鄧小平の対外開放構想と国際関係
1978 年、中越戦争への決断
益尾知佐子
はじめに
鄧小平の改革開放は、世界、特に東アジアの国際関係を大きく変えた。それ以前、冷戦 と中ソ対立、そしてベトナム戦争と、東アジアでは長い間政治的、軍事的対立が続き、国 際政治構造は各国の内紛と絡み合いながら複雑な組み換えを繰り返してきた。中国はこの ゲームの中で常に主要なプレーヤーであった。しかし中国が改革開放に舵を切ったこと で、域内の資本主義各国で始まっていた経済発展への脈動は、かつての陣営の対立を超え て大きな潮流として結集し、東アジアは比較的平和な経済的繁栄の時代を迎えることに なった。 鄧小平が指揮した改革開放は、1978 年 11 月から 12 月にかけて開催された中国共産党(中 共)の中央工作会議、および直後に開かれた第 11 期三中全会で始動したとされる。これは 究極的には、両会議で党の工作重点を階級闘争から経済建設に移行することが公式に承認 され、人事の上で華国鋒派から鄧小平派への権力移行が始まったからである。 これまで鄧小平の権力掌握は、鄧の党内での威信の高さを前提に、政治闘争の当然の結 果として捉えられることが多かった。先行研究はこの過程で、内政面の理論闘争の展開を 重視し、失脚した幹部の名誉回復、華国鋒の経済政策の失敗、都市住民の民主化運動など が鄧に有利に働いたと見ている(Harding, 1987: 55–57, 60–61; Lieberthal, 1995: 128–133)。 しかしこれには次のような問題が存在する。第 1 に、当時国内で最も威信を誇ったのは 毛沢東であった。文化大革命(文革)末期に国内改革で「整頓」で経済建設を指揮したも のの、最終的に毛に批判され失脚した鄧の立場は脆弱だった。第 2 に、鄧が熱心だった経 済建設には華国鋒も意欲的だった(Lee, 1984: 20)。後に「洋躍進」と揶揄される華の国民 経済発展 10 カ年計画の原案は鄧が 1975 年に作ったもので、両者の違いは階級闘争と経済 建設のどちらに重点を置くかの問題だった。文革の動乱を経て誰もが慎重になっていた政 治状況の中で、より抜本的な改革を主張する鄧を国内勢力が支持する必然性はなかった。 第 3 に、対外開放による「4 つの現代化」(工業、農業、国防、科学技術)の実現には外国 との協力が不可欠で、鄧は国際情勢に細心の注意を払った。1978 年 8 月に日本と平和友好 条約を結び、9 月から 11 月にかけて周辺 6 カ国を 24 日かけて訪問し、翌年元日に米国と の国交樹立を果たす一方で、経済建設とは一見矛盾する対ベトナム攻撃を 2 月に発動した。これらはどのように結びつくのか。当時の内政と外交の関連に着目した先行研究は少なく ないが(Harding, 1980: 124–130; Hamrin, 1984: 491–501)、中国国内に関する情報不足のため、充 分に検討されてきたとはいえない。しかし国際関係と鄧の権力掌握との関係を考察しなけ れば、当時の中国政治の全体像をバランスよく検討することはできない。 中国は建国後常に自国の国力をはるかに上回る大国と対立し、1969 年以降は事実上敵を ソ連の「覇権主義」に絞っていた。1978 年当時の中国は依然、国際情勢は非常に厳しいと 考えていた。かつて毛は同様の国際情勢の中で、階級闘争で国内を浄化する閉鎖的な戦争 準備態勢を敷いた(宇野、1986: 425–429)。だが鄧は対照的に、大胆に対外開放して積極的 に経済建設に邁進する選択をした。未だ消えぬ毛の影の中で、なぜ鄧はこのような選択を し、それを他の指導者に認めさせることに成功し、政権を掌握できたのか。 本稿は 1978 年の中国で、内政の転換に外交が果たした役割を分析し、鄧小平の権力奪 回の過程を再考する。より具体的には、鄧の初期の対外開放構想における国際情勢と対外 政策の位置づけを考察し、それが国内の政権闘争に果たした役割を検討する。こうするこ とで、本稿はまた、改革開放時代に中国外交の最高指導者として君臨した鄧小平が、その 初期にどのような対外政策を描いていたのか明らかにする。 本稿の結論は次のようなものである。鄧は毛沢東外交の正統な継承者であり、敵との徹 底的な対峙を是とした。しかし鄧の弱点は毛に国内の経済政策を批判され失脚した経歴 だった。そこで鄧は、中国が毛の対外路線を忠実に実行した結果、国際環境に変化が生じ、 資本主義先進国がソ連と対峙する中国の強大化を支援している、そのため厳しい国際情勢 にも関わらず中国が大胆な経済建設を展開する機会が到来している、とその経済政策を正 当化した。こうして鄧は毛沢東の対外政策を用いて自らの経済政策を正当化し、党内の工 作重点を階級闘争から経済建設に移行させることに成功し、権力掌握を果たした。しかし まさに鄧がソ連の脅威を重視したため、インドシナ情勢が悪化しソ連の影響下にあるベト ナムと対立が深まると、鄧は権力掌握とほぼ同時に対越限定攻撃の発動を決定することに なった。 本稿は近年中国で編纂、公開された二次的な歴史資料を多く用い、関係者の回顧録や公 開報道を組み合わせ、問題へのアプローチを試みた。これらの資料は政治的な制約を受け やすく、批判はあるが、他方中国の最近の情報公開量は目覚しい。われわれはその政治的 意図や限界には敏感であるべきだが、それらが指し示す新事実に目を覆うべきではあるま い。なお本稿は可能な範囲で諸外国の外交資料等も用いた。 分析の背景として文革末期の鄧小平と中国外交との関わりを説明しておきたい。1969 年 以降、毛はソ連への警戒を強め、対米接近と国連参加を経て、1973 年に「一条線」と呼ば れる対外戦略を国内で提起した。これは米国をはじめ日本、ヨーロッパ、中東および第三 世界との政治的団結を強化してソ連の脅威の抑止を狙うもので、公式文書では「反覇国際 統一戦線」と呼ばれた。1974 年 2 月、毛はその根拠としてソ連を米国と同じ「第一世界」 と定義する「3 つの世界区分」理論を提起し、実際はソ連を米国以上の「主要な敵」に位
置づけることを正当化した。この反ソ政策を実行するために起用されたのが、中ソ論争で 功績を残しながらも失脚していた鄧だった。鄧は国連で毛の新理論を世界に紹介した後、 国内でまず外交を担当し、その後党・政・軍の実務部隊のトップを任された。1975 年、鄧 は「整頓」を率い「4 つの現代化」を推進した。厳しい国際情勢の中でこれを理論的に正 当化するため、鄧は「一条線」戦略でソ連の世界戦争の発動を抑止している間に国内で経 済建設を進める政策を掲げた。本稿はこれを「両輪政策」と呼ぶ。「整頓」は徐々に科学 や教育の分野に広がり、年末には毛の怒りを招いた。年明け、毛は鄧への厳しい批判を指 示したが、外事工作だけは引き続き担当させるよう命じた。毛は最後まで鄧の外交は肯定 していたのである。しかし 4 月の清明節に天安門事件が発生すると、毛は再び鄧の更迭を 決めた(益尾、2006)。 1976 年 9 月 9 日、毛が死去した。翌月には四人組が逮捕され、文革は実質的に終わった。 鄧批判の中で毛が総理代理に指名した華国鋒が中国の最高指導者に就任した。
