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袁桷と『延祐四明志』

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袁桷と『延祐四明志』

著者

稲(稻)葉 一郎

雑誌名

人文論究

52

2

ページ

1-17

発行年

2002-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/6154

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唐代に四部分類が確立して以後、増加の著しい史部書のなかにあって、突出しているのが地理類である。史部の子 目に地理類が置かれて後、地理類の一部書、地方志は、宋、元、明、 へと時代を追って、飛躍的に増加する。 一般には地方志の起源は古く かつ多元的であり 、 ﹃ 尚書 ﹄ 禹貢のような古地理書や ﹃ 春 秋 ﹄ ・ ﹃ 越絶書 ﹄ のような年 代記・各國史、 ﹃華陽國志﹄のような圖經・地記 などの先行者をもつとされるが 、 直接の起源は隋の大業年間 ︵ 六 〇 五∼六一七︶に編纂された﹃ $州圖經集﹄に求められる。時の政府が調査項目を示して各地の州縣に報告を要求した ことから州縣に報告資料が集まり、州縣單位で地方の -況を總體的に把握する道が開けたのである。唐宋時代には、 この背景の上に、圖をともなった地方志が定期的に作成されるようになる。宋代以後、地方志が激増するのは、地方 志の多くが地方長官の委囑をうけた一般の學者・文人により編修され、とくに 代には各地方行政區・都市ごとに、 しかも六十年をめどに一定期間ごとに改修されたからである。 地方志の發展は、各王朝が全國總志、一統志を編纂するにあたって、その資料的據り所を地方志に求め、その編纂 を奨勵したことに由來するが、その結果、地方志に充實した内容を盛るものもあらわれ、一統志に限らず、國史や王 一

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朝史にも史料を提供するようになる。こうした地方志と國史・王朝史との依存關係が深まるにつれ、兩者の關係を理 論づけようとするものも現れる。 地方志と國史・王朝史は如何なる契機でかかわりをもつようになったのか。小稿ではその接點を元代の地方志、主 として馬澤︵修︶ ・袁桷︵撰︶ ﹃延祐四明志﹄ ︵以下、 ﹃延祐志﹄と略稱︶とその續志、王元恭︵修︶ ・王厚孫︵撰︶ ﹃至 正四明續志﹄ ︵ ﹃至正續志﹄と略稱︶の周邊にさぐることにしたい。 なお﹃延祐志﹄と﹃至正續志﹄のテキストには﹃宋元方志叢刊﹄ ︵中華書局、一九九〇年︶本を使用する。

袁桷の生平と修史

袁桷︵一二六五∼一三 二 七︶ は字を伯長といい 、 容居士と號し 、 文 と謚された 、 慶元路 !縣 ︵ 浙江省寧波市 ︶ 出身の 史家である。南宋の度宗の咸淳元年に生まれ、元の泰定四年に六十二歳で沒している 。 家系を見ると、曾祖に宋の少府・同知樞密院事・資政殿大學士・越國公の韶、祖父に中散大夫・知嚴州軍州事の似 道をもち、朝列大夫・同知處州路總管府事の洪を父とし 、韶をふく め、 高叔祖にあたる袁燮 、 曾叔祖の袁甫と袁商 のいずれもが國史や實録の編纂に從事した というから、唐の史官劉知幾と 相似た家庭環境にあったことがわかる 。 袁桷の家には越國公が中秘書などを傳録して收集した貴重な藏書が整備されており、彼は少年時代から讀書や研究に それを利用することができた 。ただし彼の場合は、 自ら惟うに志學の歳、宋の科擧、已に廢し、遂に意を宋史に專らにするを得、亦た嘗て雜書・文集および本傳・ 語録を分 0し、次を以て分別す。不幸、城西の火災もて舊書盡く燬く。然り而して家世の舊聞、耳受目睹して、 猶お能く記臆す。 ︵ ﹁修遼金宋史捜訪遺書條列事 -﹂ ﹁修史事 -﹂と略稱︶ ﹃ 容居士集﹄巻四一︶ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 二

