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明治21年のリゾート開発構想-井上円了の「坐なからにして国を富ますの秘法」を読み解く 利用統計を見る

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International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』7 (2019): 137–158

ISSN2187-7459

©2019by International Association for Inoue Enryo Research国際井上円了学会

【 論文 】

明治21年の「リゾート」開発構想

―井上円了の「坐なからにして国を富ますの秘法」を読み解く―

中島敬介

Ⅰ. 序論:円了の変心

<「日本(人)論=宗教論」から「国富論=観光論」へ>

日本国内に壮大安逸の旅館を設立して外人の来遊を引く是なり(1) これぞ「坐なから国を富ますの秘法」(2)と胸を張ったのは、明治 21 年の井上円了 (以下、「円了」とも略す)である。この自信をそのままタイトルにした評論(以下、 「坐ながら国富論」とも略す)は、明治 21 年 11 月から 12 月にかけて政教社の機関 誌『日本人』に分載された。 政教社の〈名付け親〉ともされる円了は、この年 4 月の同誌創刊号以来「日本宗教 論」(以下、「宗教論」とも略す)を連載していた。その「緒言」の冒頭には「両三年 以来不幸にして病気に罹り一旦読書著作を廃」するまでに体調を崩していたが、政教 社「創業の一人」として「脳海の全力を竭して飽くまて『日本人』発行の旨趣を称揚」 し、国民の「悉く同意同賛の意を表せしめん」との執筆意図が記されていた。この不 惜身命の覚悟と決意で選ばれたテーマが「仏教改良」だが、単に一宗教上の問題では なく、政教社や『日本人』の主張するテーゼに則して「日本人をして永く日本人たら し」め「日本人たる精神思想を存し日本人の日本人たる習慣遺伝を保たしむる」ため

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だと言い、その上で「日本人の日本人たる所以」は「宗教」であり、とりわけ「仏教 を護持拡張するは即ち日本人をして日本人たらしめ日本人をして独立対抗せしめる 要法」とした(3) この円了渾身の日本(人)論とも言える「宗教論」は、しかし連載途上で中絶した。 体調悪化のせいではない。本も読めないほど衰弱していた―はずの―円了は、同年 6 月、1 年余にわたる外遊―欧米各国〈政教〉視察―を決行し、その旅先から「坐なか らにして国を富ますの秘法」と題する論攷を送りつけてきた。そこには日本が「富国」 (4)を目指すなら、強兵・殖産興業・貿易・植民の政策を放棄し、安価で平易な〈国際 観光〉を国策として採用すべしと主唱されていた。明治 21 年末、この新たな―奇妙 な―評論が創刊号以来の「宗教論」に代わって『日本人』に掲載された。かつて声高 に異教の浸入阻止を叫んだ舌は裏返り、〈外客の来遊〉こそ富国の基と断言されて、 日本人に独立不羈の精神を発揮させるはずの〈仏教〉は、外国人への便宜供与に追い 出されてしまったのである。

<本稿の目的>

「坐ながら国富論」は、そのユニークなタイトルや今日の〈観光立国〉政策を先取 りしたかのような〈先進性〉に目を奪われがちだが、注目すべきは、執筆・掲載のタ イミングとメディア、すなわち、①折から〈条約改正〉を巡って世論が沸騰していた 明治 21 年という時期に、②敢えて当時の条約改正に批判の論陣を張っていた政教社 の機関誌『日本人』に、③事もあろうに来遊外国人への〈接待〉を推奨する評論を、 畢生の日本(人)論である「宗教論」と引き換えるかたちで掲載させた、その理由で ある。 以下、Ⅱの本論部では「坐ながら国富論」の骨子をトレースし(「1」)、 ①当時の対外的世情から、国策としてどれほどの実現可能性を有していたかを、明 治 20 年代における〈条約改正〉の動向を参照して論じる(「2」)。 ②当時においては、他に比類なき円了の独創的提案と言えるかを、益田孝(三井物 産社長/東京商工会副会長)の演説や提案、その実現成果である〈喜賓会〉創設の 動きを参照して論じる(「3」)。

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③その思想性・傾向について、政教社創設時点あたりのとくに志賀重昂が主唱した 〈国粋保存旨義〉を参照して論じる(「4」)。 Ⅲの結論部では「坐ながら国富論」に込められた円了の〈真意〉を探る。また末尾 には、以上から敷衍される観光と国策について、若干の拙見を附記する。

Ⅱ. 本論

1.「坐ながら国富論」の骨子―essentiality―

(1)基本コンセプトー「国富」の秘法― 「誰も喋々する」ように、円了も「富国の急務を説」くのだが、世に言う「第一、 強兵説 第二、製産説 第三、通商説 第四、出稼説」は片端から否定する。それは 「過分の時日を要」し「即時に実行」できず、「過分の資金を要」し「国富」と順逆 であり、「日本今日の〔…〕進歩〔…〕勢力」が「之れを実行するの地位に達」して おらず、「教育〔…〕習慣〔…〕才力〔…〕精神」のいずれも日本は未熟だからだ。 その気力・精神の二者を「発育」する「教育と経験」も―自ら学校を創設し、現に外 遊中にも関わらず―「歳月」と「費用」が嵩むと否定する。かくして、「誰も喋々す る」国富論は一掃され、更地となったところに「世間未た其の説を主唱するものある を見」ないと称する「坐ながら国富論」が構築されていく(5) 「坐ながら国富論」は、翌年発行の『欧米各国政教日記 上篇』(以下、『政教日記』) でも編集的に再掲されている。以下、同書も参考に骨子を整理する。 (2)実施プランー実践的〈観光〉戦略― <趣旨―ホテルとガイドブック> 国富の秘法は、「東京、横浜、大坂、京都、奈良、日光、箱根、松島」等にホテル を建て、「桑港、香港、新約克、等の各所」にガイドブックを配置する、たったこれ だけである(6)。日本には「商業工業を興して輸出品を増し以て外国の製産と競争」す る実力も、「夥多の資本」もない。それに比べて「外国人の来遊を待つの策」は安上

