• 検索結果がありません。

黎朝下ヴェトナム村落における漂散農民の分析 (I) 上 [ A Study of the Abandonment of Villages by Peasants in Vietnam during the Le Dynasty 1]

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "黎朝下ヴェトナム村落における漂散農民の分析 (I) 上 [ A Study of the Abandonment of Villages by Peasants in Vietnam during the Le Dynasty 1]"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東南 アジア研究 15巻4号 T978年3月

寮 朝下 ヴェ トナ ム村 落 にお け る漂 散農 民 の分析 (

Ⅰ)上

雄*

A St

udyo

ft

heAbandonme

ntofVi

l

l

agesbyPe

as

ant

s

i

nVi

e

t

nam dur

i

ngt

he

L

占Dynas

t

y

(1)

Yumio SAKURAI

The naturaland warrelated calamities thatcaused the famines that forced peasantsin North Vietnam toabandontheirnativevillagesfrom the丘fteenth tothe eigh teenth centuries are analyzed through an examination of some Vietnamese chroniclesand geographies.

1) During theLedynasty thereweremany drough tsfrom springtoearly s um-merthatled tolarge-scalefamine. Thisillustratesthatfifth-month riceproduction wasimportantin North Vietnamese agriculture,especially in the highland areas beyond theRed RiverDelta.

2) One of the major causes of instability in rice production during the L仝 dynasty wasthediLEculty ofmaintainingstableyieldsin 丘fth-monthricecultivation which depended entirely on rainfrom theunpredictableNortheastMonsoon.Further -more,the丘fth-month ricecultivated inthehigh land areaswasfrequently damaged by locusts,especially in the 丘fteenth century.

3) Tenth-month rice cultivated in the delta areasuHered damagefrom inun

-dation by theRed River.In theearly yearsoftheL昌dynasty,the flooding effected mainly theHA-INaidistrictandlater,Withtheagriculturaldevelopmentofthe lower delta,theHu'ng-Y合n districttoo wassubjectto 瓜ooding. However,exceptin the Thanh-H6adelta,only afew ofthesefloodsledtofamine.

4) ThelittoralzonesoftheRed RiverDeltawerefrequentlydamaged byhigh tides,mostly caused by typhoons. However,although such damage had increased with reclamation,itrarely caused large-scalefamine.

5) Civilwarproduced faminein certain strategic areas such as H左i-Du,0,ng,

Ngh e-An andThanh-HoA.

Itappearsthatfamines occurred mostly in thehighland areas,theupperpart ofthemiddledelta provinces,and the Thanh-H6a and Ngh 9-An provincesduring theLさdynasty.

However,ageographywrittenatthebeginning Ofthenineteenth century,shows thatmostofthegh ostvillageshavethbn orPhu,占,ng aspartoftheirname,indicat -ing thatthey wereprobably established in the laterpartofthe Ledynasty. From thisitappearsnecessaryto research intothe socio-economic factor linking natural or warrelated calamities to the peasants,abandonmentoftheirnative villages. Thiswillbeconsidered in part(2).

(2)

桜井 :智朝下 ヴェ トナム村落におけ る漂散農民の分析 (I)上 序

1

9

世紀 前半 にかかれた ヴ ェ トナム民間寓話 ・説話 を集めた桑漁偶録1)に 「安設 2)農夫」 とし て次のよ うな話が載 ってい る。 はかば 「寧君又言 う。 この年,安読 の-小 邑に農夫有 り。究 (窮)迫 して,横 間に乞食す (墓の祭 に用いたあま りの 酒 と肉を乞食す ること。 転 じて食を求めて 坊樫す るの意)。 夜, 其の同輩 あ き や む さば ね の一人 とともに,官路 の努 の空舎に臥すo夜,深 きに向 うや,火を襖 りて作 る。転塀 として煉 か みちなか る能わず。時 に月食け模糊た り。途中に軍馬の魚貰 (あいつ らな って泳 ぐよ うにすすむ さま) とこLた

して進むを見 る。相顧 て大いに驚 き, よ りて林下 に匿 る。緑林 の梁を仰 ぎて息を

し,あえて とき めぐら 動かず。約半更計 り,金紋族旗 を先後 に環擁せ る一七 (不 明) の横橋,館前に停 まる。 金を鳴 つげ るこえ ザ きん らして少憩 し,其邑の社令を伝呼す。班声 は常勤す。い くぱ くな らず して喉頭浦服 (補服であ ろ う。官吏の礼服)の者,橋前 に脆 く。質 して日 く,某邑の社令謁す とO 農夫床下 よ りはるか む ら に認む るに,其邑の神像 と異な るな きな り。楕中 もっぱ ら兵籍 の完 否を問 う。社 令稽首 して日 く,下邑は邑小に して民事 (不明) し,今兵下の後,流散いまだ復 さず。以 って命に応ず るな し。輪中声をはげ まして日 く,我 は命を奉 じて兵を黙 (鮎か)せん とすO鮪辞をなす故を もっ て,令下 してまさに軍法を按行すべ Lと。橋努 の朝服 の数 員,穐 きて請 うて日 く, これ帝庭 に きようせい 神 明直箇 なるも,なお寛岩を析 う。 よ りて社令に兵籍を進む るを 肘 す。社令をやむをえず邑 丁二名を開 く。其の-は館 中の農夫な りO皆勢 (不 明) にしてあお ぐものな し。橋中,従官に ゆ る す す ぬ 命 じて籍 を准 し,改行 して前む。村鶏巳に暁を報ず。農夫汗出 して背を清 らす。其 の同輩 とと よろめ きい き む らぴ と もに桐紺 で,而 して帰す。然 るに亦,早 く苦海を離れ るを以て 自ら慰む。其 の邑人に語 りて, -たび酔飽 し而 して死せん ことを求む。邑人 これを許す。後,病いを以 って没すo其 の一名在 籍す るも亦然 りな り。」 この寓話 は

1

8

世紀末に大量 に生 じた流民 の存在を象徴的に表現 してい るとい う 「歴 史学」的 な興味のほかに,幾つかの考えさせ る問題を含んでい る。それ は第- に, この寓話に登場す る 三種の人物,即 ち国家権力を比愉化 した輪中の人物,村落の代表者を比喰化 した村神,そ して 流民の三者が もつそれぞれ の役割であ る。 この寓話 では村落 の神は輪中の人物をいつわ って, 一人の流民を神兵 としてひ きわた してい る.神の意図す るところは これに よって,村落 内の人 物が徴集 され るのを防いだ とい う ことであろ うが, 流民の側 に とって はなはだ迷惑な話 であ る。即 ち国家 と村落が流民 を犠牲 にす ることに よって,相互の矛盾を隠蔽 し安定的な関係を維

1)本書についての詳しい解説は E.Gaspardone,…BibliographieAnnamite,HBEFEO,XXXIV,Hanoi, pp.134-135に蹴る。

イエソ Je

2) 安 謀 YenM6,旧寧平省 (NinhBinh) の県名。

(3)

東南アジア研究 15巻4号 持す る ことがで きたのであ る。 筆者 は1973年 に 「洪徳 均 田例 に関す る史料紹介」を発表 以来,公 田制 の変質を軸 とす る村落 の 自律3)化の過程 を研究 し,国家権 力- の抵抗基盤 としての村落共 同体を評価 しよ うとして き た。 しか しその過程 で,大 き く二つ の疑問に蓬 着せ ざるを得 なか った。一つは村落共 同体 内部 での権力分 化であ り, その上部 の村落権 力が18世紀 お よび19世紀, そ して仏領時代 を通 じて, 機能喪失 した国家権力 に代替 し,あ るいは変質 した国家権 力の基盤 その ものにな った とい う事 実 であ る。 この性格 の象徴的な展開過程 はいずれ時 を得 て発表す る予定 であ る1885年 の対仏反 クソハ、オ 乱 におけ る細蒙層 の抵抗 とその転 向 として明確 にあ らわれ て くる。 1885年 の反乱 の中で もっとも長期 に戟 った ものは山中に こもった 「匪賊」であ る。その源流 は19世紀を通 じた対阪諸反乱 の中にす でに現われてい る。第二 は匪賊 の人的な供給 をにな った 流民 の問題 であ る。 しか し匪賊 は対仏反乱,対 院反乱 の もっとも強力な武装集団であ ると同時 に,生産をにな う小農民に とっては惰 るべ き掠奪集団であ る。19世紀 ヴェ トナ ム史 は小農民 の 構成す る村落 自衛軍 と匪賊 との流血 の記録 に彩 られ る。体制を悪 とす る限 り革命集 団 として と らえ うる匪賊が, 同時 に生産者 の側 にたつ限 り反生産掠奪集団で しかない とい う事実を,歴史 学 は どの よ うに認識すれば よいのだ ろ うか。 中国革命 の過程 で生 まれ, ヴェ トナ ム革命 で よ り 大 きな実践的課題 を与 え られた解放区闘争は,匪賊が人民軍 に止揚す るための一つ の答えであ るといえ よ う。 しか しそれ はそれを成立せ しむ るに足 る自然的条件,歴 史的条件 の厚い壁を も 同時 に用意す るものであ る。 小論 は筆者 の もつ こ うした問題意識 に解答を与 え うるものでは もとよ りない。小論 でめ ざす ところは, ヴェ トナ ムにおいて本来国家的存在 として出発 した 自律的村落が,その安定 のため に多 くの零細農,小農 層を切 り捨 て,流民化 させ る過程 の研究 であ る。 そ してその研究を通 じ て,体制が具有す る非人問的な本質を幾 ばか りな りとも論証 し うれ ば,小論執筆 目的の過半 は 達せ られ る。 小論 の構 成 は第1部 に ヴェ トナ ムにおけ る流民発生 の直接的原因であ る飢健 の発生を分析, 第 2部 において,飢麓 とい う自然的,外的条件が,農民 の流亡流民化 とい う社会的 内的な変動 過程 を分析す る。 しか しなが ら,紙数 の制限のために今号 と次号 では この内第1部 のみを述べ るに とどま り,第 2部 以下 は次 の棟会 に発表 したい と考 えてい る。

l

畢魅の夏稲への影響 (1) 早 魅 の 発 生 北部 ヴ ェ トナ ム (タイ ンホア ・ゲア ンを含む 。)では1422年か ら1786年 までの365年 の内,64 3) 『東南アジアー歴史と文化』 3,平凡社,1973,pp.106-116.;『東南アジア」iFI史と文化』4,平凡社, 1974,pp.100-122.

