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Title
学校法人東京歯科大学の大学院建設に至る歴史的背景
(1)学位制度の発足から第二次大戦の敗戦まで
Author(s)
吉澤, 信夫; 高橋, 英子; 北林, 伸康; 渡辺, 賢; 福田,
謙一; 上田, 祥士; 齊藤, 力; 片倉, 恵男; 金子, 譲
Journal
歯科学報, 113(5): 516-534
URL
http://hdl.handle.net/10130/3209
Right
はじめに わが国における教育機関,特に今日の医療系大学 では教授や准教授の資格として学位,中でも博士の 取得者であることが,ほぼ必須の条件として求めら れている。しかし,明治以降の学位制度は時代とと もに迷走かつ大きく変遷し,その性格,名称,授与 の方法に一貫したものがなく,また学位自体に対し ても特に世間一般から,陰に陽に種々の批判が加え られるという事実もあった1−5)。 長い年月を経た第二次世界大戦後になってようや く,大学院制度の実体化とともに学位の基本理念が 少しずつ明らかとなってきた。すなわち,1947(昭 和22)年の「学校教育法」と1953(昭和28)年の「学 位規則」によって,具体的な方向性が示されるよう になったといってよい。ただ,それは専門学校から 大学昇格を果して間もない歯科大学にとっては,さ らなる歴史的飛躍の好機とみなされた反面,ハード ソフト両面での拡充という,過酷な負担を迫られる 試練となった6−8) 。
敗戦による GHQ(General Headquarters Office, 連合国軍総司令部)の占領下,わが国では政治や経 済そして社会全般の著しい混乱がつづき,教育政策 としては六三制の義務教育の整備が喫緊の課題と なっていた。そのため,ふたたび日本が独立を回復 した後も,高等教育の大学制度に関しては旧制と新 制の大学が混在するなど,複雑で不安定な状態がつ づいた。その結果,1920(大正9)年の第三次学位令 以来,長く放置されてきた大学院問題にはなかなか 着手できなかった。学校教育法の趣旨を踏まえて学 位制度の概要がまず新しい修士から発令され,歯学 博士を含む博士の種類が明らかになるのは,1956 (昭和31)年の学位規則の一部を改正する文部省令 (第15号)によってである。 わが国の学位制度は,上記のように曖昧な歴史を 抱えてきた。そうした中で新たな学位規則が登場し た結果,歯科大学としてはその存続にかかわる重大 な事態を迎えた。学位の審査権は,医科大学の教授 会に論文を提出して学位を授与される依存体質から 脱却し,自前で課程博士を育成して論文審査を実施 する体制の整備を確実にして,はじめて国から認可 される。つまり,GHQ の占領下でやっと旧制,そ して新制の大学に昇格した歯科大学が,その体制を さらに拡充しなければ,旧制の専門学校に逆戻りし て廃校の憂き目にあうという懸念も再燃してきたの である。 同様の課題は当然,他の自然科学,人文,社会科 学系大学院にも生じ,さらに修士のない博士だけの 医歯系との整合性に手間取った結果,法と関連する 省令の整備にもかなりの長時間を要した。旧七帝国 大学医学部や官立の六医科大学(旧六),また私立旧 制大学でもすでに博士の学位を授与する実績を重ね てきたところは,比較的準備状況も整っていたが4) , 歯科大学それも私立単科大学の場合は,容易なこと ではなかった9−11) 。 時あたかも戦後復興が叫ばれる一方,経済的混乱 と激しいインフレーションに見舞われていたわが国 では,重要な事業の計画でも慎重に検討する時間的 余裕がなく,慌ただしく工事の前倒しを余儀なくさ れる事情さえあった。終戦直後の新円切換や預金封
― 解 説 ―
学校法人東京歯科大学の大学院建設に至る歴史的背景
⑴ 学位制度の発足から第二次大戦の敗戦まで
吉澤信夫
高橋英子
北林伸康
渡辺 賢
福田謙一
上田祥士
齊藤 力
片倉恵男
金子 譲
東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会 516 ― 32 ―鎖は辛うじて乗り越えたが,昭和20年代後半には金 融機関の融資引き締め政策が,押し寄せてきたので ある。しかも新憲法第89条の規定を理由に,私立学 校に対する助成は当初行われなかった。学校法人を はじめ,民間の医療機関などに対する公的融資制度 が曲がりなりにも新設,拡充されるのは,1960(昭 和35)年6月11日 施 行 の「医 療 金 融 公 庫 法」や, 1976(昭和51)年4月1日施行の「私立学校振興助成 法」以後の時代である。 東京歯科大学のように,私立でしかも単科の大学 が,あらたに大学院を設置する必要に迫られたのは 前述の1953(昭和28)年ころからである。国や社会の 急激な変動に対応する大学,同窓会等の悪戦苦闘の 歴史は昭和の一時期に語り草となったものの,もと もと記録に乏しく,関係者の記憶もしだいに希薄に なっている12) 。 そこで,あらためて学位とはどのような歴史を有 するものかを探究し,そして歯科医学教育機関に とっての意義を念頭に置きながら,本学が大学院歯 学研究科を建設するまでの経過を,詳細に検証する ことにした。 1.学位制度の発足 1)第一次学位令 わが国で初めて正式に学位制度が発足したのは, 1887(明治20)年のことである。同年5月21日土曜日 発行の官報(1166号,pp.201,1887.)によ る と,次 のような記事がある。 ○勅令 朕學位令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 御 名 御 璽 明治二十年五月二十日 内閣總理大臣 伯爵伊藤博文 文 部 大 臣 子爵森 有禮 勅令第十三號 學位令 第一條 學位ハ博士及大博士ノ二等トス 第二條 博士ノ學位ハ法學博士醫學博士工學博士文 學博士理學博士ノ五種トス 第三條 博士ノ學位ハ文部大臣ニ於テ大學院ニ入リ 定規ノ試驗ヲ經タル者ニ之ヲ授ケ又ハ之ト同等以 上ノ學力アル者ニ帝國大學評議會ノ議ヲ經テ之ヲ 授ク 第四條 大博士ノ學位ハ文部大臣ニ於テ博士ノ會議 ニ付シ學問上特ニ功績アリト認メタル者ニ閣議ヲ 經テ之ヲ授ク 第五條 本令ニ關スル細則ハ文部大臣之ヲ定ム これによって「博士」が正式に学位の名称とな り,翌1888(明治21)年5月7日第1回の博士号が25 名に対して授与された。なおこの時,法学,医学, 工学,文学,理学の各分野に対し均等に5名ずつと いう扱いであったが,このうち文部省学位録の第1 号として名を残しているのは,理学博士第1号でも ある伊藤圭介(当時86歳)である13−15) 。 また,注目すべき点は上記第3条のところで大学 院という文字が見えることである。実はこの前年の 1886(明治19)年に「帝国大学令」(勅令第3号)が発 令されており,その第2条や第4条などに大学院と いう名称が初めて登場していた。しかしこの時点で の大学院は,唯一東京の帝国大学に予定されるだけ で,第2の帝国大学が京都に設立するのは,10年後 の1897(明治30)年になってからである。 しかも大学院では在学者が少なく,海外留学や就 職の“待合室”として,または外国からの留学生の 受け皿として利用されていた4) 。 それまでの20年もの間,すなわち1877年から1886 年までは「東京大学」で,1886年から1897年までの 間は地域名のない「帝国大学」だったのである。こ のように,まさに近代的日本が形成される黎明期に おける大学は,国策による唯我独尊の状態で,他大 学との競争の時代に入るのは遥かな後年ということ になる(図1−a,b)。 上記学位令の第3条はいわゆる課程博士で,現代 にも通じるコースであるが,明治の社会では時間的 経済的制約等から実質的にほとんど機能しなかっ た。当時の研究者養成の主要なコースは,海外留学 であった。その結果,博士の授与は推薦によるもの が8割以上を占め,課程博士は極端に少なかったの である(表1)。そのことはある程度予測されたもの らしく,同条の後半に現代の論文博士に通じる規程 が追加されている。ただしそれでも,博士の学位取 得予定者に論文等の業績や条件を求めるような規定 はない。細則は文部大臣つまり官僚の裁量にかかっ 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 517 ― 33 ―
