<寄稿>カンオケ われらの時代 漱石・歓三・道
也の系譜をたどって
著者
正田 吉男
雑誌名
関西学院史紀要
号
24
ページ
159-188
発行年
2018-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00026753
カンオケ
われらの時代
漱石・歓三・道也の系譜をたどって
正田
吉男
インターネットで﹁畑 道也﹂を検索すると、概略次のとおりである。 畑 道也 ︵一九三九 ・ 七 ・ 二∼二〇〇八 ・ 三 ・ 二五 ︶ 第 一四 代関西学院長 ︵二〇〇四年から三年 間︶ ・クリスチャン・気管支肺炎で死去︵六八歳︶ ・音楽学者。葬儀・二〇〇八年三月 二七 西宮市・日本聖公会 西宮ペテロ教会 以上 人は、偉大な人物にも、卑近な人物にもなる。 それは、生き残った者の言葉しだいであろう。 これから記すことは、一九六〇年から四年間、畑 道也と関西学院交響楽団︵カンオケ︶で共 に過ごした、一コントラバス弾きの半世紀を経た後の回想である。 卒業後の交際は、ほぼない。吉と出るか凶と出るか。それは今日のお天気しだい、というとこ ろであろう。◎漱石と道也とスミレと 一、俳句 ﹁菫 ほどな小さき人に生まれたし﹂ 漱石 二、 ﹁詩 一 編 ﹂ 畑 道也 僕は 大空に叫んだ 俺はシンフォニーをやるんだ! 雲が答へた 馬鹿野郎! 僕は 若者たちに叫んだ 俺はシンフォニーをやるんだ! 彼等はアハ⋮⋮⋮と笑った。 僕は 大人たちに叫んだ 俺はシンフォニーをやるんだ! 彼等は答えた ほどほどにな。
僕は 路 傍のスミレにそったたずねた 俺にシンフォニーが出来るかしら⋮⋮⋮。 彼女は微笑んだ やってごらん⋮⋮⋮。 これは、関西学院交響楽団発行﹃不協和音﹄創刊号︵一九六一年︶に載っている畑 道也の詩 である。 道也二回生、二十歳の作品。カンオケ指揮者に就いた時の、恍惚と不安に満ちた初々しい感懐 である。 田舎育ちの私は、春の野の道をよく歩いた。 野の花は、スミレ・タンポポ・れんげ草と一口にいわれるが、それぞれの様相は異なる。 タンポポは人の踏みつける路上であろうと構うことなく押し合いへし合い群生し、れんげ草は 田や畑を覆い尽くすようにはびこる。だが、スミレは孤高である。 密生するタンポポやれんげ草の中にあって、まことに可憐でありながら一株凜とした姿で咲い ている。 漱石は、自分もそういう人間でありたいと願ったのであろう。 熊本の第五高等学校で英語を教えながらふとつぶやいた、漱石三十歳の作。作句二千六百余の 中で生涯の名句とされる。
さて、漱石と並べた道也のスミレの詩である。そのとき道也は二十歳。漱石より十歳若い。が、 年齢とか時代とかには関係なく、私にはその精神において一脈相通じるものが感じられる。そこ はかとない人格的香気といったものであろうか。 余談ながら、 ﹃不協和音﹄創刊号を入手するには相当の手間暇が要った。 何しろ半世紀も昔の小冊子である。だが、そこはカンオケ OB 会のネットワーク、その元締め、 呉 健行氏の神業があったことを記しておこう。 この記念碑的冊子はいずれ、関西学院史編纂室の書庫に永久保存資料として納まるはずである。 ◎岡 潔と道也とスミレと ﹁人の中心は情緒である 。︱私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に 対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような 影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た﹂ 岡 潔︵一九六三年刊﹃春宵十話﹄より︶ ある時、畑 道也のカバンの中身を覗くことがあった。カバンは、 P r o f ・ H A T A と金文 字で刻印された、牛革製の書類カバンである。亡き父・畑 歓三の遺品であろうことは一目でわ かる。
