「外国貿易都市の地域
おこし」
小松島税関支署支署長
卜部
伸二
1
はじめに
小松島税関支署は、徳島県小松島市に戦後混乱期の
密貿易増加に対処するため昭和21年6月に神戸税関
本関直轄の「小松島監視署」として設置されたのが始
まりで、昭和23年1月1日の徳島県で初めてとなる
小松島港の開港(外国貿易のために開放された港)指
定に先立って、昭和22年5月1日に支署に昇格し現
在に至っており、徳島県全域を管轄しています。
県内には、「徳島小松島港(昭和63年に小松島港の
開港港域が拡張)」(徳島市・小松島市)と「橘港」(阿
南市)の二港が開港指定されており、昨年の外国貿易
船入港隻数は両港合わせて348隻でした。通関ベース
の貿易額は、輸出は約111億円で6年ぶりに百億円台
を回復し、輸入は約1,302億円で平成20年に次ぐ過
去2番目の額となっています。主な貨物は、輸出は有
機や無機の化学製品や紙類、輸入は石炭や非鉄金属鉱
です。
なお、輸入額が輸出額の約12倍と開港以来輸入偏
重の状況が続いています。
2
徳島県
徳島県は四国の東部に位置し、東は紀伊水道、西は
愛媛県、南は高知県、北は香川県に接しており(一言
でいえば日本地図上、四国の右側です。)、古より関西
圏とのつながりが深く「関西広域連合」の構成団体と
なっています。
人口は約73万人、面積は4,146km2
。その約8割が
山地で、吉野川をはじめとする多くの河川が流れてお
り豊かな自然環境に恵まれていますが、少子高齢化等
により人口が減少傾向にあります。
そのような状況のなか県内に人を呼び込み、地域に
活気を取り戻そうと、外国人旅行者の誘致(近年、国
際大型クルーズ船や徳島阿波おどり空港への国際季節
定期機等の入港が増加しています。)や観光資源の掘
り起こしによる様々な地域おこしに取組んでいます。
本稿では、開港を有する2つの市における、個性的
な地域おこしの取組みを紹介します。
3
小松島市 ∼たぬきのまち∼
支署が所在する小松島市は人口約3万8千人、県東
部紀伊水道沿岸のほぼ中央に位置する、定期コンテナ
船や大型クルーズ船等が入港する国際港湾都市で、徳
島県の貿易拠点となっています。また漁業も盛んで、
全国有数の漁獲高を誇る市推励の魚の「鱧はも」や小松島
市が発祥の地と言われる白身魚のすり身にカレー粉等
のスパイスで味付けしパン粉をまぶして揚げた安くて
美味しい庶民の味方「フィッシュカツ」や「竹ちく
わ」等の水産加工品が有名です。
【小松島港全景】
徳島県
連載
各地の話題
各地の話題
このような港まちですが、市内のそこかしこで様々
なたぬきの像を見ることができます。徳島県にはたぬ
きが関わる民話が多いようですが、これは小松島市の
民話である「阿波狸合戦」が、昭和14年に映画化さ
れ大ヒットし、10数本の関連映画が製作されたこと
で、たぬきの街として全国の注目を集めたことから、
主人公の「金長」をはじめとする様々な像が設置され
ているものです。
【たぬきが小松島名物「竹ちくわ」を食べている「ちくわたぬき像」】
その中でも、支署に隣接する小松島ステーション
パーク内「たぬき広場」にある、高さ・胴回り共5m
ある世界一の金長たぬきの銅像は愛嬌ある姿をしてお
り、像の前で手を打つとセンサーが反応して背後の両
側にある高さ10m・幅30mの人工滝から大量の水が
流れ落ちる仕組みで、市のシンボルとなっており、春
と夏に開催される小松島市の祭における出し物は、像
の前に設置されている舞台で繰り広げられます。
【金長たぬき銅像前舞台での阿波踊り】
たぬき像以外にも、広場隣にある「金長たぬき郵便
局(動物の名が付いた全国初の郵便局)」では、たぬ
きの絵はがき等の販売や金長たぬきの消印を押しても
らえます。
また、阿波狸合戦の主人公である金長たぬきを商売
