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マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010年)を読む

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(1)マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. 研究ノート. マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ 社会の政治的リベラリズム』 (2010 年)を読む 内海 朋子 一 はじめに アリストテレスを始めとする哲学史研究で著名なアメリカ合衆国の哲学者 マーサ・ヌ ス バ ウ ム は、2004 年 に 公刊 し た Hiding from Humanity, Disgust, Shame, and the Law において、刑事処罰において感情がどのような役割を果 たしているかを詳細に分析し、刑罰権の行使における感情の重要性を主張して いる。しかしながら、日本では、感情が法の運用において重要性を有している と主張されることは極めて稀であり、刑事法の分野においても、感情を根拠に 刑罰権を発動することは慎むべきとされるのが一般的傾向であるといえる。そ の結果、感情が処罰根拠となるかどうかの詳しい分析は、少なくとも日本では あまりなされていない。この Hiding from Humanity, Disgust, Shame, and the Law は、2010 年に邦訳され、 『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラ リズム』1)として出版されたが、本書は日本の刑事法学者にとっても大変興味 深い問題を提起していると思われるので、ここでその概要を紹介したい。. 127.

(2) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 二 本書の構成 1 法における感情の役割 ヌスバウムによれば、同情、悲嘆、恐怖、怒りのような感情は、人間の社会 性と密接に関わっており、通常、二つの役割を法において果たしているという (序章) 。 第一の役割は、ある種の行為に対し違法とする根拠を与えるというものであ る。例えば、常識人が人間や財産に対する犯罪に対して抱く恐怖感や怒り、そ して/あるいは同情心が、それらの犯罪がなぜ普遍的に法的規制を受けるのか を説明する理由とされることが多い 2)。 「刑法の全構造には、私たちが怒る理 由を持つのは何に対してか、私たちが恐れる理由を持つのは何に対してかにつ いてのイメージが内包されている」3)のであって、 「法が存在しているという 事実そのものが、それらの態度が理に適っているということの声明である」4) という。ヌスバウムは、感情は法的規範を正当化する役割を担うとし 5)、法に おける感情が理に適っているかどうかの判断は、 「常識人」を想定しながら行 われる規範的判断となり、そのような判断は既存の社会規範に呼応している 6)、 とする。 第二の役割は、人間の社会性と関係するような感情は、行為者の心理状態を 評価するときに、刑を減ずる要素になるという点である 7)。有罪と推定される 行為が、ある「感情的状態」で犯された場合には、憎むべきものと判断される 度合いが減少し、行為者の有罪性は低いと判断され、場合によっては犯罪と判 断されない場合もあるという。例えば、被告人の経歴ゆえに、判決に際してあ る程度寛大であってもよいとする世間一般の情が判決の結論に反映されるよう な場合がある 8)。あるいは、殺人者の怒りが、激しい憤激を引き起こすような 事態に直面した「常識人」の怒りであるとみなされた時には、その人の有罪性 は低いと判断されることになる 9)。感情をまったく法的評価に反映させないと いう立場は、ヌスバウムによれば、例えば自分の子供が殺されたので犯人に対 128.

(3) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. し激しく暴力を振るっている者と、計画的に殺人を企てる者との本質的な差異 をとらえていないのである。 以上のように述べたうえで、ヌスバウムは、法において感情の果たす機能を 詳しく検討する(第 1 章) 。まず、英米法の伝統においては、感情は、重大だ と思われる利害についての思考、そしてどのような利害を重大だと考えるのが まともかに関する一般的な社会規範とに、密接に結びつけられていると指摘す る 10)。あるタイプの感情に結びつけられる感覚は様々で、震えたり、動悸が したり、呆然としたり、脱力感を感じたりするかもしれない。しかしながら、 このような「感じ」は、感情を定義するには役立たない 11)。むしろ、感情が 一定の信念に結びつけられていることにこそ着目すべきである。恐怖心は未来 に差し迫ったよくない可能性についての信念を含み、怒りは不当になされた被 害についての信念を含んでいる。同情は、 「他人がひどく悪い目に遭っている」 、 「人は自分の窮状のすべてに責任があるわけではない」 、 「その苦境とその人の 苦境に対する責任とは釣り合いがとれていない」という思考を含み、 さらに「私 たち自身が同じような目に遭いやすい」という思考がを含む。それは、苦しん でいる人と、共感している人自身の可能性や弱さとを結びつける思考である。 このように、たいていの感情は複合的な一連の思考 12)、すなわちその対象に ついての評価的な信念を含んでいる。. 2 刑法解釈論における感情の役割 このように感情には一定の思考、信念が含まれるが、このことと並んで重要 なのは、人間がある感情を抱く場合、その感情は一定の対象に向けられている が、その対象が感情の持ち主によってどう見られ、どう評価されているかとい うことである。例えば子供が死んだという知らせを受けてその子供の母親が悲 嘆にくれた場合、その事実が真実であるかどうかは別として、子供が死んだと いう信念が「理に適っているか」どうかが問題となる。例えば、知らせを持っ てきた人が信用のおけない人であったならば、母親がそのように信じたことは 129.