(4)

桜井 :酔朝 F-ヴェ トナム村落におけ る漂散農民の分析 (I)上 年 に皐魅 が発生 した ことが,各種 の年 代記 に記録 され てい る。 これ を記録 月4)で頻度 を とる と 次 の よ うにな る。 一 月5) 4 二 月 6 三 月 6 四 月 13 五 月 9 六 月 15 七 月 4 八 月 3 九 月 3 十 月 1 十一 月 1 十二 月 2 この表 でみ る と早魅 6)の記録 月は六 月以前 に79.1%が集 中 してい る。 この内,六 月発生 の15例 につ いてみ る と,

(

lT)紹平 4年 (1437)の

では,三 月に 「早」 の記 録7)があ り,六 月に祈而 して雨が降 った場 合 であ り,六 月はむ しろ早魅 の終末 と考 え るべ きであ る。 擾)紹平6年 (1438)の例 では,六 月の上奏文 に 「災異相偽 ,水理早 蛙,無歳 無之」 とあ り, 近年 の状況を一般的 に言 ってい るにす ぎない。 ③光順元年 (1460)の例 では, 「是夜大雨, 自春 至此不雨 。」 とあ り, む しろ早李 の終末 と 考 え るべ きであ る。 甘 ・光興8年 (1585)の例 では,二 月 よ り六 月 までの不雨であ る とされ る。 ⑤ 光興

1

1年 (1588)の例 では, 「大早飢 」 とされ ,飢 が発生す る以上 ,五 月以前 の夏稲栽培 に損害 があ った ことがわ か る。 ㊤)光 興18年 (1595)の例 では,前年 八 月 よ り無 雨が記録 され てい る。 ⑦ 光 興22年 (1599)の例 では, この三 月 よ り不雨 であ った とされ る。 ⑧景興25年 (1764)の例 では, 「夏六 月,不 雨,今三 司祈繭 ,翌 日大雨 。」 とあ って,実体 的 には六 月以 前の皐魅 を さ してい る。 したが って,15例 の内8例 が六 月以前 の早 につい て述べ てい るのであ り,おそ ら くはた だ 「六 月早」 「六 月大 草」を記す他 の諸例 の内に も, これ に似た ものが幾つか含 まれ てい る とみ るべ きであ ろ うO したが って,繋朝 ヴ ェ トナ ムにおけ る早魅 の発生 は一 月か ら五 月にかけ て,集 中 的 に発生 してい る と考 え る ことが で きる。 一 月か ら五 月にかけ ての早魅が決定 的 な影響 を もつ のはいわ ゆ る夏棉 (仏名

r

i

zd

u

5

e

mo

i

s

ヴ ェ トナ ム名 Ida

c

hi

8

m)

であ る。仏領下,夏稲 は主 として雨季冠水 のた めに,秋稲栽培 にむ か ない地域 で栽培 され る品種 で, ソンタイの南, - ドン,-ナ ム,ナ ムデ ィン, ニン ビンの酉 4)ここでいう記録月は草魅が発生した月を意味するものではない。それは第一一一に 「天久不雨」という表現 が代表的に示すように記録月以前に長期にわたって雨が降 らなかったと思われても,その開始および終 末を特定できないか らである。 5)本論では漢数字で表示する月名はすべて陰暦をあらわ し,算用数字のそれは陽暦を意味するO 6)ここでい う早魅は史料にあらわれる 「早」 「大草」 「不雨」 「天久不雨」等のタームをひろったもので ある。 7)これ らの諸例の引f裾キ名については後にふれる。 555

(5)

東南アジア研究 15巻4号 南方 に分布 していた 。8)デル タにおけ る夏稲の栽培暦 をみ る と,10-11月,また は12月にかけて 苗床が作 られ,旧暦一 月 (新暦12月 または1月) に田植 され ,4月か ら5月の中旬 にかけて開 花す る。 この間苗床期 の水 は前年 の雨季 の残存 した水を利用す るが,1ha当 り2000m3が必要 といわれ る田植 え期お よび,4000m3 が必要 とされ る生長期 には もっぱ らクラシ ャン crachin とよばれ る霧雨が利用 され る。 北部 ヴェ トナ ムのデル タ (紅河 ・タイ ンホア)は, 他 の 東南 アジア 諸デル タが 南方 に面 し てい るため 夏季 の西南 モ ンスー ンに 全 面的 に支配 され, 乾雨 の季節差が 著 しいの とはちが っ て,東方 に南 シナ海 を有す るため,冬季か ら春季 にかけて,大陸性高気圧 に発す る東北 モ ンス ー ンの影響 を うけ る。 た だ し,中部 ヴ ェ トナ ム以南 とはちが って,北部 に吹 きこむ冬季 の東北 モ ンス-ンは海上通過距離が きわ めて少な く,水分 の含有量が少ない。 この東北季節風が末期 を迎 えて弱 まる ころ,そ の下層 に南東海上か ら暖湿な気流が侵入 し, これが放射冷却 して長雨 を もた らす。 これが クラシャンであ る。 しか も北部 ヴェ トナ ムは他 の東南 アジア諸 デル タに比 して緯度がたか く,1月平均気温 16.8度,2月16.6度 (Pllu Lien中央測候所 1907--1921)9) と低下す るため, クラシャンとあい まって湿度が急上昇す る。 た とえば 3月か ら4月の湿 度は 89.2,89.3と年間最高を示 してい る。 この条件が ヴェ トナ ムにおけ る夏稲の生育を許す のであ る。その意味 で,夏稲は五月の開花結実期 に南西 モ ンスー ンによる集 中豪雨の利益を うけなが ら ち,その生涯 の大部分 は東北 モ ンス ー ンに依拠 して生育す る品種 であ るとす る ことがで きる。 しか しなが ら,紅 河 デル タはその経度か らい って,大陸性高気圧圏の外縁部 に接 触す る。周 知の ごと く,大陸性高気圧 の年 々変動 は きわめて激 し く,特 に寒気 の強 い年 には紅 河デル タが 大陸性高気圧圏その ものに内包 され ,東北 モ ンスー ンはは るか南方 に迂 回す る ことがあ るとい うolO) この時紅河 デル タには クラシ ャンが訪れ ない.1907年か ら1934年 にかけての フ- 1)ェン 中央測候所 の1- 4月 までの総降雨量 をみ ると,1910年,1911年,1915年,1916年,1919年, 1920年,1923年,1927年,1934年 に著 し く降水量が低下 してい る。11)諸年代記 にあ らわれ る旧 暦

3

月以 前の早魅がはば同様 な頻度を もってい ることか らして, 夏稲 の早魅 に よる被害 は, ま ず こ うした東北 モ ンス ー ンの不安定性 に由来す るところが きわめて大 きい と考え られ よ うn 一万,5月以降 の降雨 は南西 モ ンスー ンの侵入 に よる雨季 のF那 台を示す。南西モ ンスー ンの もた らす雨量が中緯度帯 の気流,複雑 な地形 のために, きわめて不規 則な ことは周知の とお り であ る。13) 同 じ く1807年か ら1934年 の間 の 7- リェン測候所観測5月降水 量の変化をみ て も最

8)R.Dumont,LaCultureduRigdansleDeltaduTonkin,Paris,1935,p.27. 9)OPICit・,p・17,1'ObservatoireCentraldePhuLienは-イフォソ近郊に設置されていた。

10)この項は京都大学東南アジア研究センターの気象学者である畏友安成啓三氏の御教示および畠山久尚監 修 『アジアの気候』世界気候誌 I,古今書院,1964,pp.62-63.によるo

ll)P.Gourou,LesPaysansduDeltaTonkinois,Paris,1936,p.61.

12)たとえば

島暢太郎 「東南アジアの気-(快の特性について (I) (描 )」 『東南アジア研究にDllll,pp. 130-147,同 13-2,pp.30811336.

(6)

桜井:繋朝下ヴェトナム村落における揮散廉民の分析 (I)上 大値 は

1

9

2

4

年 の

4

2

8

mm

であ るのに対 し,最 小値 は

1

9

3

2

年 の

5

6

mm

にす ぎず ,極端 に不 規則 な変 化 を示 してい る。前 述 の如 く, この5月 は夏稲 に とって は開花 か ら結 実 にいた る時 期であ る。 しか も雨季 のおわ った

9

1

0

月 におけ る降 雨量 の異常減 少 とちが って,

5

月は,本 来 降雨 量 の少 ない窟雨季 のあ とを うけ てい る。 ヴ ェ トナ ム諸年 代記 にみ え る半舷 の記録 月が 旧暦 四月 に集 中す るのは, このゆ えであ ろ う。 したが って夏稲 栽培 は本来不 安定 な東 北 モ ンス ー ンと, 同 じ く不安定 な南 西 を ンス - ン始 期 の降雨 に依拠す る不 安定 な農耕形態 であ った とす る ことが で きよ う。 (2) 早魅 に よる夏稲 の損害 しか し

P.

Gourouは早魅 は中高地 の夏稲 田に影響 を与 え るほか は, 収 穫 量 を減ず る程 度 で デル タの農民 に とって大 きな意味 を もつ ものではない とし,そ の根拠 に

1

8

0

8

-1

8

9

6

年 の間 にわ ず か に7回 しか早 魅 が なか った こと, また越 史通鑑綱 目に散見す る早魁 の記事 が 信用 で きない ことを述 べ てい る013)な るほ ど

P.

