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量・関係・性質 : アリストテレス『範疇論』の場合

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(1)

量・ 関係・ 性質

―― ア リス トテレス『範疇論』の場合―一

田 畑 博 敏 (平成 5年 6月21日受理) `よ じ

bに

ア リス トテレス『範疇論』 における「実体論」 については

,本

誌 に発表 した拙論ですでに論 じて いる(1ち 小論 はその続編 であ り

,実

体以外のカテゴ リ‐

,

とくに『範疇論』で比較的詳 し く扱われて いる「量」「関係」「性質」 を

,ア

リス トテレスのテキス トに員日して この順 に考察 してい く。ア リス トテレスにとって,これ らのカテゴ リーは個々の事物のあ り方 を聞 う問いの立て方 に対応 していた。 しか し

,無

,事

物 のあ り方 をどのように分類するか とい うことは,「問いの形式」とい う言語的枠 組 みだけで片づ く問題 ではな く

,事

物 その ものへのアプローチが前提 されている。「

2尺

」という規 定 は,「

2倍

」とい う規定 とどう異 なるか

?2尺

とい う量 はある事物が単独で持 ち うる規定であるの に対 して

, 2倍

とい う規定 はある事物が他 と比較 されて初 めて持 ちうる規定である。知識の所有 と 子供 を持つ (子供 を生む

)こ

ととはタイプを異 にす る規定である。 ある知識 (例えば文法の知識) を身 につけることにより「知識 を持つ人」 と呼ばれ

,ま

たその点で「知者 である」 とも呼ばれる。 しか し

,子

供 は知識 と同 じ意味で所有することや身 につ けることはで きない。確か に

,子

供ができ て「親」 と呼ばれ るが

,そ

れは常 に子供 との対応 において初 めて語 られ ることである。逆 に子供 も 親 と呼ばれる人 に対応 して初 めて子供である。 しか し

,知

識 はこれ とは異 なる。子供 は親 の存在 を 抜 きにしてはあ りえないのに対 して

,知

識 はその所有者か ら独立 してお り

,ま

た子供 には特定の親 しか存在 しないのに対 して

,知

識の所有者 は無数 にあ りうる。 ア リス トテ レスに とって知識 を持つ ことは性質の一つであ り

,親

であること (および子供であること

)は

関係であ り

,こ

れ らは異なる カテゴ リー とされ る。カテゴ リーの分類 は,「問いの形式」とい う言語表現上の機構 を手掛か りにな されるが

,そ

れの基盤 となるのは事物 その ものの在 り方であ り

,加

えて反対性 の有無

,程

度の差の 有無等 といったカテゴ リー全体 を測 る標識 によって も吟味 されてい くのである。 それでは,「量」の カテゴ リーか ら順次検討 してい こう。

(2)

§

1量

『範疇論』

6章

,ア

リス トテレスは「量」について論 じている。内容 を細か く検討す るに先立 っ て

,全

般的な観点か ら

,

ここでのア リス トテレスの「量」論の取 り扱 い方 を見 てみ よう。 アク リル も指摘す るように②

,第

一 に「量」を表現す る術語 として対応す る抽象名詞 (ποσι

ttf)を

用いるこ とな く

,疑

問形容詞 (π6σο⊂,一η, ο ν

)に

由来 し指示形容詞 として流用 される語 (ποあ ⊂,一″,一 6フ

)の

中性単数形 (πooroフ

)を

用いている点が注 目され る。 これは,「どれほ どの」という量 を問 う 疑間への答 えとい う形で「量」のカテゴ リーを考 えてい く

,

とい うア リス トテレスの探求 スタイル か ら自然 に出 くるもの と言 える。 しか しまた

,第

二 に

,量

的述語 その ものを記載・ 分類す るのでは な く

,量

的特性 を所有す る (あるいは量的規定 を帯 びた

)事

物 を記載・ 分類 す るとい う方法 を採 っ ている。量的特性の代表的所有物 として挙 げ られているのは

,数

(第ι″う⊂)・ 言葉 (九6γο⊂)・線 (9//昭解 ″)・ 面 (るμφttνεια)・立体 (σと勤α)・時間 (〃6νof)。場所 (あπο

f)の

七つである。す るとここで

,つ

ぎのような疑間が生 じよう。ち

[1]な

ぜア リス トテレスはこのようなや り方で探究 したのか

?[2]ア

リス トテレスの分析方法 は十分 な ものであるのか? まず

,問

[1]に

対す る解答 としては次の ことが考 えられ る。 さまざまの量的述語 に対応す る だけ多 くの量 に関する抽象名詞がギ リシア語 にはないゆえに

,量

的特性 を所有す る事物 によって量 的特性 その ものを代用 させざるを得 ない

,

ということ。 また

,量

を表す言葉の多 くが量的特性の所 有物 とい う意味 を担 うと同時 に

,抽

象的な量的特性 その ものを も意味 し得 る とい う両義性 を持 つ 一一例 えば

,単

位の集合 としての「数」 は多 さ (多数性

)と

い う量的特性 の所有物 である とともに 「限 られた多 さ」 として抽象的な量 の一つ とされ ることがあ り

,同

様 に「線」 も長 さ とい う量的特 性の所有物 と見 られ ると同時 に「限 られた長 さJと して量の一つ とも見 られ ることがある律)一一 とい うことである。 より厳 しい問いか けは

[2]の

それである。探究の方法の十全性 について は

,ア

ク リル によれば, 一定の条件 の下では

,量

的特性 の所有物 の リス トがそのままで量的特性 その ものの網羅的かつ相互 排反的分類 となる

,と

い う0。 しか し

,問

題 は「一定の条件」である。アク リルはこの条件 を

,①

の リス トが量的特性のすべてのタイプに対 してただ一つの (派生的でない

)所

有物 を含 み

,さ

らに ②記載 された各種の所有物がただ一つのタイプの量的特性のみを許容す ること

,

と分析す る。① の 条件 は

,量

的特性の網羅性 と所有物 の唯一代表性 とい うこと

,す

なわち

,量

的特性が一つの遺漏 も な くすべて完備 されているようにその特性 の所有物が記載 されてお り

,し

か も一つの量的特性 には ただ一つの代表的所有物が対応す る (一特性 に一代表

)と

い うことを要求す る。② の条件 は

,量

的 特性 の代表 となる所有物 はただ一つの量的特性のみを代表すること

,つ

まり二つ以上 の量的特性 を 重複 して代表す ることがない こと(一代表 に一特性

),を

要求す る。 この うち

,第

二の条件② は比較

(3)

量・ 関係・性質 的容易 に満た され る。(幾何学的)線は長 さ以外 の量的特性 は所有 しないであろうし

,単

位 の集 まり としての数 は多数性 という量的特性 のみを代表す るだろう。ユーク リッドは「線 は幅 のない長 さで ある」 として線 を定義 し161,ァリス トテ レス自身 も上述 のように「限 られた多 さ」 としての数,「限 られた長 さ」としての線 について語 るとともに,「限 られた広 さ」としての面,「限 られた深 さ[嵩]」 としての立体 について語 つている171。 要す るに

