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学際的
(
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、
文化超越 的 (
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)
研 究共 同体 の
基礎 としてのロナガ ンの認識理論
(
1)
哲学史に見 る 「
認識」 に関する三つの問い
田 村
亮
子
Lonergan's Cognitional Theory as the Foundation
of the Interdisciplinary and Transcultural Collaboration
(1)Three Philosophical Questions on 'Human Understanding'
Ryoko Tamura
HowcanBernard
J
.
F.Lonergan'SCognitionalTheorybethefoundationfortheremedyof theunauthenticdimensionsofvariousculturaldevelopmentsand thatwhich makesthe interdisciplinaryandtransculturalcollaborationpossible?Asapartoftheinquiryonthis question,thisstudytriestoreviewthethreelevelsofdevelopmentofthephilosophicalinquiry concerningthenatureofhumanknowingandtounderstandtheschemeofrecurrenceofthe cognitionaloperationsaccordingtoLonergan'stheory.< 目次 >
は じめに
Ⅰ.精神 を取 り扱 う研究の難 しさの原因は どこにあるのか 1
.
「異常」 に対する患者 と医者 との理解の違いる医学 と精神 に関する医学の対象 とするデータの性 質の違い
3.
精神の 「正常」 と 「異常」の識別基準の問題4.
認識機能の 「異常」:個人の レベル と文化の レベル5.「理 解 す る `understanding'」 とい う行 為 と 「理 解 を理 解 す る `understandingof understanding'」 とい う行為の区別 Ⅲ.認識 に関す る理解の歴 史 1.認識 に関す る第一の問い 「認識 は何 を認識するのか
」:
「存在論」の脇役か らか ら哲学の表舞台へ- プラ トンか らデカル ト-2.認識 に関す る第二の問い 〔Epistemology〕
「なぜ、認識が可能なのか」:
「演緯」か ら 「帰納」-- ロックか らカント-(i
)イギ リス経験論 (ii)必然的知識か ら蓋然的知識へ (iii)カン ト:認識は `apriori'な 「直観」 3.認識 に関す る第三の問い 〔cognitionalTheory〕
「認識 とは どの ような行為 によって 成 り立 っているか」:
実証可能 な文化超越的 (transcultural)基礎理論 として- ロナガンの認識理論 (i)認識行為の構造 (ii)「認識者の自己同化 (selfappropriationoftheknower
)
」
(iii)「認識者」か ら 「行為者」へ :おわ りには じめ に
本論 を書 くきっかけ となったのは筆者 の 「哲学」 1、「心理学」そ して 「精神 医学」の 相互関連についての興味である。 これ ら三分野 は人間の精神 をその研究対象の主な もの とし、それぞれが独 自の分野 において様 々な研究の発達があるにもかかわ らず、分野相 1 哲学の中の主 に 「認識論」である。 さらにこの三分野 に 「神学」が加 えられるはずであるが、今 回は割愛する。田村 :学際的(hterdlSCiplinary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 49 互間の学際的な研究の基礎、つ ま り、「これ らの分野 は、研究の 目的、役割 などについて、 どの ように、何 を共通基盤 として関連 しうるのか」 とい う点が大変暖味である
。
「異常」 とみなされる精神状態の治療 をどの分野の研究者が担当す るか、あるいは、イニ シアテ イ ヴをとるか とい うことについて、16世紀 においては 「神学者」 と 「医学者」が抗争 を繰 り広げ、17世紀か ら18世紀 にかけては 「哲学」 と 「精神医学」がその役割 を争い、その 争いは18世紀後半 に形 を変 えて再 び起 こ り2、 とい うような歴史のい くつかの場面 を見 て も、 これ らの分野の 「近 くて」、「遠い」相互関係が浮 き彫 りになって くる。今 日、人 間の精神 に関わる諸問題 はこれ までのいつの時代 に比 して も複雑 さを増 している。それ らの問題 は、哲学、心理学、精神医学だけでな く、様 々な分野の学問や、抽象的思考 と 現実観察、理論的研究 と臨床研究、学問 と日常生活 など、近代 になって、それぞれが独 立 す る プロセス において作 り上 げて しまった高 い壁 を乗 り越 えて、学 際 的 に(inter -disciplinary)、分際的に(inter-departmentally)協力す る必要 を示 している。 しか し、それを可能 とする条件のひとつ として、それぞれの分野、役割 を異 に している理解の営みが か なめ かなめ 共通の基盤 としうる要が必要 となる。その要 とは、様 々な分野がそれ との関係 を理解す ることによって、それを経由す ることによって、他 の分野 と建設的に関連 し得 る中枢点 である。その中枢点 を見出す試みのひとつ をBernardJ.F.Lonerganの理論 に探 ってい き たい。 その第一歩 として、本論 は、上記の興味か ら出発 し、なぜ、Znsl'ght3 (BernardJ.F. Lonerganの主著のひ とつであ り、人間の認識行為の構造 についての理解 を伝 えようとす る もの)の ような研究が必要 となるのか、精神 を取 り扱 う研究が抱 える問題の性質は ど の ようなものか、認識 に関する探求は どの ように発達 して きたのかをさぐり、その歴史 の上 に立 って、 ロナガンが 目指 したことは何であったのか についての考察 を試みる もの である。 2 中井久夫、『西欧精神医学背景史』
3 BernardJ.F.Lonergan,Znsl'ght:AStudyofJlumanLFnderstandl'ng,(DartonLongmanandTodd,
Ⅰ. 精 神 を取 り扱 う研 究 の 難 し さの 原 因 は ど こ にあ るの か 1
.
「異常」に対する患者 と医者 との理解の違い 認識論は哲学の一分野である。 この、「人間の認識行為 に関す る理論」は哲学 の分野 を 越 えて我々の 日常生活のあ り方 にどの ように密接 に結 びついて くるのだろうか。 ここで は、 まず、 日常生活の どの ような部分 において認識 についての理解が必要 になって くる かを考えてみたい。 ある朝、あなたが 胃に今 までに経験 したことのない強い痛み を感 じた と仮定 しよう。 あなたはどうす るだろうか。 これ までに経験 した もの とは異 なる痛みであるがゆえに対 処の方法がわか らないあなたが選ぶ行為の代表的なものは 「医者 に行 く」 とい う行為で あろう。 なぜ、何 を期待 して医者 に行 くのであろうか。 我 々が医者 に期待することは主 に二つである:(1)痛みの原因を理論的に理解、判断 で きる。 (2)痛みか らの解放の方法 を知 っている。 では、なぜ、医者 は痛みの理由を理解 し、判断で きるのであろうか。痛みの理由の理 解 と判断が可能 となるにはい くつかの前提が必要 となる。その前提の第- は 「身体の構 造 とその構造が 『正常 に』機能 している状態」 について 「理論的に」理解 していること である。身体機能の正常 な状態 を理解 しているとい う前提があっては じめて、正常でな い身体機能のデータに接 した とき、「異常」が発生 していること、また、その異常の発生 原因を理解す ることが可能 になる。 この点で、医学の知識 を持 たない一般患者 と医者 と の違いは何か と問 うならば、患者 は医者が持つ二つの前提条件 を持 ち合わせ ないがゆえ に、「異常」 を五感 において 「経験 す る」 4、あるいは、経験 の レベ ルか ら質問 を経 て「常識的理解(commonsenseunderstanding)」 5はす るが、その 「異常」の理 由を 「理論
的に」理解す ることが医者 よ りも難 しいことであると言 うことがで きるだろう。
人間を構成す る様 々の要素その ものに、あるいは、要素間に異常が起 こった場合、そ の異常 を 「異常」と識別 し、異常か らの回復の方法 を見出す には、基本前提 として、様々
4 統一体 としての意識の 「経験」の レベルを指す。詳細は Lonergan,前掲書。
5 「常識的理解」 と 「理論的理解」の区別 と役割の差については ,Lonergan,前掲書 ,`commonsense andItsSubject',`commonsenseasobject';LrnderstaDdl'ngandBelng,pp.315-320.