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とて、十四歳の時には南宋が滅亡し、科擧試がなくなったので、十五歳、學に志す時期には科擧試の準備に費やすべ き精力を經學と史學、なかんずく宋史の研究に向け、家藏の文獻を據り所に、史料を整理することになる。少年時代 にまとめた宋史は、不幸、己丑︵一二八九︶の歳、大火にあ い、 家藏の書籍とともに燒失した が 、 彼の胸中に ﹁ 家 世の舊聞﹂として蓄えられる。 やがて茂才異等に推擧され、二十餘歳で麗澤書院の山長を授けられたが就かず、ついで大 の初め︵一二九七︶に は閻復・程文海・王構らの推薦で翰林國史院檢閲官となり、元の朝廷に出仕。二十年以上にわたって元朝の實録の編 修にたずさわる 。 初 め ﹃ 五朝實録 ﹄ を 、 ついで ﹃ 聖朝二帝實録 ﹄ を 、 至 治 三 ︵ 一 三 二 三 ︶ 年 二 月 には ﹃ 仁宗皇帝 實録﹄を完成、奏上している 。彼の上表﹁進仁宗皇帝實録表﹂ ︵ ﹃ 容居士集﹄巻三八︶には、 伏して聖朝二帝實録を覩るに 、 進 表 、 必ず詳盡を加え 、 其の行う所 の事迹を摘して以て篇首に序 す。桷、大  中、嘗て五朝實録表を進むるも、未だ前作に倣效するを免れず。今、輙ち揆らずも、舊制に遵守して一篇を &成 す。云々。 と見えるから、 ﹃五朝實録﹄が太祖・太宗・定宗・憲宗・世祖のことを敍述していたとすれば、 ﹃聖朝二帝實録﹄が成 宗・武宗實録をさすことは確實であり、 ﹁今、進 む﹂ ところの實録が仁宗のものであるとすれば 、 國初以來の實録 、 太祖・太宗・定宗・憲宗・世祖・成宗・武宗・仁宗の各實録の編修にかかわっていたことになる。 袁桷のこうした實録編修の實績は彼に二つの事業への道を開いた。一つは地方志の編修であり、他は遼金宋三史の 編修である。 地方志の編修は延祐末年︵一三二〇︶ 、慶 元路總管の馬澤から郷里の地方志 ﹃ 延祐四明志 ﹄ の編修を委囑され 、 そ れにたずさわったものである。詳細は次節 にゆずることとして 、 この編修については 、 ﹁ 四明志序 ﹂ が延祐七年十一 月庚寅の日付をもつところから、仁宗末年の慌しい一時期を利用したものであることがわかる。延祐七年正月、三十 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 三

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七歳の皇帝が崩御したのをうけ、十一月甲申には翰林國史院に仁宗實 録の編修が命ぜられたからである 。 延祐志 ﹄ の編修に從事していた彼は、それをまとめ﹁四明志序﹂を書き終えると、直ちに實録の編修に携わるべく明州を後に したと考えられる。 この仁宗の延祐年間に著された ﹃ 延祐志 ﹄ に は 、 進士科を設ける 一方 、 ﹃ 資治通鑑 ﹄ の一部を蒙古語 に翻譯させ たり、東宮説書に經史に明るい碩學を任命する など、中國文化の再 評 價、 漢化の風潮を承けて 、 明るい展望がうか がえる。 遼金宋三史の編修については、元朝ではそれまでにも ば事業を企てていたが、さしたる進展を見ないまま、中斷 していた。 ﹁修史事 -﹂ 前 ︶はその經過について、 伏して先朝の聖訓を覩るに、 ば史臣に命じて遼金宋史を纂修せしむるも、因循、未だ就らず。 という。今日でこそ﹃遼史﹄ 、 ﹃金史﹄ 、 ﹃宋史﹄はそれぞれ獨立して行われているが、當時はまだどのようなかたちに なるのか決定せず、編修以前の討論が繰り返されていた。たとえば、遼金宋の 史を一つにまとめ、遼・金を北史、 宋の 康年間までを宋とし、建炎以後を南史とするなどの案が議論され、いずれを正統とするか、というような面倒 な問題までも浮上して 、編修作業に入れない -況にあった 。 こうした -況の中で、開國以來の實録を完成し修史の實績を擧げた袁桷に編修への要請が回ってきたのである。彼 は要請を前向きに受けとめると、自身、遼・金の故事にうといことを斷った上で、まず三史編修に向けて心がけるべ き編修方針とさしあたり必要な史 料の採訪などについて二十箇條の覺書き ﹁ 修史事 -﹂ 前 ︶ をまとめ 、 翰林國史 院に提出した。 この中でとくに注目すべきは、採訪すべき三史の遺書︵一四四種の關連史料︶がそれぞれ項目別に整理して列擧さ れていることである。このリストは、多年、修史の實務に從事したもののみが作成できる精度の高いものであり、列 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 四

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擧された文獻の中には元朝の當時は存在したが 、 今日では亡軼して見ることのできないも のもある 。 こ の ﹁ 修史事 -﹂は提出の日付を缺いているが、その冒頭に、 猥りに非才を以て史 *に備員すること、幾ど二十年。近ごろ復た直翰林に進み、仍お史職を兼ぬ。 と あることから 、 執筆したのは翰林直學士として史職を兼ねていた時期であり 、 ﹃ 元史 ﹄ 袁桷傳 ︵ 前 ︶ に徴すれ ば、 未だ幾くならずして翰林直學士・知制誥・同修國史に改めらる。至治元年、侍講學士に遷る。 とあるのに相當する。英宗の即位以前、恐らくは仁宗の延祐年間︵一三一四∼二〇︶とするのが妥當であろう。彼は その末尾で、 凡そ具する所の遺書、散じて東南にありて日々湮落に就く。或いは搜訪するを得、或いは筆札を給して傳録する を得ば、能く成書して以て一代の史に備うるに庶し。 といっているから、 ﹁修史事 -﹂の提出をうけ て、 觀念的な議論ではなく 、 史料の採訪など 、 何らかの編修にかかわ る動きがはじまったものと思われるが、延祐年間における三史編修についての情報はない。 三史編修計畫が具體的に動き出 すのは英宗の至治年間 ︵ 一三二一 ∼ 二 三 ︶ に入ってからである 。 ﹁ 墓誌銘 ﹂ はその 經緯について、 至治中、 #王栢柱、獨り國鈞を秉り、新憲度を作る。號令宣布、公︵袁桷︶ 、これに力むるあり。 ︵中略︶王、尤 も公の學識を重んじ、鋭に遼金宋史を撰述せんと欲し、成るを公に責む。公も亦た奮然自任、凡例及び當に用う べきの典册を條具して之を陳ぶ 。 是れ皆な $故家の聞見する所に本づき 、 師友の討論する 所に習いしものにし て、牽合剽襲、漫焉以て時好に .るにあらず。 という 。 英宗の即位とともに中書右丞相として政治の實權をにぎった栢柱 ︵ 拜 住 ︶ は ﹁ 新憲度 ﹂ を立て漢化政 策 を 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 五