Ⅰ 対外開放への助走
1. 鄧小平の復活と中央指導者間の分業 政権強化を図る華国鋒にとって鄧の復活は頭の痛い問題だった。鄧は 1954 年から秘書 長、1956 年から総書記を務め、党中央の日常業務全体に精通していた。鄧の再復活を封じ るため、1977 年 2 月、華やその同盟者の汪東興らは「毛主席の意思決定はすべて断固擁護 しなければならず、毛主席の指示はすべて終始変わることなく遵守しなければならない」 という「2 つのすべて」を提起した。だが多くの幹部が鄧の復活を主張し、3 月には鄧の 段階的復活が決まった(邓谱:156; 邓、2005: 127–129)。鄧は早速党中央に「われわれは世々 代々、正確で完全な毛沢東思想をもって、全党、全軍、全国人民を・・・勝利の前進に導い ていかねばなりません」と書簡を送付し、「2 つのすべて」を批判した(邓谱:157)。双方 の政治的、思想的な対立は鄧の復活前から明らかだった。 しかし実務面では両者は穏当な関係を維持していたようだ。この間、復活後の分業問題 が話し合われている。1977 年 5 月 24 日、自宅に訪れた王震と鄧力群に、鄧小平はこう語っ た。「(私は)軍隊は担当しなければならない。(中央は)私に外事を続けてくれというが、 疲れるからやりたくない。もちろん今後も重要な外事活動に参加するのはいいが、時間を 多く費やしたくない。」「私が今考えているのは科学、教育だ。われわれが現代化する上で 鍵は科学技術の向上だ。…同時に教育もしっかりやらねばならない」(邓、2005: 137–138)。 華たち「すべて派」には軍事と外事の経験がなかった。しかし鄧は建国前は軍属で、「整 頓」中は人民解放軍の改革に着手した。外事面では、文革前に総書記として中ソ論争で活 躍し、文革末期は老衰した毛と周恩来に替わって多くの対外活動を担った。毛と周の亡き 後、中国には内政面の指導者候補は少なくなかったが、ハイ・ポリティックスでは中央指導者レベルの人材が欠けていた。「すべて派」は鄧にこの面での活躍を期待したのである。 鄧の外事工作を最後まで肯定した毛の意向も考慮されただろう。しかし鄧の関心はあくま で現代化にあった。希望はかなえられ、鄧は軍事と科学・教育を任された(邓谱:164)。 外事は当面李先念が兼任したと考えられる。7 月中旬には第 10 期三中全会が開かれ、鄧が 中央副主席、中央軍事委員会副主席、総参謀長などの要職に復帰することが正式に決まっ た。会議で鄧は早速「実事求是」を毛沢東思想の真髄として提起している(邓谱:162– 163)。 鄧と胡喬木、于光遠、鄧力群らとの 8 月 3 日の会談は、鄧小平と華の関係を伺う上で興 味深い。参加者は第 11 回党大会(11 大)の閉幕の辞で「2 つのすべて」を批判する策を練 りながら、「3 つの世界区分」理論に関する論文の執筆で意見を交換した(邓谱:170–171)。 ユーゴスラビアのチトー大統領の訪中を前に、新指導部は早急に対外政策を明らかにする よう迫られていた。「すべて派」はこの作業を対外経験の豊富な鄧に委ねたのであろう。 両者は政治的には牽制しあいながら、実務の上では一定の協力関係を保っていたように見 える。 2. 毛沢東の対外戦略の継続と国際情勢判断 11 大では華国鋒が党を代表して政治報告を行い、プロレタリア専制下の革命継続を誓い ながら四人組の粉砕と文革の終結を宣言した。対外的には毛の「革命的外交路線」の継続 を掲げ、ソ連の社会帝国主義の危険性を指摘した(『人民日报』1977 年 8 月 23 日)。直後の一 中全会で華は正式に党主席に選出された。 毛の外交路線継続には鄧も異論はなかったが、鄧はソ連反対の姿勢をさらに明確にして いる。27 日、鄧が胡喬木らに執筆させた論文が、おそらく政治局会議での承認を経て(杨、 1992: 330)新華社の名義で発表された。論文は「3 つの世界区分」が階級的理論であること を明確に肯定し、ソ連は米国より「さらに欺瞞性と危険性が高い」と主張した(『人民日报』、 1977 年 8 月 27 日)。毛は公開の場では常に米ソ双方を非難し、華報告もこれを踏襲したが、 この論文ではより明確にソ連に批判の焦点が絞られている。鄧は指導者の中ですでにかな り自由に国際情勢を判断する立場にあったようだ。 論文の発表に先行し、23 日、中共中央軍事委員会座談会の場で鄧はこう述べている。「戦 略問題や戦役での原則を含めた大きな戦略上の指導原則は、みな毛沢東同志が定めたもの だ。しかし現在敵は変化し、われわれの状況も過去と異なってきている。具体的にどう毛 沢東同志の戦略学、戦役学を運用していくか研究せねばならない」。さらに戦略委員会を 作って各種の作戦予備案の制定や改定に当たらせることも提起している(邓集:66–68)。つ まり鄧は毛の対外戦略を基礎としながらも、国内外の変化に応じて実際の状況判断を変え ていく必要を指摘したのである。華国鋒らが軍に素人であり、鄧が軍の改革を任されてい たことは、国際情勢に関して鄧に比較的大きな発言権を与えたのだろう。なお、この座談 会では戦争は 5 年間起こらないという 1975 年の見積もりが再提起され、その間に軍の簡
素化を進めることが決まった(邓谱:186–191)。 ただし鄧は、翌日のバンス米国国務長官との会見(邓谱:188–189)を最後に、翌年春ま で目立った対外活動を行わない。『鄧小平年譜』では、鄧がこの間教育および対外交流の 増大のため詳細な指示を出し、経済建設と軍の現代化のため先進的科学技術を導入するよ う関連部門に発破をかけていたことが示されている(邓谱:164–257)。 3. 第 5 期全人代に向けて 1970 年代中期以降、ソ連は米国とのデタントを掲げる一方、アンゴラ内戦、ザイール事 件、ソマリア内戦などに介入し、イランの反政府勢力に梃入れし、アフリカや中東を中心 に勢力圏を南に拡大していた。このような国際情勢と国内の経済建設への願望を理論的に 整合させることは、指導部にとってやや難しい問題だった。ソ連の覇権主義が膨張し世界 戦争が勃発するなら、中国が今経済建設を行う意味はない。この点で鄧の「整頓」の経験 は重要であった。鄧は復活後も両輪政策を掲げ、1977 年 12 月 18 日にはパキスタンの指導 者に「第三世界と第二世界の統一戦線がうまくできれば戦争は延期できます」(邓谱:247) と述べ、「一条線」戦略の有効性を肯定している。年末の中央軍事委員会全体会議では、 局地戦争の発生に備えて戦争の準備は行うべきだが、毛の外交路線に基づいて国際的な反 覇権闘争が展開されており、ソ連のグローバルな戦略配置も整っておらず、世界大戦はし ばらく勃発しないという国際情勢認識を示している(邓集:75–81)。 