(4) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 「理に適っていない」ということになる 13)。 このように、事実が十分な信頼性のある証拠にしたがって「理に適った」も のとして評価されたうえで、そのような感情を抱いたことが「理に適っている」 かどうかが判断される。ある感情を抱くことが「理に適っているかどうか」の 判断が、特に重要な役割を果たしているのは、ヌスバウムによれば「理に適っ た挑発(常識人でも感情に駆られて犯罪を行ってしまうほどの敵意を抱かせる 挑発行為) 」 、 「正当防衛」 、 「刑事判決における同情への訴え」の分野であると される 14)。 ① 「理に適った挑発」と「正当防衛」 被告人の怒りが、被害者の挑発に乗せられてなされ、その挑発が十分であり、 被告人の怒りが「常識人」の怒りであって、 「冷却期間」のゆとりがなく、 「激 怒のあまり逆上して」殺人が行われた場合には、謀殺から故殺へ減軽される。 例えば被害者が同性愛行為を被告人の目前で行っていたので、そのために被告 人が嫌悪感を感じて被害者を射殺したという場合、 同性愛行為を行うことが「挑 発」にあたるかがひとまずは検討される 15)。ヌスバウムは、この法理は罪を 軽くするだけで、完全な無罪弁明を与えるものではないが、正当防衛の場合に は完全な無罪弁明も可能であるとし、故殺への減軽と正当防衛とを連続的にと らえている。 ② 「刑事判決における同情への訴え」 ・ ・ ・ ・. 「刑事判決における同情への訴え」の分野において注目すべきは、陪審の同 ・. 情に訴える機会を許さないノース・カロライナ州の死刑制定法は違憲である ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・. とした連邦最高裁判所判決、さらに単なる感傷、憶測、共感、情念、偏見、世 ・ ・ ・ ・ ・ ・. 論や国民感情によって、判断が揺らいではいけないとしたカリフォルニア州の 陪審説示の合憲性が問題となった 1986 年のブラウン事件である 16)。いずれも、 陪審の感情に被告人が訴えることの法的重要性に関するものであるが、後者に 130.

(5) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. ついて、ヌスバウムは、被告人には同情を引くような証拠を量刑審理で提出す る憲法上の権利があり、この権利を奪うことは、残虐で異常な刑罰の禁止を定 める憲法修正第 8 条に違反するとしている 17)。 ③ 感情に対する評価の変化 ヌスバウムは感情に含まれる価値評価的要素について、ある一定の物事に対 して抱かれる感情が変化することにより、時間を通じた規範の変化がありうる ことを指摘する。例として挙げられているのは、不倫やドメスティック・バイ オレンスの事案である。かつては情人や不貞な配偶者の殺害は故殺に軽減され ており、その背後には「不貞を働かれた夫の怒りは、理に適ったものであり、 道理をわきまえた男が持つような感情である」との評価があったといえ、それ は当時の社会規範の反映であったといえる。しかし今日のアメリカ合衆国にお いて、不倫を「男性の所有物のこのうえない蹂躙」であると主張する人はほと んどいない。すなわち、結婚についての新しい理解が、男性による支配と管理 の規範を変えたのだといえる 18)。あるいはまた、ドメステック・バイオレン スの被害者である妻が、寝ている夫を射殺した場合、従来の正当防衛の法理で は、眠っている人間から生命を脅かすような危害を加えられる危険が差し迫っ ていると恐れるのは理に適っていないことになる。しかしながら、ドメステッ ク・バイオレンスの場合、恒常的に虐待されつづけると被害者女性は感情的に 虚脱し、絶望するようになる。そこで、ドメステック・バイオレンスの被害者 である妻が夫を殺害した場合には陪審は妻を無罪とすることが多くなってい る。これは、夫からの虐待を受けた女性の怒りや恐怖に対する評価が変化して いることを示すものであるといえる。. 3 ミルの他者危害原理との関係 第 1 章の最後において、ヌスバウムは基本的にジョン・スチュワート・ミル の他者危害原理 19)に依拠することを明らかにする。もっとも、ミルのいう「危 131.

