南漢の建国過程と劉[キョウ]の政治について
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(2) . 第 博 巻 第ず号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和43年9月. 南漢の 建国過程と劉要 の政治について. 田. 中. 整. 治. 北海道教育大学旭川分校史学教室. Se i i TANAKA : on the processes of the j. Format‐. ion of Nan‐Han and Liu Yen’s Government. 目. 次. . ir 哩 蹴-- .信孝聯関f の基礎を築く. 1,. は. し. が. き. いわゆる五代十国の一国たる南漢① は, 広州 (広東省番舞県) を根拠地として建国したが 「地 , 狭,力貧②」 といわれるように, その領土は狭く 天然資源に乏しく 従っ て国力も貧弱であ たけ , っ , れども, 漢代に始まり唐代に隆盛を見た広州における南海貿易を 独占して 富強となり ③ 一時嶺南 , に霧を唱えた. 本小論においては, この国が広州を足場として建国する に至るまでの過程ならびに 劉美の政治について考察しようと思 う ④ , 注 ① 南漢という国名は, 中原の後漢に対する名称であるが, これはその地理的位置を考えたものであり (通鑑巻. 2 8後漢紀高祖乾蔵元年8月の条参照), 冊府元亀巻2 8 1 9潜偽部姓系の条, 同書巻2 2 4同部奉先の条には, 前漢. の名称を用いている. これは中原の後漢に対する名称で, 後漢より建国が早いため用いられたものであろう , ② 五代史記注巻六十五南漢世家に引くところの清異録.. ③ 唐代広州の貿易が隆盛を極めたさまは 8編3~6号所収, ・ , 中山久四郎博士の 「唐時代の広東」 (史学雑誌2 1 9 1 大正6 〔 7 〕), 藤田豊八博士の「宋代の市舶司及び市舶条例」 (東洋学報7巻2号所収 大正6年5月 , ,. 東西交渉史の研究287~296頁) および桑原鷺蔵博士の蒲寿庚の事蹟23頁 (昭和23年 〔1 948〕) に見えている , 五代のとき南漢治下の広州の南海貿易が繁昌を極めた恰好の史料はないが, 宋が南漢を滅 ぼしての ち 間 も な く, 開宝4年 ( 971 ) 6月, 広州に市舶司を置いたことによって (「東西交渉史の研究」 所収の 「来代の 市 舷. 司及び市舶条令」の2 9 8頁および続資治通鑑長編来太祖九〔永楽大典巻一万二千三百六宋太祖九の開宝四年六 月壬申の条〕), 宋が広州における南海貿易の利益に非常に注目していたことが察せられるので 五代の広州 , も南海貿易が栄えたことが判明する,. ④ 南漢史の研究には, 五代史記注巻六十五南漢世家 (旧五代史巻一三五億偽列伝劉勝伝と新五代史巻六十五南 漠世家とはこれに含まれている), 宋史巻四八一南漢劉氏世家, 資治通鑑巻二五五~二九四 続資治通鑑長編 ,. - 30 -.
(3) . 南漢の建国過程と劉藁の政治について 巻一~一二, 冊府元亀椿偽部 (巻二一九, 二二四, 二三二, 二三三) 南漢書十八巻および十国春秋などを参照 すればよい. 王鳴盛の十七史商権巻九十七によると, 南漢の史実は, 新五代史が旧五代史より詳細にわたって いるとのことであるが, それはその後半のことであって, その前半については必ずしもそうではないようだ,. 2 . 劉謙, 封州刺史となる 91 7) 8月 に劉聾なる者が, 広州を国都として 建 国 旧五代史によると, 南漢は後梁の 貞明3年 ( ) 2月 9 71 してより, その子 玲, 玲の弟最, 最の長子銀と支配者が継承し, 宋の太祖の 開宝4年 ( に滅亡するまで55年間命脈を保っ たというが, この国の建国の基礎は劉蓮の異母兄の劉隠によっ て ) 清海節度使となった 年 よ 905 固められたと見るべきであるので, 劉隠が唐の昭宣帝の天祐2年 ( ) に滅亡するまでは6 7年の存続期間があることになる. 9 71 り起算すると, 開宝4年 ( 南漢の劉氏が広州を根拠地として活躍するようになっ たのは, 劉隠の祖の安仁① が, その故郷上 拳 (河南省上蕪県) から間中に徒居して南海貿易に従事し, 唐の潮州刺史となったときに始まるも ) 宰相章宙が嶺南東道節度使になったとき, 職級 の 甚 86 7 ので, その子の謙は, 謙宗の威通8年 ( だ低い広州牙将であっ た. このころかれは草宙の兄の女を婆ったが, これはかれが気貌殊常のため 章宙に見込まれたからに外ならない, ② 倍宗のとき, 黄巣が唐朝に対して広州節度使の職を求めたが許されなかった, その理由は 「〔黄〕 巣, 叉弓安南都護・広州節度使, 書聞,右僕射千珠議, 南海市舶利不質. 