さて中身はといえば、指揮棒と一冊の交響曲スコアと一冊の﹃サザエさん﹄と、岡 潔の﹃春 宵十話﹄の新書版であった。 岡 潔は、そのころ文化勲章受章の数学者として時の人であった。 笠 智衆 ・岩下志摩の出演による映画 、﹃好人好日﹄も評判であり 、同時に発刊された随筆集 ﹃春宵十話﹄も広く読まれた。といって、 当時のカンオケ部員数十名のうち何人が手にしただろう。 せいぜい二、 三人であったろう。そのうちの一人が道也である。 やはり、スミレの精神において、彼は岡に共振したのであろう。 今思い返しても、岡 潔から匂い立つ愛嬌、独立自尊、学究精神は、畑 道也の風貌姿勢を思 い起こすとき、やはりそこはかとなく重なるのである。 岡 潔は高名の数学者でありながら、優れた教育者、警世家でもあった。 若き道也にとって、父・歓三と重なる所があったのではないだろうか。 すみれの花言葉は、誠実・ひかえめである。 道也が真実その通りであったかどうかは断言できないが、彼の﹃スミレの詩﹄一篇を読む限り、 そこに流れる精神は真摯かつ可憐である。 ◎﹁道也﹂の命名考 いつか、君の父上は漱石の信奉者だというが、君の名前は漱石の小説からとったのではないか と質問をしたことがある。
漱石の初期の作品 ﹃坊ちゃん﹄につづいて ﹃野分﹄がある 。その作品の主人公が ﹁白井 道 也 ﹂ である。 が、 ﹁ちがうねん。論語や﹂ 、と即座に答えた。 その時彼が口にした出典は、論語の陽貨、第十七編、 ﹁道 聴塗説﹂というものであった。 ﹁子曰 道に聴いて塗 に説くは、徳を之棄つる也﹂ 道中で小耳にはさんだことを、なお道の途中ですぐに言触らしてはならない。それはバカの証 拠だ、という教えである。 すなわち、この教えの最初と最後の文字をとれば﹁道也﹂である。 歓三パパは、五十九歳にして初めて得た男子に、さてなんと命名するべきか、そのとき、瞬時 に﹁道也﹂が浮かんだのではないか。 それは、論語ではなく、 ﹃野分﹄の白井道也ではなかったか。 それではあんまり面映ゆいので、論語にこじつけた。あるいは、両方が瞬時に交錯したか。い ずれにしても漱石の影響があったことは間違いない、と私はおもう。 漱石 ・歓三 ・道也のつながりについては ﹃畑家の人たち﹄ ︵学院史編纂室便り ・ № 45) で簡略 ながら述べたとおりである。 それでは、なぜ﹃野分﹄の﹁道也﹂なのか。 ☆﹃坊ちゃん﹄のこと 漱石は明治二十八︵一八九五︶年、東京帝大出の文学士でありながら四国松山の田舎の中学校
の教師になった。いってみればハーバードで博士号を取った俊才が、どこか田舎の高校の教師に なるくらいのものである。諸般の事情があったとはいえ、着任してみれば、生徒、学校、世間の 余りのバカさ加減にあきれ果て、 一年で逃げ出した。この間の事情については、 小説﹃坊ちゃん﹄ でおおよそが知れる。 ﹁おいおい。それは小説だろうが﹂という声が聞こえそうである。 が、その年、奇しくも新一年生に入学したのが、道也の父、畑 歓三である。 ﹃坊ちゃん﹄で語られるてんやわんやは大方そのとおりであったと、 氏はどこかで述べておられる。 次の二つの漱石の論文を読んでいただければ、ほぼうなずいていただけるものと信じる。 一つは、 ﹃中学改良策﹄︱明治二十五︵一八九二︶年十二月稿・文科大学教育学論文 今一つは、 ﹃私の個人主義﹄︱大正三︵一九一四︶年十一月二十五日・学習院での講演 前者では、実際に中学の教師になる以前に、現状における︵明治前期の︶中学生のことを、幼 稚なくせに生意気なばかりで、野卑、徳義心に乏しきことおびただしい。教師をやり込めるのが 勇気あること位におもっておる、とこき下ろし、それは教師が無能であるがゆえである、と嘆い ている。 これはまさに、 ﹃坊ちゃん﹄の世界そのものではないか。 また後者では、 ﹃坊ちゃん﹄に登場する赤シャツこと教頭は自分だ、 ﹁当時その中学に文学士と いったら私ひとりなのですからな﹂ 、と自虐的に述べている。 ちなみに赤シャツのキャラクターはといえば、自分に都合よく事を運ぼうとする策略家、要す るに陰険なインテリである。漱石の最も嫌う人間像のようだが、内在する根源的自己矛盾を冷静
に見つめていたのである。 歓三は、実際の漱石先生をどう見ていたのか。 低学年であるため直接に授業を受けることはなかったようだが、上級生や教師仲間の繰り広げ るてんやわんやを傍観するだけの、ただの一年坊主にすぎなかったのであろうか。 ☆﹃野分﹄のこと ﹃白井道也は文学者である。八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、 去年の春飄然と東京へ戻って来た﹄ 。 小説﹃野分﹄は、このように始まる。 大学は東京帝大。専攻は英文学である。 初めての赴任先は越後高田、石油成金の町の中学であった。 ﹃道也はある時の演説会で 、金力と品性という題目のもとに 、両者の必ずしも一致せざる理由 を説明して、暗に会社の役員等の暴慢と、青年子弟の何等の定見もなくしていたずらに黄白万能 主義を信奉するの弊とを戒めた﹄ その結果、若造の癖に生意気なやつだと、前後左右から揺すぶられ、最後には生徒までが身の 程知らずの馬鹿教師とさわぎ、ついに﹃道也は飄然として越後を去った﹄のである。 次の九州でも、その次の中国地方でも大同小異のイジメに会う。 文学は金もうけの手段ではないというのが主人公の信念である。金力万能の時代、失職した道 也先生は当然のこととして生活に困窮し、奥方にも責められる。