(6) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 害」は、切迫していて、かつ非常にありそうなことでなければならず、基本的 な「法的権利」のうちで、前もって境界を確定しておいた一定の範囲に関して 他者に害を及ぼす場合に限られる。これに対してヌスバウムは、直接的な身体 的不快の一部は、法的規制の対象となるとする 20)。そしてそのような領域に おいて、嫌悪感と恥辱という感情の侵害を根拠として刑罰を正当化できるかと いう問題に取り組む。すなわち、 ヌスバウムは、 「常識人」は多かれ少なかれ 「平 均人」と同じだという虚構のうえに法は機能するが、 ときには「平均人」であっ ても道理に外れている判断をなすことが相当あるとし、ある感情が道理に外れ た判断をする原因となることが多い場合には、疑いの目をもって、その法的役 割を吟味する必要があるとする。そのような問題ある感情として、ヌスバウム が嫌悪感と恥辱を想定していることは、第 2 章以下で明らかにされる。. 4 非合理的な感情――嫌悪感と恥辱―― ① 嫌悪感 第 2 章および第 3 章では、ヌスバウムは嫌悪感を扱う。嫌悪感は、刺激に対 する激しい身体的反応、典型的には嘔吐を伴うものである。嫌悪を催させる典 型的な刺激源は不快な匂いである 21)。我々は、体を洗い、排尿や排泄を人の 目から隠そうとし、歯磨き粉などでまわりを不快にさせる匂いを洗い流すなど、 嫌悪感を催させるものをさまざまな方法で取り除こうとするが、そのような嫌 悪感は、ヌスバウムによれば、法において大きな役割を果たすという。嫌悪感 により処罰が正当化される可能性のある行為として、ヌスバウムは同性愛、死 体愛好、ヒト・クローン等を挙げる。あるいはまた、わいせつ概念について、 「嫌悪を催させる」ものと定義づけられることもある 22)。嫌悪感は、いくつか の行為を非合法化するための主要な、それどころか唯一の正当化根拠という役 割を演じているという。しかしながら、自己が動物的な身体を持っているとい う事実について人間が感じる不快感は、社会的に弱い立場にある人々や集団と いった自らの外部へ投影されるが、その願望を追求する過程で他人を攻撃目標 132.

(7) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. にしてはなはだしい危害を与えるという不合理な性質を持つ 23)とする。この ように述べて、ヌスバウムは嫌悪感に基づく刑罰権の行使に否定的な立場を採 る。 嫌悪感の法的役割を認める議論としては 24)、まずデヴリンの見解が挙げら れている。デヴリンは、市民には自制心や目的意識を有して社会的活動を展開 することが求められるが、不道徳はこのような自制心や目的意識を衰退させ、 社会に重大な危害をもたらすという。そこで、不道徳な行為に対して、常識人 が「不寛容、憤り、そして嫌悪感」という激しい感情で対応するならば、社会 はその行為に対し寛容であるべきではないとする。これに対し、ミラーは、身 体の排泄物、傷んだ食べ物、死体などといった一次対象への嫌悪感を、他の対 象を拡げることについて、社会は任意に決定しうるとする。ある人が、嫌悪感 を理由にしてある行為を禁止しようと提案するとき、その行為によって自分や 社会が汚染されることがないようにしているのである。嫌悪感はその対象を低 劣で下劣なものとみなし、社会的ヒエラルキーの底辺の階層にその対象となる 人間を属させるのである。もっとも、ミラー自身は法的規制の問題にあまり言 及していない。これに対してミラーに依拠するカハンは、嫌悪感に依拠して刑 罰を根拠づけることを肯定する。 しかしながら、憤りは危害もしくは損害に関連づけられるのに対し、嫌悪感 は汚濁に関係づけられており、汚濁は法源としては大いに議論を招くもので あって、ヌスバウムは、嫌悪感が主に基づくのは本当の危険というよりも呪術 的思考であるとする。結局、ヌスバウムは、原則的に嫌悪という感情によって 刑罰権の発動を正当化することはできないとしているが、この点については、 特に次の 2 つの主張に注目すべきであろう。 第一に、ヌスバウムは、嫌悪感はある行為を犯罪とみなす第一の根拠となっ てはならず、刑法において刑を重くしたり軽くしたりするどちらの役割も果た すべきではないと論じる。そして、嫌悪感の法における役割は、生活妨害禁止 法(nuisance law。生活妨害とは、騒音や悪臭など社会全般に害を及ぼし、生 133.

