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ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性 : 遁走的イマージュと示唆の力

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(1)l ⅠTg. 宮崎. 隆. まも悪き 心心 心さ 、∼ ㏄ひ注 二の中 Z曲仁の キすのⅠ 、︵の. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. ト ののⅡ ロ・ ・ののむ ︵ 8︶意志的な注意を伴 う 知覚を分 析する際にべルクソンは、視覚に おけるいわゆる残像現象を持ち出し て、知覚対象に応じる最初 N ︶ ︶が、残像とは の記憶を説明しているように見える ︵ヨミ・︶ 単なる身体的な出来事でありうる 以上 、これも極限の最小円環 の説明に適切とは思えない。. ︵ 9︶ベルクソンが同論文において扱うデジャヴ ュ現象は、軽度の病 理現象であって、一方で、ほかの 病理 現象も伴い、機能の別の 減退の仕方が予想されるような重度 の病理現象に含まれる デジ ャヴュ現象とは区別される︵Ⅱの、コド女。他方で﹁物質と記憶﹂ において提示されているような通常 の再認の一種たるデジャヴ ュ感とも区別される。再認としての デジャヴ ュ感は、知覚 と記 憶 との﹁類似﹂に基づく︵ 目ミ・ミ︶のであって、同論文の デ ジャヴ ュ現象においては両者は﹁ 同 一﹂だとされる。. , おSQき 夫 いも∼∼ 目ぃ邑 0 ﹁ 臣 宙 S り 、の ︵托︶ 目、ミ・ 七0コロ 、力ざ。 ぎ まぬも さ∼も めシ ∼薄もヌ づ・ト の の、・ ,宙︶ 、・ ロ か円い, 、 ・宙︶. ∼ Q:ロ ・ 0ト ・コ・3 ︵ ︵皿︶∼ひ ︵は︶ベルクソン思想には 二早して美的関心が、なかでも音楽に対す る関心が存在していた。この点に ついては以下の論文を参照。 片山 寿昭 ﹁ベルグソン の美学恩和ど、美学㏄、一九六五年。. 付記小論は平成十二年度文部省科学研究費 補助金︵基盤研究口口 こによ る研究成果 の 一部である。. 一四.

(2) 0 Ⅰ 2. ︵ むゲづ芭 。. * * *. 以上をとりまとめて次のような解釈 を 示すことができるだろう。 遁 走的 イマージュそれ自体は一面では 、病理現象としての﹁現在の記憶﹂. 臼. と 同じ位置を占めるが、しかし通常 は デジャヴ ュ現象の場合のように 再現的表象として出現することは ない。むしろ遁走的イマージュは 、 ちょうどイマージュ化した痛みの感 覚の記憶が当の感覚を示唆する ょ うに、将に生まれんとしている筋肉 感覚から組み立てられたイマージ ュ的図式を示唆することで、運動因 式の形成に寄与する。ただしその 際 、源 切 形態としては、運動的 イマ |ジュ たる遁走的イマージュは リ ズム の有機的な組織として全体で 或 る独自の質を具えている。遁走的 イマージュは、﹁現在の記憶﹂のよ うにそのまま現れるのではなく、 そうではなくて、現在の持続におい て ﹁自ら縮約﹂しっっ、リズム的 な ﹁全体﹂の色合いな産み出して いろ。﹁示唆の力﹂は、そうした ﹁縮約﹂においてこそ発生し実効化 している。だからそれによって 示 唆されるイマージュ的図式も、まさ しくスケッチないし粗描としての 図式となる。つまり遁走的イマージ ュの ﹁保持﹂とは、現在の持続に おいて過去へと沈下しっ っ為される こうした有機的な組織化を意味す る。遁走的イマージュはこうした独自の色合いの下に現在において. の. 一. わ. Ⅰ. ク を 引 ". ( 物. いの. の軽に. 。. を. 討. p. の. Ⅰ. し. の. 布皮 最. い. し. ぅ. ﹁保持﹂されている。したがって それは状況の単なる代替者として ﹁同じ状況﹂を反復するのではなく 、むしろ状況が﹁同じ﹂であるこ とのほうが、その色ムロいによって 教えられるのである。遁走的 ィマ| ジュ は﹁保持﹂される際もうはや くも全体として﹁縮約﹂しており、. 意. ゆ. ろ指用. が的 そ意. も い. ら. そのおかげで、身体はその習慣から 離脱するだけでなく、その﹁示唆. 隆. の力﹂に答える。まずは舞踏を観る 者の手の動きのごとくに。 ベルクソンにおける身体習慣形成の可能 桂宮崎. まて. こ. でそ 「 はれ 無. 記参. に. (重解の科 な に. ゑよ 括ら の. ⅠⅠ. 註 2 ). 3 ) 4 5 6. 箇. 0%. 戸 o9. Ⅰ. ミめわ. 宙リ. 馬. 0 笘. 、CⅡ. ㌧.