Gourou が Chassign(∋ux の見解 に対 して, 年 代記 の作 者 は皇 帝 の降 雨祈 願 の実効 を証 明す るた め に誇大 に早害 の存在 を報 告す るのだ としてい るのは た しか であ ろ う。 しか し実際 に早魅 が飢確 を生 じさせ た と信 じ られ る例 もまた幾 つ か あ る。 次 に,大 越史 記本紀 続編,大越 史記 続編 ,越 史通鑑綱 目に よって,実 例を紹介分 析 してい きた い 。 ① 大越史記 本紀 実録

2

太 和

6

(

1

4

4

8

)

六 月 諸経 笹参 議墓官 翰林 中書等 官

,

保上致早 之 由。大 臣繋受等 同_仁草

,

自劾 求免 ,勅諭不 許。 閣 下詔 日,噴年 以 来, 災異 相 的,水浬早慎

,

無歳 無 之。 同書 同年7月 宣光 ・蹄 化 ・素 興 三鋲

沌江 諸路,14)大飢。知 酉通 院富奏 日,宣 光・

化 ・嘉興等 鋭路 地僻 , 山 林目上上

磯桁

,加 以連年 早

,人 甚飢 「.乞葦所在 官 僚賑 貸,庶 得蘇 息O 乃 詔護本虞 官 僚傾 貸, 供 至年 豊 ,聴 追還官(, これ は大 和6年 ばか りでな く, これ に 先立 つ数年 (各史書 には大和 3年 の洪水 ,太 和 5年 の 13)P.Gourou,oA,lit. pp.68--69. 14)宣尤 ・素興の名は順天元年 (1428),繁

祖による五追分置の際の西道の中にみ らjtる。 (越史通鑑綱 「1 15 同年条,および注)L Aurousseauの比定によれば,宣光は繁朝の宣 )臣f(宣,院朝の宝光省,仏領時 代のTuy仝n Quang,rlA-giang,Y仝n-Bayにあたるとい う。 L.Aurousseau,"CharlesB.-Maybon,

Histoiremodernedupaysd'Annam,H BEFEO,XX,pp.73-120 付表。

(なお現在ヴェ トナムでは1975年に画定 された祈行政区画を用いているが,これは旧来の数省を-省にま とめているため

,

歴史上の地名を比定す る際には,正確を期しがたい。ン桔論でほより細かい行政区画地

図が入手できるまでの暫定措置として,仏領時代の省名を用いる。) 同じく嘉興は興化承宣, 興化省を 経て,仏領時代のY仝n-bAi,Lai-chau,So,n-la,Hba-binh,Lao-kay,Phd-thq,の諸省にあたる。固化

は,順天元年の五道 設置の際には名がみあた らないが,明永楽 4年の交枇布政司の区画に分轄州として

掃化州の名がみえる (方草地志類巻-)。 安立 ・文盤 ・文振 ・水尾の4県を領するとい うか ら, 後の興

化承宣,興化省,仏領時代の Yen-bai,Lao-kayに相当する。 氾江はヴェ トナム名でSかng王)A,仏名

RiviかeNoireのことであるO氾江諸路はおそ らく正規の行政区画ではな く,氾江に沿った諸地方の意

であろう。

(7)

東南 アジア研究 15巻4号 「天災流 行,百姓敗 食」 とあ るほか には具体 的 な事例 が ない 。) の 「水啓早蛙」 を示す もので あ るが ,旧暦7月 に宣光等三鏡 に発生 した飢 餓 は, 6月 の上奏 にあ る 「致早之 由」 に関連 して い る ことほほほ誤 りなか ろ う。 とすれ ば, この年前半 の早が 「人甚飢 」 の直接 的 な原因 であ っ た とす る ことが で きるO ② 同書3 光順 8年 (1467)春 正 月 幸西京 (タイ ンホア), 回天狐江習陣,大赦

,

自秋祖冬 , 天久不 雨故也。 --按赦文 目, - -去年 白秋 狙冬,天久不雨,人敏屡豊 之望,民有雑 食之憂。 この文 自体 は

自秋 狙冬」 とあ って光

順 7

年 末 の乾季 におけ る不雨が問題 とな ってい る。 次 の按文 をみ る と, 「人, しば しば豊 の望 を欠 き,民 に難 食の憂 あ り」 と未来形 でかかれ てい る か ら,お そ ら くは

5

月米 の播種植 付期 であ る

1

1

,1

2

月 の水不足 が光順

8

年 の夏稲 の不作 を招来 す る ことが 問題 とな ってい るのであ ろ う。 この憂が 現 実 の もの とな った ことは, 光順 8年 2 月15)甲辰 の条 に 「帝以天久不雨,奏 吉研之」とあ り,次 いで越史通鑑綱 目20光順 8年7月 に 京師磯 ,詔減租税躍叉安東,是歳 天久不 雨, 田禾損傷 ,京師米債騰 貴 ,詔賜 田租及人丁税 , 各有差 。命 叉安承政使和買父安東 ,輸京。 とあ る こ とに よって,

7

年 秋以来 の半舷 が夏稲 に損害 を与 えた ことがわか る。 これが単 に米価 の騰貴 に とどま らず,民 の流亡 を もひ きお こした であ ろ うことは,大越史記本紀 実録3の同年 秋7月 の条 にのる化 州 (フ-の南 方)承宣使司参議登貼 の上疏 中 に 「招流亡,耕墾 布政16)荒 田」 の一 句がみ られ る ことに よってわ か る。 ③ 同書 4 洪徳

2

1

年 (1491)春 二月 遣 翰林 院墓錦衣衛校尉往各府 螺護官粟 ,輿 貧民貸 食。以刑 門各府鯨,耕種 不得 ,民 多飢死故 也。 この記事 には,早魅 の文字 はみ られ ないが , 「ー耕種す るを得ず」 とあ って播種 ,植付期 (い ずれか ほ不 明であ る。) に何 らか の災害 があ った ことにな る。綱 目

2

4

同年条 に 「辰 久早」 とめ り,おそ ら くは夏 田の被害 とみ るのが正 しか ろ う。ただ し,民 にす でに餓死者が でてい る とこ ろか ら,そ の前年洪徳20年 の秋 田に も被害が あ った と考 え られ る。 ④ 同書

6

光紹

4

(

1

5

1

9

)

三 月至 夏四月,天大暑

,損

禾,米京。 ⑤ 同書6 其大正元年

(

1

5

3

0

)

三 月大早

,

蛙虫 ,禾穀枯死,至六月下旬始雨。 (む越史 通鑑綱 目

2

9

光興8年 (1585) 15)原文は 「八月」 となっているが,同記事の 位置, および 越史通鑑綱目同年条の位置から二日に比定 した。 16)布政州の意である。抑斉集地輿誌をみると繋初この名の州がJr闘ヒにあったことがわかる0

(8)

桜井 :智朝下 ヴェ トナム村落における揮散農民の分析 (i)上 夏六月,莫東北17)大磯。辰東北二道, 白二月至是 月不雨,禾苛枯死,人民磯鯉,頼敏18)上疏 極 言,刑獄之

濫,戦役之繁重,乞改弊政,蘇民癖。茂冶19)経書其言,而不能用。 ⑦ 大越史記続編20) 光興11年 (1588)六月 大 草磯O これ は一見,夏稲収穫後 の 大草 の よ うであ るが, 六月に 磯鰹 が発生 してい る ところをみ る と,それ以 前の早魅に よる夏稲 の損害 と考えたほ うが よか ろ う。後述す るよ うに, この年 は八 月にいた って もなお 呈魅かつづ き,秋 田の禾苗が枯死 して,人民 の流散が起 こってい る。 (㊧大越史記本紀続編2 光典17年

(

1

5

9

4

)

七月

海陽21)諸鯨,人民大荒 ,飢雄 相 食,餓死者三分 之-C これ は大越史記本紀続編,大越史記続編 に よれ ば後述す る如 く主 として莫 氏の育河 ・四岐両 県22)攻撃 に よって, 田土が荒廃 した記事 につ らな るものであ るが, 同年四月 の本紀実録,大越 史記続編 は共 に 「大草」を記 してお り, 同年五月の越史通鑑網 目には 「辰絶 句大草,農功 多不 便」 とあ り, さ らに綱 目の七月条 には先 の戦乱 の部分を切 り離 して 「海陽磯 ,人相 食。是歳海 陽大荒,人相 食餓死者三分之-」 としてい る。四月,五月の早魅 に よる被害 もこの歳 の磯健 の

の一つに数え るべ きであろ うO ⑨ 大越史記続編 光興18年 (1595)五 月 大早飢疫,死者相枕。 大越史記本紀続編,通鑑綱 目同年 同月条 はいずれ も早 の字が抜けてい るが, ともに六 月に こ の項 とは別 に 「早Jを記 してい るO さ らに,大越史記続編光興19年 (1596)四月条 には 「連歳 早荒」 とあ t),や は り,六 月以前 に早魅 があ った と考 え られ よ う。 ⑲越史通鑑

目30 光典19年 (1596)四月 大早。辰大 草,

夏日

禾穀不収,草木黄落,限滞乾洞,花果不賓O盗賊群起,大老七八百,小 者亦不下敷 百O 廿夜焼願劫掠,水陸不 通,道路閉塞,民多流散。 大越史記続編 同年二月条 には 「自前年 八月不雨,至是二 月始小雨,禾穀不収,民大磯」 とあ 17)順天元年 (1428)に施行された五道の制の内の東通と北道をさす。注14)と同じくAurousseauの比定 にしたがえば,東道は安邦

,

洪策上下鋲をさし,これは後の安邦 ・海陽両承宣,院朝の蔚安 ・海陽両省, 仏領時代のHai-ninh Quang-y色n,Hえi-du'o'ng,Kiをn-an,の各省とHai-phbng市にあたる.北道は諒 江 ・北江 ・大原を/含み,後の諒llj・京北 ・大原各承宣,院朝の諒山 ・京北 (1838以降北寧)・大原 ・高 平の諸省,

領時代のLang-so,n,Bac瑠iang,Vinh-yen,Ba c-ninh,Thai・nguyen,Bac-kanにあたる0

18)相敏。人名。綱目29同年条に注あり。 19)莫茂治。 20)本論で用いる 「大越史記続編」は極東学院本でA4Ng300の番号をもつ一連の写本をさす。この中には 「越史続編」 「翠皇朝類紀」等種々の書名をもつ書が混在しているが,ここでは極東学院の分類にした がい,全て大越史記続編としてまとめるOこのため諸本の巻数は意味を失ったので,ここでは省 く。 引田本 「大越史記全書」に含まれる 「大越史記本紀続編」とは別本である。

