間 接 伝 達 論 的 論 理 学
第 2 部 ・ 注 釈 部 ( そ の 4 )
清
水 茂
雄
Die mittelbare-mitteilungstheoretische Logik
Zweiter Teil・Anmerkungen <4>
Shigeo SHIMIZU
Zusammenfassung:IndieserAbhandlungmOchteichmeinem Buchnitdem Titel "dieMittlbare一mitteilungstheoretischeLogik"Anmerkungengeben.Ichbabeschon solchenVersuchindreiAbhandlungengemacht.Hauptsachlichhabeich in den dreiAbhandlungendenBegriffderWahrungderSzeneerklart.Indem dieSzene wirklichgewahrtist,kanndiemittelbare一mitteilungstheoretischeLogikerstihres Spielbeginnen.OhnedieWahrungderSzenekannmansickdaslogischeSpiel nichtansehen.
AulderGrunglage der Wahrung de†Szene beginnen wir die mittelbare一 mitteilungstheoretische Logik zu entfalten.I)iese Abhandlun g ist der erste VersuchderEnt【altung.
Keywords:diemittelbare一mitteilungstheoretischeLogik(間接伝達論的論理学), Ereignis(ェアアイクニス),Heidegger(ハイデガー),derletzteGott(最後の神)
は じ め に
この論文は r間接伝達論的論理学J の第二 部,注釈部 となるはずの一連の論考の第4
報 である.「第一部」 は1996年 に単行本 と して 公刊 されたが.その第-部への注釈部が 「第 二部」である.「第一部」 は 「高 々た る山頂 に立 ち.深々たる海底を行 く」 (道元 r正法 眼蔵 ・有時J参照)者の見た眺めが書かれて いるために,ただそ こに到 った者だけが理解 できるようになっている. しか し,第二部の 注釈部 はニーチェ的に 「山頂か ら山頂」 に飛 ぶのではな く,山頂か ら降 りてきて. そこへ の登山道をつけることが意図 されている. そ れはなにか筆者が聖者のように俗界にお りて きて,
「教え」を説 くとい ったよ うな ことと 受 け取 られるか もしれないが, ここで筆者が 「登山道をつける」 と言 って いる ことはその ようなことではない.筆者 はただ,或 る信 じ がたいことを言お うとしているだけであり, この 「信 じがたい こと」 が信 じが たい故 に 「道をつける」 ことが必要になったのである. その 「信 じがたいこと」 というのは或 る意味 ではすでにスピノザの哲学が先昏区けしていた ことと言えるか も知れない. 「第-部」 で も すでにス ピノザへの注 目を示 しておいたので あるが,それを簡単に言えば,
「定義 の中 に 有が含 まれる」 ということになろう.定義が され るとそこに必然的に 「有 る」 とい うこと が言えるようになる. これがつ ま り,
「信 じ 1999年4月27日受理 -1-がたいこと」なのである.そ して, このよう な 「信 じがたいこと」が起 きているところ, そこが 「山頂」であ り同時に 「深海底」であ るのだが, このことに向けて登山道を開 こう としているのである. といって も.筆者 はこ れか らスピノザの哲学を研究 しようというの ではない. スピノザがまだ夢に も思わなか っ た 「信 じがたいこと」 に道をつけようとして いるのである.筆者 はこういうことを口か ら 出まかせに言 っているので もなければ,大法 螺を吹いているので もな く,静かに慎重に事 柄 に即 して述べているのである.すべての思 惟がまだそ こには到達 していない,或 る 「信 じがたいこと」それを筆者 は言わなければな らない.筆者 の山頂 にはス ピノザの山頂が 「見えている」 にす ぎない. それ は決 して同 一の山頂ではないが.そこへ は飛び移 ること ができるのである. 或 ることが定義 され るとそ こに必然的に 「有 る」 ということも言 われなければな らな い,存在の秘奥の出来事が ここに示 されてい る. このよ うなことが目撃 されるにはこのよ うなことが 自らつけた 「小径」を見つけ, こ の小径 をた ど らなければな らない. それは 「論理学の歴史」 としてすで に哲学史 に現れ た.筆者はこれまでの注釈でその連関を 「金 曜 日
」
.
