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同笵・同形式軒瓦による古代寺院の造営氏族の研究

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同箔・同形式軒瓦による古代寺院の造営氏族の研究

課題番号

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平成

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年度 平成

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年度科学研究費補助金 基盤研究 (C) 研究成果報告書 研 究 代 表 者 小 笠 原 好 彦 滋賀大学教育学部教授

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-同箔・同形式軒瓦による古代寺院の造営氏族の研究

課題番号

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平成

16

年度 平成

17

年度科学研究費補助金 基盤研究

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研究成果報告書 研 究 代 表 者 小 笠 原 好 彦 滋賀大学教育学部教授

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月 滋賀大学教育学部

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は し が き

本書は、科学研究費補助金 基 盤 研 究 (C)を受けて実施した研究成果の報告である。研究課 題、経費、成果は以下の通りである。 課題名:同箔・同形式軒瓦による古代寺院の造営氏族の研究 (課題番号

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研究組織:研究代表者小笠原好彦(滋賀大学教育学部教授) 研究経費:平成

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千円 研究発表:小笠原好彦『日本古代寺院造営氏族の研究』東京堂出版 平成 17年 8月 小笠原好彦「同箔軒瓦からみた古代の僧寺と尼寺J

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考古学論究』 小笠原好彦先生退任記念論集刊行会・真陽社 平成19年3月 :小笠原好彦「宮井廃寺の性格と造営氏族J

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淡海文化財論叢』第2輯 淡 海 文化財論叢刊行会 平成 19年3月

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同箔軒瓦からみた古代の僧寺と尼寺

はじめに 日本への仏教の伝来は、『日本書紀』欽明十三年 (552)十月条に、百済の聖明王が釈迦の金銅 像、幡蓋、経論を献上したことを記している。これは、『元興寺伽藍縁起』では、欽明 8年 (538) のこととして記載しており、近年は『元興寺伽藍縁起』に述べる年代を重視する研究者が多い。 百済から仏教の公伝記事に関連して『日本書紀』敏達十三年 (584)是歳条に、司馬達等の女 の嶋を出家させて善信尼と呼び、善信尼の弟子 2人も出家した。 また、『日本書紀』崇峻元年 (588)是歳条に、善信尼らが受戒の法を請い、百済に赴いたよう に、初期の仏教の受容には、主として渡来系氏族の女が帰依することによって受入れられていっ たことが記されている。 その後、『日本書紀』では、仏教の受容と、政治の主導権をめぐって蘇我馬子と物部守屋によ る戦いがあり、守屋側が敗北したことによって、百済から寺院造営に関連する技術者が招来され、 蘇我氏によって本格的な寺院造営が行われるようになった。 所期の寺院造営の経緯には、このようなことが記され、その後は蘇我傍系氏族や上宮王家、渡 来系氏族らによって本格的な寺院造営が進められており、『日本書紀』推古三十二年 (624)九月 丙子条には、寺や僧尼が調査され、寺 46、僧 816人、尼 569人、併せて 1385人であったと記さ れている。 この時期に造営された最古期の僧寺は、寺院に葺かれた軒瓦から飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺、 尼寺では大和の豊浦寺、中宮寺、橘寺、坂田寺などが知られるにすぎない。 このように僧寺、尼寺ともに寺院名が知られるものはきわめて乏しく、寺院跡の遺構や出土瓦 によって存在が知られる寺院では、いきおい僧寺を想定する場合が多い傾向にある。しかし、『日 本書紀』に記された尼僧の数からすると、尼寺もかなり建てられていたものと想定される。 そこで、ここでは、尼寺に関連する基礎作業として、主に近畿地方で造営された飛鳥、白鳳期 に造営された尼寺の抽出作業を試みてみることにしたい。そして、その一つの方法として、近接 して建てられている寺院で、創建時に葺かれた同箔軒瓦の分有関係を重視することによって僧寺、 尼寺の関連を求めることを試みてみることにする。また、二つには、その結果をもとに寺院造営 が行われた初期の時期の僧寺と尼寺の関連、性格にもふれることにしたい。 I 初期寺院の僧寺と尼寺 わが国で建立された初期の寺院のうち、飛鳥期に造営された寺院の確認作業は、古く石田茂作 氏によって行われた古典的な研究作業がある(註 1)。その後、軒瓦の形式分類、各形式の実年 代の研究が進展していることと、新たに寺院跡が見つかるなど、飛鳥、白鳳却に造営された寺院

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に対し、多くの知見が加えられてきている(註 2)。 ここでは、まず尼寺の存在が+分明らかでないこともあり、尼寺の抽出作業を地域別に少し試 みることにする。 1 大和の僧寺と尼寺 飛鳥寺は大和の飛鳥に本格的に造営された最初の古代寺院である。この寺院の造営過程は、『日 本書紀』に記されているほか、「元興寺伽藍縁起Jに詳細に記されており、さらに豊浦寺に関連 することも少なからず記され、豊浦寺が尼寺として造営されたことが具体的に知ることができる。 飛鳥寺は 1955

56年(昭和 30

31)に、本格的に調査され、 1塔 3金堂式の伽藍が配された ことが明らかになった。 飛鳥寺の創建期に葺かれた軒瓦は、その後の研究が進展し、花組、星組による製作技術を異に した瓦工らによる技術導入があったことが明らかになっている。また、飛鳥寺から出土した軒瓦 の同箔関係の検討も著しく進展をみている(註3)。 豊浦寺は『扶桑略記』などに塔の心柱建立を野明6年 (634)とすることから、これを創建年 代とする見解もある(註 4)が、「元興寺伽藍縁起Jによると推古元年 (593)とする。飛鳥寺の 創建期の同箔軒瓦が出土することからみて、飛鳥川の右岸に飛鳥寺が造営後、若干の時間を経過 した後、飛鳥川の左岸に本格的な寺院造営が開始され、その後に豊浦寺固有の高句麗系の軒丸瓦 などを加えることによって伽藍の整備が進められたものとみなされる。『日本書紀』野明前紀に は、山背大兄が豊浦寺に宿した後、推古天皇に会見したことを記していることからみて、野明以 前に造営されていたことは疑いない。 つぎに、飛鳥に造営された初期の尼寺として注目されるものに坂田寺がある。『日本書紀』用 明二年 (587)四月丙午条に、鞍部多須奈が用明天皇の病の回復を祈願して出家し、丈六仏を造る ことを奏上したことを記している。 その後、推古十四年四月壬辰条に鞍作鳥が元興寺(飛鳥寺)の丈六仏を鋳造し、金堂の戸を壊 さずにおさめたことから、五月戊午条に、近江の坂田郡の水田 20町を財源、として金問IJ寺を造営 したことが記されている。 この坂田寺は飛鳥川を少し遡った丘陵端部の傾斜地に造営され、飛鳥期の伽藍は明らかでない が、奈良時代の堂跡が検出されている。出土した軒丸瓦には、素弁系 7型式、単弁系 9型式、複 弁系 8型式などがあり、飛鳥から奈良時代まで継続して営まれたことがわかる。しかし、これま で坂田尼寺の存在は知りうるが、これに対応する僧寺が造営されたかどうかは明らかでない。 また、飛鳥には豊浦寺の西 700kmに、和田廃寺がある。この廃寺は、保井芳太郎氏の『大和 上代寺院志』には、大野北塔とみなしているが(註 5)、石田茂作氏は大野丘北塔とみなすこと に慎重をきしながら、遺存する土壇を塔跡に想定し、有力な候補と見なすにとどめている(註6)。 その後、福山敏男氏は和田廃寺を葛木寺とみなしうるとし(註 7)、大脇潔氏は福山氏のこの研 究を踏まえ、飛鳥寺などとの同箔軒瓦の関連を検討し、この廃寺を葛木尼寺とし、造営者を葛掛 臣烏那羅を想定する見解を明らかにしている(註8)。

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ほかに橘寺がある。橘寺は「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳Jに、「橘尼寺Jと記され、『聖徳太 子伝暦』には、推古

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に厩戸皇子が勝婁経講説の地を寺にしたという。確実な初見は 『日本書紀』天武九年

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四月甲寅条に、橘寺の尼房で失火があり、

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房を焼いたことが記さ れている。出土している軒瓦には、飛鳥寺の創建期のもの、飛鳥寺町型式や立部寺創建軒瓦に類 似したものがあり、 7世紀前半に造営されたものとみなされる。この橘寺の伽藍は、福山敏男氏 が東向きの四天王寺式を想定し、石田茂作氏の発掘調査によって確認されている(註 9)。 以上のような飛鳥に造営された寺院に対し、「法隆寺伽藍井流記資財帳Jには、厩戸皇子によ って造営された寺院として、「法隆寺学問寺、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳寺、池後尼寺、 葛城尼寺Jと記され、これらのうち法隆寺、中宮尼寺、池後尼寺が斑鳩に造営されている(図1)。 斑鳩寺は厩戸皇子によって造営された寺院で、若草伽藍がその遺跡にみなされている。また、 中宮尼寺寺は穴穂部間人皇后のために厩戸皇子が建立した寺院である。