,数

,線,面 ,立

体 には

,そ

れぞれ多 さ(多数性 ), 長 さ

,広

,深

さ (嵩があること

)と

い うそれ らが代表す るただ一つの量的特性が対応 している。 ところが

,①

の条件 はむずか しい。量的特性 を網羅で きた として も

,各

特性 を代表す るただ一つの 所有物 を決定す ることは必ず しもで きない。例 えば

,重

さや強 さ(仮にこれ らを量的特性 だ として) を代表す るこれ らの特性の所有物 を一つ決定す ることは困難であろう。 さらに

,量

的特性 を網羅す ることも

,量

とい うことの範囲がいま一つ明確でないゆえに容易ではない。数 えた り測 った りして 「 どれほどの

Jと

い う問いが発せ られた とき

,そ

の答 えとなるものがア リス トテレスに とっては量 であると一応 は言 える。 しか し

,そ

れ以上 には

,少

な くとも [範疇論』 においては

,量

の定義

,判

定基準 を彼 は展開させてはいない0。 さて

,こ

れか ら『範疇論』のテキス トに沿 ってア リス トテレスの「量

J論

を追跡す る。

(1)不

連続量 と連続量 まずア リス トテレスは

,量

を不連続量 (ποめ フれo/Jι J/zるフοフ

)と

連続量 (πο溌 フω νεχ帝

)と

に 分 ける(4b20)。 ここでの連続 と不連続 の分類基準 は,「その部分が共通の境界 (χοιフう

f"ο

f)に接 触す るか否か」とい うことである。不連続量の代表 は数 と言葉である。数 (第ι

6f)が

不連続量で ある理由は

,数

の諸部分が共通 な境界で接触 することはない こと

,と

される。数の部分 と部分が接 触 し合 う共通の境界 を数の中に見出す ことはで きない。 5と 5は数10の二つの部分であるが

,そ

れ らはどこか共通 な境界で接触 しているのではな く

,分

離 されているのである。 3と 7も 共通 な境界 に接触 しているのではな く

,10の

部分 として分離 されている。数の諸部分 は分離 された仕方で一つ の数 を形作 っている。 それゆえ

,数

は不連続 な量 である。言葉(え69/of)も 量 とされ るのは一見奇異 な感 じがする。 この場合の言葉 とは

,書

かれた ものではな く音声 を伴 う話 された言葉で ある。話 さ れた言葉 は長短の音節で測 られ るか ら量 の一種 とされる。つ ま り

,言

葉の素材である音声が個々 に 分離 された音節か ら成 り

,そ

れが量的に測 られ る

,

というその点か らすれば

,付

帯的・ 派生的な意 味で量である。 これが不連続量であるのは

,言

葉 の部分である各音節が共通な境界 に接触 す ること がな く

,一

つ一つ分離 されているか らである。 連続量 としては

,線

(9/即

"),面

(とπιφ歳フε盟

),立

体 伯と勒

2)が

ある。 それ らには諸部分が 接触す る共通 の境界があるか らである。線 は点 (Йι9//″

)を

共通 な境界 としてそれに接触す る。面 の場合 の共通境界 は線であ り

,立

体 の場合 のそれ は線 と面である。 さらに

,時

間 (//J5νοg)と場所 (万πο 『

)も

連続量である。時間は現在 とい う時間瞬間 (b所》 χρ6ン

Of)で

過去 と未来 の両方 に接

(4)

触 している。現在 は過去 と未来の共通 な境界であるが

,点

が線 の部分でない ように

,過

去 と未来 の いずれの部分で もない。過去 と未来 という時間の部分 は現在 という共通境界で接触す ると同時 にそ こで分割 され る。場所が連続であるのは

,そ

こを占める立体が連続であることに起因す る。立体 の 諸部分 は共通 な境界 に接触 しなが ら場所 を占める。 それゆえ

,場

所 の諸部分 も共通な境界 に接触 し ていなければな らず

,そ

れ によって連続量でなけれ ばな らない。 鬱

)相

互 に位置 を持つ部分か ら成 る量 と位置 を持たない部分か らなる量 連続・不連続 とい う量の分類 に続 いて論 じられ るのは,「相互 に位置 を持つ部分か ら成 る量」と「位 置 を持たない部分か ら成 る量」 という区分である。 アクリルによれば

,量

がその部分 において本目対 的な位置を持つためには

,①

各部分が空間的な位置 を持つ(「どこかに在 る」た防症 που:5a18)と いうこと

,お

よび②各部分が分離されておらず他の部分 と接触 していることが必要である

,

という 形に整理できる0。 すると

,②

の要求により

,不

連続な量は相互に位置 を持つ部分から成 ることはで きな くなる。そして

,①

の要求によって時間が排除 される(1の。こうして,「位置を持たない部分か ら なる量」には数 と言葉 と時間が属する。線

,面 ,立

,場

所はいずれ も①

,②

の要求を満たすか ら, 「相互に位置を持つ部分か ら成 る量」に分類 される。ア リス トテレス自身の説明はこうである。線, 面

,立

,場

所の部分については

,各

部分はどこかに位置 してお り

,か

つ他の部分 とどういう位置 関係にあるかを説明できる

,

という。それに対 して

,数

の場合には

,そ

の部分がどこに位置するか を認知できない。 また

,時

間の部分は常に動いてお り止 まることがないか ら

,ど

こに位置するか言 えない。言葉 も話 されたが最後 どこかに止 まることがないから位置を持ち得ない。ただし

,時

間や 数の部分にはある「順序」(力与

f)が

あることは確かである。過去は現在 より先にあ り

,未

来 は現 在より後にある。 1は 2よ り

, 2は

3よ り先にある。 しかし

,そ

れ らの相対的関連は位置のそれで はない。 131 付帯的に量 と語 られ るもの 以上で語 られた ものが基本的に (厳密 に れ炉ω

f)量

と呼ばれ るものであるが

,付

帯的 。派生的に (κα力 卵 βeβηxう

f)量

とされ る場合がある。ア リス トテレスの挙 げる例 は,「白い もの力S大きい」 「ある行為が長 い」「ある運動が多 い」 と語 られ る場合 で ある。「 白い ものが大 きい」(πο九ラ τう えε%6フ :5bl)と 語 られ るのは

,た

また ま白 くある平面が大 きい ことによるか らだ, とい う。 また, (それに要す る)時間が長い ことによって「 ある行為が長 い」と語 られ る(・・・,χ沈 ″η夕

,fμ

αη 加 η

r

τbフ //J5フοフποえラν湿フαι:5b23)。 「ある運動が大 きい」(ヵ 症νηttf πο九九″

:5b3)の

場合 も同様 である。アク リル は

,ア

リス トテレスの この ような叙述 を「教条的」 (dogmatic)と 評 し

,厳

密な (自体的

)量

と派生的 (付帯的

)量

の区別が

,数

え上 げや測定 に関す る基本的過程 と派生的過 程の区別の萌芽 を含み得たにも拘わ らず

,ア

リス トテレスが これ以上 に発展 させていない ことを遺 憾 な こととしている(11ち アク リル 自身 も

,数

え上 げや測定 の基本的過程 と派生的過程 の区別 とい う

(5)