江戸時代・幕末・維新期 [洋 学] 天文方→(1811年)蕃所和解御用→(1856年)蕃 所調所→(1863年10月11日)開成所→開成学校 →(大学南校→東京開成学校→ (1887年設置)法学部・理学部・文学部 [西洋医学](1858年神田お玉が池)種痘所→(1861年11月) 西洋医学所→(1863年)医学所→《1863年横浜 軍陣病院→》(1868年8月)医学校→ 《大病院→》(1869年8月15日)医学校兼病院→ (1870年1月18日)大学東校→(1874年)東京医 学校→(1877年設置)医学部 [漢 学] 昌平坂学問所→(1868年)昌平学校→(1869年 8月15日)大 学 校→(1870年1月18日)大 学 本 校→(1870年8月8日)休校,閉鎖→ (1871年)廃止 [外 国 語](1863年10月11日)開成所→(1868年9月)開成 学校など→ (1873年設立)東京外国語学校(旧外語) (1874年分離独立)東京英語学校 (1877年設立)大学予備門 [法 学](1871年9月)司法省明法寮→法学校正則科 (司法省法学校) [工 学](1871年)工部省工学寮→工学校→(1877年1 月)工部大学校 [農 学] 内務省(1873年以降)農事修学場 旧「東京大学」期 (1877年−1886年) (1877年設置)東京大学法学部(→1885年「法政学部」に改称)・理学部・ 文学部・医学部・(1885年新設)工芸学部 [教養課程] 大学予備門→(1886年中学校令により独立)第 一高等中学校 [法 学] 法学校正則科(司法省法学校)→(1884年文部 省移管)東京法学校→(1885年合併)法学部 [工 学] 工部大学校→(1885年文部省移管)→(1886年 帝国大学発足時に工芸学部と合併)工科大学 [農 学] 内務省農事修学場→農学校→(農商務省移管) 農学校→駒場農学校 [林 学] 内務省樹木試験場→(農商務省移管)樹木試験 場→東京山林学校 図1−a 東京大学の複雑な源流・前身諸機関⑴(「東京大学百年史」等を参考に著者が作成) 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 518 ― 34 ―
「帝国大学」期 (1886年−1897年) (1886年設置)帝国大学法科大学・理科大学・文科大学・医科大学・工科 大学 [農学・林学] 駒場農学校・東京山林学校→(1886年)東京農 林学校→(1890年設置)農科大学 [教養課程] 第一高等中学校→(1894年改称)第一高等学校 「東京帝国大学」期 (1897年−1947年) (1897年設置)東京帝国大学法科大学・理科大学・文科大学・医科大学・ 工科大学・農科大学 [経 済 学] 法科大学経済学科・商業学科→(1919年新設) 経済学部 (1919年設置)東京帝国大学法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・ 農学部・経済学部 [教養課程](1921年設立)東京高等学校 [農 学] 農学部実科→(1935年独立)東京高等農林学校 →(1949年に設立)東京農工大学 [工 学](1942年設置)第二工学部(従来の工学部は第 一工学部に改称) 旧制「東京大学」期 (1947年−1949年) (1947年改称)東京大学法学部・医学部・文学部・理学部・農学部・経済 学部・第一工学部・第2工学部 [工 学] 第一工学部→(1949年改称)工学部 [工 学] 第二工学部→(1949年廃止)東京大学生産技術 研究所 [教養課程] 第一高等学校・東京高等学校→(1949年新制 大学発足時に包括・学部新設)教養学部 [教 育 学] 文学部教育学科→(1949年設置)教育学部 新制「東京大学」期 (1949年− ) (1949年設置)東京大学法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学 部・経済学部・教養学部・教育学部 [薬 学] 医学部薬学科→(1958年に新設)薬学部 2010年現在の学部 法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済 学部・教養学部・教育学部・薬学部 図1−b 東京大学の複雑な源流・前身諸機関⑵(「東京大学百年史」等を参考に著者が作成) 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 519 ― 35 ―
ていたのであろう。 大博士については論外で,実際に大博士号を授与 された者はいなかった。 2)学位令の改正と博士會 最初の學位令が発令されてから11年後の1898(明 治31)年に,改正を示す勅令が出された。図2に示 されるように,天皇の御名御璽の直前には「朕學位 令改正ノ件ヲ裁可シ」とあるので,第1次学位令の 改正の扱いと見てよい。ただ天野16) は,これを第二 次学位令と称している。事実その内容はかなり大幅 で,「大博士」という文言が削除,廃止され,学位 の種類が新たに「藥學博士,農學博士,林學博士及 獸醫學博士」の4博士を加えた9種となっているく らいなので,本稿でも天野の考えに従い,このとき の勅令は第二次学位令として扱うことにしたい。 さらに,ここで奇妙な第2条が登場した。第2条 第1項第1号は課程博士と論文博士のことであるの でまず問題ないとしても,第2条第1項第2号に 官報第4635號(117頁)明治31年12月10日土曜日 ○勅令 朕學位令改正ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 御 名 御 璽 明治三十一年十二月九日 文部大臣 伯爵樺山資紀 勅令第344号(明治31年) 學位令 第1條 學位ハ法學博士、醫學博士、藥學博士、工學博士、文學博士、理學博士、農學博 士、林學博士及獣醫學博士ノ九種トス 第2條 學位ハ文部大臣ニ於テ左ニ掲クル者ニ之ヲ授ク 一 帝國大學大學院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者又ハ論文ヲ提出シテ學位ヲ請求シ帝 國大學分科大學教授會ニ於テ之ト同等以上ノ學力アリト認メタル者 二 博士會ニ於テ學位ヲ授クヘキ學力アリト認メタル者 2 帝國大學分科大學教授ニハ當該帝國大學総長ノ推薦ニ依リ文部大臣ニ於テ學位ヲ 授クルコトヲ得 第3條 學位ヲ有スル者其ノ榮譽ヲ汚辱スルノ行為アルトキハ博士會ノ議ヲ経テ文部大臣 其ノ學位ヲ褫奪(ちだつ)ス 第4條 明治二十年勅令第十三号學位令ニ依リ授與シタル學位ハ本令ノ學位ト同一ノモノ トス 第5條 本令ニ關スル細則ハ文部大臣之ヲ定ム 表1 第一次学位令(明治20年)による学位授与数(天野16) による) 法 医 工 文 理 計 % 大学院卒業 0 0 0 0 4 4 2.9 論 文 提 出 1 8 0 1 9 19 13.7 評議会推薦 16 30 31 14 23 114 82 総 長 推 薦 2 0 0 0 0 2 1.4 計 19 38 31 15 36 139 % 13.7 27.3 22.3 10.8 25.9 100 100 図2 第二次学位令(勅令344号,明治31年) 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 520 ― 36 ―
