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2 一 はじめに新宮市の重要文化財 旧西村家住宅(西村記念館)では 平成28 年夏からの保存修理工事も丸2 年が経過しました 主おも屋やでは 軸じく組ぐみや床ゆか組ぐみの補ほ修しゅう 屋根や壁の下した地じなどの復旧をおおかた終えて 屋根の瓦かわ葺らぶきや壁の土つち塗ぬり作業 窓や扉などの補修 取り付

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Academic year: 2021

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文化財センター季刊情報誌【かざぐるま】

2018 秋号

84

公益財団法人 和歌山県文化財センター

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一、はじめに 新宮市の重要文化財・旧西村家住宅(西 村記念館)では、平成 28年夏からの保存修 理工事も丸 2年が経過しました。 主 おも 屋 や では、 軸 じく 組 ぐみ や 床 ゆか 組 ぐみ の 補 ほ 修 しゅう 、屋根や壁の 下 した 地 じ などの 復旧をおおかた終えて、屋根の 瓦 かわ 葺 らぶ きや壁 の 土 つち 塗 ぬ り作業、窓や扉などの補修、取り付 けに取り掛かっています(写真1〜4、表 紙写真) 。 本誌でも 77号と 81号で特集記事を掲載し てきました。 77号では解体工事の様子と外 壁仕上げの特徴、 81号では基礎工事や木工 事を進める中で新たにわかった 立 りっ 地 ち や 間 ま 取 り、 内 装 や 外 装 な ど の 特 徴 に つ い て 紹介してきました。 本 号 で は、 主 屋 修 理 中 の 調 査 で 新 た に わ か っ た 内 容 の う ち、 大 正 3 ( 1 9 1 4) 〜 4 年 の 建 築 中 に 生 じ た 設 計 の 変 更 な ど 当 時 の 様 子 を 探 さぐ っ て ゆ き ま す。 ま た、 81号 で 紹 介 し た 修 理 完 成 後 の 姿 すがた で あ る 大 正 末 期 頃 の 改 かい 修 しゅう に つ い て、 そ の 経 けい 緯 い な ど も 解 説 し て み ま す。 そ の 上 で、 大 正 時 代 に 西 村 伊 作 さく 氏( 以 下「 伊 作 氏 」) が こ の 建 物 で 試 こころ み た こ と、 ま た、 そ こ に 込 こ め ら れ た 彼 の 思 い に も 迫 せま っ て み た いと思います。 写真1.主屋南東での軸組補修中の様子 (組み上がった状態が表紙下の写真) 写真4 .主屋北東での施工 の様子 (上から順に 、軸組 復旧 、壁下地復旧 、内壁土 塗りの状況)

西

特集

写真1.主屋南東での軸組補修中の様子  (組み上がった状態が表紙下の写真) 写真3.内壁土塗り・天井漆喰塗りの様子     (上:食堂張出部、下:事務室) 写真2.屋根土居葺き(上)・瓦葺きの様子     部材は可能な限り再用しています。 写真4.主屋北東での施工の様 子(上から順に、軸組復旧、壁 下地復旧、内壁土塗りの状況)