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の調 査で塔と金堂を南北に配した四天王寺式伽藍をなすことが判明している。 また池後尼寺は法起寺に想定される寺院で、その縁起は塔鐘盤銘に、岡本宮跡に建てられたこ とが記されている。 斑鳩には、これらの他に、法輪寺が建てられている。この法輪寺の創建に関連する縁起には福 山俊男氏、会津八一氏らによる論争がある。ここからは素弁八弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、 飛鳥期に造営されたものとみてよい。 以上の斑鳩に建てられた四寺院に対し、上原真人氏は斑鳩寺と中宮尼寺、法輪寺と池後尼寺(法 起寺)がそれぞれ僧寺と尼寺の関連をもって造営されたものとみなしている(註

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。 さらに、大和で造営された尼寺に関連、もしくはその候補になる寺院には、大和北部に位置す る姫寺廃寺と海竜王寺、大和西部の尼寺北廃寺と尼寺南廃寺がある。 姫寺廃寺は、平城京左京八条三坊で

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に見つかったもので、基壇跡とその周 辺から飛鳥、白鳳、奈良期の軒丸瓦などが出土しており、平城京以前に造営された寺院として注 目された(註 11)。しかも飛鳥寺の創建期のものと同箔の軒丸瓦が出土し、「土寺J と記した墨 書土器が出土した。この墨書土器に記された寺院名からすると、この廃寺は土師氏によって造営 された氏寺とみなされる。 土師氏は、『続日本紀』延暦九年十二月条に、和泉国の毛受腹のほかに、大和国に菅原、秋篠、 河内国の志紀郡、丹比郡を本拠地とする四腹があったことが記され、和泉、河内、大和に一族が 本拠地をもっていたことがわかる。この姫寺廃寺とその周辺は、大和の土師氏の本拠地である菅 原に近く、その北に伝神功皇后陵、日葉酸媛陵など大形古墳を多くふくむ佐紀盾列古墳群が築造 されており、これらの古墳築造や埴輪生産にかかわった大和の土師氏の本拠地とみなして疑いな

さらに、この姫寺廃寺から出土した飛鳥寺の同箔軒瓦は、古く北にあたる法華寺町に所在する 海竜王寺でも出土しており、海竜王寺ともきわめて深い関連をもっていたことが想定される。海 竜王寺の寺域に先行して建てられた寺院の詳細は明らかでないが、この先行寺院が建てられた周 辺にあたる平城宮の東端付近では、埴輪窯が検出されており、また『続日本紀』和銅元年

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十一月乙丑条には、平城京の造営に際して、菅原民

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余戸を移転させたことを記しており、こ の先行寺院も土師氏によって造営された氏寺であった可能性がきわめて高い。 しかし、土師氏が後の平城京北端部と南端部に二つの氏寺を造営していたことに関連する資料 は知られていない。しかも、両寺院は3kmほど隔てているが、僧寺、尼寺の関連をもって造営 されたものと推測して間違いないであろう。なお、飛鳥寺の創建期の同箔軒瓦が蘇我氏によって 提供された背景は、河内の船橋廃寺に関連して記すことにする。 また、香芝市尼寺北廃寺と尼寺南廃寺は、『大和上代寺院吉』には、片岡尼寺に想定されてき たことが記されている寺院である。近年の発掘調査によってその具体的な内容が明らかになって きている。尼寺北廃寺は、 1996年(平成8)に塔跡などが検出され、その伽藍配置もほぼ明らかに なった。この北廃寺から出土した軒瓦には、飛鳥の坂田寺と同箔の中房に1+8の蓮子を配した 単弁八弁蓮華文、川原寺系の複弁八弁蓮華文などが出土した(註 12)。南廃寺も一部発掘され、 北廃寺と同箔軒瓦が採集され、強い関連をもって造営された寺院であることが明らかになってい る。二寺院とも、大和坂田寺に葺かれた単弁八弁蓮華文と同箔のものが葺かれており、これを創 建時の軒瓦として近距離に建立されている。これは、まさに同一氏族によって僧寺と尼寺の関連 をもって造営されたものと想定されるものである(註 13)。 さらに、大和で僧寺と尼寺の関連のもとに造営された可能性が高いものに御所市朝妻廃寺と二 光寺廃寺、地光寺廃寺と地光寺西廃寺がある。 朝妻廃寺は、御所市の南、朝妻集落の南側にある古代寺院で、 1977

79年の調査で金堂跡に 想定される遺構の一部などが検出され、瓦類や埼仏が出土している。軒瓦は複弁八弁蓮華文で大 きな中房に 1+5+9の蓮子をつけ、外縁に凸鋸歯文をつけたもの、同様の複弁八弁蓮華文で外縁 に線鋸歯文をつけたもの、 1+6の蓮子をつけ、複弁八弁蓮華文で外縁に珠文と線鋸歯文をめぐ らすものなどがある(註 14)。 また二光寺廃寺は 2005年(平成 17)に朝妻廃寺の北 600mで新たに見つかった白鳳期の古代 寺院である。調査では桁行5問、梁行4聞の礎石を配した東西棟の乱石積基壇建物が検出され、 金堂の可能性が高い。基壇の周囲からは、瓦類、埼仏などが出土した。軒丸瓦は複弁八弁蓮華文 で、中房に 1+5+9の蓮子をつけ、外縁に凸鋸歯文をめぐらす朝妻廃寺と同箔のもの、複弁八弁 蓮華文で1+8の蓮子をつけ、外縁に幅線文をつける飛鳥の桧隈寺と同箔のもの、複弁八弁蓮華 文で、 1+4+8の蓮子をつけ、味文と親鋸歯文をめぐらす御所市高宮廃寺と同箔のものが出土し ている。また、碍仏には三重県夏見廃寺と同箔の大形多尊埠仏、朝妻廃寺と同箔の方形六尊埠仏、 ほかに方形十二尊連座埠仏が出土している(註15)。 このように、朝妻廃寺と二光寺廃寺はごく近接して造営され、同箔の複弁八弁凸鋸歯文縁軒丸 瓦が葺かれており、同一氏族によって造営され、しかも僧寺と尼寺の関係をもって建立された氏 寺であった可能性がきわめて高いものとみなされる。 これらの二寺院の造営氏族は、二光寺廃寺から飛鳥の桧隈寺で出土している複弁八弁幅線文縁 軒丸瓦と同箔のものが出土していることから、東漢氏と強いつながりをもっととが知られ、渡来 系氏族の朝妻氏によって造営された寺院とみなされる。

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ペえ孟予b

'池崎地

図1 斑鳩地域の僧寺と尼寺

相働

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また、葛城市地光寺は、葛城山麓の東にある寺院跡で、鬼面文軒丸瓦が葺かれた寺院として注 目されている廃寺である。1972年に東遺跡の一部が調査され、金堂の南に東塔と西塔を対称に 配した薬師寺式伽藍をもつことが明らかにされている。また西の笛吹の地に地光寺西遺跡があり、 詳細な調査は行われていないが、四天王寺式、あるいは東面する法隆寺式の伽藍が配された可能 性も想定されている。二つの隣接して造営されている廃寺では、東遺跡の伽藍が古く、その後、 何らかの理由で西遺跡へ移動したことが想定されている(註 16)。 しかし、同一氏族によって造営された氏寺とみなされることからみて、東遺跡の伽藍が造営さ れた後、西遺跡の伽藍が造営され、僧寺と尼寺が造営された可能性が少なくない。両寺院の造営 氏族は、東遺跡は鬼面文軒丸瓦が葺かれていることからみて、忍海を本拠地とした新羅系の渡来 系氏族が想定され、その位置からみて、忍海氏によって造営された氏寺とみなされ、しかも、東 遺跡の伽藍が造営された後、西遺跡の伽藍が尼寺として造営されたものとみてよいか検討が必要 である。 2 河内の僧寺と尼寺 大和についで、多くの古代寺院が造営されたのが河内である。特に南河内の大和川と石川が合流 する付近には、船橋廃寺、土師寺跡、衣縫廃寺、野中寺、拝志廃寺、津堂廃寺、善正寺、西琳寺、 葛井寺などが飛鳥、白鳳湖の寺院が集中して造営されている。これらのうち僧寺、尼寺の関連を もっ可能性が高いものに船橋廃寺と土師寺、拝志廃寺と津堂廃寺がある(図 2)。また大和川流域 から少し南に離れた丹比郡に丹比廃寺、黒山廃寺がある。 船橋廃寺は、戦後間もなく大和川河床から見つかった古代寺院跡で、これまで飛鳥寺の創建期 のものと同箔軒瓦とみなされる桜花状の蓮弁をなす花組のもの、豊浦寺に葺かれた弁聞に点珠を つける高句麗系の軒丸瓦、船橋廃寺式、西琳寺式、平城宮式など飛鳥、白鳳湖、奈良期に及ぶ多 くの軒丸瓦、軒平瓦が採集されている。寺院の伽藍は、河床から礎石が見つかっており、配置は 明らかでないが、伽藍の堂塔があったことは疑いないものと想定される。 この大和川河床で見つかった寺院は、古く藤沢一夫氏が採集された「玉井家j