2

1

)

海陽承宣。仏領時代のHai-du,0,ngKian-an両省とHai・phbng市にあたる。

22)青河 。ThanhHa県.仏棚時代Hai-du'o'ng省に属した。四峡。Tか Kタ県。同じくHai-du,0,ng省の

児名。

(9)

東南 アジア研究 15巻4号 り。 また本紀続編光興

1

8

年 八 月条 には 「八 月大 草,自八 月控歳 無雨, 至 明年 二 月, 始 得 雨。 禾 穀枯 死,- 穀不成 ,人 民大磯 」 とあ る。 秋 冬春 の三期 にわ た る早魅 が光興

1

8

年 の秋収, 同

1

9

年 の春収 に損害 を与 えた ことがわか る。 ⑪ 大 越史記 本紀続編

2

光興

2

0

年 (

1

5

9

7

)

五 月 早。穀豆 枯死。 同書 同年 六 月 - -是歳 ,前大 草, 後大水, 田禾 多損失,歳 摩 不登 ,民 多流亡。 ユき大越史 記続編 光 興

2

1

(

1

5

9

8

)

三 月 早。 西北風23)禾草皆柿。 白正 月不 雨, 至是 月始

。 ⑬ 大越 史記 本紀続編

3

昨1

1年 (

1

6

2

8

)

四 月 皐。改元 為徳 隆元年 O大赦 。大 磯 。 ・呈少大越 史記 続編 徳 隆

6

(

1

6

3

3

)

夏大早。 禾 粘民磯。 ⑮ 越史通鑑綱 目

3

4

正 和

2

4

年 (

1

7

0

3

)

早磯 。退 官分勘 ,赦活花24)本年 庸税 ,又 山内督 銀,給 畿 内磯民。 ほほ 同文 が大 越 史記 続編 にみ え る。 いずれ も月の指定 が ないが, 各

門拘 差正 和

2

4

年 四 月

一 日には山南25)等処賛 治承政 司衛 門官が府 僚官 (

王 府 の

) に奉 じた文 として, - , 奉俸 山南 処承 司衛 門官等 ,係 民 以穀 為 命,

期 ,特 雨頗喬 ,問有所 被

失,旧禾正皆勤

腰 作急輸送 ,本 虞各 鯨豚官往 勘属 内各

田,如某 社夏 田損失若 干 ,許備宴 値

郡 存-O とあ り, この年 の早 が主 として夏 田を直撃 した ことを示 してい る。 なお この半舷 の打 撃は きわ め て大 きか った とみ え,別 に述べ た よ うに,三年 後 の永 盛

2

(

1

7

0

6)

にいた って も, r奈未 (正 和

2

4

年 ) よ り早 磯 ,民 多 く流 散 しか さね て寛赦 を 行な うも,間里亦い まだ完 うせず。」26)と いわれ る状 況 であ った。 ⑯ 大越史 記続編 保 泰

2

(

1

7

2

1)五 月 辛末夜地 震 ,時天久不 雨 ,米債騰貴 。研 内煽 動

,

博相疑驚 ,争搬産 撃家掃郷 , 出城 門者

,前

23)安成哲三氏の御教′和こよれば,この年正月以来の長期の早魅は,

国大陸 上の大陸性高'J.tll三が酎 i;;に頗 く, クラシャンをもたらす東北モンスーンの主軸が例年よりも南方に移動したためであるとい う。 平年 の風向は新暦4月はすでに夏型

,

即ち南よりの風がデルタに進入するはずであるが, この大陸性高鳥llI の卓越がこの頃まで継続していたとすれば,東北 万か らの乾燥した風がデルタに進 入する・朝巨性がつよ いとい う。 24)清花。清華承宜のこと。 1841年以降清化としるす。 抗朝の寧 平 ・消化両省にあた り, 仏領時代 Ni nh-binh,Thanh h6a省となる。 25)山南承宜のこと。1741年,山南上鋲 と同下鋲にわかれ,仏領時代では上鋲はほぼHa-nan,Ha-d6ng両

省とHu,ng-y仝n省の一部にあた り, T鋲はNam-dinh,Thai-binh両省と,Hu,ng-y8n の一部にあた る。

(10)

桜 杵 :聾朝下ヴェ トナム村落における揮散農民0)分析 (

I

)

上 後 相槌。 幹 大越 史 記 続 編 景興20年 (1759)四 月 以 大 皐 , 斬 下 府 匡構 27), 令 民 依 制 造

海 田。 護 官 粟 賑 貸 流 民 , 令 内 外諸 司雑 訟 , 並 緩 勘 。 これ は , 越 史 通 鑑 綱 目で は 六 月大 草の 記 載 とな っ て い る。 こ こで は 大 越 史 記 続 編 を と る。 任革大越 史 記続 編 景興29年 (1768)三 月 早, 父安38-大磯 り

西

南北 29)禾 穀 大

損C

,

召 捕 臣 議 荒 政 。 -・・・・ 越 史 通 鑑 綱目43 同年 五 月 憂 , 召輔 に,J.議 救 荒政 。

C

1

建史通 鑑綱 目44

景興

37年 (1776)七 月

生実O

これ は 七 月 早の記 録 で あ るが , 本 文中 に r夏 田 乾 赤31)」 とあ る と ころ か ら, お そ ら く五 月 以 前か ら早魅

続 い て い た と考 え る こ とが で き る。

⑳同書

同年 十一

不雨 O

寓言Ll 同

同年 十二 月 以 呈, 謁 免 諸適負及 調鰻 , 停 諸 工 役 。.・・・-・ 大 越 史記 続編 景 興38年 (1777)二 月 以 天 久不雨, 命該勘 各衛 門, 緩 勘 諸 訟。) 越 史 通 鑑綱目45 景興38年 (1777_)四 月 父安 磯 , 賑 之 。 文 安 達 歳 磯 歓 ,磯 掌 相 望。 ㊧ 越 史通 鑑

目45 景興39年 (1778H J

L

人 早。 求直 言。, 大 越 史 記 続 編 同年 五 月 27)不明。ただ し越史通鑑綱 目42同年六月条は 「頒水車長」 とあ るO 式 との類似か らいえば様 (様の本 字) の略字 であろ うか(, 28)父安7柑 二の ことo父安は1831年以降父安省 と

静省にわかれ,仏領時代ではさ らに父'/iI省出店部を分け て Tran-ninh;Cam:mon とし・他を Nghe-an としたO河静省は Ha-tinh である0

29)西道 南追 ・北道の意であろ う。西道は宣 光 ・興化 ・lll酉の 三承宜か らな り, 仏領時代のほぼ Tuyen-quang,Ha-giang,Yen-b2'li,Lai-chau,So,n-la,rloa-b主nh,Lao-kay,Phil-thp,So,n-tay等にあた る。

l翫掛ま先の両市ヒ下鋸であ るO なお清華 以南は海 西道 とよばれた。

30)京北Jf滝 .の こと。

命以降北寧省 とよばれ,仏領時代 の B畠C-ninh 省 と BまC-giang・V言nh-yen 省の一

部か らなる。

3

1

)

はF

Tl-・と同意であ る(,したが って 「夏用乾赤」は夏用がひか らび るの意であろ う。

(11)

東南 アジア研究 15巻 上l/ 7-大磯。 越史通鑑綱 目 同年 間六 月 大磯。 -・-

以頻年早歎。米債騰貴 ,栄- 小椀 直鎖一階。餓死属道。 以上 の如 く,早 魅が夏 田に被害 を与 えた例 だけ で も

2

1

例あ り, この内,餓,磯,難 食,民流 亡 と称 され る年 は16年 に達す る。 これ は少な くとも18世紀以 前の北 部 の ヴ ェ トナ ムにおいてほ, 早魅 が披経 の もっ とも大 きな原 因 であ った ことを示 す もの であ る. では仏領時代 の米 作か らえた

P.

Gourou の見 解 と, なぜ これ ほ どまでに相反す る記録があ らわれ るのだ ろ うか。 しか し

P.

Gourou は また r高地 の米 田に とって蒸 発 のはなはだ しい時 期 に,十 日雨が降 らない状 態 は危 険 であ る。」32)とし, また 「しか し,宗雨期 の降雨 の不規1冊ま 重大 な結果 を もた らす。 中高地 の田につ くられ た五 月米 の収穫 は,十 月米 のそれ よ りも, しば しば危険 に さ らされ る。」33)としてい る。 に もかかわ らず,デル タ地方 において早魅 が重大 な脅 威 とな らな いのは,P.Gourou は指摘 していないが,仏領時代 におい て五 月米 単作地帯が,地 域 的 に きわ めて 極 限 され ていたた めであろ う。 前述 の よ うに R.Dumontに よれ ば, 夏稲 単 作地 帯 は ダイ河 Sang Day と紅 河, ナ ムデ ィン河 Sang Nam-dinh に囲 まれ た地域 お よび ダイ河 の西方 に集 中に分布 してい る。

P.

Gourou が様 々の 統計資料か ら 推 計 した ところに よ れ ばデル タ全域 110万 - クタール の米 田の内,夏稲 田の 単作地 帯 は25万 - クタール,即 ち22.7 0/Oに達す るのみ であ る。34)しか も夏稲 田の平均収量 は,地 方的偏差 はあ るにせ よ,35)一般的 に

い って秋稲 田 よ りほ著 し く劣 る。

P.