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がり、かつ実行容易である(7) <参考事例―フランスの成功> 米国から欧州に向かう客船は「毎日少くも一二艘」あり、夏期の「多きときは千人」 を超える(8)。「上等船客四百余名其十分の九亜米利加人の仏蘭西、瑞西の間に遊ふも のなりと云ふ」 (9)から、「亜米利加人の毎年仏国に遊ぶもの万」(10)に及ぶ。「友人曰く 仏国の富をなす所以年々外国人の其地に来りて金を散する」(11)より生じ、「余が聞く 所によるに仏国の富は輸出物産より得るにあらすして外人の来遊せる者より得ると 云」(12)うから「外人の来遊より得る所の金は極めて大」(13)なること明かである。「此 の事を聞」けば「日本国の富を謀らんと欲せは外国人の来遊を待つの策」が最善であ る(14) <誘客要素―日本の国柄―> 日本は「此事業を実行するに」(15)適している。「第一に気候温和にして〔…〕第二 に土地、風景に富み〔…〕第三に陸に天然の温泉あり海に天然の浴湯あること第四に 日本は旧国なるを以て歴史上の旧跡甚た多きこと第五に古刹旧社其他古代の美術奇 観今尚ほ存」(16)するから、「欧米各国人の来遊場となすは決して難きこと」ではない のである(17) <市場の規模・動向、訴求対象―まずは、アジア在住の西洋人―> 誰もが抱く疑問は「日本に旅館を設けて年々幾多の来遊人を得」られるかである。 確かに未だ「日本に来遊する者」の少ないが、その理由は「日本の事情を知ら」ず、 また「旅館食用の其宜きを得」ないからだと聞く。「香港上海印度新嘉坡等の諸方に ある人民」は「暑を日本に避くる者年一年より増加すと云ふ」から、「此人民のみに ても毎年二三千人乃至一万人位の人」は誘引できる。「適宜の旅館を設け細密の道中 記を作りて、広く亜米利加及び濠州の人民に日本の事情を知らしむるときは、毎年数 十万の人を日本に致すこと」ができ、さらに「我邦に適値の旅館を得るときは〔…〕 欧州各国の人をも此に来遊するに至る」だろう。なぜなら「日本は衛生上学術上及ひ 歓楽上の便を有」し、「物価一般に安」く、「外国人は至て旅行を好むの風習」あり、 「世界周遊者の〔…〕休息地」としても適しているからだ。つまり「第一に熱帯地方 の西洋人〔…〕、第二に亜米利加及濠州人、第三に欧州各国人を引く」手順で進める

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のが良いだろう。確かに「俄かに旅館を建つるも仏蘭西の如き好結果を得ること」は できないかもしれないが、「我邦相応の利益」は充分に見込める。「諸状況によりて考 ふるに、我か日本に適便の旅館を建設すれば毎年五千人乃至一万の外国人を入るゝ」 ことは容易なのである(18) <事業効果―直接と間接の利益> 「旅客より得る所の金」は直接利益と間接利益に大別され、「一国歳入の一部分と なり国を富すの利益」が期待できる(19) 直接利益とは外国人旅行者の国内消費額だ。そもそも①「避暑養病に漫遊する旅客」 は富裕層で、②「一ケ月若くは四五ケ月の長き時日」滞在し、③「愉快の旅行」に「余 分の金」を使い、「奇を好むの情」があるから日本に興味を覚えるはずだ。「毎年五千 人の旅客来りて各五百円づつを費すときは我が邦に得る所の金二百五十万円」とな り、これを年平均額とすると今後「僅々五六年の後には数百万乃至千万の金」が手に 入る(20) これだけでも十分「国を富ます」に足る金額だが、さらに莫大なのは間接利益であ る。これも直接・間接に細分される。前者は①日本の物産が土産品となり、②日本産 品の有用さが周知され、③日本的「風味」が普及し、④日本的「装飾」・「遊興」の選 好から生じる利益である。後者は①国内産業の隆盛、②社会改良の一助、③外交上の 有利を指す。これらを金額換算すると、年間総額で数千万円は下らない(21) このように「坐ながら国富論」は、実行容易でありながら多大な利益をもたらす。 これぞ秘法の秘法たる所以である。 <実行組織―民間主導体制> この秘法の成功は、民間主体の実行組織の如何にかかっている。箱根や熱海等には 既にホテルが存在するが、西洋人には見向きもされない。「過分の金」の請求や粗雑 な接遇も横行し、いずれも経営者の責任である。欧米事情に通じ長期的視野を持つ民 間有志が、共同で「一大会社」を設立し、国内各地のホテル建設・運営を一元化すれ ば、欧米に比肩し得るホテル展開が可能である(22) <波及効果―他事業の資金源> この秘法はまた、実施コストが低廉である。これで得た利益は「兵備」・「製産」・

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「通商」など他の国富策に融通できるのだ (23) まさに「坐なからにして国を富ますの秘法」ではないか。 (3)実施上の課題―条約改正― このように円了は「坐ながら国富論」を自賛し、最後に「愛国者の批評を乞」(24) と自信を漲らせるのだが、批評を乞われた―政教社同人はじめ―「愛国者」は、さぞ 戸惑ったであろう。明治 21 年当時、この国は条約改正を巡って大揺れに揺れていた。 とりわけ〈内地雑居〉の是非は、国論を二分する大問題であった。 内地雑居とは、国内における日本人と同様の権利を外国人にも認めることで、権利 には居住や営業のほか、自由な内地―国内―旅行も含まれていた。円了が訴求対象と した「愉快の旅行」をする外国人は、原則として〈遊歩規程〉に縛られ、各開港場の 〈居留地〉から―当時のほぼ日帰り圏である―10 里の外には出られなかった。外国 人の宿泊を伴う、とりわけ「愉快」の旅行は基本的には許されていなかった。遊歩規 程も居留地の制度も、粗く言えば〈不平等条約〉上の領事裁判権と引き替えであった。 したがって外国人の内地旅行の実現は、ひとえに条約改正の成否にかかっていたの である。 上記⑤でみたように、円了は「五六年の後」を一定の成果が見込まれる時期とみて いた。その明治 26、7 年あたり、「坐ながら国富論」は果たして国策として機能した であろうか。

2.「坐ながら国富論」の実現可能性―feasibility―

(1)空転する「秘法」―明治 26、7 年の条約改正論争― 明治 26 年 2 月、内閣総理大臣・伊藤博文は懸案の強兵策・建艦費予算を〈詔勅〉 によって成立させた。その強引な議会対応は反政府勢力の矛先は一斉に〈条約改正〉 に向かわせ、第 5 回帝国議会の一大争点となった。 11 月 29 日の開会早々、衆議院では議長・星亨不信任の緊急動議が可決された。動 議提出者の安部井磐根は最も過激な条約反対派で、対外硬派結社〈大日本協会〉の設 立者であった。「議長信任欠乏」の理由を「政商と待合茶屋に密会したるが如き」星