繁盛や開運の神様として奉る「金長大明神」と呼ばれ
る神社が建立されているほか、市内数か所でたぬきが
奉られているなど、昔からたぬきは市民に親しまれて
おり、官民を挙げて「たぬきのまち」づくりに取組ん
でいます。
【正一位 金長大明神】
4
阿南市 ∼野球のまち∼
阿南市は、県南部のほぼ中心に位置する四国最東端
部の市で、人口は県下2番目の約7万3千人、臨海部
に工場地帯や国内最大級の火力発電所がある、県南の
中核都市です。
同市は、蛍光体や発光ダイオードの国内外の一大産
地で、徳島県LEDバレイ構想(LED光産業集積計画)
の中心地に位置付けられていることから、LEDイル
ミネーションを使用した「光のまち」としてまちづく
りに取組んでいますが、より個性的なのは「野球のま
ち」としての取組みです。
阿南市内にある富岡西高校は、本年開催された第
91回選抜高等学校野球大会に21世紀枠で出場し、一
回戦で敗れたものの優勝した東邦高校を相手に善戦
(1-3で惜敗)しました。また、同校の応援はご当
地色等を高く評価され、応援団最優秀賞を受賞しまし
た。これは野球を愛する市民の気持ちが結実したもの
だと言えるのではないでしょうか。
連載
各地の話題
徳島県
【甲子園球場での富岡西高校応援風景】
同市ではもともと野球が盛んでしたが、平成19年
四国最大級の「JAアグリあなんスタジアム」(中堅
122m・両翼100mと甲子園球場より広く、内野は黒
土・外野は総天然芝で、電光掲示板や照明設備6基を
備える収容人数約5,000人の野球場。)の完成を機に
「野球のまち阿南構想」が始まり、平成22年には市役
所に全国で初めて「野球」の名を付けた「野球のまち
推進課」を創設、還暦野球等各種大会の開催、合宿の
誘致等野球を通じた産業・観光の活性化とスポーツ振
興を図っています。
【JAアグリあなんスタジアム】
なかでも、阿南市観光と野球の試合をセットにした
「野球観光ツアー」は、上記スタジアムにおいて2試
合できるほか、相手チーム等の紹介調整、審判員・ア
ナウンスを市が用意してくれます。
また、スケジュールに応じて観光地等の紹介もして
もらえるほか、宿泊施設がバスで徳島空港や球場まで
の送迎を行うとともに、夜には歓迎交流会があり阿波
踊りのサービスが付いて1泊2食付14,000円~となっ
ており好評を博しています。
その他にも、ABO60(野球のまち阿南私設応援団:
60歳以上のチアガール)による歓迎のダンスや応援
により試合を盛り上げる等官民協働で魅力ある取組み
を行っており、地域おこしの成功例として全国の注目
を集めています。
【ABO60】
5
おわりに
県内その他の市町村においても、豊かな自然環境を
生かしたラフティングやサーフィン等のスポーツツー
リズム、徳島県の伝統文化である藍染や阿波踊り等の
体験交流による様々な地域おこしの取り組みがなされ
ています。
著名な観光資源としては、「阿波踊り」「鳴門の渦潮」
「大歩危小歩危」「四国八十八か所霊場巡り(発心の道
場)」「大塚国際美術館」等があり、見どころ・体験ど
ころいっぱいの徳島県に是非おこしください。
【協力】
・小松島市
・阿南市
連載
各地の話題
各地の話題
はじめに
古来より日本海側有数の港として発展してきた新潟
港は、明治元年11月19日(1869年1月1日※1
)に開
港され、国際貿易港として生まれ変わりました。それ
以来新潟の税関は、新潟港と共に時代を歩み、時には
名称を変えながらも今年で新潟港開港・新潟税関開設
150周年を迎えました。しかしその歩みは、港にとっ
ても税関にとっても決して平坦なものではありません
でした。
※1 我が国は明治5年12月2日まで太陰暦を公式に使用(明治5年
12月3日を明治6年1月1日とする改暦ノ布告)していたこと
から、太陽暦をカッコ書きで記載。