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大家Jと記す 墨書土器から、玉井氏の氏寺とみなしたが、ほかに国府関連遺跡、官街遺跡、港津関連遺跡など を想定する見解がだされてきた(註 17)。 しかし船橋廃寺では土師寺に葺かれた創建以来の同箔軒瓦が多く出土する。また船橋廃寺の周 辺の大和川河床から土師器焼成遺構が多く検出されていることから、土師氏の本拠地の一つに建 てられた寺院とみなされる。そして、私は船橋廃寺に土師氏の氏寺である土師寺と同箔軒瓦が多 く葺かれ、土師寺が道明寺に先行して造営された尼寺とみなされることから、船橋廃寺を土師氏 が造営した僧寺とみなす考えを提起した(註 18)。しかし、船橋廃寺を土師氏の僧寺とする見解 には、船橋廃寺の創建期の軒瓦とより近い位置に衣繕廃寺が造営されており、最古期の高句麗系 軒瓦に同箔のものがあることなどから、衣縫廃寺との関連を重視する考えも出されている(註 19)

しかし、土師寺は創建期からその後まで、軒瓦の大半が船橋廃寺と同箔のものが葺かれている

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ことは重視すべきで、両寺院はきわめて強い関連をもっていたことは疑いない。船橋廃寺に衣縫 廃寺と同箔軒瓦が葺かれたのは、両寺院とも蘇我氏の飛鳥寺と強いつながりをもつことを示すも のと理解される。 また、河内の土師氏が僧寺と尼寺を造営したとみなされることは、大和の姫寺廃寺と海竜王寺 の先行寺院の場合と共通する。しかも船橋廃寺に飛鳥寺の創建期の同箔軒瓦が供給されているこ とも、強い関連性をもつものと理解される。 『日本書紀』には、 6世紀末から 7世紀前半に蘇我馬子と土師八嶋、磐村らが緊密な関連をも って活動したことを記しており、土師氏が船橋廃寺を造営する際に、また大和で姫寺廃寺、海竜 王寺の前身寺院を造営する際に、蘇我馬子の全面的な援助があったことは容易に理解しうるもの と思われる。 南河内の大和川流域の寺院では、拝志廃寺と津堂廃寺でも同箔軒瓦が出土する。拝志廃寺は大 和川の南岸、船橋廃寺の西南 1

2kmにある寺院で、ある。ここからは素弁系の九頭神廃寺式、 単弁系の原山廃寺式、紀寺式軒丸瓦などが出土する。津堂廃寺は拝志廃寺の西2キロに位置し、 蓮弁に忍冬文をつける龍泉寺式軒丸瓦の同箔軒丸瓦が出土する。 二つの寺院は近い位置に建てられ、同箔軒瓦がともに葺かれていることを重視すると、同一氏 族によって造営された可能性が高い。 さらに、大和川から南へ 6km離れた後の丹比郡で同箔軒瓦が顕著に葺かれたものに、丹比廃 寺と黒山廃寺がある。 丹比廃寺は、羽曳野正陵の西麓を流れる東除川左岸に営まれた寺院で、ここからは丹比式軒丸 瓦、池田寺式軒丸瓦、平城宮6282型式軒丸瓦、平城宮6663型式軒平瓦、均整唐草文(丹比廃寺 式)軒平瓦などの軒瓦が出土する。 また、東へわずか1キロ離れた聖福寺境内を中心に所在したとされる寺院に黒山廃寺がある。 黒山廃寺からは、創建時に丹比廃寺の軒丸瓦の瓦当箔を改箔したものが葺かれ、さらに同時期に 田辺廃寺式、黒山廃寺式軒丸瓦が出土している。1979年(昭和 54)、遺跡の一部が発掘され、石 敷した溝状遺構や焼土層などが検出され、黒山廃寺は丹比廃寺式軒丸瓦を創建瓦とし、しかも問 弁に一個所を改箔し、改変したところがあり、丹比廃寺から黒山廃寺に瓦当箔が移動したことが 知られている。 二つの寺院のうち、丹比廃寺の造営氏族は火明命を祖先とする古来の雄族である丹比連とする 説、宣化天皇に出自をもっ新興氏族の多治比公とする説とがある。吉田晶氏は多治比公の氏寺と して成立したとみなしており(註20)、有力視されている。しかし、付近には黒姫山古墳があり、 その築造時期から継続して勢力をもっ氏族である丹比連を想定する考えもある。このように、黒 山廃寺、丹比廃寺は、それぞれに対し、丹比公、丹比連を造営氏族に想定する考えがだされてい る。 これは、 7世紀後半の第4四半期には丹比公が勢力をもつようになったとされ、それ以前の丹 比連と交替することになったとみなされている。また、この二つの古代寺院は、黒山廃寺が丹比 廃寺の軒丸瓦を創建瓦とし、しかも問弁に一個所、改箔したところがあり、瓦当箔が丹比廃寺か

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ら黒山廃寺へ移動したことが知られる。 このように瓦当箔が移動したことと 吉田氏が説くように、 7世紀第4四半期に丹比公がこの 地域で有力氏族となったことからすると、丹比廃寺が創建され、ついで黒山廃寺も丹比公によっ て造営された可能性が高い。そして、二寺院が近接して建立されたのは、一方が僧寺として、他 方が尼寺として造営されたものとみなされる。しかも、丹比廃寺が先行して造営され、黒山廃寺 が遅れたことからすると、丹比廃寺を僧寺、黒山廃寺を尼寺とみなしうる可能性が少なくないで あろう。 3 摂津の僧寺と尼寺 摂津で僧寺と尼寺との関連が想定されるものに、堂ケ芝廃寺と細工谷廃寺がある。 堂ケ芝廃寺は上町台地の南、四天王寺の北にある。この廃寺は古く飛鳥期の軒瓦が採集され、 飛鳥時代の古代寺院があったことが知られている。出土している軒瓦には、素弁八弁蓮華文、単 弁八弁蓮華文などがあり、石田茂作氏によって、『日本書紀』敏達六年十一月庚午条に、百済に 遣わされた大別王に経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工が献上され、難波の大 別王の寺に配備したことが記されており、この大別王の寺に想定する考えが記されている(註2 1)。 1997年(平成 9)、堂ケ芝廃寺の北に位置する細工谷遺跡で見つかった奈良時代末から平安時 代初めの井戸から、「百済尼寺jr百尼jr尼寺

J

と記された墨書土器が出土し、廃寺(細工谷廃寺) が存在し、しかも尼寺が建てられていたことが明らかになった(註 22)。この細工谷廃寺からは 四天王寺と同箔の素弁八弁蓮華文、複弁八弁面違鋸歯文縁軒丸瓦、忍冬唐草文軒平瓦などが出土 しており、堂ケ芝廃寺と細工谷廃寺は同箔のものが出土している。『日本霊異記』上巻には難波 百済寺に関連した記事があり、難波に百済寺があったことを知ることができる。 細工谷廃寺から出土した「百済尼寺J

r

百尼J

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尼寺」と記す墨書土器は、難波に百済寺と呼ぶ 僧寺に対になる百済尼寺があったことを示している。しかも、飛鳥、白鳳期に遡る同箔軒瓦が出 土したことからすると、両寺院は強い関連をもっており、堂ケ芝廃寺が僧寺、細工谷廃寺が尼寺 の関連をもって造営された寺院に想定される可能性が高い。また、堂ケ芝廃寺が飛鳥期に造営さ れた寺院であることからすると、石田氏が想定したように大別王寺ともみなしうる可能性も高く なる。そして、大別王寺とすると、百済から献上された経論や造寺工などによって造営されたこ とから、寺名を百済寺と呼称した可能性も少なくないことになる。 4 山背の僧寺と尼寺 山背地域に造営された古代寺院では、すでに僧寺と尼寺の関連にふれた見解がだされているも のに、上原真人氏による久世廃寺と平川廃寺がある。ほかに、高麗寺と松尾廃寺あるいは蟹満寺、 さらに北野廃寺と広隆寺にその可能性がある。 久世廃寺は、城陽市久世芝ケ原にある飛鳥寺院で、 1975年(昭和 50)以降、数回の調査によ って西に金堂、東に塔、北に講堂の瓦積基壇が遺存することが確認されている。出土した軒瓦に