Gourou は幾つか の 具体的 な 例証 をあげて 批 判 してい る が,36)いちお う目安 として,lesDocumentsdeDdmographie の 数字 に よれ ば, 五 月米田 1

- クタール当 りの平均収量 は8カ ン ト- (quintaux-100kg)であ り,十 月米 田では10.5カ ソ トーであ る。五 月米 田が早魅 の危機 の少ない低部 デル タに分布 し, しか も米穀生産 全体 の位置 が この よ うに低い段階 では,早魅 が1945年 の如 き危機 的状 況 にない限 り,37)仏領時 代 において ほ大 きな問題 とな りえなか った のは充分首 肯 し うる。 しか し,仏領時 代において さえ夏稲 田が ヴ ィンイ ェン,38)あ るいは フ-ラン トゥオ ン39)の如 き高地部 に も分 布 してい る ことは,R.Dumont,40)

P

・Gourou も指摘す る ところであ る。特 32)P.Gourou,ibid.,p.67. 33)P.Gourou,ibid.,p.67. 34)P.Gourou,ibid.,p.401. 35)P.Gourou,ibid.,p.404・ 36)P.Gourou,ibid.,pp.402-404. 37)拙著 『東 南 ア ジア現 代 史 ⅡⅠ』山川 出版社,1977,pp.168-174. 38)Vinh-yen 省。

39)PhdILang-thu'o'rlg.

(12)

桜 井 :弊朝下 ヴェ トナ ム村 落におけ る辞 散農民Uj分性 (I)上 に

R.

Dumontに よれ ば, 扇状地41)で栽培 され る夏稲 米 の 品種 と,- イズ ォン, タイ ビンの よ うな低 デル タ部 で栽培 され る ものの一部 とが共 通 してい る42)のは興味深 い。五 月米 は,本来 耐単 性 のつ よい作物 であ る。43) これ はかつ てデル タ上方 の扇状地 において も, こ うした夏稲が かな り広 く分布 していた ことを推 測 させ る。 とすれ ば,それ は饗朝期におい てはそ の生産を 夏 稲 の栽培 に依拠す る比率がたかか った こ とを意味 し,それが繋朝期 におけ る 早魅 の被害 を増大 させ た と考 え る ことがで きる。次 に 各年 代記中の早魅 を うけた地 名をひろ うことに よって この 仮説 を検証 してみた い。 (3) 羊魅 の地理 的分布 早魅 は64年 にわた って発生 しなが ら,そ の地理 的範 囲が 明確 に記述 され る例 は きわ め て少な く,以上

21

例の内では,わず か に

9

例 に しかす ぎない。 しか し この

9

例の中 に も,あえて推論 をた くま し くすれ ば,い くつ か の注 目すべ き点 を発見す る ことが で きる。 まず

1

7

世紀 以前 の早 魅被害地域 が圧倒 的 にデル タの東北部 に集 中 してい る点 であ る。1448年 の浪江 に沿 った宣光 ・ 蹄 化 ・嘉興 は注 14) でみ る よ うに,旧-ザ ン ・チ ェエ ソクァソ, イ ェン′バ イ ・ラオ カィ,ホ ア ビン ・ソンラに またが る 広 大 な地域 にあた る。 大 南一統志 (東 洋文庫蔵 )

3

4

興 化省下 を み る と, この地域 では 夏 田は九 月に秩44)し,十二 月に稼45)(た うえか ?) し, 四 月に獲 る。 秋 田 は四 月に秋 46)し, 六 月に収穫す る。 したが って, いずれ も 雨季 の最盛李 を避 け て 収穫 す る点

41)Y.Takaya,"RiceCropping PatternsinSoutheastAsianDelta,"SouthEastAsianStudies,XIII

-2,p.271の付図によれば terrace地形またはhillに分類されている。 しかし高谷好一氏の 御教示に より, 仮に扇状地としてお く。 なお,R.DumontはPhdLangThu'o'ng付近の 夏稲田を Rizi占res hautes

高地

田とよんでいる。R.Dumont,ibid.,p.93.

42)夏稲の品種 (R.Dumont,ibid.,p.93より作表。)

\\栽培地 phdLangThu,0,ng HaiDu・O,ng ThaiBinh Vinh Y色n

品種\

chanh

O

O

O

(つ t8p

O

O

C)

cut

C)

(

)

nap

(

)

ba

o

O

Saiduong*

うん ・なおここで用いられているSaiduongはおそらく芸台類語 (後述するように18世紀末要塞惇によって うるち かかれた一種の百科全書)中の杭の夏稲の一品種である柴塘 (Saidu'6,ng)のことであろう. 43)高地に植えられる独特の夏稲については後述するが,低地に栽培する夏稲においてさえ

,

生育時の水必 要最は他品種に較べて 少ないとい う. たとえば 夏稲が 生長期に 必要とする水は 1ha 当 り4,000m3 であるが, ジャワにおいては 田植え期に 15,000m

8

,

生長期に 10,000m.'が必要で あ る とい うo 良. Dumont,ibid.,p.101. 44)U'o・ng.通常笛または苗を育てる意であるが,たとえば大南一統志37興安省の例をみると,一年の農事 は 「播秩」「下縁」「収穫Jの順に記載されている。したがってここでの枚も実は播秋の意ととるのが正 しかろう。 45)上述の理由でこれも 「下楳」即ち田植えと考えるのが正しかろう。 46)ここでの枚は注44)とは逆に,収穫期との関係からみれば田植えとしか考えられない。 563

(13)

東南 アジア研究 15巷 4号 で,47)平野部 におけ る五 月米,十 月米 とは異 な り, 同 じ夏秋 と命名 され て も,早生 ・晩生 の差 にす ぎない ことがわか る。 また 同書 は, 「山渓及び 安江 の諸水 は大抵 多 く, 田地 に悪 し。 則 へだ ち山に沿 い て耕 し,藻 を障 てて稼 す。 山農 は萄 黍 多 く

,田

農 は儒稲 多 く

,用

江ノて,

稲最 も少 し

」 としてい る。別 に 「

俗」 に も 「食は

米 多し。」 とあ り,夏稲型 の稀栽培 を中心 とす る 地 域 であ った ことがわか る。48)したが って,1448年 の早害 は まず こ うした比較的粗 放な高地型 の農法 を襲 った ことが考 え られ よ う。 次 に1467年 の京 師 の米不足 の記述があ るが, これ は,おそ ら く京師 の米作の状 況 のみを示す ものではな く,京 師- の米移 入先 の不作を示唆す るものであ ろ う。 しか し注意すべ きことは, この時期 ゲア ンではむ しろ豊作 であ り,京師- の回米が 叉安承政使 に命 じられ てい る ことであ る。 後述す るよ うに ゲア ンが18世紀以降,早魅 に苦 しめ られた点 と比 較す る と,米作 の面的拡 大過程 を暗示 して興味深 いO 次 に1491年 の刑 門 各府 県,1585年 の東北二道,1594年 の海陽 の例があ る。

存 49)は海陽省 に属 し, この時 代海

陽省

(全署19県)の内, 囲北部か ら ドンチ ェウ山塊50)にいた る

7

県 を領 し ていたO したが って

,前

述 の よ うに1491年 お よび1594年 は早魅 ばか りが飢鯉 の原 因であ った と はいえない に しろ, この時 代海陽 省に何らか の意味 で 早魅 の被害があ った ことは疑いえない。 しか るに19世紀 未 の地理 書であ る同慶御覧地輿誌をみ る と,海陽省 諸県 はいずれ も 「秋禾 多 し」 また は 「秋禾 多 く,夏禾 少な LJ として,秋f「細 目半が 優先 していた ことを示 してい る。海 陽省 に接す る広安 省の農耕 に関す る大南一

志30の記述 をみ て も, 「沿海 は六 月稼 し,十 月穫 る。 沿 山は五 月稼 し,九 月穫 る。早晩 ほぼ同 じか らざるあ り。J としてい るか ら,19世紀段階 では旧東遺一 帯が,秋 稲地;.'i巨ごあ った として よか ろ うo Lか し,年 代 記の上 では,特 に1585年 の例 ではあ き らか に早魅 に よって 夏稲が被害 を うけ, しか もこのゆえ に 「人民磯 匪」が 発生 し てい るのであ る。 これ は少な くとも16世紀段階では, これ ら海陽,広安 の現秋稲地 帯 に も,か な りの シ ェア-を もって 夏稲が植 え られ ていた ことを示 してい る0 1585年 の早魅 でい う北道 とは,注17)で述べ た如く旧仏

区画 でい うノミクニ ン ・ノミクザ ン ・ ラ ンソン ・タイ グ ェン ・バ クカ ンにひ ろが る 東北

帯 の区域 を さすLつ 大 南一統志38では 北寧 省 は 「秋 田多 く夏 田少な し」

,

同35の大原省 は 「稲麦雨

露,

一 に北寧 と同 じ」, 同書41の諒山省 は 「一 に稲は初夏播秋 し,五 月而して稼 し,秋 来 るや穫す。.」とあ る。 したが って,諒山省は他 2省に比 して,い ささか 早生であ るのを別 にすれ ば, これ ら3省はいずれ も19世紀段 階 では秋 稲地常 であ る。 しか し年 代記 の記述 に よれ ば これ ら3

は16世紀段 暗 では, 夏稲 栽培 の シ ェ 47)同書には興化の気候をまとめて 「五六月盛暑,ヒ八月多風雨Jとしている。 48)ヴェトナムでは18世紀段階に水田じたての,夏

型の精米があったことは芸台

語によって知られる。 品種としては弟封斐・i--i.,TL.1庵 ・捜 ・粁

隼胎 ・贋 ・溝路 ・掛 目・芭蕪棺などの名がある。 49)Kinh Man. 50)Dらng-triさn.

