8,9世紀における東アジア文化圏と渤海 : 歴史教育における渤海の扱いについての一考察
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第45巻 第2号. 平成7年3月. Se i l i fEduca i t fHokka i do Un i t lo c onIC)Vo t ve r s on( Journa yo .45 ‐2 , No. March , 1995. 8, 9世紀にお ける東ア ジア文化圏 と湯海. --歴史教育における潮海の扱いについての一考察-- 宮. 崎. 正. 勝. 北海道教育大学釧路枝社会科教育. 1. はじめに 世界史を背景に日本史を考える場合に, 「前近代」 では東アジア文化圏の中での日本に対する認識が極め て重要な意味を有することは論を待たない. 西嶋定生氏が冊封体制の視点を提示されて以来, 文化的基盤と 1 ) しかし 中国と 国際秩序を共有する世界としての東アジア文化圏の構造的・総体的把握が可能になっ た( ‐ , 日 本, 或 い は 「中心 (=中国の諸王朝)」 と各周縁との関係に偏した歴史把握では 「地域世界史」 の複合性 が見失われてしまい, 東アジア文化圏の全体像が浮か び上がっ てこない. 吉田悟郎氏は 「東アジアというの は実 は 東北 ア ジ アま た は北 方 ユー ラ シア と, ユ ーラ シア 草原 と, 華北 的な も のお よ び南 中 国・ ブー タ ン・ネ パ ー ル につ な がる よう な もの と, こ の 四つ か ら構成 さ れてい て, そ の 中に朝 鮮 半 島・ 日本群 島という もの が ( 2 )と述べ て いる が 一層 世界史 的な視点 であ る と 言え よう 地 理 的 にも 歴 史 的 にも位 置 して い た」 . , 海域 を 軸 に して 8 ・ 9 世 紀 の 東 ア ジ ア の歴 史地 図を見 て みる と, 「潮 海・ 黄 海」 海 域 を挟 んで唐 帝 国・潮. 海.新羅の3国が連なり, 「日本海」 に面して新羅・潮海・日本が向き合っ ており, 湯海が2大海域をつな ぐ結節部に位置していることに気がつく.「潮海・黄海」は航海が容易であり古くから交易が発達していたが, 「日本海」 にも 北からオホーツク 航路 妹錫航路 北潮海航路 高句麗・潮海航路 南潮海航路などの諸 , , , , , 3 ) 日本海の航路は北の海域でも活発な展開が見られた オホーツク 航路の外に余市町の 航路が順次開けた( ‐ ‐ 大川遺跡、小樽市蘭島遺跡など積丹半島の周辺から交易を推測させる青銅製の鈴, 玉製環状耳飾り, 潮海系 と考えられる土器が出土していることから, 図柄江河口部と積丹半島を結ぶ蘇揚航路の交易も古い歴史を持 4 ) 沿岸漁業が操船術の発達を促し 航路の安定化 に結 び付いたのである 潮海は そ つと考えられている( ‐ ‐ , , 5 } のように多方向の交易路と結び付くだけではなく, 北方ユーラシア世界と南の農耕世界の縁辺部に位置し( , 広大な 「北ユーラシア世界一 の狩猟・漁排民を支配下に組み入れた複合民族国家としても注目すべき存在で 6 ) もあ っ た. 北 方ユ ー ラ シ ア世 界 と農 耕社 会の 接 面 が日 本列 島にも 及 んでい たこ と は注 目 さ れね ばな らない( .. また, 大シンアンリン (興安嶺) 山脈を境に広大なモン ゴル高原が広がり, 潮海は遊牧世界とも境界を接 していた‐ 農耕世界,‐遊牧世界, 狩猟・漁排世界が相互に関連し合いながら東アジア文化圏を形成し, 歴史 を動かして来たが, 潮海はまさにその接面に形成された国であっ た‐ 農耕社会を中心とする従来の歴史観で は遊牧世界や狩猟・漁労世界の動きが抜け落ちてしまい,東アジア文化圏北部領域の輪郭はぼやけてしまう. 7 1 環日本海地域に関しても世界史・日本史教育において共に 「空白」 に近い扱いがなされてきたのである( 8 )をあ げる ま で も なく 日 本の歴 史教育 の 中で エー ゲ海・ 地 中海 海域 の文 化 交流 に極め ライ シ ャワ ー の 言{ ,. て高い関心が示されるのに対して日本海海域世界が等閑視されるのは, 日本人の世界史認識の歪みを示す事 例であると考えられる‐ 本稿は, 中学校社会科歴史分野, 高等学校日本史・世界史の教科書における 「潮海」 の扱い方を分析し, 更に歴史研究の成果を踏まえて, 「古代」 東アジア世界像の在り方を再検討するところ に目 的 がある‐ 69.
(3) . 宮 崎 正 勝. 2. 歴史教育における潮海の扱い 明治維新以来の日本の歴史認識は 「近代的国家 (主権国家)」 概念を軸にじて形成され, 「前近代史」 にお いては中国の諸王朝と 「国家」 としての日本の関係が叙述の軸に据えられてきた‐ 8 ・9 世紀 にお いて は, 唐帝国と日本の関係を中心に東アジア世界像が考えられ, 潮海は唐文化を摂取し, 積極的に日本に使節を派 遣した親日的な国, 日本と等質な 「律令国家」 として把握され, その特殊な性格に着目されることは少なか っ た.. 例えば高等学校日本史教科書の記述を見てみると, 「7世紀の末に中国東北地区に建国した潮海国は, 唐 27(神亀4) 年にわが国と国交をひらき, 以後, 両国はしばしば使節を交 や新羅に対抗する ためもあって7 換した‐ 日本はまた, 新羅ともひんぱんに使節の交換をおこなっていたが, 日本が新羅を従属国としてあつ ( 9 )というように 潮海は日本や新羅と等質な 「国家 かおうとしたため, 両国の関係はしばしば緊張した‐一 J , 「 と して扱われ, 外交史の側面から簡潔な叙述がなされるのみである. 高等学校世界史教科書の記述も, 中 国の東北地方では, 7世紀末に大群栄が珠錫族と高句麗の遣民を率いて潮海国を建て, ‐ 唐の諸文化を積極的 に摂取した. 潮海は, 日本とも緊密 に交流を重ね, 日本はその使節から貴重な大陸の情報を得ることができ た‐」◎と, 簡潔に勃海の建国, 唐文化摂取, 日本との文化交流にふれるのみである‐ これらの記述からは, 東アジア文化圏北部の広大な領域を支配し, 「農耕民と狩猟・漁排民からなる複合民族国家」 を形成し, 「通 商国家」 として特殊な位置を占めた潮海のイメージが浮かんでこない‐ 中学校社会科歴史分野7冊の教科書⑪を分析してみると, その傾向は更に顕著になる‐ 分析の対象となっ た7冊中の4冊の教科書では本文中で 「潮海」 の記述がなされておらず, 更にそのうちの3冊は図版として 収 め ら れて いる 「8・ 9 世紀 の 東 ア ジ ア 世 界一 の 地 図 中 に 「潮 海」 の 国名 ・ 領 域, 「潮 海 と 日 本の 交 通 路」 も記 さ れてお らず, 「東北 地方」 ・ 日 本海 は完 全な 「空 白」 にな っ て いる.. 潮海に言及している教科書の本文の記述も, 例えば 「新羅・唐の連合軍にほろ ぼされた高句麗のひとびと が,潮海という国を建て,朝廷に使節をおくってきたので, 日本からも10回あまりの遣潮海使が遣わされた.」 ⑩というように 潮海は高句麗の後継国家 新羅や日本と等質の 「国家」 として扱う記述がなされている。 , , 潮海使節が用いた日本海航路を記入した地図は精粗まちまちである が, 比較的詳しい地図では潮海の遣日本 使が首都の上京 (東京城) からの2つの陸上ルートを辿って日本海沿岸の海港に至り, そこから日本海を横 断して能登福浦と松原 (敦賀) に至る2ルートが描かれている‐ 高等学校日本史教科書もほぼ同様である。 それに対して, 潮海史研究者の上田雄氏は, 「潮海使の出発港は内陸の東京龍原府ではなくてその外港で あったはずであるし, さらに後期になる と, もっ と南の南京南海府の外港から出発してきているのである‐ そして, その日本への到着港も北は出羽国から南は長門, 対馬まで弓なりになった日本海沿岸の国々へまん べんなく散らばっ て, 極端に言えば, ほとんど毎回 ごと に違った所に到着していたのである.辛めと, 教科書 の図版の不正確さを指摘している. 航路を正確に測定する技術を持たなかっ た当時において, 航海は季節風 や潮流に依存する しかなく, 航路が大幅な振れを持ったのは当然のことであった. 中学校歴史分野教科書のうち2冊が 「勃海と日本の交流」 についての特集を組んでおり, 注目される‐ そ れらの特集は 「環日本海構想」 との関連で組まれ, 日本海海域が日本の表玄関であったことが強調されてい るが, 日本海にも大陸文化摂取のサブ・ルートがあっ たというだけの認識では, 8, 9世紀の東北アジア世 界の状況, 更にはそこに成立した大国 「潮海一 の性格・位置づけが明確にならない. 潮海を, 唐帝国と日本 を結ぶ バイパスが通過し大陸文化の通路となった国として叙述するだけでなく, 東アジア文化圏の中で潮海 が占めた特別な位置を明かにする視点が必要である. 8・9世紀の環日本海世界を把握するには, 「現在の 北朝鮮・中国東北・ロシア極東にまたがる大国 『潮海国』 の存在によって東北地域が自立性を高めて繁栄し, 70.