賊得, 益富而国用厩. 乃拝 」 (新唐書巻二二五下逆臣伝) とあるのによ って知ら れ る よ う 巣率府率, 巣見詔大訪,急攻広州, に, 黄巣が広州節度使となり, 広州貿易の利益を独占すれば, 唐朝の国家収入が減少して国用を 支 弁できなくなることによるのであるが, 広州節度使になれなかっ た黄巣は, 怒 って広州を陥落さし ) 9月 であり,この際12万人の アラビア 人 8 79 た. この年は資治通鑑巻二五三によると,乾符6年 ( らを含む内外人が賎徒のために虐殺せられ, このために広州の貿易は, 大打撃を受けた の で あ っ ) 劉崇亀が嶺南東道節度使に な っ 0 89 た, しかしこの状態は間もなく回復して, 昭宗の大順元年 ( ③ てからの広州はようやく貿易の繁栄を取り戻したらしい, 広州を追われた黄巣の軍が北に引揚げ たとき, 湖湘の間には群盗が集結していたので, 封州(広東省封川県)に拠 っていた劉謙は, 封州刺 史を授けら れ, 賀水鎮使を兼ねて梧桂以西地方の防禦に当った. ④ かれはまた流亡者をその治下に 撫納し, 用度を節約して土卒を養い, 忽ちのうちに精兵万人・戦艦百余隻を保有するに至った, そ のため にかれの支配下の封州地方が粛然となっ たわけであるが, のち病に倒れて病床に劉隠を初め 諸子を呼び寄 せ, 五嶺に盗賊が蜂起している今, 時期を失することなく, 精甲犀械を以て賊を滅せ と 励 ま し た, ⑤ ① 南漢劉氏の祖先の出目については, 古く藤田博士 (「南漠劉氏の祖先について」 東西交渉史の研究所収) の. アラビア人説があり, また戦後間もなく河原氏の越人説 (「南漢劉氏祖先考」東洋学報三十一巻四号所収) が あるが, 何れも定説とはなっていない,. ② 旧五代史巻一三五倍偽列伝劉勝伝, 五代史記注巻六五南漢世家, ③ 新唐書巻九〇劉崇亀伝. ④ 新五代史巻六五南漢世家, ⑥ 新唐書巻一九〇劉知謙伝,. 3, 劉隠, 清海節度使となり, 南漢の基礎を築く - i史劉謙が死んで, 子の隠が賀江に居ったとき, 土民百余人の叛乱 が 起 ), 封州束 乾寧元年 ( 8 94 ① この叛乱は賀水の諸将のうち無頼なる 者の企てたものであろうが, 隠は短期間のうちに容 っ た, -・31 -.
(4) . 田. 中. 整. 治. 易にこれを鎮定して叛徒を悉く 謀殺した, 嶺南節度使の劉業亀はその才能を聞き, かれを召して右 都校に任じ, 賀水鎮使を兼 ねさせ, 間もなく封州刺史の職をも授けた ② 地方長官としての隠の治 . 積がかっ たことは 「用法清粛, 威望頗振. 」 ③ とあるのによ って察せられよう 嶺南節度使 の劉崇 . 亀が死んで, 同2年 ( 895 ) 7月 嗣蔵王知柔が石門肩輝の功績によっ て清海軍節度使を授け ら れ , き 翌年1 2月 任地に赴くべく 湖南に到着したとき, 前進できなかった 広州牙将 の慮鋸・評弘犯が朝命 , に背き乱を起し, 境界に拠っ て知柔の通過を阻んだためである 首魁の慮曙は広州におり 弘犯に , , 端州 (広東省高要 県) を守らせたが, 弘記は封州刺史の劉隠と結んで, 隠の女を嬰ることの許しを えた. 隠の方では偽 っ てこれを許したもので, 弘妃を親ら迎える と託言して 封州兵を舟 中 に 隠 , し, 夜端州に入り, 守将の弘妃を斬り, 遂に広州を襲い, 慮鋸を斬った 慮裾・調弘把の乱がよう , やく鎮定を見たので, 嗣藤王知柔は広州に入ること ができた次第であるが, かれは劉隠の功績を徳 とし, 清海行軍司馬に任命して兵賦を委任するに至っ た, ④ こん 清海行軍司馬となってからの劉隠の活躍は, 光化元年 ( )12月 部州刺史曽衰 が兵を 挙げて 広 8 98 カ い ・ 州を攻略したとき, 州将王王裏が戦艦を率いてこれに応じたため, かれが一戦してこれを 破 っ た こ ; ん てし ・ 力 と, また離州将劉滝がまた 増・拾に拠 ったので, これを討 って劉撞を斬ったことなどに 見られる ◎ , 00 )12月, 嗣藤王知柔が死んだので, 昭宗は宰相の徐彦若をその後任として 派遣 し 