(3) 121. もたらし、それに染まっている先行 する 諸昔も色合いな変える。実際. に変動はなくても、或る昔の長さの 変更は諸苦全体の色合いに変化を. の内部連関である。したがって 、な るほど蓄積に際して、. 諸昔の順序. を意味する。メロディー的な内部連 関 の源 相形態とも舌口うべきリズム. ,づ︶ ぴという、﹁反映﹂の内部連関 てさえ﹁ 魂 全体が反映し ぅる ﹂︵り︵. ているも H、⑧。それは意識の諸事実のうち最も単一的なものにおい. 記憶の蓄積においては、もうはやく も ﹁質的な印象﹂が纏めあげられ. 起せしめる一つのグループを形成﹂ していたわけである。リズム的な. を他のものと合わせて有機的に組織 して、既知の節やリズムを私に 想. し 、それ ︵東田,牢 9。その際﹁私は継起的 感覚の各々を保持 お富田﹁. そうした﹁総体﹂は或る固有の﹁ 質﹂を、独自の色合いを具えている. スを 分解して数えることだろう。 た総体﹂を想起し、次いでその プ レ 1。. われまず、いわば音楽の一つの プ レ、ズ のように﹁固有の様相を具え. 日の数を想起しょうとすれば、われ ことがある。その際、時計の打つ 立. の空で聞いていた柱時計の打っ昔に 、それが鳴り終わった後で気づく. にも指摘しぅる だろう。ところで べルクソンに よれば、たとえば ぅわ. 的な内部連関をもって形成されてい た。この点は﹁イマージュ的図式﹂. ﹁運動図式﹂は、﹁部分が潜勢的に全体を含む﹂というメロディー. ずだから。この場合、或る曲を構 同じ記憶は同じ効力しか産まないは. する昔や運動の﹁記憶﹂でもないな 。ぜなら、併置されているかぎり、. 最後の音や運動に併置された先行 効力をもっはずだから。さりとて、. はない。それなら最初の音も同じ 力﹂を産むのは最後に聞こえた昔で. の提示する眠りの例 ︵ 日 ・ ︶にょれば、時計の振子の規則正しい ﹁ 振動の音には、われわれを眠りに 誘う ﹁効力の寮とがある。その効. を発揮する。たとえばべルクソン のゆえに身体に対して或る﹁効力﹂. 質﹂ あろう。少なくとも﹁ 揺藍の揺れ﹂のごときリズムは、こうした﹁. ﹁﹂を具えているからで の ﹁全体性﹂において或る特定り の。スムの質. そ なるのは、遁走的イマージュが もって或る身体運動ができるように. し、そのおかげで﹁運動図式﹂を 唆することで身体習慣の形成に寄与. もあるだろう。つまり遁走的 ィマ|ジュが﹁イマージュ的図式﹂を示. T の﹁円 m違 い﹂た巳上 警ロするレ こし 体﹂の色合いとの相違によって 、練留山. イマージュ﹂として、自らの﹁ 全 リズムの内部連関を具えた﹁運動的. ﹁示唆﹂する遁走的イマージュ、 が おいても、﹁イマージュ的図式﹂を. るのなら、身体習慣の形成途上に ってその部分の﹁誤り﹂が警告され. 連関の全体的な﹁質的変化﹂に ょ のである。しかるに、リズムの内部. 色合いが別のものになってしまう であり﹁質﹂の相違である。全体の. してくるのは全体の﹁質的変化﹂ それだけではない。﹁誤り﹂を警目 生. 宮性 崎 隆 ベルクソンにおける身体習慣形成の可能. ﹁われわれがメロディーの一つの音 を 不当に強調してリズム拍子を崩. 記 成している昔のすべてが曲の最後に一挙に鳴り響くような仕方で﹁. 内 スムの有機的な組織化による﹂持 。続 において生じているリズムの. リ よいだろう。したがって、諸昔の﹁効力﹂は﹁それらの総体のなす. 塞. すなら、われわれの誤りが警告され るのは、長さとして当の音が過度. すべて同じ昔からなると解すれば 憶﹂されており、しかも、当の曲が しの ゲⅡ る 8﹂ 。︵. に長いからではなく、そうではなく て、そのせいで音楽のフレーズの セ 総体に質的変化がもたらされるため ムけので. ム﹁の場ムロメロディーの質は﹁リズム 拍子﹂によって決定されている。. 織化され、﹁その総体は 、 つねに終 に際しても、諸刺激が有機的に組. 都連関の全体が眠りを誘 う のである。そしてわれわれが﹁感覚﹂する. そのリズムのおかげで発生している. いっもその全体 わりにさしかかり、かつ何らかの新しい昔が加わって. してみると﹁身体的共感﹂は 、む しろ舞踏を観る者の持続において、 だろうか。観る者の側にリズムの 内部連関が発生することによって、. 性 において変容している音楽のフレーズの効力をわれわれに与える﹂. ﹁ 賛 ﹂を介して生じるのではない. 観る者の身体も将に生まれんとし ている運動をはじめるわけである。.

(4) 2 Ⅰ 2. 生まれんとしている筋肉感覚から 組 み立てられている﹁イマージュ的. の時の間、われわれの意識の眼差し の下に保持﹂されることで、将に. いる問題なのである。したがってむ しろ、遁走的イマージュが﹁一定. 約し﹂、身体習慣の形成に対して﹁ 示唆﹂の役割を果たす際に生じて. けて通ることはできない。それこそ が、遁走的イマージュが﹁自ら 縮. いる。それが未だ存在しない新しい ものの形成である以上、これを 避. 慣の形成のことを扱 う 際にかならず やどこかで生じる問題に直面して. に、それについての感覚が発生しう るめだ るぅか。われわれは身体 習. ュ的図式﹂が在ることになる。将に 生まれんとしている筋肉運動なし. 図式﹂は存在していないにもかかわ らず、それについての﹁イマージ. 無媒介の﹁意識﹂のあり方なので あった。それゆえ今の場合、﹁運動. に生まれんとしている筋肉感覚とは そうした﹁運動図式﹂についての. れ んとしている筋肉運動として将来 を ﹁先取り﹂しており、かっ、将. それでも奇妙ではないか。実効化し ている﹁運動図式﹂は将に生ま. られる よう に眠り込む﹂からである. れの感覚や想念の通常の流れが中断 し﹂、﹁われわれの魂は揺 藍で 揺す. 取るわけだが、それは﹁ り 。スムの規則的な運動﹂によって 、 ﹁われわ. 芸術家の﹁示唆 nH. 他の芸術の場合も同様で、ちょう ど ﹁催眠術﹂の効力によるように、. の ﹁共感﹂のおかげで﹁精神的共感 名目で 笘目の玉0冨田﹂も発生する。. ぃ﹂。もう﹁身体的な共感佳月曲 ︵ ゴ ず菩ち置亙が 発生しており、 こ. なかに置き戻すためででもあるかのように、自ら動くのを留め えな. ただけでも、がまんできずに、まる でその人形を押して、運動のだだ. 踏 家の運動をなぞっている﹁われわ れの手は 、操り人形が一瞬止まっ. かも想像上の操り人形を操作する 見えないの糸のごとくとなる﹂。 舞. ﹁間に一種の交流が打ち立てられ、 リズム拍子の周期的な回帰はあた. できるばかりか、﹁リズムの規則性 ﹂のおかげで舞踏 家 と観る者との. 優美な運動がリズムに服するなら、 舞踏家の運動はいっそうよく予見. それが優美感の本質たる﹁共感﹂を 発生せしめている。リズムである。. ﹁総体﹂もよく見て取ることはでき ない︵しの、 ロぶ。しかしわれわれ. をはっきりと完全に知覚すること﹂ はできない。ワルツの﹁細部﹂も. していないうちは、ワルツを習得し ていないうちは、ワルツの﹁動き. る たるには踊れることが必要になる だろう。なるほど踊るすべを体得. もし外国語を聞き取るために発声で きることが必要なら、舞踏を観. の場合にかぎられない。﹁リズムは 実際に書かれている文章の意味を. 示ごされている舞踏家の想念を夢 見ることになる、と。それは音楽. で実践的意識も眠らされて、われわ れは リズムを介して﹁示唆 T 暗. 身体習慣から離脱して、舞踏 象 のり。スムに﹁共感﹂する。そのおかげ. る。芸術、ことに舞踏においては、 われわれは日常的に行為している. 以上のべルクソンの説明をわれわれ は次のように解することができ. 暗示し想 ﹂念 すを るわれわれは自らのうちで感じ. 図式﹂はもうはやくも﹁示唆﹂され ているのではなかろうか。. は 、舞踏に﹁共感﹂することはで きる。﹁試論﹂の冒頭における優美 を 観る者は、舞踏家の現在の身 構、 ぇのうちに﹁将に来たらんとしてい. るのか。たんに物体のように共振 す るめだ るぅか 。それではまるで 舞. 組こ 。ではいかにしてリズムは身体 的共感を生じせしめることができ. ︶を取り上げてみよう。舞大 踏まかに素描 し ⋮⋮著者の思考 と の直接的な交流を与えうる﹂雀ヨ・. る身構えがいわば先駆形成されて ぃ る﹂のを認める。われわれは舞踏. 踏象 のリズムなるものが発散してき て空中を通過し、われわれの下に. 感 に関するべルクソンの説明もⅠ・O.HA. 家において、﹁運動が運動を準備し ている﹂のを認めるので、その 運. 到来するかの よう ではないか。そも そも催眠術師の言葉とて、それを. 一一. 動を ﹁予見する﹂ことができる。そ れゆえ﹁現在において将来を掴む. 隆. 聞く者の内面の声として響く必要が あるだろう。少し考えてみよう。 宮崎. 快感﹂が生じる。ただし優美感を構 成しているもう一つの要素があり、 ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性.