(4) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と潮海. 参というような認識が必要になる 歴史教育の現状 環日本海地域交流が発展した特筆すべき時代であっ た」Q ‐ は, そう した認識への転換点に位置している とも考えられ, 潮海像の一層の明確化が求められている と言え よう‐. 3. 唐帝国と突厭の対立と湯海の建国 6 68年に新羅と提携して高句麗を滅ぼした唐帝国は, 東方秩序安定のために高句麗王族, 高句麗と提携関 $ 『旧唐書 巻1 係にあった蘇溺族の族長を営州 (現在の熱河省朝陽) に移住させ, その監視下に置いたQ 』 19 . 6年に勃海 湯海妹錫伝は, 「高麗既滅, 群栄率家属徒居営州」 と, その事実を記している‐ また, 唐帝国は68 交易圏中枢部の遼東半島に旧高句麗王族の一人を擁立して 「遼東都督」・「朝鮮郡王」 の称号を与え 「小高句 麗国」 という健傷政権を立て噂 秩序の確立を図っ た‐ ) に契丹人の李尽忠と孫方 696‐697 しかし, こう した唐帝国の政策は効を奏さなかっ た‐ 万歳通天年中 ( 『旧 栄が唐帝国の営州都督を殺害して蜂起し,それを利用して高句麗の残党の大群栄と珠錫の首長,乞四比羽( 唐書』 の記述による‐ 『新唐書』 では, 舎利乞乞仲象と乞四比羽が蜂起し, 舎利乞乞仲象が戦死して, その 後を長子の群栄が継いだとされる) が, 妹錫族と高句麗の残党を率いて遼河東方の山岳地帯を拠点にして立 ち上がり, 唐帝国の混乱を利用 して新政権の樹立を目指した. 唐帝国の則天武后は, 697年6月に契丹人の蜂起を終息させると, 李尽忠の部下であっ た李槽固の率いる 軍を派遣して大群栄などの勢力の弾圧に取り組んだ. しかし, 契丹人からなる李措固軍は, 乞四比羽軍を破 『新唐書』 では乞乞仲象) 軍に大敗を喫し 蜂起の弾圧に失敗した っ たものの天険に拠って戦う大群栄 ( ‐ , 混乱が続く中で, 同地域に居住する契丹・実な どの勢力が悉くモンゴル高原の遊牧民, 突厭に帰順する方 向に動いたたため突厭と対抗関係にあった唐帝国は動揺し,大群栄政権への干渉を諦めざるを得なくなっ た‐ のが建国されたが 大群栄に被られた李槽固軍の大部 こう した過程を経て, 698年に露 (振) 国 [後の湯海]Q , 分が契丹人であったことから, 勃海と契丹の間にも微妙な対立感情が残ることになった‐ 『旧唐 書』 巻199 潮海昧錫伝 『新唐書』 巻2 19 潮海伝, 『類衆国史』 延暦1 5年 ( 79 6年) 四月戊子条は, ,. それぞれ潮海の建国について次のように記している.. 1)「群栄遂率其衆東保桂婁之故地, 拠東牟山, 築城以居之‐ 群栄駿勇善用兵, 妹錫之衆及高麗余尽梢梢帰之‐ 『旧唐書』 潮海珠錫伝) 聖暦中自立為振国王, 遣使通於突厭‐一 ( 『新唐書』 湯海伝) 2) 「群栄即井比羽之衆, 侍荒遠及建国, 目号震国王, 遣使交突厭‐一 ( 3) 「潮海国者, 高麗之故地也‐ 天命開別天皇七年, 高麗王高氏為唐所滅也. 後以天之真宗豊祖父天皇二年, 『類衆国史』 延暦1 大群栄始建潮海国‐」 ( 5年四月戊子条) これらの3史料を総合すると, 大酔栄は唐帝国の支配から自立した諸勢力を糾合 して698年 (天之真宗豊 祖父天皇2年=文武天皇2年) に東牟山地域を中心に震 (振) 国を建国し, 建国後にモン ゴル高原の突厭に 使節を派遣して, 唐帝国からの自立を図っ たことが分かる. 当時の突厭は, 形の上では唐帝国の冊封下にあったが, 突厭の獣畷可汗が娘を唐の王族の下に嫁がせよう とした意志に反して則天武后が准陽王武延秀との婚姻を画策したのに立腹し, 獣畷可汗が10万の軍を率いて 唐の領域に攻め込んだことに示されるよう に, 実質的に 「敵国」 と言っ てよいような状況にあっ た戦 渦海 は, 東アジア文化圏における農耕世界と遊牧世界の対立の中で成立したのである‐ 建国された潮海が高句麗の後継国家なのか, それとも珠錫族の国家なのかについては, 『旧唐書』 と 『新 唐書』 の記述に食い違いがあるために, 漸海は高句麗の延長線上 にあり朝鮮史の一部をなすとする韓国・朝 71.
(5) . 、宮 崎 正 勝. 鮮の歴史家◎と, 潮海は球場族が 「東北地方」 に建国した国であるとして中国史に組み込む中国の歴史家◎ との間に見解の相違が見られる. 99の潮海珠粥伝では, 「潮海珠錫大群栄者本高麗別種也」 と記しているので潮海は つまり, 『旧唐書』 巻1 9 潮海伝では, 「潮海本粟末附高麗者‐ 姓大氏‐」 と記 高句麗の後継国家と言うことになり, 『新唐書』 巻21 しているので, 高句麗に服属していた蘇弱の-部族、粟末部が建国の担い手となる. しかし, こう した議論 は近代以降の 「国家」 概念を 「古代史」 に機械的に持ち込むものであり, 余り意味がない. 7 05年に則天武后が逝去して中宗が即位すると, 唐帝国は潮海を懐柔して冊封体制下に組み込む政策に転 じた. こう した唐帝国の政策転換は潮海側にとっても勿論有利であり, 大群栄は唐帝国に恭順の意を示し, 王子を質子と ‐して入唐させることになっ た鰹 更に, 7 11年に突厭の黙畷可汗が唐帝国と和解策に転じて婚姻政策をとると, 唐帝国・突厭の緊張関係が 13年になると, 前年に即位していた唐 緩み, それと連動して潮海・唐帝国の関係修復も更に進展をみた. 7 帝国皇帝, 玄宗は大群栄に従三品の左嬢衛員外大将軍の位を授けて 「潮海郡王」㈱として冊立し, その支配 領域を忽汗州と名付け, 大群栄を都督に任命した. その結果, 震国の名が廃されて, 「潮海」 の地名 をとっ て潮海国と呼ばれるようになっ たのである、 。. 4. 潮海による鞍鵜ネッ トワークの支配 7 19年に大群栄が逝去する と, 長子の大武芸が2代目震国 (湯海) 王・ 「潮海郡王」 となっ た‐ 彼は, 唐 帝国との関係が安定したのを利用して狩猟・漁労民が散居する北方の大領域の征服に乗り出した.大武芸は, 『新唐 書』 巻219 潮海伝が 「斥大土宇 東北諸夷畏臣之 」 と記しているように武力を背景にして征服活動 ‐ , ,. を展開し, 狩猟・漁労民である妹錫諸族を次々と従属させていった‐ 珠錫諸族は, 『旧唐書』 北秋伝に 「妹錫, 蓋粛慎之地, 後貌謂之勿吉, 在京師東北六千余里‐」 とあるよう に, 魂晋南北朝時代には「勿吉一と呼ばれていたが, 晴唐時代に「珠錫」と改称された. 『醜書』 巻100勿吉伝 は, 「勿吉国, 在高句麗北, 旧粛慎国也‐ 邑落各自有長, 不相統一, 其人頚惇, 千束夷最強, 言語独異」 と 出 記している. 『北史』 は勿吉 (蘇弱) を粟末, 伯= , 安車骨, 沸浬, 号室, 黒水, 白山の7部族に分けてい るが, 『劾海国志長編 上編』 は, 大白山の北に居住する妹錫諸族の7部族の相互の位置関係を明かにし, 0里離れて居住していたことを指摘している㈱. 妹場文化は中国では 「同仁文化」 各部族が200里から3-40 と呼ばれている が, 北海道のモヨロ貝塚や網走市常呂町栄浦第二遺跡から珠賜の文物に似た遺物が出土した 報告があり, 北海道網走の方にまで妹錫文化は波及していた㈱. 7部族のうちで最盛期の高句麗に服属し, 農耕民としての色彩を強めたのが粟未,,白山の2部族であった. 珠錫では, 『旧唐書』 巻19 9下 珠錫伝に, 「其畜宜猪, 富人至数百口, 食其肉而衣其皮」 と記されているよ 1 珠錫伝は, 「人皆身輝敵, 長弓三尺, うに猪の飼育がなされ, 狩猟・漁排が重要な位置を占めた. 『晴書』 巻8 箭長尺二寸, 以石為鉄…常七八月造毒素, 偉矢以射禽獣, 中者立死」 と, 珠錫がアイヌのように毒矢で獣を 倒 したこ と を記 して いる. 彼 ら はシ ャ ー マ ンを信 仰 し, ア イ ヌ と 同様 に熊 崇 拝の習 俗 を持 っ てい た とさ れる. ㈱ 『旧唐書 巻199下 妹錫伝は妹錫の住居について 「無屋宇 井依山水掘地為穴 架木千上 以土復之 』 , , , , , . たことを記している と 竪穴住居であ 相乗而居 状如中国之家墓, っ 」 , . 諸書を総合して, 7部族の配置とその状況について記すと以下のようになる‐ 1) 粟末部……最も南に居住して居住地は大白山にまたがり, 旧 「高句麗」 と接していた‐ 粟末水 (北流 松花江)の本・支流の流域で生活し, 現在の農安・吉林・敦化が中心地域をなした.「夫余」 72.