新潟港の誕生
新潟港の誕生は、今から1,000年以上前の平安時
代、延長5年(927年)に編纂された「延喜式」の中
に越後の国津として「蒲かんばらのつ原津」の記述があり、これが
文献で確認できる最初のものです。この蒲原津は、信
濃川河口右岸にあったと推定されています。国津と
は、律令制度において地方から都に送られる税であ
る、貢納物の積出港として定められた港(津)のこと
です。越後国府は新潟市より100km以上西にある上
越市付近にあったと推定されていますが、国津は地理
的に中心地であり、信濃川や阿賀野川の水運に恵まれ
物品の集積地に適したこの地に定められたようです。
新潟の地名が最初に記録されるのは戦国時代になり
ます。蒲原津のほかに阿賀野川河口(現在の河口位置
とは異なる)の右岸に沼ぬったりみなと垂湊、信濃川河口の左岸に
新
にいがたのつ
潟津が加わり、合わせて三か津と呼ばれていました。
越後の雄・上杉謙信は三か津に代官を置いて拠点と
し、軍事・商業的に重要なこの地を掌握しました。しか
し三か津のうち蒲原津は、信濃川と阿賀野川に挟まれて
いたこともあってか、次第に活気が失われていきました。
天正9年(1581年)越後北部の武将・新発田家重
が新潟津を占領したことを発端に戦乱が繰り広げら
れ、激しい戦の末、天正15年(1587年)に上杉氏が
越後国を統一します。
大河に翻弄される
江戸時代に入ると、新潟湊※2
は長岡藩、沼垂湊は新
発田藩が所領しましたが、寛永8年(1631年)に阿
賀野川が信濃川に合流してしまう異変が起きてしまい
ます。両大河の河道の異動のために、二つの湊はほと
んど機能を失ってしまいました。当時の長岡藩の牧野
氏は幕府に新潟町の移転を申請し認められ、明暦元年
(1655年)に移転しました。この時出来た新潟町が、
現在の新潟旧市街の骨格となっています。旧市街中心
部の古町通り・本町通り・西堀・東堀※3
などもこの時
出来ました。沼垂町に至っては貞亨元年(1684年)
に現在の地に落ち着くまで、4回も移転することにな
りました。そのためか、沼垂湊は次第に衰退していき
ました。
その間、明暦年間(1655年~1656年)に幕府に
よって、日本海側から下関を経由して大坂に至る西回
り航路が整備されました。新潟湊は二つの大河の合流
により水量が増大したため水深が深くなり、元禄7年
(1694年)の書物では、川の中心では30尺(約9m)
左右15尺から16尺(約4.5m)あったと記されてお
り、千石船※4
が今の白山神社付近(現在の河口から約
3km上流)まで行くことが可能で、並ぶ帆柱が「林
の如し」だったそうです。最盛期の元禄10年(1697
年)には、新潟湊に入港した船は40か国余りから、
新潟開港
150
周年を
迎えて
東京税関前新潟税関支署東港出張所統括審査官
小室
正明
新潟港
連載
各地の話題
新潟港
3,500隻を数えるほどであったそうです。
享保15年(1730年)新発田藩は、阿賀野川流域の
低湿地を干拓するために、松ヶ崎(現在の新潟市北区
松浜)に阿賀野川の堀切(放水路)を建設しました。
計画では、通常の水量は従来通りに流し、干拓のため
に増加した分だけを堀切に流すというものでしたが、
翌年、雪解け水で増水した川は、堀切の堰を破壊して
一気に流れ込み、堀切の幅を広げ、ついには阿賀野川
の本流になってしまいました。これが現在の阿賀野川
の河口です。そのため以前の河口の水量が著しく減少
し、砂の堆積により水深も浅くなったことから※5
、千
石船の様な大型船は港に入れなくなり、沖で艀はしけを使っ
て貨物の積降を行う状態となってしまいました。
それでも文化年間(1804年~1818年)のころには
蝦夷地への航路が開かれ、海産物の移入や米の移出が
増加したため新潟湊には活気がありました。