光化3年 (9 た. これは時に政権を専らにしていた桜 胤の差 金らしいが, ⑤ その徐彦若も翌年1 2月 に死んだ, か れは臨終の際に, 行軍司馬の劉隠を留後に奏請した が, これは許 されなかっ た 節度使の徐彦若の , 威令が振わず, 政務がすべて劉隠の掌中にあっ たからであろう. ⑦ 昭宗は宰相の僅遠を清海軍節度 使に任命したが, 楢遠が任地に赴く べく, 江陵に到着したとき, 嶺表には盗賊が多数隊層している のを聞き, また劉隠を恐れ詔に違反して受代せず 遅留して進まなかっ た, たまたま樵道が朝廷に召 還されて宰相となったために, 朝廷では詔を下して劉隠を清海節度留後と したが, 長い間かれに官 職を実授しなか っ た, そこで朱全忠が元師となるに及んで, 劉隠はかれの許に使を遣わし, 重賂を 贈 って, 朝廷に推薦を依頼したので, 朱全忠は直ちに隠の任官を 上表した, かくて劉隠 は清海節度 使に任命されたが, 時に昭宣帝の天祐2年 ( ) のことである. ⑧ 劉隠が南海貿易 の利益 を 独占 905 する広州の節度使になっ たことは極めて重要な事件で, これによ っ て劉氏が富裕となり, その独立 のための強力な軍隊も保持できたのであるから, 南漢の基礎がここに強固に築かれたと見て差支え な か ろ う,. 朱全忠による朝廷への推薦により清海節度使となり, 広州地方において重きをなすに至った劉隠 ) 梁の大祖より厚い恩寵を受け, 検校大尉兼侍中を加え, 大彰郡王に封ぜら れ は, 開平元年 ( 90 7 , 翌年安南都護を兼領して静海軍節度使に充てられ, 更に翌年には検校大師 兼中書令を兼ね, 4月 に は南平王に封ぜられた. ⑨ 注 ①. 資治通鑑巻二五九昭宗紀乾寧元年十二月の条,. ② 旧五代史巻一三五階偽列伝劉鯵伝. ③ 仝上.. ④ 旧五代史巻一三五階偽伝劉勝伝. 新五代史巻六五南漢世家. 資治通鑑巻二六〇唐昭宗紀乾寧三年十二月 の 条. Aは通鑑の胡注による と 「当在報州 ぢ昌県界 」 と あ ⑥ 資治通鑑巻二六一昭宗紀光化元年十二月の条. 雪・・ . る.. ⑥ 旧唐書巻一七九徐彦若伝. 新唐書巻一一三徐有功伝の付伝の徐彦若伝. ⑦ 宋史巻四八一南淡朝氏世家,. - 32.-.
(5) . 南漢の建国過程と劉襲の政治について ⑧ 旧五代史巻一三五階偽列伝劉勝伝, 新五代史巻六十五南漢世家. 劉隠は唐朝最後の節度使となった人である が, 呉廷褒の唐方鎮年表によると, かれが清海節度留後となったのは天復元年 ( 901 ) である, 次にかれ が 清 海節度使になった年については, 通鑑・十国春秋などの天篇元年 ( 90 905 4 )12月説と新五代史の天熊2年 ( ) 説とがあり, 何れが正しいか, 今明らかにしがたいが, 通鑑巻二六五に 「天篇二年三月清海節度使劉隠に同平 章事を加へらる」 とある記事から察すると, かれが清海節度使になったのは, それ以前のことであり, 天鮎元 年末から同二年三月までの間と見てよいであろう. ⑨ 旧五代史巻-三五椿偽列伝劉勝伝, 新五代史巻六五南漢世家. 五代会要巻十一 「封建」 の条によると, 劉隠 90 9 ) 四月となっている, が南平王に封ぜられたのは, 開平三年 (. 4, 唐の賢士による南漢の政治への参与 劉謙・劉隠 の父子は, 唐朝の地方官として封州より起り, 唐末国内多事の際, 屡嶺南地方におい て戦功をたて, 遂に劉隠のときに, 清海節度使となっ て広州地方を領有し, 勢力を拡げるに至った のであるが, 劉隠は, また賢士を好んだので, これらの賢士が, 多数隠の許に参集して, そのブレ イ ン と し て政 治 に 参 与 し, 璽 の と き そ の 建 国 に 尽 力 す る こ と に な っ た.. 次に隠のときに, 賢士を多数集めえたのは, 如何なる理由に基づくかといえば, 当時唐朝の人士 で兵乱を避けて避遠の地である嶺南地方に遊ぶ者が多か ったこと, また嶺南地方には漠代より南北 朝時代を経て唐代に至るまで, 罪を得た官吏が中央より流されたところで, ① 特に唐代には南 方に 調死した名臣の子孫で配所に留まり居住した者があっ たこと, また唐朝の官吏として南方に赴任し ていた者が, 乱のために北方に帰れなくなり, やむをえずこの地方に滞在せざるをえなくなっ たこ と な ど が, そ の 理 由 と し て 挙 げ ら れ よ う, ③ かくて嶺南地方には多数北方の人士が移り住んでいた が, たまたま劉隠が, 賢士を好んだので, かれらが, 劉隠の招きに応じてその許に集まり協力する ことになっ た, 今その賢士の主 要なものを挙げると次の如くである. 