(8) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 活を妨害すること)や都市用途地域規制(zoning)のような、重大な危害だけ ではなく、軽微な違法行為をも禁止基準として認めることが正当であるような 法的分野に限定すべきだとする 25)。嫌悪感は、一次対象に向けられた感覚的 な嫌悪感、苦手意識や危険性に関連づけられる、ある種の損害や危害としての 嫌悪感と、ユダヤ人、女性、人種的マイノリティー、そして同性愛者といった 不人気な集団に向けられた社会的通念に基づく嫌悪感とに区別される。例えば、 人間の汚物やさまざまな排泄物が、湖の中に日ごとにたまっていくという事実 は、こうした堆積物が水に多大な影響を与えるほど溜まってはいないという状 況であったとしても、生活妨害に十分であり、こうしたものがそこにあるとい う認識は嫌悪感を生じさせ、家庭で水を使用する際の妨げになるという。この ように嫌悪感を抱く対象が一次対象に限定されているかぎりは、嫌悪感を根拠 に、生活妨害に対して法的措置を取る対象を拡げることも許されるとヌスバウ ムは考える 26)。これに対して、アフリカ系アメリカ人が湖を泳いだから湖が 汚濁したと訴える場合は、社会的通念に基づく嫌悪感による主張であるので、 法的措置を講じることは認められない。 第二に、ヌスバウムは、嫌悪感がある行為を法的規制の対象とするかどうか の推定的基準となる時、またとりわけ政治的な従属、および弱い集団や人物の 周縁化を行う時には、危険な社会的感情となることを指摘する。そこで我々は、 嫌悪感が含んでいる人間観に基づいて法的世界を打ち立てるよりも、むしろ嫌 悪感を分析し、抑制することを学ばなければならないとする 27)。同性愛、ソ ドミー、屍姦等の問題がここで検討されるが、ここではわいせつ概念に関する 議論を紹介することにしたい。わいせつは、問題となっている作品が「現代社 会の標準に適応した平均的な人間」に生じさせるような嫌悪感や反感への言及 を含んだかたちで定義され、 「常識的な」あるいは「平均的な」人間が、問題 の表現物に対して嫌悪を催すかどうかという形で当該表現物が悪い物か否かを 判断する判断基準として用いられる 28)。わいせつという概念は、辞典等にお いて「五感に対して嫌悪感を催させるもの、一般的に受け入れられている適切 134.

(9) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. さとははなはだしく一致していないもの、侮辱的で不快なもの」 「常識あるい は審美や上品さに対する攻撃、 嫌悪感、 ひどく不快で不潔なもの、 馬鹿げたもの、 憎むべきもの、忌まわしいもの」とされ、嫌悪感・不快感と結び付けられてい る。しかしながら、裸体に直面した時の恐怖や不安から身を守るために生じる 嫌悪感は、表現物に対する判断にバイアスを生じさせてしまう。ヌスバウムは、 わいせつ性についての法律的な定義には女性憎悪さえ含まれているとする。 ② 恥辱 恥辱は、ヌスバウムによれば、優れたことをする善き人間になりたいという 欲望を表現するものであるが、その起源は完全であろうとする欲望、あるいは 完全に支配しようとする欲望に存しており、潜在的に他者の軽視とある種の攻 撃性につながっているという。恥辱に関するヌスバウムの分析は嫌悪感よりも さらに複雑であるので、ここでは簡単に 2 つの点のみを指摘しておきたい(な お、ここでの「恥辱」とは、差別を促進するような感情であり、その感情に基 づいて行われやすい行動は、スティグマの付与である) 。 第一は、恥辱刑に関してである。恥辱刑については、カハンらによって、現 在の社会において市民はもはや抑制を失い、社会的な無秩序と腐敗が生じてし まったため、逸脱した行動をとる者にスティグマを与えて社会的秩序の構築を 促し、家族や社会生活にかかわる重要な価値を支持することができるという主 張がなされている 29)。しかし、ヌスバウムは、恥辱刑とはまさしく逸脱した 集団と上位の集団を対比させることであり、応報とは何らの関係もないとする。 もっとも、犯罪者を自らの犯罪行為と、それが他人にもたらした被害に向き合 わせることは、最終的に社会へふたたび組み入れるという更正の目的によく 適っているとして、社会への再統合を促す建設的な恥の付与については、ヌス バウムは肯定的に評価する。そして、恥辱刑に限らずとも、刑務所が受刑者に 多大な屈辱を与える存在であることを指摘し、刑務所が生涯にわたってスティ グマを付与することのないよう、ヨーロッパにならって拘禁刑を再考すること 135.