田村 :学際的(InterdlSClpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 51 な機能の機能独 自、機能間の正常 な状態 についての理論的理解が必要 とされる。 この意 味で、過去数百年 における医学の発達の歴史は、認識理論の観点か らすれば、個 々の病 人が提供す る身体機能のデー タにおける正常 と異常の識別 と、そのプロセスが必要 とし た身体機能の よ り詳 しい理論的理解、そ して、絶 えず新たに発見 される身体機能の理解 によって可能 となる異常の原因の追及の歴史であった と言 える。
2.五感のデータ(dataofsense)と意識のデータ(dataofconsciousness)6:身体 に関
する医学 と精神 に関する医学の対象 とするデータの性質の違い 人間 を構成す る要素の区分 の方法 は様 々あるが、その中で も、代表的な ものは人間 を 身体 と精神 に分 ける方法である7。 この区分 に従 って医学 を身体医学 と精神医学 に分類 し、それぞれの発展の度合いを比較 した場合、精神 を扱 う分野が精神医学 として身体医 学か ら独立 した もの として考 えられるようになったのはようや く19世紀 に入 ってか らで あ り8、前者 に比べ て後者 はい まだ多 くの未知の部分 を残 している。 これは どの ような 理由に基づ くのであろうか。二つの種類の医学の間の発達の差 を生 んだ理由の主 な もの として考 えられるのは、それぞれの医学の取 り扱 うデータの性質の違いである。 ここで、研 究対象 となるデー タとい うものの性 質上の区別、つ ま り、「五感のデー タ (dataofsense)」 と 「意識9のデータ(dataofconsciousness)」 の区別 を説明 してみ よう。 「五感のデー タ」 とは我 々の身体 に備 わっている五つの感覚器官 (視覚、聴覚、触覚、 味覚、喚覚)によって知覚 されるデータである。例 えば、けが を して出血 した場合、我 々 は視覚 によって 「血」を知覚す る。「意識のデー タ」 とは人間が 目覚めているときに、意 識 にのぼって くるデータである。例 えば、「痛み」は五感 を通 じて知覚 されるのではな く、 意識のデータにおいて経験 されるものである。 また、痛みは意識のない状態 (眠ってい る、気絶 している状態)では経験 されない。 身体医学の研究対称 となるデータは五感のデー タと意識のデー タの両方である。一方、 6 「五感のデータ」 と 「意識のデータ」 については、znsl'ght,pp.72-74,235-236,274,333-335. 7 人間を 「精神」 と 「肉体」 に分 けて考える二分法 については、中井久夫、前掲書。 8 中井久夫、前掲書、pp.1-2. 9 「意識」の定義 については、Lonergan,Znsl'ght,pp.72,235-236;小此木啓吾他、『精神医学ハ ン ド ブ ック』、p.108.
精神医学の取 り扱 うデータはそのほ とん どが意識 のデータである。 指 をナイフで切 って指か ら出血する。出血 は出血 した本人だけでな く、本人以外の人 間の視覚 を通 じて認識のプロセスを起 こすデータとなる。 もちろん、出血 した本人は視 覚 を通 じての出血 とい うデータだけでな く、「痛み」とい う意識 に現れるデー タも経験す る。 胃の中に異常が起 きた場合では、胃の中のデー タは本人の意識のデー タ (例 :「胃が 痛 む」 )として まず知覚 されるが、現代医学 においては、血液検査
、
Ⅹ線検査、CT
検 査、胃カメラなどの検査方法の発達 によって、本人以外の人間の五感で とらえ られるデー タとして取 り扱 われることがで きる。 このため、一個人の人間の身体 に起 こる異常 は、 本人が異常経験 を表明す る限 りにおいて、本人 自身のその異常 についての理解 を超 えて、 他者がその異常 データを検証することが可能 となる。 一方、精神医学の対象 は個 々人の意識のデータが主である。 もちろん、五感のデー タ に現れる部分 もある。例 えば、精神錯乱 を起 こ している人間の視線が定 まらない、言動 に異常が見 られる、様々の身体検査 に異常デー タ (例 :脳波 )があ らわれるなどである。 この ような場合 は、本人以外 の人間が五感 を通 じて経験で きるデータを通 じて、他者が その間題 に対処で きる可能性が生 まれる。 しか し、五感で捉 え得 るデー タに異常が現れ なかった り、他者が観察で きる部分で異常 とみなされ うる状態が現れない限 り、つ ま り、 精神 に起 こる異常が本人の意識のデー タにおいてのみ経験 される場合、異常 を起 こして いる本人が 自分 自身の異常 を検証することは大変困難 なことになる。 ここに、精神医学 の身体医学 にない困難 さがある。 身体で も精神で も、そこに異常が起 こる場合、その異常の原因の理解、対策 はすべて、 意識の経験の レベルで異常デー タを経験す る主体 (thesubject)がそのデータについて質 問 を発す ることか ら始 まる10。従 って、その主体が、 自身の異常 デー タを経験 して も、 その異常デー タについて質問 を発することがで きなければ、あるいは、他者が当の主体 の精神状態 を異常 と感知せず、「何かおか しい、どうしたのだろう」とい うような質問が 起 こらなければ、その異常 は異常のまま残 り、改善 されることのない まま悪化 してい く 可能性が高 まるのである。 10 人間認識のプロセスについては、本文pp.64-70に後述。田村 :学際的(Ⅰnterdisciplinary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 53 3
.