(5) 3. Ⅰ 2. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. 宮崎. 隆. oN. ︶ ︶oN. 1 の名子 - が次の音へとかしかだまま. るや ようなものである﹂︵ 旨ま, ︶。外国発 語の聞き取いり. っ。﹁彼らは、歌うときはメロディ 想起Ⅱ再演されているからであろ 、 1 の歌詞を間違わずに思い出す﹂︵ ま目, 話の学習も、こうした身体習慣の形成を目指すのが有効な方法である。. 一O. 自分が演奏されるのを見守って. ﹁先駆形成﹂という身体習慣に. よ る一連の運動の内部連関において は、メロディーにおける 昔どうし 一 2 l 一 の関係と同じ連関がある。ちょうど ﹁雪だるま﹂の 比 楡の場合と同様、. % 分が全体を﹁含む no コ︵の%コ。或 る メロディーにおいて一つの音を. 聞き取った語句を区切って、その 各 昔はメロディー全体を反映し、 その全体の色合いに染まっている。. ぇずに、機械的に繰り返して発声 す 或る文章の全体を、その意味を考 、. るという方法であるも 9 品雙。﹁ 主要な分節を示す印となりうるよ、つむ生まれんとしている運動﹂を 、. 運動へと移行する際のその傾向﹂の ことである。われわれは、﹁聞こ. 場合﹁運動図式﹂とは、﹁言語の聴 覚 上の印象が繰り延べられて分節. うではなくて、各部分と全体との メ ロディー的な内部連関を具えてい. 形成﹂において身体習慣は、たんに 部分と部分との連関ではなく、 そ. なる。逆に 、 一つの音はメロディ |全体において生きている。﹁先駆. ︶。今抜 のけば、あるいは一つの音を加えれ ば 、メロディー全体が別のものに. えた言葉の際立った特徴﹂を将に生 まれんとしている自分の発声の運. るのである。. すなわち﹁運動図式﹂を組織すれ ばよ いのである︵口目,HNH. 動 において﹁内面的に反復﹂してい るのであり︵ ヨミ・あ甲9、われわ. ﹁運動図式﹂についての無媒介の﹁ 意識﹂のあり方である。したがっ. えられている。将に﹁生まれんとし ている筋肉感覚﹂とは、そうした. 執 ③9% じであり、この意識にお いて﹁運動図式﹂はわれわれに 与. ミ、 を 介する意識ではなく、無媒介の﹁ 身構えについての意識﹂︵ま旨・. ︵ まミ・PNH. 田セ0ロ ﹁﹂において完全な理解を求 める。﹁身体の論理は暗黙の理解. 三際身体は、その﹁ 知 しかるに発声する﹁すべを体得 す るまヰ0. 輪郭を示す印﹂たる図式で、粗描に すぎないような図式で十分である。. てはいない。ベルクソンによれば その際、﹁聞こえた言葉の際立った. 発声できないのが普通であろう。﹁ 運動図式﹂はまだ完成の域に達し. いない。外国語を聞き分けることが できるとしも、自国語のようには. しかし習慣形成の途上においては、 そうした随伴運動は完成されて. て他人の声を聞き分ける 際 われわれ は、それに随伴する将に発声しょ. の 0仁のコ ・汀 のコ 色目を 詮Ⅱさない﹂ 0そこに は ﹁いかなる細部﹂の省略もない。. れの意識においては、その運動は将 に ﹁生まれんとしている筋肉感覚﹂. うとしている自分の身体の声を 、自 分の ﹁運動図式﹂の内面の声を聞. したがって習慣形成の過程を遡及的 に辿るなら、その際に働いている. 。て そい れる は知覚世界との 対 時の関係 ︶として展開され. いているのである︵口目、ト ビ沌. いない﹁運動図式﹂が自分を作るこ とはできない。むしろ べルクソン. のは﹁運動図式﹂そのものではなか ろう。今の場ム口結局は、存在して. たんに発声の問題にとどまらず、 身体運動全般にも該当する。習慣が. にょれば﹁運動図式﹂が形成される 際に、その﹁図式﹂がすでに粗描. それだけではない。身体習慣のも っこうしたメロディー的な面は 、 いったん獲得されるなら、その﹁ 運動の順序を変更するには困難﹂が. であるのは、意識に与えられる仕方 においてである。ベルクソンは こ. うしたスケッチないし粗描と呼び うる図式を﹁イマージュ的図式. ある。或る一連の習慣的な運動に際 しては、﹁先行する運動において、 0三 後続する運動の先駆形成 屈まてョ㏄︵ Ⅱがあるからである。. おオかの ヨトヨ P 旧臣 笘三 ︵ まヨ・罵 8 と 呼ぶ。将に﹁生まれんとしている. いやもう. ﹂の﹁先駆形成のおかげで、部分は 少し精確に表現する必要がある。 ,. いくらかの筋肉感覚から組み立て も れている﹂︵キ ∼ ∼ Q.. ︶図式である。. 潜勢的に全体を含んでおり、それは たとえば、覚え込まれたメロディ.