「博士會」なるものが明記されたのである。博士會 の性格は,改正された学位令と同日の官報に「博士 會規則」(勅令第345号)として公示されている(図 3)。また学位令の第2条第2項には,学位をもっ ていない帝国大学の教授に対して,大学総長の推薦 により文部大臣が学位を授与できる旨が新たに規定 されたが,いわば,総長の独断でなされる学位授与 である。このような条文は,当時でさえ世間の常識 との違いがあったことを浮き彫りにしている17) 。 以上のように,第一次学位令の改正と博士會なる ものが学位授与に関わるようになった結果,博士の 授与数は10倍以上になった(表2)。1899(明治32)年 ではその9割までが推薦で,世間ではきわめて評判 が悪く,当時の総合雑誌「太陽」によると「タケノ コ博士」とか「蚤のきんたま博士」「足の裏につい たメシ粒」とののしる者もあったという16,18,19) 。 学位の種類としては薬学や獣医学などが追加され て増えているが,「歯学」の名称はない。1903(明治 36)年に登場する専門学校の教員資格としても,学 位の価値は充分高かった時代である20) 。後述するよ うに歯科医師でも花澤 鼎,奥村鶴吉の後を追い, 帝国大学医学部や官立私立医科大学の教授会に論文 官報第4635號(117頁)明治31年12月10日土曜日 ○勅令 朕博士會規則ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 御 名 御 璽 明治三十一年十二月九日 文部大臣 伯爵樺山資紀 勅令第345號(明治31年) 博士會規則 第1條 博士會ハ文部大臣ノ監督ニ属シ明治三十一年勅令第三百四十四號學位令第二條第 二項第二號及第三條ニ規定セル學位ノ授與褫奪ニ関スル事項ヲ審査ス 第2條 博士會ハ法學博士会醫學博士会藥學博士会工學博士会文學博士会理學博士会農學 博士会林學博士会及獸醫學博士會ノ九種トシ當該博士ヲ以テ組織ス 第3條 博士會ハ文部大臣ニ於テ必要アリト認メタルトキ又ハ會長ヨリ具申アリタルトキ 文部大臣之ヲ召集ス 2 博士會ノ會員ノ過半数出席スルニアラサレハ議決スルコトヲ得ス 第4條 學位授與ノ議事ハ出席會員三分ノ二以上學位褫奪ノ議事ハ出席會員四分ノ三以上 ノ多数ニ依リ之ヲ決ス 2 前項ノ議決ハ無記名ヲ以テ之ヲ行フ 第5條 博士會會長ハ會員中ヨリ之ヲ互選シ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ 2 會長ハ會務ヲ総管シ議事ヲ整理シ其ノ議決ヲ文部大臣ニ具申ス 第6條 各博士會ヲ通シテ幹事一人ヲ置キ文部省高等官中ニ就キ文部大臣之ヲ命ス 2 幹事ハ各會長ノ指揮ヲ受ケ庶務ヲ整理ス 第7條 各博士會ヲ通シテ書記二人ヲ置キ文部属ヲ以テ之ニ充ツ 2 書記ハ各會長及幹事ノ命ヲ受ケ議事ノ筆記及庶務ニ従事ス 第8條 博士會會員ニハ旅費日當等ヲ給与セス 第9條 博士會ノ議事規則ハ各博士會ニ於テ之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ 附 則 第10條 同種ノ博士七名ニ充タサル間當該博士會ノ職務ハ東京帝國大學評議會ニ於テ之ヲ 行フ 図3 博士会規則(勅令345号,明治31年) 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 521 ― 37 ―
を提出して,医学博士を取得する者がつぎつぎと現 れたのは,大正末期以降のことである21,22) 。卒業し ただけで教員資格を有する帝大等からの外部講師を 招聘することによって,実際の支障はないと判断し ためか,1906(明治39)年になって医師法と分離して 歯科医師法が成立したものの,医療としては本質的 に一元であるとする考えが依然有力であったため か,いずれにせよ「歯学博士」が生まれるのは,周 知のように第二次大戦後の1956(昭和31)年になって からである。 1898(明治31)年に発令されたこの学位令の改正 は,一般社会の評判がきわめて悪く,多くの問題, 話題を残すことになる。ちなみに文豪夏目漱石につ いては,有名なエピソードがある。1911(明治44) 年,「2月20日,文部省より文学博士号授与の通知 を受け辞退を申し出たが,了承されず,4月半ば過 ぎまで折衝が続き,物わかれとなって世間の耳目を 聳動した」(夏目漱石集,明治文学全集第55巻,441 頁,筑摩書房,1971年)。この後,結局本人の意志 と関係なく,博士号は授与された。すなわち「博士 録」の文学博士の部を見ると,東京帝国大学卒・英 文学専攻の夏目金之助は,「博士會推薦」により明 治44年2月21日 第85番 目 の 文 学 博 士 と な っ て い る16) 。 後述する1920(大正9)年の学位令でも博士号につ いては,「其ノ榮譽ヲ汚辱スル行為」があったとき は「學位ノ授與ヲ取消ス」とか「其ノ學位ヲ褫奪 (ちだつ)ス」など,厳しく戒める条文が付記されて いる。 2.画期的な大学令(大正7年)の発令 学位令はさておき,1918(大正7)年12月6日に勅 令第388号を以って発令された大学令は,わが国の 教育史上でも特筆すべき時代の到来を意味するもの であった。すなわち帝国大学以外の「大学誕生」の 道が開かれ,官公立のみならず,私立にも道が示さ れたのである。加えて複数の学科を揃えた,総合大 学こそが大学であるという思想が払拭された。これ によって官公私立の専門学校は,以後続々と単科を 含む大学昇格をめざすことになる23,24) 。 背景として,帝国大学自体の内部矛盾から生じた 保守性と停滞がある。長年,法科偏重で来たため に,新しい学問の台頭に適応する体制が整わず,人 事の新陳代謝もできず,新旧世代の抗争が生じた。 さらに1918(大正7)年に終結した第一次世界大戦に よってもたらされた空前の経済活況がある。一般庶 民にも向学心が広まったにもかかわらず,帝国大学 はきわめて門戸が狭かった。時は大正デモクラシー の時代で,教育需要は質量ともに拡大しつつあっ た。不満は陰に陽に鬱屈し,あるときは暴発した。 その代表的なものは,新渡戸稲造外14名が訴えた 「大学制度改正私見」であろう。この文書25) は,帝 国大学の法学農学工学文学等の博士号をかかえた少 壮気鋭の学者達が,後に詳述する「臨時教育会議」 の発足の噂を聞きつけて作成したもので,1918(大 正7)年2月,臨時教育会議の委員や文部当局に送 付されていたことが知られている。なお,原本は活 版印刷菊版15頁で,早稲田大学図書館に所蔵されて いる。 またその直後,1918(大正7)年3月19日に帝大総 長山川健次郎の諮問を受けて,東京帝国大学内に設 置された「帝国大学制度調査委員会」は,大正7年 3月27日から4月30日までの合計10回の会合でまと めた審議結果を,そのまま同年6月29日岡田良平文 部大臣あての「上申書」26)として提出した。 表2 学位令の改正(明治31年)による学位授与数(天野16)による) 法 医 薬 工 文 理 農 林 獣医 計 % 大学院卒業 2 0 1 0 24 15 7 3 2 54 2.8 論 文 提 出 30 799 18 84 78 96 53 26 11 1,195 62.7 博士會推薦 110 0 12 186 42 4 34 5 10 403 21.1 総 長 推 薦 61 7 5 86 37 31 20 5 3 255 13.4 計 203 806 36 356 181 146 114 39 26 1,907 % 10.6 42.3 1.9 18.7 9.5 7.8 6.0 2.0 1.4 100.0 100.0 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 522 ― 38 ―
1)帝国大学に関する内外の批判と臨時教育会議の 発足 明治維新以来,国内のあらゆる分野に覇権をふ るってきた1886(明治19)年設立の(東京)帝国大学に も,大正期になると上記のように内外から学制改革 を訴える運動が生まれてきた。 1916(大正5)年10月,岡田良平が文部大臣に就任 すると,翌大正6年9月20日「臨時教育会議」官制 (勅令第152号)が公布された。この臨時教育会議は, わが国最初の内閣直属の教育諮問機関とされてい る。会議の総裁には平田東助,副総裁に久保田 譲 が任命され,委員には36名が名を連ねた。その委員 の顔ぶれは小松原英太郎,一木喜徳郎,高木兼寛, 嘉納治五郎,小山健三,そして1914(大正3)年に京 大事件で総長の職を逐われた澤柳政太郎なども名を 連ねており,いかにも大正時代らしく当時としては 政府関係の要路にある者,軍関係を含む各方面の代 表者,教育関係の専門家も加えた一般の信頼を得る ための気配りが込められている27,28) 。 諮問事項は小学教育,高等普通教育,大学教育及 専門教育,師範教育,視学制度,女子教育,実業教 育,通俗教育,学位制度など,まさに教育全般に及 んでいる。この中で大学教育及専門教育について は,正式に記すと, 諮問第三号 「大学教育及専門教育ニ関シ改善ヲ施スヘキモノ ナキカ若シ之アリトセハ其ノ要点及方法如何」とい うものである。 臨時教育会議は1年半をかけて,広範かつ詳細な 討議を重ねた。 