中国が海外からの先進技術導入に熱意を見せたことで、1978 年になると先進資本主義国 では中国市場への関心が高まった。中国は 1 月にフランスと科学技術協定を結び、2 月初 めに欧州共同体と期間 5 年の貿易協定を仮調印した。日本の経済界も貿易協定の締結を目 指して大型使節団を送ってきた。第二世界の先進国が中国の建設に積極的な協力姿勢を打 ち出したことは、両輪政策を掲げる鄧に自信をもたらした(邓谱:268)。他方アフリカな ど第三世界とは、中国が対外援助の削減を敢行したため、物質的な団結の強化が難しく なっていた(Deshpande and Gupta, 1986: 196)。こうして「一条線」戦略の団結の重点対象は 徐々に先進国に移行した。 2 月上旬、南イエメン首相が訪ソしてソ連との協力を打ち出し、エチオピアがソ連等の 支援を受けてソマリアを攻撃した。中旬、親ソ的な姿勢を強めていたベトナムがポル・ポ ト派の転覆を狙ってヘン・サムリンらをカンボジアの対抗勢力の指導者に擁立した (Chanda, 1986: 216–217)。ソ連の「覇権主義」の伸張を横目に、中国の指導者は新しい経済 政策の最終調整に追われた。これは後に華国鋒の「洋躍進」と揶揄されたが、鄧も策定に 深く関与している(国分、2004: 161–164)。2 月 9 日、中共中央政治局での討論で、鄧は先進 国から鉄鋼生産などの先進的技術を大胆かつ迅速に導入するよう主張している。「国際的 な動きに注意しなければならない、今はわれわれに最も有利なチャンスの時だ。つまり時 間を急いで 1 年分時間を早めれば、その方が勘定に見合うということだ」(邓谱:267)。だ がこの時点では、「チャンス」の意味はそう明確ではない。
2 月末、中国では 3 年ぶりに第 5 期全国人民代表大会が開かれた。華国鋒は政府工作報 告の中で、階級闘争の継続を掲げ、先進国からの大型プラント導入を含む国民経済発展 10 カ年計画を提示した(日史、2003: 1, 64–65)。この野心的計画の裏づけとなったのが、2 月 16 日に締結された日中長期貿易取決めであった。中国は日本に石油を輸出する見返りに先 進的な生産設備を導入することになった(Lee, 1984: 20–26)。 大会では憲法改正も行われた。その前文には「3 つの世界理論」の堅持が謳われ、最も 広範な国際統一戦線を結成して新しい世界戦争に反対することが誓われた。なお政府工作 報告では初めて「西欧その他の第二世界の国家」がソ連への対抗勢力として力をつけてき ていると言及された(『人民日报』1978 年 3 月 7 日、8 日)。 10 カ年計画が策定されると指導者の関心はその実施に移った。これには先進国との関係 強化が必須だった。ところが当時の中国は、米国とは国交がなく、日本とは平和条約締結 で暗礁に乗り上げ、外交上の基本的条件が不足していた。3 月 10 日、国務院の会議で指導 者の新たな責任分担が討議され、鄧は華の全面的工作の補佐を行い、それまでの科学・教 育分野に加え、外事にも李先念とともに責任を負うことが正式に決まった(耿、1998: 299; 邓谱:277–278)。経済建設の現実的な必要性が、鄧を再び外交の舞台の中央に呼び戻したの である。
Ⅱ 対外開放構想の主張
1. ブレジンスキー訪中と鄧小平の対外開放構想 3 月から 5 月にかけて、鄧は対外関係を含む複数の分野の指揮を同時に執りながら、「両 輪政策」をより大きな対外開放構想に発展させていった。 外交面ではまず、ソ連からの国家間関係の改善の誘いを、「中国側は空の声明ではなく 真の意味ある行動を見たいと望んでいる」と一蹴し(邓谱:275; 『人民日报』1978 年 3 月 26 日)、 「覇権主義」との対抗のため日本との平和友好条約の締結や(別枝、1982: 287; 王、1999a: 472)東南アジアとの関係強化に意欲を示した(邓谱:289–290)。軍では「新しい歴史的条件」 の到来を主張し、これを前提に改革のあり方を検討せよと指揮した(邓集:91–95)。公開資 料は「条件」の具体的内容に触れてないが、軍事作戦の性質を考えれば、鄧が中国の外部 環境に多大な関心を注いでいたことは間違いない。科学技術工作では、先進技術の導入に 必要な経済モデルを特に西欧に求め、4 月には党内で香港や西欧からの資金調達を主張す る一方、「資本主義国家の先進的な経験、良い経験は、我々もよく学んで自分のものにし なければならない」と谷牧らを西欧 5 カ国への視察に送り出した(邓谱:298, 305)。 5 月下旬、米国のブレジンスキー大統領補佐官の訪中は、絶妙のタイミングで行われた。 まず国内では、5 月中旬以降、鄧の右腕の胡耀邦が仕掛けた「真理の基準」論争で(日史、 2003: 141; 中共中央党史研究室、2001: 164–165; 于、1998: 340–341)政治情勢が騒然としていた。国際的にはソ連の「覇権主義」への懸念がさらに強まっていた。4 月末にはアフガニスタ ンのクーデターで親ソ政権が誕生し、また春先から中越関係の悪化が顕著になっていた。 1975 年 5 月のアメリカの撤退からほどなく、インドシナは中ソの権力争奪の場となった。 同年 6 月、ポル・ポトが秘密訪中し、毛や鄧と会見した。毛はカンボジアでのその実績を 肯定したとされる(MFAPRK, 1984: 76–77; CWIHP 1; 邓谱:59)。中国の指導者はポル・ポトに 「3 つの世界」理論に基づいてソ連と対抗すべきと説き、ソ連からの援助を断つよう迫った。 ポル・ポトは同意し、ソ連との国交樹立を拒否し、8 月には中国からカンボジアへの無償 の経済・軍事援助の提供が決まった(MFAPRK, 1984: 70–73, 86–87)。秋、中国は同じことを ベトナムにも求めた。9 月 29 日の鄧とレ・ズアン書記長の会見は険悪だった(CWIHP 2)。 統一後の国家建設を課題とし、中ソ双方の援助を強く欲していたベトナムは、中国の条件 を呑めなかった。中国はベトナムへの援助を大幅に削減したが、レ・ズアンは翌月ソ連か ら気前の良い長期援助を獲得した(Chanda, 1986: 26–28)。インドシナの共産主義者たちの間 でナショナリズムの炎が燃え上がり対立が激化すると、ソ連がベトナムの、中国がカンボ ジアの肩を持ったのは自然な流れだった。1978 年、ベトナムが南部の社会主義化をはかり 華僑を大量追放すると、中国はソ越結託への反感を一気に強めた(Chanda, 1986: 240–244)。 米国では、国交樹立交渉の有利な展開を狙い、ブレジンスキーが中国との対ソ戦略協力 を打ち出す作戦を練っていた。21 日の鄧との会談では、彼はまずカーター大統領が戦略的 協力の観点から国交樹立への決意を固めたことを伝えた。鄧は米国との対ソ戦略的協力が 亡き毛の意思であると強調しつつも、米国側の軟弱姿勢を「あなた方はソ連を怒らせるの が怖いようですね」と皮肉った。