(14)

桜井:聾朝 Fヴェ トナム村落におけ る漂散農民の分析 (1)上 ア-がたかか った ことを示 してい る。 大南一統志38が北寧 省を秋 田 多地帯 としなが らも,「憂 国は 十二 月稼 し,五 月穫 るO」 とし,P.Gourouがバ クニ ン省の調査 の結 果,51) 多 くの夏 田 単 作地 帯 の存在 を指摘す るのは この残存形 態 として考 え る ことも可能 であ ろ う。 しか るに よ り興味深 い ことは

,1

7

世紀 以来,一般 的 に皐魅 の 被害 を物語 る記述 は 多 くとも, これ らの地域 を特 に指定 した記述がみ られ ない ことであ る。 これ は

1

6

世紀 以 前の地 名を記 した 5例 が デル タの東北 部 と北 部に集 中す るのに対 して,極端 な対照 を示 してい る。 これ はほぼ誤 りな く, これ らの地域 に生 じた秋 稲- の作 付転換 と対応す る と考 え られ る。 しか し秋 稲は大 量 に水 を必要 とす るいわ ばデル タ型 の品種 であ る。 これ ら秋稲が,広安 ,海 陽 省東北 部,北寧省 北 部,大 原省, 興化省 等の扇状地 に拡大す るためには,整 備 された海耽 網 が必要 であ る。.まさ に このゆ えに, フラ ンス植 民地政府 は

1

9

0

5

年 以来, 多大 な資本 を投 じて,高地 の四大潅灘 網 を 整 備 したのであ るL, この潅瓶網 は ケ ップ網 (r占seau dekip)が 旧行政区 画でい う北寧 北 都, 大 原 南部, ヴ ィンイ ェン網 が旧宣光 南部 , ソンカオ網 が大原 とい うよ うに,ほぼ

1

6

世紀 以前 の 早魅区域 を敵 ってい る。52) 史料 にはみ えないが,おそ ら くこれ に先 行す る形態 で,繋朝後期以 莱 ,iil,:灘 に対す る営 々た る努 力が繰 り返 され る ことに よって, これ ら産稲地域 を秋 稲地域 に転 換す る ことが

'能 とな った のであ ろ うC 大越史記続編 景興

2

0

午 (

1

7

5

9)

四月 の r大 草を以 って, 水 車梢を頒 下す:,艮を して例に依 りて造作 し, 田に擬せ しむO」 とあ るのは,「水車 」が どの よ うな ものであ るか ほ不明であ るが, この間 の海戦技 術の進 捗 と潅概 面積 の

大 を示唆 す る もの であろ うO 次 に

1

7

0

3

年 以降 演 技 ・畿 内 ・山南 ・叉安 が早魅 に襲われ てい るo 「畿 内」,「七竹夫j」 の如 き一 般的な地 名を除外 して, まず

1

7

0

3

年 の山南か ら 考 え る。 山 南は

注2

5)

に述べた よ うに- ノイ 以南 の紅河本 流 に

した全 ての 省を含む広範 な 概 念 であ る。 しか しなが ら 別論 で述べ るよ う

に,ナ ∴デ ィン河の中間を境 とす る南部

,P.

Gourouのい ういわ ゆ る沿岸砂丘列村落 (Villages deCordonslittoraux)53)は,そ の大部 分の成立が

1

8

世紀 以降 と考 え られ るためにい ちお う除外

す る。 とす る と, この時代 でい う山南 は中部デル タ (M 。yen Delta)に比定 され よ う。 輪 中村 落 に特 徴づけ られ る これ ら中 部デル タは夏季 の排 水 困難 の地域 が 多 く, このため 前述 の よ うに 高地 とは適 に,深 田地 帯 に乾季 に成 長す る夏稲が植 え られ る。 では この山南地域 での夏 稲へ の 早魅 が, なぜ この時代 に年代 記 の上 で 突然 に現わ れ るのであろ うか。 後述す るよ うに山南 では

1

5

9

2

年 にす でに大水害 が発生 し,以後

1

6

5

7

,1

6

6

3,1

7

1

3,1

7

2

7,1

7

5

3,1

7

7

3

と夏秋季 に洪水 に み まわれ てい る. 後述 の よ うに秋稲 は 多量 の水量 を必要 とす る南西モ ンス - ンに依拠 した デル タ型 の農作であ る。 中国史料等 の記述 か らみ る限 り ほ とん どヴ ェ トナ ムの 歴史時代 の 初めか 51)P.Gourou,ibid.,pp.398-399.

52)Ch.Robequain,"TheEconomicDevelopmentofFrenchlndoIChina,"translatedbylsabelA.W ard,

0ⅩfordUniv.press,1944,p.224. 53)P.Gourou,ibid.,p.242.

(15)

東 南 アジア研究 15巻4号 ら, デル タの一部 に秋 稲が植 え られ ていた ことは誤 りない0 -万 の夏 稲のデル タ- の導 入 につ いては,史料 的 には ま った く不 明であ る。 しか し芸 台類 語 に載 る杭 の夏稲の 8種 の内, 4種 が 占の名 を冠 してい るの は きわ めて示唆的 であ る-占預 chiendや・・占黄 chienhoang ・占保 chi8n baa・占歌 chien han の如 ぐ ごあ る。 現 代 ヴ ェ トナ ム語で夏稲 の ことをldachi8mとよぶ のは このゆ えであろ う。 占の名が冠 さ れ る ことにつ いて妾貴 惇 は 「末 の真宗 に至 りて,使 を遺 し占城 稲三万別 を取 らしめ,諸道 に分 給す。始 め て この種 あ り。本草 これ を柚 と謂 う。南交 (ヴ ェ トナ ム) と占人あい接すこ ゆえに 夏熟 の稲穀 ,多 く名 を 占 と日 う。」 として, ヴ ェ トナ ムの 夏稲 と

司史上 なだか い 占城 米54)と の関 係 を示唆 してい る。 占域米 は中国 では早魅 に耐 え る早稲 として受入 され ,特 に揚子江沿岸 では洪水 を脱れ るため に,早生 の寺山を植 えた とされ てい る。 とすれ ば,そ の利用形態 は ヴ ェ ト ナ ムのデル タにおけ る夏稲 に酷 似 してい る。現 実 の 占城米か ど うか は別 として, そ の名が「占」 を冠 してい る ことと考 えあわせれ ば,北部 デル タにおけ る夏稲栽培が,雨期冠水地 苗 の耕 作の ため に もた らされ た 後釆 の ものであ る ことが想 像 され る。 本来,山田の刀耕火種 の品種であ り なが ら,二 月に種 まき六 ・七 月に収 穫が可能 であ るタイ グ ェン地方 の 「慕」が 「堤 PLl「lL津J の地 に も植 え られ た とす るのは,55)こ うした乾 期性 の夏稲 がデル タに進 出す る過程 を示 してい るよ うに思われ る。 一 方 ,東 洋文 庫に将来 され た仏極東学 院本 マイ ク ロフ ィル ム中の南冠 省義興府56)地 簿57)をみ る と,1805年段階 の夏秋 の別 が判 明す る私EEI58)5527.5畝 の内,1075.0畝

(

1

9

.

4

5?

o

)

が夏 田か らな ってい るのに対 し,夏秋 の別 が判 明す る公田 726.9畝 の内,夏 田は25.1畝 (3.45鯨)しか 存在 しない。 また私 田の47%が夏 田であ る同美社 の公 田率59)はわずか に0.1%であ り,同 37.5 0/bの多米社 の公 田率 は3.10/0,同33.40/Oの月遭社 は2.140/Oにす ぎず,逆 に公 田率77.6% (全米 田が公 田) であ る富穀社 は夏 田を有 さず ,同740/bの小穀札 34.00/'Oの百穀村 も同類 であ るo L たが って若干 の例外60)はあ るにせ よ,夏 田は基 本的 に私 田 として耕作 され てい るのであ る. 。-54)lli城米 (稲)については論文が多いが,参考のためにその代表的なものをあげると, 天野元之助 「中国の稲考」 『人文研究』 10-10. 加藤 繁 「支那に於ける占城稲栽培発達について」 『友邪経済史考証 ・下』1953. 高橋貞雄 「支那に於ける柚及び我国に於ける占域稲の由来について」 up日本作物学会紀事,・lfト 1- 2. などがある。 55)芸台類語O慕 m¢. 56)Nan-d圭nh省 Ngh 言a-hu,ng府。 57)拙稿 「19世紀初期ヴェ トナム村落内土地占有状況の分析」『東南アジア一一歴史と文化』6,197(i,pp∴,,2--61. 同 「19世紀初期 ヴェ トナム村落内土地占有状況の分析再論」『東南アジ7---歴史と文化二7,1977掲 戟 予

。 58)公田および私田の意味については, 拙稿 「洪徳均田例に関する史料紹介」 (I)(侶 ',拙稿 「永盛均団例の研究J『史学雑誌』 85-17;拙稿 「永盛均田例の周辺

『東洋学報』 56-2,3,4 に詳しい。 59)村落全田土に対する公田面積の比率 拙稿 「19世紀初期ヴェ トナム村落内土地占有状況の分析」 pp.53-54.

(16)

桜井 :酔朝下 ヴェ トナ ム村落におけ る漂 散農民 C/)分析 (I)Pと 般 的 には私 田の成立 は公 田 よ り新 しい と考 え られ る。 とすれ ば, デル タにおけ る

稲の導入 は 公 田制 の成立 (

1

5

世紀 末) よ りもお くれ る と考 え るのが妥 当であろ う。 一 方 , 同地 帯 におけ る夏稲植 付け の記 録 をみ てい くと大南一 統志36南定 省に 「秋 田粕か 少な し。 E値節 (芭 種節か。新暦 の六 月上 旬) を もって播 放 し,六 月を以 って下縁 し,九 ・十 月に 至 って収穫す。 夏 田多 し。 霜降 の初め播 供 し,十二 月及 び春 首を以 っで 下稼 し,四 ・五 月取成 す 。」 とあ って,19世紀段 階 では 夏稲 の優越 した 地 帯 にな っていた ことを示 してい る。 また同 河 内 省 (巻名欠) では 「高 田は夏月稼 し,冬 月度 す。 低 田は冬