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推進するに當り、この﹁修史事 -﹂のことも知悉していたのであろう、袁桷を翰林侍講學士︵從二品︶に任じ、廣報 ・教育活動のブレーンとして重用する一方、正統王朝の事業として勝朝の 史を編修することを企畫し、彼に三史撰 述の實務を一任したのである。上の﹁墓誌銘﹂の記述では覺書きは至治年間に作成されたかのように位置づけられて いるが、袁桷自身の記述では至治以前の翰林直學士の時のこととしている。恐らく拜住の要請を受けた袁桷は、先の 覺書きにもとづき、各地に史官を派遣して史料の採訪にあたらせるとともに、編修の準備を始めたものであろう。そ して拜住の後援の下、編修事業は順調に進むかに見えた。しかしながら不幸、突然の悲劇がこの事業を頓挫させた。 ﹁墓誌銘﹂はその後につづけて、 未だ幾くならずして國に大故あり、事、果して行われず。 という。すなわち至治三︵一三二三︶年八月四日、右丞相拜住が守舊派の奸臣に暗殺され、つづいて英宗皇帝も弑殺 されて、この編修事業も立ち消えになってしまったからである。 ﹃遼史﹄ ・ ﹃金史﹄ ・ ﹃宋史﹄三史の編修事業 が改めて具體化するのは至正三 ︵ 一三四三 ︶ 年であり 、 この事件から二 十年も後、袁桷の死からでも十六年の後のことである。實務的な立場から的確にまとめられているので、この﹁修史 事 -﹂がその當時においても、三史の史料收集とその編修の信頼できる 指針となったことは間違いない 。 しかし宋 史に造詣の深い、修史の熟練、袁桷が現實の編修作業にタッチできなかったのは、現行の﹃宋史﹄の蕪雜な編修を見 るにつけても、何とも惜しまれる。上の覺書きには、 卑職、南方に生長したれば、遼・金の舊事は、知聞する所鮮し。中原の諸老家には其の書あらん。必ず能く搜羅 會 5し以て信史を成さん。 とて、宋史編修への自信をうかがわせていただけに、なおさらである。 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 六

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政變で挫折を經驗した袁桷は 、 蒙古 の朝廷に絶望したのか 、 愛想をつかしたのか 、 翌 年 、 泰定の初め ︵ 一三二 四︶ 、翰林侍講學士の職を辭して歸 "。以後、 !縣の里家で自適の生活を送っていたが 、 四年八月三日 、 疾により六 十二年の生涯を閉じた。 三十五歳の時、鄭夫人を亡くしてから後は、便嬖を絶ち、介潔もて自ら持したという 。

﹃延祐四明志﹄の編修

四明は現在の浙江省寧波市付近の古地名だが、袁桷以前の四明志、あるいは同地域の地方志を見ると地誌的圖經的 性格が強く、たとえ ば南宋期に編修された ﹃ 寶慶四明志 ﹄ ︵ ﹃ 寶慶志 ﹄ と略稱 ︶ は全體の構成を 、 ︵ 巻 一∼三︶敍 郡、 ︵四︶敍 山、 ︵五・六︶敍 賦、 ︵七︶敍 兵、 ︵八∼十︶敍 人、 ︵十 一︶敍 祠・敍 遺、 ︵十 二・三︶ !縣 志 、 ︵ 十 四・五︶奉 化縣志、 ︵十六・七︶慈溪縣志、 ︵十八・九︶定海縣志、 ︵二十︶昌國縣志、 ︵二一︶象山縣志としており、敍人、すな わち人物傳はかなり充實しているが、巻十二以後を各縣志に充てるなど、全體の構成には、宋代地方志の主流をしめ る圖經的側面を殘している 。 元の大 年間に編修された四明の地方志 ﹃ 大 昌國州圖 志﹄は、 ︵巻 一・二︶敍 州、 ︵三︶敍 賦、 ︵四︶敍 山、 ︵五︶ 敍官、 ︵六︶敍人︵進士題名・名賢・名宦︶ 、 ︵七︶敍 祀の構成をとり 、 その簡潔で均衡のとれた内容は後世の高い評 價を受けている。しかし人物傳などを見るかぎり、簡略にすぎ、後の袁桷﹃延祐志﹄との關連性は見あたらない 。 袁桷に編修を委囑した慶元路總管馬澤︵潤之︶は嘗て中秘官をつとめ、史部書、地方志についても知悉しており、 袁桷の史官の經驗と實績をかっていたから、むしろ兩者の合意の下に、地誌・制度史と列傳を組み合わせた志傳形式 の採用となったのであろう。馬澤は分修の王厚孫をはじめ編修スタッフを整え、彼に編修を委ねたものである。 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 七