(6) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と潮海. の流れを汲み農業中心の生活をしていた‐ 2) 伯嘘部……粟末部の北方に居住した. 松花江の曲折部, 現在の吉林省扶余市付近が中心と考えられて ・ と 同音 である‐ いる‐ 扶 余 は清代 に は 「伯 都納」 と 呼 ばれた が, 「伯 都 納」 は 「伯 噌」. ) 流域が中心‐ 潮海の北進に対 3) 安車骨部…伯嘘部の東北方に居住した. 現在の阿什河 (アルチュカ“! 抗して鉄利部を中心に統合されたので鉄利部 とも言う‐ かっての勿吉政権の中心部族であ 「 ばれた が, そ れら は 「安 車骨」 っ た. 遼 金 時代 にこの地 域 は 「安 出虎 水」 , 安 出 虎」 と 呼. と同音で古代ツングースの言葉で「黄金」の意味である‐ 唐代には鉄利と東方に越喜の両部 族 が居住 した.. 4) 沸浬部……伯噌部の東方に居住した. 現在のロシア共和国の沿海州に当たる‐ 大部分は穆蒼たる原始 林 であり, 狩猟 が主 であ っ た‐. 5) 号室部……沸遅部の東方に居住した‐ 狩猟の比重が高く,{晴初には依然として石鏡が用いられていた‐ 6) 黒水部……安車骨部の西北方に居住した. 分布地域は最も広く, 黒竜江中・下流, ウスリー江・松花 江下流一帯に当たり, 最も勇敢な部族として知られていた‐ 7) 白山部……粟末部の東南方に居住した. 南は太白・狼林山脈で高句麗族と接した. 威興, 間島, 豆満 江流域の諸平野が含まれる. 夫余の流れを汲み農業が生活の中心であった。 大武芸は北方の鉄利・越喜などの珠錫諸部を征服して狩猟・漁排民の大ネ ッ トワークを支配下に入れた が, 松花江 (ソンホア河) の北に大勢力を誇った黒水妹錫のみは潮海への従属 を拒み, 唐帝国の力を借りて 自立を守ろうとした‐ 大武芸の下での潮海の著しい勢力拡張を危険視していた唐帝国は, 黒水珠褐に勢力を 扶植することで突厭・潮海間に襖を打ち込み, 東北アジアにおける帝国の地位を安定させようとしたのであ る.. 『新唐 書』 巻219 黒水球錫伝は 7 ) 年に黒水珠錫の酋長が玄宗に拝謁して刺史に任ぜられた , 22(開元10. 4 ) 年に唐帝国の安東都議府が黒水鎌場の 2 6 (開元1 こ と を記 してお り㈱, 『旧唐 書』 巻199 潮海珠場伝は, 7 領域内に軍を配置し, 最大の部落を統治の拠点に定め, 黒水鎌錫の首領を都督として諸部の刺史を支配させ, 唐帝国から長史 (地方官) を派遣して監督下に置いたことを記している◎. こう した唐帝国による黒水妹場支配は潮海の危機意識を強め, 唐帝国との衝突を覚悟の上で大武芸は黒水 妹錫への攻撃を企図した‐ 大武芸は, 先に潮海の了承を得て突厭の吐屯 (監督官) の支配下に入っ ていた黒 水珠錫が潮海の了承を得ずに唐帝国の支配下に入ったのは, 唐帝国が黒水妹弱と結び潮海を挟撃せんとして いるからに違いないとし, 同母弟の大門芸と鼻の任雅相に軍を率いさせて黒水珠揚を討たせんとした㈱ . しかし, この企ては質子として唐帝国に滞在した経験を有し, 帝国の強大さを認識していた王弟の大門芸 の強い反対に遭い頓挫した. 黒水珠錫の征服問題を巡って, 大武芸と大門芸の兄弟間の亀裂は深まり, 大門 芸の唐帝国への亡命にまで事態は進展した㈱. その間の事情を 『東国通鑑 剛 巻10は, 「門芸日, 黒水請吏, 而我撃之, 是背唐也‐ 唐大国, 兵万倍我, 与 力唐為敵, 可謂雄強, 唐兵一臨, 掃地尽炎. 今我衆比高句麗三 之産怨, 我且亡‐ 昔高句麗盛時, 土三十万, 抗 之-, 王将達之, 無乃不可乎‐ 武芸不断, 強遣之. 門芸倶, 奔唐.」と述べている‐ 唐帝国との戦いを決意した大武芸は, 突厭との提携を強化する 一方で唐帝国に忠実な新羅との戦いに備え 7 (神亀4) 年に寧遠将軍, 高仁義を長とする使節団を北方の珠錫ルートを て日本との軍事提携を策し, 72 経由して日本に派遣した. 湯海の遣日本使はこれが最初である‐ 使節団一行は, 出羽の地に漂着したものの 叫 潮海の 高仁義以下16名が殺害され, 部下8名が辛くも平城京にたどり着いて, 潮海の国書をもたらした6 国書は, 「武芸啓. 山河異域. 国土不同‐ 延聴風歓. 但増傾仰‐ 伏惟大王. 天朝受命‐ 日本開基‐ 変葉重光‐ -. ・. 73.