即ち王定保③ ・悦曙④ ・劉 藩⑥ ・李衡⑥ ・周傑⑦ ・楊洞潜⑧ ・越光蕎⑨ ら が そ れ で あ る ,. 王定保は南昌の人で, 唐の昭宗の光化3年 ( ) 進士に及第し, 南方の湖湘地方を 遊歴し て, 900 馬氏の礼遇を受けず, 既に唐の容管巡官に任ぜられたが, 乱に遭っ て還れず, 劉隠に招かれて幕府 に置かれた人物である, 次に悦曙は福州侯官 (福建省間侯県) の人で, 僻宗の中和年間(8 ) 81~884 及第し, 賦名があり, 唐の大学博士の官にあっ た, 黄巣の乱には難を避けて故郷に帰 っていたが, 1 i史のとき, その賓客となり, 詩歌を賦したこともあり, 間もなく嶺表に遊 間王の従子延彬が泉州束 歴して, 劉隠に招かれその幕中に置かれた, 次に劉潜は, その先祖は滑州時人であり, 父崇望は, 8 昭宗のとき宰相となった人であるが, 伯父の崇亀は, 大順元年 ( 90) 清海軍節度使・嶺南東道観 察処置等使となっ て広州に赴任した, その際藩は, 崇亀に従っ て広州に来てそのまま居住し, のち 劉隠が広州を根拠地に定めると, その賓客として仕えることになっ た, 次に李衡は, 超郡の人, 唐 の宰相李徳裕の孫で, 栗の大祖に仕えて右補関となり, 開平2年 ( ) 嶺南官告副使に充てられ 908 て広州に至り, 劉隠に留められて, 節度判官に任命され, 一時帰任したが, のちまた 劉氏 に 仕 え ) に進士及第, 宏叉館校書郎より起家し た, 次に周傑は, 歴算に精しく, 女宗の開成中 ( 36~840 8 司農少卿になっ たが, 当時天下が乱れていたので, かれが天女を以て避難先を占ったところ, 嶺南 地方こそはその地であると出たので, 弟の鼎をやっ て封州録事参軍の職を求めさせた, 昭宗の天復 ), 傑は一家を挙げて広州に来たが, 劉隠は, その名を知っていたので, これを召し 中( 901~903 て上賓の待遇を与え, 屡天道災変を問うた, 傑の方では, 星術を以て人に仕えるのを恥じ, 常に病 と称して起たなかったが, 劉隠は, またこれを許して罪しなかった, 次に隠洞潜は, 始興 (広東省 姶興県) の人で, 幼にして経史を好み, 開爽にして政略があり, 唐末 選管巡官となり, 任期満ちて - 33 -.
(6) . 田. 中. 整. 治. も, 南海に寓居したので, 隠は, 常にかれに師事したが, のちに節度副使に任命 した, 最後に鎖光 高は, 京兆奉天(映西省乾県東)の出身, 父隠は, 唐の尚書左僕射となった人, 光高は, 傷宗の光啓 89 4~8 7) 司勲郎中・弘文館学士に遷り, 膳部郎 9 ) の進士及第であり, 昭宗の乾寧中 ( 3年・( 88 7 中・知制詰に改められ, 兄の光逢と共に内外の制命を対掌した. 劉季述廃立ののち, 光逢は, 洛陽 に帰り, 光鷲は, 江表に旅遊して難を横南に避けたが, このとき劉隠は, 厚くかれを礼遇して節度 副使に任命した, かくてかれは, 嶺南の広州に居を構まえて, 劉氏に仕えることになった, これら の人々は, 劉隠に仕えてその政治顧問となり, 劉氏のために尽したのであるが, また比較的遅れて いたこの地方の文化の発達に貢献するところが少なくなかったであろう, ) 3月 病み, その異 911 劉隠は, 開平4年 ( ) 4月, 南海王に進封されたが. ⑯ 翌乾化元年 ( 910 母弟の節度副使劉襲に留後を権知させたのち, 5月38才で死に, 襲が代って立 った, 聾は, 乾化2 ) 清海軍節度使・検校太保・同平章事に除せられ, 翌年更に桧枝大億を加え, 未帝が即位 年( 912 すると, 隠が生前帯びていた官爵をすべて授けられ, 特に劉の晩年 授けられた 南 海 王 を 襲 封 し た. ⑪. ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨. Q頁 (東洋文明史論叢所収) 桑原鷺蔵博士 「歴史上より観たる南北支邦」 8~I 新五代史巻六五南漢世家, 十国春秋巻六二王定保伝, 南漢書巻九王定保伝, 十国春秋巻六二脱曙伝. 南漢書巻九悦曙伝. 十国春秋巻六二劉椿伝, 南漢書巻一○劉播伝. 十国春秋巻六二李(股)衡伝. 南漢書巻九李股衡伝. 十国春秋巻六二周僕伝, 南漢書巻一〇周僕伝. 