻第4号, 1985 年3月,を参照のこと。〉価値判断の隠慶が客観性に及ぼす影響の重要性は,すでにマッ クス・ヴェーパーによって指摘されてしみ。 (VglM. Weber, a, a 0, S 155,.) (5) 本論文 55-56ベージを参照のこと。

(4)

-44- 第59巻 第2号 178 -1936)の論述を主な手掛かりとして,規範科学の理想、型を形成することにし たい。 II シェーンフ。ルークの学派区分の基準とその特質 経営学史,とりわけドイツの経営経済学史を研究する者にとって,フリッツ・ シェーンブルーグの名は,すでに周知であるといってよいであろう。シェーン フ。ルークは,その名著『個別経済学における方法問題~ (Das Methoden.

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roblem in der Einz伽 i伽 hajiおfehre,StuttgMt,1933jにおいて,前世紀末から今世紀 はじめ頃にドイツに商科大学が設立されてからの,あるいは科学としての経営 学確立の努力が開始されてからの約30年間,とりわけ商科大学における研究の 成果がはじめて体系的な形で発表されることとなった1910年代以降における 経営学的諸業績を中心的にとりあげ,経営学の発展方向を把握しようとしたの であるが, このようなかれの研究を際立たせるものは、そこに示されたかれの 学派区分の基準である。 シェーンフ。ルークは r科学としての個別経済学は,そもそもいかにして可能 であるヵむを考究し,科学としての経営学の発展方向を明らかにするために, 経営学の全般的発展にとって決定的重要性を有しこの発展を象徴する諸業績を 選抜 (Sichtung)するとともに,また,経営学の全般的発展の把握を可能とする ような形に,これら諸業績を整序(Ordnung)しようとする。この整序は,個別 科 学 を 基 礎 づ け る 思 想 的 基 礎(ideologische Grundlage)ないし認識論的基礎 (6) 本書は,かれの友人ノ、ンス・ザイシャツプ(HansSeischab)によって再版されている。 Betriebswirisc加/ぉlehre,hersg von H Seischab, 2 erweiterte Auf,.lStuttgart, 1954 (古林喜楽監修,大橋昭一,奥田幸助訳 『シェーンフ.ノレーク経営経済学』 有斐閣,昭和 45年〉 本稿におけるシェーンプノレ-17の所論は, この第二版による。 (7) この区分基準は,同じ時期に,オイゲン・ジーパー(ESieber)によっても独立に提示さ れている。つぎを参照のこと。 笠原俊彦警 『技術論的経営学の特質』 千倉書房, 1983年, 209-214ページ。 ( 8 ) F. Schonpf!ug, a.. a.0, S.. 71 (9) 本節におけるシェーンフ.ノレ-17の所論は,主として,つぎによる。 F. Schδnpflug, a.. a..0, SS..58-73

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,すなわちすべての個別科学の基礎であり 母である哲学において相互に妥当性を争う世界観

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,の異同 にしたがって諸業績を区分することによって行われる。 ここにかれがいう思想的基礎,認識論的基礎ないし世界観とは,科学的認識 に関する基本的観念,あるいは,科学における真理ないし客観性についての基 本的観念にほかならなし、。この基本的観念は一つの歴史的生成物であり,真理 についての諸々の基本的観念の対立と新しい基本的観念の生成とは,個別科学 の形成に必然的に影響を与える。それゆえに,シェーンフ。ルークは,伺別科学 のーっとして形成が意図されている個別経済学ないし経営学の諸業績の区分基 準として, この基本的観念をとりあげ,この諸相を明らかにし吟味するととも に,諸業績に含まれるこの基本的観念の異同によって諸業績を学派に区分して, 経営学が一つの科学であるためにとるべき方向を探ろうとするのである。 シェーンフ。ノレークによれば,かれの学派区分の基準は, これが一般的な科学 の発展に対応するがゆえに,特定の個別科学そのものの具体的内容に則して形 成される学派区分の基準に比べて,一定時点における相対的普遍性と時間的経 過に対する相対的不変性をもっ。そして, このような基本的観念によって個別 経済学の諸業績を区分するシェーンフ。ルークは,個別経済学を,一般的な科学 の発展の所産として理解するのである。 シェーンフ。ノレークが述べるように,特定の個別科学は,たしかに科学に関す る基本的観念の影響を受け, この意味で一般的な科学の発展の所産である。た だし,特定の個別科学は, このような基本的観念によってのみ規定され一般的 な科学の発展のみの所産となるわけでは,もちろんない。特定の個別科学は, それに固有の生成・発展の歴史的過程をもち,この過程のうちに,その諸特質 (10) シェーンプノレ-!1においては,このような基本的観念は,諸業績の整序ないし学派区分 の基準としてのみ拐示されているのであるが,しかし,わたくしは,それが,同時に諸業 績の選抜の基準としても理解されなければならない,と考える。学史的研究によって経営 学が一つの科学であるための方向を探索しようとするシェーンフ.ノレーFの意図は,科学 的真理に関する基本的観念と密接な関連をもっ諸業績をとりあげることによってのみ, その実現を期待することが可能だからである。

(6)