(6) 124. 走的 イマージュの位置は、だから 一面 では﹁現在の記憶﹂のそれに等. 的意識の営みであるかぎり、﹁現在 の記憶﹂は﹁遁走的﹂である。 遁. しかるに通常は 、 捉えようとすれば 、その捉えることそのことが実践. らず、病理現象としてのみ、無用な ものとしてみの現れるにすぎない。. のうちに存する﹁現在の記憶﹂は 、 いまだ﹁沈下﹂してしまってはお. 知って﹁いた﹂という﹁感じ﹂を 与えることになるだろう。最小円環. それゆえ、無用なものの出現は﹁ 知 っていたことになる﹂という際の. 定 され、この点に記憶と知覚との 本性の相違が存する︵ま旨,しじ。. の比倫 6p ぷ にしても、魂の状 態の全体的な﹁変化﹂のことを 言. されているのでなくてはなるまい。 実際ベルクソンの語る﹁雪だるま﹂. てむしろそれは、過去への噴流と成 るに際して、はやくももう﹁縮約﹂. もうはやくも﹁示唆の 力 ﹂を発揮し ているはずなのである。したがっ. くも出現している記憶なのだから。 遁走的イマージュは蓄積されるや. だが、﹁現在の記憶﹂とはその位置 のゆえに、蓄積されるやもうはや. 割を果たすには、改めて﹁縮約﹂と いう運動を介する必要があるわけ. なら、過去の日付を刻まれている 個別 的なイマージュが﹁示唆﹂の役. する﹂。こうした﹁流暢﹂さは、 祈りや曜日の列がメロディーとして. きない失語症患者﹂も 、祈り、数の 列 、曜日の列などを﹁流暢に発声. の特性をも教えてくれるだろう。 たとえば﹁自発的には 一語も発話で. 既述したように、病理現象は純粋な 姿 で身体的な記憶たる身体習慣. 概観し、身体習慣形成の途上へと 遡 及 的に考察を進めてみよう。. 横 されているのか。今度は逆に﹁ 身構え﹂において身体習慣の特性を. され﹂てしまっていないとき、件の 精神的な記憶は いかなる仕方で 蓄. では、まだ﹁変化が十分﹂ではな く 、﹁身体に新しい身構えが刻印. 円リⅡ ゲ づ。 ︵. ﹁純粋持続とはまさしく、質的変化 の継起以外のものではありえな い﹂. 態 が変わることを止めれば、その 持 続も流れることを止める﹂ %安全。. あり、その変化こそが優れて持続な のである。全体としての﹁魂の状. れ つついわば統合されて、魂の状態 全体の変化をもたらしているので. とくに 八仝︶の系列を形作っている のではなく、魂の状態に飲み込ま. となのである。﹁魂の状態が持続を 集める﹂ 際、当の持続は事物のご. とへのロ張り向けに新しい方向が 刻印されているとき﹂二 % ∼ & しのこ. ﹁当の変化が十分に大きく成って、身体に新しい身構えが、 n 生きるこ. 変化した﹂という仕方で当の変化に気づく。がそれは、もうすでに. わんとしているのである。なるほ ど 通常われわれは、﹁自分の状態が. 隆. しい。. イ. 、、. ジ. の. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能 佐官府. 九. 走 ょ習 な う. 、 遇. 「に的う でた象る イ. しが 将 そる 現 現. でろ付 う. 遁 そ. え。 Ⅰ=. な.

(7) 5 2. Ⅰ土. 宮崎. 隆. われわれは逆に﹁いまにも到来せん. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. され ぅ ることになる。かくして、. としているものに対して、再認す ることになるであろう人物の構え﹂. が 停止する際にこそ、無用な記憶は 現われる。. 八. したがってわれわれは以下のよう に解釈することができる。﹁現在. |. 一方で、当の身構えに再現的表象が 流入することはなく、身体は単独. いては、﹁実践的意識﹂の将来への ﹁跳躍﹂は停止している。ゆえに. の記憶﹂とは、現在の知覚に対応す る写しである。その二重化におい. 高 9ニタ 執ト ︶A︶という形式の ﹁将に来たらんとしている再認. ・P 、牛やも S、たとえば身体習慣のみに応じて︵㌔ で自動的に︵ ゑ Ⅱの目 目ヨ、︶お︶、世界の側からのに働きかけに対して身構える。そして 当. を取り続けることになる。ただしこ ぅ した﹁構え﹂は﹁素材なき形式﹂. Ⅱの 0 コ のコの まの当の レ絹 のの% 三 なか りである. の身構えにおいて、将来の行為は﹁ 先取り﹂されている。現在という. ては、将来の実践的世界の介入を必 要としない。身構えの現在とその. 以上のべルクソンの説明に よれば、この再認は現実の時系列におけ. mN の 、 . ㏄ 9 における﹁私の将来﹂で 時の契機の﹁持続の厚み﹂︵ヨ口,ト. をもたらすにすぎず、われわれは﹁ 自らが知っていたことになるとい. る将来に発生するにすぎないかの ょうに見える。あるいは、知覚世界. ユ目の ある。したがって、﹁知っていたこレしになる﹂といスノ際の﹁なるり. 反映たる知覚世界の将来との 対 時の関係を介することなく両者は区別. が将来に属する以上、﹁将に来たら んとしている再認﹂とは単なる 予. は 、知覚世界の将来のことを意味し ているのではない。いわんや現実. されうる。したがって、﹁将に来た らんとしている再認﹂とて、こう. 斯 のことにすぎないかのようにも 見える。しかし べ ルクソンが同論文. の時系列における将来のことでもな Ⅰ。そうではなくて、現在という. ぅ ことを予見している﹂にすぎない 。デジャヴ ュ現象における過去性. において提唱するのは、記憶が知覚 の進展と共に発生するという説で. 時の契機における将来を、現在の知 覚 たる身構えにおいて先取りされ. という形式は、﹁現在の記憶﹂にお けるこうした再認感から発生して. ある。﹁現在はどの瞬間もその噴出 そのものにおいて二重化して、 二. ている将来を意味している。極限の 最小円環が成立するのはここにお. した 対 時の関係を介して為されるわ けではない。デジャヴ ュ現象にお. つめ対称的な噴流となる。その一方 は過去へ向かって沈下し、それに. いてである。他方で、﹁現在の記憶﹂とはなるほどこうした身構えに. おり、当の再認とは同論文の冒 頭からすでに指摘されている よう. コの 申する﹂︵ロ9 品甲F執し 9。 対して他方は将来に向かって跳躍の巨P. フ の のの申由 文三 ㍉ 0 コセリ 亡申せ 0 ギ の二 臣 ﹁知っていたことになると感ドレ. 現在における前者が﹁現在の記憶﹂ と呼ばれ、﹁過去の日付﹂の刻ま. 田 ,Hま,PPN れていない﹁過去一般 廣のの目 か喚ビキ旦 ︵. 対応する写し再現的表象と ぃぅ形態でのその出現である。 ︶という性格を ただし現在の噴出が二つの噴流に分 岐するのである以上、両者が対応. 具えることになる。これに対して後 者がいわゆる知覚であり、通常、. 為を選択するために過去の経験を参 照すべくそれに役立っ再現的表象. 08 して排除される 釜 gHぴ・ ト N 、ミヨP ・. 状況に対してではない。またそれに 対応する身体習慣が存在しないか. り、生きることに対して無力である 。それが無力であるのは、特定の. 在の知覚﹂の写しであるから原理上 、行為に役立たぬ無用な記憶であ. するのはその同根性のゆえである。 ところで﹁現在の記憶﹂は、﹁ 現. を 照らし出すことはあっても、ちょ う ど影を見んと光を投じてもそれ. らでもなく、﹁現在の知覚﹂とまさ しく﹁同一﹂だからである。しか. 将来の実践的世界へと向かう実践的 意識によって前者は無用なものと. を 見ることができないように、無用 の記憶が実践意識の光に映じるこ. るに、﹁私の過去﹂は﹁本質的に無 力 である﹂ということによって 規. 。実践的な﹁意識の光 、﹂ 行は. とはない白 9%e 。むしろ、こうした実践的意識の将来への﹁跳躍﹂.