「土曜 日」 という比職的な表現で言い 表 し,それがどのようなことか も簡単 に説明 した.「金曜 日」 とはヘーゲルの 「論理学」 を意味 し,
「土曜 日」 とはハ イデガーの哲学 の境位,すなわち,Er
e
i
gn
i
s
を意味す るので あった.そ して,r
間接伝達論的論理学」 は 「日曜 日」 に相当するとい うこと も述 べ た. しか し, これ らは皆,かの 「信 じがたいこと」 への, そして,そ こか らの 「小径」であ り, 我 々はまず この 「小径」 に立 たなければなら ない. それが 「場面の確保」 ということであ り, これについては 「注釈部 ・その3
」で詳 述 しておいた. このような 「場面の確保」が なされていることを前提に して,今や筆者は この 「第四報」か ら 「本論」への注釈に進ん で行 きたい. 「場面の確保」 ということは以上に述べた ように本質的に 「山頂」 (-深海) への, そ して 「山頂」か らの 「小径」をたどるという 意味をもっている.「序論」ではこの 「小径」 を見つけなければ決 して r間接伝達論的論理 学」 の言わん としている 「信 じがたいこと」
に達せ られないということを説いたのである か ら,
「本論」では実地にこの 「小径」 をた どるということになる.「本論」への 「注釈」 はこのような 「小径」へのそま道を通 し,あ るいはこの 「小径」を歩 きやす くするという 仕事をす ることになる. このような,思考に とって 「険 しい径」を何の苦 もな くすたすた と登れる健脚 にはこの 「注釈」は必要がない. しか し, まだかならず Lも 「場面の確保」の 出来ていない人やまた,かの 「険 しい径」に 難儀を感 じる人にはこのような 「注釈」が役 立っであろう.それ もこれ もすべてあの 「定 義か ら有 るが出て くる」 という処に属す るこ となのである. 「場面の確保」 ということがどれほど困難 なことか,そ してどれほど重要なことかを述 べるのにおそ らくは場合によっては十数年 も かかるであろう. というのも,それは 「論理 学」 の境位であって,
「意識」 され る事柄の 世界には属 さないか らである. そ して,
「意 識」の世界か ら 「論理学」の境位に登 って く るのに,人がヘーゲルの r精神現象学」 とい う登山道を歩んだとして も,それですでに数 年の年月がかかるであろうし,更にその上に ハイデガーの後期哲学の道 に進んで,
「奥の 細道」 というこれまた 「論理学」の境位に歩 み入 るのに数年,十数年,かかるとすれば, そのさらに奥の頂上 に到 るのに一体, どれほ どの年月を要することになるだろう.しかし, 頂上への道 はこの小径以外にはないのは明白 なのであるか ら,筆者 としてはそこへの道を 拓 き,そ して,それをで きるだけ見つけやすくし, また,登 りやす くしてお くことが 「為 すべき唯一 の」 仕事 にな る. それ故, この 「注釈部」 は筆者 には生涯 を費や さなければ できないような仕事になるであろう. ニーチェが言 うように
,
「最 も偉大 な思想 は最 も偉大な出来事」である. しか し,最 も 偉大な思想 というのは 「その定義の中に必然 的に有 るということを含む」 ということを言 うところの ものである. スピノザはこの こと をその哲学体系の要 としたことで最 も偉大な 思想を もた らしたのである.r
間接伝達論的 論理学」 もまたこのことを最終的に言 うこと になるが,それは断 じてスピノザの哲学 とな るのではな く,む しろ,ノ、イデガーの後期哲 学につながるのである.それ は,
「定義 の中 に有 るということを含む」 ということが哲学 の歴史を形成 していて,それがその もの とし て言われるには,哲学史がその終わ りにな ら なければ決 して現実の ものにな らなかったか らである.その意味ではス ピノザの体系 には なにか辻榛の合わぬ ものが潜んでいるという ことが言えよう.すなわち,
「定義 の中 に必 然的に有 るということを含む」 という思想 は あらゆる思想の開始 というよりはそれの終わ りに至 ってはじめて始 まりになるということ なのである. カ ントが概念 と実在 はどこまで も同一 にな らないと主張 したのは正 しか った と言えよう. しか し,それにもかかわ らず. やはり,すべての思想,そ して,すべての も のの根底にあるのは 「定義の中に有るを含む」 ということなのである.キルケゴールが指摘 したように, この思想 は 「まことに深遠な」
思想 と言える. 「本論」への注釈の意味を明 らかにしたの で,次 に,
「本論」がどの よ うに展開 され る かをここで簡単 に説明 しておきたい. 「序論」 のかなめは 「場面の確保」を説 く にあった.場面を確保することで,上で述べ たような 「山頂」への小径をたどることが可 能になるのであった. しか し, この 「小径」 は 「山頂」への道であるだけでな く,同時に 「山頂」 か らの道 で もある. 前者 の規 定 の 「道」 はこれか ら山頂へ向か うのだか ら, ま だ山頂 は知 られていないという性格を もって いるのに対 して.後者の規定の 「道」 はそれ が山頂への道であったのだと眺められている. このような連関を 「本論」 は実地 に遂行する のである.最初 にまず山頂への道か ら山頂 に 立っ ということを遂行する.それは,ハイデ ガーの晩年 の思惟内容であ る,
「言 葉へ の途 上」 という事柄 をたどって.