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この四明志序で注目すべきは﹁桷、久しく史官たれば、宜しく述ぶることあるべし﹂とて、多年の史官の經驗をか われて地方志の編修にたずさわったことである。このことは地方志を史書、 史敍述とする認識で編修が計畫され、 そのような立場からまとめられたことを意味する。 ﹃延祐志﹄編修の縁起については四明志序に、 世祖皇帝、聖  武もて寰宇を混平するや、首め秘書監儒臣に命じて大一統志を輯めしむ。沈幾遠略、昔の聖人 の意旨と )合す。然り而して郡志缺落し、其の遺軼し未だ備らざるは復た以て上に徹せざるなり。馬侯澤潤之、 固と嘗て中秘官たりて之を知る。四明に守たるに曁び、迺ち曰く、明に舊と志あり、今、大府に帥となり、浙東 七州、明を推して首となす。阨塞と戸版、物産、地利、是れ宜しく究察して以て待問すべし。 風舊 と昔の高 '巨閥の、宅里に屬す者は猶お考うべし、と。 ︵ ﹃延祐志﹄ ︶ とあり、世祖フビライが中國を統一したのを機に大一統志の編纂を命じたが、基礎とすべき郡志がそれに對應して提 出されず、一統志は編纂されたものの、完備したものにはならなかった た め 、 上の事情を知る總管馬澤が四明地方 の地理・戸口・物産・特色、過去の先賢や名士などを報告すべく、四明出身の史官袁桷に委囑し四明志を編修するに 至ったものである。 ﹃ 延祐志 ﹄ の構成は 、 ︵ 巻一 ︶ 沿 革 攷 ・ 土 風 攷 、 ︵二・三︶職 官 攷 、 ︵四・五・六︶人 物 攷 、 ︵七︶山 川 攷 、 ︵八・九︶ 城邑攷、 ︵十・十一︶河渠攷、 ︵十二︶賦役攷、 ︵十三・四︶學校攷、 ︵十五︶祠祀攷、 ︵十六・七・八︶釋道攷、 ︵十九 ・二十︶集古攷からなり︵ただし巻九城邑攷と巻 十・ 十一河渠攷の三巻は闕失 ︶ 、 各攷には袁桷の書き下ろした序文 が置かれている。 この四明志序や後述の賦役攷序および學校攷序で世祖の事業を稱贊しているのを見ると、元朝治下の政治や制度、 $政策を顯彰することが﹃延祐志﹄の敍述の大きな目的であったことが分かる。巻頭の沿革攷では、 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 八

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詩書の紀せる明堂・社稷・田制、周官と殊る。後、旁曲傅會すと雖も、卒に相い似ざるは何ぞや。或ひと曰く、 周官は太平の書なり。周公、嘗て之を行う、と。周祀、八百を たれば、是れ果たして更改することなきや。秦 より宋に至るまで率ね數十年にして輒ち易う。郡縣城邑の廢徙、率ね常所なし。陵谷の變易するも然り。之に兼 ぬるに人事を以てす。其の理、是くの若し。沿革攷を作る。 といい、 $制度の變遷と對應させながら、人事の變化をも明らかにしていくことを﹃延祐志﹄敍述の主要な目標とし ていたものらしい。特徴的なものをいくつかとり上げると、賦役攷序では、 人民の數、年歳同じからず。三年の大比、 $を史に稽うるに誣かず。貢賦に恒あり、貧富循環するも、田制、改 むことあるなし。力を民に取り、始めて其の租を 1じ、竈戸と曰い、水馬戸・弓手戸と曰う。圭田、征するなき は、官を養うを以てなり。寺觀、租を免じ、限るに統一を以てするは世祖皇帝の仁政なり。田に因て以て役をな し、高下、定むるなし。其の稽うべき者は、弓兵・獄卒・衙前と曰う。賦役攷を作る。 ︵ ﹃延祐志﹄巻十二︶ とて、税役體系に大きな變更を加えたことを世祖皇帝の仁政として稱贊し、本文では田土を官田と民田に大別し、竈 戸田・僧道田・驛戸田・職田などが設けられたことを記し、兵・獄卒・衙前祗候曳刺の名額を詳細に紹介し、秋糧・ 夏税の徴收額を糧米と鈔に分けて記載するほか、酒醋課・茶課・鐵冶課・鹽課・織染・皮貨などについても具體的な 數字をあげて記録している。これらの記載は南宋の﹃寶慶志﹄の複雜な記載に比べて明快であり、元朝の制度のわか り易さ、税役制度の簡明さを示したものといえる。 ﹃延祐志﹄をついだ﹃至正續志﹄巻六賦役には、 國朝、仁政もて天下を平ぐ。其の $を民に取るや、前代に視べて簡約と號稱す。 といい、そのことを裏づける。税役制度の簡明は徴税の簡約にも通ずるものであったことが知られる。 また學校攷の序では、 家塾黨序、來たる所久 し。文 翁、 博士弟子を立て 、 後世の規制 、 深く之に髣う 。 ︵ 中略 ︶ 世祖皇帝 、 海隅を平ぐ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 九