精神の 「正常」 と 「異常」の識別基準の問題 精神の異常の中には、精神医学や、臨床心理学の研究対象 となって きた もの と、対象 にな りに くい ものがあると考 えられる。対象 にな りやすい ものは、その機能の本来的性 質がすでにある程度理解 されているもの、あるいは、その異常が身体的要素 を伴い、他 者の五感で観察 しやすい ものである。 しか し、先 に述べた ように、異常 を異常 と認識で きるのは、あ くまで、ある程度明確 な正常の基準 についての認識が前提 としてあっての ことである。機能の性質 とその正常 な状態が どの ようなものであるか理解 されていなけ れば、何 らかのデータを取 ってそれが異常である と言 うことはで きない。 さらに、機能 の性質が十分理解 されていない状態で 「異常」をとらえようとす るなら、「異常」か 「正 常」かの境 目は前者 と後者の どちらが多数 を占めるかによって左右 され うるのである11。 た とえば、中世 において 「魔女狩 り」 とい う社会現象が起 こ り、少 な く見積 もって も 十万人、多 く見積 もれば百万人の、精神 に 「異常」 を観察 された人間が 「魔女」 とい う 罪 を着せ られで惨殺 された12。
「異常」 と考 え られ、魔女狩 りの対象 となった精神の状態 はこの間題が収束 してい く末期 に至 っては 「ほ とん どあ らゆる階層のあ らゆるタイプの 人間が」 13持つ症状 であることがわか り、単純 に 「異常」 と考 えることが困難 になって きた。 しか し、そ もそ も、魔女刈 りとい う社会現象が発生 し、数世紀 にわたって続いた 主 な原因は、時の政治的、社会的問題 に対す る民衆の不満の解消の手段 としてその矛先 が精神病 とみなされた人々に向かった事 にあると考 えられている14。 この例で参考 となるのは、数世紀 にわたって ヨーロ ッパ各地 に飛 び火 したこの間題が、 反対者が次々 と現れたにもかかわ らず、収束 に向か うまでに大変 な時間がかかった15ひ とつの理由が 「どの ような状態 を して精神 の異常 とみなすか」 とい う基準が大変暖味で あったことにあると考 えられる点である。その結果、 きわめて暖味 な基準 に基づいて一 旦 「異常」とみなされ、「魔女」の レッテルを貼 られた ら最後、貼 られた本人は もとよ り、 彼等の弁護者 もその レッテルを覆す ことは、 レッテルの内容が暖昧であるが ゆえに一層 11中井久夫、前掲書、pp.24-41. 12 中井久夫、前掲書、p.39. 13 中井久夫、前掲書、p.25. 14 中井久夫、前掲書、「魔女刈 りとい う現象」の項。 15 1490年 ころか ら始 ま り、 ヨーロ ッパでは18世紀後半、メキシコでは19世紀 まで続いた。中井久夫、 前掲書、p.24.困難 とな り、問題解決 までに莫大 な時間を要する結果 となったのである。 別の例 をあげてみ よう。精神の機能の中で、質問する機能 とい うものがある。 ひとつ の文化 において、質問す る能力が弱い、あるいは、機能障害 に陥っている人間が、質問 機能が正常な状態 にある人間 よ りも数が多ければ、正常 な状態が 「異常」であるとみな されることがあ りうるのである。実際、現代 の 日本の学校 において、質問機能が活発 な 子供が少数であ り、何 らかの原因によって、質問機能が減退 している子供が多数であっ た場合、前者が後者の特徴か ら外 れているとい う点で何 らかの 「異常」 とみなされて疎 外 される例は少 な くない。 これ らの例が示す ことの一つは、精神の機能の 「正常」 と 「異常」の基準 は暖味であ り、その結果、「正常」と 「異常」の判断が時代 と文化 によって左右 されて きた とい うこ とである。その典型例 として、現在 「精神分裂症」 とい う病名 を付 け られている精神の 症状 は
2
0
世紀 になってブロイラーがそれを定義す るまで、時代 と文化 によっては必ず し も異常 とはみなされてこなかったのである16。 4.認識機能の 「異常」:個人の レベル と文化 の レベル 精神の機能異常 は、精神医学、文化的時代 的制約 を受 けなが らも、精神医学、心理学 な どの分野で研究が進んで きたが、精神の様 々な機能異常の中で も、特 に研究が遅れが ちであった分野がある。それは、 これ までに 「知性」 とか 「理性」 とい う名称で区分 さ れて きた認識 を司る精神機能である。
「認識機能」の異常 は (1)機能の性質が明 らかに されてこなかった、 (2
)異常 を起 こして も社会生活 に短期的に目だった異常 を感知 し、 又、させ に くい とい う点で、「異常」 と 「正常」の差 についての理解が、いまだに最 も遅 れている部分のひとつ と考えられるのである。 認識機能は我 々の 日々の生活 において休 むことな く働 き続 け、認識機能の働 きの結果 として様 々な文化が生み出されている。 しか し、「知性が どの ような構造 を持 っているの か」、「その機能の本来的な動 きはどの ような ものか」 について個 々人が理解 していると いない とでは、そ こに異常が発生 した際、その問題への対応 に大 きな差 を生 むことにな るであろう。 16 中井久夫、前掲書、p.24;小此木啓吾 「精神医学の歴 史と現況」、『精神医学ハ ン ドブ ック』。田村 :学際的(ⅠnterdlSCIPllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 55 人間の認識機能は様 々な知識 を生み、それ らの知識 は伝達 され、解釈 され、積 み上げ られ、多 くの人間の知的行為の総合の産物 して様 々な文化 を形作 ってい く。 しか し、文 化 は個人の産物ではな く、複数の人間の関わる総合体であるか らこそ、 もし、その過程 に、何 らかの異常、つ ま り、本来的、建設的でない動 きが発生 した場合、問題 は個人の レベルで起 こる問題 とは比較 にならない深刻 さを帯 びるのである。 先 に触れた魔女刈 りを歴史的 に傭撤 してみる と、魔女刈 りはその問題 の根幹が 「個人」 の レベルの問題 とい うよ りも、彼 らを取 り巻 く側の問題であったことがわかって くる。 つ ま り、魔女刈 りの歴史は、「魔女」 とみなされた人々が抱 えていた 「個人的」異常 だけ でな く、彼 らを 「刈 った」側 にこそ、「社会的、政治的、さらに文化的」異常があった と い うこと、そ して、後者の問題のほうが、はるかに重大であ った とい うことを現代 の我 々 に訴 えるのである。 現代 においては、 この ような問題は複雑性 を増 している。それ らの問題 を解決 し、歴 史を建設的な方向へ進める為 には、個人の レベルに起 こる異常 だけでな く、文化、時代 とい う知的行為の産物の複合体 に起 こる異常 に分析 のメスを入れ回復へ導 く 「文化超越 的 (transcultural)」基礎が必要 となるだろう。 ロナガ ンの認識理論 は、先 に述べ た、これ ら の 問 題 を取 り扱 う学 際 研 究 の 基 盤 と して、 ま た、 こ こ で 言 う 「文 化 超 越 的 (transcultural)」共同研究の基礎 とな りうるのではないだろ うか。
5.「理解 す る `understanding'」 とい う行為 と 「理解 を理解 す る `Understandingof understanding'」 とい う行為の区別 ロナガンの認識理論 を理解す るための第一ステ ップ として、 ここで
、「
『理解す る』 と い う行為の性質 について 『理解する』
」とはどの ようなことか、類似例 を使 って説明 して み よう。 我 々は手 を使 って様 々な作業 を行 っている。手 を動かす ことは、手の筋肉、血液、神 経 など、様々な要素が相互 に機能 しあって可能 となるが、手 を動かす為 にぞれぞれの要 素の関連機能の仕組み を理解 している必要 はない。乳幼児 は生後誰 に教 わ らな くて も手 を動かす ことがで きる し、 ピアノを弾けるようになるために 「手の筋肉 と神経の相互機 能 について」 とい うよう理論書 を紐解 く必要 はない。 しか し、一旦、手 に異常 (た とえ ば、関節炎)が発生す ると、我 々は、手 を使 うことがで きて も、手が動 く仕組み を知 らない こと、仕組 み を知 らないため に、 どう した らその異常 を解決す ることがで きるのか わか らない とい う現実 に直面す るのである。言い換 えれば、異常が発生す るこ とによっ て、手 を 「使 える」 ことと、手が動 く 「仕組み を知 る」 こととは別問題である とい うこ とに気づ く。そ して、その仕組 み を知 り、それゆえに、異常 の発生原因 を理解す ること がで き、その異常 を正常 な状態 に戻すすべ を知 っていることを期待 して、医者 の診察 を 求めるのである。 もちろん、我 々が手 を使 えるだけで、手の働 きについて まった く何 も理解 していない とは言 えない。各指 は三つの関節 を持つ何本 かの骨で成 り立 ってお り、最大約1800程度 の角度 まで曲げることがで きる。成人 に達 して も爪 は伸 びるが指の骨 は伸 びない、な ど 様 々な常識の レベルでの理解 を持 っている。しか し、上述 した ように、これ らの理解 は「常 識 的理 解 `commonsenseunderstanding'」 と呼 ばれ る種 類 の もので あ り、「理 論 的理 解 `theoretical(orexplanatory)understanding'」 とは区別 され るべ きものであ る。 同 じよう に、我 々は 日常知性 を使 って様 々な物事 を理解 している。 しか し、認識機能 を実際 に働 かせ る時 に、働 かせ ている認識機能の仕組みや性質 について、あ る程度の 「常識的理解」 は持 っていて も、必ず しも、認識機 能が動 く為 に必要 な全 ての機 能 の相互 間の関係 を 「理論的 に」理解 しているわけではない。 では、「理解」の 「理論的理解」はいつ、誰 によってな されて きた ものなのであろ うか。 この問いについて哲学史の 「認識論」 の発達の歴 史を遡 る と、今 日まで に認識 に関す る 問いは大 きく三つの段 階 を経 て発展 して きた ことが わかる。
Ⅱ .