(8) 126. 「 今. し と が. 「再に. 隆. で 認、. , 宮崎. 」. そは時. 々. 俸 と目. ミ男. いし. 、. こ. の つ. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. だ. 現未 お. るな. るのりは文す 記. 三のも 釜. すあ 記 考. とは﹁或る特定の時の契機ヨ0ヨの三 コの記憶にすぎず、それが更新さ. れ続けるとは考えられないからであ る ︵芭の 目・ S。デジャヴュ現象に おいては、しばらⅩの間﹁われ われの過去の⋮⋮全面的な再開. Ⅱの 0 日 の20 0 日の コ コ仔 のぎ何 田曲 二 卸 ︵③, のト 9トが生じていることだろう。した. がって﹁二つのイマージュT 記憶と知覚︶は一緒に形成される﹂と e。かくしてベルクソンは、﹁現在の記憶﹂なる 解される 釜 9 コのも. 形容矛盾とも思われる説を提示することになる。では﹁現在の記憶﹂ なるものについて、それがまさに 記憶 であることは、当の記憶の過去. 性はいかにして理解しうるのか。. ベルクソンは﹁現在の記憶﹂に ついて、その﹁素材nH 内容ロ ・質料 きn 目U ユ とを形 区相 別口 し、デジャヴュ現象の ョ㏄ 巨旦 と﹁形式. 第二,第三の性格により、その﹁ 素材﹂に関しては、それは現在のも のだと述べる Cg 品ご。それゆえ問題は、その形式に関して過去性. を指摘することにある。ベルクソン の説明白 9 品⑭を聴こう。 デジャブユ現象の発生しているときの ﹁状況は、その終結にま達 で. してしまっている前においてさえ、 一つの全体を形成して いなければ. ならないようにわれわれには思われる﹂。この﹁全体﹂は、それぞれ. 、心 ぎ︵ の時の契機における﹁利生関 ロ か ﹁ ゅ亡によって切り取られている。. ﹁利害関心﹂に応じて切り取られ全 た体が終結した後に想起されるの が通常の想起である。したがって 、 第三の補足的な性格により、﹁ 現. 在の記憶﹂はこの全体が形成される 途上において発生している。さて、 そうした一つの全体のなかでは、ぞ ﹁れぞれの時の契機において、そ. れに続く時の契機を先取り目帝ぃの ロ Ⅱ すスこ りとぶわ ゲれわれ仁 Ⅰ卜はき 示る 巳㍉ 同一の関心の下においては、﹁将来. お日︵は現在の瞬間によってすでに 切り開かれており、前者の内容は. 後者の内容と不可分である﹂。それ ゆえ後続のものは、先行するもの の再開であり、先行するものにお いて先取りされているがゆえに再認. セ.

(9) 7 12. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能 性. 宮崎 隆. 上 " ソ Ⅰ. の円環があり、遁走的イマージュ と は 、蓄積されるやもうはやくも 想. るかのように﹂という記述はこのこ とを表しているだろう。大小二重. いるだろう。﹁あたかも意識のほの暗い奥底から一種の警告を受け取. であるばかりか、この構図が身体 習慣の形成に寄与する際にも働いて. 経由する以上、遁走的イマージュは ﹁偶然の状況﹂のある種の代替者. 力を秘めた構図が運動図式へと受肉 する際も、身構えに隣接した層を. んだ少年は、﹁書庫の前を数秒で通り過ぎた後お乙と に書物の標題や. ジュ であろう。実際同論文によれ ば 、﹁精神的写真﹂を取る訓練を積. |ジュ は、いったん蓄積されてしま っているような記憶化したイマー. せ よ、その顕現がわれわれの﹁自由 裁量﹂に委ねられうるような 々マ. 成立する︵Ⅱの・ P の べ ・ じ。しかし、 た とえ十分に成功することがなかに. なしに為される蓄積 | 想起であり、 身構えに隣接した浅 い層において. にょ れば、﹁精神的写真﹂は精神が垂直に運動する際に生じる﹁努力﹂. の最小円環に属しているとは考え も れない。なるほど論文﹁知的努力﹂. 起されているような記憶である。 潜在 力を秘めた構図が運動図式へと. 位置を数多く記憶に保持していた のであり、﹁彼は⋮⋮全体の精神的. 努力﹂である。してみると、潜在. 受肉することは、遁走的イマージュ によって説明されるべき事態であ. ぎない白 9 ︶のめ︶。この場合たし. 日けただちにその 諸 写真を取っておいて、そのおかげ で、次いでのコの. 部分を想起することができた﹂にす. って、その逆ではない。. 二 現在の記憶と遁走的イマージュ の位置. かに円環は小さいが、しかし当の円 環の様相は極限的ではなく、あく 一 8 一 までも大円環の場合と変わらない。. ろ病理現象においてこそ、遁走的 イ マージュがそのまま再現的表象と. ところで べ ルクソンによると、現実 に行為し生きてゆくという観点. なるほどべルクソンに ょれば、遁走 的 イマージュたる﹁自発的記憶. して夢のごとくに現れることがある はずである。ベルクソンによれば. 第四の特徴により、遁走的 イマ二 ンュが最小円環に属するなら、 再. 0の︶。それ は ⋮⋮突然閃光を発して顕現する, ﹂とがありぅる ﹂︵目口、. 病理現象においては、それを示す人 のうちに、通常の人の場合と比較. からすれば、夢見ることはすでにあ る種の最軽度の病理現象だと解さ. ばかりか、その顕現を﹁われわれ の自由裁量しうる 呼臣0ヰ0︶宇宙. して当の現象を生み出すような何ら かの積極的な原因が付加されるの. 規約表象として想起されることもあ りうるだろう。ただし第三の特徴. きさ三ものにしょうという目的 をもった訓練さえある。活性化 安名0. ではなくて、むしろ通常の人にお いては発現することのない事態が 、. れる。それは行為をもって現実に適 旧 して生きてゆく際の﹁生きるこ. している身体習慣たる身構えの指向づ苦 ま忘を抑えることによって. ﹁生きることへの張り向け﹂の弛緩のせ いで発現する︵Ⅱ9 屯守8。そ. により、その想起は現実の知覚世界 への混入ではなく、むしろある種. のの能力﹂を開発する訓練である。 ﹁精神的写真です 0︵ 0担お目のヨのコ︵ 曲︶. れゆえ病理現象は、むしろ生きるた めに抑圧されているものを純粋な. レしへの正り 眼向け 簿コ 0コ由0 申中すゑユ の弛緩から生じる。したがってむし. しかもこの記憶力によってもたら される記憶は﹁何か夢のような 点 ﹂. 姿で 垣間見せてくれるだろう。その 何としてわれわれは、軽 い病理 現. の夢として現れるよりほかない。. があり、そうした記憶力が精神生活 に常態的に侵入するなら多くの場. 象 としての﹁デジャヴュ﹂現象を取 り上げてみよう。通常は﹁非常に. 遁走しがちな︵﹁か 日の悶旦二お ・こ 9 記憶が、実践的な知覚世界の将. 一 9 一. 旨目、 0丑。 合 、知的平衡が侵されることになる ︵ しかし﹁精神的写真﹂の能力によっ て想起されるイマージュが極限.