ブレジンスキーは「ソ連であなたと私のどちらが人気か 賭けてもいいですよ」と応じ、米中が擬似「同盟」関係を復活させソ連の脅威を抑止する 必要を唱えた(DDCS 1; 邓谱:313–314)。その他の個別会談で、米国側はその同盟国による 対中武器輸出に反対しないことを中国側に伝え、世界情勢に関する米国大統領文書を公開 し、極秘情報を用いて中ソ国境地帯でのソ連軍の配置情況をブリーフし、ソ連に関する情 報収集のため対中科学技術協力を行う可能性をちらつかせた(Chanda, 1986: 278–280)。晩餐 会でブレジンスキーは、「米中の友情は世界平和にとって不可欠かつ有益で、力強く安全 で強い中国はアメリカの国益に適う」とスピーチした(Brzezinski, 1983: 217)。 ブレジンスキーは華国鋒が米国との協力に慎重だったとしているが(Brzezinski, 1983: 215)、このころソ連ばかりでなくベトナムへの非難を強めていた鄧が(Oksenberg, 1982: 185) 米中協力の展開に魅了されたことは間違いない。28 日、鄧は再び毛の対外路線を高く肯定 し、ソ連との対抗を貫徹することの重要性を強調した(邓谱:316–317)。 鄧の構想が集約的に示されたのは、イデオローグ・胡喬木との話し合いの場であった。 30 日午後、2 人は全軍政治工作会議のスピーチ原稿の最終調整を行った。鄧は「2 つのす べて」に対抗して実事求是問題を説くべきと主張し、「問題はすでに起きている。実践が 真理の基準かどうかですら問題になっている。何とおかしなことか!」と感情を高ぶらせ た。
「今、国際的な条件はわれわれに有利なのだ。西側の資本主義国家は自分たちの利益 のためにわれわれが強大化するのをとても望んでいる。これらの先進国には困難が多 く、資金には出口がないから、われわれに金を貸すことを望んでいる。それをやらな いとはまったく馬鹿げている。現在南朝鮮も台湾も香港もシンガポールも…経済をあ んなに早く発展させられているのに、われわれができないとでもいうのか。われわれ は…今の現実から問題を発見し解決することができていない。こんな風に毎日 4 つの 現代化を話し合っても、話す中身はまったく空っぽだ」(邓集:108–109; 邓谱:319– 320)。 中国の指導者は「4 つの現代化」の必要性では一致していたが、そのやり方や速度につ いては意見が分かれていた。「2 つのすべて」の影響下、国内で資本主義型の経済モデルや 資本主義諸国との協力に消極的意見が多かったことは想像に難くない。このような状況 で、鄧は毛の対外路線の成功によって中国をめぐる国際環境が変化し、ソ連が世界的な脅 威となっているからこそ米国をはじめ先進諸国がその抑止力として中国の強大化を望み、 対中協力姿勢を打ち出していると指摘した。そしてこの機会を活用し、これらの国と大胆 な政治的、経済的協力を展開することで、中国の経済建設を加速させていく対外開放構想 を打ち出したのである。この言述は徐々に他の指導者に広まり、鄧が指導権を獲得する原 動力になる。 6 月 2 日、鄧は全軍政治工作会議で実事求是を毛沢東思想の真髄として強調し、新しい 歴史的な条件の下で思想を解放し、理論と実践を結び付けた問題解決を強調した(邓谱: 319–323)。これは「真理の基準」論争を肯定したものとして各紙に転載され、「2 つのすべて」 を批判する政治的潮流が全国的に徐々に広がり始めた。 2. 日中平和友好条約の締結 鄧が対外開放構想に向けて動き出すのと並行して、中越関係は悪化の一途をたどった。 5 月末にはソ連の軍艦がベトナムの 2 港に駐留し、ベトナム領土内に中国を標的とするミ サイル基地が建設された(『文匯報』、1978 年 5 月 30 日)。6 月には中越間で領事館設置問題が こじれた(曲、2000: 431–432)。ベトナムとカンボジアの間の領土紛争は激化し、ベトナム は経済相互援助会議(COMECON)に正式加盟を表明した。7 月 3 日には中国はベトナムへ の全経済・技術援助を停止した。7 月 12 日に中越国境が封鎖されると、華僑難民は海上に あふれ出した(川島、1983: 231, 242–244)。 ベトナム共産党が 7 月上旬に採択した「ベトナムの基本的な、長期的な敵はもちろんア メリカ帝国主義だが、直接の敵は中国とカンボジアだ」とする決議は、中国側を強く刺激 した(王、1999b: 68; 《当代中国》丛书编辑部、1989: 659–660)。7 月末、民主カンボジア政府の ソン・セン副総理兼総参謀長が訪中すると、中国は無償軍事援助の規模を格上げし、同国 への支持を公開した(王、1999a: 196; MFAPRK, 1984: 98–99)。米国の情報機関は、8 月以降中
国軍の戦闘機や戦車が徐々にベトナムとの国境地帯に結集し始めたとしている(Chanda, 1986: 322–323)。 しかし鄧は情勢の安定は保てると主張し続けた。7 月初め、軍事工業に関する報告を受 けると、「われわれには総合的な戦略的思想がある、(世界)戦争は 5 年間起きないかもし れない」と指摘した。翌月も同様の主張を繰り返し、「4 つの現代化」の重点を国防ではな く国民経済の発展と生産力の向上に置くよう指示した(邓谱:336, 350–351)。 周辺地域の緊張の最中、このような主張にはカウンターバランスが求められる。鄧はそ れを日本との平和友好条約に求め、締結を急いだ。周知の通り、同条約の締結交渉は、ソ 連反対を意味する反覇権主義条項を盛り込むかどうか、それをどのような内容にするかで 日中の意見が対立し、長年暗礁に乗り上げていた。ブレジンスキーの口添えもあり、日中 はようやく交渉再開で合意した。7 月からの事務レベル交渉では、中国の担当者は締結に 積極的姿勢を示し、条約はスピード調印にこぎつけた(若月、2006: 187–200)。懸案の反覇 権条項は、「この条約は,第三国との関係に関する各締約国との立場に影響を及ぼすもの ではない」とする日本側の案を中国側が受け入れ、第 2 条に盛り込まれた。 中ソ対立に介入したくないという日本側の思惑をよそに、中国は条約締結を依然ソ連反 対の文脈に位置づけていた(Subcommittee, 1978: 24–25)。日本の「一条線」への参入を意味 する反覇権条項を日本側に呑ませたことは、中国にとっては重要だった。李恩民は中国の 反覇権条項への固執を、ソ連反対より日中両国の対外政策に「自戒哲学」を課すためだっ たとしている(李、2005: 129-134)。しかし当時の対外政策全体を考察すればこの説明は成 り立たない。調印に当たり、鄧は園田外相に日中はともに4 4 4自衛力を強化すべきと述べてい る(霞山会、1998: 512)。この時中国が日本に対してソ連の「覇権主義」への反対を強調し なかったのは、10 月の鄧訪日で符浩中国大使が述べたように、日本の国内情勢への戦術的 な配慮であろう(資料③:11)。