「真言 」 に達す る道程である.次に,山頂からの道をっける. それは,今,こうして立 っているその山頂 に それをたどって きたその小径を山頂か ら眺め, それが山頂への小径であったことを開示する のである.具体的にはそれは 「間接伝達論的 論理学」か らハ イデガーの 「論理学」 の何で あったかを照 らし出す とい う作業である.吹 に,同様に して,
「間接伝達論的論理学」 の 境位か らヘーゲルの 「論理学」の何であった かを照 明す る. これによって哲学 の歴史 が 「始めに言葉があ った」 とい うことと内的な 関係にあることが明かされる.そ して, この ような連関が開示 された後で,先 に述べたあ の思想,すなわち,
「定義 の中 に必 然 的 に有 るが含 まれる」 ということの真相が明かされ るのである. ここに至 って,人 はこの思想 の まことに不可思議な真実の姿をまのあた りに す るであろう. そ して,それが最終的に知 ら れなければならなか ったことであり,すべて が この思想 に向かい.すべてが この思想か ら 発 していたことを理解するであろう.仏教が 教えているように,人 々に善 さものを布施す るとき何が最 も書 きものか というに, それは 真理を布施することである. しか し.何が真 理か.それはつ まり, この 「山頂の思想」以 外 にはないのである. この険 しくも高 い山に アタックす るものに幸 あれ.
/
「すべての山の 頂 には静 けさがある.」(ゲーテ) 「本論」 は 「山頂の思想」への小径を実地-3-にたどるということを行 うのであるが, ここ では同時にそこで しか見 られないような景観 と高山植物の神仙 な有様を開示することにな る.そのような もののひとつが 「命名の現場
」
ということである.特 にそ こでは最 も神秘な 姿 の高山植物 とも言え る 「必然」の命名の様 子を伝達す ることになる. しか し,単 に 「必 然性」-の命名の現場の有様が目撃 され るだけ ではな く,む しろ,そ もそ も,
「命名」 その もののまことに 「信 じがたい」光景が明かさ れることになるであろ う. 旧約聖書の 「創世 記」 1,に 「その とき,神が r光よ, あれ.」
とおおせ られた.すると光 がで きた.」 と言 われているように,ある 「命名」が原初には 起 きているのである. この原初的な現場をこ こ,
「山頂」への道行 きが通過す るこ とにな る.そ して, このような景観の目撃とともに, 人 は 「間接伝達」 の精髄 たるunrealization に契合することになるのである. さて,
「本論」への注釈の形式 はこれまで の ものを踏襲することにす る.すなわち,最 初の番号は 「注釈部 ・その 1」か らの通 し番 号,続 くか っこ内 には既刊の r間接伝達論的 論理学」 ・第 1部 のページと行が記 されてい て,注釈箇所が指定される.その下のイタリッ ク体の記述が注釈 され る文なり語句である. 単 なる引用文献の指示参照の記述の場合には この紀要の 「執筆要項」の指示に従 うことに す る. このような論文が学術論文に属するのかど うかということに疑問を持っ人 は 「その2」
を参照 してほしい. しか し,およそすべての 思惟 は,そ して,思考 の営みは 「定義 の中に 有 るを含む」 とい うことに基づ くので ある. 本論文 はそこへの道であり,或 る意味では最 高度に 「学術的」 なのである.2
7
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p.
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行) rここではス ピノザの好学の可能鐙が月て 彫 られる空間が開かれている
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ドイツ観念論にとってスピノザの哲学 は無 関心でいられぬ事柄である. シェリングの思 想の深化に彼の思惟の影響が認められるとい うこと,あるいはへ-ゲルの r論理学Jlの中 にスピノザへの並々な らぬ関心が示 されてい ることか らも窺えよう. スピノザの哲学で最 も理解 しがたい事 は,その体系が 「定義か ら 始 まっている」ということである∴これがヘー ゲルには受 け入れがたい事であったのである. 「絶対者 は最初の もの,直接的な もので ある のではな く,絶対的な ものは本質的にそれの 結果である.」 (Wissenschaft der Logik,GesammelteWerkell
,S.