J

J

し,夏 月度す るC」 とあ っ て, この時代 にす でに作付 の選 択 が行 なわれ てい る。 次 に18世紀後半 に記 され た繁貴博 の芸 台類 語をみ る。 この書 には 前述 の よ うに多 くの夏稲 の 杭 の品種 と形態 が記 され てい る。 この内,深 田にむ くとされ る ものに 「粘貼」61),潮 田63、にむ くもの として 「占保」 な どの種類が載せ られ てい るが,特 に 占軟 とい う種類 は山南下路 の深 田 にむ くとされ, また 占歌 の中で,敷 (玄 米か) が粗赤 で磐 を もつ種類 は, 「汎 洲」(沼地) の地 にむ くとされ てい る。 これ は18世紀段 階 で,杭 の夏 稲が下部 デル タでは さか んに栽培 され てい た こ とを示 してい る。 したが って,文 献上 , 山南地方 におけ る 夏稲 の導 入 は18世紀 に遡 る ことが 可能 であ るが, 1703年 に突如発生 し,1706年 にいた るまで問題 を残 す 山南地方 の大早魅 と, この夏稲 の導入 と はおそ ら く関係 を有す るのであ ろ う。 以上 の諸 例を考 えれ ば, 早 くとも18世紀後半 , 本来秋 稲栽培地域 であ った 中部 デル タ 地域 に, 本来高地性 の夏稲が, 湿潤地 に雨 季 を さけ る品種 として 導 入 された とす る仮説 が 成立す る。 とすれ ば,高地 に対す る秋稲 の導入 と植付転換 , デル タにお け る夏稲 の導入 は ヴ ェ トナ ム 北部 デル タの面 的な農業生産 力を飛躍的 にたか め る働 きを した であろ う。 前論 で述べ た ごとき 社 xaの分村化 , 村 th6nのデル タにおけ る成立 ,高地 におけ る庄 trangの増加 はお そ ら く これ と相関関係 を もつ と考 え る こともで きよ う。 次 に1703年 に清華,1768年 ・1777年 に父安 に起 こった早魅 につい て考 え るO仏領期,メイ ンホ ア省 の夏稲 田は タイ ンホア ・デル タの東北部 -チ ュ ン府63)・- ウ ロ ック県64)の北部,ガ ソン県65) の西 部に拡が っていた。 これ らの地域 に夏稲が植 え られた のは,夏季 には冠 水 田 とな るため, 秋稲 の栽培 が で きないか らだ とい う。66)同慶御覧地 輿誌 の清化省河 中府 の項 には 「宋 山,夏禾 60)月遇社は私Lf

l

中の憂悶が33.4/0,0'であるのに対し,公田中の夏出は46.9%である。 61)粘貼 niem thiap. 62)なお潮田とは中国広東地方に多い瀕海の新田である。広東新語2に 「香山土田凡五等--五 日潮乱 湖 漫汐乾。汐乾,而禾苗。乃見毎,西療東庄。流塊下積

,

則沙坦,漸高。以葦笹,植其上,三年即成子田。」 とある。 63)

中府 HaTrung. 64)厚禄県 HをuLee. 65)親山県 NgaSo,n.

66)Ch.Lobequain,"LeThanh‖oa,HTomeI,Paris,Bruxelles,1929,p.339.

(17)

東 南 アジア研究 15巻4号 多 く, 秋禾 少 Lo 浅 山 ・弘 化 ・美 化 ・厚 禄, 夏禾 少 く,秋 禾 多 し。」 としてい る。 大 南一統志 (千田空友郷 研究 会版 )

1

6

活 化省 ヒの 「気候 」 の項 には 「原野 に屠 す るは, 高 田は六 月を以 っ て稼し,十 月穫すO低 田は十二 月を以 って接 し,五 月穫す O」 とあ るo Lたが って 夏 稲秋 稲の 植 分け は

1

9

世紀段 階 で は基 本 的 に紅

デル タ と同 じ方法で 行なわれ た と考 えて よか ろ う

。別

諭 した よ うに, メイ ンホ アデル タは

1

7,1

8

世紀 以降 ,「村J th6nの分化 とい う形 態 に よって,い ち じる し く村落 が増加 した地 帯 であ る

6

7

)

これ は, タイ ンホ アデル タが繋朝期 に, いわ ば大 開

拓期

と もい うべ き時 代 に突入 した ことを示 してい る。 後述 す るよ うに,繋朝 一fタイ ンホ アデル タでの洪水 は

1

5

5

9

年 の酉 都城 の 水没 には じま り

,1

7

6

0

年 までに

1

0例 を 占め る。 それ は, この ク イ ンホ アデル タの開拓 が, まず秋 稲 に よるデル タ- の進 出,次 い で低 部冠水地域- の夏 稲の進 出 とい う

紅河

デル タの開拓 とほぼ 同一 のパ タ- ンを とって

なわれ た ことを推定 させ るO とす れ ば この

1

7

0

3年 の活 化省 の早魅 もまた , 山南地域 のそれ と同 じ く, タイ ンホ アデル タ- の 夏稲 進 出の一 つ の メル クマ -ル として理解す る ことが で きよ う。

1

7

6

8

,1

7

7

7

年 に起 こるゲア ン省の 竿魅 はお そ ら く前

2

例 とは趣 きを異 にす るO ゲ ア ンはそ の

名面積

が 広 大なわ りには 「地 桁 せ,民 貧 し」, と同慶御 覧地 輿誌 にいわれ るよ うに,デル タと い え る よ うな、円也を ほ とん ども-)てい ないo た とえば嗣徳

1

4

(

1

8

61

)

の大南一統 興 国 に載 る

計を 左て も,全 省で

1

7

9

7

6

畝 の 田上 しか な く,これ は トゥエ ソク ァ ン省 とほぼ 同 じ く,- ノ イ 省の

4

3㌔ に しか あた らないO 山地 が海 に まで追 った地勢 のため, デル タ型 の水 田耕作 が 占め る率 は 少な く, したが って高地 型 の夏稲 の シ ェア-がたか いO 同慶御 覧地 輿誌 の報 告す る三 府 八軒の内,清 樟 県68)・興元 県69)・徳 寿 府70)・宜春 県71)な どはす べ て 「夏禾 多 く秋 禾少

」 とさ り,そ の本 来 の形 を残 してい る とい え よ う。 しか もそ の夏 稲 はデル タで用 い られ る もの とは品 種 が ちか っていた.芸 台数 語は ゲア ンで特 に産 す る もの と して,「三 月」73)(ウル チ ・夏 稲),「芭 ibid.,TomeII,pp.285-292. 68)Thank-chu'o'ng

県。

69)Hu,ng-nguy占n 県。 70)D(1・C-thp府 (河静名 目atinh)。 7D NghiXuan 県 (河静省Hatinh)。 72)Anh SJ,11 軒 。 -■--、▲

領 下ヴニトノームに三月稲 (仏名Lerizdetroislunes,ヴェ トナム名lda bagi畠ng)とよばれる品位が あったことはよく知 られる。R.Dumontの解説によれば, これは新酢 1-5月に種播き,5--6月に田植 え,7--8,uIに収穫するとい う。1930年代には高地デルタ (バ クガン,/ミクニン)に植えられていたとい う。しかし,大

南一統志1

4

,同慶御覧地

輿

誌父安ではいずれ もゲアンに 「三月穀」または 「八月殻」と い う名の稲が障 .汚されていたことを伝え,芸台類語では 1三 ノ畑 父安廿」とするところか ら,19世紀ま ではゲアン省の一

方 品種であったことを示している。 L JM Sヴェ1、ナム語ではgiは trに転肌する。南部で ltla batrang(′レア ・バー ・チ ャン)と言って いるのはこれであろ う。

(18)

桜 井 :懲朝下 ヴェ トナム村落におけ る漂散農民の分析 (I)上 蕉櫛 」 (モチ ・夏稲),「象儒」 (モチ ・夏稲),「至鴫稀」(モチ ・秋 稲)等 の名をあげ, また同慶 御覧地輿誌 叉安 省嚢陽府74)・葵州府75)の項 では 「穀 はただ 稀米 に属す るのみ」 と記 され る と ころか ら,高地型 の精 米を主体 とす る米作が大 きな シ ェア-を 占めていた と考え ることがで き よ うO その耕作法 もきわめて原始的で,た とえば芸 台類語 にみ る叉安鎮東成県 (東城 県76)) の 農法は 「毎候だ現 日 (巴節 か ?77)),釆耕 して土 を起 し, 穀種 を極密に布 くO 即 日鋤過す。沙 穀相温ずO 日な らず して芽 を生ず。雨水浸涯を得 て,土,酢 藷擁 し,禾 宙茂美すo もし草 多けれ ば,再び これ を鋤す。不

(下泥か)筒有 るな り。鋤

,

苗を妨 げず して よ く草を去る〔 いずれ おわ の ときか,収穫 ZLj乞れば,禾根欄腐 して割けず。 英 田更 に美 しO 或 いは再び 鋤 して, 落地 の穀 賓 を起 し,復た禾菌を生ず。播種 を待たず 。 人家- 午,或 いは十飴畝を耕す。 ことに 力を費 さ ず 。」とあ る。東城県 は ゲア ン省海浜部 で,全土が沙状 であ るといわれた地 であ るO しか るに こ こでの除草法 は斉民要術半 田第十二 でい う鋤 に よる除草法 と酷 似 してい る。 この よ うな直播 , 再鋤方式 に よる早稲 の粗放 な栽培法 は高谷好一教授 の御教示 に よれば, イ ン ド・東 南 アジアに 広 く分布 してい るとい うO ゲア ンでは18世紀後半 にいた って, しか も海浜部 において さえなお こ うした早稲栽培が行なわれ てい るのであ る。大南一統志14叉安省気候 の項 は 「其山高 く,海 近 く催浸数 口をす ぎざるを以 って,古 来堤政 な し。」 とす るよ うに, 海 に近 いに もかかわ らず ゲア ンの農耕 は堤防 と運河 を必須 とす るデル タ農耕 とはちが って,いわ ば対極をなす 高地型農 耕地帯 であ った とす る ことがで きよ う。 したが って, ここでの 夏稲栽培 は北 部高地 と同 じ く常 に早魅 の危険 に さ らされ ていた と考え られ よ う。 ゲア ンは紅河 デル タに比 して1月の平均気温 は約 1度近 く高 く,かつ- ノイに比 して約 4度 40分南方 に位置す るため,東北 モ ンス ー ンの影響 も比較的安定 してい ると考え られ るが,その 一方 で この地帯 には夏稲 に損害を与 え る,いわゆ るLesventsLaosラオス風があ る。 ラオス 風 とは新暦5月 よ り6月にかけて,北上す る南西 キ ンス一一ソが チ ョンソン山脈 を下 る時 に一種 の フ ェ- ン現 象を起 こす もので, この時期 の農作物 に多大 な被害 を与 え るLl同慶御覧地 輿誌 父 安 省徳寿府 の気候 の項 に も 「三 よ り六 月に至 る。常 に南風 の盛 んに発す る有 り。草木 禾穀,常 に焦持せ らる。」 とあ り, 同書宜春県 に も 「四 ・五 ・六 月の間,西南風,沙塵 を発 し, 目を蔽 しむ。其 の近海 な るを以 ってす るに, しこ うして地気 の剛燥 な る故 な り。」 としてい る。 父安 が早 とされ る景興29