認 識 に 関 す る理 解 の 歴 史17 1.認識 に関す る第-の問い 「認識 は何 を認識 するの か」:
「存在論」の脇役 か らか ら哲学の表舞台へ- プラ トンか らデカル トへ 知性 の働 きその もの を探求の対象の一部 として表 した最初 はプラ トンであ る。それ ま 17 紙面数の制限のため、歴史上、認識に関する理解を発展させた哲学、神学者のすべてを取り扱う ことはできない。ここでは、その中でも、はずすことのできない7人 (プラトン、アリス トテレス、 トマス、デカル ト、ロック、ヒュ-ム、カント)に限定 した。哲学史の主な参考文献、Frederick Copleston,AHl'StoTyOfPhl'losophy;IJeWisWhiteBeck,El'ghteentJrCenturyPhl'losophy.田村 :学際的(InterdlSClpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 57 での哲学の探求の対象は理解す る 「対象」 の性 質 についての理解であった。理解 とい う 行為 は 「存在物」のすべ てを理解 しようとす るのである とい う観点か ら、「存在 とは何 か
」
「存在する とはどの ようなことか」 とい う問いが生 まれ、その間に対す る理解 は 「存 在論」 として発展 していった。 しか し、プラ トンは、「存在論」 を超 えて、「どの ように して存在 を知 ることがで きる のか」 という問いを発 し始めた。 プラ トンによれば、存在の理解 とい う行為が成 り立つ 前提 として、「イデア」が現実の世界 に依存せず に独立 して存在 し、存在 の理解 は 「魂 が」 この世 に生存 し始める以前 に参与 していた 「イデア」 を思い出す(anamnesis)行為 である18。 ア リス トテ レスは、「イデア」が この世界か ら分離 して存在す るとい うプラ トンの説の 問題点 を、全ての存在 を成 り立た しめる四つの原因 (aiteion)[形相因、質量 因、始動因、 目的因 ]と十の範晴 (categogia)、 さらに、可能態 と現実態 とい う概念 を導入す ることに よって補 った19。 アリス トテ レスの存在 の説明 に基づ けば、知 る行為、す なわち認識行 為 とは 「存在物の四つの原因 と十の範噂 と可能態 と現実態 を分析す る」 ことであった。 「霊魂論 (DeAnima)」 においてア リス トテ レスは魂の性質について次の ように説明 し ている。 ア リス トテ レスは認識行為の中に、四種類 の 「質問」が存在す ることを見出 した20。 質 問 を通 じて、魂 は存在物 を感覚 能力 を通 じて存在物 の質料 を含 まない感覚 的形相(quidditas)21をとらえる。 また、可能態 と現実態 の区別か らすれば、感覚 的形相 の中に 純粋 な形相 をとらえた とき、は じめて、一瞬 に して人間の知性 は可能態か ら現実態 にな
るのである。
古代 ギ リシャ哲学 はアリス トテ レス以後、ヘ レニズム、ローマ文化の衰退 に伴 って、 ア リス トテ レスほ どの体系的理解 を持 たぬ まま22、中性 の混乱 の中に流 れ を吸収 されて い くが、認識 に関 してア リス トテ レス までの伝統 を再発見、発展 させ たのはキ リス ト教
18 Plato,Meno80d-86C;Lonergan,Lhde_rstandl'ngandBel'ng,P.21.
19 四つの原因 と十の範晴の体系的説明はアリス トテ レス 『形而上学』参照。
20 (1)what? Whatisit? (2)Isit?(3)whyisitso?(4)Isitso? Lonergan,Lhderstandlng andBelng,P.26.
21 Aristotle,Posterl'OrAnalytl'cs,II,2:LonerganVez・bum,,WordandIdeainAqulnaS,Pp.12 -16.
の修道院文化の中心 となった トマス ・アクイナスである。 トマスはアラブ文化 を通 じて再発見 されたア リス トテ レスの哲学体系 を神学の分野 に 融合 して新 しい体系 を築いた。知性 についての研究 は トマスの体系の中の大 きな一分野 を占めている23。 ロナガ ンはア リス トテ レス と トマスの認識 に関す る探求の中に彼の認 識理論の基礎 になる 「イメージ」 と 「質問」、そ して 「ひらめ き」の関係 についての ヒン トを得 ている24。 トマス以降、哲学全体はス コラ哲学の退廃 の中に埋 もれてい くが、認識論が再び思索 の対象 となって くるのはデカル トに至 ってか らである。 ここで、ひ とまず、デカル トの認識論 と トマス以前の哲学者の認識論の違 いのひとつ について述べ る必要があるだろう。 トマス までの哲学 において認識の問題 は存在全てに 関す る体系的理解の一部 として とらえられて きたが、デカル トの哲学 において人間の意 級 (consciousness)とその行為 は、全ての存在 に関する理解の第一前提 として とらえ られ るようになった25。デカル トは 『方法序説』の中で 「私は考える。ゆえに私 は存在する。」
とい う命題が、人間が 自己の意識のデー タにおいて体験 (consciousexperience)し、意識 の理性 の レベルにおいて実証する (rational,consciousjudgement)ことので きる第-原理 であることを示 し、新たに哲学の基礎 、第-原理 となるべ きものは人間の意識の探求で ある と主張 した。 しか し、デカル トの 「人間の意識 (rescogitans)」の探求はそれに相対 す る 「物体 (resextensa)」 との実在の認識基準 (探求の対象が実在 している可否か を認 識す る基準)の二元論26を産み、その結果 として、デカル ト以後20世紀 に至 るまで、哲
学 の前提 の中に 「主体 と主体の捕 らえる客体 の間の分裂 (subject-objectdichotomy)」 と
22 ヘ レニズム文化か ら、ローマ文化への変遷期 の哲学 としては、エ ピクロス派 とス トア派があげ ら れるが、これ らの哲学の中に認識論の観点か らは取 り扱 うに足る主な項 目は見当た らない。