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は、大和の奥山久米寺に葺かれた角端点珠形式のうち、

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型式の素弁八弁蓮華文軒丸瓦と同箔の ものがあり、飛鳥期に造営が開始した寺院とみなされる。続く白鳳期のものに、複弁八弁蓮華文 で周縁に陰刻した撮鋸歯文をつける平川廃寺と類似のもの、ほかに奈良時代のものに平城宮 6225型式、 6314型式、 6291B型式、平川廃寺軒丸瓦 L、奈良薬師寺と同箔のものなどがある(註 23)

一方、平川廃寺は久世廃寺の西 600kmにある寺院で、 1972年(昭和 47)以降の調査で、東 に金堂、西に塔跡の瓦積基壇が見つかっている。葺かれた瓦類には、軒丸瓦 18型式、軒平瓦 12 型式が知られる。これらのうち白鳳期の軒丸瓦には単弁八弁蓮華文のもの、山田寺式のもの、複 弁蓮華文に中房に 1+5+9の蓮子をつける川原寺式、複弁八弁蓮華文で周縁に印刻の諌鋸歯文を つけるもの、素弁蓮華文で周縁に忍冬唐草文と珠文をつけるものなどがある。また軒平瓦には、 重弧文のものがある(註 24)。 これらの久世廃寺とその西方に建てられた白鳳寺院の平川廃寺に対し、上原真人氏は、二つの 寺院がそれぞれ造営氏族を異にする氏寺ではなく、僧寺と尼寺の関係にあったものとみなした (註 25)。 二つの寺院に葺かれた軒瓦からすると、久世廃寺が奥山久米寺と同箔軒瓦によって飛鳥期に造 営が開始され、その後、遅れて平川廃寺が造営され、これには単弁八弁蓮華文軒瓦、さらに川原 寺式が葺かれたことになる。これらの軒瓦では、遅れて造営された平川廃寺は、高麗寺式の同形 式とみなされるものは葺かれているが、久世廃寺の創建期およびそれに続く時期の軒瓦の同箔軒 瓦が葺かれていない。また、奈良時代の平城宮系のものには同箔軒瓦があるが、平川廃寺に葺か れた創建時の軒瓦が久世廃寺にはまったく供給されていないことも重視される。 久世廃寺、平川廃寺にみるように、ごく近接して造営されながら相互に同箔軒瓦がほとんど葺 かれていない例は、大和、河内でとりあげた僧寺と尼寺とみなされるものでは例がない。このこ とを重視すると、二つの寺院を同一氏族の僧寺と尼寺に想定することは難しいように恩われる (註26) つぎに、山背で同箔軒瓦が顕著に出土している寺院に山城町高麗寺と松尾廃寺、さらに蟹満寺 がある(図 3)。 高麗寺は、山背の南端部付近の木津川河畔に営まれた寺院で、古く 1935年(昭和 10)に調査さ れ、法起寺式伽藍をなすことが判明した。しかも大和の飛鳥寺創建時の軒丸瓦と同箔のものが出 土し注目された。さらに 1984年(昭和 56)から継続して調査され、造営過程がほぼ明らかになっ た。出土した軒瓦には、飛鳥寺の創建時に葺かれた素弁十一弁蓮華文のもの、その後、川原寺に 葺かれた複弁八弁蓮華文と同箔のもの、高麗寺式軒丸瓦などが葺かれ、瓦積基壇外装の建物に改 修されたものとされている(註 27)。 しかし、飛鳥寺の創建時に葺かれた同箔軒瓦に続く 7世紀前半の軒瓦を欠き、 7世紀後半に大 規模な改修を行うまで、どのように堂塔が造営されたのか疑問が少なくない(註 28)。それにも かかわらず、改修された高麗寺に葺かれた軒丸瓦には、複弁八弁蓮華文で中房に 1+5+9の蓮子 を配し、面違鋸歯文縁をつける川原寺A と同箔のものと高麗寺式の軒丸瓦が葺かれ、寺院を構成

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する堂塔がほぼ計画的に進展したことが出土した瓦類によって明らかになっている。 松尾廃寺は、高麗寺の北1kmにある寺院で、堂塔に関連する知見は乏しいが、複弁八弁蓮華 文で中房に

1+7

の蓮子をつけ、面違鋸歯文縁をもっ高麗寺の

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と同箔の軒瓦が出土して し、る。 さらに、蟹満寺は高麗寺の北4kmにあり、現本堂に7世紀後半に鋳造された国宝の本尊の釈 迦如来像を安置する寺院としてよく知られる。近年、現本堂の周囲が発掘調査され、重成の瓦積 基壇の外装が検出され、金堂跡にみなされている。出土した軒瓦には、高麗寺で新たに瓦当箔が 製作された複弁八弁蓮華文軒丸瓦の

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と同箔のものなどが出土している(註

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とれらの3寺院をみると、高麗寺は川原寺の同箔瓦と新たに製作された高麗寺式の軒瓦で金堂、 塔、講堂などの主要伽藍が造営されている。また、その後に葺かれた 8世紀に葺かれた軒瓦も、 大半が平城宮式と同箔のものが葺かれている。その北の松尾廃寺でも高麗寺と同箔の軒丸瓦

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が出土し、さらに北四キロに造営された蟹満寺でも、瓦積基壇の外装が採用され、高麗寺 式軒丸瓦の

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と複数の同箔瓦が葺かれており、強いつながりをもって造営さた ことがわかる。これらの軒瓦からみると、松尾廃寺の詳細はなお明らかでないが、蟹満寺は高麗 寺と同様の瓦積基壇の外装をなし、さらに複数の同箔軒瓦が葺かれており、より強い関連をもっ て造営された寺院とみなされる。 このように3寺院は関連をもって造営されており、僧寺、尼寺の関連で造営された寺院がふく まれているものと想定される。これらのうち、高麗寺は、『日本霊異記』中巻に、天平年間に高 麗寺の僧の栄常が、白衣と碁を打つ説話が掲載されており、僧寺であったことがわかる。とする と、松尾廃寺あるいは蟹満寺を尼寺として造営された可能性が高いのではないかと推測され、い ずれかといえば複数の同箔軒瓦が葺かれていることを重視すると、蟹満寺が尼寺として造営され たものと推測してよいのではないか。 さらに、山背で初期に造営された寺院で著名なものに北野廃寺がある。この廃寺は京都市北西 部の北野白梅町に所在し、藤沢一夫、時野谷勝氏らの研究によって注目されるようになった寺院 である。戦後も、周辺の開発に関連して数回にわたって調査され、瓦積基壇をもっ建物跡、北野 廃寺の屋瓦を生産した瓦窯などが検出されている。 ここから出土している 7世紀の軒瓦には、桜花状の素弁八弁蓮華文(花組)、高句麗系の素弁 八弁蓮華文、単弁八弁蓮華文で外縁に二重の圏続、珠文、長形文をつけたものなどがあり、山背 に造営された最古期の寺院の一つである(註30)。 さらに、この北野廃寺の軒瓦と深い関連をもっ寺院に広隆寺がある。この寺院は太秦に建立さ れたもので、北野廃寺の西 2・7キロにある。 広隆寺から出土する 7世紀の軒瓦に、花組の素弁八弁蓮華文、高句麗系の素弁八弁蓮華文、単 弁八弁蓮華文で圏績と珠文、長形文をつけたもの、線鋸歯文をつけたものがある。これらのうち、 単弁蓮華文軒瓦は北野廃寺と同箔、高句麗系の素弁八弁軒瓦は同形式のものであるが、弁端が少 し丸みをもっており、両者は共通して外縁を欠いて作られている(註 31)。