-46- 第59巻 第2号 180 を現す。そして,このような諸特質のうちに諸学派を特質づける諸標識を求め, この標識の一つまたはし、くつかの組合せを学派区分の基準とすることも可能な のである。 特定の個別科学に固有の発展を辿ろうとする見地からは,このような基準こ そ当該科学の学派を区分する基準でなければならない,と考えられるであろう。 この考えは,それなりの正当性をもっている。しかしまた,科学に関する基本 的観念も, これが個別科学の形成に影響を与える以上,個別科学を区分するた めの基準のーっとなることができる。しかも,それは,個別科学の科学性その ものを肯定しあるいは否定する基準であるがゆえに,個別科学の発展にとって 著しい意義をもっといわなければならない。わたくしが,この論文において, シェーンフ。ルーグの学派区分基準をとりあげるのは,これが,まさに個別科学 の科学性いかんを規定する基準だからである。 科学的認識に関する基本的観念は,これまでいくつかの変遷を経てきている。 それゆえ, これにもとづいて学派を区分しようとするとき,ひとがここでとる ことのできる基準は,一つではなし、。研究者は,みずから,その区分基準を選 択しなければならなL、。この選択は,研究者にとって基本的に自由であり,か れはその問題意識にもとづいてこれを行うのであるが,しかしまた,かれが選 ぶ基準は学説を有効に区分しうるものでなければならないことから,かれは, この選択において一定の制約をうけるのである。 (ll) わたくしは,ここで,つぎのことを断っておくべきであろう。理想型を形成しようとす る立場からすれば,さまざまな学説をいくつかの学派のいずれかに一面的に区分してし まうことはできないことがこれである。この立場からみて,ひとができることは,ある学 説を理想型として形成された区分基準,より正確にはこの基準の構成要素のいくつか,に 照らしてみたとき,それがこの基準にはたして合致する面をもっているかまたはいない か,どれほど合致するかまたはしないか,を確認することであるにすぎない。何らかの学 説は,特定の区分基準,さらにはこれを構成する特定の一要素についてみでさえ,しばし ば殴味で,ときには矛盾する様相を示し,またこの基準によっては択えられないものを含 んでいる。 だが,わたくしを含め,研究者にとって,一面的区分の誘惑は,いちじるしく強い。一 面的区分は,研究者の思考を単純化し容易にするからである。それは,また,明確な法則 を発見したときに得られるであろう満足をさえ,研究者に与える。

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年代の終わりころに科学的認識に関する基本的観念を用いて学派区分 を行い,シェーンフ。ルークに影響を与えたのは,国民経済学者ヴエノレナー・ゾ ムバルト

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である。すなわち, ゾムバルトは,その著書『三 つの国民経済学A (Die drei Natio仰 lokonomien,

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,小島昌太郎 訳『三つの経済学』雄風館書房,昭和

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年)において,国民経済学を規制的な いし形而上学的国民経済学

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,整序的ないし自然科学的国民経済学

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,理解的ないし精神科学的国民経済学

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の三つに区分する。 ここに用いられている区分基準のうち,規制的国民経済学を整序的および理 解的国民経済学から区分する基準は,科学的認識において価値判断がもっ意味 に関する基本的思考法の相違に関連する。そして,この基本的思考法の相違こ そ,シェーンフ。ルークが個別経済学の学派を区分する基準として用いるものな のである。 シェーンフ。ルークは,個別科学がもとづく認識論的基礎についてこつの基本 的見解が対立すると考え,これに対応させて,個別科学を基本的に二つに区分 する。規範科学と存在科学

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ともよぶ。そして,この二者に対応さ せて,個別経済学を規範的個別経済学

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と 経 験 一 実 在 的 個 別 経 済 学

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と に区分するのである。 この場合,経験一実在的個別経済学にいう「経験一実在的」が存在科学にい (12) V g.l

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, Die drei Nationaldkonomien,

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19 (13) ゾムパノレトの整序的関民経済学および理解的国民経済学の区別は,価値判断の意味に ついての基本的思考法の相違にもとづくものではない。これに対して,シェーンフツレ.-!J の場合には,さらに,価値判断の意味についての基本的思考法の相違にもとづく区分がな される。

(8)

-48- 第59巻 第2号 182 う「存在」を表すこと,規範的個別経済学にいう「規範的」が規範科学にいう 「規範」を表すことはいうまでもない。したがって,規範科学と存在科学とは, それぞれ,規範的科学および経験一実在的科学とし、し、表すことができる。のち に述べるようにシェーンフ。ルーグにおいては,規範科学という名称よりも規 範的科学とし、う名称の方がその特質をより正確に表す。さらにまた,存在科学 という名称よりも経験一実在的科学という名称の方が,その特質をよりよく表 すのである。 シェーンフ。ルークは,諸々の個別科学を二分するとかれが考えるこつの基本 的見解,とりわけ規範科学を基礎づける認識論的基礎を,きわめて明快な形で 呈示している。かれの論述は,わたくしの知るかぎり,この種の論述のうちで もっともすぐれたものである。わたくしがかれの論述を手掛りとして,規範科 学の一つの理想、型を形成しようとするのは,まさに,このためでhある。 わたくしは,第

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節において,シェーンフ。ルーグにおける規範 的の意味および規範科学の意味を明らかじし,ついで第