十国春秋巻六二楊洞潜伝. 南漢書巻一○楊洞潜伝 , 旧唐書巻一七八劉隠の付伝. 十国春秋巻六二趨光商伝, 南漢書巻九組光高伝, なお新五代史巻六五南漢世家. には超光允とあるが, これは超光蕎の誤りであろう.. ⑩ 五代会要巻--封建の条, ⑪ 新五代史巻六五南漢世家, 5. 劉馨の南漢建国とその 政治 これよりさき, 劉隠が清海節度使となり自立した前後に, 交州の曲頴, 桂州の劉士政, 邑州の葉 公略, 容州の歴巨昭が諸管に分拠していた, また度州には 慮光縄が拠 っ ていたが, かれは天復2年 ), 横 南を攻めて部州を陥れ, その子延昌にその地を守らせ, 進んで潮州 (広東省潮安県) ( 902 を囲んだ, このとき劉隠の兵に一時撃退されたが, 結局この地を陥れ, その弟の光陸に守らせた. また高州 (広東省茂名県東4 5里) にいる刺史の慮昌魯, 新州 (広東省新興県) にいる刺史の劉潜お よ び 江 東 の 諸 案 は み な 制 圧 で き な い 形 勢 で あ っ た.. げん. 劉隠は, 手始めに慮延昌を離州に攻めようとしたが, これは劉襲に反対された, その理由は. 都 寺みにしている者は慮光禍であるから, 慮延昌を撃てば, 慮光縄の部下が必ず応戦す 州の鹿延昌 が1 る, そうするとこちらは首尾に敵の攻撃 を受け不利になるというにあり, 慮延昌軍の速攻を避けて 計略を以て取るべきであるというのが劉雲の戦 略であった. しかし劉襲の計は採用されず, 結局劉 隠は離 州を包囲したが, このとき北江が水かさを増し, 醜運継がず, 光欄の度州から の 救援 も あ り, 敗績して帰 った. このことがあっ てから軍事はすべて襲に委任され るに至った. ① かくて要は, 悉く江東の諸案を平定した, 次いで要は, 隠の命を受け高州を攻めた, この際刺史 の劉昌魯は かれを破 ったのであるが, 到底鍵の敵でないと自ら悟り, 楚の馬股に帰順して永順節度 - 34 -.
(7) . 南漢の建国過程と劉翼の政治について 副 使 と な っ た, ② かくて高州はこののち楚の治下に入 った. , 次に劉髪は, 兵を出して慮氏を攻め, これを破り, 瞳光陰の拠った潮州, 虚延昌の拠った離州を取った, 以上は主として嶺南の東方にお け る形 勢 で あ る.. また西方においては楚の馬股と容州 (広西省容県) ・桂州 (広西省桂林県) を争ったが, 股は桂 管を取り, 劉士政を虜にし, 襲は容管を取っ て巨昭を逐 った, ◎ 般の桂管を取った事情は次の如く で あ る,. 先ず劉士政が桂管に拠るに至っ た事情から述べると, 乾寧2年 ( ) 安州防禦使の家最が, 朱 8 95 全忠の親吏蒋玄嘩と不仲となったので身の危険を感じ, 指揮使の劉士政, 兵馬監押の陳可塔と3千 の兵を率いて桂州経略使の周元静を襲い, これを殺して桂州経略使となったが, 部下の可王働こ殺さ れたのち, 劉士政が知軍府事に推され可瑠が副使となっ た, 間もなく土政は唐朝より桂管経略使に 任命された, これが劉士政が桂管に拠るのに至った経緯である, 光化3 年 ( 00 ) 9月 桂管 が 昇格 9 して静江軍となったのに伴い桂管経略使の劉士政が静江軍節度使になった , このころ劉士政は, 馬股が悉く嶺北の地即ち湖南地方を平定したのを聞き, これを恐れ副使の陳 可塔をやり, 桂州の東北1 20里にある全義嶺に宿営を行ない, 馬股の来襲に備えた, 殿の方 で は, 劉士政に対して友好関係を結を んとしたが, 可塔がこれを拒んだので, 秦彦陣・李凄に7千の兵を 率いて土政を 撃つたため全義嶺に赴かせた. 土政の方では指揮使王建武をやり桂林城北80里にある 秦城 (広西省興安県西南40里) に屯せしめたが, 姶は彦嘩の軍が三戦して不利であった, たまたま 可 堺が全義県民の耕牛を掠めて軍を偏ったのを怨んだ全義の民が, 彦嘩の軍の饗導となりたいと請 うてから, 彦嘩が歩兵3百騎兵60を以 、って秦城に夜襲をかけたため, 建武の営中は混乱に陥り, 百 余人が斬られ, 建武は捕虜となった, 次いで可王番も檎えられ, 2千余が降伏した, 彦嘩はこれを湖 南に送らんとしたが, 李凌が7千の兵力で桂林を討とうと 思うので, 降伏者の送還に兵力を割かれ ると大敵に当れないため, 悉く坑殺するに至 った. 