そのうち,単科大学に関して提出された意見を, 森川24) はつぎのように簡略にまとめている。それは 1.総合大学理想論,2.総合大学・単科大学並列 論,3.単科大学創設積極論の3つに分類した。そ して1の論者も結局は,単科大学を「認めざるを得 まい」,「日本の国情において必要に迫られている」, 「巳むを得ぬ」といった表現で,事実上第3の論に 与する意見を表明している。 このような経過を経て臨時教育会議は1918(大正 7)年6月22日,文部大臣に対して,厖大な答申を 行った。 答申は21項目,さらに希望事項が8項目あり,そ れぞれに理由(説明)が加えられている。答申第2で は「大学ハ綜合制ヲ原則トスルモ単科制トナスヲ得 シムルコト」,答申第13では「大学ハ官立及財団法 人ノ設立トスルコト但シ特別ノ事情アル場合ニ於テ ハ公共団体ノ設立ヲ認ムルコト」と記述されてい る29) 。 以上のような現実に立脚した議論の中から,私立 にも「大学」を認めることになった。ただし,大学 令の条文で第2条は, 「大学ニハ数個ノ学部ヲ置クヲ常例トス但シ特別 ノ必要アル場合ニ於テハ単ニ一個ノ学部ヲ置クモノ ヲ以テ一大学ト為スコトヲ得」となっており,ま た,第4条では 「大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規 定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得」となってい ることから,単科や公立私立はあくまで例外扱いと されたことに注意しなければならない。裏をかえせ ば,単科や私立は専門学校のままでもよいではない かという見解を,否定していない。この結果,依然 大学の基本は官立(国立)で,総合大学の形態をとる ものとされ,私立の,まして単科の認可等には厳し く,広範囲にわたる監督権限を法令によって留保す ることになった。さらに,私有財産である私立学校 には,財団法人化することを促しているが,これは 資産の充実など,財政的に厳しい試練となることが 後々判明する。 それでもこの大学令は,実質的に大幅な「緩和」 をもたらすことになり,官公私立ともども専門学校 の大学昇格ラッシュが惹起される。 事実,大学令によって,官公私立の専門学校は以 後続々と大学昇格を実現した。しかし,歯科医学専 門学校には実質的にその道への歩みを閉ざされた。 これについてはいずれ,その経緯を詳細に調査検証 する必要があると考えている。 2)専門学校令による「大学」の出現 この少し前,1915(大正4)年には大阪高等医学校 (佐多愛彦校長)の大学昇格という,現代では不可解 な認可があった。これは「専門学校令」による「大 阪府立大阪医科大学」という扱いだったのである。 ちなみに1903(明治36)年の専門学校令には,大学の 文字はない。慶応義塾も大阪の例にならって,専門 学校令により1916(大正5)年12月27日「慶応義塾大 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 523 ― 39 ―
学医学科」となった。 このような法と実態の大きな乖離を解消するねら いもあって,大正7年に発令された大学令により 1920(大正9)年2月5日に,財団法人「慶応義塾大 学」は早稲田大学とならんで設立認可のはこびとな る。官報30) には,次のような記事がある。 文部省告示第三十五號 財團法人慶應義塾ニ於テ大學令ニ依リ慶應義塾大 學ヲ設立スルノ件 大正九年二月五日認可セリ 大正九年二月六日 文部大臣 中橋徳五郎 つづいて後の記事は 文部省告示第三十六號 財團法人早稲田大學ニ於テ大學令ニ依リ早稲田大 學ヲ設立スルノ件 大正九年二月五日認可セリ 大正九年二月六日 文部大臣 中橋徳五郎 と記されている。ここで,早稲田は大学令の発令さ れる前から早稲田大学と称していたことがわかる。 早稲田の存在は,法によって認められた大学ではな くても,自他ともに大学にふさわしい条件を備えて いたのである。私立であったばかりに,大学として 認可されなかっただけで,慶應も同様であった。た だ,この2校は別格で,私立は玉石混淆で油断がな らない,いかがわしいものが少なくないというのが 今日まで残っているかどうかはともかく,官僚をは じめとする国の感覚である31) 。 いずれにせよ,この慶応義塾は大学令による私立 医科大学の嚆矢となった32,33) 。1881(明治14)年5月 1日に創立された成医会講習所については,1903 (明治36)年5月18日「東京慈恵医院医学専門学校」 の設立認可を受け,その後校名の改称をくりかえし たが最後に東京慈恵会医院医学専門学校となり, 1921(大正10)年10月19日「財団法人東京慈恵会医科 大学」として初の単科大学としての設置許可を受け た。 このころの日本社会における,いわゆる上層階級 の「月旦(品定め)」を興味深く表した,1914(大正 3)年刊行の錦谷秋堂著「大学と人物(各大学卒業生 月旦)」を紹介した記事がある34)。この資料は本来, 当時の受験案内書であるが,諸学校の現実から浮か び上がってくるのは,第1にそれぞれの学校の持っ ていた個性,第2にそれら諸学校間の,職業や活動 分野との関連での「棲み分け」の構造,第3にその 「棲み分け」の変動への兆しである。具体的には行 政官僚,技術官僚,司法官僚,弁護士,地方政治・ 行政,新聞界(操觚界),中等教員,実業界などであ る。各大学・専門学校の卒業者の活動状況を,氏名 や卒業年をあげて紹介している。 3)大学令の発令(図4) 大学令の発令された1918(大正7)年の時点におけ る医師養成機関は次の通りである。 帝国大学医学部:4校 [東京,京都,九州(福岡),東北(仙台)] 公立医大:1校 [大阪(註;大阪府立医学専門学校は大学令の公 布に先立つ1915(大正4)年に大阪医科大学と改 称)] なお,大阪府立大阪医科大学は1919(大正8)年, 正式に大学令によって医学部となった。 また医学専門学校については,以下の通りであ る。 官立医学専門学校:5校 [千葉,岡山,金沢,長崎,新潟] 公立医学専門学校:2校[京都,愛知(名古屋)] 私立医学専門学校:5校 [慶応,東京慈恵会,日本,東京女子,熊本] なお,慶応義塾大学医学部予科は1917(大正6)年 4月16日に95名の学生に対して授業が開始され,初 代医学部長兼附属病院長に北里柴三郎が就任してい る。そして1920(大正9)年になって慶応義塾大学医 学科は,大学令による医学部となる。 大正9年,東京高等商業学校は新たに「東京商科 大学」(現一橋大学)に昇格した。これは官立(国立) で,しかも単科の大学である。ただし,帝国大学と 違い,しばらく講座制が導入されることはなかっ た。 つづいて1922(大正11)年に新潟,岡山,翌年には 千葉,金沢,長崎の官立医学専門学校が揃って単科 の医科大学に昇格する。さらに1925(大正14)年には 公立の熊本医科大学が設置され,のちの1929(昭和 4)年官立に移管し,いわゆる官立の「旧六」医科 大学を形成することになる。この時の政策は帝国大 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 524 ― 40 ―
官報第1903號(145頁)大正7年12月6日金曜日
大学令