やがて百円の借金ができ、債権者から、今すぐ返済せよと迫られている場面となる。 そこに登場するのが﹁小柳君﹂である。 小柳君もまた東京帝大出の若き文学者だが 、﹁白井道也﹂の文学理念に感化され 、自らも文学 に殉じて困窮の身の上である。おまけに肺結核になった。 万事休すの時、金持ちの友人から治療費として百円の融通を受ける。 そんな身でありながら、道也先生の窮状を見兼ねて、 ﹃高柳君は懐から受け取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。 ﹁君、そんな金を僕が君から⋮⋮ ﹂ と道也先生は押し返そうとする。 ﹁いいえ 、いいんです 。好いから取ってください 。先生 、私はあなたの 、弟子です 。越後の高 田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です﹂ 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った﹄ 小説﹃野分﹄のクライマックスである。 この高柳君こそ私だ! と、歓三青年はおもった︵であろう︶ 。 文中に、高柳君が自分の歴史を道也先生に告白する場面がある。 ﹁おやじは町で郵便局の役人でした 。私が七つの年に拘引されてしまいました 。後で聞くと官 金を消費したんだそうで︱その時はなんにも知りませんでした。母に聞くと、おとっさんは今に 帰る、今に帰るといってました。 ︱然しとうとう帰って来ません。 帰らないはずです。 肺病になって、 牢屋のなかでしんでしまっ
たんです。 それもずっとあとで聞きました。母は家を畳んで村へ引き込みました。⋮⋮﹂ 歓三の場合はこうである。 歓三の父畑 平學は、元、多度津藩家老であった。廃藩置県により職を失うが、新制度下の郡 長に推挙される。だが、就任の祝いの夜、政敵に寝込みを襲われ、下駄で顎を蹴られて歯を折り、 そこから黴菌が入って悶死する。臨終のとき、妻は﹁この仇はきっと討ちます﹂と誓い、陽明学 者の平學は﹁天これを知る﹂といって息を引き取る。 以来、妻︵道也の祖母︶は男女五人の遺児を引き連れて仇探しに明け暮れる。 そんな時、親戚の女性から一冊の聖書を手渡された。 訳も分からず聖書をぱらぱらめくっているうち、一つの言葉に出会う。 ﹁愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ﹂ この言葉を聴いて翻然仇討ちを放棄するや、伝道師を目指して神戸女子伝道学校︵後の聖和大 学︶に入学する。そのとき長男歓三は十歳余り。やがて明治二十八年、十五歳で松山中学に入学 して漱石に出会うのである。 ︵二〇〇五年七月、畑 道也の書翰による︶ 小説の高柳君は、貧困の中、刻苦勉励の末、ようやく最高学府を出たことであろう。幼くして 父を失くした歓三もまた同じであったはずである。 ﹃野分﹄の文中に、道也先生が高柳君を教え諭す場面がある。 ﹁人間は道の動物であるから 、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています 。道に従う人は 神も避けねばならんのです﹂
まさに、人は道なり、 ﹁道也﹂である。 道也の原像は、 ﹃野分﹄の白井道也でなければならぬ。 ◎関学スポーツの標語、 NOBLE STUBBORNNESS への道 ☆歓三と野球 唐突だが、正岡子規の野球の歌を、二つ三つ読んでみる。 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな 三つ目の歌は、さしずめ、 ﹁九回裏ツーアウト満塁﹂の興奮ぶりである。 子規は漱石と同年生まれ、一高・東大の同級の親友である。 子規は一高生のころ、アメリカ渡りのベースボールの解説書を手に入れるや、たちまち翻訳し、 仲間を募って野球を始めた。そうして郷里松山の後輩たちにも伝えた。その中には、俳句の弟子 高浜虚子もいる。 歓三少年もテキストを手に入れると、壁に向かって独りピッチングに熱中した。 仄聞する郷里の先輩、正岡子規、高浜虚子の活躍に憧れるところもあったであろう。