3
7
6
)
と言 うとき, ヘーゲルはある意味ではスピノザの哲学の深 度をまだ測 りかねていることを表明している. 定義か ら学問の体系が始まるということに何 の不思議 さも感 じない人はヘーゲルが ここで 述べていることの意義をよ く理解できないで あろう. というの も,高等教育を受 けた人間 な ら,だれで も, まず,定義があってそれか らいろいろな真理が導かれるとい うことを学 んでいるか らである.特に数学 はそのような 形式を尊重 していることは周知の通りである. しか し,哲学ではこのような方法論がただち に疑問視 され るのである. たとえば,
「直線 とは二点間の距離の最短のものである」といっ た定義をなんの疑問 もなく受 け入れ られる精 神 はこの定義か ら始めることができる. しか し, ヒュームも示唆 しているように, この定 義の中では 「直線」の定義がされていないた めにこの定義その ものが根拠づけられなけれ ばな らな くなっているのである.む しろ 「直 線」の定義か ら上記の定義 は論証 されなけれ ばな らないのである. こうなると,我々は直 線だけでな く,およそ点 とか線 とかが何であ るかが定義 されな くてはな らないことに気づ かされる.す ると次にはよりいっそう根源的 な もの,たとえば,連続や空間そ して量 とか を定義 しなければならなくなり,等々, より 先立 っているものの定義が必要 となるのである (このよ うな ことについてはヘーゲルの rェンチュクロペデ ィー」の254と256を参照). ヘーゲルはこのような最 も先立 っているもの の定義 は実は結果 として起 こって くるという ことを明かすのであり. このこととスピノザ の行 き方 は異なるのである. しか し,スピノ ザの体系が定義を開始 としているということ は或る深遠な事態を教えているのであり,そ のことはこの r間接伝達論的論理学」の第一 部の最後になって明 らかにされる. この 「最 後になって」 ということは単に或る著作の終 端にということを意味せず,む しろ,歴史の 終わりにということを意味する.というのも, r間接伝達論的論理学」 は- イデガーの哲学 の境位 (奥の細道)の更なる奥で生起 してい ることが らを伝達するのであ り
,
「最後」 と なっているか らである. もはやこれ以上の奥 はあり得ない.なぜな ら,そこで 「定義か ら 有 るということが言われる」ようになってい て,スピノザ的に言えば自己原因となってい るか らである. しか し,我 々はこの事態 を 「自己原因」 とは名付けるわけにいかないと いうことを 「知 っている」
.
なぜな ら, ここ でヘーゲルが主張するように,確か に,
「始 まり」が 「終わ りに」現れるか らである.そ して,
「始めに言葉があった」 のであ り, そ こでは 「自己原因」 という命名力の欠陥が眺 められるか らなのである. しか し.それにも かかわ らず,
「始まり」 は 「定義」 か ら, し かも,その定義において有 るということを必 然的に生 じさせるような 「定義」か ら始まっ ていたのである. ここではじめて人はスピノ ザの哲学の持 っている奥の深さというものを 理解す ることになるであろう. 彼の哲学 が 「定義か ら始めた」 とい うことには余 りに も 深遠な内容が潜在 しているのである. ほとん どこれまで誰 も,あのヘーゲルです らその深 度を測 りかねていたそのようなことが らをこ れか ら開陳 していくことが 「本論」でなされ るであろう. スピノザは rエチカ」第-部定理8
の備考2
で 「事物 について混乱 した判断を くだ し, 事物をその第一原因か ら認識す る習慣のない すべての人々にとって定理7
の証明を理解す ることは疑いもな く困難であろう」 と述べて いる.定理7
は 「実体の本性には有 ることが 属する」 というものであり,ス ピノザはこれ を実体 と自己原因の定義か ら証明 している. 「混乱 した判断」 というのは 「実体の様態的 変状 と実体 自身の区別が出来ていない」 とい うことである. しか し,このような区別は単 に知性の能力の優劣の問題なのではな く,区 別その ものの起源に関する問題なのである. その区別が 「実体と様態」の区別であること をスピノザは洞察 していてそれだけで も彼の 思索の深さと鋭 さに驚かされるのであるが, 同時に彼はこの区別の可能性の根拠にまで足 をのばすことができかねているのである. こ れが彼の思惟の限界である.我々は, しかし, 最後のところまで,いってみれば人跡未踏の ところまで行き尽 くすのであり. スピノザ哲 学の 「可能性」 といったものを 「見て取れる」
空間を開 き出す ことになる. ところで,スピノザが言 うように人間は普 通 は 「混乱 した判断」を為 していて,言い換 えれば,
「実体と様態の区別」 が出来ていな い.そんなことはどうでもよく,キャベツと 白菜の区別ができればそれでよいではないか, と言 う人は実はかの 「区別」が出来ていない ということか らそのような発言を しているの である.すなわち,その人がかの区別を知 ら ないということはその人の問題性なのであり, 彼の全存在 の抱えている 「根本問題」なので ある. もっというなら彼が真に幸福になるに は彼は 「実体 と様態 の区別」 がつ くよ うな 「神の知的愛」に到 らなければな らない とい うことである.周知のようにこれが rエチカ」 の結論である.キャベツと白菜の区別ができ るだけでは人間は不幸の最中 (生存の本質は 苦である) にあると言える.冷た く厳 しく容 ー5-赦 しないス ピノザの哲学の中にはこのような 真 に深 い人間への愛情 のまなざ しが注がれて いるのである. さて,以上のように,ス ピノザの哲学が定 義か ら始まっているということは怖ろ しく深 遠 な事柄なのであるが,ヘーゲルの指摘す る よ うに.それが 「終わ り」 ない しは結果 とし て言われるようになっているのでなければな らない.最 も問題 になるのはこのようなこと が どうして 「可能 にな っているのか」 という ことである. この問いはおそ らくは哲学的な 問いの中で も最 も深 く,高 い問いであ り,問 いの中の問い,その山頂 ともいえるものであ る. このよ うな可能性 は言糞 としての言葉 の 言 うことの本性である間接伝達するというと ころにあるのである.unrealizationを実現 しているこの間接伝達 に於 いて