(大正七年十二月六日勅令第三百八十八號) 第一條 大學ハ國家ニ須要ナル學術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目 的トシ兼テ人格ノ陶冶及國家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス 第二條 大學ニハ數個ノ學部ヲ置クヲ常例トス但シ特別ノ必要アル場合ニ於テハ單ニ一個 ノ學部ヲ置クモノヲ以テ一大學ト為スコトヲ得 學部ハ法學、醫學、工學、文學、理學、農學、經濟学及商學ノ各部トス 特別ノ必要アル場合ニ於テ實質及規模一學部ヲ構成スルニ適スルトキハ前項ノ學 部ヲ分合シテ學部ヲ設クルコトヲ得 第三條 學部ニハ研究科ヲ置クヘシ 數個ノ學部ヲ置キタル大學ニ於テハ研究科間ノ連絡協調ヲ期スル為之ヲ綜合シテ 大學院ヲ設クルコトヲ得 第四條 大學ハ帝國大學其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコト ヲ得 第五條 公立大學ハ特別ノ必要アル場合ニ於テ北海道及府縣ニ限リ之ヲ設立スルコトヲ得 第六條 私立大學ハ財團法人タルコトヲ要ス但シ特別ノ必要ニ因リ學校經營ノミヲ目的ト スル財團法人カ其ノ事業トシテ之ヲ設立スル場合ハコノ限ニ在ラス 第七條 前條ノ財團法人ハ大學ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ大學ヲ維持 スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコトヲ要ス 基本財産中前項ニ該當スルモノハ現金又ハ國債證券其ノ他文部大臣ノ定ムル有價 證券トシ之ヲ供託スヘシ 第八條 公立及私立ノ大學ノ設立廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ學部ノ設置廃止亦同シ 前項ノ認可ハ文部大臣ニ於テ勅裁ヲ請フヘシ 第九條 學部ニ入學スルコトヲ得ル者ハ當該大學豫科ヲ修了シタル者、高等學校高等科ヲ 卒リタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ學力アリト認メラレタル 者トス 入學ノ順位ニ關スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム 第十條 學部ニ三年以上在學シ一定ノ試驗ヲ受ケ之ニ合格シタル者ハ學士ト稱スルコトヲ 得 前項ノ在學年限ハ醫學ヲ修ムル者ニ在リテハ四年以上トス 第十一條 研究科ニ入ルコトヲ得ル者ハ醫學ヲ修ムル者ニ在リテハ四年以上其ノ他ノ者ニ 在リテハ三年以上當該學部ニ在學シ其ノ他相當ノ學力ヲ具ヘタル者ニシテ當該學部 ニ於テ適當ト認メタルモノトス 第十二條 大學ニハ特別ノ必要アル場合ニ於テ豫科ヲ置クコトヲ得 大學豫科ニ於テハ高等學校高等科ノ程度ニ依リ高等普通教育ヲ為スヘシ 第十三條 大學予科ノ修業年限ハ三年又ハ二年トス 修業年限三年ノ大學豫科ニ入學スルコトヲ得ル者ハ中學校第四學年ヲ修了シタル 者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ學力アリト認メラレタル者トス 修業年限二年ノ大學豫科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ中學校ヲ卒業シタル者又ハ文 部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ學力アリト認メラレタルモノトス 第十四條 大學豫科ノ設備、編制、教員及教科書ニ付テハ高等學校高等科ニ関スル規定ヲ 準用ス 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 525 ― 41 ―学医学部の収容力不足を補うことをねらいとするも ので,医学専門学校レベルの教育を否定したわけで はなかった。事実,私立の医学専門学校はその後も 設置されている。 4)東京歯科医学専門学校の動向 東京歯科医学院は1907(明治40)年に専門学校昇 格を果たし,1919(大正8)年には10年を経過してい た。そして高山歯科医学院の創立以来29年の歳月が 流れ,東京歯科医学専門学校の発展策が校長の血脇 守之助をはじめ学内外の有識者によって論議され た。翌年に創立30年を迎えることでもあり,奥村鶴 吉らは歯科大学建設の積極論を唱えた。 しかし,血脇は私立大学申請の前提として,先に 財団法人に組織を編成する必要性を認識していて, 慎重論を唱えた。大学としてふさわしい,さらなる ハードとソフトを整えるのが順序と見ていたのであ ろう。すなわち私有財産である学院を一段階拡充さ せ,然るのち財団法人に移管することが採るべき筋 道と考えたといわれている。 そこで拡張基金募金勧誘状を発し,母校の設備拡 張計画の予算を詳細な内訳とともに50万円とした。 1919(大正8)年10月20日,第1回の説明会を基金委 員会で行った血脇をはじめとする教職員の全国行脚 が,その翌日から始まった。 第1回 基 金 募 集 で は 最 終 的 に 申 し 込 み 総 額 667,610円50銭にのぼったという。この同窓会の運 動に並行して,学生を主体とした「歯科大学創設期 成会」が結成され,大演説会が開催され,大変な盛 り上がりを示し,決議文ならびに趣意書が発表され た。 だが,この学生運動は学生自身の消耗を招き,学 業の停滞など支障を生ずるに至ったため,学校側の 説得もあって終息に向かう。 1920(大正9)年3月,血脇は資産455,400余円を 寄附して財団法人を組織した。また校舎拡張充実の ための基金応募額は1,062,000余円に達したため, 大正10年7月より校舎一部の新築に着手,近隣の土 地を買収して敷地を拡張した35) 。 ちなみに,東京歯科医学専門学校が大学令による 東京歯科大学として文部省から認可されたのは,第 二次世界大戦後の1946(昭和21)年7月19日のことで ある。これはいわゆる旧制の大学で,予科3年の7 年制であった36−38) 。 3.第三次学位令(大正9年) 既述のように,臨時教育会議の「大学教育及専門 教育の改善」に関する答申(大正8年3月28日)に基 づいて,新たに「大学令」が制定された。それを受 第十五條 大學豫科ノ生徒定數ハ毎年ノ豫科修了者ノ員數カ其ノ年當該大學ニ収容シ得ル 員數ヲ超過セサル程度ニ於テ之ヲ定ムヘシ 第十六條 大學及大學豫科ノ學則ハ法令ノ範囲内ニ於テ當該大學之ヲ定メ文部大臣ノ認可 ヲ受クヘシ 第十七條 公立及私立ノ大學ニハ相當員數ノ専任教員ヲ置クヘシ 第十八條 私立大學ノ教員ノ採用ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ公立大學ノ教員ニシテ官吏 ノ待遇ヲ受ケサル者ニ付亦同シ 第十九條 公立及私立ノ大學ハ文部大臣ノ監督ニ属ス 第二十條 文部大臣ハ公立及私立ノ大學ニ対シ報告ヲ徴シ検閲ヲ行ヒ其ノ他監督上必要ナ ル命令ヲ為スコトヲ得 第二十一條 本令ニ依ラサル學校ハ勅定規程ニ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外大學ト稱シ又 ハ其ノ名稱ニ大學タルコトヲ示スヘキ文字ヲ用ウルコトヲ得ス 附則 本令ハ大正八年四月一日ヨリ之ヲ施行ス 本令施行ノ際現ニ大學ト稱シ又ハ其ノ名稱ニ大學タルコトヲ示スヘキ文字ヲ用ウル學校ニ ハ當分ノ内第二十一条ノ規定ヲ適用セス 図4 大学令(勅令388号,大正7年) 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 526 ― 42 ―
けて評判の悪かった明治31年改正の「学位令」(明 治31年,勅令344号)を廃止し,全面的に変更するも ので,1920(大正9)年7月6日の官報に公示された のが,第三次学位令である。 内容を見ると,従来の学位令に明記されていた博 士會は廃止となり,総長推薦の学位も消えた。この 年代になると帝国大学の1校独占から増加して4校 (東京,京都,九州=福岡,東北)となり,さらに官 立や私立の大学も誕生した後であるから,明治の制 度からは大幅に変わっている。 官報第2378號 ○ 勅令 朕枢密顧問の諮詢(しじゅん)ヲ経テ学位令ヲ裁可シ 茲(ここ)ニ之ヲ公布セシム 御 名 御 璽 大正九年七月五日 内閣總理大臣 原 敬 文 部 大 臣 中橋徳五郎 勅令第二百號 學位令 第一條 學位ハ博士トス 第二條 學位ハ大學ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ經テ之 ヲ授與ス 第三條 博士ノ種類ハ大學ニ於テ之ヲ定メ文部大臣 の認可ヲ受クベシ 第四條 學位ヲ授與セラルヘキ者ハ大學學部研究科 ニ於テ二年以上研究ニ從事シ論文ヲ提出シテ學部 教員會ノ審査ニ合格シタル者又ハ論文ヲ提出シテ 學位ヲ請求シ學部教員會ニ於テ之ト同等以上ノ學 力アリト認メタル者トス 第五條 學部教員會ハ前條ノ論文審査ニ付其ノ提出 者ニ對シ試問ヲ行フコトヲ得 第六條 大學ニ於テ學位授與ノ認可ヲ申請スルトキ ハ論文及其ノ審査ノ要旨ヲ添附スへシ 第七條 學位ヲ授與セラレタル者ハ授與ノ日ヨリ六 月内ニ其ノ提出ニ係ル論文ヲ印刷公表スヘシ但シ 學位授與前既ニ印刷公表セラレタルモノナルトキ 又ハ文部大臣ニ於テ其ノ印刷公表ヲ相當ナラスト 認メタルモノナルトキハ此ノ限ニ在ラス 第八條 大學ハ論文ノ審査ニ付手數料ヲ徴収スルコ トヲ得 第九條 學部教員會ニ於ケル論文審査ノ手續其ノ他 學位ニ關スル規程ハ大學ニ於テ之ヲ定メ文部大臣 ノ認可ヲ受クヘシ 第十條 學位ヲ有スル者其ノ榮譽ヲ汚辱スル行為ア ルトキハ大學ニ於テ學位ニ關スル規程ニ依リ文部 大臣ノ認可ヲ經テ學位ノ授與ヲ取消スコトヲ得 附 則 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス 明治三十一年勅令第三百四十四號學位令博士會規則 ハ之ヲ廃止ス但シ舊令ニ依リ授與シタル學位ハ仍 (なお)其ノ效力ヲ有ス 本令施行前論文ヲ提出シテ學位ヲ請求シタル者ニ對 シテハ舊令ニ依リ學位ヲ授與ス 舊令ニ依ル學位ヲ有スル者其ノ榮譽ヲ汚辱スル行為 アルトキハ文部大臣其ノ學位ヲ褫奪(ちだつ)ス ここで学位の種類はようやく,各大学が定めて文 部大臣の認可を得るところに緩和されていく。