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節において,規範科 学の一理想型を形成したい。

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r規範的」の意味 一一ー「経験一実在的」との対比において一一一 シェーンフ。ルークは,規範的の意味を,この言葉の源泉である規範の意味か ら説明する。 規範は基準(Masstab)の意であり,これは,当為(Sollen)と密接な関係をも っ。当為とは,ある特定の明確な意志が発する客観的要求であり,何らかの主 体すなわち人聞に対して,この客観的要求を承認することを求め,そして,こ の人聞のあらゆる行為,動機および要求を,この客観的要求によって設定され た規則すなわち当為規則(Sollregel)に従わせることを求める。この規則は,客 観的要求によって,しかもこの要求に則して設定された客観的規則であり,人 (14) 本節におけるシェーンブルーPの所論は,主として,つぎによる。 F.. Schonpflug, a. a. 0, SS.73-75

(9)

聞に対してかれの行為,動機および要求の前提としてあらかじめ与えられてい る。人聞は,この規則に従って行為する場合にのみ正しい行為をなすことがで きるのであり,かれの行為が正しし、か否かは,これを基準として判定されるの である。人聞に従うべきものとして与えられるこの客観的規則,人間の行為, 動機および要求の正しさを判定する基準が,規範である。 規範の形容調である規範的とは,第一に,諸々の規範を,法則

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として設定し,また第二に, このように設定され,すでに確定したものとして与えられているある規範の観 点から,存在するものを判断,批判,ないし価値判断して諸目標を設定し根拠 づけ, さらにまた第三に, この諸目標を達成するための手段を提示しようとす る,精神的態度をいう。 このような精神的態度からみるとき,規範は,基本規範

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とに区別される。このいずれも,経験を介して確かめら れるものではなく,先験的なもの

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,すなわち経験に先立ち,これによっ ては根拠づけられないものである。特殊規範は基本規範から導き出される。そ れは基本規範のための手段として形成される。すなわち,それは基本規範を実 践的経験に適用し具体化することによって得られ,この特殊規範の実現が当該 実践的経験の分野における基本規範の実現となるように形成されるのである。 この場合,特殊規範は基本規範と実践的経験とから導かれているかにみえる。 だが,シェーンフツレークにおいては,特殊規範は実践的経験から導かれるわけ ではなし、。わたくしは,それが,あたかも幾何学において若干の基本的公理か ら諸定理が論理的に導かれるように,基本規範から演縛されると考えられてい ることに注意したし、。実践的経験は,基本規範から導かれる特殊規範が特定の 形態をとって現れるたんなる場所というべきものであり,規範の本体そのもの にいささかも影響を与えるわけで、はない。シェーンフ。ルークが基本規範のみな らず特殊規範をも先験的であると考えるのは,このためで、ある。 基本規範から特殊規範を導き,この特殊規範からさらに具体的な, より特殊 な規範を導く作業が体系的かつ連続的に行われるとき,わたくしは,そこに,

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-50- 第59巻 第2号 184 規範の階層体系の成立をみることができる。この体系の最上位にある基本規範 は,人聞に対して最終目標

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として与えられ,基本規範から導かれる 特殊規範は,これから導かれるより特殊な規範をもこれに含めて,最終目標を 達成するべき下位目標として形成される。 この場合,人聞に対して基本規範を最終目標として与えるとは,シェーンブ ルークのいう規範的の意味の第一,すなわち諸々の規範を,法則,戒律,要請 ないし命令として設定しようとする精神的態度に, また,基本規範から導かれ る特殊規範を,最終目標を達成するべき下位目標として形成す町るとは,かれの 規範的の意味の第二,すなわち設定され,すでに確定したものとして与えられ ているある規範の観点から,存在するものを判断,批判,価値判断して,諸目 標を設定し根拠づけようとする精神的態度に,それぞれ対応するとみることが できる。これらは,いずれも,規範の体系ないし目標の体系の形成そのものに かかわり,しかも,この体系の形成が,先験的に客観的な基本規範の設定とこ れからの演揮によって行われる点で,規範的の意味の第三,すなわち諸目標を 達成するための手段を提示しようとする精神的態度,から区別されなければな らない。規範的の意味のこの第三のものは,後述するように,形成された規範 ないし目標と事実ないし実在との霜離を確認し,後者を変革することによって この霜離を除去すること,を意味するのである。 特殊規範は基本規範から演縛されるものであるがゆえに,その客観性,普遍 妥当性,ないし人聞にとってのその正しさは,演揮に誤りないかぎり,基本規 範のそれに依存する。すなわち,それは,基本規範が正しいかぎりにおいて, 正しいのである。この意味で,シェーンフりレークによれば,特殊規範はすべて, 仮言的

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性格をもっ。 規範的とい

5

言葉の意味は,これと対比される経験一実在的とし寸言葉の意 (15) 本論文52-53ベージを参照のこと。

(11)