(10) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). を示唆している 30)。 第二は、モラル・パニックと呼ばれる現象の紹介である 31)。人間心理の深 部には、スティグマを付与する行動があり、モラル・パニックはそれによって 引き起こされる。その一例として、ヌスバウムは、シカゴのギャング集会防止 条例を挙げる。シカゴでは、新しいメンバーの勧誘や、縄張りにおける支配の 確立、敵対関係にあるギャングおよび一般市民の威嚇のために、ギャングの メンバーが公共の場をうろつくということが行われていた。そこでシカゴ市議 会は、ギャング集会防止条例(Gang Congregation Ordinance。一般にギャン グうろつき禁止条例 gang loitering ordinance として知られる)を可決した 32)。 このようなギャングに対するパニックは合理的なものであるが、しかしながら 恐怖心には合理的なものと非合理的なものがあり、正当な恐怖心のほかに、人 種と年齢を根拠としたスティグマ付与の要素、具体的にはアフリカ系アメリカ 人は危険な略奪者であるという非合理な恐怖心があるとする。そして、不合理 な恐怖心は正当な恐怖心と複雑に絡み合い、権力濫用のおそれを生み出すとい う。このような危険を回避するためには、有害な行為と無害な者たちが単にぶ らついている場合を区別するための明確な基準が必要であり、その基準を適用 するにあたって個人の権利が保護されるよう配慮すべきであるとしている。. 三 本書の考察から導かれる日本法への示唆 以上、ヌスバウムにおける感情と法の関係を簡単に紹介したが、ヌスバウム の考察が日本法にいかなる示唆を与えるかを論じる前に、以下の点について注 意を喚起しておきたい。まず、ヌスバウムは、ある種の行為に対し違法とする 根拠を与えるという役割を感情に認めているがその際、ある種の行為に対して、 社会の側(ヌスバウムの用語でいえば「常識人」 )がどのような感情を抱くか が検討され、怒りが感じられる行為であるならば、 「その種の行為は被害者に 対する不当な攻撃である」という非難が、その怒りを裏づける信念であると考 136.

(11) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. えられる。すなわち、 「常識人」が抱くであろう感情が、被害者の感情を代弁 するような形で行為の違法性を基礎づけることとなる。 「常識人」の抱く感情 が怒りである場合には、そのような感情は当該行為に対する応報感情に近いも のとなるであろう。 このように考えると、感情の、法における第一の役割に関して、日本におい ては、世論が常識人の理に適った判断であるとして、世論における応報感情に 基づく刑事立法を行ってよいかという形で問題になりうる。ただし、ヌスバウ ムは「ミルの他者危害原理を基本的に支持する」としているので、常識人が怒 りや恐怖を感じさせる行為は、基本的に他人に危害を及ぼす行為に限定される ことになる。換言すれば、違法を積極的に根拠づけるのは「常識人」の怒りや 恐怖心等であるが、その背後には、他者危害原理という、違法性、ひいては刑 罰権の発動を限定する原理が働いていると考えられる。もっとも、ヌスバウム によれば、危害を限定的に解釈していたミルとは異なり、身体的な不快もまた 危害と同じように国家による規制を根拠づけうると考えているので、刑罰権の 行使が認められる範囲はミルの場合よりも拡大している。 ・ ・ ・ ・. これに対し、ヌスバウムがいう法における感情の第二の役割は、行為者が行 為当時抱いていた感情に対して、 「常識人」が合理的であると感じるかどうか、 行為者が抱く感情の背後にある信念を、 「常識人」が理に適ったものであると して認めうるかを問題とするものであって、行為者の感情に焦点があてられ る。この場合には、立法においてではなく、実際に裁判の場において、当該行 為者の感情状態をどのように評価すべきかという問題と関連づけられることに なる。. 1 立法における感情 すでに述べた通り、感情が法において何等かの役割を果たすべきかどうかに ついては、日本においては否定的な見解が強いと思われる 33)。例えば、保護 法益論との関係で立法論に触れたロクシンの論稿 34)35)を紹介した松原邦博は、 137.