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このように北野廃寺と広隆寺は 2・7km隔てているが、深いつながりをもって建てられたも のとみなされる。そして藤沢氏のように北野廃寺を葛野の秦寺とし、本広隆寺の性格をもち、さ らに野寺であり、法名を常住寺とみなす見解がある(註 32)。また井本正三郎氏は、北野廃寺南 遺跡に関連して、野寺は桓武天皇の勅願による寺院で、創立時の寺院は明らかでないとする。ま た北野廃寺を本広隆寺とする説も、この本広隆寺は九条にあるとされ、ここが八条にあることか ら成立しないとし、秦氏が造営した寺院に想定している(註 33)。 以上のように、北野廃寺の性格には諸説がだされている。この北野廃寺は、花組の素弁十弁蓮 華文と高句麗系の素弁八弁蓮華文によって造営が開始され、その後は山田寺系の単弁蓮華文によ って堂塔の整備が進められたとみてよい。これらのうち、花組の素弁十弁蓮華文は、飛鳥寺の創 建軒瓦の花組よりも弁端の切り込みと中房が少し大きくなっており、『日本書紀』推古十一(603) 年十一月己亥条に秦河勝によって建てられた蜂岡寺とみなす考えが有力視されている。さらに、 飛鳥の豊浦寺の造営を契機に導入された高句麗系の素弁蓮華文のものも葺かれている。 また、『日本書紀』推古三十一年七月条に、新羅から仏像 l体、金塔、舎利、観頂の幡などが もたらされ、仏像一体が葛野の秦寺に安置され、他は四天王寺に納められたことを記している。 この葛野の秦寺は、推古十一年十一月条に記されている蜂岡寺とするほかに、これを契機に寺院 造営が新たに開始され、太秦に広隆寺が建立されたとみなすことも想定しえないわけでない。 太秦の広隆寺は、『朝野群載』に記す承和 3年 (858)の「広隆寺縁起」に、葛野郡九条河原里、 同荒見社里にあったが、五条荒蒔里に移したと記している。しかし、その時期は記されていない。 また弘仁九年 (818)に火災があり、堂塔歩廊が焼失したとする。 広隆寺に葺かれ創建軒瓦は、北野廃寺の高句麗系の素弁八弁蓮華文をもとに製作された外縁を 欠くもので、新羅からもたらされた仏像一体をもとに、 7世紀の第2四半期に造営されたものと みなす考えもある(註 34)。 このように北野廃寺、広隆寺ともに不明な点が多い。しかし北野廃寺の高句麗系の軒丸瓦の瓦 当文をもとに、広隆寺のものが製作され、しかも外縁を欠くという同一の技法がとられており、 北野廃寺の単弁蓮華文軒瓦と同箔瓦が葺かれていることからみても、両寺院はいずれも関連が深 く、ともに秦氏によって造営された可能性が高い。そして、「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳」に、 厩戸皇子が「法隆寺学問寺、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂丘寺、池尻尼寺、葛城尼寺Jと僧 寺を先に記し、ついで尼寺を連ねており、蜂岡寺は尼寺とは記していないが、尼寺の群にふくめ て記載している。もし、このようにみなしてよければ、北野廃寺の蜂丘寺を尼寺として造営し、 その後に僧寺の広隆寺が太秦に造営されたのではなかろうか。 5 近江の僧寺と尼寺 近江の東北部、宇曽川が形成する扇状地に愛荘町小八木廃寺、妙園寺廃寺がある。小八木廃寺 は小八木集落の北端部にある春日神社の北側一帯に所在したとみなされる寺院で、

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年(昭 和

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)

の調査で多量の瓦類が出土している。軒瓦には単弁八弁蓮華文で中房に蓮子ーっとその 周囲に八個を環状に配し、外区内縁に珠文帯、外区外縁を素文帯とした湖東式軒丸瓦もある。軒

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図 4 屋中寺跡と下阿部廃寺の位置 平瓦は重弧文の下端を指で折曲げた指頭圧痕重弧文が葺かれている(註 35)。 妙園寺廃寺は小八木廃寺の北 200mにあり、『近江愛智郡志』に、宇曽川左岸の香之圧の東に ある雑木林から出土した軒瓦類が掲載されている。それには軒丸瓦が 3型式、軒平瓦が l型式あ る。軒丸瓦のうち単弁八弁蓮華文の一つの湖東式軒丸瓦は小八木廃寺のものと同箔、他に中房の 中央に 1+12の蓮子を配したものなどがある。軒平瓦は四重弧文の下端に指頭圧痕をつけたもの である(註36)。 小八木廃寺と妙園寺廃寺はごく近距離にあり、しかも同箔軒丸瓦が出土することから、同ーの 寺院にみなす見解もある(註 37)。 しかし、 200m隔てており、妙園寺廃寺からも多くの軒瓦 が採集されているので、それぞれ別寺院として存在したものとみなされる。これは、僧寺と尼寺 の関係を想定することができる寺院である。 さらに、近江では、古く石田茂作氏によって僧寺と尼寺の関連をもって造営されたとみなされ ているものに彦根市屋中寺跡と下岡部廃寺がある(図 4)。 二つの寺院は湖岸部にある荒神山の西端にあるもので、 1924年(大正 13)、土地整理の際に瓦 類が出土し、寺院の存在が知られたものである。屋中寺跡からは、単弁八弁蓮華文のもの、複弁 八弁蓮華文、軒平瓦に重弧文、均整唐草文のものが出土している。また、屋中寺跡の西 600mに ある下阿部廃寺は、単弁八弁蓮華文、複弁八弁蓮華文 4型式が出土している。これらのうち、単 弁八弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦 l型式が同箔であることが知られる。これらの共通 した軒五が出土することから石田氏によって、二つの寺院が 6町ほど離れているだけなので、同 一氏族よって造営された僧寺と尼寺の関係が想定されている(註38)。 E 僧寺と尼寺にみる諾側面

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七世紀に造営された古代寺院で、僧寺と尼寺の関連をもって造営された二つの寺院の距離をみ ると、ごく近距離にあるものと少し距離をへだてたものとがある。これらのうち僧寺と尼寺の代 表例ともいうべき蘇我氏が建立した大和の飛鳥寺と豊浦寺は、 700mほど隔てている。また、い ま一つ大和の代表例の斑鳩の斑鳩寺(若草伽藍)と中宮寺跡とは、 800mの位置にある。ほかに 大和の斑鳩の法起寺と法輪寺は 700m、尼寺北廃寺と尼寺南廃寺とは 300m、朝妻廃寺と二光寺 廃寺は 600メmあり、これらはいずれも数 100mとごく近くに建てられている。 一方、かなりの距離を隔てて造営されたとみなされるものに、大和北部にある姫寺廃寺と海竜 王寺では3

6キロ、河内の船橋廃寺と土師寺跡は1

5km、山背の高麗寺に対し、蟹満寺を尼 寺に想定すると、 4km近く離れて造営されている。 この僧寺と尼寺の二寺院の距離に関しては、「元興寺伽藍縁起Jに、百済にわたって受戒した いとする善信尼らの願望を蘇我馬子が百済の使者に伝えた際に、百済では尼になる如法の受戒は、 尼寺に 10人の尼の師を招請して本戒を受け、ついで、僧寺で 10人の法師から本戒を受けねばなら ない。百済での僧寺と尼寺との間は、鐘が相互に聞こえ、連絡に困難がない。半月ごとの白掲磨 のため、支障がないところに僧寺、尼寺を造営すべきであることを使者が述べたことが記されて いる。 この百済の使者の助言に対し、田村円澄氏は百済の扶余に所在する扶蘇山廃寺、天王寺社、定 林寺祉、東南里廃寺、軍守里廃寺に対し、僧寺、尼寺の区分が判然としないとしながらも、それ らの寺院の相互の距離を検討し、たとえば扶蘇山廃寺と天王寺祉が 400m、東南里廃寺と軍守里 廃寺が 600mにあり、いずれも鐘声を聞くことが可能な距離にあるので、威徳王時代の扶余の僧 寺と尼寺との関連を伝えたものとみなしている(註39)。 初期に造営された僧寺、尼寺では、善信尼が百済に赴いており、「元興寺伽藍縁起Jに記すよ うに、わが国でも百済から白掲磨をそのまま導入した可能性が高く、氏寺の造営に際しては僧寺 と尼寺が有機的なつながりをもって建立することが考慮されたものと想定される。 これは、飛鳥の飛鳥寺と豊浦寺、斑鳩の斑鳩寺と中宮寺、法起寺と法輪寺、尼寺北廃寺と尼寺 南廃寺、地光寺廃寺と地光寺西廃寺、朝妻廃寺と二光寺廃寺、近江の小八木廃寺と妙園寺廃寺、 屋中寺廃寺と下阿部廃寺などにみるように、ごく近距離に建てられたものが多いことにもあらわ れている。しかし、必ずしもそれのみでなく、大和の姫寺廃寺と海竜王寺、河内の船橋廃寺と土 師寺、山背の高麗寺と松尾廃寺、あるいは蟹満寺の場合のように、数キロ近く隔てて建てられた と想定されるものもある。 この距離をへだてた例は、初期に氏寺として造営された僧寺、尼寺の造営地が石田茂作氏がか つて想定したように、有力氏族の本拠地に造営された場合、有力氏族の集落が一所に集中して大 集落を構成することなく、一族の集落がいくつかに分かれて営まれたことから、僧寺、尼寺が集 落を異にして造営されたことも十分ありえたことを示している。 その場合は、二つの寺院の聞に鐘声を確認することは困難なことから、視界が届く範囲に僧寺、 尼寺を造営することが重視されることになったのではなかろうか。特に、寺院には三重塔、五重 塔が建てられたので、この塔に対する視界がより重視されたものと推測されるのである。

