本書は琉伽行派の論典で弥勒五部書の随一とされる﹃大乗荘 厳経論﹄︵冒呂圏戯画四の創鼠医目圃国︶のネパール系諸写本の比 較対照に基づいて、現行の校訂本︵望冒曾冒尿国校訂岳g︺ 勺閏尉︶の改訂を目指す著者多年の研究成果の一端である。 著者の序や索引を除くと、全体は﹁諸写本考究篇﹂﹁思想研 究篇﹂および、同書第一、二、三、九、十の諸章の校訂テキス トより成る。前二篇のうち、はじめの﹁諸写本考究篇﹂は第一 章でネパール諸写本について諸データを紹介し一た後にその特色、 系統を論じ、第二章では原典第一’三章についての写本対照研 究の経過、および、最後の節に﹃大乗荘厳経論﹄の尿畠校訂 本と、諸写本との章別の頁︵T︶の対照表を掲げる。次の﹁思 想研究篇﹂は同じく第九、第十章についての写本対照研究の経 過であるが、それに加えて、両章の内容についての解説が述尋へ られているところが、初篇と異る。 このうち、初篇の第一章は著者の方法論と目す零へき重要な章 である。著者の集めた写本資料は、ネパール国立古文書館の目 録に記載されている四写本l旧四割目胃霞昌所蔵にかかる
舟橋尚哉著
ネ・︿−ル写本対照による
大乗荘厳経論の研究
高崎直道
z、︵z○.耳暗]︶︾Z。︵zo.・四g︶の二本と、国の冒罰且のg︲ 房。3口に属するz園︵zo画昌︶﹄z陰︵Z。.geの二本lお よび新たに知られた一写本︵z周︶と、旧来から知られている龍 谷大学所蔵本A、Bの二本、その他、ネパールの一僧侶の所持 していた冊子本︵z勺︶と、ニューヨークの冒切犀胃①甘村少? ご目。8煕屋巳①切さ剖笥。H国同の厨ざ用所在のマイクロフィル ム本︵N︶の都合九本である。このほか、一八葉から成る断簡 一本︵z○.耳g己があるが参照出来なかった由であるが、完 本としては現在知られる限り全てを取揃えたことになる。 これらの写本を吟味した結論として、著者は、zm本︵一六 七八年書写︶←Z。本︵一九○六年書写︶←A本という系統を詳 細に論証したほか、他の諸本も直接あるいは間接的にzm本に 基づいていること、つまり現存写本はす尋へてz“本の系統に属 すること、そして、旧曾﹄本の原典もzm本から︵直接あるい は間接的に︶写されたものに相違ないことを確かめている。な お、z局本とz本は、Fの昌本を見ている形跡がある由で、著 者は以下のテキスト研究では利用していない。また、系統論か ら判じて、龍大所蔵のAB両本は、従来言われているように大 谷探険隊によって︵一九一四年以前に︶もたらされたものでな く、その招来は一九一五年以降であろうと推定されている。 この写本系統論は、zぬ本の年代と、その行末における破損、 他の写本類の誤写の状況などから判定されたもので、推理には 説得力があり、結論はほぼ承認してよいであろう。 第二章以下は、この結論にしたがって、z“本を重視し、そ 68以上、本書の意図したところを紹介し、その意義を論じたがへ 叙述のスタイル等について若干気になるところもあるので、以 下少しふれておきたい。 ⑩テキスト校訂の結論を出すまでの過程の説明がいささか くどすぎるきらいがある。たとえば、﹁ここは偶文であるので シラブルが合うかどうか確かめなければならないが﹂といった 文章が一々の項でくりかえされるのは読んでいていささか閉口 する。またテキストの同じ箇所についての章節を異にした場合 の説明の重複も目立つ。懇切丁寧な説明も、度が過ぎると読者 にはわづらわしいものである。 ③内容から言って、﹁諸写本考究篇﹂と﹁思想研究篇﹂と いう分け方は必ずしも当を得ていない。後者は菩提品や信解品 の偶本を主とした簡単な内容研究で思想研究というにはなお不 ものである。 て、全章にわたる校訂本を公表されることを希望し、期待する 言えよう。著者の目的から言っても、今後さらに考究をつづけ れる。