その歓三が第三学年で関西学院に転入する。 すると 、﹁カーブピッチングを初めて神戸にもたらした少年﹂ 、として一躍名を馳せる 。明治 三〇︵一八九七︶ 年のことであった。 ☆歓三とテニス 関西学院から同志社をへて早稲田大学に進学するとき、同志社の先輩・安部磯雄に野球部へ誘 われているくらいで、歓三の野球の実力、スポーツマンとしてのセンスは本物であった。 カリフォルニア大学留学を終え関西学院に奉職するや、庭球部の顧問となる。 その頃、なにしろ関学庭球部は弱かった。ライバルの神戸高商との定期戦では、何年にも渡っ て連戦連敗であった。そのたび、部員や応援団は悔し涙にくれる。 おしまいには、練習場にお地蔵さまを祀ってゴリヤクを頂こうという、ミッションスクールの 学生にあるまじき破れかぶれの案までが出る始末。 そこに登場するのが、畑 歓三先生である。 先生の﹁信念﹂はといえば、先生自身の述懐によりその一端を偲ぶことが出来る。 ﹁私は伊予の松山 ︽官立中学︾で何を教わったかというと 、功名富貴 、いわゆる成功 、あるい は青史に名を残すというようなことを人生唯一の目的と思うように教育されたのですが、関西学 院へ来ると誰もそういうことは云わぬ。お前はいったい何しにこの世に生まれてきたのかと考え ることを教えられた﹂ ︵注 1 ︶ 関学のモットーは当時も今も、
Mastery for Service
この考えは、漱石、夏目金之助が説いた﹁人は道なり﹂の真髄でもある。 漱石に学んだ歓三先生は 、迷える子羊たちに 、 NOBLE STUBBORNNESS の言葉を贈ったの である。 試合は勝負である。どうせなら勝ちたい。でも勝てない。そこで先生は云った。諸君。勝つだ けがスポーツではない。美しく負けることこそ真の美学だ、と。 多少負け惜しみの気味もないではないが、 なんといっても﹁フェアープレイ﹂ほど、 関学スポー ツに似合う言葉はないではないか。その源泉は、 じつに歓三氏の NOBLE STUBBORNNESS 品ある根性︶にある。 ︵注 1 ︶この項 、﹃関学創立 12 5 周年記念 ・同窓会史﹄及び ﹃関学創立期における自助会について﹄の 参照による。 ◎千刈セミナーハウスでの春合宿 昭和 三五 ︵一九六〇︶年に入部して、翌年の春早々カンオケの合宿があった。 セミナーハウスの広い部屋の周囲に二段ベッドがあり、その真ん中で合奏練習をした。 夜は、男ばかりの怪しげな講義と実演である。男子一年生部員は一〇名ほどであった。 講師は、経験豊かな畑 道也である。ベッドにもぐりながら、誰かがたずねる。 ﹁いれてどないすんねん﹂ 道也が答える。 ﹁いれたら動かしとうなるねん﹂
まさに経験者の実証的回答である。 ﹁おまえ、そこに寝てみい﹂と別の誰かが指名を受ける。 同じく未体験者の誰かは、素直に床に仰向けになる。 すると経験者は、誰かの股の間に入って動作をしてみせる。 壁際の幼い大学生たちは、かたずをのんで見守る。 たしか、その日の練習曲は、ベートーベンの﹃田園交響曲﹄であった。 かくして、人心を掴み、彼はリーダーとなって行く。 ◎ダフ屋の時代 昭和 三五 ︵一九六〇︶ 年 ・ 五 ・ 二八 、 第 一八 回定期演奏会が大阪朝日会館であった。 入場料三〇〇円。 新入生の私にとって、初めての演奏会である。コントラバスは目下修行中。練習には参加して いたので、先輩から﹁人数が足らん。おまえもマツヤニつけんで弾け﹂といわれた。マツヤニな しでいくら弦をこすっても音は出ないのである。が、さすがにその蛮勇はなかった。 そこで場内整理という役割を与えられ、ホールのロビー辺りをウロウロしていて、そこで見た のが 、﹁ ダフ屋﹂である 。﹁ ダフ屋﹂とは広辞苑によると 、﹁だふ﹂は ﹁札﹂の倒語で 、入場券や 乗車券を買いこんで、高く売りつける商売の人、とある。 すなわち、その時代、関西学院交響楽団の定期演奏会に﹁ダフ屋﹂が出たのである。 数人のオジサン 、オバサンが左手に入場券を扇の形に開いて 、﹁エエ券おまっせ﹂と来場者に