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さて、『日本書紀』推古三十二年 (624)九月丙子条には、寺と僧尼、各寺の縁起、僧尼への入 道の事由、出家の期日などが調査され、このとき寺は四六、僧 816入、尼五 569人で、併せて 1385人で、あったと記されている。この記事によると、僧 1

4に対し尼 lの比率をなしていたこ とになる。また、僧寺と尼寺に所属する僧尼の員数には、おのずと差異があったであろうが、平 均すると一寺院に 30人ほどになる。さらに僧と尼の比率に対応して僧寺、尼寺が建てられてい たとすると、僧寺が尼寺の 1

4倍となり、僧寺 29、尼寺 19になる。 いま、推古 32年 (624)の段階で、すなわち 7世紀の第 1四半期に造営されたとみなされる寺 院を想定すると、主として菱田哲郎による軒瓦の形式編年によると、この時期には、飛鳥寺創建 に葺かれた非対称の桜花状の蓮弁をなす飛鳥寺式、飛鳥寺創建の弁端に点珠をつけた非対称の蓮 弁をなす若草伽藍式、角端点、珠形式の奥山久米寺式、四天王寺式、豊浦寺に葺かれた肉厚の蓮弁 で、弁聞に点珠をつける豊浦寺式を葺いた寺院がその対象になる(註 40)。 この時期に造営された文献史料などによって尼寺として知りうるものは、大和では豊浦寺、中 宮寺、法起寺、橘寺、坂田寺、和田廃寺(葛城尼寺)、さらに河内の土師寺、新堂廃寺、山背の 北野廃寺が蜂岡寺とすると、これにふくまれる可能性が高い。 以上の各寺院は、いずれもそのようにみなしえたとしても、 10寺院にとどまり、その倍数に 近い数の尼寺が建てられていたものと推測される。 つぎに、初期に造営された古代寺院では、伽藍配置が明らかなものは少ないが、すでに調査さ れている橘寺は塔、金堂、講堂が東面して建てられ、四天王寺式をなしている。この伽藍配置が 尼寺とも関連性をもっとすると、大和では奥山久米寺式が葺かれた奈良市横井廃寺が東面して四 天王寺式の伽藍が造営された可能性が高い(註 41)と想定されるので、伽藍配置から尼寺を推 測しうるかも知れない。 7世紀後半の畿内の有力氏族による僧寺と尼寺の建立は、大和の尼寺廃寺、南廃寺にみるよう に 7世紀前半と同様に進められたものと理解してよいであろう。 しかし、その後の 8世紀には、各地に分布する古代寺院跡から出土する軒瓦からすると、新た に有力氏族によって造営された寺院は、大和の平城京に造営された寺院を除くと、造営の動きは 乏しくなっている。しかも、『続日本紀』霊亀二年五月庚寅条には、諸国の寺家の実情を、多く は法に従っていないとし、寺家は草堂を初めて開くと争って額題を求め、わずかの臓や幡を施し て田畝を求めたり、寺院の房舎を修することなく、J馬牛が群れ、門や庭が荒廃し、荊椋が繋茂し、 そして尊い仏像が挨をかぶり、経典が風雨から免れない状態であるとし、数寺を併せて一つにす るよう寺院併合令がだされている。 しかし、 8世紀前半でも、「行基年譜」には畿内を中心に行基によって 49院が設けられている。 これには大野寺と大野寺尼院、高瀬橋院と高瀬橋尼院、狭山池院と狭山池尼院、泉橋院と隆福尼 院、布施院と布施尼院などが記され、尼院が 13、僧院と尼院を対にしたものが 12院設けられて いる(註 42)。 行基が僧院とともに尼院を建てたのは、『日本霊異記』に尼や女人に関連する説話が記されて いることなどから、行基が女性に対し深い宗教的な関心を示していたとする考え(註 43) もあ

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る。しかし、それ以前の七世紀段階に、有力氏族によって寺院造営が行われた際に、多くは僧寺 のみでなく尼寺の造営も行われていた歴史的な背景のもとで、行基も新たに僧院と尼院を建てた ものと思われる。 しかも、行基が設けた

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院のうち、泉橋院と隆福尼院は、天平

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に、木津川河畔 に恭仁京造営に先んじて設けられ、恭仁京遷都後の 13年 7月、賀世山の東河に諸国の優婆塞を 徴集して架橋を開始し、 10月に完成した。また、その後の天平 15年

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10月 15日、聖武天 皇によって虚遮那仏造立の詔がだされ、その造営が行基を中心にすすめられることになった。ま た、それに先立つ天平 13年

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1) 2月、国分僧寺、尼寺の造営の詔がだされている。この僧寺 のみでなく尼寺も造営されることになったことは、聖武と行基によって虚遮那仏の造立が取組ま れたことからすると、それまで行基によって僧寺と尼寺を対に設ける顕著な動きが少なからず影 響を与えたとする見解がだされている(註

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)

。 この国分僧寺・尼寺の造営は、中国の則天武后の大雲経寺・唐中宗の竜興寺、あるいは玄宗の 開元寺のように-1'1'1一僧寺をあてた施策にその規範を求めたもの。あるいは、僧寺、尼寺を併設 する施策は、惰の文帝の「乃詔州県各立僧尼二寺Jとし、う金石華編所収の銘文集にみえる僧寺と 尼寺を建立する施策の前例を重視する考え(註 45)などがだされている。 これには、上原真人氏は、『続日本紀』大宝元年

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1)八月甲辰条に、観世音寺と筑紫尼寺と を並記すること、『豊後国風土記』大分郡条に僧寺と尼寺が各一所、同郡内に存在したことを記 すこと、『類衆国史』巻一八二の延暦十一年四月丙成条に、摂津嶋上郡にある寺田地として、梶 原僧寺野 2町と尼寺野 2町を並記し、この僧寺が出土瓦から 7世紀後半まで遡ることをあげ、僧 寺、尼寺が相互に補完関係にあったことを述べている(註 46)。 このように、 7世紀以来、畿内や地方での有力氏族によって僧寺と尼寺の造営が有機的に関連 をもって進められていたことは、やはり重視する必要があるように思われる。 一方では、飛鳥寺が造営された後、有力氏族による氏寺の造営の進展に対し、仏教統制が行わ れるようになり、『日本書紀』大化元年 (645)八月葵卯条に、孝徳政府が大寺の飛鳥寺に僧尼の 参集を命じ、十師を任命して僧尼の教導にあたらせるとともに、各寺に寺務を統括する寺主およ び寺の造営、管理、修理や資財の管理にあたる寺司が任命されている。また諸寺を巡回して僧尼、 奴蝉、回畝を検校する法頭も任命されている。 これらのうち、十師は仏の説く法のとおり衆僧を教導し、釈教することを職務とするもので、 任命されたのは沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧畏、道登、恵隣、恵妙ら である。これらの僧は、法輿寺(飛鳥寺)にかかわる者と、大唐学問僧が任じられている。この 十師の制度は、武徳 2年 (619)に設けられた唐の僧尼の統摂や法務をになう十大徳制を範とし たもので、仏教の統制と興隆を目的に設置されたものとされている(註

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。しかし、この十師 は唐の制度にならったこともあり、僧のみを任命し、尼寺は僧寺と併せて統制する対象となって いる。 ところで、『日本書紀.n

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元興寺伽藍縁起Jには、仏教を百済から受容した当初から、本格的な 寺院の飛鳥寺の造営に至る過程では、善信尼、禅蔵尼、恵善尼の 3尼らが出家し、この 3尼はい

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ずれも渡来系氏族の出身であった。また、飛鳥寺の造営に着手し、山で用材の伐採がおこなわれ た崇峻 3年 (590)には、大伴狭手彦連女の善徳、大伴狛の夫人、新羅媛善妙、百済媛妙光、漢 人の善聡、善通、妙徳、法定照、善智聡、善智恵、善光らが出家して尼となったことなどが記さ れており、尼となった大半が渡来系氏族の出身であったことがわかる。 しかし、飛鳥寺の造営が進展をみた段階から、『日本書紀