た だ,先に発令されていた大学令(勅令第388号)では, その第2条で「學部ハ法學,醫學,工學,文學,理 學,農學,經濟学及商學ノ各部トス」と明記されて おり,これら以外の学部を大学から申請しても,実 際には容易に認可されるものではなかったことが窺 われる。「歯科大学」への希望は,学問として未熟 であるとか,法令に規定されていないなどの理由 で,後々まで拒否される状態がつづく39)。大学に昇 格できない専門学校には,学位の審査権はもちろ ん,教授会(教員会)や講座もなかった。 4.歯科医師の医学博士取得 1902(明治35)年に東京歯科医学院を卒業した花澤 鼎は,1923(大正12)年6月7日に慶応義塾大学から 医学博士号(学位記第17号)を授与された。一方, 奥村鶴吉は1898(明治31)年高山歯科医学院卒業であ るが,学位の取得はアメリカ留学の関係で花澤に遅 れること一年,しかも関東大震災の翌年の1924(大 正13)年8月5日に,東京慈恵会医科大学から学位 記第6号をもって授与されている。それぞれ歯科医 師としての医学博士第1号,第2号であった。 1918(大正7)年12月6日に発令された大学令(勅 令第388号)により,慶応義塾大学医学部は1920(大 正9)年2月6日に認可されていた。 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 527 ― 43 ―
この時,歯科医師に学位は不要であるとか,嫉妬 めいた中傷,暴論まであったとされる40) 。 5.学位の意義と社会的評価 1)種類別分布 1920(大正9)年の第2次学位令第三條では,「博 士ノ種類ハ大學ニ於テ之ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受 クへシ」となって,明治期の学位令と異なり,大学 の特徴を受け入れるようなかたちとなっている。し かし,実際の判断は依然文部省にあり,それまでの 前例を逸脱するものは許されなかった。辛うじて経 済学,商学,政治学の3種が加わり,12種となっ た。 しかし,第三次学位令の発令された大正9年以 後,医学,理学,農学の学位授与が増加し,特に医 学に関しては乱造と非難される程の激増ぶりを示す ようになる(表3)。 2)医学博士の濫綬状況へ 天野16) は,第三次学位令の特徴を次のように分析 している。 第1に,学位の授与権は文部大臣の手から大学に 移ったことである。しかも帝国大学以外の官公私立 大学の設立が認められた結果,学位授与機関が一挙 に増えたことを意味する。 第2に,上記のように学位の種類を大学が定め, 文部大臣の認可を得ればよいことになった。 第3は,大学に論文を提出し,審査を受けること を必須としたことで,この点は大学院に学んだ課程 博士コースも,それ以外の者も同様としたことであ る。ただ,第3次学位令施行後も,課程博士の比率 は13%強と低い水準で推移することになる。 第4に,その学位論文は,学位授与から6か月以 内に印刷公表する義務を課したことである。内容的 に,現在とほとんど同じといってよいであろう。 しかし,むしろ現代では抄録で学位審査に合格 し,そのまま正式の原著論文を刊行せずに大学にも 届けない不心得者があるといわれている。抄録で受 け付ける大学にも責任があろうが,知見の発表を一 刻も争う国際競争の厳しさの表れでもある。 学位令の改正は本質的に適切な方向であったろう が,この改正はすなわち規制緩和であり,それにつ け込む者が多発した。学位制度の本質をしだいに歪 曲するようになるのが,医学関係であった。 3)開業医の博士号 近代の学位制度,中でも医学博士の場合,あまり 世評の芳しくないものであったことは,歴史的に否 定できない。橋本41) によれば,大正期の医師過剰で 開業医の市場は飽和化し,開業やその後の成功のた めに耳目をひきつける「博士」の権威的な称号が必 要とされるようになったという。 臨床医学の担い手であるはずの医師でも,開業後 に学位の取得をめざした場合は時間に制約がある関 係上,基礎医学の門を叩く傾向が強かった。基礎医 学の方が臨床医学よりも学位をとりやすいというの が,常識であったからである。 中山18) は,戦後のアメリカの Ph. D 制度を引き合 いに出し,その実態と背景を興味深く解説してい る。理系と文系のちがいはあろうが,医療系の学位 特に博士の場合,いちばん創造的な20代後半から30 代前半に,規模の大きな研究活動に集中的に従事, 専念することの重要性を示唆している。小規模で安 易なテーマを選び,短期間に結論の出る「蚤のきん 表3 学位の年平均授与数(天野16) による) 第一次学位令 明治21−31 第二次学位令 明治32−大正9 第三次学位令 大正10−昭和5 昭和6−12 法 学 1.7 9.2 3.6 5.4 医 学 3.5 36.6 311.8 794.5 工 学 2.8 16.2 15.1 35.4 文 学 1.4 8.2 4.1 12.9 理 学 3.3 6.6 16 37.6 農 学 − 5.2 10.2 21.0 全 体 12.6 86.7 367.7 919.4 (除医学) 9.1 50 55.9 124.9 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 528 ― 44 ―
たま」博士という人達の輩出に対する警鐘である。 医学博士が濫造された所以は,自身医師である 中川19) も認めている。開業医で博士号を持つ者が少 なかった時代は,戦前から戦後も法で厳しく広告が 規制されていた。患者は,博士でない医師よりも博 士である医師のところに集まりやすいことを,医師 自体が知っていたからである。 ちなみに少し先のことになるが,1953(昭和28)年 に新しい学位制度が発足してから1973(昭和48)年ま で,医学博士の学位を取得した者の数は28,154人で ある。この時すべての文,理系博士の数は51,330人 であるから,実に54.8%が医学博士で占められてい ることになる(文部省大学局大学課調べ)。逆に,学 生数からすれば,法学や工学の方がはるかに多いに も拘らず,工学博士は7,353人,法学博士はわずか 313人でしかなかった(表4)。 この背景に,日本では医局という独特の仕組みが 存続して,教室配下の医師に研究生という扱いで学 位を取得させる習慣が生き延びてきた経緯がある。 1965(昭和40)年代の大学紛争の一貫として,青医 連等が展開した「博士ボイコット」運動も発生した が,結局,博士を取得しようとする者が現われてく る。この“スト破り”達の論理が,医学博士という ものは「足の裏についたメシ粒」のようなものだと いう。その心は,取ってもどうということはない が,取らなければ何となしに気持ちが悪いというの である。自嘲めいたこの言葉は,かなり普及して今 日に伝えられている。 6.旧制大学院の特別研究生制度 第二次大戦前の大学院は,「最高学府」であるは ずの大学(学部)を卒業した後に,ひきつづき“残 留”するという,当時の社会一般には理解しがたい 存在であった。特に研究好きで教授の勧誘もあり, 将来は大学の研究者か教育者になる予定の者が時折 入る制度であったため,年によって入学者がなかっ たり,あってもごくわずかであった。その大学院 が,開戦を機に大きく変わる。 