23 ThomasAquinas,SummaTheologlae,'SummaContraGentl]es.
24 Lonergan,前掲書。 ここでは、認識 に関する哲学 の流れを追 うことを優先 させ る為 に、この点 に関 しての詳 しい説明 を割愛する。
25 ReneDescartes,DiscourseOnMetJ70d.
26デカル トにおいて二種類の実在基準が現れるに至 った主な原因は彼 の 「物体」の認識基準が 「五 感のデータの経験の レベル」 に留 まって しまったためである。 この部分 についての詳細 は拙論 「ブ ル トマ ンの非神話化理論の弱点の原因について- 解釈学、認識理論、自然化学 を総合 した観点か ら- その二」、r日本カ トリック神学会誌 第3号 1992』pp.1741176。
田村 :学際的(InterdlSClpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 59 して残 ることとなった。 プラ トンか らア リス トテ レス、 トマス、デカル トまでの探求の対象 はまず 「存在の成 り立 ち」全般であ り、認識 に関す る問いは 「認識行為 によって我 々は何 を認識す るのか」 とい う問いであって、あ くまで、存在全般の一部 としての認識の性質 についてである。 これは、認識 とい う行為 は 「何 を」捉 えることによって 「対象」 を認識す るか を問 うも のであ り、 この問いに対する答 えはプラ トンにとっては 「イデア」であ り、 アリス トテ レスにとっては「形相 と属性」であ り、トマスは普遍的な「理解可能檀 (intelligiblespecies)」、 そ して、デカル トは 「観念 (objectiveidea)」 である。 しか し、デカル トの特徴 をあげる ならば、デカル トは 「存在」 と 「それを認識す る主体」の関係 を考 える際 に、後者 を最 も確 かな実在 ととらえることによって、認識行為 についての思索 を哲学 の前面 に押 し出 したことであると言 うことがで きる。言い換 えれば、デカル ト以前の哲学が認識の 「対 象」 にその探求の主 な的を絞 っていたのに対 して、デカル トによって、探求の対象の中 心が 「認識行為 を行 う人間の精神 その もの」、つ ま り、「意識のデー タ」 に移 って きた と 言 うことがで きるだろう。そ して、認識論の観点か らすれば、`TurntotheSubject'27と 呼 ばれるこの探求対象の転換 こそが近代 をそれ以前の時代 と区分する きっかけ となった のである。 しか し、哲学の第一原理 を存在の成 り立 ちにではな く、人間の精神 に置いたことによっ てデカル トは新 しい哲学のページを開いたのではあるが、別の観点か ら考 えるとデ カル トはい まだア リス トテ レス以来の探求の特徴 を抜 けていない。それは、「認識」の働 きを 演樺 的にのみ考 えている点である。演樺的思考 は、真理であることが明瞭 な第一原理か ら一定の法則 に基づいて、様々な他の理解 を引 き出 してい くものである。 ア リス トテ レスにとって第一原理は四つの原因 と十の範噂であった。 この場合、第一 原理 は (認識者 を含めた )存在の成 り立 ちである。 これに対 して、デカル トは全 ての演 樺的思考 にとって最 も確 かな出発点は 「思考す る主体」であるとした。 しか し、第一原 理の存在が前提 とされて、そ こか ら他の理解 を演緯す るとい う思考方法 その もの につい ての質問 を発 したわけではない。その質問は次の世代 に明 らかにされて くる。
2
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認識に関する第二の問い【
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「なぜ、認識が可能なのか」:
「演鐸」 から 「帰納」へ- ロックからカン トへ 認識 に関す る第二の間はデカル ト以降、デカル トの残 した実在の基準 の二元論の矛盾 の克服 にい どむ過程で現れて きた ものである。デカル トの残 した二元論の矛盾の第-は、 人間の意識 と物体の間に合い入れない壁があるのならば、それ らが どの ように して相互 に結 びつ き、関係 しうるのか とい う問題 として現れて きた。デカル ト自身29を含め、ス ピノザ、 ライプニ ッツ30らが この間題の克服 に取 り組 んだが31、成功 には至 らなかった。 しか し、 ロック、 ヒュ-ム (イギ リス経験論 )にこの間題の克服が引 き継がれる過程 で、デカル トまでの哲学が 自明 として きた前提 に光があて られることになった。認識 に 関す る第-の問いは 「認識行為 によって我 々は何 を認識するのか」であったが、この問 いは、人間が 「認識対象 を認識することが可能である」 とい う前提 に立 っていた。 ロッ ク、 ヒュ-ムはこの前提 について問い、その問いかけは認識 に関す る第二の間 を生 むこ ととなった。 認識 に関する第二の問いは、「そ もそ も、なぜ、認識が可能なのか」
「どの ように して 対象 を認識で きるのか」
「どの ように して、認識は正 しい もの と認め られるのか」とい う ものだが、 これ らの問いはそれ まで当然視 されて きた哲学の前提以前 に 「もうひとつの 前提」があることを示 したのである。 デカル トまでの哲学の特徴 とロックの特徴 を比較 してみ よう。デカル ト以前の哲学 に おいて、存在 についての普遍的真理 (少 な くとも第一原理 )の認識 は生得的な万人共通 の ものであ り、彼等の哲学 は、それぞれ万人 に自明の原理 を出発点 として、そこか ら演 緯的に導 き出 される体系的理解であった。 ロ ックは、 この演樺的思考傾向 に対 して、 自28 日本語の用語 において、「認識論」 と 「認識理論」は混同されやすいが、「認識論 (epistemology)」 は第二の問いを扱い、「認識理論 (cognltlOnaltheory)」 とは認識 に関する第三の問い (後述)を扱 う。区別が必要である。
29 デカル ト 『情念論』
30 ス ピノザが全ての存在 をひとつの存在 「神」に結 び付 けて説明 しようとしたの とは逆 に、ライプニ ッ ツ は 存 在 が 無 数 の 実 態 か ら な っ て い る と 考 え た。GottfriedWilhelmLeibniz,The
Monadology(1720);NewEssaysConcem l'ngHumanUnderstandl'ng(1704).
31 『エチカ』 においてス ピノザはデカル トの二元論 を一元化 し、神が人間の精神 を含めた自然界の存 在物の全ての根拠であ り、存在物全ての属性 は神の属性 と同 じであると説明 し、 自然主義的な汎神 論 を導 くこととなった。
田村 :学際的(Interdisclpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 61 明の理 と考 え られて きた ものは果た して万人に自明であろうかを問 うた。つ ま り、それ までの哲学が思考 を出発 させた第-原理 の妥当性 を問 うたのである。 (i)イギ リス経験論 ロ ックによれば、人間の精神 は生 まれた時点では 「白紙(tabularasa)」である。認識 は人間の精神 に内在するのではな く、個 々人の感覚経験か ら始 ま り、感覚経験 と内省 に よって蓄積 されてい く。認識が対象 とす るのは対象その ものではな く、人間の意識経験 に映 る対象である。 さらに、個 々人の意識 に映る対象はそれぞれ異 なっている。従 って、 認識が対象その ものか らではな く、意識経験 に映 った姿か らのみ生 じる ものであ り、経 験が個々人それぞれに異 なっている以上、万人が生 まれつ き普遍的真理 を身につけてい るとい うことはあ りえない。確かに人間は普遍的真理 を把握する能力 は持 っているが、 それ らの能力 は万人において実現 しうる とは限 らない32。 この主張はそれ までの哲学の方法の基本 を揺 らがせ ることとなった。 なぜ なら、 これ までの哲学 は第一原理 と考 えられる真理 は万人が共通 して持 っている もの とい う前提 に 立 っていたか らである。 この共通地盤が くずれることになればそれ までの積 み重ね られ て きた理解の全 てが灰燈 に帰す危険にさらされるのである。従 って、 ロ ックの主張 は彼 自身 を含めて 「では、個 々人によって異 なった経験 を超 えて客観的な知識 を獲得す るこ とは不可能なのか」 とい う問いに探求 を向かわせ ることとなった33。 デカル トは哲学の探求対象 としての認識行為 を探求の表舞台 に引 き出 し、認識行為の 存在の確実性 について述べ は したが、「認識行為がなぜ可能 なのか」とい う問いにまでは 踏み込 まなかった。その質問領域 に足 を踏み入れたのが ロックとヒュ-ムである。