185 規 範 科 学 の 一 理 想 型 -51-味を明らかにするとき,より鮮明になる。この経験一実在的という言葉の意味 の説明を,シェーンフ。ルークは実在という言葉の意味の説明からはじめる。 かれによれば,実在(Realitat)は現実(Wirklichkeit)としばしば同義に用い られるが,しかし両者はけっして等置されてはならない。両者の区別は暖昧で, この区別についての統一的見解はまだないのであるが,現実は実在よりも広義 であるように思われる。すなわち,現実は,デカルト (Descartes)のこの言葉の 使用法にもみられるように,実在的現実(reale Wirklichkeit, realitas form -aliter)と思惟的現実(gedachteWirklichkeit, realitas objective)とを含む。こ のうち実在的現実のみが実在と同義である。実在はたんに思惟的に(inintelle -ctu)存在するものではなく,実際に(inre)存在するものをいう。これに対し て,思惟的現実がたんに思惟的にのみ存在すると考えられるものであることは, もはや,わたくしがし、うまでもないことであろう。 シェーンフ。ルークによれば,実在は思惟に先立って与えられており,ひとは, これを知覚(¥九Tahrnehmung)によって認識することができる。このように思惟 に先立って存在し思惟がこれに結びつく対象を,経験的実在 (empirischeRe -alitat)というのである。 以上の説明についてわたくしが確認しておきたし、ことは,まず,実在が人聞 の思惟に対して所与なる存在であること,これである。つぎに確認しておきた いことは,経験が, この所与なる存在を知覚するという人聞の対象に対する意 識にかかわる特定の作用を意味すること,そして経験的実在が人聞によって経 験されるかぎりでの実在を意味すること,である。したがって,いかなる実在 も,これが経験とL、う人間的作用を経ないかぎり,経験的実在とはならない。 わたくしは,この人間的作用が,人間の感覚によって規定されるだけでなく, 人間の関心によっても規定されることに注意しておきたい。 さて,シェーンフ。ノレークによれば,経験一実在的とは, このような経験的実 (16) 現実と実在とのこのような区別にもかかわらず,シェーンフ勺レーク自身は,この二つを 厳密に区別して使用しているわけではなし、。かれは,実在とLづかわりに,しばしば現実 というのである。

(12)

-52- 第59巻 第2号 186 在にもとづこうとする精神的態度をしみ。それは経験的実在の世界によって画 される限界を承認し,この内部にのみ留まろうとする点で,規範的とよばれる 精神的態度から区別される。それは,経験的実在の世界の外部に自己の世界を 求めなし、。経験的実在の世界によって画される限界を尊重しないものは,もは や経験一実在的ではないのである。 このような考え方からすれば,シェーンフ。ルーグがさきに述べた規範的の三 つの意味のうちの第一の意味,すなわち諸々の規範を法則,戒律,要請ないし 命令として設定する精神的態度は,経験一実在的とよばれる精神的態度に属さ ないことになるであろう。この第一の意味は,経験的実在の世界と別個の思惟 的世界,ないし規範的とよばれる精神的態度にいわゆる先験的世界,において 客観的とされる基本規範を人間の最終目標として設定しようとするものだから である。また,規範的の第二の意味,すなわち設定されすでに確定したものと して与えられているある規範の観点から存在するものを判断,批判,ないし価 値判断して諸目標を設定し根拠づけようとする精神的態度も,経験一実在的で はない, といわなければならなし、。規範的のこの第二の意味は,いわゆる先験 的に客観的な基本規範から,同じく先験的に客観的とされる特殊規範を演揮し, これを最終目標の下位目標として設定しようとするものであり,それは基本規 範についての論理的操作を意図する。規範的の第ーの意味から区別されるその 第二の意味の特質は,何らかの目標についての論理的操作そのものに求められ るべきであろう。そして,このような論理的操作は,経験一実在的とよばれる 精神的態度においても可能である。しかしそれは,この態度を特質づけるもの ではないのである。 これに対して,規範的の第三の意味,すなわち諸目標を達成するための手段 を提示しようとする精神的態度は,経験一実在的とよばれる精神的態度に合致 する。諸目標を達成するための手段を提示しようとする精神的態度は,規範な いし目標と事実との需離を確認する精神的態度と,事実を変革することによっ (17) わたくしには,これが何か,は重要な問題であるように思われるが,これについては, 本論文で考察する余裕がない。

(13)

てこの話離を除去するための手段を提示しようとする精神的態度とに分解する ことが可能なのであるが,このうち,規範ないし目標と事実との靖離の確認は 何らかの規範ないし巨標とされる状態の観点からみた経験的実在としての状態 の確認であり, また,事実を変革することによって事実と目標との議離を除去 するための手段の提示は,すでに確認された経験的実在としての状態を変革し 目標とされる状態を経験的実在として実現することのできる手段の提示であっ て,これらは,規範的の第一の意味の混入,すなわち前提とされている目標が 先験的に客観的な基本規範からの演揮によって生じたものと考えられているこ と,を除いた第三の意味に固有の特質からすれば,いずれも,経験的実在の世 界によって画される限界を承認し,経験的実在の世界のうちにのみ客観性を求 めようとする精神的態度だということができるからである。 ところで,シェーンフツレークは,経験一実在的とよばれる精神的態度につい て,つぎのようにいう。 「経験 実在的行き方は,経験世界に対して『中立的』態度をとる。それは, その課題をもっぱら,具体的に与えられている存在状態の原因と関連を示し『何 であるか』を確認することにのみ求める。目標の考察ではなく,事実の因果発 生的考察すなわち説明がこれである。」 この論述は必ずしも正しいとはいえず,また,かれの所論の全体からみても 整合性を欠く部分を含んでいる。ここで,わたくしは,二つをあらかじめ注意 しておきたい。 第一に,経験一実在的行き方が経験世界に対して「中立的」態度をとるとは, それがシェーンフ。ルークのいう規範的の第一の意味として示された精神的態度 をとらないことを意味するだけであり,けっしてこれ以上を意味するものと理 解されてはならなし、。経験一実在的行き方といえども,経験世界に対して中立 的であることはできないからである。このことからすれば r経験世界に対して 『中立的』態度をとる」とし、う表現は,きわめて不適切である,あるいは誤りで (18) このうち,手段の提示については,本論文 75-76ページをも参照されたし、。 (19) V gL F Schonpflug, a a. 0, S 75