原且本の訂正を主とした注記も簡潔で要を得たものと べく、巻末の校訂テキストに掲げられた読みは概ね妥当と思わ で、写本類の読みを確かめている点、極めて著実な成果と言う の武内論文、国晶O宮本等︶が、それらの諸研究を参照した上 ている︵原乱仏訳、宇井和訳、長尾目:x、龍大写本について いては従来も多くの研究者による批判と改訂の試みが発表され の読みを尊重しつつ校訂をすすめている。尿畠本の読みにつ 十分な点が見うけられる。しかし、テキスト研究のためにもこ の程度の内容紹介は是非必要で、むしろ最初の三章についても 同様の解説がほしかった。この三章も極めて重要な諸章である。 ③菩提品の内容の解説中で気づいた点若干。 p旨い第三七偶の訳。﹁真如は一切において無差別であるが、 ︹それが︺清浄に達したのが如来たることである。:⋮. や尉式仏身の弁別についての節の中で、安慧釈のいう﹁智恵 無尽の菩薩﹂は無尽意菩薩︵鈩厨畠抄日昌︶、受用身のあるも のの名号が﹁顕現し給い﹂とあるのは毘盧遮那︵ぐ巴Ho8p四︶、 同じく﹁顕現無辺﹂というのは無辺光︵シロ四国融冒号冒ある いはシロ四目国ごロ陣︶I疹日洋号目をさす。 や︺認急.卸安慧釈中の﹁法身広大を説かんがために﹂は﹁法 身を詳説せんがために﹂の意。 や﹄雪.うしろから五行目。﹁仏地における無住処浬築に入っ て﹂は。﹁仏地に住まらない浬渠に入って﹂ や]尉息.︺.﹁そして大なる慈と悲によって︹衆生に︺一切時 に随行がある﹂は﹁そして大いなる慈と悲が一切時に随行す る﹂の意。 訳文についてはなおいろいろと工夫を要する点があるよう に見受けられる。 側信解品冒頭の言邑習騨偶については著者の言う通り、元 来﹃大乗荘厳経論﹄の本文に属するものではなく、章間に挿入 された目次と考えてよいであろう。同書には第一五章業伴品の 前にも、第一○’一四章についての筐呂習騨偶が掲げられてお 69
り、安慧は菩提品の場合同様、第一四章の末尾に置いて取扱っ ている。しかもこの第一○1く一四章の匡目自画偶は全く﹃菩薩 地﹄のそれと同じである。しかし、﹃荘厳経論﹂には、このあと 末尾に至るまで、この種のロ目習凹偶はない。別に、第一六章 の冒頭にはその章六波羅蜜に関する内容目次としての且8口秒 偶がある。且目ロ四偶については以上のような﹃荘厳経論﹄全 体にわたる言及が望まれる。 ⑤テキスト校訂︵巻末、左・ヘージ︶ p切怠.底.[菌の日且]の前にQ④且Pを入れる方がよかろう。 ℃.]劃函.いいpH四目四!←いゅHppP ﹃.躁曾H自陣日咽薗鼠昌は世3国鱒昌鴨薗3日と続け て複合詞と考えた方がよかろう。 やg急.酌︵ぃロ①pい︶はzの以下すべての写本に欠であるから、 思い切って削る曇へきである。 や麓急.9.このぐ.矧且の一行は、ぐぐ.忠1$という一連 の偶中にあって、ぐ.$号胃目且園目ぐ扉且目○︺冒昌という 主語を説明する諸句の一つである︵思想研究篇中、や扇函参 照︶。したがって、旨い⑫.には反するが、一行全体を複合詞と して、︲吾昌居と日.zo目.品に読むべきである。同様に ぐ.弓号も、︲g習口圖困日且針四目岩と複合詞と考える尋へき である。この点については拙論︵。①の日君威○国昌昏①己匡日騨① 両①昌芦qご望目⑦色口の具昏の凹掛○胃晶○己①印旨旨ゆず働琶目四 国且号尉日ゞ印仏研Hxl蝉ご臼.後に傍聾匡身。ロ号① 両目己侭○吋ゆく弓彦摺ゆゞ同○目⑳︺己急に法も冨口巳x胃目として 掲載︶を参照されたい。なお、嘗巴pは中性名詞であるから、 有財釈複合詞の後分に来る時は︲嘗巴凹冨とするのが通例で あるが、ここは日①前①の関係で︲啓己鳥とせざる在得まい・ 写本で嘗昌四目、となっているのは、切目亀騨の散文に距て られて、一連の偶であることが忘れられたためであろう。 ⑥﹃大乗荘厳経論﹂の現存写本がz”本系一種であるとい うこと︵そこでは一様に﹃法性分別論﹄の断簡が紛れこんでい る︶は、テキスト研究にとって、現在のところ、チベット訳に 異種の系統の写本を原典とするものとして重要性をもたせるこ とになる。今後校訂をすすめるに当っても、その点の留意を希 望しておきたい。 ︵昭和六○年一二月二○日国書刊行会A5判二三八十燕十五六 頁八、五○○円︶ 70