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J

~元興寺伽藍縁起JI ~日本霊異記』 『僧綱補任』などに記された 7世紀の 122名の僧、尼をみると、尼僧の名はまったく姿を消して いる。本格的な寺院造営に至るまで、仏教の受容に際し尼僧の顕著な動きが記されながら、飛鳥 寺造営後の 7世紀には、竣工した飛鳥寺の運営、さらに渡来僧の動き、惰に派遣された学問僧ら の動きや僧名が多く記されながら、尼僧の動きや尼僧名はまったく知りえない。それだけに、尼 寺の寺院跡から出土する遺物などによって、初期の尼寺、尼僧に関連する実態を探ることが望ま れることになる。 しかし、その後の 8世紀には、主に「正倉院文書jなどによって、法華寺、 坂田寺、橘寺での尼僧の動向が堀池春峰氏によって以下のように明らかにされている(註48)。 すなわち法華寺に関連する尼僧では、「阿粛陀院悔過料資財帳Jに、天平 14年 (472)11月に、 宝蔵尼によって優婆夷の貢進が行われたこと、宝蔵尼とともに法華寺に安敬尼が住んでいたこと、 さらに初期の法華寺に大尼公、小尼公と呼ぶ尼僧がおり、大尼公は法華寺政所牒に記載がみられ、 法華寺の最高位にあった尼僧で、あったことがわかる。 また小尼公は天平 15年ころには恭仁宮小尼公所に止住し、写経に関与したことが知られ、法 華寺は東大寺と同様に三綱を構成することによって寺院の経営、運営が行われ、また宗教的な活 動が行われていたことがわかる。 また、坂田寺では、「正倉院文書Jに、天平 14年ころの優婆塞貢進解に師主坂田寺尼信勝が自 署したもの、天平 19年 (747)に市原王が信勝尼御所から抄 6巻を借りだし、内裏に進納したこ と、坂田寺の信勝尼と善光尼によって高さ 3丈の乾漆観音菩薩、虚空蔵菩薩が発願され、東大寺 に寄進されたことが「七大寺巡礼私記」に記されている。 さらに橘寺の尼僧では、東大寺が写経所で花厳伝一巻が書写するため、原本を橘寺善心尼師所 から借りだしたこと、天平宝字5年に法華寺阿禰陀浄土院建立に対し、租交易布 402段のうち、 100段を橘尼師が寄進したことが記されている。また、天平 20年 4月に最勝王経 100部 1000巻 が書写され、そのうち 10部は橘寺善心尼公所に送られている。この善心尼公所へは天平勝宝 4 年に紫徴令であり、大納言を兼ねる藤原仲麻呂の宣によって頒たれていることから、仲麻日と善 心尼との強いつながりがあったことなどが想定されている。 このように、『続日本紀』では、ほとんど尼僧の動きは知りえないが、 8世紀でも大和に建て られた尼寺の中には、官寺とも深いかかわりをもちながら、写経活動を行い、また優婆塞の貢進 を行うなど、宗教活動が顕著に行われていることを知ることができる。 おわりに ここでは、近畿地方の飛鳥、白鳳期に造営された古代寺院に対し、すでに上原真人氏によって 僧寺と尼寺との有機的な関連が留意されてきたことである(註 49)が、さらに同箔軒瓦の分有

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関係をもとに僧寺と尼寺の関連を具体的にさぐってみた。 その結果、ごく近距離に造営され、しかも創建期に複数の同箔軒瓦が葺かれているこつの寺院 では、有力氏族の僧寺と尼寺の強い関連をもって造営されたものが少なくないことが想定される ことになった。このような関連は近江にもみられるように畿内に限るものではないので、地方の 飛鳥、白鳳期の地域史を理解、復原する際にも重視する必要があるように思われる。 註 (1)石田茂作『飛鳥時代寺院祉の研究』聖徳太子奉讃会 1936年。 (2)稲垣晋也「考古学からみた初期寺院の造営一畿内を中心として一JW東洋学術研究』第 18 巻第 3号 1977年。 (3)大脇潔「飛鳥時代初期の同箔軒丸瓦ー蘇我氏の寺を中心としてJW古代』第 97号 1994 年。 (4)福山敏男「豊浦寺の創立に関する研究JW史学雑誌』第 46巻第 12号 1935年。後に補正 し「豊浦寺の創立J として、『日本建築史研究~ (1968年)に収録している。 (5)保井芳太郎『大和上代寺院志』大和史学会 1932年。 (6)石田前掲註(1)と同じ。 (7)福山敏男「葛木寺及び厩坂寺の位置についてJW大和志~ 1巻 3号 1934年。 (8)大脇潔「蘇我氏の氏寺からみたその本拠JW堅田直先生古希記念論集』真陽社 1997年。 (9)石田茂作「橘寺・定林寺の発掘JW近畿日本叢書飛鳥』近畿日本鉄道 1964年。 (10)上原真人「仏教JW 日本の考古学~ 4 岩波書庖 1986年。 (11) 奈良県『平城京左京八条三坊発掘調査概報ー東市周辺東北地域の調査~ 1976年。 (1

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)

山下隆次「尼寺廃寺

1-

北廃寺の調査一JW香芝市文化財調査報告書』第

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集 香芝市教 育委員会 2003年。 (13)同『香芝市埋蔵文化財発掘調査概報 平成十五年度~ 2004年。この概報で、北廃寺と南 廃寺で同箔軒瓦が出土することから、僧寺と尼寺の関連をもって造営されたものと記して いる。 (14)橿原考古学研究所「御所市朝妻廃寺発掘調査概報J

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奈良県遺跡調査概報 1977年度JI1978 年。同「朝妻廃寺発掘調査概要JW奈良県遺跡調査概報 1979 年度~ 1980年。 (15)橿原考古学研究所『二光寺廃寺発掘調査現地説明会資料JI2005年。 (16)新庄町歴史民俗資料館「忍海探訪JW新庄町歴史民俗資料館企画図録』第 2冊 2003年。 (17)上田睦『藤井寺市及びその周辺の古代寺院(下)JI藤井寺市教育委員会 1987年。 (18)小笠原好彦「河内船橋廃寺の性格と造営氏族J

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考古学研究』第 45巻第 3号 1998年。 後に、小笠原好彦『日本古代寺院造営氏族の研究.11 (東京堂出版 2005年)に所収。 (19)上回睦「藤井寺市及びその周辺の終末期古墳と古代寺院J

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終末期古墳と初期寺院の造営

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を考える一古市古墳群終鷲後の藤井寺とその周辺一』藤井寺市教育委員会 2004年。 (20) 吉田晶「古墳と豪族一丹比連(宿弥)と多治比公(真人)を中心にして-J(亀田隆之編) 『古代の地方史~ 3 畿内編 1979年。 (21) 石田前掲註 (1) と同じ。 (22) (財)大阪市文化財協会『葦火~ 69号 1997年。 (23) 近藤義行・梶本敬三「久世廃寺他発掘調査概報J

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城陽市埋蔵文化財調査報告書』第 8集 1979年。 (24) 平良泰久・近藤義行・奥村清一郎ほか「平川廃寺発掘調査概要J

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域陽市埋蔵文化財調査 報告書』第一集 1973年。 (25) 上原前掲註 (10) と同じ。 (26)久世廃寺出土の複弁八弁で、外縁に印刻線鋸歯文をつけたものが平川廃寺からも出土するが、 小破片で同箔かどうかは明らかでない。しかし、創建時の同箔軒瓦が乏しいことは変わら ない。なお、平川廃寺の造営氏族は、黄文連が造営したとする見解(辻本和美「黄文の 寺と瓦一平川廃寺軒丸瓦F型式をめぐってーJW京都府埋蔵文化財論集』第4集 (財)京 都府埋蔵文化財研究センター 2003年)がある。また、久世廃寺からは、大和の奥山久米 寺跡と同箔軒丸瓦が出土することから、上宮王家と深い関連をもっ秦氏を想定する(小笠 原好彦(f同箔・同形式軒瓦からみた奥山久米寺式の展開J

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日本古代寺院造営遺族の研究』 東京堂出版 2005年)。 (27) 中島正ほか「史跡 高麗寺JW京都府山城町埋蔵文化財調査報告書』第 7集 山城町教育 委員会 1089年。 (28) 小笠原好彦「高麗寺の造営氏族とその性格JW瓦衣千年』真陽社 00000年 (29) 中島正「蟹満寺第 l次調査J

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京都府山城町埋蔵文化財調査報告書』第 9集 1991年。 (30) (財)京都市埋蔵文化財研究所「北野廃寺発掘調査報告書JW京都市埋蔵文化財研究所調査 報告書』第七冊 1983年。 (31)岸本直文「七世紀北山背岩倉の瓦生産J

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岩倉古窯跡群』京都大学考古学研究会真陽社 1992年。 (32) 藤沢一夫「山城北野廃寺J

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考古学』第 9巻第 2号 1938年。 (33) 井本正三郎「山城北野廃寺南遺跡の研究J

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考古学』第 11巻第 6号 1941年。 (34) 岸本前掲註 (31) と同じ。 (35) 小笠原好彦「小八木廃寺J

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近江の古代寺院』近江の古代寺院刊行会 1989年。 (36) 小笠原好彦「妙園寺廃寺JW近江の古代寺院』近江の古代寺院刊行会 1989年。 (37) 西国弘「近江の古瓦E 湖東北半部JW文化財教室シリーズ~ 33 1979年。 (38) 石田茂作「白鳳時代寺社三題JW考古学雑誌』第 27巻第 10号 1937年。 (39) 田村円澄『飛鳥・白鳳仏教(上