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るや、首めに儒役を復し、諄諄然として勸勉至る。先帝、文を崇び儒を尚び、慨然、科擧を復立したれば、學者 宜く /す自ら奮勵すべし。郡學の教養、論者、四明を以て先と爲す。昔時の得人の盛を觀るに科目に見わる。皇 朝、蒙古學を建て、復た醫學・陰陽學を立つれば、四學足る。學校攷を作る。 ︵ ﹃延祐志﹄巻十三︶ とて、世祖と先帝︵仁宗︶が儒學と科擧を復活したことを評價し、元朝の學校制度の特色である蒙古學と醫學、陰陽 學のことにふれている。しかし本文では本路蒙古學に簡單に觸れたのち、本路儒學について﹁鄭耕老重修州學記﹂や ﹁王應麟重建大成殿記﹂などを引用しながら詳述。施設や祭器、書籍、儒戸︵抄籍儒人一千九百二十七戸︶ 、設官︵教 授一員、學正一員、學録一員︶についても具體的に記述している。これを見れば、學校攷は元朝治下でも儒學中心の 教育が州縣學や書院などで行われていたことを闡明したものといえよう。彼が力を注いだ人物攷は序で、 詩に云く ﹁ 維れ嶽 、 を降し 、 甫及び申を生 む﹂と。 人物の興るは是れ山靈に假るや 。 運に通塞あり 、 磅 (鬱 積、久しくして彌よ章るる者、其の理、然るなり。云々。 ︵ ﹃延祐志﹄巻四︶ といい、 ﹃寶慶志﹄が衣冠文物の輩出 をこの地の氣に結びつけたのに對して 、 ﹃ 詩經 ﹄ 大 雅 +高を引き 、 ﹁ 人物の興る は是れ山靈に假るや﹂というのを見ると、四明の人材の輩出を風土や土地環境と結びつけたものであろうか。巻四・ 五は漢初の黄公、後漢の董黯以下、四明の先賢たちを記載し、巻六は贊と題名で滿たしている。この先賢傳は宋代の 人物の充實しているのが特色である 。杜醇や楊簡、王應麟など、先生の 名で親しまれた人物をまず紹介し 、 趙與懽 や謝昌元、黄震などに佳傳を立て、袁燮や袁韶、袁甫、袁洪など、袁桷 の親族にもスペースを割いている 。 この人 物傳をはじめ人文方面の充實こそは﹃延祐志﹄の敍述の特徴とすべきものである 。 ﹃延祐志﹄の編目で注目すべきは巻十九・二十に收められた集古攷であろう。集古攷序によれば、 郡は山川を以て傳わるも、傳は前賢より詳かなるはなし。其の傳を廣げれば、則ち凡そ四方の公卿、夫の騒人・ 釋子の紀刻する所とともに /す尊び以て傳わらん。裴公の紀 碣、 ば燬たれ /す彰わる。牧守、宜しく $を荒 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一〇

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園故宅に視、之に申ぬるに感慨を以てすべし。豐碑も磨 8すれば、日に榛棘に尋ねて、聞見、 /す遠し。桑海の 喩、 %ぞ信ぜざらんや。集古攷を作る。 とて、前賢の事業は碑刻とともに傳わることからして、集古攷は碑刻の磨滅しやすいことを慮んばかり、この地に立 てられた碑刻の原文を後世に殘し傳えることを目的に編んだ篇であるとする。しかし巻二十集古攷下には詩などを收 録しており、集古攷はひろく故事に關する史料を收載したものと理解すべきであろう。後代にはこの部分を充實させ たり、分離獨立させ地方志と併行させるも のも現れるが 、 その先驅けをなすものと見ることができる 。 ﹃ 延祐志 ﹄ の 敍述には、たとえば學校攷などのように、隨所に金石文と思しき文章を引用しているが、恐らくそのような活用の場 を得なかった史料を、別の史實の證據として役立てるべく保存しているのである。

結びにかえて

││ ﹃至正四明續志﹄と﹃宋史﹄と││ 上述のように袁桷が泰定四年、遼金宋三史編修の覺書き﹁修史事 -﹂と﹃延祐志﹄を遺して亡くなって後、順帝の 至正二︵一三四二︶年には王元恭により﹃至正續志﹄が編纂され、そして翌至正三年三月から﹃遼史﹄ ・ ﹃金史﹄ ・ ﹃ 宋 史﹄の三史の編修が開始され、五年十月に完成する。 袁桷は、延祐年間に﹁修史事 -﹂を作成した時點では、地方志と王朝史との關わりを意識していなかったらしく、 ﹁地志、宋に成書あり﹂と て﹃ 太平寰宇 記﹄や﹃ 皇祐方域圖志 ﹄ 、 ﹃ 皇祐地理新書 ﹄ 、 ﹃ 元豐九域志 ﹄ などの全國總志 ・ 地誌を列擧するにすぎない。しかし﹃延祐志﹄の編修にたずさわる過程で兩者の關係に思いを致したのか、先述のよ うにこれを 史敍述として著し、元朝の制度文物を顯彰し、三巻にわたる人物傳を作成している。 ﹃至正續志﹄は、 ﹃延祐志﹄におくれること二十年、總管王元恭が王厚孫と徐亮に委囑して編修したものであり、そ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一一