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一、はじめに 新宮市の重要文化財・旧西村家住宅(西 村記念館)では、平成 28年夏からの保存修 理工事も丸 2年が経過しました。 主 おも 屋 や では、 軸 じく 組 ぐみ や 床 ゆか 組 ぐみ の 補 ほ 修 しゅう 、屋根や壁の 下 した 地 じ などの 復旧をおおかた終えて、屋根の 瓦 かわ 葺 らぶ きや壁 の 土 つち 塗 ぬ り作業、窓や扉などの補修、取り付 けに取り掛かっています(写真1〜4、表 紙写真) 。 本誌でも 77号と 81号で特集記事を掲載し てきました。 77号では解体工事の様子と外 壁仕上げの特徴、 81号では基礎工事や木工 事を進める中で新たにわかった 立 りっ 地 ち や 間 ま 取 写真1.主屋南東での軸組補修中の様子 (組み上がった状態が表紙下の写真) 写真4 .主屋北東での施工 の様子 (上から順に 、軸組 復旧 、壁下地復旧 、内壁土 塗りの状況) 二、大正期の建築の様子 旧西村家住宅の主屋は、伊作氏が大正 4 年に自ら設計と 監 かん 督 とく をした 3度目の自邸に なります。外周にはガラスをはめた窓や扉 を縦横に整然と 並 なら べた洋風の 出 い で 立 た ちです が、 室 内 は 畳 たたみ 敷 じ き の 部 屋 も 多 く、 橙 だいだい 色 や 青 色 な ど の 砂 すな 壁 かべ で 彩 いろど ら れ ま し た。 そ し て、 電 気 や ガ ス に 加 え て 給 湯( 地 下 室 の ボ イ ラーでお 湯 ゆ を 沸 わ かす)や水洗の便所、 浄 じょう 化 槽 そう などを 備 そな えました。 主屋を 建 た てた 4年後の大正 8年に、伊作 氏は『 楽 たの しき 住 じゅう 家 か 』(以下『住家』 )という 本を 著 あらわ します。当時は同じような本も多く 出版されましたが、その大半が「こういう 家だと 暮 く らしやすいのではないか」と抽象 的 な も の が 主 流 で し た。 『 住 家 』 は、 自 邸 を 3度建築した経験や、そこへ分析も加え ながら解説した具体的な内容が並び、現代 のガイドブックとしても十分な程の情報量 を備えています。 左の図は『住家』に 掲 けい 載 さい された「理想的 な家」の間取りです。現在の主屋ととても よく似ています。ここでは、この「理想的 な家」という表現に注目しながら、大正 4 年建築時の様子や同 10年代の改修時の様子 を、順に追ってゆきます。 1)建築中におこなわれた工夫 下の図は 、修理中の調査結果を 基 もと に 描 えが い た 、大 正 4年 完 成 時 の 主 屋 の 平 へい 面 めん で す 。『 住 家』掲載の図面との違いは 、事務室に 中 なか 廊 ろう 下 か へ 抜 ぬ け る 通 つう 用 よう 口 ぐち が 開 く 点 で す ( 写 真 5)。 写真5.事務室北東に存在した通用口(矢印先)  壁面の一区画(内幅 45cm 分)に扉が付けら れていたことがわかりました。 図1.『楽しき住家』掲載の「理想的な家」の 間取り(上が1階、下が2階の平面図) 図2.大正4年時の主屋1階平面図(下側が西面)  事務室に中廊下へ抜ける通用口が存在すること (矢印部分)に『住家』との違いがみられます。 図3.大正4年時の主屋2階平面図(下側が西面)  東寝室・西寝室境に開かれた扉の開き方が、『住家』とは 逆勝手となっています(矢印部分)。 日本室 子供寝室 日本座敷 事務室 家事室 浴室 東寝室 西寝室 中廊下 中廊下 台所 玄関 居間 食堂 主階段 内階段