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亨の不品行としたが、条約改正に邁進する外相・陸奥宗光に近い議長・星の追放が底 意にあった(25) 目論見に成功した安部井は、12 月 19 日「現行条約励行建議案」を提起する。「現 行条約は〔…〕不完全なものに似たれども、左まで国権を害する」ことはなかった、 と条約改正反対理由を口にしたとたん詔勅が下って、安部井を演台に置き去りにし て衆議院は停会した(26) 12 月 29 日に議会は再開されるが、安部井の建議案説明は陸奥外相によって遮られ る。陸奥は開国進取の方針が「維新以来の国是」(27)と断じ、政府の外交政策の成果を 誇示し、直近の情勢にも触れ、明治 25 年に内地を旅行した外国人数約 9000 人の経済 効果にも言及した。 其筋に巧者なる人より聞くに、其外国人一人前が凡そ五百円ばかりの旅費若くは小 遣を使ふ〔…〕四五百万円の金額は我国中〔…〕を知らず識らずの間に富まして居 る(28) しかるに現行条約励行とは「旧幕時代の外人遮断主義に外なら」ず、「維新以来国家 の大計国是の基礎たる開国主義に反対するものである」と、陸奥は鉄槌を下し、 本大臣は政府を代表して言ふ、到底彼の条約励行者〔…〕の議案は、維新以来の国 是に反対し、政府は此国是を阻格するものに対しては之れを排斥する と言い捨て、陸奥は詰め寄る議員を無視して退場、ようやく安部井の出番となるが、 再び停会の詔勅が下る(29)。さらに翌 30 日、停会のまま衆議院は解散、安部井の条約 励行案は廃案となる。同時期に安部井の大日本協会も解散させられ、安部井自身も翌 年の総選挙で落選する。 明治 27 年 5 月 16 日、第 6 回帝国議会・衆議院の冒頭、総理大臣・伊藤博文は「前 期衆議院解散の止むことを得ざるに至つたのも〔…〕此励行法案」のせいで、可決さ れれば「其余響の及ぶ所容易ならぬ」からだと明かした(30)。条約改正は政府の最重要 課題であり「此事を成し遂げるためには総ての障碍は力を極めて排除する」と宣告し、 「再び政府が最終の 聖断を仰」ぐ事態とならぬよう心得よ、これは「脅迫を致すの ではない〔…〕諸君に再考御熟稽」を求めるのだと恫喝し、如何なる質問にも「私は

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答えませぬ」と傲然と―そそくさと―議場を去った(31)。議院側は総理が「喧嘩として 御取掛りになる」(32)ならばと、翌 17 日内閣弾劾の「上奏案」(33)が提案される。理由 の一つは「励行案を以て攘夷的〔…〕と云ふは誠に人を誣ふるの甚たしき」(34)との内 閣の不当な侮辱だった。 この条約励行とは―当然ながら―〈安政条約〉の容認ではない。「条約の規定以上 に種々国権を障害せる権利を外国人に対し譲歩」している〈政府の条約違反〉を攻撃 し、条約どおり厳密に居留地規則や遊歩規程等を「励行」すれば、困窮した外国側か ら対等条約への「改正」を求めてくるとの主張である。一見まっとうな議論だが、一 皮剥けば「内地雑居」絶対反対の嫌外・排外論で、安部井らは建議上程と前後し、院 外では「外国人が条約違反を敢えてし居る」と喧伝していた。「その結果」、日本人が 英国公使館雇牧師を「殴打暴行」する事件が勃発した(35) 顛末は直ちに在邦英国公使館から本国に打電されたが、そこには「伊藤内閣は衆議 院内の是等排外的〔…〕各政党派を制禦し得ない」(36)との情報も付されていた。英国 政府は隠密裏に進めていた日本との条約改正交渉を打ち切り、妥結内容も破棄した。 英国の決定が日本に伝えられたのが明治 26 年 12 月 28 日、陸奥が条約改正断行を宣 言し、安部井の励行案を粉砕した、ちょうどその前日であった。翌年の第 6 議会冒頭 の伊藤の演説も、院内対外硬派への「脅迫」というよりは、英国政府への弁明と決意 の表明であった。条約改正への反対論は沈静するどころか強勢を増し、内閣不信任の 上奏案や条約改正方針反対に関する建議案が相次ぎ、衆議院は二期連続で解散とな る。 これが「坐ながら国富論」で、円了が一定の成算を見込んだ明治 26、7 年の状況― 世情を背景にした衆議院の大勢と政府の対応―であった。先に引用した陸奥の演説 中「四五百万円の金額は我国中〔…〕を知らず識らずの間に富まして居る」との発言 に、「我日本帝国をば四五百万で売っても宜い」という大臣では「到底此の条約の改 正〔は〕覚束ない」と壇上で息巻く議員さえいた(37)。とうてい「日本国内に壮大安逸 の旅館を設立して外人の来遊を引く」政策が、広く世論の支持を得られたとは思えな い。 では、執筆時の明治 21 年前後なら、外国人の自由な国内旅行が実現する条約改正 に、明るい未来が開かれていたのだろうか。 (2)口に出せない「国富論」―明治 21 年前後の対外世論―

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井上馨(外務卿・外相)は、明治 15 年の条約改正予議会、明治 19~20 年の条約改 正会議を経て、懸案の改正実現の直前までこぎ着けながら、改正内容の〈漏洩〉によ って強硬な反対論が勃興すると閣内意見は乱れ、井上は自ら提案し、締盟各国も合意 した改正案の撤回を余儀なくされ、明治 20 年 9 月 17 日、引責辞任した。 井上の敗因が〈極端〉な欧化主義であったことは明白である。公的見解は「今にし て顧みれば結果は却て日本における国家主義者を刺戟し却て条約改正事業を困難な らしめた形跡は否まれない」(38)と冷静だが、実態は社会騒乱寸前の状況だった。 〔明治〕廿年の春頃には、政府の欧化政略極点に達し、〔…〕朝野志ある者、斯く ては我が国粋を失うて、国家の基礎覆へらんと論ずる者続出し、〔…〕農商務大臣 谷干城は、〔…〕国粋保存の説を唱へて曰く『〔…〕閣僚諸公は〔…〕唯外人の歓心 を求むる〔…〕なり』〔…〕と批判したが、一方「政府は条約改正の一事の為には、 何物をも犠牲に供せん有様」で、「国事を挙げて生色の間に溺没するの観」ある、 「恥晒しの舞踏会も、未だ外人の心を収むるに至らずして、却つて国内の志士に憂 憤激怒せしめ、欧化政略の弊毒を攻撃し、〔…〕密かに諸大臣を殺戮せんと謀れる 変事あり (39) 井上馨を辞任させ条約改正を阻止した反政府勢力は、余勢を駆り「三大事件の建白」 を掲げて内閣打倒に向かった。「明治二十年十二月十五日、二府十八県の壮九十余名」 が集結する不穏な動きが表面化すると、政府は「二十五日の夜」突如「保安条例」を 制定、即日施行した。条例は「治安妨害の虞ありと認むる者を皇居の三里以外に退去 を命ずる」もので、中江兆民・星亨・尾崎行雄を含め「六百余人」が東京から追放さ れた。さらに政府は「赤坂の仮皇居〔…〕各大臣官邸〔…〕大蔵省〔…〕其他危険と 認めらるゝ所には悉く軍隊を配置」し「東京其他各地の師団に出師の準備をなさしめ」 た。明治 20 年末の帝都は、さながら「全市の光景戦場の如」きとなった(40) 翌年 2 月 1 日、「井上前外相の熱心な慫慂によつて在野改進党の首領大隈重信」が 外務大臣に就いた。かつて条約廃棄論等の対外強硬説を主唱した大隈は、このときも 安部井磐根ばりの「所謂条約励行主義なるものを翳」し、領事裁判権の撤廃と内地開 放は一体不可分、最恵国待遇条項の適用は条件付き、さらに今や立憲制下にある帝国 として「以前の安政諸条約など、今や日本の一方的意思を以て安政諸条約廃棄するの