(10) 28 Ⅰ. 努 形成せしめることもある。﹁精神ネ 工ルギー﹂に所収の論文﹁知的. 垂直の運動が身体を導いて習慣を 出しえない。しかしながら、精神の. 通常はこの場合、再現的表象は現 までは行為へと移行しょうがない。. ぅるような身体習慣が形成されて ぃなければ、こうした示唆はそのま. し ことに成功しない場合もある。 いやそれどころか、当の行為を成就. あるいは、示唆された行為が成就 するとはかぎらない。身構えを導く. もありぅる。行為するには、再現表 的象をかならずしも必要としない。. 、示唆の働きは再現的表象なしに されている必要がある。しかし逆に. て捜、それと示唆され |ジュ﹂という面も併せ持っており も 9 品の・ る運動の身構えとの関係は、催眠術 師の言葉とそれの暗示する行為と. ているだろう。その際、そうした 示唆するイマージュは﹁運動的 イマ. ュ﹂あるいは﹁聴覚イマージュ﹂で あるという記述はこのことを表し. いる際、﹁示唆﹂の役割を果たしていると推察しうる。﹁視覚イマージ. であった。したがって第一に、遁走 的 イマージュはそれが実効化して. 慣の形成のために再現的表象として 現勢化することなく寄与し ぅる の. るだろう。遁走的イマージュは精神 的な記憶でありながらも、身体 習. マージュに関する記述から、それに ついて次のような特徴を推察しう. もある。芸術家は、自らの独創的な記憶化したイマージュを現実のも. ある白の,目8。それはまた芸術家の創造的な活動が成立する所以で. した印象を自分の眼に与えるような︵身体︶運動﹂を習得することで. が保持している印象﹂に、すな ちわ ﹁潜在力を秘めた構図﹂に﹁類似. 習慣の獲得は、﹁われわれの記憶力 肉する。たとえば舞踏という身体. 受 ﹁指示ぎま n 注 o旦 ︵ 田 ・おト ︶するばりか、さらには﹁運動図式﹂に. そうとして思い出せない場合など 垂直の運動において、人名を思い出 している。﹁潜在力を秘めた構図﹂ にわれわれの感じる﹁努力﹂が発生 田,お9 として成就すべき行為を は、﹁指導的想念 ぎ驚臼㍉ぉ田 旦 ︵. 想o 起H や. 意n 志的注意にも、 の運動において白g H の ド︶ の、 ,人名のP する。この﹁構図﹂は、﹁運動図式 さらには身体習慣の形成にも寄与 -7み現実のものとなりぅる﹂。その のほうへと展開することによっての. を 成すであろう。遁走的 ィ マージュは ﹁一定の時の間﹂しか﹁保持﹂. という円環を考えるなら、遁走的 イ マージュはその極限たる最小円環. る。しかし第四に、いったん蓄積さ れてしまった後に再び想起される. このことを表しているだろう。﹁ 遁走的 ﹂であるのは無用だからであ. 想起しょうと﹁意志﹂する段になる と 、消失してしまうという記述は. 0局面をも具えているだろう。﹁ 一つめ総体の再現的表象﹂である。. 識の下には現出しえないというか ぎりで、再現的表象というその第二. に現出しえない。したがって第三に 、遁走的イマージュは、実践的 意. しているさなかには、当の習慣に 応じる再現的表象は現実の知覚世界. 述 はこのことを表しているだろう。 しかるに身体習慣を形成しょう と. することなく﹂なされる﹁縮約﹂ による以上、遁走的イマージュも. の関係に比される。第二に、そうし た 示唆が、記憶力の﹁自らを分割. のとすべく、すな ねち、夢見るのではなくて、知覚世界へと現出せし. されていないという記述は、それが はじめから精神の浅いところ. の か目曲ら百ざ 曲偉 目 旦は垂直方向 力﹂によれば、﹁潜在力を秘め構 た図 のゴ. に応じる身体習慣を新たに形成し めるべく﹁努力﹂するなかで、それ. 隆. 五. |に 位置することを表している。 したがって、そこには垂直の運動 は存在せず、その運動に際して発生 するような﹁努力﹂11想起の努. ほ動的イマージュと同じく、身構、ぇ ︵通円錐形の頂こに隣接した層. |. ﹂とだろう。﹁全体を包括する一種 ﹁全体﹂として﹁示唆の力﹂をもつ, の複合的な想念﹂、﹁諸部分の言いようのない感じの統一性﹂という 記. ているわけである。﹁潜在力を秘た め構図﹂が﹁運動図式﹂に受肉し ィ ﹂が潜在的に具えている諸々の たとき、それをとおして当の﹁構図 マージュも現出することになる。. 宮崎. のように解するなら、遁走的 イ 記憶化したイマージュの想起を以上 ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性.