32 JohnLocke,EssayConcem l'ngHumanunderstandl'ng(1690).
33 この問いの性質について考えてみると、認識 に関す る問いが、認識行為だけでな く、「客観性 とは 何 か」 とい う客観性 の根拠 に関する問い と 「実在 とは何 か」 とい う実在の基準 に関する問い を内包 してお り、「認識 とは何か」、「客観性の根拠 は何 か」、「実在の基準 は何か」 とい う問いは 「認識 とは 何 か」 とい う問いに対す る答 えによって変 わって くる ことがわかるaLonergan,Insl'ght,pp.375 -384。ロックはこの問いに答えて、物体の側 にある 「一次性質」 と精神の持つ 「単純概念」が対応す ることによって可能 となる、 と説明するのだが、 これはさらに、「一次性質」 と 「単純概念」が対応 する とはどのようなことか とい う問いに発展す るのである。
(ii)必然 的知識 か ら蓋然 的知識へ 認識能力 に関す る問い をロ ックか ら引 き継 いだのは ヒュ-ム34であるが、 ヒュ-ムに よって認識 に関す る問題 は さ らに新 しい転 換 を迎 える こ と となった。そ れ は、「科学 (science)」の定義の問題である35。 ア リス トテ レス以来の 「科学」の定義 は 「物 の成 り立 ち関す る必然的な知識」であ った。 ヒュ-ムはこの 「必然」 に問い を投 げかけたのであ る。 デカル トまでの 「演樺 的」思考か らすれば第一原理が確 固たる確 か さを維持 してい る限 り、その他 の存在物 の成 り立 ちに関す る理解 は必然的 に導 き出 されて くる と考 え ら れ る。 これに対 して、 ロ ック とヒュ-ムは人間の認識の可能性が、個 々人の異 なった経 験 を通 じて生 じる ものであ り、必然的 な ものではな く 「蓋然 的」 な ものであ る と主張 し たのである。 しか し、 ヒュ-ムが認識が蓋然 的である と主張 した ことは、認識 を否定す ることでは な く、む しろ、必然的知識 に限っていた哲学 の探求の方法の領域 を蓋然的知識 を含 む も のへ と広 げることとなった。つ ま り、認識が意識の経験 か ら始 まる とい うロ ックの指摘 は、思考 の出発が抽 象 の世 界で はな く具体 的現実 の世界 にあ る こ とを明 らか に した。 ヒュ-ムはさらに、具体的デー タか ら出発 して、仮説 を立 て、その仮説 を具体 的デー タ において蓋然 的正 しさを実証 (verify)す る帰納的思考 を必然 的知識 よ り現実 に即 した思 考 と して紹介 したのである。 帰納的思考方法 に基づ く探求 はすで にガ リレオによって実現 され、「科学」はそれ まで の演樺 的抽象思考の世界か ら独立 して、現実 のデー タについて質問 を発 し、デー タに戻 っ て実証す る帰納的探求の領域 となった。そ して、 この新 しい 「科学」 の定義 をヒュ-ム の理論 は裏付 けることとなったのである。 (iii) カン ト :認識 は `apriori'な「直観」 デ カル トに始 まった認識 の可能性 についての問い (認識 に関す る第二 の問い )の探求 の結 果、 ロ ック とヒュ-ムの イギ リス経験 論 に よって認識 の確 実性 が疑 われ るこ とに
34 DavldHume,Enqul'ryConcez・nl'ngHumanUnderstandl'ng(1748).
35 この点 につ い ての詳細 は拙 論 "why`ⅠnteriorltyAnalysis'and`Method'?:AStudyofBernard ∫.F.Lonergan'S Methodological Reflections on Christology Today",Doctoral Dissertation
田村 :学際的(InterdlSClpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 63 よって、それ までの哲学 を含む人間文化全般が保持 して きた何 らかの絶対的存在 (哲学 では第一原理、始動 困、キ リス ト教では神、等) に批判の 目がむけ られることとなった。 それに対 して、カン トは認識 の可能性 についての探求 を進めると同時 に、確実性 が揺 らいで きた絶対的な存在 を新たな領域 に見出そ うとした。それが人間の精神 に先天的 に (apriori)存在する 「純粋概念(pureconcept)」である。 ヒュ-ムは意識経験が個別的であるがゆえに、物の成 り立 ちの一般的性質は理解で き ない と考 えた。 カン トはヒュ-ムを引 き継いで、認識が 「現象 (意識経験)」か ら始 まる こと、意識経験 は個 々人 によって異なることを出発点 とした。 しか し、 ヒュ-ム と異 な り、認識の始 ま りである個々人の現象は個別の ものであるが、我 々の知性 はその個別の 現象 に依存 しないで、物事の成 り立ちの一般的法則 を理解で きる と考 えた。 イギ リス経 験論 によれば、一切の認識が蓋然的な ものであるか ら、数学的知識 (例 えば、 1+
1-2
)も蓋然的な ものにな らざるをえない。 しか し、カン トは、認識 は個別の意識のデー タか ら出発するが、それ とは別 に、経験 の個別性 に左右 されない、独立性 を保 った先天 的な(apriori)必然的、普遍的 「純粋概念」が存在 し、数学的認識はその認識の例である と説明 した36。では、なぜ普遍的 「純粋」知識 を得 ることがで きるのか、 とい う問い に 対す る答 えは、次の ようになる。つ ま り、普遍的法則が精神の外 に存在 していて、それ を人間の精神が捉 えるのではな く、人間の精神がその法則 を自己の精神の中に作 りだ し、 それ を自然界に投影 させ るのである37。 プラ トンは人間の認識が起 こる以前 にイデアが存在す ると考 えたが、カン トよれば、 人間の精神の 「外」ではな く、精神の 「中」に、必然的で (necessary)、普遍的な (universal 純粋概念(pureconcept)が先天的に存在 しているのである。 さらに、 カン トにとって、 「理解」 と 「判断」 は同 じであ り、「理解」 は 「直観」である38。そ して、意識経験 はイ メージを起 こすが、イメージを通 じて理解が起 こるとい う意味では、イメージと直観 の 結びつ きはない。 なぜ な ら、理解 は起 こるのではな く、すでに、我 々の精神の中に内在 するか らである。36 Lonergan,Understandl'ngandBelng, "TheAPrioriandObJeCtivlty"の項。 37 Kant,前掲書、B166.