量・関係・性質 ものの具体的な提案 をしていない (例えば

,集

合の要素の間で単 に一対― に対応 させ ることと

,要

素間の構造・ 秩序 を保存す る形で対応 させ ることとの区別 といつた ことが考 えられ ようか二

)が

, この箇所で (5a38-5bll)ア リス トテレスが 自体的一付帯的

,厳

密一派生 とい う分類 (これはア リス トテレスの常套手段 の一つである

)だ

けで こと足 りるとしている

,

とい う印象があることも否 めな い。ア リス トテレス としては

,自

体的―付帯的の区別 は別 にここで事新 し く始 めた訳で もな く

,

と もか く

,そ

のような仕方で「現 に語 られている

Jこ

との解明 と記録 を行 っているにすぎない

,と

い うことになろう。

(4)量

には反対性がない こと さて次 に

,ア

リス トテ レスは量 には反対性がない ことを論 じる (5bll-6all)。 これ までア リス ト テレスは量的特性 の所有物 の考察 を通 じて

,量

その ものを論 じていたが

,こ

れか らは直接 に量 その もの

,量

的特性 その ものを取 り使 う。彼 は (単に「線」 としてではな く

)確

定 した量 その もの とし ての長 さ

,例

えば

2尺 , 3尺

には反対性がない とい う。 ある瞑 られた広 さとしての面(「面」とい う 語 は誤解 されやすい

,と

アク リルは言 う。り にも反対性 はない。 ところで

,こ

こで問題 になるのは, 「多」は「少」に,「大」は「小」に反対 だ といえないか

,

とい うことである。ア リス トテレスはそ れ らは量ではな くて関係である

,

と答 えることによってひ とまず切 り抜 けようとす る。彼 はつぎの ように説明す る。山が小 さい と言われ

,粟

粒が大 きい と言われ ることがあるが

,そ

れ らは量的 に規 定 されたのではない。山が小 さいのは別 の山 との関係 によって小 さいのであ り

,粟

粒 も同類 の粟 と 比較 してそれ との関係で大 きいのであって

,そ

れ らが量的特性 としての「小

Jと

「大」 を持 ってい るのではない。他 との関係 なしにそれだけで山が小 さい とか粟粒が大 きい とか言われ ることはない。 この村落 に人が「多 く」

,そ

れ よ り数倍 も大勢の人間がいるアテナイに人が「少ない」と言われ るこ とがあるの も

,同

様 の事情 による。 この説明は常識的ではあるが

,一

応理解 しうるものである。 つ ぎにア リス トテレスは

,仮

に大・ 小や多・ 少が量であるとして もしな くて も

,そ

れ らに反対性 はない ことを

,そ

れ らが関係であることか ら直 ちに導 こうとす る (5b30-33)が

,関

係 は反対性 を一 切拒否するものでない ことは

,以

下 に考察す る

7章

での「関係」の説明か らも明 らかである。従 つ て

,大

・小 とい う関係が どうい う理 由で反対性 を持たないか説明すべ きであるが

,そ

れについては 不明確 なままで残 している。 さらにア リス トテ レスは

,大

・ 小や多 。少が反対性 を持つ と仮定 した ときにある不合理が生ず る として

,一

種 の帰謬法 によって

,そ

れ らが反対性 を持たない ことを論証 しようとす る (5b33以下)。

論証

1】 :大

と小が反対ならば

,同

一事物が

,互

いに反対のものを

,同

時に受け入れることにな

る。 この論証 をア リス トテ レス はつ ぎの ように進 め る。 あ る事物 は一 方 に対 して は小 さいが他 方 に対 して は大 きい。例 えば2は 3に対 して は小 さいが1に対 して は大 きい。 す る と

,同

一 事物 が

,同

(6)

に大 きくかつ小 さいのだか ら

,同

一事物が同時に反対 の ものを受 け入れ ることになる。しか し,「同 一事物が同時 に反対 の ものを受 け入れ る」 ということは決 してない。例 えば

,人

は病気であ り同時 に健康であるとい うことはな く

,白

くかつ同時 に黒 い とい うことはあ りえないか らである。 しか し

,こ

の論証 には不十分 な点がある。大 と小が反対であることか ら帰結す るとす るその不合 理が

,論

理的に矛盾するか どうか に疑間が残 る。大 と小が関係であるとい うことは

,論

証 の前提 と して明示 されてはいないが

,こ

れ までの論述か らすれば

,そ

の ように仮定 して よか ろう。す ると, 大 と小 という関係が「反対 である」 という場合の「反対性」とは,「同一事物が同時 に同一の観点か ら同一の事物 に対 して反対 の ものを受 け入れ るJ(10こ とが無い

,と

い うことではなか ろうか?実際, 2は 3に対 して同時 に多 さ とい う観点か ら小 さ くかつ大 きい ということは不可能であるが

, 2が

3 に対 しては小 さいが1に対 しては大 きい ということは

,ア

リス トテレス自身 も認 めているように, 現 にあることである。従 って

,ア

リス トテ レスの この論証 は

,大

・ 小が関係であることを強いて無 視す るか

,ま

たは関係 に関す る反対性が禁 じる不合理 を強いて単純化す ることによって

,達

しうる 厳密 さか ら後退 した疑似論証だ

,

と言われて も弁解 しがたい もの となっている。

論証

2】 :大

と小が反対ならば

,事

物が自分自身に反対であることが帰結する。

この論証 をア リス トテレスはこう進 める。 もし大 と小が互いに反対であ り

,同

一事物が大であ り かつ小であれば

,そ

の事物 は自分 自身 に反対であることになる。 しか し

,事

物が 自分 自身 に反対で あることは不可能である。従 って

,(帰

謬法 によ り

)大

と小 は反対ではない。 この論証 も妥当性が問題 にな りうる。事物が 自分 自身 と反対であるとい う帰結が不可能であるこ とは認 めるとしよう。 それで も

,こ

の論証 は「特性

Aと

Bが

反対 であ り

,事

物 aと

bが

それぞれ特 性

A,Bを

持てば

, aと bは

反対 である」 ということを前提 して

,そ

れか らaと

bが

同一事物であ る

(a=b)と

,自

分 自身 と反対 になるとい う不可能 を導いているようであるが

,こ

の前提 自身 が正 しい原理であるのか どうか

,判

然 としない。 アク リルは

,仮

定か ら帰結す る不可能 (不合理) としては

,事

物が 自分 自身 と反対 になるということではな くて

,二

つの反対特性が同一 となるとい うことではないか

,

として この論証 を再構成 している(14ち

アクリルによる論証

2の

再構成】

1.大

と小 は反対 である (6a5);

2.あ

る事物 は同時 に大 き く

,か

つ小 さい (6a6);

3.反

対であるものは同一の類 に属す る (6a17);

4.大

と小 は同一類 に属す る (1と 3よ り)i

5,い

かなるもの も同時 に同一類か ら異なる特性 を受 け入れ ることはない (反対性 の受 け入れ 可能性 についての一般的法則),

6.大

と小 は同一である

(2, 4, 5よ

り。すなわち

,大

と小が異 なる とす ると

, 2と

4よ り

(7)

量・ 関係・ 性質 ある事物 は同一類 よ り異 なる特性 を同時 に受 け入れ ることにな り

, 5に

矛盾す る。 ゆえに 大 と小 は同一である。);

7.同

一の反対物があ りうる (1と 6よ り); ここで

, 7は

不合理である。 ところが7は

1, 2, 3, 5に

依存 して導出されてい る。 ところ が

, 2, 3, 5は

正 しいか ら

, 1す

なわち,「大 と小が反対である」が偽でなけれ ばな らない。

(5)程

度の差 と等・ 不等 量 には反対性が ないの と同様 に,「よ り多 くよ り少な くとい うこと」(τb μρええον/沈 め ″″οフ), すなわち「程度の差」 とい うものが量 にはない

,と

ア リス トテレスは論 じる。例 えば

,一

方の もの が他方の ものよ リー層「二尺

Jで

ある

,

とはいえない。 また

, 3が

5よ リー層

3で

あるとか

,あ

3が

他の 3よ リー層

3で

あるとい うこともいえない。 ある時間 (間隔

)が

他の時間 (間隔

)よ

り多 く時間である

,

ともいえない。ただ し

,

ここで大切 な ことは

,量

的特性 ない し量 その ものについて の程度の差 を否定 しているのであって

,量

的特性 の所有物 (線

,面

)に

対 してではない

,

とアク リルは注意 している(19。 ア リス トテレス は「一つの線が他の線 よリー層線であるので はない」 と言 いたいのではな く,「ある線が他の線 よ リー層二尺であるわ けではない」 と言いたいのだ

,

とい う。 「 ある時間は他 の時間 よ リー層時間である とも語 られない」(れ樋

9/eb〃

6νο⊂ む先ρο 『 と五ρου μρええονχρ5フοfえ9/cttι

:6a2223)と

い うア リス トテレスの言い方は不正確であ り

,例

えば「 あ る時間 または時間間隔は他 よリー層 〈一年間〉であるわ けで はない」 と言 うべ きである

,

という。 いずれにせ よ

,程

度 の差 を受 け入れ ることのある「性質

Jと

受 け入れない「量」 との対比 は

,ア

リ ス トテレスのカテゴ リー論の特徴的論点の一つである。

6章

の最後 のパ ラグラフ

(6a2635)で

ア リス トテレスは

,量

にとりわけ固有な こと (ぢ焼ον

)と

して,「等 しい 。等 しくない」(跨ον tt χ成 距νιω ν

:6a26)と

い うことが語 られ ることである

,

と 論 じる。例 えば

,立

体や数や時間 は等 しい とか等 しくない と語 られ る。 それに対 して

,状

,あ

る いは白さのような性質 は似ている とか似 ていない としか語 られない。 この例か らも分か るように, ここでは量的特性 の所有物が考 えられている。(『形而上学』1021allでの「 それ らの実体が一つであ るものは 〈同 じ〉である [と語 られ