(14)

-54ー 第59巻 第2号 188 ある, といわざるをえない。 第二に,経験一実在的行き方が具体的に与えられている事実状態の原因と関 連を示し r何であるか」を確認することのみをその課題とする,あるいは目標 の考察ではなく事実の因果発生的考察すなわち説明をその課題とする, とは, それがシzーンフ。ルーグのし、う規範的の第三の意味として示された精神的態度 を排除し, 目的一手段思惟から区別される原因一結果思惟のみに携わることを 意味しない。したがって,シェーンフ。ルークのL、う規範的の第三の意味が経験 一実在的であるという, さきに述べたわたくしの理解は, ここで訂正されなけ ればならないわけではない。ここにとりあげたシェーンブルークの表現は,経 験一実在的行き方が,かれのいう規範的の第一の意味から区別される精神的態 度であることを意味するのみであり,そのうちに原因一結果思惟のみならず目 的一手段思惟もが含まれることは,かれがのちに,経験一実在的行き方をとる 学派を原因一結果思惟をとる理論学派と目的一手段思惟をとる技術論学派とに 区分することからも明らかである。 以上にわたくしが示したこ点は, きわめて重要である。規範的とよばれる行 き方との対比において経験一実在的とよばれる行き方を規定しようとする場合 に,後者を経験世界に対して中立的と考えること,およびそれを単純に原因一結 果思惟と同一視することは,けっしてまれではないからである。

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規範科学の意味 (1) 規範科学の主要原理一一イ面値判断の公準 規範科学ないし規範的科学とは,以上に説明した規範的とよばれる精神的態 度をもっ個別科学の総称である。このような精神的態度をもっ個別科学の名称 としては,規範科学よりも規範的科学が適切であることは, もはやいうまでも ないであろう。しかし,シェーンブルークは,規範的科学ではなく規範科学と いう名称をしばしば用いている。わたくしも,簡便性を考えて,以下では規範 (20) Vgl.F. Schonpflug, a a.0, 8..238

(15)

科学という名称を用いよう。 さて,規範的とよばれる精神的態度は, さまざまな個別科学において, さま ざまな現れ方をする。だが,シェーンフ。ルークは,いかなる個別科学において 生じるさまざまな規範科学的問題も,その精神的基礎は同じであると考える。 そこに現れる規範科学的問題の特殊な差異は,一つの同一の主題の変異で、ある にすぎない。 シェーンフ。ルークは,何よりもまず,特定の個別科学における, ましてやそ の特定の学説における,個性的な規範科学的問題ではなく,この基礎となる一 つの主題を把握しようとする。すなわち,かれは,規範科学の統一像の把握な いしはその主要原理の一つの一般的特質づけをなそうとするのである。わたく しは,このような統一像が把握されてはじめて,これと比較して,特定の個別 科学における規範的行き方ないし規範科学的特質について語ることが可能とな ることに,注意しておきたい。 シェーンフ。ルークは,規範科学の統一像が,さまざまな規範的個別科学に現 れる共通項としての規範的行き方を抽出することによって形成できる, と考え ているわけではなし、。むしろ,かれは,諸々の個別科学に先立って規範科学の 統一像が存在し,しかもこの現れ方は,諸々の個別科学においてじっにさまざ まである, と考えているようにみえる。すなわち, この統一像は,第一に,特 定の研究者が主体的に形成することのできる一つの構築物ではない。それは, いわば,現象としてのさまざまな規範的個別科学の背後にこれに先立つて存在 する本質ともいうべきものである。それゆえに,かれによれば,それは,ただ 認識されさえすればよいのである。第二に,規範科学のこの統一像は,そのす べての主要原理が,たとえ変異としてであれ,特定の規範的個別科学に現れる わけではない。したがって,それを, さまざまな規範的個別科学に現れる共通 項として把握することはできないのである。 わたくしは,シェーンフ。ルークと同じく,さまざまな規範的個別科学に現れ (21) 本節におけるシzーンプノレークの所論は,主として,つぎによる。 F Schδnpflug, a. a.. 0, SS引76-79,und 79-83

(16)