(7) . 宮 崎、 正 勝. 本枝百世‐ 武芸黍当列国‐ 濫惣諸蕃. 復高麗之旧居. 有扶余之遺俗‐ 但以天崖路阻‐ 海漢悠々‐ 音耗未通 ‐ 『続日本記』 吉凶絶問. 親仁結援. 庶叶前経‐ 通使聴隣‐ 始乎今日. …」 ( ) とへりくだった書式をとりなが E P ら , 潮海は高句麗の後継国家であるとし, かっての高句麗同様に使節交換を行いたい旨が記されている‐ 潮海が危険視していた新羅は, 既に7 21年に東海岸の要衝の何悪羅に長城を築き, 潮海の動きに対処する措 お 置を整えていたのである れ こう して見ると, 農耕世界、遊牧世界、狩猟・漁拶世界の対立 に根差す東北アジ ア情勢の緊迫が, 日本海を越えて日本にも波及したことが理解できる‐ 亡命した大門芸の殺害の要請が唐帝国側に受け入られないのを知ると, 大武芸は唐帝国との武力対決を決 意した‐ 大武芸は7 2 (開元20 ) 年9月に, 張文休に兵を率いさせて潮海海域の中心港市である山東半島の 3 登州を海上から攻撃させた‐ この攻撃が所謂潮海の 「登州入冠」 であるが, 潮海が戦船を用い海から登州に 攻撃をしかけたことが注目される国 張文休は海賊を率いて攻撃をしかけたのであるとされるが この事実 , は潮海が大量の海上交通手段を調達し得たことを示 している‐ それに対抗して, 唐帝国は大門芸に軍を与えて潮海軍征討を図り, 新羅に潮海との境域地帯を攻撃させ た国 新羅の攻撃は, 深い雪と険阻な道に阻まれて参戦士卒の半数以上を失う悲惨な結果に終わっ た‐ こうした東北ア ジア情勢の緊迫は, 翌7 33年になると突厭の政変により急転した. 7 33(開元2 ) 年に突厭 1 の鴫伽可汗が死去して突厭内部の汗位争いが激化したことから, 突厭は唐帝国との間の和解を進めざるを得 なくなった. 突厭の援助なくしては唐帝国との戦いを継続する目処が立たない大武芸は, 唐帝国との和解に 転じた‐ 大武芸は, 73 5(開元23 ) 年に弟の大蕃を唐帝国に送っ て恭順の意を示し, 翌年, 翌々年と朝貢使 節の派遣を繰り返した国 唐帝国は7 35年に, 潮海の登州攻撃の際に潮海南境を攻撃した新羅に対して旧高句麗領の浪江 (大同江) 以南の土地を, 戦闘の褒賞として割譲した‐ 高句麗の旧領を新羅に与えることにより, 唐帝国は潮海・新羅 の対立関係を持続させようとしたのである‐ 新羅は, 獲得した土地に辺防機関を設置して体制を固め 潮海 , との間の緊張関係は持続されることになった国 高句麗の旧領復活を策す勃海は, 唐帝国に朝貢使節を派遣する一方で日本との提携の強化を策し, 新羅に 対抗するという複雑な 政策をとることになった‐ 739年に潮海が第2次遣日本使を派遣 したのは こう した , 情勢の変化を背景にして日本との間に軍事的同盟を成立させようとするものであった. しかし, 第2次潮海 使の一行の大使船は沈没し, 40名が生命を落とした◎. やがて, 唐帝国が安史の乱 ( 7 55‐63 ) により大混乱に陥ると, 再度情勢は転換した. 潮海は唐帝国の混乱 を利用 して遼東半島にあっ た唐帝国の億傷国家である 「小高句麗国」 を併合し, 7 58年に第4次の遣日本使 を派遣して藤原仲麻呂との提携を実現させて新羅攻略を実行し, 一気に高句麗の旧領を回復しようとした‐ 新羅はそれに対抗して潮海との境域に6城を築き, それぞれに太守を配置して防御体制を固めねばならなか 鞄 った ‐. 朝鮮半島北部の緊張を利用 しながら潮海と提携して大陸進出を策した藤原仲麻呂は, 7 59(天平宝字3) 年6月に大宰府に行軍式を設け, 9月には北陸, 山陰, 山陽, 南海の諸国に500隻の船を3年間で建造する ことを命じ, 新羅との戦争態勢の本格的な整備 に乗り出した回 7 61年には394隻の軍船が完成し, 兵員4万 000人, 子弟20 7 2人, 水手1万73 60人, 計5万8 2 62人の臨時師団が設置されて対新羅戦の準備が進んだが, 孝謙上皇, 道鏡との間の確執を強め国内における地位を不安定にした藤原仲麻呂は, 7 64(天平宝字8) 年 に追い詰められて挙兵し敗れ去った‐ その死により、日本が勃海と提携 して新羅と戦う計画は水泡に帰した の である‐. その後も, 湯海・新羅の対立関係は持続 した‐ 82 6年7月に, 新羅が浪江に沿っ て300里の長城を築き防御 体制を強めたことは, 両国の対立が持続したことを示している劉 唐帝国にしてみれ ば, 「夷を以て夷を制 74. ・.
(8) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と潮海. する」 政策力竣功果 を挙 げた という こ と になる.. 5. 勅海における唐文化の受容と支配体制の整備 9 3年まで57 大武芸が738年に死ぬと, 長子の大欽茂がその跡を継いで潮海第3代の王となった. 大欽茂は7 年間の統治を行っ たが, その間に唐文化受容が急速に進んだ‐ 彼は, 即位の年に使節団を派遣し, 「唐礼」 ・ む 以 後 唐 帝 国 の 統 治 シス テ ム を 体 系 的 に導 入 した 「三 国 志 . 「晋 善一 な どを 書 写 さ せ て 持 ち 帰 ら せ邑 ‐ 」 ,. 「唐礼」 は律令体制の基盤をなす理念を示しており, 潮海が唐帝国のシステムを導入する前提となっ た‐ こ ◎ の 使 節 団 は, 献 品 と して沼 鼠 皮1000張 を持 参す る という 大 掛 かり な も の であ っ た . 大 欽茂 は, 741年 にモ. 鮮 り ン ゴル高原の覇者である 突厭が瓦解したのを利用して珠錫諸族に対する 支配権を確立し , 親唐政策をとっ て在位57年中に54回というように, ほぼ毎年遣唐使を派遣して朝貢貿易を行い, 唐文化の積極的受容を進め た鍵. 『新唐 書』 巻219 潮海伝は 「初 其王数遣諸生詣京師大学 習識古今制度, 至是遂成海東盛国, 地有五京, , , ,. 5府, 62州に分ける統治体制 十五府, 六十二州」 と, 潮海が唐帝国の制度にならって「五京」を設け, 全国を1 を固め, 「海東 盛 国」 とな っ たこ とを 記 している. 『冊 府 元亀』 巻959 土風も, 二千里に及ぶ広大な領域を支 配下に入れ, 編戸十余方, 兵数万人に達した潮海の繁栄ぶりを記している㈱. 62年になる と, 安史の乱により弱体化した唐帝国は, 大欽茂に 「潮海郡王」 に代 わる 「潮海国王」 の称 7 号を与え, 新羅王と同じ 「検校大尉一 の宮職を与えた鞠 弱体化した唐帝国は, 周辺諸国の間に対立.緊張 を生 み 出す こ と で, 東ア ジ ア の 国際秩序 の 維持 を 図 っ たの であ る.. 唐制を導入した潮海は, 中央の政治システムとして三省・六部・一台・七寺・一院・一監・一局の制度を 導入した劉 潮海では, 三省は政堂省 (唐の尚書省) , 中台省 (唐の中書省) と言わ , 宣詔省 (唐の門下省) れ, 政堂省の下に実際の行政に携わる忠 (唐の吏部) , 仁 (戸部) , 義 (礼部), 智 (兵部), 礼 (刑部), 信 (工 部) の六部が設けられた‐ しかし, この唐システムの受容はあくまでも形式的なものであり, 当然のことな がら唐帝国のシステムとは大きな違いがあった. 例え ば唐帝国では, 門下省が大貴族の利益の代弁機関とし て中書省をチェックする機能を果たしたが, 潮海では権力が政堂省の長官の大内相の下に集中し, 他の宮所 は形式的な機能しか果たさなかったという 戦 唐の政治システムの受容は, 多分 に形式的側面が強かっ たの である.. 軍事面でも唐帝国の衛制度に倣っ て十衛の制度が敷かれ,全国諸道に折沖府を設けて民衆に軍役を課した‐ その結果最盛時の潮海は, 20万人近い軍隊を動員できる大勢力に成長したという◎. 孫栄健氏は, 潮海の軍 を, 「夫余・高句麗系の有力者である首領層 を基幹とした在地郷兵型の歩兵・騎兵の軍団」 であっ たのでは の と推 測 している ない か6 ‐ ,. 潮海の地方支配システムは, 五京 (京は府と同様に扱われる) , 十五府・六十二州と政堂省が直轄する三 奏州 (直隷州) ・州により統括される百余の県の3段階に分けられ, 都督が府, 刺史が州, 県丞が県を統治 した麹. 「府」 には各地の軍事拠点が置かれ, 諸部族の支配, 交易の中心であっ た‐ 王承礼氏は, 潮海の広大な領域を, 1) 西部の農業地区, 2) 中部の農業と狩猟・漁排が混清した地区, 3) 東部と北部の狩猟・漁帯地区, の3地区に区分している‐ 1) は松轍平原を中心とする地区で, 粟, 麦, 稲が作られた外に牧畜もなされ, 織物, 製陶などの手工業 も 発 達 して い た.. 2) は上京, 中京, 東京, 南京を中心とする地区で農業, 手工業も盛んであったが, 牧畜業が比較的発達 していた‐ 綬券河流域 (率賓馬), 穆陵河流域は馬の産出地として知られていた‐ しかし, 山間の盆地 75.