声をかけている。 果たしてカンオケの演奏会の入場券が、三〇〇円より高く売れるものであるのかどうか、我な がらはなはだ疑問におもえたが、はたせるかなダフ屋の出現はその年が最後のようであった。 昭和 三五 年といえば、 ﹁六〇年安保闘争﹂の年である。世間では﹁安保ハンタイ!﹂の大合唱。 一方上ヶ原牧場では、上品かつ怠惰な羊たちがごろごろ寝そべっている。 さすがに左翼的学生会ではこれではならじと、貸切バスを仕立て、むりやり湊川公園に送り込 めば、 ﹃関学がデモに参加!﹄と大見出しで新聞に出るくらいのものであった。 しかし、さすがカンオケである。この年春の定演の曲目は、ソ連の作曲家ショスタコービッチ の﹃交響曲第 5 番・革命﹄であった⋮⋮。 ◎テープレコーダー 一度、甲陽園の道也の自宅に付いていったことがある。 阪急夙川で甲陽線に乗りかえる。良家の女子学生が群れ、甘い香気にむせかえるばかり。終点 で降りれば、あたり一帯にはいやに明るい空気が流れている。 昭和三〇年台も後半にさしかかった頃ではあるが 、世間一般はまだまだ貧しい時代であった しかるに、まるで外国のような豊かさと華やかさに満ちていた。おりしも桜が満開のせいであっ たのかもしれないが、街路も街路樹も建ち並ぶ家々も何もかもが洒落て見えたのだ。
畑家も新築の洋風であった。そのとき家の人は誰もいなくて、高い天井の洋間の床にあぐらを かいて、彼自らお茶漬けをふるまってくれた。何もかもが洋風化と思いきや、冷や飯が小さなお ひつに入っていた。 その時初めて、 ﹁永谷園のお茶漬け海苔﹂なるものを食した。これがまたうまいものであった。 そのあと道也はテープレコーダーを持ち出し、録音テープを回して音楽を聞かせた。 こんなものまで持っているのかと驚いていると、 ﹁これ弾いてるのんだれや﹂とたずねる。 チエロの独奏である。瞬間、ふと引っかかるものがあったが、 ﹁畑や﹂ ﹁ちがう﹂ ﹁・・や﹂ ﹁ち がう﹂ ﹁〇〇や﹂ ﹁△△や﹂と思いつく限りの名をいうが﹁ちがう﹂である。 かねて自分の音楽的才能には絶望しているのだが、なにせ畑クンの前である。だんだん、自分 がいやになってきた。今自分が耳にしている演奏が、うまいのか下手なのかさえ分からなくなっ た。うまいといわれればそのように聞こえるだろうし、下手だといわれればそうかともおもうだ ろう。 茫然となっていると、道也は横を向いて、 ﹁カザルスや﹂ 、といった。 自分に腹が立った。カザルスの演奏といえば、つい先日、ラジオで、国連本部での演奏を聴い ているのである。チクショウ! とおもった。その録音であったのだ。 ﹁おれも聴いた。鳥の歌や。なんや素人っぽい演奏やおもたんやけどな﹂ 私は精いっぱいのツッパリでいった。 ﹁そやねん﹂ 。彼は、仕方ないという風にうなずいた。
世界に名をとどろかせるチエロの名手、カザルスの﹃鳥の歌﹄は絶品と評されている︵らしい のだが︶ 、未熟のコントラバス奏者には、その価値がまるで分からなかったのである。 それからあとのオケの練習が恐怖であった。 ﹁こいつになあ、カザルス聴かせたら、下手やいいよるねん﹂ 人前で、いつかばらすだろう。 ⋮⋮だが、その事を口にすることは、ついになかった。 こんなこともあった。 ラジオで、 全国器楽演奏コンクールというものがあって、 コントラバスの優勝者の演奏があった。 その時の印象を彼にいった。 ﹁なんや、下手なチエロみたいやった﹂ すると、 ﹁おまえ。コンバスで下手なチエロぐらい弾けたら立派なもんやで﹂と、ここでも一 本取られた。 ◎手相人相 オケの部室で手相人相がはやったことがある。 道也は、私の顔をじっと見て、 ﹁おまえは、あんまり親からかもてもろとらんなあ﹂といった。 私は五男である。しかも昭和十六年生まれ。戦中戦後の貧しい暮らしの中、親からかまっても
らえる暇などなかったはずである。ズバリ当たっている。 一方は大学教授の一人息子。 しゃくにさわるので、彼の手を見て、こういった。 ﹁おまえの指は方形の指というて、職人の手やな﹂ すると、 ﹁そやねん。わし電車の運転手になりたかってん﹂といった。 畑 道也の指先は十本とも真四角で、爪も四角い。生まれながらのチェロ弾きの指である。弦 を押える指先が、直角に指板に当たるようになっているのだ。 そういえば、妙に器用なところもあったし、彼が愛読する﹃サザエさん﹄に出て来る植木職人 のような頑固さも備えている。 そうして彼は、まさに職人の律義さでカンオケを育て上げていくのであった。 ◎道也とチエロ 一年のとき、彼のチエロは何の変哲もない布製のケースに入っていた。 二年になって、突然、ピカピカのハードケースを抱えて部室に現れた。 パンパンパン、と真新しい金具を外して、一台のチエロを取り出す。 ケースの内張りは、黄金色に輝くビロードである。 居合わせた皆は目を剥く。 ﹁これ、六十万や﹂