※2 「津」「湊」「港」はいずれも港湾を表すことばで、古事記・日本
書紀では「水門」と記す。新潟では古くから「新潟津」が使わ
れ、江戸時代初頭から「新潟湊」、開港後は「新潟港」と呼ぶの
が、一般的であった。
※3 西堀・東堀は昭和39年(1964年)までに埋められ現在は道路
になっており、西堀通り・東堀通りと呼ばれている。
※4 千石船とは本来、米1,000石を積める日本の木造帆船の意味で
あったが、大型帆船の別名となり江戸時代後期には、米約1,800
石を積めるものまで出現した。米1石は容量2.5俵(約180ℓ)
重量約150㎏。
※5 安政4年(1857年)に作成された海図では、河口付近で最も
深いところでも1.8mとの記載がある。
開港への足音
天保14年(1843年)、新潟町は長岡藩の所領から
幕府の直轄地(天領)になりました。これを新潟上知
と言います。新潟上知の理由は、新潟湊を舞台とした
薩摩藩と新潟商人の抜け荷(密輸)が発覚したことで
す(唐物屋事件)。また、この当時には外国船が日本
近海を航行していたことから、新潟の沿岸警備の強化
をすることも理由の一つでした。
安政5年(1858年)、米・蘭・魯(露)・英・仏と
の修好通商条約※6
(安政の5か国条約)によって、安
新潟湊之真景(安政6年(1859年))
新潟市歴史博物館提供
開港前にも外国船が入港しているのがわかる
連載
各地の話題
各地の話題
政6年12月9日(1860年1月1日)に新潟港を開港
することが決まりました。安政の5か国条約で開港す
ることになった港は、神奈川(横浜)、箱館(函館)、
長崎、新潟、兵庫(神戸)で、開港5港と呼ばれてい
ます。開港5港は全て幕府の直轄地であり、新潟港は
日本海側最大の港町であったことから、新潟に決定し
たようです。しかしその後の尊王攘夷運動などにより
新潟港の開港は再三にわたり延期されました。新潟港
は河口港であり、水深が浅いため大型船が入港でき
ず、「他の港を開港すべきである。」との要求もありま
したが、佐渡・夷港(両津港)を補助港として開港さ
せることを条件に、明治元年11月19日(1869年1
月1日)にようやく開港しました(新潟港開港までに
大阪港が開港したため6番目の開港)。開港と同時に
現在の税関業務を行う「新潟運上所」が開設され、こ
れが新潟税関支署の前身になります。発足当時の新潟
運上所は地方機関である新潟府※7
に属しており、国
(大蔵省)への移管は明治8年(1878年)のことです。
※6 5条約とも、ほぼ同じ内容。日仏修好通商条約については、ファ
イナンス平成30年6月号から10回にわたり連載された、在フ
ランス日本国大使館参事官有利浩一郎氏が書かれた、「日仏修好
通商条約その内容とフランス側文献から見た交渉過程」に条約
内容と、交渉過程が詳しく記述されている。また当時ロシアに
は、「魯西亜」の字があてられていた。
※7 明治維新直後、江戸町奉行所や遠国奉行所の支配地を「府」と
呼んだ。明治2年7月(1869年8月)東京、京都、大阪以外は
県に改称。
開港直後の新潟港
明治2年4月7日(1869年5月18日)第1船として
イギリス帆船ステギ号が入港しました。この年は合計
で18隻の外国貿易船が入港し、主な輸出品は、蚕卵
紙※8
・水菓子(果物)・種人参(朝鮮人参)で、輸入
品は、ライフル・毛織衣類・時計などでした。
また、この明治2年(1869年)に新潟運上所庁舎
が建設されました。この建設は大変な苦労があったよ
うで、新潟税関沿革史※9
には、
「明治二年正月地ヲ新潟ノ東北信濃川ヲ瀬スル
字船繋場ニトシ土功ヲ起ス然レトモ該地一帯ハ
葭生ニシテ之レカ埋立テニハ非常ノ辛酸ヲ経時
ニハ土工三々五々手ヲ携ヘ其成功ヲ嘲あざリ去ラン
トスルモノアリ慰い撫ぶ督とく励れいようや漸ク敷地四千四百六