秦城以南には20余柵があったが皆風を望んで奔 潰した, 壌は先鋒を以てこれを追跡し, 桂林に至るまでに1万人を殺徴した, 遂に桂林城を包囲す るこ と 9 日ののち劉士政が城を出て 降伏した 桂 (広西省桂林県) ・宜 (広西省宜山県? )・厳 (広 , 西省来賓県) ・柳 (広西省馬平県) ・象 (広西省象県) の5州も湖南に降った, かくて馬殿は, 李 壌をそ の戦功により桂州刺史に任じ, 間もなく桂管観察使を授けた, ④ 次に 劉襲が容管を取った事情は次の如くである, 唐末容州観察使に任ぜられたのは 罷巨昭で, か れは黄巣が嶺南を侵略したとき, 部内の諸蛮数千を集めてこれを訓練し険要に 分屯させたので, 賊 徒がその領域を侵さず, その功を以て寧遠軍節度使を授けられた, 時に天祐3年 ( ) 正月 の こ 906 と で あ る, こ の こ ろ か れる. 湖南の馬股が桂管をとり, 李現にこれを支配させているのを見て, そ の雄勢を聞き, その侵略の対 策を諸首領に問うたところ, その中に奇襲戦法を以 、てこれを討つべし との積極策を出すものがいたが, 結局馬股に帰順することになった, 開平元年 ( 0 ) 12月, 南漢 9 7 の劉要が兵を率いてその領内に侵入するや, 遂に小吏に書を持たせて間道沿いに馬股の 許 に 送 っ た, このとき股は, 蛾彦章に馬歩 軍8千を率いて直ちに容州に赴かせた, かくて遂に巨 昭は万余の 兵を率いて馬股に帰順し, 従 って馬股は容管をその支配下に収めることが で き た, 時 に 開 平 4 ( ) 年である. 履巨昭が馬股に帰順して1年後の乾化元年 ( 91 0 )1 2月 突亥, 静江行軍司馬蛾彦 911 章が寧遠節度副使となり, 容州を権知していた, これは 楚王段の要請によ るものであるが, このと き劉襲が兵を遣わし容州を攻めると, 馬股は, 都指揮使許徳勲に桂州の兵を率いてこれを救わせた が, 彦章が守れなかったので, 彦章は容州の土民および府庫の物資を遷して長沙に奔った. ⑥ この ころ劉昌魯も土卒千余人を率いて湖南に帰順したので, 容管と高州が襲の所有に帰した, 容管と高 - 35 -.
(8) . 田. 中. 整. 治. 州が馬股の手 に入っ てから一年後の ことてある, ⑥ 墓州の葉広略は自ら 兵賦を檀にして, 屡広州の西部を侵したので, 璽は兵を挙げて撃ちこれを取 ていた, 曲氏は, 承格のとき, った, 最後に交州の土豪に曲承美な る者がおり, 専らその地に拠っ 7)7月 死にそ の 子 唐末の乱に乗じて安南を拠有し, 唐襲より静海節度使を授けられ, 開平元年(90 頴が代っ て立った. 顎の子の曲承美の代になり, 敦を粟に送 っ てまた静海節度使を 授けられた. 時 )12月 のことである. 要はこれを不満とした, かれに交州を領有せんとする 意 志 911 に乾化元年 ( があっ たからであろうが, かれは部将の李知順に兵を率いて交州の承美を撃たせ, 承美を捕虜とし ⑦ これを梁帝に献じた, かくて婁には交州 を平定してのち, 横南の地を悉く領有するに至った. ), 清海節度使の 劉要は銭継が呉越王に冊封されて国王の称号を 受けたのに, 依 915 貞明元年 ( 然とし て自分だけが南平 王という郡王に留ま っているのに快 からず, 粟帝に対して南越王という国 王に封冊され, かつ都統を加え られんことを上 表したが許されなかった, 襲はこのことを知り, 僚 属に今中原 は紛紛と して乱れ, 誰を天子となすのか, このような状態では, どうして万里梯航して 偽庭に仕えられようかと嘆いて, このときから南漢より 栗室への貴使が 遂に絶たれるこ と に な っ た ⑥ これは恐らく このころになっ て, 劉聾が梁室の頼むに足りない ことを痛感すると共に, 嶺南 .. 地方を悉くその 支配下に収めたため に, 独立の国家を建設するだけの自信を得ての行動に相違なか ろう. ) 8月 広州において皇帝の位に即き, 国号を 大越と号し, 乾亨 91 7 かくて壁は, 遂に貞明3年 ( と改元した. このときかって劉隠の時代に招 かれた中朝の人士が国家の要職に任ぜられた. 