(9) . 宮 崎 正 勝. などでは狩猟・漁労・薬材の採集なども盛んになされていた. 3) は, 潮海領の過半を占める地区であったが, 森林に覆われた寒冷な地区で人口もまばらであり, 沸渥, め 越喜, 虞類, 鉄利などの諸族が狩猟.漁拷の生活を営んでいたも . 湯海の中枢部では, 古くから農業が導入されていた. 例えば, 三江平原の東寧団結遺跡, 松轍平原の大安 漢書遺跡, 望海噸遺跡などからは, 漢代の鉄製農具が出土しているという◎. しかし, 狩猟・漁排民が散居する北方の大領域の統治は多分に形式的であり, 自立した珠錫諸族の社会を 緩く支配するに過ぎなかった. 後の 「沿海州」 に当たる地域だけでも日本の約4倍の面積があり, それを遥 かに凌ぐ大領域に散らばる狩猟社会を整然と支配することは出来るはずも‐ なかった. 統治システムを整える には道路網・駅逓制の整備, 官僚体制の確立などが不可欠であっ たが, 短期間に整備できるものではなかっ -. た‐. 『類票国史』 の延暦15年の条は 在唐学問僧永忠の見聞として 「…和銅六年 受唐冊立 其国延嚢二千里 . , , , , 無州県館駅, 処々有村里, 皆蘇弱部落. 其百姓者珠錫多, 土人少. 皆以土人為村長, 大村日都督, 次日刺史, 其下百姓皆日首領‐ 土地極寒‐ 不宜水田. 俗頗知書一触と, 潮海の広大な領域では州県シス テムのみならず 道路網も整っておらず, 珠錫諸部落が散在し, 土人が各村の村長として統治を行い, 大村の長を都督, それ に次ぐ村の長を刺史と言い, 民衆は村長を 「首領」 と称していたことを記しているが, それが勘海の地方統 治の実態を描いていると言えよう‐ 潮海では, 首領制が次第に都督, 刺史, 県丞による集権支配体制に代わったとする見解もある力薄め , それ は単なる推測に過ぎず, 仮にそれがなされたとしても西部・中部の農業が普及した地区のみにおいてであっ たと考えられる‐ 王承礼氏の 『潮海簡史』 は, 後期の遣日本使節団の中に65人の首領が含まれ, それが62州 に3独奏州 を加えた数と合致することから, 首領は在地の支配者であり, 勃海はそうした勢力を利用するこ とにより広大な狩猟・漁労民の居住地域を支配し得たのではないかと, 推測している国 上記の史料で珠錫諸部落を支配した土人は, 支配層をなす高句麗系の人々, あるいは高句麗の影響を強く. 受けた粟末珠賜族を指したと思われるが, 彼らは寒冷な気候のために農耕に従事できない昧弱人から紹, 熊, 虎, 白兎などの毛皮, 蜂蜜などを貢納品として徴収した‐ 潮海南部の農耕地帯は, 繊維製品などの手工業製品を求める大森林地帯の狩猟民のニーズに応えきれず, 唐帝国, 日本な どに市場を求め ざるを得なかっ た. そこに, 潮海が商業国家の側面を強く帯びざるを得ない 特殊な事情が生まれた. 蘇溺諸族が交易を必要とした状況は, 『新唐書』 北秋黒水珠錫伝からうかがうこと ができる. それによると, 妹錫諸族の居住地は南は勘海を隔て唐帝国に接し, 北・東は海に面し, 西は室章 と接する, 南北麦二千里, 東西千里の広大な領域であり, 黒水から西北に思慕部, 更に北に1 0日の隔たりで 郡利部, 東北に10日で窟説部, やや南に10日で莫曳皆部, 更に沸浬・虞婁・越喜・鉄利の諸部があり, 沸漫・ 鉄利・虞婁・越喜の諸部は時に唐帝国に使節を派遣して鯨晴, 沼鼠, 白兎皮などを献じたが, 潮海が勢力を 拡大すると, 珠錫諸部は皆潮海に服属 し, 使節の派遣が途絶えたとしている国、 そうした事実は, 個別に唐帝国と朝貢貿易を行っていた珠錫諸部が潮海の使節団の中に吸収され, 従来諸 部の首長が自ら行っていた交易を潮海が代 テすることになったことを示している. 8世紀中頃までは, 妹錫 諸族の多くがそれぞれ唐帝国との自律的交易を行い, それ以後は潮海と黒水珠錫に交易が限定され, 9世紀 になる と潮 海 一 国 と の 交易 に絞 ら れてい っ たの で はな い か と推測 さ れている輔.. 潮海は, 建国当初 (旧国と言われる) 東牟山城, 教東城に両都を置いていたが, 同地が潮海の領域の東に ) の時代, 日本で東大寺の大 偏しており, 高所に位置して寒冷であっ たために, 第3代大欽茂 (位7 38‐ 7 93 仏が完成した7 49年頃に顕州に遷都し, 中京顕徳府が築かれた‐ 更に755年頃になると, 再度の遷都がなされ 上京龍泉府が増 都となった‐ 78 5年頃になると一時首都は東京龍原府に移されたが, 7 93年に大欽茂が没する 76. ‐.
(10) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と勃海. と再度都は上京龍泉府に戻され◎, 首都は上京に落ち着いた- 外郭城, 宮城, 王城の3部分よりなる上京龍 泉府は長安の都市プランを模した都市であったが、外郭城の周囲が162 96 ‐5メートルと規模は小さかっ た回. 6. 五京制と五道--湯海の都市と交易路 潮海は大欽茂の統治期以後, 五京制と言って5つの首都を並立させる制度をとっ ていた‐ 五京制は, 757 「 年 に唐 帝 国の 粛 宗 が 「五 京一 を 定 め た の に 由来 す る とさ れる力怖D 、 五 京一 は, か っ て の 粛 慎 の ネ ッ ト ワ ー. クの中心であり黒龍江省の牡丹江が鏡泊湖に流れ出す地点 に造営された上京龍泉府, かっての減額のネッ ト ワークの中心で現在の輝春の近くに位置する東京龍原府, あとは存在地が確定できないが, かっ ての沃温ネ ッ トワークの中心の南京南海府, 高句麗の故地の中心である西京鴨緑府, 旧都の中京顕徳府であった. 湯海システムの中心であった諸都市は, 複雑な民族構成からなる潮海の行政の中心であっ たのみならず毛 皮などの交易都市でもあり, 府・州・県などの中心集落を結ぶネッ トワークの結接 点ともな っ た‐ 潮 海で は 馬の飼育が全土隈なく行われており, それが軍馬として利用されたのみならずネッ トワーク維持の手段とし ても用 い ら れたこ と は 言う ま でも な い.. のな どとの交易がなされた 『新唐書 潮海伝は 勃海の北方地域では, 黒水珠錫, 室章, 莫曳珠錫, 流鬼修 』 ‐ , 「五道」 外部地域と通ずる5つの幹線道路 ( ) があっ たことを記しているが, それらは朝貢道, 営州道, 契丹 道, 新羅道, 日本道の5ルートであり, 唐帝国, 契丹, 新羅, 日本と結び付いていた回 『潮 海 国 志 長 編. 下』 の 金銃繊 氏 の見 解な どを 参考 に して 「五 道」 につ いて見 て みる と㈱, 次の よう にな. る。. 1) 「朝貢道」 は, 都の龍泉府から西京鴨緑府を経て南西に600里で潮海と新羅の境界に出, 更に小船で30 里下っ て鴨緑江河口に至っ た‐ 鴨緑江河口から沿岸沿いに遼東半島の南端に出て, そこから島ずたいに 山東半島の唐帝国の港市, 登州に航行するルートは, 新羅, 潮海と唐帝国を結ぶメイン・ルートであっ た‐. 2) 「営州道」 は, 都の龍泉府から長嶺府を経て南西に1 500里で唐帝国の安東都議府に至り, 更に500里で 燕 郡 城, 更 に西 に180里 で営 州 (現 在 の朝 陽) に至 る 陸上 ルー トであ っ た‐ こ の ルー トは古 北 口 を 経 由 して唐 帝 国の 首都, 長安 につ な が っ てい た.. 3) 「契丹道」 は, 都の龍泉府から西に扶余府 (現在の農安) に至り, 更に契丹の居住地域である大シン ア ンリ ン山 脈 の南 麓 に至る ルー トであ り, そ こ か らモ ン ゴル高原 に入る ルー トがつ な が っ てい た‐. 4) 「新羅道」 は, 都の龍泉府から海岸線 に沿って新羅と境界を接する南京南海府に至り, 新羅に至る陸 上ルートであっ た‐ 新羅と潮海の境界は泥河であり, そこからは新羅のルートに接続した‐ 東京龍原府 か ら新 羅 の井 泉 府 ま で は39駅 (唐代 の1 駅. は30里 なの で, 1170里) の 隔た り がある 山道 であ っ た.. 5) 「日本道」 は, 都の龍泉府から東南に日本海に面した東京龍原府に至っ た. 日本へのルートは, そこ から図個江の支流を経て河口のポシェ ト湾の港に出て海路日本の敦賀; 能登, 加賀などに至るルートで あった. 龍原府は理春付近の半粒城遺跡がそれに当たるとされている‐ 遊牧地帯, 狩猟・漁労地帯と農耕地帯を結ぶ大交易国家である勃海が歴史教育の中から抜け落ちてしまっ たり,或 い は 単に日本にしばしば潮海使を送って来た親日的な国ということで簡単に片付けられてしまうと , こう した東アジア文化圏北部の広大な交易圏, 文化交流圏が闇の中に葬り去られてしまうことになる‐. 77.