鄧は反覇権条項の細かな文言は重視せず、締結によって日 中の政治的協力、つまりソ連反対の戦略的協力が促進されることを期待した(Beijing Review, Feb 16 1979: 17-18; 邓谱:367–368)。9 月 12 日の金日成との会談で鄧は、反覇権条項を 条約正文に書き入れた功績を「世界で初めて」と満足げに強調している(邓谱:373)。 3. 国務院務虚会 対外的条件を整えながら、鄧とその賛同者らは 7 月 6 日から 9 月 9 日の国務院務虚会(理 論検討会議)を舞台に新たな潮流を生み出そうとしていた(日史、2003: 192)。国際情勢を背 景に、実務派指導者たちは対外開放による「4 つの現代化」の加速で合意した。 詳細は不明だが、参加者の回顧録によれば、討論では中国外交の展開が重要な役割を果 たした。理論的な影響があったのはユーゴスラビアとの関係である。中国は中ソ論争に先 駆けて同国を批判したが、文革末期以降徐々に関係を改善させていた。3 月、鄧と親しい 対外連絡部副部長の李一氓が同国を視察し、自主管理方式として知られるユーゴの経済方 式を社会主義と認め、その党と国家の階級性を肯定する報告書を提出した。中央はこれを
批准し、6 月、両党関係を約 20 年ぶりに復活させた(杨、1992: 332–333; 朱、2002: 31–32; 日史、 2003: 177–178)。報告書は会議で注目を集め、中国が社会主義的経済制度の多様性を肯定し 独自の経済発展モデルに歩みだす前提を作った(于、1998: 92–93)。 谷牧の西欧視察の報告書も大きな反響を呼んだ。訪問団は西欧資本主義諸国の経済運営 を詳しく紹介し、肯定的な評価を下し、中国はその経験を拒絶せず学ぶべきと結論した (于、1998: 93)。務虚会では、先進国から経済経験や技術、資金を積極的に導入すれば、他 の発展途上国のように中国も発展速度を上げることができるという意見が圧倒的な影響力 を持った(中共中央文献研究室、2000: 223)。 7 月 28 日、国務院研究室を代表して胡喬木が報告を行った。胡は客観的な経済規律の存 在を指摘し、政治的イデオロギーに固執する国内的な傾向を批判した。さらに「社会主義 制度の優越性と先進的な資本主義国家の先進的な科学技術、先進的な管理の経験を結合」 して「4 つの現代化」を加速するよう主張した(胡、2002: 55–62; 于、1998: 93–94)。 会議を指導した李先念は閉幕の辞でこう述べた。「現在…ヨーロッパ、米国、日本など 資本主義国の経済は不景気で、出口を探している。われわれには彼らの技術設備、資金、 組織的経験を利用してわれわれの建設を加速する勇気と能力を持つべきだ。われわれはこ の非常に得がたいチャンスを絶対に見過ごしてはならない」(李、2000: 45)。会議は国内の 政治・経済体制の改革、対外開放による 4 つの現代化の加速を決定し、国外の資金や先進 的技術設備を思い切って大量に導入すべきと指摘した(日史:192–193; 李、1989: 324–338)。 鄧の対外開放構想はまず国務院の実務者集団に取り入れられたのである。 しかしベトナム問題には好転の兆しがなく、鄧の心情は晴れなかった。8 月末にはタイ の国会議員にこう述べている。「現在国際情勢は…徐々に安定しなくなっている。われわ れは世界平和を望む。安寧を望んでいる。…戦争が始まれば 4 つの現代化は難しくなって しまう」(邓谱:368)。
Ⅲ 政権奪回と鄧構想の始動
1. 東北での「点火」 9 月上旬の訪朝の後、鄧はそのまま中国東北地区を視察した。16 日の長春でのスピーチ では、幹部らに文革で硬直化した思想の解放を訴え、階級闘争の継続を掲げる「すべて派」 を厳しく批判し、毛の思想を状況に応じて発展させるようこう主張している。 「4 つの現代化の実現にあたって、毛沢東同志のご存命のときになかったたくさんの良 い条件が今では存在する。(党)中央が現在の条件に基づいて問題を考え決心をしな ければ、多くの問題は指摘も解決もできない。例えば毛沢東同志がご存命のとき、わ れわれだって中国と外国の経済技術交流を拡大したかった。一部の資本主義国との経済貿易関係の発展を含め、外資の導入や合資経営などさえ考えていた。しかしあの時 は条件が整っていなかった。あちら(米ソ)がわれわれを封じ込めていたからだ。… 毛沢東同志の 3 つの世界区分に関する戦略思想がわれわれに道を開いてくださった。 …数年間の努力を経て、今日のような昔よりずっと良い国際的条件が作り出せた。こ うしてわれわれは国際的な先進技術と経済管理の経験を吸収し、彼らの資金を吸収で きるようになったのだ」(邓、1983: 127)。 鄧はさらに「今の現実から出発し、各種の有利な条件を充分に利用して、毛沢東同志が 提起し周恩来同志が宣言した 4 つの現代化の目標を実現」することが毛沢東思想の真髄と 説き、中央は党の工作重点を経済建設に移行すべきと主張した。鄧は翌日以降も同様の演 説を続け、このような東北視察を「点火」と呼んだ(邓谱:376–382; 邓、1983: 126–128)。 こうして鄧は「すべて派」を正面から批判し、党中央に工作重点の移行を迫った。その 根拠は毛の対外路線が成功し経済建設の加速に有利な国際状況が生まれていることであっ た。鄧はかつて国内政策で毛に批判されたが、外交面ではそれがなく、華国鋒政権下でも 国際情勢判断に大きな発言力を持った。東北での「点火」は、毛の権威を借りながら、資 本主義諸国との大胆な協力による経済建設を正当化し、内政の風向きを鄧に有利な方向に 転換させる効果があった。 9 月中旬には日本の河本通産相が訪中し、日中貿易取り決めの 5 カ年延長、4 倍拡大で 中国側と合意した。これも党内議論の方向性に影響したかもしれない。9 月下旬、務虚会 での李先念のスピーチ原稿が党内に配布された(邓谱:388)。25 日には胡耀邦がそれまで 間違った罪で失脚させられた者全員の名誉回復を指示し、毛の決定を絶対視する汪東興と 対立した(日史:260–261; 于、1998: 339)。だが華国鋒は鄧の対外開放構想に肯定的な姿勢を 表明した。国慶節の祝辞で「われわれは思想をさらに解放し、度胸をより大きく持って、 …歩みをさらに速め、…国外の先進的な経験を学んで利用し、わが国の社会主義建設の速 度をどんどん上げていかねばならない」と述べたのである(『人民日报』1978 年 10 月 1 日)。 10 月 6 日、務虚会の胡喬木報告がようやく公開された。9 日、中共中央は国家科学委員 会党組の文書を批准し、毛がかつて批判した「科学技術は生産力だ」という文言を肯定し た(日史:271–274)。14 日、鄧は軍幹部に、葉剣英が党の理論務虚会開催による討論を提 起し、「真理の基準」論文の全国配布を指示したと明らかにした(日史:280)。思想解放の 潮流は都市住民を刺激し、北京西単には鄧を支持する「民主の壁」が出現し始めた。 2. 国際環境と工作重点の移行 国内の政情を睨みながら、鄧は国際環境の更なる改善を図った。10 月、科学技術工作で 信頼する方毅を西ドイツとフランスに派遣したのだ。方毅らは西ドイツでヘリコプター技 術供与を含む科学・技術協定に調印し、フランスでは科学技術交流補充項目議定書に調印 して 7 億ドルの対空ミサイル輸入を勝ち取った(日史:275, 286)。これは西側先進国から中