1941(昭和16)年12月8日未明,ハワイの真珠湾攻 撃で太平洋戦争が勃発して以降,大学生はつぎつぎ に戦場へ送られる情勢となった。帝国大学で養成さ れた貴重な人材も,容赦されなかった。この事態に 科学技術の途絶を恐れた関係者が,後継者確保を目 的として設けられた制度が,旧制大学院の「特別研 究生制度」である42) 。 これは文部省令に基づく大学院特別研究生制度と して,一定の基準を満たした旧制大学学部卒業者に 給費(のちに貸与)を行い,大学院に入学させるもの であった。当初は帝国大学だけの制度であったが, 後に私学出身国会議員などの抗議により,早稲田と 慶応義塾の両大学が加えられた。 この制度により毎年決まった数の研究生が入学し て大学院の主流となり,大学院の歴史始まって以来 の活況を呈することになったのである。 当該特別研究生(「特研生」)修了者は直ちに大学の 講師・助教授に採用されることが多かった。また, 学部卒業後は直ちに助手等(「学卒助手」「学士助手」 等と呼ばれていた)に任ぜられる道もあって,一定 期間後に多くが講師・助教授に採用される課程と並 び,当時の出世コースとみなされていた。 この制度は10年ほどつづき,事実,敗戦後の復興 にこれらの人材が貢献した役割は,きわめて大き かったとされる。しかし,こうした制度も長年に及 ぶと,種々の問題が生じてくることを世間から指摘 されるようになった43) 。 7.歯科医学専門学校の場合 1)歯科における学位の評価 歯科の開業医にとって博士号などという学位は, 明治以来第二次大戦後も昭和20年代末まで,全くと いってよいほどの高嶺の花であった。しかし,歯科 医学専門学校の教育に従事する教員の条件として は,「公立私立専門學校規程」等の法令によって 「學位ヲ有スル者」の価値は貴重であったことが知 られている。花澤 鼎,奥村鶴吉を筆頭とする歯科 領域からの学位取得者の誕生は,まさに破天荒の快 挙であった。 しかし,1939(昭和14)年1月1日に急遽,哈爾濱 醫科大學附設哈爾濱齒科醫學院の主任教授兼附属醫 院長として派遣された福島秀策教授以下歯科関係の 教員には,博士号の取得者がいなかった。わずかに 医師で部長の植村秀一(明治43年,愛知医専卒)が医 学博士であった程度である。 したがって歯科医学専門学校の勤務中に学位を取 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 529 ― 45 ―
表4 博士の学位授与状況 (昭和 48 年度,大学資料) 大学名 計 文 学 教 育 学 神 学 社 会 学 法 学 政 治 学 経 済 学 商 学 経 営 学 理 学 医 学 歯 学 薬 学 保 健 学 工 学 農 学 獣 医 学 水 産 学 昭和 48 年度中の授与数 甲 ! " # $乙 計 国立 1 ,1 57 1 ,7 02 2 ,8 59 0 21 21 2 14 16 − − − 1 1 2 9 10 19 − − − 1 16 17 0 1 1 0 1 1 31 6 26 3 57 9 22 4 64 0 86 4 27 17 44 68 93 161 5 0 5 37 2 41 7 78 9 12 0 19 6 31 6 0 5 5 12 7 19 甲 ! " # $乙 計 公立 90 234 324 0 1 1 − − − − − − 0 0 0 0 0 0 − − − 0 4 4 0 0 0 − − − 15 25 40 33 124 157 10 24 34 5 18 23 − − − 17 34 51 10 4 14 − − − − − − 甲 ! " # $乙 計 私立 32 8 63 7 96 5 5 20 25 0 0 0 0 3 3 3 0 3 2 8 10 1 2 3 1 3 4 1 2 3 0 1 1 18 20 38 16 7 36 1 52 8 68 140 208 5 2 7 − − − 47 43 90 3 14 17 7 18 25 0 0 0 甲 ! " # $乙 計 計 1 ,5 75 2 ,5 73 4 ,1 48 5 42 47 2 14 16 0 3 3 4 1 5 11 18 29 1 2 3 2 23 25 1 3 4 0 2 2 34 9 30 8 65 7 42 4 1 ,1 25 1 ,5 49 10 5 18 1 28 6 78 113 191 5 0 5 43 6 49 4 93 0 13 3 21 4 34 7 7 23 30 12 7 19 昭和 48 年度末までの 総数 (累計) 甲 ! " # $乙 計 国立 17 ,2 40 18 ,9 37 36 ,1 77 62 340 402 53 130 183 − − − 13 8 21 11 5 10 2 21 7 − − − 58 212 270 1 18 19 1 13 14 3 ,2 70 2 ,8 22 6 ,0 92 8 ,3 28 9 ,1 27 17 ,4 55 36 7 20 3 57 0 60 5 77 4 1 ,3 79 15 4 19 3 ,1 50 3 ,2 01 6 ,3 51 1 ,1 52 1 ,8 82 3 ,0 34 19 46 65 31 55 86 甲 ! " # $乙 計 公立 2 ,0 83 2 ,7 90 4 ,8 73 7 8 15 − − − − − − 0 0 0 4 3 7 − − − 0 23 23 0 6 6 0 0 0 11 0 32 7 43 7 1 ,6 93 2 ,0 87 3 ,7 80 53 51 104 36 48 84 − − − 14 5 21 3 35 8 35 24 59 − − − − − − 甲 ! " # $乙 計 私立 4 ,0 67 6 ,2 13 10 ,2 80 41 233 274 1 0 1 4 9 13 9 3 12 33 56 89 14 5 19 33 82 115 13 54 67 2 3 5 11 6 99 21 5 2 ,7 44 4 ,1 75 6 ,9 19 65 2 90 2 1 ,5 54 32 17 49 − − − 29 6 34 8 64 4 42 117 159 35 110 145 0 0 0 甲 ! " # $乙 計 計 23 ,3 90 27 ,9 40 51 ,3 30 11 0 58 1 69 1 54 130 184 4 9 13 22 11 33 15 2 16 1 31 3 14 5 19 91 317 408 14 78 92 3 16 19 3 ,4 96 3 ,2 48 6 ,7 44 12 ,7 65 15 ,3 89 28 ,1 54 1 ,0 72 1 ,1 56 2 ,2 28 67 3 83 9 1 ,5 12 15 4 19 3 ,5 91 3 ,7 62 7 ,3 53 1 ,2 29 2 ,0 23 3 ,2 52 54 156 210 31 55 86 構成比 ( % ) 10 0 .01 .30 .40 .00 .10 .60 .00 .80 .20 .01 3 .15 4 .84 .32 .90 .01 4 .36 .30 .40 .2 文部省大学局編: 「大学資料」 56 号, 62 − 63 頁。 19 75 年から引用 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 530 ― 46 ―