(11) . 宮 崎 正 勝. 7. 湯ラ毎交易圏と新羅・勃海 ) は, 『古今郡国県道四夷述』 『皇華四達記』 などを著し 7 30 ‐80 5 8世紀末に唐帝国の宰相となった買耽 ( たとされるが, それらの著作は現存せず僅かに 『新唐書』 地理志に, 唐帝国の辺境地帯と接続する 7つ の 幹 線道路について記されているのみである. 彼が記した唐帝国の7つの幹線道路のうちの5つは陸路に接続し 「 国 たが, 2つは南の 「広州通海夷道」 , 北の 登州海行入高麗潮海道」 と言う ように海路に接続していた 登州 は, 南 の広州 と並 ぶ, 北 の重 要な 港市 であ っ たの である. 『元和 郡 県 図志』 巻11も, 登州 につ いて, 「登. 「 と記 している. 登州を起点とする 「潮海道」 州, 西至海四里, , 高麗道」 は鴨 ‐ 当中国往新羅, 潮海洞大路」 緑江河 口ま で は同一 のルー トをた どり, そ こ から潮 海, 新 羅 の2 ルー トに分 岐 した‐. 登州を出た後で航路は潮海湾を島ずたいに渡り, 対岸の遮東半島の南端に位置する都里鎮 (現在の旅順市 付近) に至り, そこから半島の南岸に沿って青泥浦 (現在の大連湾付近) , 桃花浦, 杏花浦, 石人注な どを 経て鴨緑江の河口に至った. そこから勃海道は, 河口から鴨緑江を逆上り, その後陸路に転じて潮海王城に 至り, 高麗道は沿岸を西南に航行して鳥牧島, 浪江 (大同江) の河□, 板島, 新羅の西北部の長口鎮, 古寺 島 (江華島) を経て唐恩浦口 (現在の仁川の南の馬山里付近) に至り, そこから陸路をとって新羅の王城, 金城 (慶州) に至っ た噂 ‐ 登州を中心とする勃海交易圏を利用することで唐帝国との間の太いつながりを維持したの 新羅と潮海は, である. 円仁の 『入唐求法巡礼行記』 巻2は, 登州の城南街に使節の往来と交易の便を図るための潮海館, 新羅館がそれぞれ設けられていたことを記している鋤 このようなルートを用いて, 新羅・潮海は唐帝国に対する朝貢貿易を活発に推進した. 新羅は唐に対して 前後1 2 6次の遣唐使を派遣し, 唐も新羅に34次の遣新羅使を派遣している‐ 使節の派遣が年に3次に及んだ 年 は648年, 706年, 2次 に及 ん だ年 も627年, 642年, 643年, 675年, 703年, 705年, 715年, 723年, 724年, 726年, 729年, 730年, 737年, 744年, 774年, 776年, 809年, 828年, 831年 と いう よう に多く 数 え ら れ㈱,. 使節派遣のかたちをとっ た唐帝国と新羅の貿易がな盛んにされたことが分かる.『三国史記』の記載によると, 新羅から唐帝国にもたらされたのは, 金, 銀, 銅, 金属工芸品, 朝霞錦, 大花魚牙錦, 小花魚牙錦, 魚牙錦, 三十斤紬杉段などの織物, 人参, 牛黄, 狭苓などの薬材, 馬, 果下馬, 狗, 鷹, 海豹皮などであった◎‐ 69年の新羅使節は37 新羅の使節が唐帝国に持参した品物の種類は豊富であり, 量も多かっ た‐ 例えば, 8 の 種類もの品を唐に持参したが, その中には, 黄金100両, 白銀200両, 牛黄15両, 人参100斤が含まれていた▽ . 唐帝国は, 新羅に対して, 金器, 銀器, 金銀細工物, 銀碗, 錦砲, 紫砲, 緑泡, 押金銭羅裾衣, 金帯, 銀細 帯, 彩素, 錦彩, 綾彩, 五色羅彩, 綾錦細帯, 茶, 白鷺鵡, 書籍などを回贈している‐ 5年に最初の使節を派遣して以来, 遣唐 潮海も新羅と同様に唐帝国との間に活発な朝貢貿易を展開し, 70 使の派遣は1 30余次に及んだ‐ 713年に大群栄は玄宗に市場交易を求めて許され, その後, 登州に潮海舘が設 3次, 第3代王, 大欽茂の時期には56年の統治期間に49次, 793年に 置された. 第2代王, 大武芸の時期に2 3 ) が勃発するまでは30次の使節派遣がなされた. 安史の乱後は, 大欽茂が没した後も, 安史の乱 ( 75 5‐ 76 25年の最後の使節派遣まで9次を数えたに過ぎない四 8 72年に至って26年ぶりの遣唐使派遣がなされ, 以後9 潮海の1 30余次に及ぶ唐帝国への使節派遣は,朝貢のかたちをとった貿易であった‐ 王承礼氏の『潮海簡史』 は 『冊府元 亀 に記載された勃海の朝貢品目について記している が, それらの記載中から潮海が唐帝国に献 れ じた品と, 唐帝国が湯海に回贈した品を列挙してみる と, 次のようになるか [潮海から唐帝国への貢品] 沼鼠皮, 海豹皮, 熊皮, 虎皮, 靴, 乾文魚, 鱈魚, 昆布, 人参, 松子, 黄明, 細布, 白附子, 鷹, 馬, 踊躍盃 78.
(12) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と潮海. [唐帝国から勃海への賜品] 常, 綿, 錦泡, 紫砲, 線練, 絹, 果毅, 金帯, 銀帯, 銀器 樹海から唐帝国には, 諸皮革, 鷹, 乾魚, 昆布, 人参, など珠場族の居住地域で産出された物産が斎され たが, これらの外に馬, 銅も主要な産品であっ た‐ 帝国からは主に絹製品, 金・銀器な どの著修品が潮海に 図贈された‐ 記録が残されていないために交易の規模は不明であるが, 朝貢貿易の外, かなりの規模で新羅 商人・湯海商人による交易も行なわれていた. 新羅, 潮海ともに貨幣の鋳造がなされていなかったために物 々交換のかたちで交易がなされたと推測されているが (唐の通貨がそのまま流通していたという説もある) , 唐帝国の織物, 金銀製品, 書籍などが, 新羅の金銀, 薬材など, 湯海の獣皮, 乾魚などと取引された‐ 山東 半島から島ずたいに遼東半島南岸に至る航路は小船の航行も可能であり, 日常品の交易も活発になされてい たと推測される‐ 円仁の 『入唐求法巡礼行記』 には, 唐帝国の山東半島の登州, 密州から准南道の楚州に至るまでの間に,. 登州文登県勾当新羅所, 登州赤山新羅院, 登州城内南街新羅館, 青州新羅院, 楚州漣水県新羅坊, 楚州山陽 県新羅坊な どの新羅人が利用できる施設が設けられていたことを記しているが, これらの施設は交易 にも利 執 唐帝国は 「戸令」 に 「諸没落外蕃得還及化外人帰朝者, 所在外 用されたけ 1鎮給衣食, 具状奏聞‐ 化外人千 4 を 寛郷附貫安置」 と規定しているように外国人の移住に寛大であり, 賦税の負担を10年間免除する規定もあ った㈱ので, 新羅人が唐帝国内に移住し, 居留地を作ることは比較的容易であった. 特に赤山には, 張詠という通訳を長とする大規模な新羅人の居留地が設 けられており, 赤山院 (法花院) という寺院がその中心であった. 円仁は, この寺院で新羅が潮海に勝利したのを祝う祭りが行われたことや, 朝鮮語を用いて3日間に及ぶ 『法華経』 講座が開かれ, 200人から2 50人の新羅人が参加したことを記してい る同 勃海の交易活動については史料が乏しいが, 円仁は83 9年に文登県の青山浦で潮海の交易船が入港し ているのに遭遇している@. 8. 潮海と日本海交易 潮海の日本遣使は7 27年以降3 4次にわたっ てなされたが, 使節団の規模は22人から359人に及び, 後半にな るとほぼ10 5人に落ち着いた域 潮海の日本遣使は, 劾海が唐帝国と新羅の間で孤立していたこともあって, 当初は政治的・軍事的色彩を帯びたも のであっ た. 727年に大武芸が寧遠将軍, 高仁義など2 4名を派遣して 来た第1次遣使, 7 2年に大欽茂が輔国大将軍, 慕施蒙など7 5 5名を派遣して来た第3次遣使, 758年に輔国大 将軍, 楊承慶など2 3名を派遣して来た第4次遣使, 7 59年に輔国大将軍, 高南申が安史の乱が未だ治まらず, 旅途が危険であるために帰国出来ない旨を記した遣唐使, 藤原清河の表文を携帯した第5次遣使が, いずれ も武官を大使とする使節団であっ たことは, それを示している◎ ところが, 762年の第6次遣使は文官である正堂省左允, 王新福など23名が派遣された政治的なものであ った. この使節団は, 同年に潮海と軍事同盟を結んで新羅の攻撃を企図して高麗大山を遣潮海使として派遣 した藤原仲麻呂に対して, 和平策に転じた潮海の立場を説明するためのものであったとされている国 同年 に安史の乱で混乱した唐帝国は懐柔に転じて, 潮海王の爵位を 「郡王」 から 「国王」 に格上げし, 新羅王と 同等の検校大尉の官職を与えており, 潮海は唐帝国の国際秩序 に組み込まれる道を選んだと言える◎. 7 71年6月になると, 青綬大夫壷万福などに率いられた325人の第7次使節団が17隻の船に分乗して出羽に 上陸し, 翌年正月に壷万福など40名が入京した‐ この使節団が持参した国書が前例に合わなかったため朝廷 での賓礼は停止されそうになっ たが, 大使の壷万福は陳謝して表文を書き直し, 関係の維持を図っ た回 こ 79.