-56- 第59巻 第2号 190 る共通項ではなく,ここには多く,かしこには少なく存在し,ところによって はまったく存在しない散漫でばらばらの個々の諸現象または諸要素の結合とし ての統一像を得ょうとする。この統一像は,特定の個別科学における諸学説が いかなる点で規範科学でありL、かなる点でそうでないかの判断の基準であり, 何らかの学説は,この統一像との比較によってはじめて,その規範科学的性格 のいかんが明らかにされるのである。 だが,わたくしは,この統一像を諸個別科学に先立って存在する本質である と考え,この認識に努めようとするわけで、はない。わたくしには, このような 本質としての統一像の存在は証明できず,したがってそれを認識することはで きないと思われるからである。わたくしは,規範科学の統一像を論理的に整合 的な一つの思惟像として形成しなければならないと考える。これ以外に,規範 科学の明確な統一像を獲得する途はないからである。そして,わたくしは, シェーンフ。ルークの所論を, このような思惟像すなわち理想型の形成という観 点から見ていこうとするのである。 さて,シェーンフ。ルークによれば,すべての規範科学は,規範となるべき価 値

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の一体系が客観的に与えられているという基本的観念をもっ ている。この価値は,すべての思惟,したがってまた認識を求める科学的思惟 にとって,絶対的なものとして,これに先立って存在している,と考えられる。 そして,この価値を規範化

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することによって,規範が生じるのであ る。 シェーンブルークは明確に述べていないが, このような価値が,前節で述べ た特定の明確な意志の客観的要求すなわち当為によって人聞に与えられるもの であることは,いうまでもないであろう。人聞の行動は,この客観的要求に従 うときにはじめて,価値あるものとなる。この価値を人聞が従うべき規則とし て把握するとき,ここに規範が生じるのである。この価値は,最高基本価値を (22) このようなシェーンフ。ノレークの考え方は,かれが規範科学ないし本質認識学の立場に 立っていることを示している。本質については,本論文63-64,69-70ページを参照され たし、。

(17)

頂点としさまざまな特殊価値を含む一つの階層体系を構成しており,規範の一 つの階層体系は,まさに,この階層体系に対応する。 シェーンブルーグによれば, さまざまな規範科学は,それぞれに適切な特殊 価値をもっている。そして,その特殊価値を確認しこれを規範化して特殊規範 とし, これらを,すでに存在する最高価値および最高規範の体系にうまく組み 入れることが,それぞれの規範科学の課題である。し、し、かえれば, さまざまな 規範科学は,特殊価値および特殊規範を基本価値および基本規範に還元するこ とによって,特殊価値および特殊規範が基本価値および基本規範と一致するこ とを確認するべき課題を有するのである。 このような規範科学の考え方からすれば,科学的認識を最終的に決定するも のは,実在そのものではなく,当為から発する最高で一般的で絶対的な価値と 一致するもの,これである。この最高価値あるいは最高規範によってはじめて, すべての認識が整理され,意味づけられ,目標を与えられる。このようにして, 認識全体の実質

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をなすものは,結局は,正しいと認識された当為であ る, といわれることになる。 このことは,規範科学が実在の確認ないし認識と無関係であることを意味す るものではもちろんない。規範科学は実在を確認する。しかし,この場合にも, 規範科学は,実在の確認に留まることはできなし、。それは,実在ないし存在関 連

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の説明を超丸存在関連を普遍妥当な価値体系に組 、み入れることによってはじめて,その固有の課題に携わることになるのである。 規範科学にとっては,実在の説明は, 目的ではなく手段である。規範科学の最 終的認識目標は実在と当為との一致の確認にあり,実在の説明は,このための 手段の一部として行われるのである。 そこで,シェーンフツレークによれば,規範科学の主要標識あるいはその第一 の主要原理は,それが価値判断の公準

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を認めると ころに求められる。このことから規範科学は,すでに述べたように,価値判断 科学とよばれるのである。 価値判断の公準は,つぎの三つを基礎づけるものとされる。

(18)

-58-1

最高価値の認識 2 特殊価値の確認 第59巻 第2号

3

時 現実に与えられている存在状態

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の価値判断 192 シェーンフ。ルークのこの論述から,わたくしは,価値判断が第一に最高価値 の認識を意味することを知ることができる。規範科学は, この意味の価値判断 が客観的に可能であることを承認するのである。 もっとも,シェーンフ。ルークによれば,最高価値の認識は,個別科学が直接 になすべき課題ではない。最高価値ないし基本価値を認識し,これを規範化し て最高規範ないし基本規範の体系を形成することは,個別科学に対する一般的 基礎科学

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としての哲学のなすべき課題で あり,個別科学は,哲学によって認識されたこれら価値あるいは規範を受け取 るのである。 価値判断は,第二に,特殊価値の確認を意味する。規範科学は,この意味の 価値判断の客観的可能性をも承認するのである。 特殊価値の確認は,すでに述べたように,個別科学の課題に属する。個別科 学は,みずからにとって適切な特殊価値を把握しこれを基本価値に還元しなけ ればならない。あるいは,個別科学は,特殊規範を把握し,これを基本規範に 還元しなければならなし、。このことによって,個別科学の特殊価値ないし特殊 規範と基本価値ないし基本規範との連関,およびこの連闘の継続性が保障され る。このような特殊価値の確認が第二の意味における価値判断である。 ここで,わたくしは,特殊価値ないし特殊規範を確認するだけでなく,この 特殊価値ないし特殊規範をさらに具体化してこれに下属する価値体系ないし規 範体系をも確認することが,個別科学の課題であることを付け加えておくべきで あろう。わたくしは,このような特殊価値の具体化ないし価値体系の確認をも, 価値判断の第二の意味に含めたし、。なぜなら,特殊価値の確認とこの価値のさ らなる具体化とは, ともに,基本価値の具体化,ないしは定言的基本価値から の仮言的諸価値の体系の演揮を意味するからである。 すでに述べたことから推測すれば,シェーンフ。ルークにおいては,この演鐸