即ち梁 の官告使趨光商は兵部尚書に, 節度副使楊洞潜は兵部侍郎に, 節度判官李衡は礼部侍郎に, 唐の大 学博士悦曙は工部侍 郎に任命され皆平章事であった, 先に述べたように, 劉隠は賢士を招くのを好 んだが, 劉聾もまた同様で あったことは, 超光蕩の場合によっ て知られる, 超光蕎は, 唐の甲族で あることに誇りを もち, 南漢の臣となることを恥じ, 常に帰郷を考え楽しまなかったが, 襲が越 高のために手書をつ くり, 使を間道から洛 陽に送り, その地にいる光蕎の 二人の子損・益を召し, その家族とともに, 広州に来させたので, 光蕎は驚喜して帰心を捨て, 心を尽くして20余年の長い 年月 にわたっ て, 南漢の 宰相として劉 璽に仕えた. このことによっ ても, 南漢の劉馨が賢士を獲得 するために如何に 熱意をもっていたかを知 ることができる, 帝位に即いた劉璽は, 祖安仁を太祖文 皇帝に, 父謙を代祖聖武 皇帝に, 兄隠を烈宗褒皇帝に追尊して三廟を建て これを祭り, 国都の広州 ③ 劉髪の政治は要約していえば, その性 を興王府に昇格させた ・ . 次に劉宴の政 治について述べる, 格からくる刑罰の苛酷 な実施と 奮惨を好むあまり数多い宮殿の造営 に専念した ことに尽きる, 五代 史記注巻六五南漢世家引くところの五国故事によると, r襲は性質が厳酷で, 人を殺饗する場合に は果断であり, 事を見るごとに, 簾を便殿に垂れ, 有司に命じて罪人を殿下に 引かせ, その非法の 道具を設けて屠糖したので, 湯鍍・鉄麻の獄が あり, また湯鍍に投じてのち, 更に日曝を加えて塩 く立っ て動き, 久しくして死ぬ 酷を沃ぐものが あった. この場合肌体は腐鰯するが, 罪人はなおよ・ ようになる, その他鎚鋸を互 に用いると’ 血が閃っ いて交飛ダ’ 腿織の気’ 菟痛の声が庭廉に充沸 璽の屡吻はこれをみ て垂拠が頭領に及び, 膏肉の気を給うものの ようで, 長時間経過しては した,. じめてその常態に復したのであるが, 有司はかれが常態 に復するのを待ち, 罪 人 を 引 い て 退 い た. 」 という, 髪の罪人に対する刑罰の苛酷であったことが知られるが, その暴政の一端を窺うこ とができよう. また要は奮修を好み, 宮殿の造営を務とした, ⑪ かれの築いた宮殿の主なるものは 昭陽殿・秀 華宮・南宮・大明宮・昌華宮・甘泉宮・玩華宮・玉清宮・太徹宮・南薫殿等で, その数 は数百の多きに上っ たというが, 何れも壬嚢麗を極 め, 五国故事によると, 昭陽殿の規模は, 金を以 - 36 一.
(9) . 南漢の建国過程と劉藁の政治について. て仰陽となし, 銀を地面となし, 馨.穂. 稜 すぎは皆これを銀で飾り, 殿下には水渠を設けて真珠 を浸し, また水精・晩由を琢き, 日月 をつくり東西玉柱の上に並べた. その上に襲はその 膳を親書 したという. その他の宮殿殿字の規模も悉く昭陽殿と同じ であるが, かれの晩年に造営した 南薫殿 の柱は通透・ 刻鍍であり, 礎石に各々櫨を置き, 香を燃したが, これによってかれが砦鹿をことと したさまが察せられ る, ところでこれらの宮 殿の装飾に使用された珍宝即ち真珠・金著・翠羽は南 海諸国から鷲らされ たものであるが, これには合法的な貿易によるもの, また非合法的な掠奪によ @ り獲得され たもの, ⑪ また軍隊を使役して採取するものなどが あったと考えてよかろう. 即位の翌年襲は天を南郊に妃 るいわゆる郊礼を行ない, その国内に大赦して国号を漢と改めた. かれは皇帝の位に即 いてからは 「広廉南海珠磯, 西通畔萄, 得其珍玩, 窮奮極修. 娯借一方, 与嶺 北諸藩, 歳時交聴, 」 (旧五代史巻一三五椿偽列伝) とあるのでもわ かるように, 南海諸国との貿 ぎん 易によって珠 磯 を広く集め, また西方の時 (四川省 彰水県) ・衝 (四川省崇慶県) 即ち今の四川省 の一地方と通じて,その地の特産たる珍玩を得たが,特に濁州からは錦などを得たと思われ, かれの 生活が著惨を極めた ことが察せられる. かれはまた嶺北の諸藩例えば楚・間 などとも歳時交略して いたというから, かれの時代に北方諸国との 間に公式の往来があったことが知られ る. r 襲が初め広州にお いて帝位に即こうと考えたとき, 王定保がそれに反対であるの を障る余り, か れを荊南の使節に出し, 使命を果して帰任後, かれが妻をそしるのを恐れて工部侍郎の悦曙にこれ を慰労させ建国を告げさせた, 襲の建国を知った定保が, 建国には当然制度を整えなければなら な いのに自分が南門に入 って見ると, 清海軍節度使の 額が依然として四方に掲げられていた, これは 可笑しいことではないかといったのに対し, 妻は余は定保が建国 に反対する対策のみを考えて, 軍 額が卿のそしりを受けるとは思わなかったと笑ったという, ⑩ これによって南漢の建国に充分な制 度の整備されていなかったことが察せられる, ) 襲は越国夫人馬氏を皇后としたが, 