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接 せっ 客 きゃく 時に台所から 給 きゅう 仕 じ するために 設 もう けら れたものと考えられますが、 4年後 (『住家』 出版時)の伊作氏にとってはあまり重要視 されなかった様です。 ではそれ以外で、理想を実現するために どんな工夫があったのでしょうか。 左 の 写 真 6は 、 上 じょう 棟 と う 式 し き の 様 子 を 撮 影 し た も の で す 。 こ の 古 い 写 真 か ら も 今 回 多 く の 情 報 が 得 ら れ ま し た 。 一 つ 目 は 、 主 し ゅ 階 か い 段 だ ん 東 面 の 上 あ げ 下 さ げ 窓 ( 写 真 内 の 丸 囲 み 部 分 ) が 他 よ り も 低 い 位 置 に 変 更 さ れ た こ と で す 。 そ し て 、 そ の 内 側 の 壁 面 に も 修 理 で は な い 施 工 の 痕 こ ん 跡 せ き が 存 在 し ま す 。 上 棟 式 以 降 、 室 内 の 壁 塗 り の 段 階 で 、 踊 お ど り 場 ば の あ る 階 段 に 計 画 し 直 し た こ と が わ か っ て き ま し た ( 写 真 7・ 8)。 二 つ 目 は 小 こ 屋 組 ぐみ の 形 式 変 更 で す。 上 棟 式 の 時 点 で は「 和 わ 小 屋 や 」 と 呼 ば れ る 伝 統 的 な 形 式 な の で す が、 実 際 は ト ラ ス 構 造 が 採 用 さ れ て お り、 屋 や 根 ね 裏 うら に は 一 面 に 床 ゆか 板 いた が 敷 し か れ ま し た( 写 真 9)。 ま た、 そ れ に 関 係 す る 施 工 も 今 回 確 認 で き ま し た。 建 物 北 西 に 設 け ら れ た 内 うち 階 かい 段 だん は、 建 築 途 中 で 便 所 側 の 壁 を( 図 2・ 3の 破 線 の 位 置 か ら ) 南 側 へ 30 c m 移動 さ せ て 幅 はば 広 ひろ く 計 画 し 直 し、 一 階 か ら 屋 根 裏 ま で 続 く 連 絡 路 と なりました(写真 10)。 こ う し た 点 に 関 し て 伊 作 氏 は、 「 寝 室 と は 別 の 遊 ぶ 室 しつ を 」「 屋 根 裏 写真7.切除された窓台(破線部分) 柱には窓台を取り付けた際の仕口も残ります。 写真6.上棟式の様子(ルヴァン美術館所蔵)  手前の帽子を被った人物が伊作氏。丸で囲んだ職人が またがる部材(窓台)は、完成時までに切除されました。  また、小屋組も「和小屋」という形式から「クインポスト(対 束形式)」というトラス構造に変更されました(矢印)。 写真8.主階段北側の内壁に残る改変痕跡  矢印先の破線部分に、補修ではない壁土 の境界線(塗り継ぎ痕跡)が存在します。建 築中に上下窓を他の部屋と同高に設定したこ とや、内壁の下塗り後に現在の高さにまで低 く改めたことがわかりました。 図4.『住家』で小屋組の活 用方法を紹介した伊作氏の 挿図(スケッチ)  主屋では上から2番目の形 式が採用されています。 写真 10.内階段まわりの改変痕跡  写真の破線位置へ柱を建てた後に、 南側へ建て替えたことが確認できます。 写真9.主屋の屋根裏(北側を見る)  屋根裏へは左奥の内階段から上ります。 2階中廊下床下 に残る柱の足元 梁の下面に残る 柱頂部の仕口