],そ

れ らの性質が一つであるものは 〈似 ている〉[と語 られ], それ らの量が一つであるものは 〈等 しい〉[と語 られる]。」とい う叙述(10と比較すれば

,

ここでのア リス トテレスの意図が より明確 になる。)

S2

関係 『範疇論』

7章

,ア

リス トテレスは「関係」のカテゴリーについて論 じる。彼 は「関係」その ものを表現するギ リシア語の名詞 を持たない。そこで,「何かに対 して」 という意味のプロス・ティ

(8)

(z/95⊂ 寛)とい う前置詞旬 を代用す る。例 によって

,彼

は「関係」その ものを言わば抽象的 に扱 う のではな く

,関

係づ けられるものを表現す る言語表現 を手掛か りにして,「関係」その ものの構造 に 接近す る

,

というや り方 をとる。

(1)言

語表現 を手掛か りとしての「関係」の定義 と実例

ア リス トテレスは「関係」を定義す るに当たって

,関

係づけられ るものの言語表現 (「関係項」と 呼ぶ)に見 られ る特徴 を出発点 とす る。関係項

Aが

関係項

Bに

対 して,「

Bの

A」「

Bに

対 してのA」

とい うかたちで表現 され ることが

,Aと

Bが

関係づ けられていることの言語表現上のメル クマール である。「

Bの

」 とい うギ リシア語 は名詞

Bの

属格形であ り,「

Bに

対 しての」 とい うギ リシア語 は 前置詞 η

6gに

名詞

Bの

対格形が連 なった前置詞旬である。この言語表現 により,事柄 その ものの相 互依存性

,つ

まり関係性 とい うものの構造の探求 に手掛か りが与 えられる。例 えば

,よ

り大 きい も のは「何か よ り大 きい」(党νbf μ虎 “ ν

:6a389)の

であ り

,2倍

の ものは「何かの

2倍

である」(党νう年 れ滅 加仇οフ:6bl)。「何か より」「何かの」とい う関係 の対応物 は ともに属格で表現 され る。また

,山

は別の山に対 して大 きい と語 られ ∝ροf μと9/2える9/cttι ηb⊂ ξ7c/Jον

:6b8),似

た ものはあるも のに対 して似 ていると語 られ る (お 」ヵοιον党虎 J″οιονえる7Gttι :6b910)。 だが

,同

時 にア リス トテ レス は関係 的 な もの として

,状

態 (ざ矛

f),様

態 (れ歳先免年

),感

覚 (αぢσθη

ttf),知

識 (とれ防ね η

),状

況性 (売仇

f)を

挙 げている(6b23)。 その理由は

,状

態 は何 かの状態 として語 られ

,知

識 は何かの知識 として語 られ

,状

況性 は何かの状況性 として語 られ るこ とだ

,

とい う(6b46)。 これは一見奇異 な感 じを受 ける。「関係」というものを余 りに広 げることに なるのではないか

,と

疑 われる。アク リル もこう論 じている。一―状 態は必ず誰かの また は何かの 状態である

,

とい うことがア リス トテレスの意図のすべてな らば

,す

べての非実体語が関係語 とな ろう。 なぜな ら

,非

実体 は実体「 においてある」か らである。ア リス トテレスの意図 は

,お

そ らく 状態 は寛大 さの状態

,勇

敢 さの状態

,知

識 は文法の知識

,数

の知識であるということだろう。 しか し

,あ

る語が属格 を要求するということではな く関係 とい うもののあ り方が問題だ とすると

,状

態 や知識 はある特定の状態

,特

定の知識でなけれ ばな らない とい うことになる。 しか し

,類

的な もの が種的な ものによって限定 されることを要求す ることは

,関

係 のカテゴ リーに固有 な こととは思 え ない

,

と。つ。一一 当該箇所

(6b26)か

,こ

の点 についてのア リス トテレスの真意 を探 ることは難 しいように思われ る。

(2)反

対性 と程度の差 次 にア リス トテ レスは,「関係」における反対性 と程度の差 について簡単 に触れている(6b1527)。 反対性 は

,こ

れ を受 け入れ る関係的な もの とそ うでない ものがある。何かに関係づけ られてい るも の としての徳性 と悪徳

,知

識 と無知 は互 いに反対 である。 しか し

, 2倍

の もの

, 3倍

の ものには反 対の ものはない。同様 に,「より多 くよ り少 な く」(μρええοン/成 分″アoフ

)と

いう程度 の差 を受 け入

(9)

量・ 関係・性質 れるもの とそ うでない ものがある。類似性や等・ 不等 は反対性 を受 け入れ る。なぜな ら

,何

かに一 層似ているとか

,何

か に一層等 し くない と語 られ るか らである。 しか し

, 2倍

の ものはよ り多 く2 倍であるとか よ り少 な く

2倍

である

,

とは語 られない。

(3)可

逆性 次 に取 り上 げ られ る関係の特性 は「可逆性」

,す

なわち

,関

係的な ものが対応物 と交換 して語 られ ることである。例 えば,「奴隷 は主人の奴隷である と語 られ る」

(b

さ鼠 ο

f X防

3御υ え幹 2ι Sttο

f:6b29)が

,こ

こで「奴隷」と「主人」を交換 して「主人 は奴隷 の主人である」

(b甚

防6ηf あ祝 ου ttσπうτη

f:6b29-30)と

も語 られ る。同様 に,「

2倍

であるもの」(め れπλ夕悦οフ

)と

「半 分であるもの」(め イμιω

)に

ついて も,「

2倍

であるものは半分であるものの

2倍

である」と語 ら れ ると同時に

,関

係項 を交換す ることにより,「半分であるものは

2倍

であるものの半分である」と も語 られる。「 より大 きな もの」(お μ虎∞ν

)と

「よ り河ヽさい もの」(τ

b『

λα″ον

)に

ついて も, 同様 な可逆性 (交換可能性

)が

成 り立つ。 これ らの場合

,主

格 で表現 され る関係項

Aが

属格で表現 され る関係項Bと交換 され るとき

,Bが

主格

,Aが

属格 になる。場合 によっては

,語

り方の相違で 語尾変化 も違 って くる。(主格

A:属

格B〉 が

,交

換 の後,〈主格

B:与

格A〉 となることがある。 例 えば,「知識 は知 られ うるものの知識である」(″ と″σ力μηるππttτの とれσ力μη

:6b34)と

語 ら れ るが

,交

換 の後,「知 られ うる もの は知識 に とって知 られ うる もの で あ る」(め と窪吻 お ν と疵

"物

″と窪勁 あフ

:6b3435)と

語 られる。「感覚」(αttθηttf)と「感覚 されるもの」(αを初ηあν) の対についても同様の ことが言える。事実上,こ こでアリス トテレスは逆関係のことを考えている。

現代流の捉え方では

,関

係 Rと 関係

Sが

逆関係であるのは

,任

意の項

X,yに

ついて

,Rxyと

Syx

が同値であるとき

,そ

の ときに限る。すなわち,

vxvy(Rxy→

Syx) が成 り立つ とき

,か

つその ときに限って

,関

係Rと

Sは

逆関係である。例 えば

,関

係「親」の逆関 係 は「子」であ り,「子」の逆関係 は「親」である。ア リス トテレスの場合 は逆関係 を

,関

係項相互 の交換可能性 として捉 える。その際

,(主

格一属格〉の対 とい う言語表現上の構造が

,交

換 とい う操 作 によって も保存 され ることが原則であるが

,場

合 によっては変更 され ることも認 めている。 ところで,「親 と息子」「父 と子」の ように

,こ

の可逆性 (交換可能性

)が

成 り立たない場合 もあ る。ア リス トテレスの挙 げる例では「翼 と鳥」である。「翼 は鳥の翼である」(め π7crJbν 7Lθ

of:

6b3839)と

は言えるが,「鳥は翼の鳥である」 ∝ρフι⊂πτερου

:7al)と

は言えない。 これは

,二

つ の関係項が交換可能なもの同志の対応 という

,本

来の対応になっていない (鳥以外にも翼を持つも のがある

)か

らである。つまり対応する関係項の与え方が本来的な仕方では(οと/湧ω

f:6b37)な

さ れていないか らである。そこで,「鳥」に対応する関係項 としては「有翼のもの」(τb πttρω万フ) が与 えられねばならない(7b2)。 すると,「翼は有翼のものの翼である」と同時に「有翼のものは翼

(10)

において有翼である

Jと

して

,可

逆的 となる (7a45)。 可逆性 (交換可能性

)を

回復 させ るために, 新 しい名前が必要 な場合 もある。「陀 は舟の陀である」とは言 えるが

,舵

と舟の関係 は可逆的ではな い。なぜなら

,舵

のない舟 もあるか らである。その とき,「舟」に対 して「陀付 きの もの」という名 前 を新たに造語す ることで交換可能 としうる(7all 15)。 同様 に,「頭」と「動物

Jの

関係 も可逆的 でないか ら,「有頭の もの」(め χεφαえωあ フ

)と

い う名前の造語 によって本来の可逆的関係 を与 え ることができる。

(4)同

時性 「関係的な ものは

,本

性上同時的であるように思われ る

J(あ

χ虎 焼 力 z/96f寛 抑″ η φttει 痘フαι:7b15)と ア リス トテレスは述べ る。

2倍

の ものがあるか ら半分 の ものがあ り

,半

分の ものが あるか ら

2倍

の ものがある。奴隷があれば主人があ り

,主

人があれば奴隷がある。 これ らの関係項 は消滅 という観点か らも同時的である。つ まり

,一

方が消滅すれば他方 も同時 に消滅す る

,

という 意味で同時的である。

2倍

の ものがなければ半分の もの もな く

,半

分 の ものがなければ

2倍

の もの もない。 しか し

,関

係的な もののすべてが本性上同時的であるとは思 えない

,

とア リス トテレスは 言 う(7b2223)。 本性上 同時的であるわ けではない関係的な ものの例 として,「知識」と「知 られ う るもの」とが挙 げられ る。「 なぜ な ら

,知

られ うるものは知識 より先 に存在 していると思われるか ら である。」(め アゎ る腐σ町め ν ηfるπιστ力μηf ηarerD。フヵフ勇第ιεν£ν2ι

:7b23-24)知

られ うる ものが消滅す ると知識 を滅 ぼすが

,知

識 は消滅 して も知 られ うるものを滅 ば しはしない(7b27-29)。 ア リス トテレスは

,知

識 とい う形では未だ知 られていない事物が無数 にあると考 える。例 えば

,円

の求積法

,す

なわち

,任

意の円の面積 と同 じ面積の正方形 を求める知識 は未だ存在 していないが, その こと自体 は知 られ うるもの としてある, とア リス トテレスは考 える (7b3133)。 知識 と知 られ うるもの とい う対 にあるの と同様の事情が

,感

覚 と感覚 され るものの間 にもある(7 b35)。 感覚 され るものは感覚 よ り先 にある。なぜな ら

,感

覚 され るものの消滅 は感覚の消顔 を伴 う のに対 して

,感

覚の消滅 は感覚 され るものの消滅 を伴 うことはないか らである (7b3638)。 感覚 は 物体 (5効α

)に

関わ り動物 の身体 (σaをα

)に

おいてあるが

,身

体 は感覚 され るものの一つである。 従 って

,感

覚 され るもの (物体

,熱

,甘

,苦

さ等

)が

消滅すれば動物 も消滅す るし

,感

覚 も消 滅す るのである。 低

)難

問 と再定義 ところで,『範疇論』8a13以 下で

,や

や唐突なが ら

,ア

リス トテレスはいかなる実体 も関係的な も のに属す ることはないのか

,

とい う難問(力πο

2)の

検討 に入 る。 このような問いを考慮す る動機 としては,「頭」や「手」が「何かの頭」「誰かの手」 といった全体一部分関係 を構成す ると思われ, また「牛」「材木」が「誰かの牛」「誰かの材木」 といった所有関係 をなす と見 えることであろう。 これ らはいわゆる「第二実体」であるが

,第

一実体が関係的な ものに属 さない ことは明白である,

(11)

量・関係・ 性質 とア リス トテレスは考 える (8a1617)。「なぜな ら

,或

る(特定の

)人

間が何か或 ものの一 ある (特 定の)人間 とは語 られない し,或 る牛が何か或 るものの一或 る牛 とも語 られないか らである」(b額″ρ

,f歩

フ9/9ωποf οうえる9/Mttι ttν6⊂ 党⊂湧フ9/Jωπο⊂, ο挽港

b兌

⊂β板

(党

ν

bf'fβ

断(:8a16-18)。 全体 として見た第一実体

,例

えば「或 る特定の人間」,「個人 としての或 る人間全体」が以上 のよう に関係的な ものではない とすると

,部

分 としての第一実体

,例

えば「或 る特定の人間」 とい う全体 に対す る部分 としての「或 る手」「或 る頭

Jも

,同

様 に関係的ではない。なぜな ら,「何か或 るもの の或 る手」とか「何か或 るものの或 る頭」とは言 えないか らである(8a19,20)。 第一実体 の場合 は, 「言語的」にもこのような言い方 は許 されない (許され るのは「何かの手」「何かの頭

Jと

い う言い 方である:8a19,20)(18ち 第二実体 の場合 も大抵 は関係的ではない。「何か或 るものの人間」「何か或 るものの牛」「何か或 るものの材木」とは言わないか らである(8a2123)。 牛 は所有 されている牛 も あればそうでない ものもあろう。所有 されている牛の場合

,そ

の牛 は「何か或 るものの所有物であ る」(党ッb⊆ ″独 α

:8a24)と

言 えばよい。 しか し

,身

体 の一部 としての「手J「頭」の場合

,全

体 一部分 とい う関係 (と思われるもの

)が

これ らに対 して,「何か或 るものの」(寛′ι⊆)と い う属格で 示 され る対応物 を要求す るように思 える。 この

,第

二実体 のあるものは関係的な ものではないか

,

という難問を解 くために

,ア

リス トテレ スは「関係」の定義 を再検討す る。『範疇論』

7章

の冒頭では

,こ

う定義 されていた :「関係的な も の と言われるのは

,ま

さに何であるか とい う点で

,そ

れ 自身 〈他の ものの〉 と語 られ るか

,ま

たは 何か別の仕方で,〈他の ものに対 して〉と語 られ るような

,そ

のようなものである」(η

5f寛

焼 カ τOια

えるγεται, 」σααbτ疵〃περとじ視フさ益pωッ湿ναιぇる9/cぢαι″bπωσ。つリ カ九λω

f

″ρb『 ざτεροフ:6a37-38)。 この定義 は言語表現 の形態 によって

,関

係のあ り方 に接近 した ものであった。 ここでの く他の ものの〉は

,対

応す る関係項が属格で現れる。す ると,「何か或 るものの頭」(党フbf χεφαえ力

:8a2627)が

この定義 に当てはまると思われ

,そ

こか ら「頭」は関係的な もの と結論 した くなる。 これを避 けるためにア リス トテレスは

,次

のように定義 し直す:「関係的な もの とは

,[そ

れの何で]ある とい うことが

,そ

れが何か に対 してなん らかの関係 にあることと同 じであるような, ものである」(ξ伊ゲと '力 町お

f寛

fお

湿フαι 2うτbフ るστιη z/9bf tt πωf Fχειν

:8a3132)こ

れによって

,ア

リス トテレスは彼 の難問 を解決 した ことになるのだ ろうか ?ア ク リル はこの箇所の 論点 を以下の ように整理 している(19ち

(a)ア

リス トテレスによれば

,第

一の基準 (最初の定義

)で

は頭や手 は関係的な もの となるが, 第二の基準 (新しい定義

)で

はそ うはな らない。

(b)第

一の基準が

,事

物が何であると 〈語 られ るか〉

,何

であると く呼ばれ るか〉に言及 している のに対 して

,第

二の基準 はそうはしていない。(伝統的には

,secundum dici[陳

述 に基づい て

]と secundum esse[本

質 に基づいて

]と

して区別 される。)