そういって、恍惚の表情でチューニングを始めるのであった。 当時大卒の初任給は、良い所で二万だった。 ︵ちなみに J A L は三万で最高だった︶ 今の初任給は、当時の一〇倍近くはあるだろう。 すると道也の楽器は、今の価格にすれば何百万ということになる。 二年後にはその楽器で、甲南大オケの定期演奏会でドヴォルザークの﹃チエロ協奏曲﹄を弾く のである。 だが、後日その楽器も手放される時がくる。外国留学の資金になったのだ。 ◎ハーレム 畑 道也は女性に持てたのか持てなかったのか。 オケの練習中、突然棒を振る手を止めていった。 ﹁中学生の親戚の女の子がいいよるねん 。道也ちゃんは前から見るとイシザカコウジみたいに ええ顔してるけど、横から見たらおかしな顔やねえ、やて。ほっとけ!﹂ そういって、さっとタクトを振り上げる。いつもの手である。練習がだれてくると、こういう 冗談を飛ばして団員の気分を変える。実に巧みであった。 その子はきっと、道也ちゃんが好きでたまらないのだ。 やはり、ヤツは持てる。 四年の時であった。前に触れたように、道也は甲南大オケで﹃チエロ協奏曲﹄のソロを客演し
た。私を含み、カンオケからも何人かが賛助出演をした。 当日、リハーサルのあと彼の楽屋に行って、イヤになった。 床には赤い毛氈が敷いてあり、いっぱいに広げた馳走を前に、甲南の美女たちに取り囲まれて、 まるでハーレムの王様のような顔をしてにやついていた。 本番の演奏はすばらしかったが、楽屋を目撃したカンオケの連中は憮然たるおもいで﹁ナガシ テいた﹂のではなかろうか。 アイツばかりがなぜ持てる! それから数年の後。どこかシエラザードの国の大学に留学している彼からハガキが来た。 ﹁この国では人の女に手をだしたら、袋に詰められて崖の上から投げ落とされます﹂ と、書いてあった。 投げ捨てられるとエエ、とおもったが、ヤツは無事に帰ってきた。 ◎畑 道也、精神分析を受ける 道也はオケの練習で指揮棒を振りながら、絶妙の間合いで座談の名手ぶりを発揮する。 みんなが難曲の練習にへたばったころ、ふと何事かを口にする。部員のエピソードをいうこと もある。受けを狙うのだから、狙われた本人はたいていが赤面する。 あるとき 、ふとタクトを止めて 、﹁このまえ 、精神分析の診断受けてなあ﹂と 、意外なことを
口にする 。東京の師の元にレッスンを受けに行ったときのことをさりげなく持ち出すのだ 神分析の医者がなあ、ここに来るまでの事いうてみい、いいよるねん。ほんでわし、路に転がっ てる石蹴りました、いうてん。ほんなら、 ﹃その石は、あんたの先生や﹄ 、いいよるねん﹂ そこでサッとタクトを上げて、練習に戻る。 彼の音楽の師は 、吉田貴寿である 。一九一〇年六月 一五日 生 日本チエロ界の草分け 一九三三年日本音楽学校卒。 一九五四年、 パリ国立音楽院卒。 そのとき昭和音楽大学学長 ︵一九七四 年まで︶ 。 小さい体で身丈に余るチエロのケースを担いで、東京駅から師匠の元に向かう畑 道也の姿を 想像すれば、うちの指揮者も悩みながら修行しとるんやなあ、と皆は少なからず共感を覚えるの である。 ◎道也﹃リンツ﹄を初演 一九六一年一一月、第 二一 回・秋の定演から、畑は正式の学生指揮者になった。メインの曲目 は、モーツアルト・交響曲第 三六 番﹃リンツ﹄であった。 本番近くになっての練習で 、ふと棒を止め 、﹁この前 、東京にレッスンに行って 、今度 の朝日会館で﹃リンツ﹄やりますねん、いうたら、センセエ、血相変えて、そらえらいこっちゃ、 聴きに行かなあかん、いわはってな﹂といい、じろりと団員をにらむ。こうして、我々にプレッ シャーをかける。センセエとは、吉田貴寿である。