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権限がある」と主張した(41) 大隈の条約改正は、明治 21 年 11 月から国別個別交渉で動きだした。米国は「率先 殆ど鵜呑み」で大隈案に同意し、他国との交渉も「対外的には成功を見ること大体疑 いなき」と思われた。この楽観を破壊したのが英国だった。個別交渉は拒否、他の締 盟国にも自国への協調を促すと、さらに強烈な一撃を放つ。明治 22 年「四月十九日 新条約の内容を倫敦英国新聞に発表し」たのである(42) 記事に表れた大隈案は「先きの井上案と五十歩百歩」で、「天下の有志」は一読す るや「我国家を外人に蹂躙せしむる条約」と激怒した。特に「猛烈なる攻撃論文を掲 げて、大隈を罵」ったのが「国粋保存主義を唱へて起れる日本新聞」であった。外務 省翻訳局の小村寿太郎は、英紙のリ-ク前に「竊に之を日本新聞社同人に」漏らし、 その後も「秘密材料供し」続けたとされる。また「曩に井上馨の条約改正の際も、之 を洩せるは小村」ともいう(43) 新聞の賛否は二分、この「言論の沸騰」に刺激されて「実行運動漸次激烈」となっ た。「天下は、改正賛成党三分、反対党七分の形勢」となり、「内地開放」ついて「甚 だしきは内地雑居の結果民俗的に弱い日本人は優勝劣敗の原則の下に外国民族の為 め淘汰せらる」との極論まで現れた。政府部内では「法制局長官たる井上毅」も反対 に回り、「毎日政府内の秘密」を外部に漏らして回ったという。閣内では先に大隈案 に賛同していた伊藤博文や井上馨も「変心」し、条約改正に関する閣議は空転する。 10 月 15 日、大隈の要請で御前会議が開かれるが閣内はまとまらない。16 日、枢密顧 問官が条約改正中止を奏上すると「明治帝〔…〕中止の事に、御決慮あり」との感触 を得た。すわやと 17 日にも閣議を開催するが、大隈は引き下がらない。続く翌 18 日 の閣議で、ようやく条約改正は中止と決せられる(44) 閣議終了後の午後 5 時、失意の大隈を乗せた馬車が外務省正門を通りかかった。待 ち伏せた玄洋社社員・来島恒喜が爆弾を投げつけ、馬車は粉砕、白煙の中に大隈は倒 れ、来島はその場で自害した。大隈は「隻脚を失」い、内閣は倒壊した。来島の葬儀 には「遠近の有志多く来り会し〔て〕二里の間に葬列続〔き〕、沿道の貴賎老若皆出 でゝ之を弔送」した。さらに「死を決して、大事を断行」した「其挙を壮なり」と相 撲甚句にも謳われて、九州一円の「歌妓等皆之を歌はざるを恥と」するほど、当時の 世にもて囃された(45) 「坐ながら国富論」が国策として成立するには、外国人の自由な旅行を許容し、歓 迎する世論の形成が必須である。しかし条約改正に関する限り、執筆・掲載時点(明

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治 21 年前後)さらには数年後の目標年(明治 26 年ごろ)でも、その気運が芽ばえる どころか〈嫌外・排外〉を叫ぶ国(権)論が燃え盛っていた。円了は「坐ながら国富 論」を「世間未た其の説を主唱するものあるを見ず」と自慢したが、そもそも国策と しての実現可能性は、ほぼ皆無であったのだ。 とはいえ〈外国人の来遊促進〉意義を見いだしていた者は、円了の他に当時誰もい なかったのだろうか。「坐ながら国富論」の前年、明治 20 年 11 月 25 日の東京商工会 (以下、「東商」)例会で「欧米商工業の大勢」と題する講演が行われていた。演者は 三井物産社長・益田孝、財界の大物で東商の副会長でもあった。

3.「坐ながら国富論」の独創性―originality―

(1)先行する益田孝 <「欧米商工業の大勢」―明治 20 年 11 月―> 巴里〔の〕今日の繁昌を致したるは貿易にもあらず製造にもあらず只世界各国より 来賓を茲に誘引し来たり之をして不知不識其財貨を投ぜしめたるに因る(46) 益田は居並ぶ東商の「会長貴賓会員諸君」に、仏国人は外国の「旅客をして満足せ しむるの方法あれば之を施設するに決して財を惜ま」ず、今や「毎年夏季に至れば米 国人の茲に来遊する者ゝみにても一万人に下ら」ないと述べ、次のように続けた(47) 「顧みて我国」は「風物の美麗なる気候の穏和なる世界多く其比を見」ず、「近来 漸く欧米人の来遊」が増え、さらに「其数を増すべきは必然」だが、外国人旅行者が 「先つ第一に不便を感ずるは相当のホテルなき」ことである。また「日本人は概して 交際を重んぜず随て外国の来賓を待遇するの道に於て最も冷淡」だ。「我が東京は勿 論栃木京都の如き外国来賓の歴観すべき要地には先づ完全なるホテルを設立」し、外 国人旅行者の便宜を図る諸施設を整備し「彼輩に愉快を与ふる」ならば、「到る処不 知不識其財貨」が投じられ、「其土地を繁昌せしむるのみならず又之が為め冥々の中 に我か貿易を拡張するの効果」が期待できる(48) 益田は、明治 20 年 3 月から 11 月までの 8 か月間、欧米各国〈商業事情〉を視察 し、この日の演説は見聞内容の報告だった。その中で益田は外国人来遊促進の意義 (効果)を説き、是非とも「会員諸君の賛成を得他日折もあらば一問題として之を討