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などを応用して」子どもに提供することを 薦 すす めています。階段に踊り場を設けること にも「安全のためには必要」と述べるなど、 そこには子どもへの視点が常に存在してい た様です。 2)大正期改修の経緯 77号、 81号でも触れてきた通り、 2階の 西寝室は、板敷きの部屋に畳を敷き込んで、 第 2、第 3の子供部屋とされました。 『住家』 でも「扉を開いても畳を 擦 す らぬ様」な 納 おさ ま りなども考えて設計することを 提 てい 言 げん してい ます。それに加えて電気のスイッチを子供 寝室と同じ高さに下げるなどの配慮も 欠 か か しませんでした(写真 11)。 ま た 、 修 理 中 の 調 査 に よ っ て 、 ベ ラ ン ダ に バ ル コ ニ ー が 付 ふ 属 ぞく さ れ た の も こ れ ら と 一 連 の 施 工 で あ る こ と が 確 認 で き ま し た 。「 室 内 と 室 外 と の 中 間 で 」 「 自 然 に 親 した し み つ つ 読 書 し 、 談 だん 話 わ す る 場 所 と し て よ い 場 所 」 と 考 え て い た こ と か ら も 、 伊 作 氏 の 子 ど も に 対 す る 思 い が う か が え ま す( 写 真 12)。 大 正 期 改 修 の 契 けい 機 き は 外 壁 が 蔦 つた に よ っ て 傷 いた ん で し まったことでもありますが、その際に給水 設備や浄化槽の増強をおこないながら、子 どもたちへの配慮も大事にされていました。 そしてここに伊作氏の求めた 「理想的な家」 が完成したのでしょう。 四、おわりに 今回の特集記事も、 やはりというか、 「子 どもたちのための環境作り」というところ に 落 ち 着 い て し ま い ま し た。 建 築 や 家 具、 美術や工芸など 多 た 岐 き にわたって才能を 発 はっ 揮 き された伊作氏ではありますが、それらを 介 かい して目指したのは若者の教育、それも人材 としてではなく人間としての教育にあった だろうと思います。 これまで建物の修理でその様なところま では考えてこなかった筆者ですけれど、こ れ も 伊 作 氏 か ら の メ ッ セ ー ジ で し ょ う か、 新宮市民憲章にもある「未来の子どもたち の た め に 」「 こ こ ろ 豊 か な ひ と を 育 む 」 土 と 地 ち 柄 がら で過ごすなかで、筆者も自然と 感 かん 化 か さ れてきたのかもしれません。 今回の保存修理が地元の若者にとっても 伊 作 氏 ら の「 志 こころざし を 継 つ ぐ 」 一 助 と な る よ う、 残りの工事にも力を思いを 注 そそ いでいきたい と思っています。       (下津健太朗) 写真 12.大正末期頃の主屋南側(ルヴァン美術館所蔵)  テラスに立つ女性は次女・ユリ氏と伝わります(左側は五女・ナナ 氏か)。バルコニーにはチェアーが置かれ、『住家』で述べた空間とし て実際に活用した様子もうかがえます。  今回の保存修理工事は昭和初期の状態へ復原的に修理するため、 主屋南側もこの古写真に近いすがたとなります。 写真 11.西寝室での室内復原検討の様子  修理前に他室の畳を利用して検討をおこなった 際のもの。上の写真は大人の目線で、下の写真は 子どもの目線で撮影し、比較してみました。電気の スイッチ(矢印先)も子どもにとってはやや高く感じ られたのでしょう。

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吉礼Ⅲ遺跡の発掘調査

和歌山県から委託を受けて、和歌山橋本 線道路改良工事に先立ち、吉礼Ⅲ遺跡の発 掘調査を実施しました。調査は、平成 30年 2月から同年5月まで行い、調査面積は約 1, 1 5 0㎡です。 吉 礼 Ⅲ 遺 跡 は、 『 和 歌 山 県 埋 蔵 文 化 財 包 蔵 地 所 在 地 図( 和 歌 山 県 教 育 委 員 会 2 0 0 7)』 に よ る と、 弥 生 時 代 の 散 布 地 とされています。しかし、これまでに発掘 調査が行われたことがなく、その実態はよ くわかっていませんでした。 今回の発掘調査を行ったところ、 12世紀 〜 14世紀後半の流路1条、 10世紀後半 〜 13 世紀の自然流路1条、 15世紀以前の自然流 路 1 条、 15世 紀 前 半 の 溝 2 条、 水 田 2 枚、 それに伴うとみられる畦畔1本、流路1条、 15世紀 〜 16世紀前半の鋤溝等を多く検出し ま し た。 と り わ け、 15世 紀 前 半 の 水 田 は、 それに伴うとみられる畦畔、流路、流路か ら水田への取水口が残っており、当時の状 況がよくわかります。 以上のことから、当該地は 15世紀前半に は北側にある本谷池等から灌漑用水をひき、 耕作地として利用されていたものと推測さ れ、 15世紀前半から 16世紀前半には調査区 全体が水田となり、畦畔の位置を変えなが らも、現代に至るまで連綿と水田が営まれ てきたと考えられます。 和歌山市吉礼は、古代から中世の「吉礼 郷」にあたるとされ、中世には西に日前宮 領和太荘、東に根来寺領 山 さん 東 どう 荘があり、強 力な勢力が所領する地域のはざまにありま した。文献史料によると、 12世紀には三上 院に、 14世紀後半以降は三上荘に属してい たようで、 15世紀前半には足利義満側室高 橋殿(北野殿)の所領であり、 16世紀後半 には室町幕府の直轄領であったことが知ら れていますが、その実態はよくわかってい ません。 今回の発掘調査により検出された遺構は、 これら荘園等に関わるものである可能性も あり、当該地の歴史の一端を知る上で重要 な成果となったといえるでしょう。 (金澤   舞)