◎ミチヤとエンビ 一年の時まで、男子はステージも学生服だった。 二年になって畑 道也が指揮者になった時 、﹁ステージ用のブレザー作るぞ﹂といいだし 、た ちまちテーラーが来て採寸し、我等はいっぱし交響楽団の団員らしい姿となった。 いよいよ本番である 。われらが何処やら身にあわない新調のステージ衣装で緊張していると 、 さっそうと現れた指揮者・畑 道也は、なんと﹁燕尾服﹂を着ていた。当時、学生オケの学生指 揮者で燕尾服を着用したのは、おそらく彼以外にはなかったであろう。 かんぐれば、どうも自分が燕尾服を着たいがために楽団員にブレザーを着せた、ともおもえる。 だが 、彼をそうさせたのは 、﹁やってごらん⋮ ⋮ ﹂と微笑んだ路傍のスミレに応えたかったの に違いない。道也が動けば、なにかが起きる。時には、革命さえも! この日から、関西学院交響楽団の新しい歴史は始まるのである。 ◎道也の叫び 一九六二年 一二月・第 二三回定演に向けての練習中、畑 道也は棒を振りながら突然叫んだ。 ﹁ベートーベンと違うぞ! わしら、ブラームス、やってんねんぞ!﹂ 団員のほとんどは、その意味を直ちに理解することはできなかった。 それまでの定期演奏会の曲目はといえば、一にベートーベン、二にベートーベンであった。加
えて、練習中のブラームス・交響曲第一番は、 ﹁ベートーベンの第一〇番やで﹂などといいあい、 またそのころ﹃ブラームスはお好き?﹄という洋画が人気で、すなわち﹁ブラームスはかた苦し く退屈﹂というのが世間の相場であった。その時代に、畑 道也は﹁ブライチ﹂に取り組んだの である。おそらく全国学生オケでも初演であっただろう。道也が目指すブラームスと、ベートー ベンに慣れきったわれらの音との間にはおよそ隔絶の差があったに違いない。 道也の大喝をくらって、われらはうすらぼんやり目を覚ます。 道也のスミレとの密約、道也の燕尾服はダテではないのである。 ◎道也と﹃第九﹄ ここに一枚の CD がある。 手製のジャケットには、こう書いてある。 創部五〇周年記念・第二四回定期演奏会。ベートーベン・第九交響曲︵合唱付︶ 。 演奏を聴けば、たちまち畑 道也の雄姿が目に浮かぶ。 指揮者畑 道也もさることながら、コンサートマスターの森 輝彦君が母校の合唱部をくどき、 二人三脚で﹃第九﹄は出来たとおもう。そして、向こう見ずに取り組んだ団員の熱意の成果でも あった。この年、第九に専念するため、春の定期演奏会を取り止めにしている。 この CD は、二〇〇三年畑 道也が学院長に就任し、カンオケ同期生でお祝いの会を開いたと き、ティンパニーの元部長が、保存していた録音テープから CD に起し、参加者八名にプレゼン
トしてくれたものである。 少々荒いが 、若々しい熱気に満ちた演奏 、 というべきであろうか。学生オケの ﹃第九﹄ は 、多分全国初演であろう 。よくぞあの時 代にこれだけのことが出来たと 、いまもっ て不思議の感にうたれる 。生涯の宝物を 、 畑クンは我らに与えてくれたのだ。 こののち道也がカンオケで ﹃第九﹄を指 揮するのは 、一九七六年 ・第 四八 回定期演 奏会のみである。 あれから 一三 年後 、燕尾服は新調された のだろうか。 ◎道也受洗す 世界的宗教学者の鈴木大拙は 、主著 ﹃日本的霊性﹄においてこういっている 。︵こんなふうに 権威的に語りはじめる話は大抵胡散臭いぞ 、という畑センセイの声が聴こえてきそうだが︶ 、人 が信仰に入る時には何等かの強烈な霊的体験をする 。また 、それがなければ入信は無効である 、 ということを縷々述べている。
関西学院交響楽団
創立50周年記念
第24 回定期演奏会
Beethouven Symphony No. 9 指揮 畑 道也 合唱 神戸高等学校合唱団 ソプラノ川崎英子・アルト上中達子 テノール高田浩平・バリトン三室堯 1963年12月2日 大阪毎日ホール単なる神秘体験ではない。ましてどこかのパワースポットに行って宝くじが当たったというよ うなものではない。魂がやむを得ず神を求めてしまったとき、許されるのである。 道也はこう語った。 ﹁中近東の国に留学してるときやけど 、ある小さな田舎の教会に通うことがあって 、わし突然 そこの牧師に、洗礼受けたいいうてん。それやったら本部教会の牧師に頼まなあかん、一週間待 て、いうねん。ほんでわし、待たれへん、いますぐ洗礼受けたい、いうたんや。ほんならその牧 師、あわてよってなあ、それが神のご意志なら、いうて濁った池にざぶっとつけよってん。 キリスト教の洗礼の儀式がどんなものか、私の知るところではない。畑 道也がいうのでホン トなのだろう。 その本人が関西学院の院長となり、葬儀は日本聖公会西宮ペテロ教会で行われたのである。 あのとき、畑 道也はどのようにして神と出会ったのか、それは謎である。 ◎中学部﹁畑 敬三郎﹂? カンオケの ﹃創部九〇周年記念誌﹄のページをめくっているとき 、昭和 三〇 年 ︵一九五五︶ 第一〇回記念演奏会の楽団員名簿に目がとまった。 顧問 ・田中彰寛教授 、指揮 ・牧野泰宣⋮と見て行って 、 C e ll o パートの中に 、﹁畑 郎︱中学部﹂とあった。 畑 道也が中学生のころからカンオケで弾いていたことは知っていたが、ここに出ている彼の