十九坪七合七勺ヲ得テ爰ここニ假かり運上所ヲ建設シ同
時ニ洋風廰舎一棟石庫土蔵水柵さく等ノ新営ニ着手
シ同年十月竣功ス之ニ要セシ経費不明ナリ」
と記されています。半年前には新潟の街が戊辰戦争の
戦場になっていたことを考えると、明治政府の開港に
対する強い意志を感じます。辛酸を経て建設された新
潟運上所庁舎は現存しており、新潟市歴史博物館「み
なとぴあ」として、一般に公開されています。木造庁
舎として現存するものとしては、最古の部類に入るも
のではないでしょうか。
※8 蚕卵紙は厚紙に蚕の卵を産み付けたもので、明治初期の代表的
な輸出品。
※9 明治37年(1904年)横浜税関が発行。これは創成期の新潟税
関及び新潟港を知る上での第1級の資料で、国立国会図書館デ
ジタルコレクションで自由に閲覧やダウンロードが可能。当時
の横浜・函館・大阪・神戸・長崎の各税関の沿革史もあり、特
に横浜税関沿革史には運上所時代や税関発足時の制服の記述や
税関旗制定の記述などがあって興味深い。
重要文化財 旧新潟税関庁舎(新潟運上所庁舎)
明治2年(1869年)建築
低迷する貿易
翌年の明治3年(1870年)には外国貿易船の入港
は20隻を数えましたが、その後は1桁の入港の年が
続きます。当時は、「運上所」「税舘」「税関」等名称が
不統一でしたが、明治5年11月28日(1872年12月
28日)に税関に統一※10
され、新潟運上所から新潟税
関に改称しました。
明治11年(1877年)に中国で大凶作となり、一時
的に米の輸出が増加しましたが、その後は低迷が続
き、明治18年(1885年)、19年(1886年)の2年間
は外国貿易船・輸出入貨物が皆無という、新潟税関開
店休業状態になってしまいます。
連載
各地の話題
新潟港
貿易が低迷したのは、産業が育っていなかったこ
と、開国が諸外国の圧力であり貿易を行わなくても十
分自活できたことなどが理由ですが、それ以外にも新
潟港が信濃川の河口港であり、上流から流入する大量
の土砂のために水深が浅く大型船が直接入港できな
かったことも理由の一つです。明治9年(1876年)
には
「水流ノ関係ヨリ当関ニ沿ヒタル一帯ノ河岸浅
瀬トナリ艀船スラ繋留スル能ハサルニ至リ」
と新潟税関沿革史に記されています。一説には新潟港
は港外で積荷を艀に積み替える必要があり、危険で
あったため浅瀬や艀の事故に対しては海上保険からの
対象から外されていたようです。
※10 大蔵省から横浜運上所本局(明治4年(1871年)11月から
明治7年(1874年)1月までの間、横浜運上所(税関)が本
局、他の運上所(税関)はその支局の関係であった)宛ての通
知は、明治6年(1873年)1月4日付であり、新潟税関沿革
史にも、
「明治六年一月運上所 稱しょう呼こ區く々くナルヲ以テ一定シテ爾じ後ご税關ト
稱スヘキ旨達セラル」
と、記されている。
新潟税関支署から新潟海運局へ
明治22年(1889年)よりロシア沿海州漁業貿易※11
が始まり、漁業従事者の生活用品・漁業用品や青果
物、米の輸出の他、水産物の輸入が増加し、明治32
年(1899年)からは、新潟で産出された石油の輸出
も始まりましたが、輸出入額は全国シェアの1%を超
えることはありませんでした。そしてとうとう明治
35年(1902年)10月31日を以て新潟税関は廃止さ
れ、翌日の11月1日横浜税関新潟税関支署として再
出発することになりました。
大正15年(1926年)に念願であった県営埠頭、臨
港埠頭が完成し、大型船が埠頭に着岸することが可能
になると貨物列車が埠頭まで乗り入れられるように線
路が敷設され、新潟港の利便性が格段に向上しまし
た。また、昭和6年(1931年)には上越線が開通し、
首都圏と日本海対岸とを結ぶ最短距離の港になり、日