国への初の武器売却となり、翌月イギリスが中国に警備艇用エンジンの売却を決める呼び 水となった。「ヨーロッパの政治家も中国がもっと強くなることを望んでいる」(邓谱: 389)という鄧の指摘は、これらの成果によって国内で更に説得力を獲得した。 中国をめぐる国際環境はあたかも鄧の正しさを証明する方向に発展した。10 月下旬、鄧 は条約調印式参加のため訪日した。鄧は福田首相との会見でソ連とベトナムの拡張への憂 慮を伝え、この文脈で中国は日米安保と自衛隊の発展に賛成すると述べた(資料①:6–10)。 福田は鄧に、軍事面以外なら「わが国は貴国の近代化に協力できるので、何か出来ること があれば遠慮なく言って欲しい」と協力を申し出た(資料②:8)。 中国の高位指導者の日本訪問は史上初だった。日本のメディアはこれを大きく取り上 げ、日本の近代化に積極的に学ぼうとする鄧の姿勢を好意的に報じた(資料③:5)。鄧は 各地の先進設備を見学し、日本側経済人に中国の経済発展への協力を約させた(裴、2002: 158, 164, 177–178)。記者会見では「顔が醜いのに美人のようにもったいぶっても仕方がない。 正直に遅れを認めることによって希望が生まれる」とユーモアを交えて発言し、日本人の 対中イメージを大きく向上させた(霞山会、1998: 527; 裴、2002: 164)。 中国の指導者にとっては、遠くない過去に対立していた日本での鄧フィーバーはやや信 じがたかったろう。条約で反覇権条項に同意し、ソ連反対の政治協力を誓った日本が、今 度は国民挙げて中国の経済発展に協力姿勢を示したのである。日本との関係強化という新 しい国際情勢は、党内で鄧の対外開放構想への信用を高めた。あたかも中京内部の疑念を 払拭するかのように、福田は鄧に、中国の 4 つの近代化の成功が「アジアの平和と発展の ためのみならず世界全体の安定と発展にとり重要」と述べていた(資料②:8)。 10 月下旬、ベトナム軍がカンボジアに乾季攻勢を仕掛け、紛争規模は一気に拡大した(川 島、1983: 246)。同じころ中越国境でも武力衝突が頻発した。11 月 2 日に開かれた中央政治 局会議で、鄧は日本訪問の成果を盾に華国鋒らから 2 つの合意を取り付けたと見られる。 第 1 に、翌年 1 月から党の工作重点を経済建設に移行することである。華は鄧の圧倒的な 外交的成果を目の当たりにして、階級闘争の看板を下ろし、鄧の対外開放構想をついに受 け入れたのだ(于、1998: 11)。第 2 に、中国に有利な国際状況を強化するため、米国との早 期国交樹立を目指すことである。米国側は年内が無理なら翌年秋になると中国側に伝えて いたが、華は正常化後も非公式に米台関係が維持されるならば反対という立場だった。鄧 は会議で「われわれはこのチャンスをつかむべきだ。」「経済的な意義からも早くしたほう が良い」と主張した(邓谱:417; 宫、2004: 234–235; Chanda, 1986: 330)。 3 日、ソ越両国は友好協力条約を締結し、ソ連はベトナムの安全保障への関与を約束し た。東南アジアの地域情勢には更なる緊張が走った。5 日には、鄧が東南アジア 4 カ国への、 汪東興らがカンボジアへの訪問に出発した。この時中国義勇軍の派兵を要請したポル・ポ ト派に対し、汪は支援を約束したものの、派兵への確約は避けた(耿、1980: 150; 王、1999a: 196; Chanda, 1986: 326–327)。 鄧は東南アジア各地で覇権主義への警戒と ASEAN 諸国との団結強化を呼びかけた(邓
谱:424–429)。シンガポールではリー首相に 2 時間半かけて真剣にソ連とベトナムの脅威 を説き、戦争に反対する者どうしが団結すべきと熱弁を奮った。またベトナムのカンボジ ア侵攻を憂慮し、中国がどうするかはベトナムがどこまで進むかにかかっている、と何度 も繰り返した。ただし翌日の会談では、鄧が党と国家の対外関係は別物としたのに対し、 リーは中国が ASEAN 諸国との関係強化を臨むなら域内共産党への支援を停止すべきと苦 言を呈したという(Lee, 2000: 595–601)。 3. 政権奪回と 2 つの対外的決定 鄧の東南アジア訪問中、国内では党中央工作会議が始まった。会議は本来農業など経済 関連の 3 問題の討議を予定していた。しかし開幕の辞で華国鋒は政治局が翌年 1 月から全 党の工作重点を社会主義現代化建設に移す決定をしたと告げ、まずこの問題を討論したい とした。華は移行の理由として中国の発展に有利な国際的条件の創出を指摘し、特に日本 が中国との政治・経済協力にますます積極的姿勢を打ち出していると鄧訪日の成果を強調 した。さらに具体例を挙げて日本との関係強化が西欧各国との経済関係強化をも促進して いるとし、こう主張した。「国際的情勢は今とても良い。まさにそうであるからこそ、… このような情勢をうまく利用して外国の技術と資金を吸収し、われわれの建設速度をどん どん上げようではないか」(于、1998: 78–80)。 会議は陳雲の発言をきっかけに「2 つのすべて」への党内不満が爆発し、想定外の展開 を迎えた。思想の解放が肯定され、天安門事件が名誉回復された。北京ではこれに呼応し て大衆が自主的なデモや集会を始めた。華は 25 日、批判を受け入れた全体報告を行った が、すでに統率力を失っていた(中共中央文献研究室、2000: 226–227; 于、1998: 97–107, 251– 256)。同日、北京の騒動で報告を受けた指導者の中で、議論を仕切ったのは鄧だった。鄧 は大衆を制御するよう主張した。「新しい技術を導入し、外資を利用するのも、自分が安 定していなければ他人は交渉を考えない。…安定と団結の局面を壊すな。これは中央の戦 略的配置だ、大局だ」。翌日から会議では汪東興らへの批判が始まり、陳雲など鄧に近い 幹部の昇級が決まった(邓谱:436; 于、1998: 97–119, 125–133, 212–213, 307–308)。36 日間の開 催期間中に党内のパワー・バランスは鄧の圧倒的な優勢へと傾いた。 華の指導権後退と鄧の実権掌握という極端な政治局面の中で、鄧は経済建設のための環 境を確保するため、厳しさを増す国際情勢に 2 つの対抗措置を打ち出した。ソ越の覇権主 義に打撃を加える対越攻撃と、「一条線」戦略強化のための対米正常化を、ほぼ同時に中 央の決定に持ち込んだのである。11 月 27 日、鄧は中央工作会議の一環で中央指導者と会っ た。それからすぐ外交関係者を集めて対米正常化に関する会議を開き、翌年 1 月 1 日の正 常化に向けて米国側との最終交渉の段取りを相談した(邓谱:439–441; 王、1999b: 378)。対 越攻撃の準備開始も並行して決められたと考えられる。12 月 1 日には政治局常務委員会が 大軍区司令員と省委員会第一書記を集めて顔合わせ会議を開き、鄧がスピーチを行った。 ここには対越攻撃の東段司令員となる許世友や、北方の国土防衛に責任を負う李徳生も参