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吉川弘文館 1994年。 (40) 菱田哲郎「畿内の初期瓦生産と工人の動向J

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史林

J

第 69巻第 3号 1986年。 (41)保井芳太郎「中臣寺(横井廃寺)J

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大和上代寺院志』大和史学会 1932年。石田茂作『飛

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鳥時代寺院祉の研究~ (聖徳太子奉讃会 1936年)では、西向きの四天王寺式を想定する が、東向きの可能性が高いであろう。 (42)

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行基年譜jに記されている行基が設けた四十九院は、これが安元元年 (1175) 9月の撰 によるので、この院数をそのまま使用するには問題があるが、『続日本紀』宝亀四年十一 月辛卯条に、院を 40個所余り設けたことを記しており、「行基年譜Jに記す院をそのまま 認めることには特に異論はないようである。 (43)堀池春峰「奈良時代における尼寺・尼僧に就いてJ

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南都仏教』第 6号 南 都 仏 教 研 究 会 1959年。 (44)堀池前掲註 (43)と同じ。 (45)塚本善隆「国分寺と惰唐の仏教政策並びに宮寺J(角田文衛編)

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国分寺の研究』下巻 1938 年。 (46) 上原前掲註(10)と同じ。 (47)田村前掲註 (39)と同じ。 (48)堀池前掲註 (43)と同じ。 (49)上原前掲註(10)と閉じ。 『考古学論究』小笠原好彦先生退任記念論集刊行会・真陽社 20073月

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宮井廃寺の性格と造営氏族

はじめに 宮井廃寺は日野川の左岸、滋賀県東近江市蒲生町に所在する白鳳寺院である。廃寺のすぐ北 には雪野山が眺望される。 この寺院は古くから塔基壇をふくむ土壇が水田中に残されており、礎石の一部が露出してい た。また、その近くには大形の塔心礎が置かれており、『近江蒲生郡志』には、「宮井の古寺J として、畑地に礎石が残っていること、天神社前に塔心礎が置かれていることを記し、軒丸瓦 l点、軒平瓦 3点の拓影が掲載されている(註1)。 また、 1936年(昭和 11)に刊行された柏倉亮吉氏による『滋賀県史蹟名勝天然紀念物概要』 には、雷文縁複弁蓮華文、雷文縁単弁蓮華文、単弁蓮華文で外区内縁に珠文をめぐらす軒丸瓦 などの拓影が掲載されている(註2)。 戦後の 1980年、宮井廃寺の周辺で圃場整備事業の実施が計画されるようになり、それに先 だって伽藍の構成と寺域の範囲などを確認することを主要な目的とした発掘調査が実施され た。この調査によって、堂塔の位置、規模、さらにそれぞれの建物に葺かれた軒瓦もほぼ明ら かになり、この廃寺が七世紀後半に造営された氏寺であることが明らかになった(註 3)。 しかも、 1983・84年には、宮井廃寺の寺域に北隣する野瀬遺跡の発掘調査も併せて実施され た。この調査によって、宮井廃寺の北限と古代寺院に隣接して営まれた集落遺跡の実態もほぼ 判明するようになった(註4)。 このように、これまでの調査によって宮井廃寺の伽藍と寺域、さらに金堂に瓦積の基壇外装 を採用し、雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦を主体に葺いた七世紀後半に造営された氏寺の内容がほぼ 判明することになった。 しかし、この寺院の造営氏族を具体的に知る手掛かりとなる資料、あるいは文献史料は乏し く、調査報告では明らかにしえないまま残されている。 ここでは、宮井廃寺の調査にかかわったこともあり、この廃寺の研究で残された課題のー っとして、金堂基壇に採用された瓦積基壇外装と主体として葺かれた雷文縁軒丸瓦との関連を 重視し、宮井廃寺を建立した造営氏族の性格を少し探ってみることにしたい。 1 宮井廃寺の伽藍と軒瓦 宮井廃寺の発掘調査は、 1980年から 82年にかけて実施され、それまで水田中に高く残され てきた土壇は、一辺が 12

75m、高さ 1

2mの塔基壇であることが確認され、礎石の大半が 遺存することが判明した。 また、塔基壇の東北部にある天神社が鎮座する北側は一段高くなっており、これまで雑木が 欝蒼と茂る状態となっていた。この天神社の北側で、東西 16・7m、南北 11・7mの建物基壇 が検出され、金堂基壇に想定された。この基壇の南、東、西面では半載した平瓦が数枚積まれ ているのが確認され、基壇外装は瓦積基壇であることが判明した。

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ほかに金堂基壇の西方 40mで、低い乱石積基壇が検出され、その北側で石積みした階段が検 出された。また、金堂の北西 40mでも、低い基壇をもっ建物跡が検出され、 10個の礎石が検 出された。しかし、建物規模は十分に把握しえないままとなっており、講堂もしく僧房の、い ずれの建物とも判別し難いものとなっている。 以上のように、宮井廃寺の堂塔に伽藍に関連する建物は、金堂の西南に塔を配し、その西方 と北方にそれぞれ建物を配したものであることが判明した(註5)。 また、宮井廃寺に北接する野瀬遺跡でも、圃場整備事業に関連して全面的に発掘調査され、 寺院に関連すると想定される掘立柱建物群と井戸などが検出され、遺物では瓦類の他に「秀本 寺Jあるいは「勢本寺Jと寺院名を記した墨書土器や僧房に関連する「西ー坊J

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東一方」な どと記した墨書土器が出土している(註 6)。 これらの宮井廃寺と野瀬遺跡の調査によって、寺院の堂塔の四辺に築地がめぐらされ、東西

1

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町、南北

1

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町ないし

2

町をなすものと想定された。 以上のような調査で出土した軒丸瓦には、雷文縁複弁八弁蓮華文 2型式、雷文縁単弁十二弁 蓮華文 1型式、雷文縁単弁十六弁蓮華文 l型式、単弁十二弁蓮華文で外区内縁に珠文をめぐら すもの 2型式がある。また軒平瓦には、重弧文、指頭圧痕重弧文のもの、均整唐草文などが出 土し、特に雷文縁複弁八弁蓮華文軒丸瓦と指頭圧接重弧文軒平瓦が多く出土した。これらの軒 瓦の出土状態からは創建時の軒丸瓦と軒平瓦との組合せは十分には明らかにしえていないが、 瓦当文様の様式と出土比率からすると、創建時には雷文縁複弁八弁蓮華文と指頭圧痕重弧文軒 平瓦が組合って葺かれた可能性がきわめて高いものと推測される(図1)。 軒丸瓦の雷文縁複弁八弁蓮華文では、中房に配した蓮子に周環をつけるものと、っけないも のとがあり、前者が盛り上がる蓮弁をなすことから様式的に古く、先後関係を示すものとみな される。 また軒平瓦の指頭圧痕重弧文のものは、湖東地域の宇曽川流域に造営された古代寺院に顕著 にみられ、その多くは中房に大きな蓮子をつけ、その周囲に環状に多くの蓮子をめぐらし、単 弁あるいは重弁蓮華文を配し、外区内縁に珠文をめぐらす湖東式軒丸瓦と組合って葺かれてい る。しかし、宮井廃寺では、組合う湖東式軒丸瓦は発掘調査以前に採集されたとされるものが あるのみで、調査では全く出土していないので、主体をなして葺かれたものとはみなし難い。 2 軒瓦からみた宮井廃寺の性格 宮井廃寺から出土した多量の平瓦には、外面に格子目タタキと縄目タタキを施したものとが ある。これらのうち格子目タタキのものは、宮井廃寺の西南四 400mにある辻岡山瓦窯群の 1 号窯で生産されている。しかも、との瓦窯では口径 11・7cm、高さ 4・Ocmと口径 10・8c m、高さ 4・1cmの丸底風の須恵器の杯が共伴しており、この須恵器の形態、法量からみて七 世紀の第 4四半期の早い時期のものと推測される。すなわち宮井廃寺は 680年代には造営が開 始されていたものと推測される(註 7)。 また、宮井廃寺から出土した軒瓦には、轍密に雷文縁を配した複弁八弁蓮華文 2種、少し組 く雷文縁を配した複弁八弁蓮華文 1種、組く雷文縁を配した単弁十二弁蓮華文 l種が出土して いる。また軒平瓦には重弧文、指当圧痕重弧文、均整唐草文などが出土している。 これらの

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宮井廃寺出土の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦と 重弧文軒平瓦

図 1 斑鳩地域の僧寺と尼寺
図 3 山背の高麗寺・松尾廃寺・蟹満寺の位置
図 1 宮井廃寺出土の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦と 重弧文軒平瓦

参照

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代表研究者 川原 優真 共同研究者 松宮

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.

共同研究者 関口 東冶