,
「定義か ら 始 まる」 とい うことが, 同時 に 「あ る中間 (Mittel:手段)を介す ること」になる (最後 に顕れる) ということで もあることが言葉 す ることになっているか らである.間接(mittel -bar:手段を取 り得 る)伝達 (mitteilen:分 かち合 い)する真言 (後出す る) こそが上記 の問いの答えを自らの中に蔵 しているのであ る.そ こで, ここか らある驚 くべ きことが帰 結 して くる.それ は,つま り, このような間 接伝達 している原初的な場面の直前, いいか えれば,ハイデガー哲学の歩み入 った境位. Ereignis, に於いては始 ま りと終わ りが一緒 に会す る当 の現場 のrealizationが起 きて い るとい う羊とになる.そして,実にハイデガー が示 しているEreignisとはそのような事態 な のである.,筆者はこれ以上 この稲妻をたたえ た重たい真理の雷雲の怖 ろ しさに耐え られそ うにないので,次 に移 りたい.苗に打 たれた い と思 う人 は是非,- イデガーの未公開著述 を精読 した後, ここの注を再度丁寧に読 まれ るのがよいであろ う. 28,(p.20,9行) rDa-seinという言著が まだ √反軌
してい ないか らであるJ ハイデガーがKehreということで何を見て いるかということとKehreその ものの可能性 への問いを一応分 けて考えるべきである.我々 は前者をKehreの事態 と呼 び, 後者 をKehre の可能性 と呼ぶことにしよう. ここで我 々が 「反転」 と言 っていることは後者 の'「Kehre の可能性」か ら捉え られた一種の方向性の逆 転 を意味す るのである. ドイツ語 でKehre (ケー レ) という語 は動詞のkehrenに由来す る名詞であ り,
「道路の急 カーブ, 体操 の上 向 き飛 び越 し,上向 き半回転」などを意味す る.英語の相当す る単語 はturnである. 日 本語で 「かえる」 という言葉にいろいろな意 味を含 ませているように,-イデガーもおそ らくはこの 「かえる」 といったような意味の 含蓄をKehreに託 しているように思える. つ まり,
「かえる」 とは 「反 る」であり,
「還 る」
であり,
「帰 る」で もある. - イデガーの哲 学の境位 というものを我々は 「土曜 日」であ り,
「奥の細道」であると述 べたの はそれが 「間接伝達論的論理学」 とのいわば位置関係 を明 らかにするためであ った. しか し,ハイ デガー自身 はこうした位置関係を 「まだ知 ら ない」 のであるか ら,彼の思索空間 自身の眺 めというものが 「そ、の場面の内部で」見えて こなければな らない.その最 も特徴的な眺め が ここで言 うKehreなのである. それ は-イデガーの 「論理学」の営 まれている 「場面」 の本質を見事 に表現 して いる事態, 「Kehre の事態」なのである. この事態 は 「反 る」 と 「還 る」 と 「帰 る」 という意味を含んでいる. まず,
「反 る」 と言われ るのは, すでにス ピノザとの連関で述べたように,-イデガー の哲学 は 「間接伝達論的論理学」にとっての 「土曜 日」であるために,
「始 まりの方か ら」 すべてのものが知 られるようになっていると いうそのことが 「知 られ るようになる」か らである. このような二重の 「知 ること」が必 然的に彼の哲学の境位では目撃 されるように なっているのである. しか も. そのよ うな 「二重の知 ること」 はただハイデガーの墳位 でしか顕にはならないのである.先の注で述 べたように
,
「定義から始 まる」 とい うその ことは実 は歴史的な 「終わ り」 になってよう やく可能になるのであるが.それのちょうど 一歩手前 に位置するここEreignisの場面で も 「始まりのその定義に相当す る」 出来事が起 きているのである.それは 「終わりころになっ て」始まりの方か ら日が昇 ること,つまり, 「反る」 ことなのである.「定義から始まる」 には 「終わりころ」にな らなければ可能では ないということである.人は普通は混乱 した 判断をしているのであるが,ハイデガーの墳 位に至 ってはじめてかの 「実体と様態の区男山
がつ くようになるということになろう.なぜ なら, ここではじめて,
「有 る もの と有 ると の差異」が問われるようになるからである. 次に,「還る」 という意味でのKehreにつ いて理解を深 めよ う. 「還 る」 とい うの は 「一巡 りする」 という原義を もち,輪を形成 することである.ハイデガーはEreignisの本 質にこのような一種の輪が形成 されているこ とをKehreという語で示 しているのである. このような意味でのKehreはたとえば.次 の ように言われている. 「Ereignisはその最 も内奥の生起 とその最 も広範な影響力をKehreの中に持 っている. Eregnisの中で起 こっているこのKehreはあ らゆる他の,後に列する,その由来に於いて は暗 く,問われないままになっている,よ く それ自体 r最後の ものJ と受け取 られる諸々 のKehreと循環 と輪の隠された根底である.」 (BeitragezurPhilosophie,S