(12)

(C)ア

リス トテレスは

,第

二の基準 によって関係的な もの とされた ものはすべて第一 の基準 を満 たす と述べている (8a3334)。

(d)第

二の基準 は

,あ

るもの

Aが

関係づ けられているもの

Bを

「確実 に知 る」 とい う必然性 をも た らす と言われ るが

(8a3537),こ

の必然性が頭や手 の場合 に成 り立たない とい う事実 は, 修正 された基準 によれば

,そ

れ ら [頭や手

]が

関係的な ものではないぅとい うことを示す も の とみなされ る (8b1519)。 アク リル は

,第

一の定義 と第二の定義 の違 いを明確 にす るのは(d)である

,

と言 う。確か にその通 り であろう。頭や手 は何物かの (また は誰かの

)身

体 の一部ではあるが

,例

えば

,身

体 の他 の部分が 隠 されていて も

,手

や頭であることは十分 に知 ることがで きよう。「誰の頭か」「誰 の手か」 を知 ら ず とも

,つ

まり

,そ

の「誰」 を特定で きな くとも

,そ

の身体部位が ともか く何かの頭であ り

,何

か の手であることは知 ることがで きる。すなわち

,第

一の定義 に含 まれる基準では

,Aは

必ず何か

B

Rで

あるが

,Aが

何 の

Rで

あるか

(Bの

正体

)を

知 らな くとも

,Aが

Rで

あることを知 ることが で きる。 それに対 して

,第

二の定義 に含 まれ る基準で は

,Aが

Rで

あることを知 るのは

,Aが

何 の

Rで

あることを知 るときに限 られ る。 しか し

,こ

の基準 は強す ぎる

,

とアク リルは言 う。 その理 由 は

,文

句な しに関係語である「半分」や「奴隷」が この基準 を満た さないか らだ

,

とい う。97があ る他の数の半分であることを

,そ

の数が何であるか を知 らず とも知 ることがで きるし

,カ

リアスが 奴隷であることを

,誰

がカ リアスの主人であるかを知 らず とも知 ることがで きるか らだ,と い う¢0ち しか し

,こ

の点 についてはア リス トテレスを弁護す る余地があるように思われ る。97が 〈ある数〉 の半分であることを

,そ

の 〈ある数〉が194であることを知 らないで どのように知 ることがで きるの だ ろうか?「どんな数 にもそれの

2倍

の数が ある」

(Vxヨ

y(2・

X=y))と

い う一般法則か ら導 くのだ ろうか

P(し

か し

,そ

の一般法則 はどうして知 るか

P)お

そらく

,ア

リス トテ レスの意 図は, 97が他 な らぬ194の半分であることによって しか,97が何かの半分であることも知 り得 ない,と い う ことであろう。 これは

,関

係の可逆性 (逆関係)についての議論か らも推測で きる。97が194の半分 であるのは

,194が

97の

2倍

であるとき

,か

つその ときにか ぎる。従 って

,194が

97の

2倍

であるこ とを知 るとき

,か

つその ときにか ぎ り

,97が

194の半分であることを知 るのである。97が何 かの半分 であることを

,つ

まり97が関係的なものであると知 る ということの内には

,対

応す る関係項 の正体 を知 っていることをも含むであろう。一般法則か ら知 る

,ま

たは類推 によって

(1は 2の

半分

, 2

は4の半分

, 3は

6の半分

,…

,従

って97もある数の半分

,

とい う形で

)知

ることが

,仮

にで きる として も

,そ

れは97が関係的なもの としてあることを知 るという知 り方 とは別であろう。「奴隷」の 場合 も同様であろう。 ある人間の

,衣

食住 の状況や

,労

働時間や

,許

されている財産・権利・義務, そういった ものか ら

,彼

の主人が不在で も

,彼

が奴隷であることを推測で きるか もしれない。 しか し

,厳

密 には

,そ

れは彼が「奴隷的境遇」 にあるとい うことを知 るだけではなか ろうか?「主人 と

(13)

量・ 関係・性質

13

奴隷」 という関係的な ものの一方の項 を彼が担 っていることを知 るのは

,

もう一方の項 を知 るとき に限 られる

,

と考 えられ る。ア リス トテレスの意図 はそのような ものではなかったろうか。 §

3

性質 F範疇論』

8章

でア リス トテレスは「性質」について論 じる。「量」の場合 とは異な り

,こ

こでは ア リス トテレスは,「′性質 その もの」を表すために抽象名詞 ποι6η⊂を用いる。「 どのような?」 を 意味する疑問形容詞 に由来す る指示形容詞 (ποι3フ

)は

,性

質の述語づ け(性質づ け

)の

ために残 さ れ る。むろん

,今

度の場合 も

,言

語的なアプローチによって性質 その ものの構造 に迫 ろうとす る戦 略が採用 され る。すなわち,「それに基づいてあるものが 〈どの ように〉と語 られ るもの」(χαθ',フ ποι税 党νεfえるγονゲαι

:8b25)が

「ザl■質」(ποι6η

f)で

ある。 しか し

,一

口に「サ性質」 といつて も さまざまな仕方で語 られ る (賃Dν ttεοフ

qafえ

εγ攣乙νωッ

:8b26)か

,ま

ず性質の種類 を確定す ることか ら探究 は始 め られ る。 ア リス トテレスは四つの種類 の性質 を区別 している。順 に検討 して い こう。

(1)状

態 [性状]・様態 [様相

]お

よび生得的能力・ 無能力 第一 に挙 げ られ る性質の種類 は

,状

態[性状](ざ多f)と 様態[様相

](売

浄θεttf)である。「状態」 は「所有

Jを

も意味す る語であ り

,長

期 に互 って持続 し(πολttρ5νιο

f),安

定 してお り(μ5フιμο⊂) 容易 には変化 しない (δυσ〃τフη

ttg)あ

り方 (性質

)を

指す。 それに対 して,「様態」は容易 に変化 し (誌崩フη砲⊂

)し

か も直ちに変化す る(ταχラμεttβttλえοフ交

f)性

質である。 ア リス トテレスによれ ば

,知

識や徳性 は状態である。何かを学び知 り

,そ

の事柄 について安定 した物 の見方 。捉 え方 を獲 得 した状態が知識であ り

,そ

れが魂 の持つある性質 とみなされ る。同様 に

,正

義 (れ/2ιοあ フη

)や

節制 働 ″ οorvνη

)と

いつた徳性 (わεヵ)も

,魂

の長期 に亙 る安定 した性質である。様態 [様相] の例 は

,熱

(9eρμ6η

f),寒

け [冷え](χ α力 ψ巧

(),病

気 (フ6ω

f),健

康 (ち左εια

)で

ある。人 はこのような ものに基づいて何 らかの様態にあるのである 俗滋χειttι・…πω

f

χ

22 2悦

α

f b

カフのωπο 『 :8b3738)。 しか し

,そ

れ らは容易 に変化す る。熱 い様態か ら寒 い様態へ変化す るし

,ま

た病気 が 回復 して健 康 にな る。不 治 の病 になった り (カカ2το

f)習

性 (ない し慢性

)と

なって (歴φttιるフη

)元

にもどらない場合 は

,む

しろ状態 と呼ぶのがぶ さわ しい (9al-4)。 こうして, まず最初 に挙 げ られ る性質の種類 は状態 と様態であ り

,こ

れ らの特徴が対照的な もの として扱われ る。

ただこの場合

,状

態と様態を区別する二つの基準

,す

なわち①長時間の持続性と②変化しにくさ

とが分離することがあるか否かについては

,明

確ではない¢

1ち

この両者①

,②

をともに満たすのが

状態であり

, ともに満たさないのが様態である。では

,①

を満たすが②は満たさず

,あ

るいは①は

(14)