(12) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 「感情は、人によって千差万別であり、本来、感情を抱く者自身によってコン トロールすべきものであって、刑法的保護にはなじみにくい。……感情を法益 とする余地がまったくないかどうかは、なお検討を要するであろうが、少なく とも不快原理を全面的に承認することはできない」 、としている 36)。 しかしながら、ヌスバウムの理解では、法における感情とは、ある事実に直 面して人が感じる「感じ」 「感覚」によって定義されるものではなく、その背 後にある思考、しかも「平均人」ではなく「常識人」の思考を問題とするもの である。ヌスバウムがいうように、実定法規によっては、我々が刑罰を科す対 象としてどのような行為を想定しているのかが記述されているのであり、さら にその記述は、 「常識人」がどのような行為に対して怒りを抱くのかを明らか にしたものであって、その内容は社会規範に相応しているという理解は、日本 においても潜在的に認められているのではないかと思われる。 そうだとすると、感情による刑罰権の正当化が全面的に認められるのか、何 等かの制約原理が必要なのではないかが問題となる。ヌスバウムにおいては他 者危害原理が刑罰権行使の限定原理として機能していることを指摘したが、反 面において不快を理由とする国家の規制をも認めており、この点刑罰権の行使 が正当化される範囲を拡張している。そしてこのような処罰範囲の拡大傾向は 現在の日本においても見受けられる。 そのような中で、注目されるのは、ギャングうろつき法におけるモラル・パ ニックに関するヌスバウムの分析である。日本においても、ギャングうろつき 法と類似の性格を有すると考えられる条例が制定されている。このような条例 の制定に当たっては、日本においても、本来規制の対象となるべき集団とは別 の無害な集団に対してスティグマを付与し、本来規制すべき行為と混同するよ うな形で刑罰権を行使するというモラル・パニックが生じることを避けなけれ ばならない。 次に、ヌスバウムが、生活妨害禁止法に関連して、 「一次対象」に向けられ た感覚的な嫌悪感が、ある種の損害や危害として認められうるとしている点に 138.

(13) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. も着目すべきであろう。こうした嫌悪感の考慮は、日本でも器物損壊罪の解釈 に関連して行われているように思われる。すなわち、調理や飲食の際に食物を 入れる器の中へ放尿した場合、たとえその器が綺麗に洗浄され、放尿前とまっ たく同じ状態に戻されたとしても、いったん尿という排泄物に触れたことに対 する嫌悪感ゆえに、当該器をもはや心理的に用いることができなかった場合に も、判例・通説は器物損壊罪が成立することを認めている。 こうした一次対象に対する嫌悪感を理由とした損害の認定は、環境刑法の分 野においても十分に示唆的であるといえる。人間の汚物やさまざまな排泄物が 水中に堆積していくという事実は、こうした堆積物が水質に直接的な影響を与 えていなくても損害として評価されうるのである。そうだとすると、人間の体 から排出された唾液が付着したタバコの吸い殻や空き缶・空きボトルが散乱す る状況は、嫌悪感を惹起する状態である 37)。したがって、タバコの吸い殻や 空き缶・空きボトル等に対する嫌悪感を一種の危害行為として評価し、法的規 制の対象とすることは考えられる。 さらに、わいせつ概念に関しては 38)、北海道条例である「公衆に著しく迷 惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」の規定を扱った、最高裁平 成 20 年 11 月 10 日第三小法廷決定が興味深い。本条例第 2 条の 2 は、 「何人も、 公共の場所又は公共の乗物にいる者に対し、正当な理由がないのに、著しく しゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。 ……(4)前 3 号に掲げるもののほか、卑わいな言動をすること。 」としている が、田原裁判官は本決定の反対意見において、 「 『卑わい』という言葉は、国語 辞典等によれば、 『いやらしくてみだらなこと。下品でけがらわしいこと』 (広 辞苑(第 6 版) )と定義され、性や排泄に関する露骨で品のない様をいうもの と解されている」としたうえで、 「衣服をまとった状態を前提にすれば、 『臀部』 それ自体は、股間や女性の乳房に比すれば性的な意味合いははるかに低く、ま た、排泄に直接結びつくものでもない」とした。このように田原裁判官は、卑 わいという概念を、性や排泄と関連付けていることが分かる。最高裁は、本決 139.