年 (

1768)の三 月か ら五 月は,新暦 では 4月17日よ り7月13Hにあた る。 同 じ く景興38年 (1777)の四月は新暦 の 5月18日よ り6月15日にあた る。 この ラオス風 に よる 高地型夏稲- の被害 と考 え る ことがで きよ う。 74)Tu'o'ng-du'o'ng府。 75)Qui・chau府0 76)Dang・thanh県。 77)=Lf節とすれば新暦の六月にあた り,秋稲の種播きとしてほおそすぎるように思われる。 (叉安の秋稲は 「六月立苗冬十月熱 〔大南一統志14〕とされる。)注73)の三月稲とすれば時節として一致する。 569

(19)

東南 アジア研究 15巻4号 では, なぜ早魅 の被害が18世紀後半 にゲア ンに集 中 して発生 した のだ ろ うか。 ゲア ンもまた タイ ンホア とな らんで,17,8世紀 の間 に 「村」が急激 に増 加 した地帯 であ る。抑斉集謹按 (15 世紀) が55村 の数値 を示す のに対 し,19世紀初 の各鎮総社 名備覧 では620村 とな ってい るO先 の夏禾 多L とされ る清 浄県 では 8村 が47村 に,興元県 では 3村 が60村に

,

徳 寿府 に含 まれ る羅 山県78)では1村が36村 に,宜春県 では0村 が16村 にな ってい る。 この間本来 の 村 落 であ る社 数 にはほ とん ど変化 が ない。79) ほ とん ど平地 を もたない ゲア ン省では こ うした村落 の増加 は一 方 で東城県,壇瑠県80)の よ うに海浜砂士 を粗放 直播 式 の農法 で開拓 し,他方 は高地 に種 々の高 地型夏稲 を栽培す る ことに よって吸収 され てい った可能性 が きわめて強 い。 とすれ ば,18世紀 後半 の ゲア ンの早魅 は こ うした新村 の不安定性 に よるもの と考 え る ことが で きよ う。 以上 の よ うに,夏稲 の早魅 が地域 的 に増大 した背景 にはデル タ地帯 の雨季冠水 田におけ る夏 稲栽培 と, ゲア ン地方 での高地型夏稲栽培 が,新村落 の増加 に ともな って導入拡大 された こと に原 因があ ると考 え る。 そ して,夏稲栽培 の面 的拡大 は,一 方 において生産 力の拡大 につ なが ると同時 に,それ は不安定 な東北 モ ンス ー ンと南西 モ ンス ー ン初期 の降雨 に依拠す る危険性-も内 包す る ものであ った。

早魁の秋 稲へ の影響 仏領時 代,北 部 ヴ ェ トナ ムにおけ る米穀生産 の大宗 は夏 稲であ る。十 月米 の単作地 はデル タ 北部 の ヴ ィソイ ェソ, フクイ ェン,81)バ クザ ン,82)バ クニ ンの半分,フ ンイ ェン83)の北東部 と, ソンタイの一部 に分布す る。84)秋稲 の単作地帯 では, 雨季 の到来す る

4,5

月の末か ら

6

月に かけ て耕 され6,7月に植 付け され る。 開花 期 は 8,9月であ り,9,10月に 収穫 され る。 もし 雨季 の到来 がお くれれ ば,植 付期 も これ に したが って順延 され る。85) したが って この稲 は絶対l榊 こ南酉 モ ンスー ンの もた らす 雨量 に依拠 してい る。 周知 の如 く, 南西 モ ンス ー ンの もた らす 雨は,東 南 アジア一 帯 にわた って,地域 において もまた年 々変動 に おいて もきわ めて不規 則 であ る.86)P.Gourou は, 北 部 ヴ ェ トナ ムは 年 平均降水量 において は,他 の熱帯諸 国に比 して安定 してい る としてい る。87)しか し,R.Dumontはそ の夏稲 に関 す る記述 の中で, 「もし,重要 な雨 の降 らない 日が15か ら20日以 上にわ た ってつづ き,夏 の暑 78)La-so,n県 (河

静省

Hatinh). 79)拙稿 「ヴェトナム中世社数の研究」 p.39. 80)Qu)trnh Lu,u県。

8

1

)

福安省 Phdc-y8n. 82)北

江省

Bac-giang. 83)典安省 Hu,ng-y仝n. 84)R.Dumont,ibid.,p.27. 85)op.cit.,p.33. 86)注12)参照。 87)P.Gourou,ibid.,p.65.

(20)

桜井 :馴 肝Fヴェ トナム村落におけ る常数農民の分析 (i)上 熱 が蒸発量を増大 させれ ば,米田はかわ きき り,打撃を うけ る。 収穫は ときどきほ とん ど全滅 す る。・(ー1915年 はその一つの例 であ る。)」 88) と言 ってい る。比較的 雨量 に恵 まれた時期 に成育 す るとい って も,一定期間 の 田唄 りはやは り十 月米 に とって も一 部には致 命的な もの もあ った の だ ろ う

O

8

9

)

さて 各種史書 にみ るこの旧暦七 月か ら十 月にかけ ての早魅 の記載 は10例,十一 月∼十二 月が 3例 あ るO このほか, 旧暦六 月の 記録 の内, 洪徳 11年 (1480),統元 4年 (1525),正和16年 (1695J,永盛 8年 (1712),永盛10年 (1714)の 5例が ,夏六 月に早があ った こと, あ るいは 永盛8年 の例 の よ うに,六 月か ら十二 月にかけ て不雨 の状況が続いた ことを示 してい る。次 に これ らの記載 か ら,夏田の 早魅 に よる不作が 「飢鯉」 また は 「米貨」 に結 びついた例をひろ っ てみ る、J ClI)大越史記続編 光典19年 (1596〕 大越史記本紀続編2 光興18年 (′1595)90) ② 大越史記本紀続編2 光興21年 (1598) 八 月早。 九 月早,是時連 日先 学,禾菌枯死。 @)大越史記続編 弘定9年 (1608十 卜二 月 是蔵早,穀 貴民飢。 大越史記本紀続編3 同年 是蔵,天下飢。秋冬栗米大衆,人多磯死。 越史通鑑綱 目31 同年 九 月 早。大飢。 ④ 大越史記続編 永治8年 (1683)十 月 不雨O 命京官往諸道,相地勢,造水車潅概 ,勘 田禾損失,議 行寛赦。是歳 禾穀少収,米債騰 }し、1. ⑤大越史記続編 永盛8年 (1712)九 月 単機O 命赦繋囚

軽,緩 欠諸税,減巡渡税之半,弛工作,以貯民力,修廃紀,以祈神輝。91) 是歳六月至十二月,不 雨。天下大飢。 ⑥大越史記続編 永盛9年 (1713)正 月 88)a Dumont,ibid.,p.33. 89)早魅 の被害があ った といわれ る1915年6月∼10月の 雨量 は PhuLienの測候所 記録 でみ る限 り,1,155 mmで (P.Gourou,ibid.,p.67)平均 の 1,286mmと (R.Dumont,ibidリ p.17)さして変わ らない。 これは雨量が問題なのではな く, 日照 りの期間の長短 が問題 であ る ことを示 してい るL1 90)本文 pp.3tL39参照。 チ,斗 ・- ノ/I 91) 不 明。字順 でい う麻は hu'uを さし,木 の第3または 日影を さす。た だ別 にhu'u「休」は神へ の願 い ごと を さす こともあ るとい う。 571

(21)

東南 アジア研究 15巻4号 時久早。粟米騰貴。 米-小斗直鎖一階。民間別竹木皮葉,為 食。磯坪潮路,村落所在謂保。 ⑦大越 史記続編 景興19年 (1758) 是歳 夏秋不 雨,禾穀 焦粘, 米債騰貴,音赦加租,寛磨 罰積欠銭。撤諸巡路置努麦。 ---③越史通鑑綱 目43 景興28年 (1767)七 月 是 月経旬不 雨,---尋命諸府徴撫各上所轄貧漂疾苦状,意 92)往勘勘民 間田不耕縁者及訪所在 民隠。 --この よ うに,夏田に対す る早魅 の被害 よ りも秋田のそれ は著 し く少ない。特 に秋 田の不作が 直接民飢 に結 びついた例 は,弘定9年 と永盛8,9年 の2倒 しかみあた らない。P.Gourouが 「1895年 の よ うな例外的な数年 を除けば,早魅は収穫を減 らして も,全滅 させ る ことはない。」93) とす るよ うに,秋稲に関す る限 り,永盛8,9年 の よ うな例外的な長期早魅を別 とすれば,安 定的な農耕がい となめた と考 え る ことが で きよ う。 む しろ秋稲 に とっで 惰るべ きは南西 モ ンス ー ンの爆発的な降雨 の もた らす水 の過剰供給 の問題 であ る。(以下次号) 92)憲司。李朝各承宜 におかれた検察,司法関係の最高

官。

93)P.G ourou,ibid.,pp.68-69.

参照

関連したドキュメント

With the expansion of urban construction land, peri-urban villages have rapidly become involved in the land area designated for urban construction, and the increase in the

Microsoft/Windows/SQL Server は、米国 Microsoft Corporation の、米国およびその

Part V proves that the functor cat : glCW −→ Flow from the category of glob- ular CW-complexes to that of flows induces an equivalence of categories from the localization glCW[ SH −1

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”

またこの扇状地上にある昔からの集落の名前には、「森島」、「中島」、「舟場