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の名の示す通り袁桷﹃延祐志﹄の續編というかたちをとっている。王元恭は﹃延祐志﹄を繼承するにあたり、次のよ うにいう。 國朝に入るに曁んでは延祐の庚申に當り、殆ど將に百年にならんとす。城邑の改觀、時俗の因革、未だ其事を考 えて之を修むる者あらず。是に於て郡人袁公桷、新志を作爲す。 ︵ ﹁至正續志序﹂ ︶ と。 ﹃延祐志﹄は書法が繁簡、法を備えて いるだけではない 。 城邑の改觀 、 時俗の因革 、 すなわち都市景觀の變化 、 風俗の變遷をとらえて敍述しているので、國政に裨 /し、太史の史料採訪にも應えうるものとしている。そして當の ﹃至正續志﹄については、 余、是の邦に叨守し、今古に亘 する所以を思い、其の缺略を補わんとす。乃ち耆髦の士に命じ、日々與に討論 し、復た續志を成さしむ。凡そ一十二巻なり。先後該貫、觀覽、遺すなく、少さか立國立政の本要に裨し、以て 太史の採擇に備うるに庶幾しと云う。 ︵同上︶ とて、前志をついで國政に役立て、史官の採擇に備えるものと言明している。國政に役立てる、とは﹃至正續志﹄に 展開する敍述を通して元朝の治政の參考に供することであり、太史の採擇に備う、とは巻二人物の條に、 列傳の作は太史氏の職なり。凡そ天下郡國の、忠臣・孝子・義夫・節婦あるは、郡志にして其の梗概を書するに 因る。太史氏の采 に備うる所以なり。抑は亦た末俗を警勵し、廉隅を興起するの道あり。 ︵巻二人物︶ とあるのをいうのであろう。郡國の志の敍述した忠臣・孝子・義夫・節婦の傳が修史官に採録されて國史・王朝史の 列傳をかざることになるとする。人物七人をとりあげたにしてはいささか誇張にすぎる嫌いはあるが、これは﹃延祐 志﹄を正編とし﹃至正續志﹄を續編として正・續あわせ理解すべきものであり、それだけ思い入れも大きかったので あろう。 袁桷は人物傳に三巻︵實質二巻︶をあてたが、王元恭・王厚孫は巻二に職官につづけて人物を置いているにすぎな 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一二

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い。兩者併せて三巻にも滿たない人物傳だが、これらの人物傳のもつ意味は極めて深長である。王元恭の自負通り、 間もなくその一部が王朝史に採録されたからである。 かくて袁氏の體例に則り、その後の採訪で内容を充實させた地方志﹃至正續志﹄は、至正二年に完成、直ちに刊行 された。 ﹃至正續志﹄の刊行された翌年、すなわち 至正三年 、 あたかも三史編修の議が改めて具體化し 、 急 遽 、 作業が始め られる。 ﹁墓誌銘﹂はその經過について、 今、天子︵順帝︶ 、特に大臣に勅して三史を董撰せしむ。先朝の故老の存する者幾くもなし。衆、獨り公︵袁桷︶ を追思し忘れず。會ま使者を遣わし郡國に分行し遺文故事を網羅せしむるも、江南の舊家、尚お多く畏忌して、 其の藏する所を秘し、敢えては官に送らず。公の孫、同知 $曁州事 2、乃ち家書數千巻を以て來上す。三史の書 成るや、蓋し助くる所あり。 という。これによれば、三史の編修にあたり關係者たちは改めて史官袁桷を追思し、史料採訪に編修官が袁家を訪れ ると 、 孫の袁 2が父祖袁桷らの收集した文獻 、 藏 書を提供して積極的に協力したとする 。 このような事實を見る と、三史の採訪者たちの四明の文獻に注目せざるをえなかった事情が理解される。 後に地方志を研究した錢大 ,は﹃延祐志﹄とそれをついだ﹃至正續志﹄を高く評價し、とくに後者について、 元の至正二年、慶元路總管王元恭撰す。其の門類は悉く袁氏の舊に依る。袁氏の未だ備えざる所のものは、類に 依りて之を補う。 案ずるに、此の志、宋史未修の前に刻せらる。今、宋史の史彌鞏・王文貫・趙逢龍・鄭覃の $傳、實に此こに藍 本するなり。蓋し史局、初めて開かるるや、編修官危素、嘗て明州に來りて采訪し、因て之を録するを得たるな らん、と 。 ︵ ﹃ ︵乾隆︶ !縣志﹄巻三十舊志源流︶ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一三