得し,個人開業する者はきわめて少なかった。 2)大学昇格を阻まれた経緯 明治初期,大学の中でも医学は教授の権威が最も 早く確立した学問領域であった。彼等は唯一の医育 機関と官公立病院の人事権を握り,社会的威信も高 く,大学外での診療活動による収入も多額にのぼっ ていた。優秀な卒業生を選抜して官費で海外に留学 させ,数年後に帰国すると大学の教官か国内の行 政,保健医療関係の要職につけるというシステム自 体が,国策として容認されていた。東京大学(後に 帝国大学)の医科大学に所属する教授集団の安定性 は,そうした医師にして教授という,職業的な好条 件に支えられていた。そしてこの教授集団らは漢方 医等の在来家を,非医師として排除する絶対的勢力 を形成していくことになる。 一方,歯科の場合,1883(明治16)年公布の「医術 開業試験規則」は第7條に歯科の試験科目をあげ, その試験合格を歯科医師としての資格要件としたた め,国家試験の受験準備に向けた講習会が各地で開 かれるようになった。しかし,これはあくまで私 塾,予備校的存在であり,営利を目的とするいかが わしいものも多く,その水準は従来からの勢力で多 数を占める「入歯・歯抜き・口中治療」と大差のな い状態であったため,社会的評価は少なくも明治10 年代までは薬剤師より低かった。 本格的な歯科医学校の登場は,1890(明治23)年1 月に高山紀齋の創設した高山歯科医学院まで,待た なければならなかった。その後,歯科医学教育は全 面的に私学の手によって行われてきたが,国の支援 は皆無であった44) 。 この立ち後れが,昭和の時代になっても残存して いたともいえる。 しかし,大正デモクラシーの時代から昭和初期に なって,ようやく官立にも歯科医学校創設の気運が 現れる。それは東京帝国大学医学部歯科教室主任教 授石原 久との内紛か ら,1920(大 正9)年,桂 冠 (辞職,引退)勧告状を突きつけ(北村一郎代表以下 9名,ただし島峯 徹の名はない),袂を分かって きた帝国大学医科大学出身の医師達が,島峯 徹を 押し立てながら文部省を説得して1928(昭和3)年, 遂に官立の「東京高等歯科医学校」を設立したこと である。 東京高等歯科医学校は名称からすると判りにくい が,要するに専門学校令にもとづく歯科医学専門学 校であった。しかし,専門学校という名称を嫌った 島峯一門が,あえて「高等歯科医学校」とすること にこだわったとされている。 この学校の沿革,歴史の詳細は島峯の弟子である 長尾の著書39)や,各種の史料にゆずるが,1899(明 治32)年4月に東京医術開業試験附属病院(通称永楽 病院)の歯科に始まり,文部省歯科(医師試験附属) 病院,その後東大分院内に設けられた文部省歯科医 術開業試験附属病院,ひきつづき一ツ橋に1917(大 正6)年8月創設の文部省歯科医師試験附属病院(通 称文部省歯科病院)を母体にしている。いわば,文 部省直轄の病院を母体に,東京帝国大学の出身者が 創った歯科医学教育施設であった45) 。 長尾によれば,1918(大正7)年7月20日,文部省 歯科医師試験附属病院が総延建坪百坪程の小病院に 過ぎないにもかかわらず,その開院式に文部大臣 岡田良平,文部次官田所美治,専門学務局長松浦 鎭次郎,秘書課長粟谷 謙など本省の主脳部が全部 参列したので,島峯の手腕の非凡なのに驚嘆したと 述べている。 この病院は,初の官立歯科教育機関設置をめざし て準備をかさね,前述のように1928(昭和3)年,東 京高等歯科医学校として実現する。 同校は1938(昭和13)年ころから,「歯科医学ニ関 スル単科大学創設理由書」等をまとめて,大学昇格 への運動を開始している。専門学校のままでは,学 位の審査権がなく,予算や定員,規模等において帝 国大学とは雲泥の差があることを痛感したのであろ う。 単科の歯科大学昇格案は,しばしば文部省の高官 に働きかけられていたが,歯科という科目は学問的 に未熟で,研究面でも一大学を形成しうる域には達 していないという尚早論や,当時の大学令の分科中 には歯科の単科大学の名称がないとか,予算の裏付 けがむずかしいなどの理由で受け入れられなかっ た。さらに1937(昭和12)年10月25日に発足した企画 院は文部省以上に無理解で,総合大学でなければ新 しい学部を認めないという姿勢を崩さなかったが, すでに大正デモクラシーが消滅して戦時色が濃厚と なり,軍事第一の政治経済となったことを示す結果 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 531 ― 47 ―
ともいえよう。事実,1937(昭和12)年7月に盧溝橋 事件が勃発し,文教政策に対しても軍部の圧力が急 速に強くなってゆく。 このようにして,歯科医学専門学校の大学昇格 は,官立で唯一の東京高等歯科医学校でさえ,断念 を余儀なくされた。ところが時局柄,医師不足が深 刻になり,各地の大学が医専の増設を急いでいる事 情を汲んで,東京高等歯科医学校は医学科を併設す ることになった。すなわち1944(昭和19)年4月21日 の官報第5179号によれば,文部省令第24号によって 「東京醫學齒學専門學校規程」が定められ,同時に 附則の第9条で「本令ハ昭和十九年四月一日ヨリ之 ヲ適用ス」第10条で「東京高等齒科醫學校規程ハ之 ヲ廃止ス」と記されている。発令と官報での公表の 間に20日の差があるが,この理由は不明である。 このようにして東京高等歯科医学校は1944(昭和 19)年に東京医学歯学専門学校と名称を変更し,医 学科には2つのコースが設けられた。1つは標準の 4か年課程の医科コース,他の1つは当時の歯科医 界の要望に応えた方式,すなわち歯科医を医科コー スの第3学年に編入させる2か年コース(定員80名) で,この2つのコースを同時にスタートさせた。そ して翌1945(昭和20)年4月には前年同様両コースに 新入生を迎えた結果,この医学科に初めて1,2 (4か年コース),3,4(2か年コース)年の4か年 の学生が揃った。この制度も戦争終結を挟んで波乱 に富んだ経過をたどり,医学科の併置は4か年で終 わる。 すなわち1946(昭和21)年には新規募集を停止,同 年8月に(旧制)東京医科歯科大学の創設とともに東 京医学歯学専門学校の方が併置という形となり,歯 学科,医学科とも1945(昭和20)年度入学の学生が卒 業する1950(昭和25)年まで存続した。 8.敗 戦 明治以来,わが国の大学に関連する制度は,ヨー ロッパをモデルとして運営されてきた。ところが, 第2次世界 大 戦 で 敗 れ た 結 果,GHQ の 下 部 組 織 CIE(Civil Information and Education Section,民 間情報教育局)の指導の下に,教育全体さらには大 学制度までアメリカのそれをモデルとして導入する ことになった。結局,制度の基本的構造が大転換す ることとなり,学位制度も全く様相を変える時代が 到来する。 ここで,戦後の大学院政策を系統的に分析し,法 科大学院をはじめとする専門職大学院制度に至るま での経過を理解する上で,学位制度の全体像を解説 した天野論文46) は貴重である。 わが国の高等教育システムの内部には,4つの専 門職業教育の系統が並存している。すなわち医療系 (医,歯,薬,看 等),技 術 系(工,農 等),社 会 系 (法務,経営,金融,会計,管理行政等),さらに行 動(あるいは人間)科学系(臨床心理,社会福祉,学 校教育等)であるが,それらのどれもが問題を抱え, 制度的に安定しているとはいい難い。医療は法曹と ともに最も伝統的な職業人の養成について,いずれ も学部段階で完結的に行われているが,その後の大 学院の在り方については,今後のグローバル社会で の方向性を模索しながらまさに,終ることのない困 難な道を辿ることになりそうである。全体像の展望 に立った,高等教育システムの持続的改革が求めら れていることに留意しなければならない(つづく)。 文 献 1)学位令と新博士,日本科学技術史体系第2巻・通史 〈2〉,(日本科学史学会 編),pp.169−171,第一法規 出版,東京,1967. 2)東京帝国大学批判,日本科学技術史体系第2巻・通 史〈2〉,(日本科学史学会 編),pp.171−176,第一 法 規出版,東京,1967. 3)石井美和:アカデミック・プロフェッション養成に おける制度と政策,東北大学大学院教育学研究科研究 年報,57⑴:133−151,2008. 4)伊藤彰浩:日本の大学院の歴史.現代の大学院教育 (市川昭午,喜多村和之 編),pp.16−38,玉川大学出 版部,東京,1995. 5)佐藤広志:わが国戦前の学位制度の変遷に伴う学位 授与状況の変化.名古屋大学教育学部紀要,38:257 −270,1991. 6)大井清詞:大学院建設資金募集の思い出,東京歯科 大学同窓会会報,第44号,3−4,1955. 7)大学 院 建 設,東 京 歯 科 大 学 七 十 周 年 記 念 誌,pp. 10−16,121−124,学校法 人 東 京 歯 科 大 学,東 京, 1961. 8)大学院歯学研究科の開設,東京歯科大学百年史(東 京歯科大学百周年記念誌編纂委員会 編)pp.285−298, 学校法人東京歯科大学,千葉,1991. 歯科学報 Vol.113,No.5(2013) 532 ― 48 ―