加していた(李、2000: 49, 邓谱:445)。会議では対越攻撃の具体策が検討された。問題はカ ンボジアの領土と領海への直接派兵の是非だった。討論の末、いかなる国も他国に軍隊を 派遣すべきではないという原則に従い、中央は中国国境からベトナムを攻撃し民主カンボ ジアを側面から援護する決定をした(耿、1980: 150–157)。鄧は対越攻撃がソ連の大規模反 攻を招くことを警戒し、攻撃の表向きの理由を中越 2 国間の問題に限定しようとしたのだ ろう(Chen, 1987: 87–88)。 2 日、ベトナムではヘン・サムリンを議長とするカンボジア救国民族統一戦線が結成さ れ、カンボジアへの侵攻を開始した(MFAPRK 1984: 105, 王、1999a: 196)。9 日、広州に舞い 戻った許世友は攻撃準備の具体的な指示を書面で受け取ったようだ(胡、2005: 28)。 中国の安定を国外に示すため、鄧は休む間もなく中央工作会議の閉会の辞の執筆に取り 掛かった。2 日には胡耀邦、胡喬木、于光遠らと会見し、自ら詳細な概要を書き出して于 に原稿執筆を命じ、胡喬木に内容をチェックさせている。鄧の対外開放構想は、もともと 現在の国際的条件が中国の発展に有利ということが根拠だった。しかし中央工作会議で胡 喬木は、これを「今日的な情勢の必要と言ってしまえば、工作重点の転換の後、明日になっ たら必要ではなくなった、また元に戻しても良いということになる」と指摘していた。生 産力の発展を今後一貫した政策にするため、閉会の辞ではこのような理由付けは意図的に 排除されたとみられる(邓谱:450–446; 于、1998: 135–137, 304–312; 李、2000: 49)。これは葉剣 英が閉会の辞でなお「国際情勢はわれわれに有利で、世界の大多数の国家は侵略戦争を防 止するためにみな強大な中国を望んでいる」と指摘したことと対照的だった(叶、1996: 493)。 12 月上旬、カーター大統領が国交樹立コミュニケの米国側最終草案を送付した。米国側 に北京不在を告げていた鄧は、13 日と 14 日、ようやくウッドコック連絡事務所所長と最 終交渉を行い、米国案をあっさり受け入れた(Carter, 1982: 198)。驚いたカーターが 15 日、 ウッドコックを通して米国は正常化後も台湾に防御的兵器売却の権利を留保することを確 認すると、鄧は激怒した。誤解がどう生じたのか現時点では不明だが、中国との国交樹立 後も台湾との非公式な、武器輸出を含めた「商業的」関係を維持したいという米国側の意 図を、鄧が理解していなかったことは確かだろう。しかし鄧は他の指導者には相談せず、 問題の慎重な処理を口頭で求めただけで、結局その場で交渉に最終合意した(苏、1998: 423, 邓谱:452–453, Chanda, 1986: 332–333; DDCS 2)。ソ越両国との対抗上、対米正常化の早期 達成を急いだのだ。翌 16 日、両国は翌年 1 月 1 日の外交関係樹立を明らかにした。 18 日から 22 日、11 期三中全会が開かれた。会議は工作重点の移行を正式に承認し、党 中央の新人事を発表し、鄧の中央工作会議の「閉会の辞」を会議公報として公表した。 4. 統一戦線の結成と対越攻撃 12 月半ば以降、各地から選ばれた軍隊がベトナムの国境地帯に集められた。24 日深夜、 ベトナム軍はカンボジアへの軍事作戦を開始し、翌日『人民日報』は「われわれの忍耐に
は限度がある」と題する社説を公表した。これは実質的に中国の対越最後通牒となった。 中国は元日、ベトナムから楊公素大使を引き上げた(Chen, 1987: 88–90)。6 日、カンボジ アに専用機を派遣しシアヌーク殿下を救出した(王、1999a: 196)。7 日、プノンペン陥落と 同時に中国政府は声明を発表し、「ベトナム当局のこの気違いじみたカンボジア侵略は、 ソ連の拡張主義的な戦略計画に仕えるものだ」と断じた(『人民日报』1979 年 1 月 8 日)。 中国の大量の軍事援助にも関わらず、ポル・ポト派があっけなく壊滅したことは、中国 側を大きく失望させた。鄧の下で対越関係を担ってきた政治局委員の耿颷は、同月「プノ ンペンの敗退は 7 ヶ月早かった」と述べている(耿、1980: 147)。しかし、中国にとってカ ンボジアはすでにソ越「覇権主義」との闘争の焦点であり、後には引けなかった。中国は 反ベトナムのカンボジア勢力 3 派を連合させ、それを諸外国が支援することで、カンボジ ア問題で反ソ・反越の国際的統一戦線が結成されるよう試みた。 13 日、鄧はポル・ポトの義弟、イエン・サリを呼び出し、ゲリラ戦の貫徹と国内外で人 気の高いシアヌーク殿下との連合政権の結成を迫った。新政権の維持には隣国タイとの協 力が不可欠だった。同日、鄧はタイの副首相と会見し、石油輸出船にポル・ポト派への援 助物資を積載し、タイ領土内で陸揚げする相談を行ったようだ。直後、耿颷と副外相の韓 念龍がタイを訪問し、クリアンサック首相と極秘会見した。タイは中国のポル・ポト派へ の軍事物資補給を手助けをする代わり、ポル・ポト派のタイ国境地帯における挑発行動と タイ共産党に対する支援を停止するよう求めた。中国はタイに対し、ASEAN 諸国がヘン・ サムリン政権を承認しないよう働きかけを要請した。クリアンサックは悪名高いポル・ポ ト派に中国がてこ入れしすぎ、「全世界に対して面子を失うことのないよう」丁重に注意 を促したという(MFAPRK, 1984: 110–116; Goscha, 2006: 173–181; 邓谱:469–470; Chanda, 1986: 348– 349)。ニューヨークでは 1 月中旬、中国がカンボジア代表として国連に送り込んだシアヌー ク殿下が、ポル・ポト派からの長年の軟禁、監視に耐えかねて米国に亡命を図った。下旬、 鄧は訪米中の厳しい日程を調整し、シアヌークを直接説得して、亡命先を中国に変更させ た(Chanda, 1986: 365–369)。 中国側は対越攻撃前に中国支持の世論を世界的に醸成する必要を感じた(耿、1980: 144– 149, 160–161)。鄧は 1 月中に 2 回、米国メディアの取材を受け、自らその先鋒に立った。24 日のインタビューでは、ソ連の勢力が前年、南イエメン、エチオピア、アフガニスタン、 イラン、パキスタンで伸張し、さらにベトナムを通してラオス、カンボジア、アジア太平 洋地域西部へと東進を続けたことに強い警戒を表明し、世界は第三次世界大戦を引き起こ そうとする覇権主義の脅威に真剣に対処するべきと主張している(Beijing Review, Jan 12, 1979: 16–18, 24; Time, Jan 22, Feb 5, 1979)。