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という。ここの敍述は編修官危素が偶然、明州を訪れて、當地の地方志の記述に宋史の取材記事を發見し、これを採 録して﹃宋史﹄に盛りこんだ、というように解されるが、上述の﹃延祐志﹄と﹃至正續志﹄の編修の經緯を見れば、 編修官たちは漫然と四明の地を訪れたのではなく、確信にちかい期待を懷いて採訪に當たったことは間違いない。そ して﹃延祐志﹄から孫 6︵﹃宋史﹄巻二八八︶と沈起︵巻三三四︶ 、陳禾︵巻三六三︶ 、王庭秀︵巻三九九︶ 、袁韶︵巻 四一五︶ 、余天錫︵巻四一九︶ 、楊慶︵巻四五六︶ 、童八娘︵巻四六〇︶の八傳を、 ﹃至正續志﹄からは史彌鞏︵巻四二 三︶と趙逢龍︵巻四二四︶ 、鄭覃︵巻四五三︶の三傳を採録し、 ﹃宋 史﹄ 列傳に採りいれることになる 。 その意味で は﹁少さか立國立政の本要に裨し、以て太史の採擇に備う﹂とした王元恭らの期待がかなえられたというべきであろ う。 ﹃延 祐 志﹄と﹃ 至 正 續 志﹄が﹃宋 史﹄ の史料採訪の對象となりえたのは 、 その志傳構成と記事の高い信 憑性にあ り、袁桷に負うところが大きい。袁桷は二十年におよぶ修史の經驗をふまえて遼金宋三史の史料收集にあたる一方、 ﹃延祐志﹄の編修にもあたったから、いわば王朝史の 史料となりうるかたちで地方志を編修したと考えられる 。 そ し て袁桷の編修を助けた王厚孫は﹃至正續志﹄にもかかわり、彼の遺志をその續志にも反映させることができた。見方 をかえれば、上の王元恭の史料採擇への期待は、王厚孫を通して傳えられた、袁桷の抱負として理解することも可能 である。このように見るなら、 ﹃延祐志﹄と﹃至正續志﹄ が宋史編修官の採訪に應えられた事情が容易に理解される であろう。 以後、この事實は地方志と國史・王朝史との密接な關わりを示す事例として方志論、方志學者に利用されることに なる。 ﹃四明志﹄と﹃宋史﹄の史料の供受關係は、袁桷と いう史官の媒介で生まれた特殊な場合だが 、 しかしこの事例は 地方志が國史・王朝史に史料を提供するモデル・ケースとして知られるようになり、地方志と王朝史の關係について 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一四

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の認識を深める結果となる。 注 蘇天爵﹁ ︵元故翰林侍講學士知制誥同修國 史︶袁 文 公墓誌銘 ︵ 墓誌銘と略稱 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 滋溪文稿 ﹄ 巻 九 ︶ 、 ﹃ 至正四明續志 ﹄ 巻 二 人物袁桷傳はいずれも享年を六十二とするが、 ﹃元史﹄巻一七二列傳第五九袁桷傳は六十一としている。 ﹁墓誌銘﹂ ︵前 ︶を參照。 ﹁修史事 -﹂ 前 ︶を參照。 ﹁袁氏舊書目序﹂には袁氏の藏書の由來について、 ︵ 越 公 ︶ 後官中 、 凡二十有五年 、 乃務置書 、 以償宿昔所志 。 其世所未有 、 則從中秘書及故家傳録以 歸 。 於是書始備矣 。 ︵ ﹃ 容居士集﹄巻二二︶ といい、越國公の努力で水準の高い藏書が整備されたとする。  同じく﹁袁氏舊書目序﹂には、 己丑之災、偕家人渡江以逃、袁氏之書、一夕而盡。 ︵ ﹃ 容居士集﹄巻二二︶ と見える。 ﹃五朝實録﹄については﹁進五朝實録表﹂ ︵ ﹃ 容居士集﹄巻三八︶を參照。 ﹁書姚牧庵贈播州楊安撫漢英樂府﹂ ︵ ﹃ 容居士集﹄巻四九︶には成宗實録編修のことが見える。 ﹃國朝文類﹄巻十六所收の袁桷﹁進實録表﹂には至治三年二月の日付がある。 ﹃元史﹄巻二七本紀二七英宗一。 ﹁墓誌銘﹂には科擧の開設における袁桷の積極的役割に觸れている。 ﹃元史﹄巻二六本紀二六仁宗三。 修端﹁辯遼宋金正統﹂ ︵ ﹃ 國朝文類﹄巻四五︶ 。 邱樹森﹁脱脱和遼金宋三史﹂ ︵ ﹃ 元史及北方民族史研究集刊﹄第七期、一九八三年︶ 。 ﹁墓誌銘﹂の政治的實權者 #王栢柱は﹃元史﹄巻一三六 拜住傳の拜住 ︵ 追封東平王 ︶ に同定される 。 錢 大 ,は ﹃ 廿二史考異 ﹄ 巻九六拜住で黄 7﹁ #王文忠 道 碑 ﹂ ︵ ﹃ 金 華黄先生文集 ﹄ 巻二四 ︶ を據り所に ﹁ 按至正中 、 進 封 #王、謚 文 忠﹂と す る。拜 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一五