.407) ここではEreignisの中に認め られ るKehre がいわゆる論証上の循環や哲学体系に本質的 に含まれる根拠関係の輪 といったものの根拠 になっていることが主張 されている.いいか えれば,ハイデガーはKehreを 「還」ない し は 「環」 としての意味を持っ ものとして考え ているのである.それではそのような 「根底 としてのKehre」 とはどのようなことか. 「このようなEreignisの中での根源的な Kehreとは何か. ただDaの起 こることとし てSeynの突然の顕れのみがDa-seinを彼 自身 にもたらし.そして, そのように して切願的 に定礎された真理を,Daの明け透けられた隠 すことの中でその場所を見っけるところの有 るものへと遂行すること(匿 うこと)へ ともた らすのである.」(Beitragezur Philosophie,S
.407) この叙述の中に 「根源的なKehre」の事態 が表現されているのである.というのも,Seyn の 「突然の顕れ」(Anfall:発作)はDaを出現 させ, それによって人間本質であるDa-sein をその固有の自己自身へともた らすか らであ る.ではそれがなぜ 「輪」 と関係す るのだろ うか.それはこのようなSeynとDa-seinとの 問に根拠関係の輪が形成されるか らである. すなわち,前者が前者 として 「起 こる」には 後者を定礎者 として招かなければならないが, 同時に後者はただ前者にとって必要 とされた ものとして前者を根拠にしているという相互 の依存関係が成立するからである.有 と人間 本質との根源的な関係 はこのようなKehreの 事態となっていて,しかも,それは諸々の循環 のひとつではけっしてなく, むしろ, それらの 「根底」になっているのである.主 と従 とがお 互いに入れ替わ り得 るこのような連関がハイ デガーの哲学の境位(Ereignis)で は じめて 眺められているのである. この 「還 る」 という意味でのKehreは本質 的な 「Kehreの事態」 と言 え るが, それが 「Kehreの可能性」 との連関を持っ よ うにな るとハイデガーはkehrig(訳 しにくいが敢え て言えば 「転的」 となろう) という言葉を使 う.たとえば次のような事柄を開陳する時に. 「かの (人間の)Seynへの帰属性 とこの (虚後-7-の神の)Seynを必要 とすることが初めて 自ら を隠すことの中に有 ること(Seyn)をkehrig な中間 (Mitte)として開披する. この中間 において,帰属性 はかの必要を踏み越え行き, 必要が帰属性を越えて聾える.それはつまり, Er-eignisとしてのSeynであ り, これ は自分 自身の このよ うなkehrigな節度 を越 え るこ とか ら起 こ-り;-そのよう にしてニー人間 と神 と の闘争の根元 となり,(最後の)神の立 ち寄 りと人間の歴史 との闘争の根元となっている
」
(BeitragezurPhilosophie,S
.413) この引用の中には「Kehreの可能性」といっ たことが問われ得 る明るみがすでに現れてい る.なぜなら,彼はここで 「kehrigな中間」 と言 っていて,Ereignisが或る中間的な位置 規定がなされるものであることを表明 してい るか らである. この 「中間」 という位置規定 こそが 「Kehreの可能性」 を考 え る ことの 「出来 る」ということに光 を与え ることなの である.最後の神の立ち寄 りの場面 としての このEreignisの領域 には固有 にkehrigと呼 ばれる事態が 「起 きている」のである.では 「どうして?
」か.それは 「間接伝達論的論 理学」 しか答え られないのである.いいかえ れば,ハイデガーの境位は 「土曜 日」の時を 経験 している 「論理学」のために,そこには 「最後の循環」が 「起 きている」 のであ り, この循環に巻 き込 まれていることの可能性の 根拠は次の日,すなわち 「日曜 日」が明けな ければ決 して明 らかにならないか らである. なお, このような「Kehreの可能性」 は実 は 「定義の中に有 るを含む」 とい うあのス ピノ ザ哲学の根本命題に関係 しているとだけは言 っ ておきたい. さて,次に第三の意味でのKehre.すなわ ち,
「帰 る」の意味でのそれを考えてみたい. -イデガーがこの意味でKehreを思惟す ると き彼はそれを 「有の歴史」 との連関性 におい て考えている。彼によれば ヨーロッパの歴史 の根底にある事柄 は 「形而上学」であ り,そ の本質的な事態は 「有の忘却」である. この 「忘却」 は人間がなにか能力 の欠如 によ って 忘れているということではな く, 「有の」忘 却であり,
「有」そのものにいわば構造的に 組み込まれているところの 「接合構造」であ る. しか し. このような 「有の」忘却が可能 であるのは 「有」が自分 自身を隠す故であり, このこと自身がいずれは明 らかにされる. こ のようにして 「有の忘却」か ら 「有の顕現」 が起 こ'ることを-イデガ-はKehreと名づけ ているのである。典型的な説明を次に示 して お く. 「しか し,おそらく, このようなKehre航 すなわち,有 の忘却がSeynの起 こるこ・との 守 りへと帰 ることはただ,そのKehreの隠 さ れている本質の中で転的な危険がはじめて現 に有るところの危険として起こるときである.