(11) 29 Ⅰ. 力. し 日. か. ソ. 印 の. ク. 第. に 「. 可能性宮崎. の 隆. 為十. れ な. さ全. る。それは再現的表象が現出して. 一 5 一. くる際の運動のことだと解される。. これに対して第二は、﹁記憶力が 、 自らその全体を丸々経験の前に赴 自らを分割することなく多かれ 少. 四. そして感覚とはすでに行為への﹁ 呼び掛け﹂でもある︵ ヨミ・お、の P. ︶のべ n ∼ & 、。羊にとって牧草の色や香 りという感覚に行為を促す力 ひ﹁のの. が宿っている︵目口,コq,RH ように、 の痛 ︶みという感覚は 、 当の痛. みを無くする行為を成就すべく 促 すわけだが、﹁感覚の記憶は繰り延. べられてハ将に生まれんとしてい る目感覚そのものへと移行する ぉ. づ㍉ 0ト 0二幅 0 Ⅱの コ ﹂ 0 た, だし今の場ムロ一方 で ﹁繰り延べ﹂は、垂直の運動を. 意味しており、精神の深みに存する 記憶が感覚へと移行するのであり、. 他方で記憶がそのままで﹁生まれ んとしている感覚ののコ田 ヱ0コ. コ田の いの ロ ︵ ユ だというわけではない。 むしろそうした記憶は﹁暗示 nU. 示唆口を与える催眠術師の役割﹂に 比される︵ ロま・しやど。したがっ. てまたこの場合、感覚の想起は﹁ 当 の感覚の過去の日付を指定するこ. ロnさ nれたも暗 の示 が. となしに﹂白 gHのの︶行われる。 実 際 一方で﹁生まれんとしている感. 覚﹂がそれであるのは、記憶によっ て ﹁示唆. し暗示. 生まれんとしている状態で素描さて いれる﹂からである。他方で﹁ 自. ら湧出しかけている ハ 実践的な︶無 意識の底から感覚を示唆 nn. とい 、 つ独自 ノ力 七三のの コ曲 のの㏄ 悪Ⅰ憶屯さ 馬っを あ. する記憶は、もはや存在しないもの き 、なおも存在しょうとするもの T 暗示︶. もって現前する﹂︵ぎ全。かくして 、垂直方向の第二の運動において. -6-. を 示す印たる示唆. ミヨ、巨守 コ。では、そうした 精 をうるということにほかならない﹂ ︵. の︶。しかるに﹁準い 備﹂ 中た のる 行身構えを﹁導く 臼Ⅱ俺ユ の ﹁示唆きおの屯 の0三 ・で十分である ︶。身を隠し身 た構 まえ まを 有用﹁ な示唆﹂し ﹁導く﹂精神的な. もっとも精神的な記憶が再現的表象 として現出する際は、それを 許. 構えを﹁示唆﹂することで行為を促 す。. さらにそうやって同時に 、当の感覚 を介して、成就すべき行為への 身. を ﹁示唆﹂し、﹁生まれかけの感覚 ﹂へと繰り延べられて移行する。. ﹁自ら縮約し﹂つ っ或る﹁独自 ノカ ﹂をもって過去の日付なしに感覚. は 、記憶化したイマージュは 、再 規約表象として現出することなく、. Q.. と 舌口ってもよいい るだ Y Ⅰ ノ 。たとえば﹁ 私は過去の痛みを想起しようと 努. 的表象が実践的意識の下に現出する には、それに応じる身構えの示唆. はこの二つの運動は記憶力の働きの 二局面として混合している。再現. す身構えを必要としている以上、偶 然 に身を委ねるのでなければ通常. カ すればするほど、現実にそれを 感得する傾きをもっ﹂︵目ミ・しe。. 記憶や想念に応じて行為するかぎ り、 当の﹁示唆﹂は﹁演じられる﹂. 宜Ⅰ∼. 行為へと向かう﹁為すべき歩み﹂の. ためには、記憶は再現的表象として 自ら顕現する必要はない。将来の. 高 gHA. ﹁現出へと向かう記憶とは⋮⋮準備 中の行いを導きうる記憶である﹂. 神 的なものが﹁演じられぅる ﹂とは いかなる事態を意味しているのか。. 行動 お甲するということ、それはま さしくこの記憶力が自ら縮約する. じられうる﹂ものと成ることを 意 抹 している。まだある。﹁いわゆる. 想念が、再現的表象として現出する のではなく、そうではなくて﹁ 演. ︵目ヨ 、H 鰯 。記憶力の第二の運動 た る ﹁縮約﹂とは、精神的な記憶や. ⋮⋮身体によって多少とも演じろ れぅる ﹂ ようにならねばならない. 実に触れ、たとえば﹁観念自身が 進展的に縮約することをとおして、. 想念日⑧が現勢化し、生ける力ある もの上の三のと成るには、現在の現. いるの T@ | 精神的な記憶が行為さ れるものと成ることを、である。. 担ト の隼のモき 曲0臣 縮約ののの 0コ甘が汀 のⅠ す る﹂とはいかなる事態を意味して. む かれ縮約する﹂運動である︵口目 、おこ。では﹁行為を目指して 目. かせ、そ う やって行為を目指して、. る言己. 一は、﹁記憶力が自らの方向をその. の呼び掛けに、同時別の働き方もある。. 時の状況へと定めて、最も有用な面 を当の状況に提示する﹂運動であ. 二つの運動をもって応答する﹂。. 憶.

(12) 130. 「 す べ ⅠⅠ. ノ. ク ソ ン. り. お. 記記は. キノ. る身. 体 習. 慣 形成. の. 可 能性. 宮 崎. T. 隆. る. で注こ. め て ぅ能. 兄. 来ないを. な情実身. 舎. も. ね. 一一. え. さっ合. 」.