(14) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 定において「第 2 条の 2 第 1 項 4 号の『卑わいな言動』とは、社会通念上、性 的道義観念に反する下品でみだらな言語又は動作をいう」とするのみで「性的 道義観念」の実体がどのような内容を持つものであるかを明らかにしなかった が、 もし田原裁判官のいうように、 人間が嫌悪感を抱く一次対象である排泄(物) と並んで「性」が位置づけられるとすれば、本条例による卑わい行為処罰の背 後には、 「裸体、あるいは性的なものに対する嫌悪感」があると推測できる。. 2 法適用の場面での感情 次に、ある感情的状態の下で行為が行われたことが、刑を減ずる要素となる という、感情の第二の役割について考察する。周知の通り、我々は「一般人」 非常に規範化された一般人を想定しつつ規範的判断を行うという作業を頻繁に 行っている。相当因果関係論における「社会的相当性」の判断については、一 般人の目から見て認識しえた事情および行為者が特に知っていた事情を基礎と して、 「一般人から見て相当な因果経過であったかどうか」を判断基準とする 折衷説がある。また、未遂犯においては、一般人が認識しえた事情および行為 者が特に知っていた事情を基礎として、 「一般人の目から見て結果の生じる危 険性があったかどうか」により未遂罪の成否を判断する具体的危険説がある。 すなわち、刑法を実際の事件に適用する際、裁判官は、一般人基準を想定する ことにより、 「常識人による理にかなった判断」がどのようなものであるかを 模索しているといえる。確かに現在、 裁判員裁判の導入により、 職業裁判官の 「常 識人の理にかなった判断」を把握する能力に疑問が投げかけられてはいるもの の 39)、 「常識人の理にかなった判断」に基づく刑事判決が現在の日本において も求められていると考えることは不可能ではない 40)。 また、ヌスバウムの主張するような、感情に基づく刑の減刑が、法適用場面 においてまったく問題とならないわけでなく、特に責任や量刑の場面では、行 為者の感情が考慮されることがありうる。例えば期待可能性判断における動機 の了解可能性や、責任減少説に基づく過剰防衛の理解においては行為者の感情 140.

(15) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. が考慮されているといえよう。. 四 結語 ヌスバウムは、ミルの他者危害原理に基本的に依拠しつつ、不快感を与える にすぎない行為も処罰の射程に取り込んでいる。そこで、ヌスバウムの議論を 概観する際に、このようなヌスバウムの前提が正しいか、ミルの他者危害原理 と不快原理に関してアメリカ合衆国でどのような議論がなされているかを検討 する必要があるものの、この点に関しては本稿の射程の範囲外とせざるを得な かった。この点は、日本においても法益主義を維持することが妥当かという問 題とも関連しており、重要なテーマと思われるので、今後の研究課題としたい。 なお、本稿は、科学研究費補助金・基盤研究(C) (課題番号:23520009)の 研究成果の一部である。 1)‌マーサ・ヌスバウム著・河野哲也監訳『感情と法――現代アメリカ社会の 政治的リベラリズム』 (2010 年) 2)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)9 頁、13 頁。 3)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)13 頁。 4)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)13 頁以下。 5)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)9 頁。 6)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)14 頁。 141.

(16) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). 7)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)9 頁、61 頁。 8)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)61 頁。 9)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)9 頁以下。 10)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)28 頁。 11)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)34 頁以下。 12)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)33 頁以下、62 頁以下。 13)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)31 頁以下。 14)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)29 頁。 15)‌このほか、自己が怒りっぽい性格であるがゆえに、怒りが非常に激しいと 主張した行為者に対し、 「自己管理の欠如の結果であり、弁明しようのな い、自己修養の怠慢の帰結」とした判決をヌスバウムは紹介している。ヌ スバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲 注 1)50 頁。 16)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)26 頁以下。 17)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)27 頁、65 頁。 18)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)57 頁以下。 142.

(17) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. 19)‌他人に危害を及ぼさない行為であれば、たとえ自分にとって不利益になっ ても、社会によって規制されることはないという原理。 20)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)81 頁以下。 21)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)111 頁。 22)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)91 頁以下。 23)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)94 頁以下。 24)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)91 頁以下。 25)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)17 頁。 26)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)202 頁。 27)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)218 頁。 28)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)172 頁以下。 29)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)290 頁。 30)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)313 頁以下。 31)‌ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前 掲注 1)342 頁。 32)‌ヌスバウムによる紹介によれば、本条例は、 「犯罪的なストリートギャン 143.

(18) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). グであると合理的に信じられるものが、一人または数人の他の者たちと公 共の場をうろついていることに気がついた警察官は、それらすべての者に、 解散しその場から離れるよう命令しなければならない。この命令に即座に 従わない者は本条例違反となる」と規定している。 「うろつく loiter」は 「明 白な目的なしに一つの場所に留まること」であるが、1997 年 10 月、イリ ノイ州最高裁判所は、本条例を、あいまいであり個人の自由に対する恣意 的な制限であるとの理由から違憲とし、1999 年 6 月、連邦最高裁も、本 条例はあいまいであり修正第 14 条のデュープロセス条項に反していると して、イリノイ州最高裁判決の判断を支持した。 33)‌安田拓人「法定刑の改正動向について」刑法雑誌 46 巻 1 号(2006 年)94 頁。 松原芳博「クラウス・ロクシン『刑法の任務としての法益保護』 」早稲田 法学 82 巻 3 号(2007 年)264 頁。臓器移植に関して、松宮孝明「今日の 日本刑法学とその課題」立命館法学 304 号(2005 年)2626 頁以下。 34)‌松原 「クラウス・ロクシン『刑法の任務としての法益保護』 」(前掲注 33) 256 頁以下参照。 35)‌ロクシン自身は、 「感情のなかでは、恐怖心からの保護のみが認められる。 不安のない社会生活を保障することは国家の任務であるから、住民の一部 に対する憎悪や暴力行為、軽蔑の扇動を処罰すること(刑法 130 条 1 項、 2 項)は正当である。露出行為(刑法 183 条)の処罰は、その場にいる女 性が襲われるのではないかという恐怖心を抱くような状況下で行われた場 合に限って正当化される。その他の感情は、刑法によって保護されるべき ものではない。現代の多元社会は、自分の価値観に反する態度に対する寛 容を前提として成り立っているからである。それゆえ、公然の性的行為に より憤激を誘発すること(刑法 183 条 a)や要求していない者に対してポ ルノグラフを送りつけること(刑法 184 条 1 項 6 号)を罰する現行法は広 すぎる。このような単なる感情侵害の場合には、目を逸らしたり廃棄した りすることによって自分で問題を解決することができるのであって、自由 144.