 

吉礼Ⅲ遺跡発掘調査 水田等検出遺構(南から)

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きのくに歴史小話

∼きのくにれきしこばなし∼

文化財建造物修理技術者

道具

 

レフランプ

写真を撮る際に、室内等の採光が少なくて暗い場所では、カメラ に内蔵されたフラッシュを使って、撮影をされる方も多いと思いま す。その写真を見て、カメラを向けた手前の部分は、きれいに撮れ ても、真後ろには影が残ってしまい、周りに写っているものが、暗 くて良く見えない出来映えになったという経験はないでしょうか。 修理現場では、部材の納まり等の詳細な記録を目的として撮影す る 事 も あ り ま す。 そ の 時、 撮 影 照 明 が 室 内 全 体 に 届 か ず に、 所 々 に、影が出来ている写真を残してしまうと、その一枚の記録から読 み 取 れ る は ず だ っ た 建 物 の 情 報 が、 抜 け 落 ち て し ま い ま す。 そ こ で、レフランプという、写真用の大きな白熱電球を撮影照明として 使用しています。この電球を、クリップの付いたソケットに取り付 けて、固定したり、手持ちで振って照明範囲を拡げたりして、ライ ティングしています。撮影は、カメラがブレないように三脚に固定 し、シャッタースピードを遅くして、沢山の光を取り込んで行いま す。シャッターがおりるまでの間、レフランプをかざしたときの影 の現れ方を意識して、照明が思い通りの均一さで行き渡っていくよ う に、 振 っ た り、 角 度 を 変 え た り と、 影 が 消 え る よ う に 位 置 を 動 か し ま す。 同 じ 構 図 で も、 優 れ た 記 録 写 真 に な る か ど う か は、 光 の 当 て 方 し だ い と いうことです。 修 理 現 場 で の 写 真 の 難 し さ は、 再 び 同 じ 状 況 で 撮 影 す る こ と が 出 来 な い こ と で す。 後 悔 し な い よ う に、 肝 きも に 銘 めい じ て 照 明 と 向 き 合 お う と 常 々 考 えています。      (大給   友樹) 五月の連休明けから和歌山県の南東端、隣はもう三重県という新 宮 市 で 大 規 模 な 発 掘 調 査 に 従 事 し て い ま す。 「 新 宮 城 下 町 遺 跡 」 と いうのがその遺跡名で、その名前が示すように江戸時代の新宮城に 係 る 城 下 町 の 調 査 な の で す が、 そ の 時 代 の み な ら ず 下 層 に は 中 世、 熊野詣が華やかだった頃の 湊 みなと 跡 あと と考えられる遺跡が眠っていますし、 さらにその下層には縄文時代の遺跡の存在も想定されています。 筆者にとって新宮での調査は初めてのことではなく、これまで新 宮 市 の 西 郊 に 所 在 す る 八 はっ 反 たん 田 だ 遺 跡 な ど い く つ か の 遺 跡 の 調 査 に 当 たってきました。そのつど思い、今回もあらためて思ったことです が、新宮は出土遺物が多様な地域ですね。東国の土器と西国の土器 が実にバラエティ豊かに混在して出土します。 もちろん和歌山市内も含めて紀ノ川流域の調査でも在地の土器だ けではなく、各地の土器が出土します。たとえば弥生時代ですと河 内や和泉地方の土器が一定量見られますし、かなり遠隔地の土器も 稀に見かけます。それに比べて新宮はその量が多いとともに偏るこ となく東西の土器が出土します。八反田遺跡では、それまで見たこ ともなかった弥生時代の東海系の土器だけではなく、瀬戸内地方の 土器も確認されています。現在調査している新宮城下町遺跡でもこ のことは同じで、ひとつの穴の中から伊勢地方の土鍋と播磨地方の 土鍋が揃って出土するというおもしろい現象が多々見られます。 こ う し た 多 様 性 は 言 う ま で も な く 新 宮 の 置 か れ て い る 立 地 条 件、 海上交通の要衝に位置することに起因しています。新宮は東西文化 の接点とでも言うべき場所ですね。 このような物流のみならず熊野詣にみられる人々の往来が新宮の 文化の多様性を育んだのでしょうし、その 豊 ほう 饒 じょう な文化が、建築家西 村伊作、 文豪佐藤春夫、 さらには大逆事件で名高い大石誠之助といっ た稀有な人材を輩出させたのかもしれません。   m    (村 田   弘) レフランプ