(13) 1 3 Ⅰ 1・. 対 することによって、﹁一定の時の 間﹂保持されている﹁遁走的 ィマ. 隆. 目目、の. |ジュ﹂の特性をいささかなりとも 探ってみたい。そうすることによ. 宮崎. に ﹁生まれんとしている行為お︵ ざココ主 ㏄の日ヒ 田山 将に来たらんとし. って、身体習慣の形成が精神的な記 憶 のおかげでいかにして可能にな. ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. ている叶お目 行為11たる﹁ 身構 、 ぇがま田口旦を取り、それに応じて. るのかという問いに対して答えるた めの道筋も見出されるだろう。. 目ユが、このような﹁運動 傾へ きの ﹂を具えた﹁身構え﹂として. われの手を逃れてしまうような﹁遁走的イマーバンユ 田の的 0ヨ性ヰ 宇の﹂. ぃ。いや、そもそもこうしたイマー ジュ は、想起しょうとすればわれ. らすのもせ いぜい、行為を選択すべ く 記憶に参照を仰ぐためにすぎな. しLに Pド りか って そ L什 nを﹁ ハ 1リねね 川 L竹の 裁日 里一 の下に掴む﹂には、身体的な記憶. であり、その現出も消失も﹁われ われの意志﹂どおりにはゆかない。. 遁走的イマージュそれ自体は一面 では、﹁夢のイマージュ﹂の一種. 象として想起されるわけではな. できるので、遁走的イマージュを 利用 してそれの代わりになる身体 習. ﹁一定の時の間﹂それを﹁意識の眼 差しの下に保持﹂しておくことが. を推察する。次いで、精神的な記憶 の想起の仕組みのなかに﹁遁走的. た後、精神的な記憶の想起の仕方を 概観することによって、その特徴. ﹁遁走的イマージュ﹂に関して べル クソンの記すところを簡単に辿っ. 起と蓄積の仕方をいささかなりとも 解明してみたい。そのためにまず、. ね、蓄積されているのだろうか。 小論 では﹁遁走的イマージュ﹂の 想. の形成に際して、﹁遁走的イマージ ュ﹂はいかなる仕方で﹁保持﹂ さ. の状況﹂として一度目の代替者たり ぅ るのではない。では、身体習慣. るだろう。﹁保持﹂されている ィマ |ジュ は、たんに二度目の﹁偶然. あろう。しかるに二度目に可能な事 態 はすでに一度目にも成立して ぃ. 況の単なる代替者であるとするなら 、 同じ状況が二度に増えるだけで. ずいという漠たる感情をもって犯し たばかりのしかじかの間違いを 再. たかも意識のほの暗 い奥底から一種 の警告を受け取るかのように、 ま. 慣 獲得のために練習する際、最初 の練習のときからわれわれは、﹁ あ. や㊥。だからこそ、身体 習 動的な記憶﹂でさえありうる二% ︶け. ように、そうした視覚イマージュ や聴覚イマージュはもうすでに﹁ 運. ﹁精神工ネルギー﹂所収の論文﹁ 知 的努力﹂において強調されている. ﹁すでにわれわれの精神のうちに﹂ そうした仕方で存在している. ある。身体運動によって再構成せ んとしている当のイマージュは 、. いながらも現存している視覚 ィマ| ジュや 聴覚イマージュ﹂のことで. 成される。しかるにそうした﹁ ィマ |ジュ化した記憶﹂とは﹁見えな. ゴ お二たる遁走的イマージュの﹁潜在的な介入﹂によってそれは 形. 日パ ・ 慣を形成することになる。つまり ﹁イマ人ンユ 化した記憶の0仁せの. イマージュ﹂を位置づける。そして 最後に、身体習慣の特性から 逆照. ところでまた、﹁一定の時の間﹂ 蓄横 されているイマージュが 、状. ﹁遁走的イマージュ﹂はいかなる仕 方で想起されているのか。. では、身体習慣の形成に際して、. に置き代える よりほかない。われわれは精神的な記憶力のおかげで. ︵ ま目、 0中の︶を簡単に辿っておこう. ﹁遁走的イマージュ﹂の特徴を探る べく、まずベルクソンの記述. 一 イマージュ想起の二つの仕方と 遁走的イマージュ. 世界を知覚しているかぎり通常は 、無用な記憶が知覚世界に入り込む. 一 ". ︵ ま目、ま臣なのである。それゆえ ﹁遁走的イマージュ﹂は再現的表. 鰻・ かぎり、﹁意識の光﹂が記憶を照 実効化している︵ 目目、H めP.G申の. ョ08. の 役立たぬ記憶はむしろその現出を 阻止される。﹁運動図式おオかヨ. 汀コ年 ド 二品ョ0宙ざ 旦が身体習慣に 応 じて発生し、そのせいで、行為に. 余地はない。将来いづの三﹁において成就されるべき﹁運動への傾き. 丑 Pコ H拝 ,H 曳O こ。身体が生 きるに資する行為を成就すべく 将. 一.

(14) 遁走的イマージュと一 小唆のカ. ベルクソンにおける 身体習慣形成の可龍佳. |. 宮崎 隆. は通常、再現的表象﹁の づ﹁か3 の 日の 立 0コとして現勢化 お日キのの し﹁ 、将来に. するという仕方で後者の記憶が想起 されたからである。精神的な記憶. 来事を思い出したのは、記憶化した イマー ぃンユ を再現前化Ⅱ0 セⅠ ひのの0 コ Ⅰ田. の記憶が想起されたのである。これ に対して昨年の冬の或る一連の出. 枯らしを前にして襟を立てるという 行為は 、演じるという仕方で前者. |ジユ ぎの幅中の 0毛のコ﹁ レとに区別される ︵ まミ・き・ 0oぎ ,・ n︶。たとえ木 ば. 記憶は身体的な記憶たる身体習慣 と 精神的な記憶たる記憶化した ィマ. ベルクソンが﹁物質と記憶﹂の第二章 において記すところに よ れば、 一 Ⅰ 記憶の お日﹁あ Oる eいは記憶力 日ひ目 0ギのには二形態がある︵目言、 S臣 。. とは、当の記憶がなんらかの仕方で 実効化することであり、それゆえ. 身体的な記憶の形成に寄与している 。しかるにその ょう に寄与するこ. ︵ 客∼ &︶ .が、身体習慣の形成を可能 にする。精神的な記憶はこの点で、. ュを ﹁保持﹂という仕方で蓄積する精神的な記憶﹁能力 hpn. しの下に保持 お河田㍉しておくことができる﹂からである。 ィ マージ. ョ枕 Ⅰ 乱芯 われわれの意識の眼差 れ自身を、一定の時の間で。珪Ⅱ偉コ悪. ないのは、﹁或る独自ノ努力があっ て、それがゆえに、イマージュ そ. うか。実際ベルクソンによれば、 そうした﹁偶然の反復﹂を必要とし. るとわれわれは自ら 、当の状況の代 昔 者を創出し ぅ るのではないだ る. 偶然に反復するのをいたずらに 待 っ必要はな い﹂︵目ま・0ど。してみ. おける可能的行為の反映である実践 的な知覚世界に混入して、知覚 世. 想起されることでもある。したがっ て、身体習慣の形成に際して、 精. 神的な記憶の能力は蓄積と想起の両 面 において働いているだろう。. 再現的表象として想起されるとは 考えられない。当の身体習慣が未だ. しかしながら、こうしたイマージュ は 、精神的な記憶ではあっても、. われわれは、同様の状況に出会うな ら、それに随伴して生じる身体 運. 形成されていない以上、そうした ィ マージュはむしろ行為に役立たな. 宮崎. 一 @@@-. 動を 、同一の行為を自動的に再演 する。ただしわれわれにあっては、. い無用な記憶として、通常は身体に よって抑圧されるからである︵ 執 ベルクソンにおける身体習慣形成の可能性. 隆. そのょう に﹁随伴する運動を習慣 と して組織するために、同じ状況が. 自動的に、前者の記憶は反復によっ て為される。身体習慣のおかげで. 口目、 ダⅡ9 目 Hお o。蓄積については 、後者の記憶は時の順序に従って. 界を対象とする実践的意識 no. 0 コお の住 の で﹁㏄ 丘︵ eのの下に現出する︵ 執. Ⅰガ が ㏄巨 の ヴヨ日 ソい %. ま. ゴの荘 片目の 色の0パで のハ レ コ ︵づ Ⅰ e二%㏄0 片ご Ⅱ目づロ 0Ⅱ四 %やⅠⅡ日がめ 的ぎ ゆ二% のの升田で仁が のい 目のの 宙0団 ㏄目的 り㏄ ゆ 曲0二のプのい しの幅 Ⅱ ㏄ 0コ・ の. 日額﹂.

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