満たさないが② は満たす といった場合についてはどうか。例 えば

,さ

ほど頑健でない (つまり変化 せず安定 している訳ではない

)人

がたまたま健康 を保つて

,そ

れが長期間続いた場合はどうか。彼 の健康はあやういバランスに基づ くものであって

,何

かひどい流行病などにぶつかれば直ちに病気 になる類のものであるが,幸運にもそのような事態に直面することをたまたま免れた という場合は, ①は満たすが② は満たしていない例 となろう。 また

,あ

る知識 をマスターした人が突発的な事故な いし病気によって(例えば記憶喪失や言語障害 といった形で),突然にその知識を失 う場合はどうか。 彼の持つ学識 は他人の追随を許 さぬ堅固なものであったにも拘わ らず(②をみたす

),突

然中断され た (①を満たさない

)の

である。 このような中間的・過渡的な場合 も確かに考えられる。その場合 にアリス トテレスが どのような処理をしたかは

,一

つの思考実験課題 となろう。 アリス トテレスが論 じる第二の種類の性質は

,あ

る生得的な能力・無能力である。例えば,「拳闘 に適 している」(π

%党

/6f),「 競争に向いている」(d/Jttιχ6『),「健康的である」(ち宅ειフbf),「病 気がちである」(フοσあ労f)と いったことは

,生

得的(生来の

)能

力 または無能力 的 Tμιf φ万″″ ″力dt/甲戸α

:9a16)に

基づいて語 られる性質である。 これ らのことは(たまたま

)あ

る様態にある ことによって (η れαχεισθ滋 瓶叫

:9b16-17)語

られるのではない。いま

,た

またま健康な様態 にある

,ま

たは拳闘の試合にたまたま勝 った

,と

いうことでは「健康的である」 とか「拳闘に適 し ている」 とは語 られない。何かを容易に為 したり何 も被 らない (何も影響 を受けない

)と

いう生得 的能力を持っていることによって (巧 肋νttιν ttειフφ∽″″ντぬ ποιησ″ι党 粋税ωf″μη燒フ 滋cttιν

:9a1819)語

られるのである。学習によって何かの技能を身につける場合

,そ

の教育シス テムが完備 した ものであればほどほどの成果は誰にでも上がるだろう。技術にまで整備された技能 取得の方法は

,学

び手の素質に無関係に教育効果・修得効果を与えて くれる。 しかし

,こ

こで言わ れる能力はそうではない。四苦八苦 して身につけた拳闘家は

,素

質 (才能

)に

恵 まれ容易に拳闘技 能を修得 してい く拳闘家 とは違 う。単に為す ということと容易に為す ということとは違 う。 ここで 語 られる「健康的な人」 とは

,た

またま微妙なバランスの上に立ってやっと健康を維持 している人 ではない。ちょっとやそっとの病原にもび くともしない

,生

まれつきの頑健な体力の持ち主のこと をいうのである。「病気がちの人」とは

,流

行病にかかって現在たまたま病気である人のことではな く

,も

ともと (病原体の接近などの

)外

からの影響に弱い

,影

響 を克服する能力 を欠いている

(=

無能力

)人

のことである。ある技能の修得が生来の素質にどの程度まで依存するかは

,ど

れ くらい 明確に語れるのか。おそらく微妙な問題があろう力Y2り,こ こでアリス トテレスが考えていることは , 技能獲得の過程での容易さや

,健

康・病気 といった身体の状況のあ り方に基づ く

,相

対的な区別で あると思われる。(「硬 さ」。「柔 らかさ」 もこのような能力の一つ とみなしていることか らも

,こ

の 区別はかなり概括的なものであろう。)

(15)

量・ 関係・性質

(2)受

動的性質・ 受動態お よび形状・ 形態 性質 の第二の種類 は

,受

動的性質 陸 物寛χ″ποιb留 『

)と

(広義の

)受

動態 (力θο

f)で

ある。 受 動 的 性 質 の 例 と し て は

,甘

さ (9/A財物 宇)。 幸 さ [ま た は 苦 さ

](μ

//96ηf)・ 酸 っぱ さ (ση

"フ

)といった味覚の性質

,熱

さ(θε解 うηf)・冷た さ(ψttρ

)の

触覚 の性質

,白

さ (λε財6η宇)・黒 さ(μεえαttα)といった色である。 これ らの うち

,味

覚の性質 と触覚の性質 は

,味

覚 (γttι

f)と

触覚 (》φヵ

)と

い う両感覚 においてある受動態を作 りだす原因であるゆえに

,受

的性質 と呼 ばれ る。甘 さを持つ蜜 は

,舌

において「甘い」 という受動態 を作 りだす。蜜が甘いのは 本性的 に甘いのであ り

,何

か を受動 して甘 くなった訳ではない。本性上熱い火 は

,近

づ く物体 を温 め

,熱

くする。熱 さを本性的 に有す るものは

,そ

れ 自体が何かを受動 して熱 くなるので はない。む しろ

,他

の ものを熱 くする。他の ものに「熱い」 とい う受動態 を作 り出す。 こうして

,味

や触 の性 質が受動的性質 と呼 ばれ るのは

,そ

れ らがある受動態 を作 り出す能動的原因であるか らである。 そ れに対 して

,色

は受動の結果である。 ここで考 えられている色 は顔 の色 (肌の色

)で

ある。赤 ら顔 の人の赤 い皮膚の色

,熱

帯地方の黒 い人 の黒い皮膚の色 は

,い

ずれ もある受動態の結果であって, これ らの色が他の ものに何か受動態 を作 り出す ことはない。(白い布 を赤 い染料で染 める と布 は赤 く なるか ら

,色

も受動の原因 となるとも考 えられ るが

,

ここでは色一般ではな くもっぱ ら肌 の色だけ をア リス トテレスは念頭 に置いている。) 広い意味では短期間の一時的受動態 も性質 とみ られ るが,「どのように?」とい う問いの答 えとし ての「ザl■質」 という観点か らは

,一

時的な受動態 は受動的性質 とは区別 され る。例 えば

,恥

ずか し い思い をさせ られて一時的に顔 を赤 らめるとき

,確

かにその人の顔 の色 は赤 くなっているが

,そ

れ によってその人 を「赤 ら顔 の人」 と呼ぶ ことはで きない。 また

,脅

迫等 によって恐怖 を感 じて一時 的に真 っ青 になるとき

,そ

のひ とは確か に青 白い顔 の色 をしているが

,そ

れによってその人 を「青 白い顔 の人」 と呼ぶ ことはで きない。 ア リス トテレスが考 える「受動的性質」 は

,基

本的 には恒常 的な性格 の ものである。 もちろん

,熱

帯地方に長 く住 んでいたため皮膚が黒 くな り

,そ

れが一生の 間持続 す るとい うような場合 は

,受

動的性質 となる。「 どのようにP」とい う問いが

,現

在 とい う時 間に限 られず

,あ

る程度永続的な状況でのあ り方 を聞 うもの と理解すれば

,一

時の受動 による受動 態 は性質 とは言いがたい。 ここで もア リス トテレスは

,問

いの形式の中に解答 の仕方 を予 め設定 し た形で考 えている。 さて

,第

四の種類の性質 は

,三

角形・四角形 といった形状 唸 効 α

)や

形態 (μo/9φ

),さ

らに線 や面の持つ真直 さ (れ肋ッ

f)や

曲が り (/印 滅 5717⊂

)で

ある。 いわゆる幾何学的性質 に相当す る ものである。幾何学的な形 は確かに性質 と言えようが

,物

体の表面部分の もつ形状

,例

えば木 目の 粗 さ(τδμ2ν 6フ

),木

目の細 か さ(τδπッ フbν

),ざ

らざらしていること(お 7/Dαχう

),滑

らかさ(め え虎ον

)は

性質ではな くむ しろ位置 (先仇

f)に

分類 され る

,

とア リス トテ レス は考 えてい る (10

(16)