本海側の拠点港として、最盛期には取扱貨物量が270
万トンに達しました。
しかし、第二次世界大戦が勃発して戦闘が激化する
と貿易量は次第に縮小し、昭和18年(1943年)11
月1日、ついに税関は廃止(海運局統合)され、横浜
税関新潟税関支署も新潟海運局※12
に統合されました。
戦争末期には新潟港に大量の機雷が投下され、港湾機
能のほとんどがマヒしてしまいました。
※11 日本人がロシア沿海州や樺太沿岸に出漁し、水産物を塩鮭・
塩 ・筋子などに加工して輸入。
※12 さらに、昭和20年(1945年)5月31日、関東海運局新潟支
局 に 改 称。 た だ し 終 戦 後、 海 運 局 の 英 語 訳 の「Maritime
Bureau」標記の腕章では占領軍に全く通用せず、「Customs」
標記の腕章を着用していた。とのエピソードがある。(鵜飼吉
行氏著「税関再開の先駆者」かすとむす第1巻第4号収録)
終戦からの復興
昭和21年(1946年)6月1日に税関が復活すると
同時に、横浜税関新潟税関支署と改称しました。新潟
港は主に大陸からの引揚者の拠点港の一つになりま
す。昭和30年(1955年)に新潟税関支署は東京税関
の管轄となり、東京税関新潟税関支署と改称し、現在
に至っています。
新潟県などは、入港隻数・取扱貨物量の増大と信濃
川から流入する土砂を定期的に浚渫する必要があると
いう構造的な制約から、新港の建設計画が立案され新
潟市と北蒲原郡聖籠村(現聖籠町)との境付近の海岸
を開削して、新潟東港を建設することに決定し、昭和
38年(1963年)に着工されました。
その矢先の昭和 39 年(1964 年)6 月 16 日に発生
した新潟地震により、激しい揺れと地盤の液状化現象
が起こり、さらに津波の来襲で、岸壁の損壊や石油タ
ンク火災などにより当時の金額で総額216億円に及ぶ
壊滅的な被害が生じ、税関庁舎も多大な被害を受けま
した。
昭和41年(1966年)、新潟税関支署は、新潟運上
所時代から使用していた庁舎から、現在の新潟港湾合
同庁舎に移転し、昭和44年(1969年)旧庁舎は国の
重要文化財に、敷地は史跡にそれぞれ指定されました。
地震からの復旧後施設などの拡充や対岸貿易によっ
て発展を続け、昭和42年(1967年)日本海側初の特
定重要港湾(現在の国際拠点港)に指定され、昭和
44年(1969年)11月には新潟東港が開港※13
します。
これ以後、従来の新潟港は新潟西港と通称されます。
新潟東港には、石油備蓄基地や液化天然ガス・石油製
品受け入れ設備の他、国際コンテナ航路開設に伴うガ
ントリークレーン設置など、工業・商業港としての体
連載
各地の話題
各地の話題
制を整えていきました。
※13 今年は新潟東港開港50周年でもある。なお、関税法上の開港
は昭和45年(1970年)5月。
今日の新潟港
平成7年(1995年)、新潟港は日本海側では唯一の
中核国際港湾に指定され、翌年には新潟県地域輸入促
進計画(新潟FAZ)が国の承認を受けるなど、国際
貿易港としての機能整備が進められました。平成13
年(2011年)の東日本大震災が発生した時には、被
災した太平洋側港湾の代替機能を担い、貿易量も順調
に伸び、本州日本海側随一の国際物流の拠点としての
地位を占めています。
また、新潟県などはクルーズ船を積極的に誘致して
おり、今年4月には総トン数約17万トン、乗客4,800
人の大型客船も入港しました。
最後に
新潟税関支署は新潟港開港時の新潟運上所時代から
150年間、新潟港をはじめとした新潟県内の港や新潟
空港の発展と共に歩んできました。そしてこれからも
同支署が新潟とともに更に発展することを祈念し、令
和生まれの後輩が新潟港開港・新潟税関開設200周年
の寄稿をするのを楽しみにして、筆を置きたいと思い
ます。
連載
各地の話題