(19)

は,その全体が存在状態の判断,批判ないし価値判断を伴う,と考えられるは ずである。ただ, ここにし、う存在状態の判断,批判ないし価値判断とは,基本 価値から特殊価値さらにより下位の諸価値を論理的に導出するためのたんなる 手掛かりであるにすぎず,それ自体が価値の内容の変更を迫るものではなし、。 それは,また,この段階では,確認された価値の観点からする存在状態の判断, 批判ないし価値判断をも意味しない。この意味における存在状態の判断,批判 ないし価値判断は,つぎの,第三の意味における価値判断に属する。 さて,基本規範は先験的な根源をもち,そして特殊規範,さらには, これか ら得られるより特殊な規範も経験から導かれるものではないため,特定の個別 科学によって確認され諸規範の体系として示される状態ないし当為状態 (So

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と経験的実在としての現在状態

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とは,通常, ;r信離する。 現在状態を確認、ないし説明し,これを当為状態と比較して,両者の講離を明ら かにすることも,個別科学の課題に属する。この場合,現在状態の確認および 現在状態と当為状態との議離の解明は,それ自体のためではなく,この議離を 解決するためにのみ,行われる。そして,この請離は,規範ないし当為状態を, 現在状態がこれに向かつて方向づけられるべき理想的基準

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として把握することによって解決される。ここにいう理想が,ヴェーパーのい う実践的意味での理想ないし模範であることは,いうまでもないであろう。こ こでは実在は理想的基準としての規範によってその価値を判断され,現在状態 を変革して当為状態を実現することが意図されるのである。 このことから,理想的基準としての規範による実在の価値判断は,現在状態 と当為状態との靖離の解明のみならず,当為状態と請離する現在状態を変革し 当為状態を実現するための手段の解明をも含むことになる。前者は理想的基準 としての規範からみた現在状態の価値判断,後者は理想的基準としての規範を 実現するための手段の価値の判断である。 このような意味での理想的基準としての規範による実在の価値の判断,ある いは,基本価値から演揮された価値の観点からする実在の判断が,価値判断の 第三の意味であり,この客観的可能性をも,規範科学は承認する。

(20)

-60 第59巻 第2号 194 以上三つの価値判断のうち,最高価値の認識は,規範科学においては,他の 二つの価値判断を基礎づ、けこれを規定する。すなわち,第二の意味における価 値判断は,第一の意味におけるそれによって認識された基本価値から特殊価値 およびこれに下属する諸価値をたんに演揮することを意味したのであり,そこ に確認される諸価値の正しさは,この論理的操作に誤りないかぎり,もっぱら 第一の意味における価値判断の正しさに依存する。そして,第三の意味におけ る価値判断は,第一の意味における価値判断にいう価値が,特定の明確な意志 の客観的要求によって人聞に与えられる価値,規範化され実現されるべき価値, であることから必然的に生じる。シェーンフ。ノレークにおいては,特定の明確な 意志の客観的要求こそ,規範科学に必然的に目的論的

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性格を与 えるものである。 しかも,わたくしは,以上三つの価値判断のうち,第一の意味における価値 判断の客観的可能性の承認を別として,第二および第三の意味における価値判 断の客観的可能性の承認を, これから第一の意味における価値判断の影響を取 り除くとき,規範科学的思惟に特有のものだと考えるわけにはいかない。第二 の意味における価値判断は,これから第一の意味における価値判断の影響を取 り除けば,何らかの価値の論理的分析のーっとなるのであるが,価値の論理的 分析は,規範科学のみならず,経験一実在的科学においても行われることがで き,また,第三の意味における価値判断は,これから第一の意味における価値 判断の影響を取り除くとき,何らかの目標を達成するための手段の研究と同義 であり,これも,すでに述べたことから明らかなように,規範科学に特有のも のではけっしてないのである。 このようにして,わたくしは,三つの価値判断のうち,第一の意味における 価値判断が客観的に可能であることを承認するところに,規範科学の主要標識 としての価値判断の公準の特質があると考えることができる。この意味におけ る価値判断は,規範科学の直接の課題ではないとされたのであるが,それにも かかわらず,それは,まさに,規範科学的思惟を基本的に特質づけるものなの である。

(21)

195 規範科学の一理想型 -61-(2) 価値判断の公準の根拠づけ シェーンフ。ルークによれば,規範的行き方, したがってこの行き方をとる科 学である規範科学は,すべての人聞の行動が規範に従っており価値判断

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によっ て織りなされている一つの網が,人間の文化を完全に覆っており,人聞の行動 のすべては,それぞれ,最高価値へと向かう特定の判断を内包せざるをえない, と考えられるのである。ここに諸々の価値関係によって織りなされている一つ の網が諸価値の一体系ないし一階層体系を意味することは,いうまでもないで あろう。 最高規範ないし基本規範として現れる最高価値ないし基本価値は, この価値 体系の上位にそびえ立ち,その頂点、において,一つの最終かつ最高の価値とな る。このような基本価値にもとづいて価値の全体系が構成され,また人間の行 動のすべてが価値と意味を与えられる。いく方とも知れない言葉を構成するわ ずかの基本音声,あらゆる音楽作品を構成する少数の基本楽音と同じく,人間 の多様な道徳意識を構成する少数の基本価値は,規範科学の出発点である。 規範科学においては,このような基本価値は,特定の主体の存在したがって この主体の見解である主観的見解とは独立に,客観的に存在する。それは超個 人的