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議」(49)したいと結んだ。 その言葉どおり、益田は年明け早々、東商に当該議案を上程した。 <「外国人接待協会設立」の提案―明治 21 年 5 月―> 明治 21 年 5 月 21 日の東商第 16 定式会(第 29 臨時会)で、益田提案による「外国 人接待協会設立の件」が討議された。会長・渋沢栄一は、本案は本年 1 月に提起され 「時間の都合によりて不得已む今日迄延引」したもので、本日は議案外だが「都合に より只今直なに之を相談し度」いと説明した(50) 益田は「今般府下の有志者を団結し、東京へ入府する旅客特に外客に諸般の便利を 与へ、以て都下を繁昌せしむる為、更に一協会を組成せん事」を提案し、具体的な「便 利を与へ、愉快を感ぜしむるの手段」として「案内書を編纂し、〔…〕之を外客に附 与する」こと、また「賓客の便利を達すべき道あれば、何等に限らず可成此協会にて 之を斡旋する」ことを挙げた(51) 会員は「商工会の会員」に加え、東京在住の「商工業者にして苟も府下の盛衰に直 接利害を有する者」とし、「官民中名望ある人」は名誉会員として「間接の賛助を乞 ふ」とした。事業経費は会員の負担とするが、当面は「筆墨紙代・案内書の印刷代(案 内書は相当の価を以て売捌かしむべし)等」に過ぎず、「会員の負担は極めて小額」 の〈安価〉な事業とされた(52) 益田は「小生の希望する所は一日も早く斯の如き仕事を実行するの一点」にあり、 「諸君の此挙を賛成せられん事、余の深く希望する所なり」と提案を結んだ(53) 益田の提案は―独立の組織とするか否かを除き―全会一致で賛成・採択された。 (2)真の「創唱者」は誰か。 <円了と益田の共通性> 益田の演説及び提案と円了の「坐ながら国富論」とは、問題意識・参考事例・事業 展開・主体者等のいずれについても、極めて高い類似性を示している。文言レベルに ついても、本稿の僅かな引用だけで、その共通性が窺えよう。 この両者の相似は、偶々共時的に起こったとするよりも、一方が他方を模倣したか、 両者が同一のテキスト(お手本)を擬えたと考える方が自然である。前者であれば、 時間の前後から円了が益田の演説・提案を借用したと考えるしかなく、後者なら明治

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20 年 11 月以前に、外客来遊を国策とすべしとの意見を提出していた〈別の人物〉が いたことになる。どちらにせよ「坐ながら国富論」にかかる円了のオリジナリティは 否定される。 想起したいのは、「坐ながら国富論」に伝聞的な記述が散見されることである。『政 教日記』によれば、「秘法」の着想じたい「友人」の説明が契機であった。また第 5 議会の陸奥・外相の演説中、明治 25 年における外国人内地旅行の経済効果を教えた のも「其筋に巧者なる人」であった。 条約改正反対論たけなわの明治 20 年代前半、すでに〈国際観光〉に熱心な人物が ―間違いなく―存在していたのである。 <「南貞助と云ふ人」> 益田提案による「外国人接待協会」は、明治 26 年 3 月の「喜賓会」(54)設立によっ て実現する。幹事長として実質的に同会を差配したのが渋沢栄一である。その渋沢の 伝記に、興味深い記述が見られる。 外客誘致策と云ふ程でもないが明治二十年の頃、多少それに類した事を企てた〔…〕。 其頃農商務省の商工局長をして居た南貞助と云ふ人が、日本は風景はよし、新しい 国として、外国から眼を着けられて居るしするから、接待法をよくしさへすれば、 必ず欧米人を誘致することが出来ると云ふ事を、頻りに外務関係の人へ申出た。 〔…〕喜賓会は、その時組織され〔…〕南氏が担当者で、〔…〕何でも仏蘭西や瑞 西にそんな設備があつたので、日本がこれを真似たのである。当時井上さんが外務 大臣をやつて居つて、此企に同意し、自らも主張されたので、私と益田孝氏とが申 合せ、費用の方の心配は主として私等がやつた(55) 詳細は割愛するが、文中の「南貞助と云ふ人」とは高杉晋作の従弟(後に養子縁組 の関係で「義弟」)で、井上馨とは大変近しい関係にあった。渋沢の回顧には年代の 混乱が見られ、南の「農商務省の商工局〔次〕長」時代は明治 22 年末から 24 年の中 頃、「当時井上さんが外務大臣をやつて居つ」た時期は明治 20 年 9 月までである。 「欧米人を誘致すること」を吹聴していたのが、井上の外相辞任―のそう遠くない― 以前とすれば、南が外務省・香港総領事を務めていた時期にあたり、渋沢の「頻りに 外務関係の人へ申出」ていたとの述懐に符合する。

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整理すれば、南貞助発案の「欧米人〔の〕誘致」に、明治 20 年 9 月までに井上馨 が「此企に同意し、自らも主張」し、その井上の意思が―明治 21 年の「坐ながら国 富論」と相似どころか相同性を有する―明治 20、21 年の益田の演説・提案の契機と なって、明治 26 年の喜賓会創設につながっていった。外務大臣・井上馨は、自らの 〈条約改正〉最後の仕上げの時期に〈外客誘致促進〉を実行しようとしていたのであ る。益田の欧米視察には三井の当主・高保も同行したが、これは「井上馨あたりから の指示」(56)と推測されている。井上の〈子飼い〉でもあった益田の渡欧にも外相・井 上馨の意向が働いていた可能性が高い。東商で益田・渋沢が「外国人接待協会設立の 件」を急いだ背景にも、井上がらみの〈事情〉が潜んでいたのかもしれない。 今のところ「坐ながら国富論」に、南貞助・益田孝・渋沢栄一あるいは井上馨の関 与を示す論拠は見いだせていない。ただ渋沢の伝記に、もう一つ興味深い記述がある。 其頃我が国来遊する外客は、毎年七、八千人位で、〔…〕平均一人一千三百円位を 費消するから、少なくも一千万円は我が国の現金勘定が殖える、之を座貿易の収入 と称していた〔…〕(57) 「其頃」とは喜賓会設立の明治 26 年前後、当時「座貿易」という語が渋沢の周辺で 使われていたという。明治 21 年の「坐ながら国富論」執筆時、既にありふれた謂い なら円了も言及していただろう。この「座貿易」は円了の「坐ながら国富論」がオリ ジンかもしれない。 外国人の内地(国内)旅行に関わって、明らかに円了は〈極端〉な欧化政策を採っ ていた井上馨らと〈近い考え〉を持っていた。内地旅行だけを単独で切り出すことは できないから、「坐ながら国富論」とは条約改正に〈賛成〉する立場の表明に他なら ない。しかし、政教社は―「坐ながら国富論」が掲載された、まさにその―『日本人』 を通して条約改正反対の論陣を張っていた。しかも「宗教論」執筆時点で円了は「余 が日本宗教論は全く国家の独立、即ち本誌編輯人志賀君の所謂『国粋保存旨義』にき たる者」(58)と言明していた。円了の国粋主義的思想は、明治 21 年の外遊途上で〈変 質〉したのか。あるいは、円了の思想は本人申告とは裏腹に、当初から志賀重昂ら政 教社の国粋主義とは違っていたのだろうか。