3. 認識 に関する第三の問い 〔cognitionalTheory
〕
「認識 とはどのよ うな行為 によって 成 り立 っているか」:
実証可能な文化超越的 (transcultural)基礎理論 として- ロナガンの認識理論 プラ トンか らカン トまでの人間認識 に関す る探求の歴 史を大雑把 に見て きたが、 ここ までの流れをまとめてお こう。哲学がその探求 目的 として求めたことは (1)「全ての存 在物の成 り立 ちの根源」 についての理解、 (2)「個 々の存在物の成 り立 ちの相互関係」 の理解、(3)それを理解する 「人間の認識 と存在物の関係」の理解、そ して、(4)「認 識以外 の様々な行為 と、認識行為 と、存在物 との関係」 に関す る理解であった と考え ら れるだろう。 これ らの問題 は、時代 によって探求の対象 としての光の当て られ方 に差は ある として も、それぞれの哲学理論の中で相互 に関連 して取 り扱 われて きた。その流れ の中で、認識 に関す る問いは大 きく二段階 を経 て発展 して きた。第一段 階は 「認識行為 は何 を認識す るのか」 とい う質問に対す る答えの探求。第二段階は第一段階の前提 とし て 「なぜ 、認識が可能 になるのか」 とい う問いに対する探求であった。 しか し、認識 に 関す る第二段階の探求が進 んだ結果 として、第二段階の問いの前提 として問われなけれ ばならない第三段階の問いがあることが明 らかになって きたのである。 認識 に関する第三段階の問い とは 「認識 とはそ もそ もどの ような行為で成 り立ってい るか」という問いである。第一段階は もとより、第二段 階の問い も、「どの ような行為 を して認識 とい うのか」とい う点 については暖味であ り、部分的にそれを捉 えることがあっ て も、個々人の意識のデー タの レベルでその仮説の正 しさを実証することが困難なもの であった。 ロナガンはこの第三の問いに、実証可能な方法で答 えようとしたのである。 (i)認識行為の構造 ロナガンの認識理論 によれば、認識行為 (cognitionaloperations)は二種類の質問39を軸 として、それ らの質問 によって相互 に関連 して構造づ け られる一連の意識行為 によって 成 り立 っている。 ここで、 `cognitionaloperations'とoperationが複数 になっていること か らわかるように、認識行為 はひとつの行為ではな く、い くつ もの行為が質問 とい う中 心機能 を軸 とし、意識 を経験の レベルか ら理性 の レベルにた どることによって知識 を生 39 Lonergan,Insight,pp.318.田村 :学際的(InterdlSClplinary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 65 むプロセスである。二種類の質問の第-は五感のデータと意識のデータの中にどの よう な理解可能な関係40があるか を問 う質問であ り、第二 は第一 に問いに対 して得 られた答 えが正 しいか どうか を問 うものである。 この二種類の質問 を軸 に展開す る一連の行為 は 認識の 「循環体系 (schemeofrecurrence)」 とな り、その循環体系 を繰 り返す ことによっ て、人間は知識 を蓄積 してい く。 一連の認識行為 は次の ような順序だった行為で成 り立 っている (図1参照)。 (0) まず、認識者 の意識が何 らかのデー タ (五感のデー タ、あるいは、意識 のデー タ) を受け取 ることか ら始 まる(tobecomeawareofcertaindata)。 (1) 受け取 ったデー タについて、そのデータが何であるか、そのデー タを構成 してい る部分がそれぞれ どの ような関係で結 び付 け られてい るか を問 う質問 を起 こす (toaskaquestionseekingtheintelligibilityofthedata)0
(2)(1)の問いに答 えを得 る為 に必要 なイメージを起 こす (togatherimagesnecessary forthehappeningofdirectinsight)。 ひらめ きを求める(tothink)。
(3)イメージを貫いて直接のひらめ きを得 る (togetadirectinsightthroughimages)。ひ らめ きによってデー タの中 に理解可能性 を把握す る (tograsptheintelligibilityin thedata)。
(4
) 把 握 した理 解 可 能性 を仮 説 と して概 念 化 す る (toconceptualizewhathasbeen understoodthroughthedirectinsightashypotheses)。(5) 仮説が正 しいか、仮説通 りの実在が存在す るか どうか、つ ま り、仮説の理解可能 性が存在す る条件が事実上満た されているか どうか とい う反省の質問 をす る(to askreflectivequestionswhethertheconditionsfortheexistenceofthehypothesized intelligibilityarefulfilledasamatteroffact)。
(6) (5)の質問への答 えを得 る為 に、仮説 をデータに照 らし合 わせ て実証す る(to verifytheexistenceoftheintelligibilitybycheckingwiththedata)
。
(7) 間接のひらめ きを得 る(togetanindirectinsight)。
(8)間接のひらめ きの結果 を表現化する。実証が完了す る。仮説が正 しい、つ ま り、 仮説通 りの実在が存在す (あるいは、仮説が誤 っている。その実在 は存在 しない)
斤JL 行暮に伴う*毛 童義
-落
款
行
為
の
循
環
体
系
0 未 知 のデー タ に縫す る 縫義 の レベル 1 i 謡 震 音 ちについて?
r什 †」 r何故 †」 知性 の レベル 2 考 える (必要なイメージを起こすtothink) 質問に対する答えを得ようとする 3 賢覧 漂 慧禁 を- る㌫き
…「あっ ー (もしかして)」 4 柵ひらめきの内容をと して衰環化 (義 金化) す る ≒「書「たぷん.たぷん.‥.‥..‥だからだ ー」.だ Ⅰ」lTJ-タ
の
j
W
可
曹任せ)j動■ナ& = t○U7VDERS7ANp5 蒜 蒜 等 (仮説'の正し古について
?
● 正しいのだろうか ?」「「手当にそうだろうか 7」それ (その答え)で 理 性 の レベル 6 考 える ひらめきの内容 (収説)の正しさを データに照らし合わせて確かめる (実証する toverlfy) 7 ひらめく (帖 紳 '㌫
き「
あっ Ⅰ」 8 ひらめきの椿巣を 「やっぱり正しい !」 衰gt化 す る lAiJ:rのjEJF(2「)間違いだ Ⅰ#
にもどる)」欝 ナ ■ = t○JW GB 事 実 の 知 義(xzIOWledgeofFACTS)
価値の知識
(KnowledgeofValue)
田村 :学際的(InterdlSClplinary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 67
る とい うこ とを判 断す る (tojudgethatthehypothesisiscorrect,thatcorresponding realityexists)。その結果 として、事実 を知 る (認識す る )(toknowafact)。 これ らの働 きを日常使 われている言葉で区別す るな らば、(1)か ら (4)までの行為 に よって 「理解」が起 こ り、 (5)か ら (8) までの行為 で事実 の 「判 断」が起 こる。 (o)か ら (8)までのひ とつのサ イクル、「循環体系」が完結す ることで、「知 る
」
「認 識す る」 とい う行為が成 り立つ。又、(1)か ら (8
)までの行為の結果得 られ る ものが 「知識」であ る。 (0)か ら (8) までの一連の行為 を理解す る と、 カン トの認識論 との違 いがわか っ て くる。違 いの中の大 きなひ とつは、先 に述べ た ように、 カ ン トに とっては認識 は経験 (0)か ら始 まるが、理解 はあ くまで精神 に `apriori'に内在 している 「直観(intuition)」
である。つ ま り、(0)の後 (1)か ら (7)までがスキ ップ されている。特 に、二種類 の質問の存在 とそれ らが果 たす役割、 イメージ とひ らめ きの関係 、そ して、全認識過程 の要 としての 「ひ らめ きとい う行為」 (3) (7)が見落 とされている。その結果、 カ ン トは意識 の経験 の レベ ル と知性 の レベ ルのつ なが りを見落 とし、「理解」 と 「判 断」 の まった く異 なった二つの レベ ルの働 きを混乱す るに至 ったのである41。 ロナガンが分析 した認識機能の仕組 み にはい くつかの特徴 がみ とめ られる。 ひ とつ は、 これ らの働 きが 自発的(spontaneous)であること、そ して、構造 だって (Structured)いる ことである。 自発的である とい うのは、 これ らの働 きが外 か らの働 きかけによって起 こ る動 きではな く、精神 その もの に内在 している力が作動す ることによって起 こる もので ある とい う意味である。構造 だっている とい うことは、(1)か ら (8