(19) マーサ・ヌスバウム『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(2010 年)を読む. で安全な共同生活を毀損するとはいえないから、刑罰によるのは過剰反応 である。 」とし、刑罰権を正当化できる感情は、恐怖心のみであるとする。 36)‌松原「クラウス・ロクシン『刑法の任務としての法益保護』 」 (前掲注 33) 264 頁。 37)‌人間が生活していく上での精神衛生面をも含めた環境という意味で、 「生 活環境」と呼ばれる。町野朔編『環境刑法の総合的研究』 (2003 年)48 頁。 38)‌わいせつ概念についてはすでに昭和 32 年 3 月 13 日最高裁大法廷判決(刑 集 11 巻 3 号 997 頁・いわゆるチャタレー事件判決)が、 「猥褻文書は性欲 を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、 羞恥の感情をいだかしめる。 」として、わいせつ性と人間の動物的存在を 関連付けており、しかもデヴリンと同じく、道徳を根拠としてわいせつ文 書の頒布販売の禁止(175 条)を正当化している。すなわち、 本判決は、 「人 間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制 限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵してい る。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされて いるものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社 会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち『最少限度の道徳』だ けを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が 犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に 違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はそ の最少限度を維持することを任務とする。 」としている。 39)‌裁判員制度との関連では、次のようにいうことができる。もし、常識人(理 想的な一般人とでもいえようか)が行うであろう判断を、裁判官が適切に 行うことができるのであれば、裁判員制度を導入する必要はない。また、 従来はそのような能力が裁判官に備わっていると考えられてきたからこ そ、裁判官のみによる裁判が行われていた訳である。しかしながら、 「人々 の共感は気まぐれで安定していない、人々にはもともと、被告のタイプに 145.

(20) 横浜法学第 22 巻第 2 号(2013 年 12 月). よって反感を持ったり、行為を持ったりするという偏見があって、それが 被告の身の上を聞く態度に影響を与えている」 (ヌスバウム『感情と法― ―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』 (前掲注 1)61 頁) 。とすれば、 裁判官という特定の専門家集団についても、独自の偏見があり、それを正 すために裁判員が裁判に関与するということは考えられる。そうだとする ならば、裁判官が一体どのような点で評価に対して偏見を含んだ判断(あ るいは嫌悪感に基づいた判断)を行い易いのかをより詳細に分析し、その 分析に基づいたうえで裁判員制度を構築・運用する必要がある。 40)‌また、侵害される法益に対する義務違反による関心の欠如に過失責任の根 拠を求める感情責任論は、 「もし、侵害結果を発生させるという表象が強 い……不快感と結び付いていたとすれば、行為者は、行為しつつもその侵 害結果の可能性を予見したことになる」として認識なき過失の可罰性を根 拠づけた。甲斐克則『責任原理と過失犯論』 (2005 年)118 頁。もっとも、 甲斐 118 頁以下も、感情のような不安定なものを基礎にすることは、責任 原理と抵触するとしており、感情責任論は現在日本で支持されていない。 また、松宮孝明『刑事過失論の研究』 (1989 年)173 頁は、世の中には異 常に心配症の者もいれば、無頓着な人間もいるとする。過失犯の分野では このほか、 「およそある行為が法益侵害結果が発生するであろうという危 惧が持たれるような状況であれば、当該行為を行ってはならず、当該行為 を遂行したために法益侵害結果が生じたならば、過失犯としての責任を問 われる」とする危惧感説も主張されたが、周知の通り、厳しい批判が寄せ られた。. 146.

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