  

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催し物案内

  和歌山県内の文化財関係イベント情報(2018 年秋~ 2018 年冬)

風車84

(2018・秋号) 平成 30 年 9 月 30 日 (公財)和歌山県文化財センター URL http://www.wabunse.or.jp 【事務局】  〒640-8301 和歌山市岩橋1263-1 TEL 073-472-3710 FAX 073-474-2270 [email protected] 掲載内容は変更される可能性があります。詳細は各施設へお問い合わせください。 (公財)和歌山県文化財センター   1 表紙 写真上:瓦葺き前の主屋屋根(南東より見る) 写真下:主屋南東隅での軸組修理の様子 2 特集「旧西村家住宅の保存修理(3)」 6 埋蔵文化財課 短信「吉礼Ⅲ遺跡の発掘調査」 7 きのくに歴史小話「文化財建造物修理技術者の道具m⑬mmレフランプ」       m「新宮文化の多様性」 8 催し物案内m (公財)和歌山県文化財センター ●「紀州のあゆみ ―和歌山県内埋蔵文化財発掘調査成果展―」 2018年11月m 3日(土)~12月m 2日(日) m m会場:田辺市立歴史民俗資料館  和歌山県立紀伊風土記の丘 秋期特別展「黒潮の海に糧をもとめて ―古墳時代の海の民とその社会― 2018年m 9月29日(土)~12月m 2日(日) ●特別展記念講演会 2018年10月m 6日(土) 13:30~15:00 ●特別展講座① 2018年10月20日(土) 13:30~15:00 ●特別展講座② 2018年10月27日(土) 13:30~15:00 ●特別展講座③ 2018年11月m 3日(土祝)13:30~15:00 ●特別展講座④ 2018年11月10日(土) 13:30~15:00 ●おしゃべり考古学④ 2018年11月16日(金) 13:30~15:00 館長講座③m須恵器の話あれこれ 2018年11月17日(土) 13:30~15:00 おしえて!!ヤマゲン先生④m万葉歌と古代の草木花ガイド 2018年11月24日(土) 10:00~12:00 連続講座「岩橋千塚⑧」 2018年11月25日(日) 13:30~15:30 ミニ展「ジュニア考古学研究応募作品展」 2018年12月18日(火)~2019年m 1月14日(月祝) 和歌山県立博物館 企画展「和歌山の文化財を守る ―仏像盗難防止対策と近年の文化財修理―2018年m 9月m 1日(土)~10月m 4日(木) 特別展「西行 ―紀州に生まれ、紀州をめぐる― 2018年10月13日(土)~11月25日(日) 企画展「熊野と和歌浦 ―きのくにの名所をたずねて 2018年12月m 8日(土)~2019年m 1月20日(日) 和歌山市立博物館 特別展「お殿様の宝箱 ―南葵文庫と紀州徳川家伝来の美術―2018年m 9月15日(土)~10月21日(日)m 史跡散歩「和歌山城を歩く」 2018年11月10日(土) 高野山霊宝館 第39回大宝蔵展「高野山の名宝“もののふ”と高野山」 2018年m 7月14日(土)~10月m 8日(月祝) 秋期企画展「“香り”の荘厳」 2018年10月13日(土)~2019年m 1月14日(月祝)

参照

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