)までの働 きが ひ とつの行為 は次 の行為 の前提 とな り、後の行為 は前 の行為 を導 き上 げる(sublate)ことに よって順 を追 って進 む、つ ま り、順番が逆 になった り、 どれかの働 きをスキ ップ した り す ることが ない とい うことである。 次 の特徴 は、 これ らの働 きが ひ とつの意識 の中で起 こる行為 であ り、それぞれの行為 が前 に来 る行為 を前提 として積 み上げ られる関係で成 り立 っていることである。 ロナガ ン以前 の認識論 の特徴 のひ とつ は、いわゆる 「知覚」
「知性」
「理性」
「感情」 とい った働きが、それぞれ別個 の器官 (faculty)の働 きと考 え られが ちであ り42、それぞれの器官の 機能間の関連が どの ような ものか とい う点 に関 しての理解が暖味 であった ことである。 それは、例 えるな ら、人間の精神 には 「知覚
」
「知性」
「理性」
「感情」 とい うように、い くつかの箱の ような ものがあって、それぞれの箱 は独立 してお り、箱 か ら箱- どの よう に移動す るのか、それぞれの箱が どの ように関連す るのか については十分 な説明が得 ら れなか った。つ ま り、様 々な認識論 は上 に述べ た認識機能のい くつかの 「部分」 につい て注 目は した ものの、それ らの全体像 を把握 す るまで には至 らなか った43。 ロナ ガ ンは これ らの働 きが 「ひ とつの意識」 とい う同 じ土台の上で起 こる ものであ り、それぞれの 働 きの差 は異 なった意識の レベ ル (意識の 「経験」の レベ ル、「知性」の レベル、「理性」 の レベ ル) に起 こる相互補完的 な ものであることを兄 い出 したのである。これ らの働 きは精神全体 を貫 く 「超越す る志向性(transcendentalnotions)」によって司 られ、超越す る志 向性 は意識 において 「無制 限で、(何 もの に も )執着 しない、私心の ない知 りたい欲求 (theunrestricted,detachedanddisinteresteddesiretoknow)」として経験 され、意識 を経験 の レベ ルか ら、知性 の レベ ル、 さらに理性 の レベルに とそれぞれの働 きを押 し進める力 として働 く。超越す る志向性 に促 されて、人間は意識 のそれぞれの レ ベルの 目標 を 目指 して認識の各行為 を積 み重 ね、 ひ とつの レベ ルでの 目的 に達す ると、 次 の レベル- と超越 してい く44。そ して、認識 のひ とつの循環体系 が完了 した として も、 それは、次 なる質問 によってす ぐ新 たな認識の循環体系 が始 ま り、存在す る ものの全て の全て について、人間の認識力で理解 、判断可能 な部分 についての認識 に到達す ること をめ ざ して認識行為が続 くのであ る。 この動 きはひ とつの フ レームの 中で組 み合 わ された レール を玉 が転 が り落 ちるお も ちゃに例 えることがで きる (図2参照)。 フレームは意識全体、各 レールはそれぞれ、意
42 FacultyPsychologyについてはIJonergan,Methodl'nTheology,pp.340,343。FacultyPsychology
とLonerganの認識理論の違いについての比較 は文末図2を参照。
43 例 えば、イギ リス経験論 は (o)と (6)に注 目し、カン トは (0)には注 目したが、(1)か ら(8)
に至 る質問 とひ らめ きの働 きを説明 していない。
44 BernardJ.F.Lonergan,MethodlnTheology,p.104. 先 に述べ た手 の例 に戻 るな らば、Insl'ght は、手 (認識機能)の使い方がわか るだけで な く、なぜ 、手が動 くのか について理解す ることによっ て、手 に故障が起 きた ときに、故障であることを理解 し、 どうした らその故障 を直す ことがで きる のか について考 えることがで きるこ とを目指すのである。
田村 :学際的(ⅠnterdlSCiplinary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 69
●器官心理学(
Fac
ul
t
yPs
yc
hol
o
g
y)
●Lone
r
ga
n の認識理論
・認識のプロセスは 「玉が落 ちる箱 のお もちゃ」 に例 え られ る 舟全体 ≒ (意識)○
(データ) ・l 重 力 ≒ ( 超 越 的 志 向 性 )l
( ひとつの意識の (経験 の レベル) (知性 の レベル) (理性 の レベル) (知識-認識の産物) 意識の理性のレベルはさら に価値の認識へとつながっ て い く。 (詳細は次回)識の経験 の レベル、知性の レベル、理性の レベルであ り、その レールを転 げ落 ちる玉が 意識の流れである。玉はそれぞれの レールにおいて、その レールの最初か ら最後 を目指 して動 き、ひとつの レールの行程 を踏 んでか ら次の レールに落ち、行程の どこかの部分 をスキ ップした り、逆行することはない。 また、玉 は、重力 によって、 レールを転が り 落 ちてフレームの一番下の穴 に落 ちるのだが、 ここで 「重力」 に相当す るのが、知 りた い欲求 として経験 される 「超越す る志向性」 と例 えることがで きるだろう。
(ii)「認識者の 自己同化 (Selfappropriationoftheknowe
r
)
」
ロナガンの認識理論の最 も大 きな特徴 は、 この認識理論 を我 々個 々人が 自分の意識の デー タにおいて理解 し、その妥当性 を確 かめ、実証す ることを求めていることである。 ロナガンの認識理論 はあ くまで、理論、つ ま り、仮説である。その仮説が事実であるこ とを個 々人が確 かめず、仮説が仮説 にとどまる限 り、この理論が哲学の領域、あるいは、思 考の領域 を越 えて、歴史の成 り立 ちへの人間参加 のあ り方 に関す る基礎 とはな りがたい。 Znsl'ghtは、この意味で、我 々読者 に認識行為の 自己同化 を助 けるハ ン ドブ ックとして書 かれた ものなのである45。 ロナガ ンは 「自分 自身の意識のデー タにおいてこの認識行為 についての説明 を理解 し、確かめる」 ことを 「認識者の 自己同化」 とい う言葉で説明 し ている
。
「自己同化」 とは、簡単 に言 えば、何 らかの ものを 「自分の もの として消化す る」とで も言いかえることがで きよう。 または、認識者の自己同化が起 これば、「ロナガ ンによれば、人間の認識行為 はこの ような成 り立 ちを持 っている らしい」ではな く、Ii-_lt 里 意識 は室堅生 ロナガンが説明す る認識行為 を行 っている」 と言 うことがで きるとい う 意味である。 先 に、現代の問題 を考 えるとき、そ して、 これか らの世界 と歴史をいかに形作 るかに ついて考 えるとき、人類 はこれ まで細分化 して きた様 々な分野が どの ように して協力体 制 を取 れるか とい うことがその成否の鍵 となると述べた。 ロナガンが認識理論 を明 らか に し、その理論の個々人の意識 における理解 と実証へ と我 々をい ざなうのは、彼が、そ の協力体制 を可能 にす る為 には 「文化 と時代 を超 えた基礎 (transICulturalfoundation)」
を手 に入れることが重要であることを見ぬいたか らに他 ならない。 45 Lonergan,Znsl'ght,'preface'田村 :学際的(InterdlSClpllnary)、文化超越的(Transcultural)研究共同体の基礎としてのロナガンの認識理論 71 (iii)「認識者」か ら 「行為者」へ :おわ りに 上 に説明 した認識行為 について理解す ると、次の ような質問が起 こって くる。つ ま り、 「事実の認識 は何のためにあるのだろうか」 とい う問いである。認識の循環体系 を繰 り 返す ことによって、我 々は次々 と知識 を得 てい くが、超越する志向性 は、事実 を認識す る領域 を超 えて更 なる新 しい領域 に我 々の意識 を導かないのであろ うか。 ロナガンは、 超越す る志 向性 によって、我 々の意識 は事 実の認識 を超 えて、新 しい事実 を生 み出す 「行為」 について考 え、行為する領域へ と入 ってい くと説明す る。 上記 (1)か ら (