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4.「坐ながら国富論」の思想性―idiosyncrasy―

(1)志賀重昂の「国粋保存旨義」 志賀重昂は自らの「国粋保存旨義」について、次のように説明する。 「国粋」とは「Nationality」の訳語で「大和民族をして、冥々隠約の間に一種特殊」 に「剏成発達せしめたる」ものである。その「一種特殊」の所以は「日本国土に〔…〕 胚胎し生産し、成長し発達し〔…〕、且つ大和民族の間に千古万古より遺伝し来り 化醇し来り。終に当代に至るまで保存」されてきたからだ。その特殊な「国粋」を 遵奉し、「大和民族が現在未来の嚮背を裁断するは、実に日本の国粋を保存し、之 を以て日本国民か、進退変応の標準となす」のが、国粋保存旨義である(59) といって遮二無二に「国粋」を絶叫するのではない。自ら「日本を日本とし、而し て後西洋学問の長所を以て其短所を補はんとする者」を称し、西洋文明を問答無用と 斥ける「日本旧分子維持旨義」をも批判する。国粋保存旨義は「西洋学問の長所を以 て其の短所を補わんと」とし、これを受け容れていく基軸を「日本の伝統」とする― 志賀の自己韜晦的な表現によれば―「採長補短的てふは折衷比較的」思想である。敵 対するのは西洋文化(文明)でも西洋人でもない。「西洋の開化」を「日本在来の分 子を打破して」導入を図る日本人、また「只管之を以て日本の外面を虚飾塗抹せんと する」ものである(60) 「『国粋保存』の大旨義」が否定するのは、単に「彼の踏舞、仮装舞踏会」等の「鹿 鳴館」に代表される表面的な欧化主義に限らないが、とりわけ「日本将来の大経綸は 実に日本在来の旧分子を悉皆打破し、泰西の新分子を以て之と交換する」ものを「日 本分子打破説」、また「虚飾是れ本領とする壮宏華麗なる建築物を新造し、〔…〕踏舞 を勉強し、仮装舞会を奨励するてふ策略」を「塗抹旨義」と呼び、これらを言下に否 定するから、井上馨らの開化―西洋化―方針一本槍の条約改正は、断固反対となるの である(61) 円了の「宗教論」は、このような「国粋保存旨義に本きたる」ものだったのか。 (2)井上円了の「宗教論」

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「日本人の日本人たる所以のもの」は「宗教」、就中「仏教は日本人の日本人たる 主元素中の主元素」で「仏教を護持拡張するは即ち日本人をして日本人たらしめ日本 人をして独立対抗せしめる要法」に他ならない。「宗教論」で円了は「日本人」を連 呼し、明治 20 年前後の国情を憂うる。まず日本全体の性急・手放しの「西洋化」を 嘆き、「日本人をして其形を西洋にし其色を西洋にし其耳目を西洋にし其脳髄を西洋 にし其風俗宗教言語文章坐作進退に至るまて悉く之をして西洋ならしめば」と、今度 は「西洋」を連打して「其人已に日本人にあらす其国已に日本国にあらさるへし」と 痛罵した(62) 次に仏教界とりわけ僧侶の堕落を難じる。これが「宗教論」の主テ-マである「僧 侶活用仏教改良の方案」(63)に直結して「本論」が展開されていくのだが、不思議なこ とに「緒言」ですでに「仏教改良」の目的が、異教の浸入阻止だと明かされている。 しかも、それは、 余嘗て仏教活論を著し其序論中に〔…〕仏教は学理に合し開明に適する古今不二東 西無比の法にして他日耶蘇教に代りて宗教界の占領するもの亦此仏教に外ならさ るべし と、前年の『仏教活論序論』で決着済みだと告げられる(64) このア・プリオリの耶蘇教否定は、『真理金針』以来不変の〈円了節〉と読み流す わけにはいかない。「本きたる」とした国粋保存旨義に真っ向から対立するからだ。 この旨義に基づけば、最も重要かつ先行すべきは〈異宗教=耶蘇教〉が「西洋の開化」 か否かの論証である。事実、志賀は「日本国裡の基督教」の教団経営は批判する一方 で、「基督教を輸入せんことを奨説」していた(65)。国粋保存旨義では、西洋の宗教で も優れた文化・文明を伴うならば、従来の日本文化を高める機能を有するゆえに、在 来宗教と並立して日本に根付くように―排除するのではなく―日本化されなければ ならないのである。 これが国粋保存旨義の基本姿勢だとすれば、円了の「宗教論」は「志賀君の所謂『国 粋保存旨義』本づく」ものではない。初期の段階から円了の思想は、国粋保存旨義に は―完全には―同調していなかったのである。つまり、「宗教論」執筆動機の重心は ひとえに「全く国家の独立」に置かれ、「志賀君の所謂『国粋保存旨義』」は「創業者 の一人」という自らの立場を修飾する語でしかなかったのである。

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(3)志賀の「日本分子」と円了の「日本(人)らしさ」 「宗教論」には「日本人の日本人たる所以」との表現が使われ、「日本人をして日 本たらしむる」という文言も頻出する。 仏教の維持拡張するは啻に日本人をして日本人たらしむるの一助となる 留意すべきは、ここに「日本人たらしむる」実体物が想定されていないことだ。「日 本人たらしむる」以前に「日本人」が存在している。「日本人の日本人たる所以」と いう表現にも、〈日本(人)らしさ〉(以下、単に〈日本〉)が問われる先に〈日本〉 の可能性を持った「日本人」が、既に存在している。 一方、志賀の国粋保存旨義には日本的要素―「日本分子」―が実体物として存在す る。志賀は日本的な〈方法〉や〈型〉、日本化の〈基準〉も日本文化に含めるが、こ れら無形物にも日本分子を内在させる。そもそも「旧分子〔…の…〕打破」・「新分子 〔…〕と交換」・「日本旧分子〔の〕維持」・「塗抹」の語、何より「国粋〔の〕保存」 という発想じたい、実体物の存在を前提としなければ成り立たないのである(66) 円了の〈日本〉は「日本分子」とは違い―葡萄の「種」のように―取り出せる実体 を持ったものではなかった。したがって打破も交換も、それじたいの維持もできず、 〈日本人らしい日本人〉は、他者との間―または自己の中―に、〈日本〉の自覚と認 識が生じたとき、はじめて―日本人にのみ―可能的に立ち現れる類いのものであっ た。「仏教は日本人の日本人たる主元素」との表現も、〈仏教=日本分子〉とはされて いない。仏教は〈日本〉の出現可能性を開く「一助」の手段であり、その手段として 実質を有するという意味での「元素」なのである。 このあたりが、当初段階から円了と政教社同人との歩調に微妙な―しかし確実に ―乖離が見られる理由の一つと思われるが、円了自身も国粋保存旨義との思想の差 異を明確に意識できていたわけではなかった。生活経験が国内に限られていた「宗教 論」執筆時には、その「元素」は国内に求めるしかなく、とりわけ専門領域の―した がって限界も熟知している―「仏教」に縋るしかなかった。しかし、仏教以上に有効 な「元素」が見つかれば、拘泥する理由は毫もない。明治 21 年 6、7 月、円了は外遊 の旅先で、それを「発見」したのだ。円了の〈日本〉が、志賀の日本分子のように実