(13) . 宮 崎 正 勝. こで問題になるのは, さしたる外交課題がないにもかかわらずなされた使節団員の急増であるが, その理由 は潮海の使節団の目的が外交から国家間交易に転じたことにあるとされている同 以後, 7 59人と極めて 76年の第9次遣日本使が167入, 77 9年の第11次遣日本使が潮海人, 鉄利人から成り3 23年の第21次以後は100人余に安定して行く帥. 多く, 78 9 6年の第12次, 7 5年の第13次は60人余となり, 8 勃海と日本との間の交易量については残念ながら明らかにならないが, 潮海が日本にもたらしたのが主に 毛皮, 人参, 蜂蜜などであり, 日本が潮海に与えたのが絹を中心とする織物であった. 第9次遣日本使都蒙 が, 沙金, 水銀, 金漆, 水精念珠 (真珠) , 海石欄油, 槙郎樹扇などを求めていることから多くの雑貨が潮 6 ) 年3月戊辰朔条は, 右大臣, 藤原緒嗣の 「実 海にもたらされたと推測される国 『頻繁国史』 天長3 ( 82 奄 ◎という言を収めてお に是れ商旅にして, 隣客とするに足らず‐ 彼の商旅をもって客となすは国の損なり.」 り, 潮海の使節団の主目的が交易に転じていたことが看取できる. 4 潮海の日本との交易を考える際の手掛かりになるのが, 潮海の遣日本使の人員構成である‐ 8 1年の 「勘 海中台省牒」 は, 同年に派遣された日本への使節団10 5人の構成を, 「使頭 (大使)」 1名, 「嗣使 (副使)」 1人, 「判官 (三等官)」 2人, 「録事 (書記官)」 3人, 「訳語 (通訳)」 2人, 「史生 (下級官人)」 2人, 「天文 生 1 人 「大首 領 65人 柏 工 (水 夫) 28人 と記 している 」 」 」 ‐ , ,. これらの人員のうち外交使節, 事務官, 通訳, 天文生, 水夫などを除くと, 任務が不明確な65人の大首領 が残る. これらの大首領は, 珠錫族の支配層であり, 彼らこそが日本に毛皮をもたらし, 繊維製品との交易 を行った担い手だったのであろう‐ 鈴木靖民氏は, 首領を球場諸族の在地の支配者であり, 潮海は彼らを集 権的支配体制に包摂する一方で, 対日交易に参加させたものであると推測している的 それに対して, 『潮 海国志長編』 を著した金銃繊氏は, 首領を品官以下のものを指すと推測している国 『冊 府元 亀』 巻965 冊封にも 唐帝国に珠錫諸部の 「大首領」 が進貢した記録が散見され それを記して , , 見 る と, 以 下 のよう になる‐. 1)(開元) 二年二月, 沸淫妹錫首領朱異蒙, 越喜大首領鳥施可蒙, 鉄利部落大首領間許離等来朝. 2) 四年閏十二月, 珠錫部落, 沸渥部落遣大首領来朝. 3) 九年十一自己酉, 潮海郡蘇溺大首領, 鉄利大首領, 沸浬大首領倶来朝, 並拝折仲, 放還審. 4) 十年十月, 越喜遣首領茂利蒙来朝, 並献物. 5) 十三年正月, 潮海遣大首領鳥借芝蒙, 黒水珠錫遣其蒋五郎子並来賀正旦, 献方物‐ 6) (十八年) 二月, 潮海珠錫大首領遣使知蒙来朝, 且献方物, 馬三十疋. 7) 二十五年正月, 潮海珠錫大首領木智蒙来朝‐ 8) (天宝) 十八年正月, 虞類, 越喜等首領見. これらの記録は, 唐帝国に対して妹錫諸部の大首領, 首領が朝貢を行った記録であり, 8世紀前半におい て珠錫諸族の首長が唐帝国との間に自立的な外交関係を結んでいたことが理解できる. 濠族 (後の昧錫) は, 古来中国の史書に東海岸地域の魚類や毛皮を中国内陸部にもたらす民族として記されており㈱, こう した遠 隔地貿易のネッ トワークが, 鎌錫の大首領・首領により組織・維持され, 更には潮海の朝貢貿易のシステム に組み込まれたのであろう. 潮海は支配下に置いた珠錫諸部の支配層に交易の機会を保証せねばならなかっ たの である.. 日本海を経由して行われた交易 には, 記録に残された国家間の公的貿易だけではなく民間貿易もあっ た. むしろ, 民間貿易の方が盛んであっ たとも推測される‐ 例えば 『続日本紀』 には 「(天平) 十八年, 是年潮 ◎ ◎この場合は余りにも多 海及鉄利総一千一百余人慕化来朝. 安置出羽国, 給衣糠放還」 と記されているが, くの劾海人, 鉄利人が一時に渡来したが故に記録に残されたのであろう. それにしても, 1100人が日本海を 80.
(14) . 8, 9世紀における東アジア文化圏と潮海. 渡る こ と は容易 な こ とで はなく, 俄 にな し得る も ので はな い‐ この よう に僅 か に残さ れた記 録は, 日 本 海を. 経由して多くの民間貿易がなされたことを推測させる‐. 9. おわ り に 東北アジアにおける大国「勃海」 は, 唐帝国とモン ゴル高原の遊牧民の勢力の狭間に立ち, 国内の狩猟民・ 漁労民, 昧弱諸族を抑えながらシステムの維持を図らね ばならなかった‐ そう した中で潮海は唐文化を摂取 し, 冊封体制という国際秩序の下で国際的地位の安定を図り, 唐帝国と日本との間の公的貿易, 私貿易によ り狩猟民である珠錫諸族に交易の機 会を保証せんとした‐ そう した潮海にとり不安定要素となっ たのが新羅との関係であった‐ 高句麗の旧領を支配下に置き, 自ら 「 づ 湯海交易圏でも優位にたっ ていた新羅は, を 「大蕃」 , 溺海を 小蕃」 として冊封体制の上位に位置 け, 潮海を牽制し勢力拡大を阻止せんとした‐ 新羅にしてみれば,広大な狩猟民世界を内包する潮海は強力な「夷 秋」 であ り, その 南 下 が大 きな脅 威 だ っ たので ある.. 唐帝国の北の拠点港市である登州には潮海館, 日本の能登福浦, 松原には潮海使の客院, 客館が設けられ, 溺海湾を軸に黄海, 日本海, 広大な東北地方のネッ トワークは相互にリンクしていた‐ 石川県羽咋市寺家遺 跡 か ら は ペ ル シ ア 製の ガ ラ ス 容 器 の 破 片 が 出 土 してお り, 大 運 河 によ り 「オ ア シス の 道 (絹 の 道)」 と 「海. P 更にそれが日本海を経て北陸地 の道」 をつないだ 「東西交易の大円環」 が潮海.黄海交易圏とリンクし◎ , 方 に ま で伸 びてい たこ と が 理解 できる.. 東北アジアの広大な狩猟・漁労民のネッ トワークをシステム化した潮海が, 冊封体制の一端を担う大勢力 として8世紀後半から9世紀にかけて東アジア文化圏の政治・経済の動向に大きな位置を占めたことが歴史 教育において改めて評価され, 農耕社会に偏った歴史像が変更される必要がある‐ 中学校の社会科歴史分野の教科書でも, 潮海の日本海航路についてふれる だけではなく, 湯海が東北アジ アの広大な狩猟民の世界を統一した大勢力であり, 唐帝国と突厭の2大勢力 と対抗する第3の勢力であった ことに注目させる必要があろう‐ 高等学校の日本史.世界史の教科書においては, 1) 潮海が東北アジアの広大な狩猟・漁労世界を支配し た大国であったこと, 2) 唐帝国, 突厭, 新羅, 潮海, 日本が織り成す東ア ジアの国際政治の展開, 3) 黄 海交易圏.日本海交易圏.東北ア ジア交易圏の連環, を視野に入れた扱いが必要になる‐ 潮海が客観的に評価されることにより, 農耕, 遊牧, 狩猟・漁排の3世界の微妙なバランスの下に維持さ れていた古代東アジア文化圏を 「面」 としてとらえることが可能になり, 唐帝国と日本, 或いはそれに新羅 を加えた偏った歴史像が是正されるこ とになろう.. [注] 3 ( 1 ) 西嶋定生 『中国古代国家と東アジア世界』 東京大学出版会 198 『 「 77 ) p‐ 45 ( ) 吉田悟郎 世界史構想における十三世紀」 ( 世界史の小径-世界史学習小論』 実教出版 19 2 『越の海 波溝の道』 ( ) 小嶋芳孝 「日本と潮海を結ぶ海の架け橋」 ( 3 ,. 北陸電力 19 9 4 )p ‐36. 4 ) 同上p‐ 36 ( f ( 5 ) 吉田悟郎 「北方ユーラシア小史」 (前掲書) p‐77 ( 6 ) 日本列島も農耕世界と北方ユーラシア世界に分かれ, 多賀城, 秋田城などが境界地帯に設けられていた. 『 「 9 ( 7 ) 19 1年12月21 , 22日に京都で国際日本文化研究センター主催の 謎の国・湯海」 と題するシポジウムが開催され, その報告書が 謎 9 4 ) として発刊された. の王国.潮海』 (中西進・安田喜憲編 角川選書 19 ) E. ライシャワーは, 東アジアの海域における新羅人の活躍を評価しながら, 「ここに世界の東の果てに位する比較的危険な水域に ( 8 81.