鄧は米中国交正常化交渉の中で 1 月下旬に訪米することを合意していたが、「一条線」 の団結を高めるため、急遽復路の日本立ち寄り訪問をセットした。これらを通して、鄧は ソ連への牽制力として重視する日米の指導者に対越攻撃を通告した。カーター大統領との 会見では、「もし平和と安全と安定に有利な世界を作り出そうというなら、国際情勢にま
じめに向き合うべきだ」と述べ(邓谱:476)、中越国境を越えてベトナムに懲罰的軍事攻 撃を行う計画を説明した。カーターは反対したが、鄧は攻撃が短期的で、そのような軍事 行動の結果は長期的で有益だと反論した。大統領はこう回想している。「彼はこの問題は まだ検討中だとしたが、私の印象では決定はすでに下されていた。ベトナムは懲罰を受け るであろう(Carter, 1982: 206–209)。」 訪 米 の 帰 途、 鄧 は 日 本 に 43 時 間 立 ち 寄 り、「懲 罰 を 加 え な け れ ば」 ベ ト ナ ム は 全 ASEAN 諸国に影響を拡大し、ソ連は同地域の勢力圏化を目指すと大平首相に説明した。 さらにソ連は日本にとっても大きな脅威だと強調し、ベトナム制裁にかかるリスクは「中 国が負担する」と明言した。大平は「深遠な洞察」とコメントし、懲罰行動には特に反対 を述べなかった(資料④:10–14)。中国はこれを対越攻撃への黙認と捉えただろう。 鄧が 2 月 8 日に帰国すると、国内では対越攻撃への最終的な意見調整が行われた。三中 全会で政治局常務委員・中共副主席に加わった陳雲は攻撃に反対を唱えた。鄧は陳に攻撃 のプラスとマイナスを多方面から考慮するよう求めた。何度かやり取りが繰り返された 後、ようやく陳は開戦に同意した(中共中央文献研究室、2000: 235–236)。 14 日、中共中央はベトナムに自衛反撃戦を行う通知を国内に発出した。16 日の幹部大 会では鄧が中央を代表して対越攻撃問題に関して報告した(邓谱:489)。広西と雲南に分 かれた人民解放軍は、ベトナムの中国領への侵犯を理由として翌日からベトナムに攻め入 り、17 日間の交戦の後、3 月 16 日に撤兵を完了した。
おわりに
鄧小平は 1975 年の「整頓」で用いた両輪政策を拡大し、ソ連の脅威が拡大する国際情 勢を利用して国内の経済建設を加速させる壮大な対外開放構想を描いた。中国が改革開放 の展開の中で試行錯誤を繰り返したことが示すように、この構想は用意周到で綿密な経済 発展計画ではなかった。しかし、絶対的な権威を持つ毛沢東の批判を受けて「整頓」が一 度挫折した以上、同様の積極的な経済政策を大胆に展開するには、イデオロギー的、理論 的な正統性を獲得して「2 つのすべて」に対抗する必要があった。毛の対外路線を引き継 いだ鄧は、ソ連の「覇権主義」への強硬姿勢を明確にし、その成功によってソ連の脅威を 抑止しつつ大胆な経済発展を行う機会が到来していると主張した。これは徐々に他の指導 者の受け入れるところとなり、長年の政治闘争に疲れ生活の向上を求める大衆や幹部の支 持にも後押しされ、鄧は再び政権を掌握した。つまり、理論的には鄧は毛で毛を制したの である。 対ソ強硬派であることが鄧の政治的資源である以上、その権力奪回の過程でソ連や「小 覇権」ベトナムとの関係が悪化することは避けられなかった。鄧は反ソ反越の国際的な統 一戦線の結成を精力的に試みた。チェンの指摘の通り、中越戦争はまさに「鄧の戦争」だったのである(Chen, 1987: xiii)。ソ連に同調するかどうかで敵味方を分ける鄧の対外政策は、 中国をして第一次インドシナ戦争とベトナム戦争で無私に支援したベトナムの同志と袂を 分かたせ、国際共産主義運動では無名で大量虐殺で悪名高いポル・ポト派に援助をつぎ込 ませた。その延命のためタイ政府の協力が必要になると、中国はタイ共産党への支持も放 棄することになった。中越戦争によってアジアの「国際主義」は完全に溶解した(Goscha, 2006)。急ぎすぎた米中国交樹立交渉は、台湾問題で米国との火種を残した。中越戦争後、 このような対外政策は経済政策とともに党内で見直しを迫られたが、それは別稿で検討し たい。 1978 年当時、鄧は経済や科学技術では他国に積極的に学ぶ意欲を示したが、国際政治に ついては毛譲りの世界観の中でこれを理解する傾向が強かった。鄧がソ連の「覇権主義」 の脅威を国際的に説得して回ったのは、これが彼にとっては単なる内政の道具ではなく、 ある種の信念であったからのように見える。鄧がベトナムから召喚した楊公素大使が、後 にこう記しているのは何とも皮肉である。「毛沢東の 3 つの世界区分の観点は、現実的客 観的状況から出発したのではなく、彼の主観的な一種の世界革命戦略の考えから出たので ある」(杨、2002: 238)。楊の批判の矛先は、この理論を毛以上に強調した鄧に対しても暗 黙に向けられている。毛の対外路線に対する鄧の固執は、1982 年の「独立自主の対外政策」 の提起まで中国が新しい対外政策を正式に提起できなかった重要な原因のひとつであろ う。 (付記) この論文は平成 17・18 年度日本学術振興会海外特別研究員としての研究成果の一部で ある。 (参考文献) 中国語 [略称表記] 邓谱 中共中央文献研究室编(2004),『邓小平年谱 1975–1997(上)』北京:中央文献出版社。 邓集 中共中央文献研究室・中国人民解放军军事科学院编(2004),『邓小平军事文集(第三卷)』 北京:军事科学出版社・中央文献出版社。 日史 《中华人民共和国日史》编委会编(2003),『中华人民共和国日史(1978 年)』成都:四川人 民出版社。 《当代中国》丛书编辑部编辑(1989)、『当代中国军队的军事工作』北京:中国社会科学出版社。 邓力群(2005),『邓力群自述 十二个春秋(1975–1987)』(征求意见稿)出版社不详。 邓小平(1983),『邓小平文选(第二卷)』北京:人民出版社。 耿飚(1980),「关于印支半岛形势报告(1979 年 1 月 16 日)」『中共研究』第 14 卷第 10 期(总 166 期), 141–162 ページ。 耿飚(1998),『耿飚回忆录(1949–1992)』南京:江苏人民出版社。 宫力(2004),『邓小平与美国』北京:中共党史出版社。 胡居成(2005),「许世友的最后一战」『党史天地』第 4 期,28–32 ページ。 胡乔木(2002),『胡乔木集』北京:中国社会科学出版社。
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