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住の治政について﹃元史﹄拜住傳は、 自延祐末、水旱相仍、民不聊生。及拜住入相、振立 紀 綱、 修擧廢墜 、 裁不急之務 、 杜僥倖之門 、 加惠兵民 、 輕徭薄斂 。 英 宗倚之、相與勵精圖治。時天下晏然、國富民足。遠夷有古未通中國者、皆朝貢請吏。而奸臣畏之、卒搆禍難云。 という。仁宗が世祖の成憲をまもったのに對して、英宗と拜住は新憲度を立 て、 漢化政策を推進しようとして守舊派に抹殺 されたのである。袁桷﹁特命右丞相詔﹂ ︵ ﹃ 容 居 士 集 ﹄ 巻三五 ︶ は栢柱 ︵ 拜 住 ︶ に大きな期待を寄せているし 、 袁 桷 ﹁ 右 丞 相拜住贈太師東平王﹂ ︵ ﹃ 容居士集﹄巻三六︶ ・蘇天 爵﹁ 題丞相東平忠獻王傳 ﹂ ︵ ﹃ 滋溪文稿 ﹄ 巻二八 ︶ ・ 元明善 ﹁ 丞相東平忠 憲王碑 ﹂ ︵ ﹃ 國朝文類 ﹄ 巻二四 ︶ ・ 黄 7﹁ #王文忠 道碑 ﹂ ︵ 前 ︶ は彼を ︵ 漢人官僚たちの ︶ 希望の星として詠 い上げてい る。なお後に脱脱が三史を完成させるのも﹁更化﹂なる漢化政策の一環であることは興味深い。  至正三年當時、三史の編修に從事していた蘇天爵の﹁三史質疑﹂ ︵ ﹃ 慈溪文稿 ﹄ 巻二五 ︶ には覺書きから二條引用しており 、 修史官たちに活用されていたことが知られる。 ﹃至正續志﹄巻二袁桷傳。  黄葦﹁論宋元地方志書﹂ ︵ ﹃ 史研究﹄一九八三年第三期︶ 。  黄燕生 ﹁ 元代的地方志 ﹂ ︵ ﹃ 史學史研究 ﹄ 一九八七年第三 期︶は﹃大 昌國州圖志 ﹄ を平列門目 體 、 ﹃ 延 祐 志 ﹄ を典書體とし て區別している。  錢大 ,﹁跋元大一統志殘本﹂ ︵ ﹃ 潛研堂文集﹄巻二九︶によれば、元大一統 志には至元二三年初修本と大 七年再修本の二種 があったとされるが、四明志は再修に際しても提出されなかったものと見える。  袁桷は敍傳の立場について、 余 、 昔在太史 、 觀循吏之實 、 書以示後 。 ︵ 烏 ︶ 忠 顯 、 不求名而名自至 。 孫公之爲使者 、 夫豈計 目前以爲黜陟哉 。 ︵ ﹁ 慈溪縣 興造記﹂ ﹃ 容居士集﹄巻十八︶ という。事實のみを記し、評價は後人に委ねるという立場である。  延祐志 ﹄ のかかる立 傳の在り方に不滿を表明するものもあるが 、 志全體から別の評價を下すものもあり 、 評價がわかれ る。全祖望は人物攷で袁 4を立傳していないことを不滿とし、 容文章大家、而志頗有是非失實之憾。如謝昌元・趙 孟傳皆立佳傳 、 而 袁 4之忠反見遺 。 蓋 容之父亦降臣也 。 又累於呉 丞相履齋有貶詞、殆以其大父越公之怨、非直筆也。 ︵ ﹃ 3埼亭集﹄外編巻三五﹁延祐四明志跋﹂ ︶ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一六

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とて、 ﹃延祐志﹄に 對して消極的評價を加えているが 、 そこには袁桷を降臣の子とする蔑視も働いている 。 これに對して錢 大 ,は、 按伯長元時館閣鉅手。其撰志時、王厚孫亦在分修之列。繁簡 有 法、 可謂佳志 。 後人特以不立袁進士傳少之 。 當時去 祐未 遠 、 或有所忌避而不書 。 至 如 謝趙二人 、 以官高例得立傳 、 且亦未掩其仕 。 二姓之迹 、 揆之史法 、 本無可議 。 必以曲筆詆 之、亦已甚矣。 ︵ ﹃ !縣志﹄舊志源流︶ といい、袁桷が書法を備えていることを評價し、全祖望の勇み足を批 判している 。 因みに分修の王厚孫は 、 全祖望が絶贊す る﹃至正續志﹄ ︵ ﹃ 3埼亭集﹄外編巻三五﹁至正四明續志跋﹂ ︶にもか かわっており 、 ﹃ 延祐志 ﹄ の書法と矛盾する立場を採っ たとは考え難い。  倉修良﹁袁桷和︽延祐四明志︾ ﹂ ︵ ﹃方志學通論﹄齊魯書社、一九九〇年︶を參照。  危素﹁ !江送別圖序﹂ ︵ ﹃ 説學齋稿﹄巻三︶には、 至正四年、素奉使購求故翰林侍講學士袁文 公所藏書於 !。 とあり、至正四年、史料購求の目的で危素が袁家を訪問したことが知られる。  錢大 ,は ﹃ 延祐志 ﹄ からの採録には觸れず 、 ﹃ 至正續志 ﹄ から四人を擧げているが 、 その一人 、 王 文 貫 は ﹃ 宋 史 ﹄ に見えな いので誤認とすべきであろう。なお︵ ︶内は收録 されている現行 ﹃ 宋 史 ﹄ の巻數を示す 。 ただし孫 6と 沈 起、陳 禾、王 庭 秀の四傳は部分的採録であり、 ﹃延祐志﹄の楊慶と童八娘の二傳は﹃寶慶志﹄からの傳承に潤色を加えたものである。 ││文学部教授││ 袁桷と﹃延祐四明志﹄ 一七

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