」
(Gesamtausgabe,Bd.79,S.71) 以上,-イデガーがKehreという語で どの ようなことを思惟 しているかを簡単に説明 し たので,次に我々は 「反転」 ということの理 解を深めよう. この注の冒頭で触れておいたように,我々 が 「反転」 と名づけている事柄は 「Kehreの 可能性」 に関係す るところの事柄 であ って 「Kehreの事態」 とは直接 の関係はない. で は一体, これまで解説 したような-イデガー の哲学に必然的に現れるKehreの事態の 「可 能性」 とは何か.それはもうけっしてKehre の事態 とはなっていないのだろうか.それと もまだ ? この問いに答えるにはどうして も 「場面の 確保」が必要なのである.それはつまり, こ のような問いに答えるということは, もはや たとえば数学の難問に答えるとか, 自然界の 謎に答えを見つけるとかのある意味では非哲 学的な,幼稚で単純な 「問いと答え」の関係 の中に安 らいでいる知の営みとは全 く異なる ような 「問いの領域」の固有性が問いに値す るものとして知性に見えてこなければならないか らである. しか し, これが普通の知性の 活動 しか知 らない知性にとっては難関 になっ て しまうのである.すべての思惟の営みの根 底に深 く隠されているKehreの事腰を,思惟 する知性が自分で見出す こと, これがそ もそ も普通の知性ではな く,哲学的な知の営みな のであるが,その上なおこのことの可能性を 探る知性 とは一体 どのようなことにな ってい るのだろう.それはまった く尋常 な知性では なく
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「異常な知性」でなければな らない. しか し,そのような知 は精神異常などとは正 反対の 「冴えに冴えた知性」でなければな ら ないのである.ではなぜ 「異常」 なのか.そ れはつまり. このようなKehreの可能性 にま で照明を もってつ き進んでい く知性はその も の自身が 「反転」 になっていることを知 って しまうか らなのである.すなわち, ここで知 性はもはや 「私が知る」 という構造を取 って はいないで,む しろ,或 る 「反転」 になって いること,つまり,
「知 るが知 る」 とで も言 えるようなまった く 「異常な」 ことになって しまうのである.かつて.あのア リス トテ レ スが述べたような 「思惟す る思惟」 といった ような事柄をそのような 「冴えに冴えた知性」 が自分で経験するようになるのである.そ し て. このことがスピノザの哲学 とも関係する わけである. しか し,「冴え に冴えた知性」 がKehreの 事態の中でそれの 「可能性」に向けて問 うと き,そのもの自身の 「反転」 に会 うというこ とはまだけっして 「反転」の真相に至 ったの ではない.では 「反転」の真相 はどのような ことか.それは 「言葉」の起源に関係す ると しか今 は言えない.「反転」.の真相 を言責 に できるのは 「言葉 としての言葉」, いいかえ れば,言葉がはじめて言葉 としてその始まり の様子を伝えることになった時なのである. 「反転」 の真相 はun-realizationが実現す る 「場面」で言い伝え られているか らである. かつて,道元禅師が 「法華が法華を転 じてい る」 と述べたとき,それは我々の 「間接伝達 論的論理学」 とは別の道に立っ ものの, ある 種の頬似的なことが見えていたのではないか と思われるのである.「反転」 は思 惟す る主 体が 「反転す る」 という全 く 「異常 な」事柄 なのであり,
「凡情を脱 してい る」 ことに属 している. 「Kehreの可能性」 と「Kehreの事態」 と がその最後的な問いの形となったとき, そこ にハイデガーの哲学が起きているのである. それはある最 も謎 めいた 「渦」がそこで初め て起 きているとい うような事態なのである. 哲学そのものが巻 き込 まれているこの 「渦」 を目撃する人 は 「有 るとい うこと」 に秘め ら れている不可思議 さに胸打たれるであろう. 29.(p.21,2-3行) rそれは政の言責 でd
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,貞 雄 の神 と呼ばれるJ ハイデガーがなぜまた 「最後の神」 と呼ば れることを思惟 しなければならなかったかに ついて は辻村公一氏の著書所収の透徹 した論 文,r
最後の神Jを参照されたい. その論文 の中で辻村氏は「
「最後の神J は 「別の思索J を喚起するとともに,r
別 の思索」 はその最 後 に於 いて r最後の神」を立てざるを得なかっ た.そ こには r別の思索」 と 「最後の神」 と の間に深い循環が存する.」 (辻村公一 :ハイ デッガーの思索,創文社,1991,p.202)と述 べている.ここで先の注で述べたようなKehre が問われることになっている.辻村氏 は最後 の神 と呼ばれる事態の根底 に 「深 い循環」が あるというまことに透徹 した洞察を している のであるが,実 はこの表現 は必ず しも的確で はないので あ る. 最 も事.G賢に即 した表現 は 「最後の循環」が存す る, とな るべ きなので ある. いいかえれば,