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体物なら、日本の内部になくてはならない。実体物でないからこそ日本の〈外〉で発 見でき、かつ「一助」に過ぎないから簡単に仏教と置き換えられたのである。 「坐ながら国富論」は、円了の思想性から見るかぎり、そして「宗教論」を後継す るものであったことを考え併せれば、「宗教論」に代わる―新しい―円了の〈日本(人) 論〉であったのだ。

Ⅲ. 結論:「坐ながら国富論」の真意―designability―

<内在する「宗教」論から出現する〈観光〉論へ>

以上、本論の検証から「坐ながら国富論」は当時の条約改正を巡る世情からして、 国富論すなわち国際経済政策としての実現可能性を欠き、その内容も政府関係者・財 界人の後追いに過ぎず、独創性はなかった。掲載誌の性格や円了の思想性から、「宗 教論」を上書きする〈日(人)論〉であった。 先に論じたように、「宗教論」に表れた円了の日本(人)論の特徴は、日本的要素 が実体を持たず、〈日本〉として可能的に出現するところにあった。政教社結成当時 ―「宗教論」執筆時点―は、出現させる「一助」の手段を日本の〈内部=仏教〉に求 めていたが、初の海外旅行によって、円了の視線は「外部」に向けられた。米国滞在 の後半「米国の駸々として文明にすすむゆえん」が雄大な自然や地勢、環境にあり、 これが米国人の「気風」を形成したと気付いた円了は、日本人の「気風」の元も〈宗 教=仏教〉以上に、「富士〔山〕」等の〈日本らしさ〉にあり、日本人自らの覚醒は、 日本に内在する〈実体的な何か〉の働きによるのではなく、他者―外国人―のまなざ しに逆照射されるかたちで、あるいは他者との出会い・交わりの中から〈日本〉が自 ずと〈発現〉してくる、と考えるようになった(67) この心境変化を同伴して、英国へ渡る船上、同乗していた「友人」の言葉に刺激さ れ、「宗教論」で展開されようとしていた円了の〈日本(人)論〉は、〈観光論〉とし て再編集されていった。観光は主体者(観光者・客)の〈体験〉によって―のみ―成 立し、あらかじめ観光資源や観光商品は存在するわけではない。観光もまた、本来、 人と人・事物との出会いによって偶発的に生じる―体験―価値であり、その体験のあ り方が、円了の可能的な〈日本〉と一致したのである。 少なくとも円了の自覚としては、「坐ながら国富論」は先行の「宗教論」と繋がっ

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ていたはずだ。〈日本(人)論〉でなければ、「仏教を主眼として論じる〔…〕其理由 は本論の結末に至りて見るべし」と、すでに結論が用意されていたと覚しき「宗教論」 を簡単に中絶させる必要はない。同一テーマの―古い―評論なればこそ、「宗教論」 は退出しなければならなかったのだ。 もちろん、仏教が〈日本〉の元素として否定されたわけではない。明治 21 年の外 遊を契機に、円了の〈日本〉探索は、それまでの内面一途から、内と外とを一体化し、 その表裏の合わせ目に向かった。換言すれば他者の視線・視角が導入されて、〈日本〉 の元素の所在が、それまでの〈個物〉の内部から、〈場〉ないし〈機会〉へと次元が 移ったのだ。「宗教論」で主語―主格―として追究されようとしていた〈宗教=仏教〉 は、〈観光論〉にベースを移すことによって体験価値を生む述語―方法―の一つとし て再配置され、自己と他者の出会う〈対象〉として客体化されたのである。 その結果〈日本〉は、理屈―理論―で教え諭すものから、体験による自覚を促すも のとなり、結果として後続の〈日本(人)論〉は、〈論〉ではなく「秘法」の惹句で 通俗化されたのだ。 最初の外遊は、円了に〈国内=内面〉一途に偏狭な国粋保存旨義と訣別させ、「宇 宙主義」と表裏一体の「日本主義」(68)に向かわせる分岐点となった。その旅上で構想 された「坐ながら国富論」すなわち「坐なからにして国を富ますの秘法」は、以降の 円了の日本(人)倫理観の基層を成す、画期的評論なのである。

附記

<「坐ながら」の訓みと意味> 『日本書紀』「巻第三」に、 神武天皇が武器を使わず「天下を居ながらに平らげる」 (69)と宣せられる場面がある。「坐平天下」(70)と記されて「坐〈い〉ながら天の下を平 けむ」(71)と読み下される。「坐」〈ながら〉は日常的で平和な状態を表し、戦闘・競争 的な「威〈いきほひて〉」(72)と対比されている。 円了が否定した政府主導の国富策―強兵・製産・貿易・出稼―は、いずれも西洋諸 国との競争やアジアへの進出が不可避である。自国内の風致文物を自国内で活用す る国際観光政策だけが、平和的な〈坐〈い〉なからにして国を富ませる〉方法であっ た。円了は〈来遊外国人〉を「一助」とした日本(人)の自覚こそ、至上の〈国富〉