名は道也ではない。別人かと一瞬思ったが、双子でもない限り同時に二人の畑がいるわけがない ではないか。 別のページに 、﹃タイトルなし﹄の道也のオケに関する回想文があった 。末尾に 、関西学院院 長代理・文学部教授・交響楽団顧問の肩書がある。 ﹃タイトルなし﹄の回想文によれば 、関学中学部のころ 、大学生の岡 芳輝氏に誘われてカン オケの合奏に加わるようになった、 と書いている。 そしてまさにこの団員名簿のチェロのメンバー 中に岡氏の名前があった。 偽名を使ったのだろうか。それともミスプリントだったのか。敬三郎なんて、へんてこな芸名 を付けた、いや、付けられたものだ。 ここである感慨に捕えられる。 道也が学生時代に書いたスミレの詩にも﹁詩一遍﹂とあるだけで﹁タイトル﹂がなかった。 生涯、畑 道也は、常に前置きなしの人生を送ってきたのではないのだろうか。 父歓三は、 ﹁神戸にはじめてカーブピッチングをもたらした少年﹂とさわがれたくらいのスポー ツマンであった。息子道也は、父歓三の放った渾身の一球ではなかったか。 長くはない人生を、道也もまた、まっしぐらに駆け抜けた。そんな気がする。 ◎道也と酒 畑 道也と酒を酌み交わしたという記憶はあまりない。
二〇〇五年 、関西学院同窓会熊本支部の総会に学院長として出席があった時 、︵私は大阪より 熊本に移住していた︶雑談の中で、 ﹁モスクワに行ったとき、宴会の席でウオッカ 二五 杯飲んだ。 いや、飲まされた﹂といった。 道也はカンオケを引き連れて、一九七六年、一九八〇年と二度のソヴィエト演奏旅行を行って いる。その時の事であろう。この小さな男が、ロシアのヒグマのような連中と互角に闘ったのだ、 と一種悲愴の感に打たれながら一つの場面を思い出していた。 先に記した彼の学院長就任祝いの時、元部長の T がふいにいった。 ﹁おまえがなんで院長になれてん﹂ 一瞬、梅田のホテルの一室に微妙な空気が流れた。 新学院長は、へっと横を向いていった。 ﹁わしは、みんなと酒呑んでただけや﹂ 院長は、学院全教職員の投票で決まるそうである。 その前に院長代理をつとめていたというのだが、やはり人気抜群であったのだろう。 カンオケの部室で、道也は誰か上級生にとてつもないことを話していた。 ﹁ゆうべは富田先生の所で 、酒飲みながら二人で一晩中チエロ弾いてましてん 。今日は二日酔 いであきませんわ﹂ 富田政雄氏は、道也の関学中等部からのチェロの師であり、代々カンオケのチエロ弾きの先生 でもあった。そこで道也は岡先輩に出会ったのである。
氏は台風の大雨による﹁六甲山宅地造成地の土石流﹂で、まもなく逝去された。 ◎畑クンからの便り 二〇〇六年十二月一日消印のハガキが、畑クンからの最後の便りとなった。 ﹁拝復 熊本での全日本合唱コンクールにおける関学グリーの健闘ぶりをしらせてくださり、 ありがとうございました。 旧くから新人の登竜門となってきた﹃文学界﹄に貴君の小説が載る日を楽しみにしています。 敬具 十一月三十日﹂ ①この年の十一月、熊本県立劇場でハガキにある通りのコンクールがあり、関学グリークラブ がステージに登場した時の、客席の期待に満ちたざわめき、審査委員長池辺信一郎氏の興奮ぶり を伝えたこと。 ②この時 、私の小説が ﹁九州芸術祭文学賞﹂の候補に挙がっていて 、一席になると ﹃文学界﹄ に掲載されるという近況を知らせたこと、に対するものである。 私の小説 が﹃文学 界﹄に載ることはついになかったが、畑クンからのハガキに は、 ﹃サザエさ
ん﹄の植木職人のような律儀さと暖かさがあり、いまも大事に持っている。 それからわずか一年半後に届いたのが、 ﹃畑 道也先生の訃報と学院葬のお知らせ﹄であった。 二〇〇八年四月 二六 日、関西学院中央講堂において、カンオケ OB 交響楽団が奏でる葬送の曲 を聴きながら、ゆらり、畑クンは昇天していったことであろう。 ︵一九六四・大社卒︶