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に存在し,それゆえに普遍妥当的であり,すべての個人 に対して絶対的であり,しかもあらゆる経験に先立って存在する。そして,そ れは,それがある時期に認識されようとされまいと,存在すると考えられるの である。規範科学の主要標識である価値判断の公準は,まさに,この客観主義 的一絶対的価値概念

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にもとづいて いる。 価値について客観主義的一絶対的価値概念をとる学説は,客観価値論

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-(23) シェーンプノレークは,次のように述べている。

r科学とは』一ーと, フッサーノレは,かつてこの概念を規定した,一一『絶対的で久遠の 価値のための称号である。』この引用文は,規範的科学概念の最も純粋な特質を示してい る。J(F Schonpf!ug, a.a 0, 5.. 83 )

(22)

-62- 第59巻 第2号 196

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とよばれる。 シ:ーンフ。ルーグによれば,客観価値論と主観価値論

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と の対立は,古代哲学において激しい論争を引き起こして以来, さまざまな変遷 を経て,今日においてもなお,新たな装いと変異とにおいて存在しているので ある。 それでは,客観価値論者ないし客観主義者

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は,客観的な 基本価値が存在するというその主張を, どのように根拠づけるのであろうか。 シェーンブルークは,つぎのように考えていく。 経験の教えるところによれば,価値と価値判断とは,つねに主観にもとづい ている。人間のすべての行動は,それぞれ一つの決定,すなわち特定の価値に もとづく特定方向への価値判断で、あり, しかもこれは個人的なものである。し かしながら,このことから,価値と価値判断とはたんに個人的妥当性をもちう るにすぎないという主観主義者

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の主張が正しいといえる であろうか。否である, と客観主義者は答える。たしかに, ゾムパノレトのいう ように,価値判断をなす人間の数と同じだけの価値および価値判断が存在する。 そして,これらの価値および価値判断は,個人的妥当性をもつにすぎない。だ が, この無数ともいえる個人的一主観主義的価値および価値判断は,科学的認 識の対象ではない。規範科学の対象は,客観的,絶対的,あるいは真の

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価値および価値判断であり,これは人間一般に無条件かつ本源的

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に妥 当する。規範科学は,すべての主体ないし人聞に共通な法則

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および規 範をこそ認識するのであり,人聞は,この法則および規範にしたがって,現実 界

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へと近づこうとしている。」法則と規範は,-主体から主体へと 変転する感覚

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l)を,あたかも,その法則性という なにものも逃れることのできない網をもって捉えるのであり,意識の所与の内 容は,すべて,この法則性に適合し整序されなければならない。」

(23)

197 規 範 科 学 の 一 理 想 型 -63-ここにいわゆる法則が客観的価値を意味することは,わたくしがとくに付け 加えるまでもないであろう。ところで,わたくしは,上述のシェーンフ。ルーク の説明のうち,個人的一主観主義的価値および価値判断が規範科学の対象では ないという主張については, これが少なくとも不正確である,といわなければ ならない。規範科学は当為状態と現在状態との議離の解明をもその課題の一部 としていたのであるが, このために行われるべき現在状態の確認は,その一部 として,個人的一主観主義的価値および価値判断の確認を含むことができるか らである。ただし,個人的一主観主義的価値は,規範科学にとっては第二義的 でしかない。規範科学にとって第一義的であるのは,もちろん,上に法則とよ ばれた客観的価値である。 それでは,この客観的価値さらには客観的規範,すべての主体に共通な法則 および規範は, どこに見出されるのであろうか。それは諸々の人間のうちに共 通に見出される経験的実在ではけっしてなし、。シェーンフ。ルークは,つぎのよ うに説明を続ける。 (25) この法則および規範はたしかに人聞から生じる。だが,それは,複数の人聞 から(ausd e n Menschen)ではなく,単数の人聞から (ausd e m Menschen), すなわち具体的な個人としての人聞からではなく,類(Gattung)としての人聞 から生じるものである。それゆえに,それは,すべての人聞が等しく有するも のである。それは,はじめから類としての人聞の精神のうちに存在するのであ り,したがって,経験的(aposteriori)でなく先験的な存在である。このような 存在としての価値は,人間にとって久遠の価値(ewigeWerte)である。 このように,規範科学は,経験的実在としての諸々の人間に見出される経験 的実在としてではなく,先験的な類としての人間に先験的に存在するものとし て,法則および規範を理解する。わたくしは,類としての人間,そしてこのよ うな人聞に存在するとされる法則および規範がし、ずれも経験的実在ではなく, (24) F. Schonpflug, a.. a. 0, S.82 (25) これは,原文ではFormenとなっているが, Normenの誤りであると考えられる。 (VgJ. F.Schδnpflug, a a 0, S.. 80 )

参照

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