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と考えたのかもしれない。 <「日本分子」の跋扈> 「坐ながら国富論」が、〈官=中央〉でなく〈民=地方〉主導の展開を示唆してい ることに留意したい。観光は〈国策〉に便乗すると変質する。その事実は、喜賓会か ら鉄道省国際観光局に至る戦前観光政策の官業化が如実に示している。紀元 2600 年 を迎えたころ、国際観光局は〈観光資源〉という奇怪な用語を捏造し〈観光開発〉に 猛―盲―進した。その正統性を保証したのが、『易経』の〈観光=国の光を観(み) る〉を真逆に転倒させた〈観光=国の光を観(しめ)す〉という言説で、国粋保存旨 義における「日本分子」のごとき〈観光=実体〉論に支えられていた。国際観光局は 手当たり次第に「日本分子」を移植して、観光主体者不在の〈観光資源〉を乱開発し、 終には皇軍の戦果をも〈観光〉と宣伝するに至り、戦前観光政策は自壊した(73) これは観光分野のみに起こったことではない。この時期、芸術も思想も文化もスポ ーツも、宗教さえも、この国の社会要素が一斉に「日本分子」を実体化させた。国家 権力の強要以前に、自ら進んで―先を競って―国策に便乗し、個々の「日本分子」を 撒き散らした。この〈異常現象〉は、当時の皇国思想を〈母胎〉に生じたのではない。 逆に、国粋保存旨義が民から官に担ぎ手を替え、そこから〈異常成長〉した「日本分 子」の〈鬼胎〉として、極度な日本至上主義や皇国思想が産み落とされたのである。 戦前思想・行為の問答無用の否定だけでは、「日本分子」は削除できない。戦後半世 紀を経た〈バブル経済〉の時代、〈観光=国の光を観(しめ)す〉論は、国策・〈リゾ ート開発〉への歓声で甦り、郷土破壊と濡れ手に粟の金儲けを正統―当―化した。そ れから四半世紀後の今日、国家的イベントや外客誘致政策への嬌声は、再びこの〈怪 物〉を目覚めさせるかもしれない。 <明治 21 年の〈リゾート開発〉構想> 一般にリゾート(resort, resortir)の語は行楽地・保養地を指し、円了の「坐ながら 国富論」は約言すれば、日本を外国人の〈リゾート〉として整備することだから、そ の意味では明治 21 年のリゾート―〈地〉―開発構想と言える。一方、リゾートには 〈止むを得ず採る最後の手段〉という、もう一つの意味がある。円了にとって強兵・ 殖産興業・海外雄飛などは、荷の重すぎる国富策であった。「坐ながら国富論」は、 この国の実力に見合った、円了苦肉の明治 21 年のリゾート―〈方法〉―開発構想だ

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ったのかもしれない。 《引用参考文献等》 文中かぎ括弧内の引用・参考部は文中番号と該当頁で表示した。前掲のものは略し た。以下文献ごとに掲げる。同一センテンスまた段落中の引用等が同一文献の場合は 各々の最後に一括表示した。引用部の表記は原則として常用漢字・仮名を用い、傍点・ ルビ等の修飾は省略した。原則として誤字・誤用・脱字と思われるものも原文を尊重 し、注記せずそのままとした。発行年は奥付等の表記を転記した。 【主要引用参考文献】 1.井上円了「坐なからにして国を富ますの秘法」『日本人』第 16、17、20 号(明治 21 年)政教社/出所)東洋大学井上円了研究会第三部会編『井上円了研究(資料集 第1 冊)』(昭和 56 年)東洋大学/(1)p.166, (2)p.164, (4)p.164, (5)p.165, (6)p.164, (8)p.170, (10)p.170, (12)p.170, (13)p.170, (15)p.166, (17)p.166, (18)p.169,170, (19)p.170,(20)p.170,171, (21)p.171,172, (22)p.173, (23)p.173,(24)p.173 2.井上円了「日本宗教論」『日本人』第 1、4、6、7、8、12 号(明治 21)政教社/出所) 東洋大学井上円了研究会第三部会編『井上円了研究(資料集 第1冊)』(昭和 56 年)東 洋大学/(3)p.149,(58)p.149, (62)p.149,(63)p.150,(64)p.150 3.井上円了『欧米各国 政教日記 上篇』(明治 22 年)哲学書院/(7)p.47, (9)p.47, (11)p.47, (14)p.47,(16)p.48,(67)p.44 4.「第五回帝国議会 衆議院議事速記録第一号」『官報号外』(明治 26 年 11 月 30 日)内 閣官報局/(25)p.4 5.「第五回帝国議会 衆議院議事速記録第一八号」『官報号外』(明治 26 年 12 月 20 日) 内閣官報局/(26)p.246 6.「第五回帝国議会 衆議院議事速記録第一九号」『官報号外』(明治 26 年 12 月 30 日) 内閣官報局/(27)p.253,(28)p.252,(29)p.254 7.「第六回帝国議会 衆議院議事速記録第一号」『官報号外』(明治 27 年 5 月 17 日)内 閣官報局/(30)p.6, (31)p.7,9,(32)p.10 8.「第六回帝国議会 衆議院議事速記録第二号」『官報号外』(明治 27 年 5 月 18 日)内 閣官報局/(33)p.25,(34)p.26,(37)p.27

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9.外務省監修・日本学術振興会編纂『条約改正関係日本外交文書 別冊 条約改正経過 概 要 附 年 表 』( 昭 和 25 年 ) 日 本 国 際 連 合 協 会 / (35)pp.379-380,(36)p.380, (38)p.226,(41)p.228,(42)p.230,231,232 10.薄田貞敬撰・早稲田大学編集部編『通俗日本全史第十九巻 明治太平記 下』(大正 2 年)早稲田大学/(39)pp.34-37,(40)p.42,46-48, (43)p.64,65,66,(44)p.68,69,70,71,(45)p.72,73 11.益田孝「欧米商工業の大勢」(刊年不明)、国立国会図書館 デジタルコレクション (digidepo 802859)/(46)p.26,(47)p.26,(48)p.26,27,(49)p.27 12.(公財)渋沢栄一記念財団『渋沢栄一伝記資料 第 25 巻』(デジタル版)/ (50)p.462,(51)p.462,463,(52)p.464,(53)p.464,(54)p.458,(55),p.458, (57)p.460 13.(財)三井文庫『三井事業史 本篇 第二巻』(1980)三井文庫/(56)p.432 14.志賀冨士男編『志賀重昂全集 第壱巻』(昭和 3 年)志賀重昂全集刊行会/ (59)p.1,2,11,(60)p.2,3,13,(61)p.2,3,4,12, (65)p.25,(66)p.2,3,6,13,14 15.井上円了講演/村椿又作筆記「哲学館目的ニツイテ」(明治 22 年)/出所)東洋大 学『東洋大学百年史資料編Ⅰ上』(1988)東洋大学/(68)p.107,(69)p.107 16.宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳-全二巻-』(1988)講談社/(69)p.99 17.日本書紀 三 四』国立国会図書館蔵 『日本書紀 30 巻』(請求番号 839-1)/(70) 本文 p.19 相当,(72)本文 p.19 相当 18.望月二郎『国史大系第一巻』(明治 30 年)経済雑誌社/(71)p.84 19.鉄道省国際観光局編・発行の下記書/(73) (1)『国際観光事業概説』(昭和 14 年)/主に「はしがき」、p.9,48 (2)『観光事業 十年の回顧』(昭和 15 年)/主に pp.11-13 (3)『現代日本 軍事専刊』(昭和 17 年)/全部 (中島敬介:奈良県立大学ユーラシア研究センター 特任准教授)

参照

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