(15) . 宮 崎 正 勝. おいて, 朝鮮人たちは,-西の果ての穏やかな地中海沿岸の商人たちが, その周辺領域に対して果たしたと同様の役割を演じることがで きたのである. これは十分に考慮されなければならない歴史的意義を持つ [東西対応}事実であるけれども, その時代に関する標準的 な歴史の教科書にも, これらの資料に基づく現代の書物も, この点について何ら実質的な注意が払われていないのである」 と述べてい る‐ E‐ ライシャワー 田村完誓訳 『円仁 唐代中国へのコ腕 原書房 19 84 p‐256 『 ( 9 ) 自由書房 新日本史B 9 4年版 p‐5 3 』 19 回 東京書籍 『世界史B』19 9 4年版 p.7 5 回 学校図書, 教育出版, 満水書院, 中教出版, 帝国書院, 東京書籍, 日本書籍の各社の教科書を指す. 回 潜水書院 『日本の歴史と世界』19 9 3年版 p. 46 回 上田雄 『潮海国の謎 知られざる東アジアの古代王国』 講談社新書 1 9 92 p.1 9 4 f 「 『 Q4 古厩忠夫 環日本海地域の歴史像」 ( 東北アジア史の再発見』 有信堂 19 )p 9 4 ‐1O Q9 「高麗既滅, 群栄率家屈従居営州」 とある‐ 『旧唐書』 巻1 19 勃海昧輯伝 ( 1 ◎ 最初に 「小高句麗国」 の存在を明らかにした日野開三郎は, 聖暦2 ( 6 99 ) 年に高徳武の安東都督就任を以て 「小高句麗国」 が成立 『 したとした. 日野開三郎 東洋史学論集第八巻 小高句麗国の研究』 三一書房 19 8 4 肋 「霞」 とは, 東方を意味する語で, 東方に建国して, やがて雄飛することを期した国名であるとされる‐ 西嶋定正 『日本歴史の国際 環境』 東京大学出版会 19 85 p‐135 『古代トルコ民族史研究 1』 19 回 護雅夫 「突厭と晴・唐両王国」 ( ) p.1 63 90 『歴史科学』 第1号 19 09 例えば, 朴時亨 「潮海史研究のために」 ( 62 ) 回 例えば, 王承礼 『湯海簡 勅 (黒龍江人民出版社 19 8 4 ) は, 冒頭の部分で, 「潮海史は, 我々の偉大な祖国の,-漢族を主体とする多 民族の歴史の重要な一章をなしている. 唐代の潮海王国は珠輯の粟末部族人を主体として, 6 98年から92 6まで, 現在のソ連邦の沿海州 と朝鮮北部の一部の広大な領域に建国された地方民族政権であり, 2 29年間続いた.」 と記している. 「中宗即位 遣侍御史張行笈 往招慰之 群栄遣子入侍 将加冊立 会契丹与突厳達 歳溝辺 使命不達 ( 『日唐書』 . . , ‐ .」 1 , , ,. 例. 巻19 9 湯. 海珠場伝) 靭 当時, 潮海郡の地方は槍州と呼ばれていたが, 唐は漢代以降河北省の沿海地方の湯海郡の名をとって冊封した‐1 日名による爵号で中 国の国土であることを明かにしようとしたとされる‐ 西嶋回書 p 1 3 6 ‐ 『潮海国志長編 島 社会科学戦線雑誌社 ・ 8 2 p‐12 19 5 『海と列島文化1 日本海と北圃文化』 小学館 19 帥 藤本強 「オホーツク海沿岸の文化」 ( 90 ) p f .89 岡 『中国古代北方民族文化史 民族文化巻』 黒龍江人民出版社 19 93 p‐ 438 f 岡 『 i 日唐書』 巻19 9 勃海妹錫伝は, 「(開元) 十四年, 黒水昧錫遣使来朝, 詔以其地為黒水州, 傍置長史, 遣使鎮押.」 と記している‐ 例 『旧唐書』 巻199 妹粥伝は, 「開元十三年, 安東都議葬泰譜, 於黒水妹場内置黒水軍, 続更以最大部落為黒水府, 傷以其首領為都督, 諸部刺史隷鷺. 中国置長史, 就其部落監領之‐」 と記している‐ 縄 『 1 日唐書』 巻19 9 湯海珠勤伝に, 「武芸謂其届日, 黒水塗経我境, 始与唐家相通, 旧請突厭吐屯, 皆先告我同去, 今不計会‐ 即請漢 官, 必是与唐家通謀, 腹背攻我也. 遣母弟大門芸及奥任雅相発兵以撃黒水.」 とある‐ 回 『旧唐書』 巻19 9 湯海線路伝は, 「門芸曽充質子至京師, 開元初還国. 至是謂武芸日, 黒水請唐家官吏, 即欲整之, 是背唐也. 唐国 人衆兵強, 万倍千我, 一朝結怨, 但目取滅亡‐ 昔高麗全盛時, 強兵三十余方, 抗敵唐家, 不事賓伏, 唐兵一臨, 掃地倶尽. 今日潮海之 ㈱. 衆, 数倍少千高麗, 乃欲違背唐家, 事泌・不可‐ 武芸不従‐ 門芸兵至境, 上書固諌‐ 武芸怒, 遣従兄大登夏代門芸統兵. 征門芸, 欲殺之‐ 門芸遂奔其衆, 間道来奔, 詔授左裏衛将軍.」 というように, 生々しく記している‐ 回 『続日本紀』 神亀4 ( 7 27 ) 年9月庚寅 (廿一日) 条は, 「潮海郡王使首領高斉徳等八人, 来着出羽国, 遣使存問.」 と記している‐ 回 書式は上長に対する形式をとっているが, 内容は日本を同格に見ており, 朝貢を求めたものではないことが指摘されている. 石井正 『日本歴史』 第3 敏 「第一回勃海国書について一 ( ) 27号 19 75 『東北アジア史の再発見』 有信堂 199 ◎ 李成市 「湯海の対日本外交への理路」 ( ) p. 4 3 1 回 『旧唐書』 潮海珠錫伝は, 「(開元) 二十年, 武芸遣其将張文休, 率海賊, 攻登州刺史毒俊‐ 詔遣門芸, 往幽州, 徴兵以討之‐一 と記 して いる‐. 回. 『三国史記』 八 新羅本紀は 「新羅聖徳王三十二年 秋七月 唐玄宗以潮海珠勤越海入冠登州 過大イト員外卵=金思蘭帰国 傷加授 , , , . ,. 王為開府儀同三寧海軍使, 発兵紫蘇錫南都‐ 会大雪丈余, 山路阻脇, 土卒死者過半, 無功而還‐ 金思蘭本王族, 先因入朝恭而有礼, 因 留宿衛. 乃是委以出彊之任‐」 と記している. 『冊府元亀』 巻97 1 外臣部 朝貢に, 「二十三年三月, 湯海鎌錫王遣其王弟蕃来朝‐ 八月 鉄利部落, 沸浬部落, 越喜部落倶遣使来 朝献方物‐ 二十四年九月, 潮海線錫遣使献方物‐ 二十五年正月, 潮海珠錫大首領木智蒙来朝‐ 四月, 湯海遣其臣公伯計来献鷹鶴.」 と. 6ゆ. ある‐ 『早稲田大学文学研究科紀要別冊』 鰐◎ 李成市 「新羅兵制における浪江鎮典」 (. ) 7 198 1. 師 上田雄・孫栄健 前掲書 pp 8 ‐7 .77 鞄 『三国史記』 新羅本紀 巻9 回 『続日本紀』 天平宝字3 ( ) 年9月壬午 ( 75 9 19日) の条は, 「造船五百糠, 北陸道諸国八十九椴, 山陰道諸国一百冊五機, 山陽道諸 82.
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