「最後 の循環」 と 「最 後の神」 とは同一の事柄になっているという ことである. ところで.その哲学体系の基礎 となるものに論証上の 「循環」があるとい う-9-ことはその哲学の欠陥ないしはその哲学が成 立 しないということでは全 くない.む しろ逆 に哲学 というのは循環の 「渦」の中に巻 き込 まれ,かつ 「渦」を起 こす ものなのである. しか し,-イデガ-の哲学,特にEreignisの 境位, はこのような 「渦」がどうして起 こる のかという可能性に光を当てつつあるもので 山 一. あり,それ故にそれは「最後の循環」 になっ ているのである. ここでは じめて
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「最後の 神」が現れるのである. 最後の神とハイデガー哲学の核であるEreignis との関係,そして,我々の 「間接伝達論的論 理学」 との連関を示唆する次の発言は注目に 値する. 「拒絶(Verweigerung)は贈 り(Schenknng) の最高の爵位であり,隠れることの根本特徴 であり, この隠れることがSeynの真理 の根 源的本質を成 している. ただそのようにして のみ.Seynが見知 らぬものとなり,最後 の神 の立 ち寄 りの静けさとなる.」(Beitragezur Philosophie,S.406) 「拒絶は贈 りの最高の爵位」 という陳述 は 普通の思考では全 く不合理であるだろう.あ る人がある女性に思いを寄せているとしよう. 彼女が彼を拒絶することは彼にとって最高の プレゼ ントとなるというのは彼女の意地悪で しかないであろう.それとも?しか し, この 「それとも?
」がハイデガーの哲学が営 まれ ているある 「場面」では全 く当然なこととし て成立 しているのである. 「拒絶すること」 が最大至高のプレゼン トに して恵みとなって いるところ,そこでは 「隠れること」が隠れ ることとして起 きているのであ り, これが 「Seynの真理」 と言われていることであ り, このようなことが 「起 こること」がEreignis なのである. このよ うに して,
「拒絶」 が 「贈 り」であるような 「場面」 は余 りに も, 人間の普通の世界か らは 「見知 らぬこと」で はあるが, ここで初めて,
「最後 の神」 が立 ち寄 ることのできる 「静けさ」が 「確保」 さ れるのである. それ故,
「拒絶」 こそが なに かある極限的なことを告げる言葉になってい るのである. ところで. 「間接伝達」 とは 「伝えない伝え」
,いいかえれば,
「拒絶」 に して しか も 「送 ること」である.絶対に伝え ない,つまり,
「拒絶」であるが, しか し, このことによって最高のものが 「伝えられる」
,
つまり,
「月曽られる」のである. もちろん, -イデガ-の境位は 「土曜日」の時 になって いたのであるか ら,
「贈 り」 と 「送 り」 との 違いがあるのは必然であるのではあるが. さて,我々の 「間接伝達論的論理学」にとっ て注目すべきもうひとつのことは 「熟すこと」 (Reife)と 「最後」 との連関が-イデガ一に よって言及 されているという点である. 「合図 (Wink)のこのようなWesungの中 でSeynそのものがその熟 しへと釆たる. 熟す ことは果実 となり,恵み贈 ることとなること の準備である.ここで最後のもの,つまり,袷 まりより要求されていて, その始 まりには告 げられていない終わりが起 こる. ここでSeyn の最内奥の有限性が露呈される.最後の神の 合図の中で.」 (BeitragezurPhilosophie,S.
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この発言はある重大なことを示唆 している. それはEreignisには 「熟す」 ということが本 質的に起 こり,
「果実」 にあたることが この 「後に」控えているということなのである. 「果実」 はここの境位では 「まだ来 ない」 も のであって,それこそが我々の 「間接伝達論 的論理学」
,すなわち,
「日曜日」なのである. なぜなら,
「始めに言葉があった」が 「果実」 なのであるか ら.「土曜日」 では 「拒絶す る 贈 り」であったことは 「日曜 日」では 「伝え ない伝え」 となるに及んで最 も大 きな恵みが 「送 られる」のである. しか し, このような ことは宗教の事柄ではなく,
「論理学」 の本 質 に属 しているということは注意 しなければ な らない.主語 一述語関係の根源の出来事な のである.読者にお願いしたいことは今述べたことか らす ぐにハイデガーの哲学や我々の 論理学をキ リス ト教的に理解する方向に赴か ないではしいということである.しかし,我々 はキ リス ト教に批判的な態度をとっているの でもない.我々が言いたいのは事柄があ くま で 「論理学」の事柄であるということなので ある.そのような 「論理学」の根源に 「熟 し」 と名づけられること,そ して