a1624)。 とい うのは,物体 の部分が接近 しているか隔たっているかで木 目の粗 さと細 か さの違いが 生 じ

,部

分が凹凸な く一直線上 に整列 しているか否かで滑 らか さとざらざらの違 いが生 じるか らで ある, という。 以上

,四

つの性質の種類 をア リス トテ レスは区別す る。 これは最終的・決定的な区分 とい うより 差 し当たっての作業成果である。 これ以外の分類 の仕方

,こ

れ以外の性質のあ り方が あるか もしれ ない

,

とア リス トテレス自身断った上で (10a25),性質の基本的な部分 はこれで押 さえた とみなし (10a25),以後

,性

質の全般的な特徴 を論 じる。 僧

)性

質づ け と反対性 と程度の差 さて

,あ

る事物 について

,そ

れが「 どのようにあるか?」 とい う問いに対 して

,そ

の事物 の性質 が答 えられ る。 しか し

,そ

の場合

,性

質 その ものの名が直接 その事物 の名 に述語づ け られ る訳で は ない。 むしろ

,述

語づ け

,性

質づ けにおいては派生的に(z2/9ωνttω

f)語

られ る。性質が述語づ け られ る場合

,述

語づ けという言語的形式 の観点か ら

,ア

リス トテレスは「性質づ け」(ποι6ン

)と

呼 ぶ。カ リアスが「 どのようにあるか?」 と問われて,「彼 は色 白である(えεッaf)」 と語 られ,「彼 は 白さである

Jと

は語 られない。 もちろん, ここで白さ(λεッ6ッ

f)が

J陛質その もの としてあって, これに基づいて述語づけ・ 性質づ けが派生的 になされる。大抵 の性質づ けはこの方式 でなされ る。 例 えば

,文

法術 (9/pαんvαttχ

)か

ら文法家 (b9//望解ιοttχι 『

)が

派生 し

,正

義 (虎χαιοあ νη

)か

ら正 しい人 (b ttχαιο

f)が

派生す る。 しか し

,い

くつかの場合 には

,

この ような派生的な性質づ けはなされず

,別

な仕方で性質 その も のに由来す る性質づ けがなされ る。一つは

,性

質 その ものに名前がない場合である。例 えば

,生

得 的な拳闘能力や格聞能力 にはそれ らの能力 に対応す る固有 な名前がない。 しか し

,そ

れ らの技術・ 知識 には名前があつて

,そ

れ ら (拳闘術 π

%党

χ″

,格

闘術 撤γλαπηιχ″

)に

由来 して

,拳

闘家 (b 胸腕

76f)・

格闘家 (b παλαιo中ι/6年

)が

語 られ る。 もう一つの場合 には

,性

質 その ものには名前 があって も

,派

生的にではな く全 く別 な言葉で性質づけられ る。例 えば

,徳

性 徽ρε力)に基づいて 立派な人 (b ttοお腕ο

f)と

語 る場合である。 ところで

,性

質 には反対性がある。例 えば

,正

義 と不正

,白

さと黒 さは互 いに反対 である。 これ に伴 って

,二

つの反対 の性質 に基づ く性質づ けにも反対性があることになる。すなわち

,正

しい も の (お 税χαιοフ

)と

不正 なもの (め 力虎χον), 白い もの (τ

b

λεッ6ν

)と

黒い もの (τb μるλαν) は互 いに反対である。 しか し

,す

べての性質づ けが反対性 を持 つ訳ではない。炎の色 [炎紅](τ う 独静bフ)や黄色 (め あχρ6ッ)には反対性 はない。 また

,反

対の ものの一方が性質 な らば他方 も性質 である。(この原則 はあ らゆるカテゴ リー に当てはまる,と ア リス トテレスは考 えてい るようである (10b1819)。 つま り

,Aと

Bが

反対であると言われ るとき,これ らには両者が属す る共通 なカテゴ リーが存在す る。)

(17)

量・ 関係・ 性質

17

さらに

,程

度 の差 について も

,大

部分の性質づ けは程度 の差 を受 け入れ るが

,そ

うでない もの も ある。一方が他方 よ り白い とか

,白

さが増 しているといった ことが語 られ ることか ら

,明

らかに白 さは程度の差 を受 け入れ る。 しか し

,正

義 その もの

,健

康 その ものに程度 の差があるかは論争 の余 地があろう

,

という。性質 その もの としての正義や健康 には

,多

い 。少 ない ということはないので はないか とも考 えられ るか らである。だが

,正

義 をより少 な く持つ とか健康が増進 しつつある

,

と いう語 り方 はで きるか ら

,少

な くとも性質 その ものに基づ く性質づ けにおいては

,正

義や健康 に も 程度の差 (多い 。少ない

)が

語 られ る。程度の差が全然問題 にな らないのは

,図

形の性質 (形) である。三角形 の定義 を受 け入れ るものは三角形以外の ものではな く

,四

角形の定義 を受 け入れ る ものは四角形以外 の ものではない。従 つて

,三

角形が四角形や他の三角形 よ リー層三角形である と い うことはない。 は

)類

似・ 非類似 と予想 され る疑問・批判 量 に固有 な特徴が等・不等であったのに対 して

,性

質 に固有 な特徴 は「似 ている (類似 "レ οιοツ)」 とか「似ていない()F類似力νttοιοフ)」 とかが語 られ るとい うことである, とア リス トテレスは言 う (1la15-19)。 ある事物が他 の事物 に似 ているか否かが語 られ るのは

,性

質 に基づ く以外 にはない。 これは

,量

と違 い

,性

質が程度の差 を受 け入れ る場合が多 い ことと密接 に関連す る。三尺 と四尺 は 端的に不等であ り

,似

ていない と語 ることには意味がない。連続的な程度の差 (半ば三尺で半 ば四 尺 というような量

)を

三尺 と四尺の間に考 えることはで きないか らである。それに対 して

,白

さ と 青 白さ (半ぼ青 く半 ば白い こと

)に

は類似・ 非類似 の連続的な度合いが考 えられる。いずれ も白さ を共有 しているかぎ り両者 は類似 しているのであ り

,ま

た一方 は青 さを欠 き他方は所有 してい る点 で両者 は類似 していない。

8章

の最後 のパ ラグラフで,ア リス トテレスは予想 され る疑間 また は批判 に答 えようとしている。 その疑問 とは

,性

質 を論 じるとしなが ら状態 (ξ

ttf)や

様態 (れ歳先悦⊂

)の

ような関係 を論 じてい るではないか

,

とい う疑間である。例 えば

,状

態の例 として挙 げられた知識 は,「何かの知識」と語 られ る (寛フb⊂ど駐働勿η える9/c ttι

:1la25-26)か

ぎ り

,関

係であるか らだ

,

というわ けである。確 かにそうだ, とア リス トテレスは認 める。 しか し

,類

(たフοf)と しての知識 は確かに関係であるに して も

,個

別的な知識 (例えば文法的知識

,音

楽的知識)はそうではない。なぜな ら,「文法的知識 は何かの (例えば文法の

)文

法的知識である」 とか「音楽的知識 は何かの (例えば音楽の

)音

楽的 知識である」とは語れないか らである。 もちろん,「文法的知識 は何かの知識である」とか「音楽的 知識 は何かの知識である」 とは語 りうる。従 って

,個

別的知識 は関係ではない。そ して

,性

質 とい うもの,「どのようにあるか?」という問いの答 えは

,こ

の個別的知識 に基づいて語 られ るのである (λεγoμεθα tt ποιο】拗鷲 χαθ'どχα」

72:■

a3233)。 「なぜな ら

,個

J的なある矢日識 を持つ こと によって知者である (知識 を持つ人である

)と

われわれは語 られ るか らである (るれσヵμοフεf 9/2/D

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