馬氏は楚王馬股の女である, 彼女は, 襲が 乾亨3年 ( 91 9 ) 8月, 王の許しが出て, 永順 915 )10月 楚王の女に求婚したのに対し, 貞明元年 ( 乾化3年 ( 913 ⑯ 節度使馬存に送られ て広州の劉襲に嫁したもので, 楚王が南漢との経済関係を考慮し て通婚を許 し た も の で あ ろ う.. ) 春3月, 襲は兵部侍郎楊洞潜の 要請に従い初めて学校を立て, 選部を置き, 地 乾亨4年 ( 920 、 ゆる 方長官から国家 の人材を推挙する貢挙を実施して進士・明経10余人を放した. これは唐の故事にな らったものであるが, 以後毎年行なわれるのが常であった, ⑯ 貢挙によって官吏の任用がなされた ことが知られる, ) 後唐の荘宗が梁を滅ぼして開封に入っ たので, 蟹は後唐の兵威が甚だ盛んな の 乾亨7年 ( 923 を恐れ, 宮苑使の何詞を 後唐に遣わして来聴させたが, これは実は後唐国内の虚実を偵察させるも のであった, 何詞は瀞宮で荘宗に謁し, その際劉襲を大漢国主と称し て書を大唐皇帝に奉ったが, 詞が帰国後, 後唐の国内には必ず叛乱が発生するだろうから, 南漢がその脅威を受ける憂のない こ とを報告したので, 襲は大いに喜んだ, 広州を中心として建国した南漢主としては当然のことであ る, 特に後唐の朝政は既に紫乱しており, 荘宗もまた道制を以て遠方を 制禦する威力もなく, 従っ て南海諸国の朝貢も到来しないので, 南漢では遂に後唐との国交を断 絶するに至った, ⑭ 襲はまた誇大を好む性格の持主でもあり, 北支・中支の物資を携えて広州に来 る楚をはじめとす る嶺北の商質を多く 宮殿に召し, 金型・翠羽で飾 っ た玉堂・珠殿を見せて, その富裕なるさまを誇 示したが, 自らわが家はもと威陽に居を構えていた関係上, 南方において蛮夷の王となっ ているの を恥じているといい, また後唐の天子を洛州刺史と呼んだが, ◎ これは中国の天子が都し ている洛 7一 一3.
(10) . 田. 中. 整. 治. 陽の地はもと洛州刺史の統治する所であり, その政令が遠く及ばなくなったために, 後唐の天子を 洛州刺史といっ たものである, 以て葵の誇大な性格の一端を知ることができよう. 襲が後唐に何詞を遣使した年, 雲南の腰信鄭長が使を南漢の国都広州に派遣し, 南漢の劉更に朱 髪の白馬を贈 っ て襲の女に求婚した, 使者は, 皇親母弟の清容布愛兼理と自称し, 金錦砲・虎綾紋 ・掌金装刀を賜わり, 帰仁慶侯に封ぜられ, 食邑は1千戸の持節鄭昭淳であった. 昭淳は学問を好 み, 交 辞があっ たが, 巽はかれと済燕して詩を賦した際に, 襲と南漢の群臣は, 皆詩作が及ばなか ⑩ ったという, かくて遂に兄隠の女, 増城県主を鄭長に妻すことになった, 翌年長は丹薬を服用し て死んだが, 県主はその国で一生を終 った, また襲の女の清遠公主が間主の癖に嫁した. ⑭ これは 政略結婚であっ て, 外国貿易を重視する南淡・間 の二国が相互に海上貿易の安全を保証するための ものであろう. 8年襲は, 南宮を造営したが, このとき王定保は南宮七奇賦を襲に献じてその壮麗 を讃美するところがあった. この年襲は勝と改名した. ), 白龍が南宮三清殿に見えたので, 白龍と改元した, また翼と改名したが, こ 乾享9年 ( 925 れは龍見の祥瑞 に応ずるものであった. 胡僧が誠書には劉氏を滅ぼす者は, 襲であると記してある といったので, 奨は周易飛龍在天の義を採っ て璽の字音を倣となし, これをかれの名とした, ) 楚人が舟師を挙げて来襲し, 南漢の封州を包囲して, 南漢軍を賀江に破 ったが, 928 白龍4年 ( このとき南漢側には1千人の溺死者を出した, 襲はこの敗戦を大いに恐れ, 周易を以てこれを漉し て大有に遇 っ たので, 遂に国内に大赦を行なっ て大有と改元した. 襲は禁 衛の諸軍を掌っ ていた蘇 章に命じ神郷軍3千・戦艦百嬢 を率いて封州を救援させたが, 章は賀江に至り, 鉄索を 水 中 に 沈 め, 両岸に巨輪 を設け索を挽き, 連堤を築きこれを隠して壮士を堤中に伏せしめた, 章は軽舟に乗 って敵を迎え戦い陽っ て敗走したので, 楚軍はこれを逐ったが, 堤中で輪を挽き索を挙げたので, 楚軍の船は進退できなかった, そこで水を爽んで強駕を射たため楚軍が職滅されたので, 戦艦百胞 を収めて帰 った, かくて遂に封州の包囲を解いたのである. 章は戦功によっ て団練使に選った. ), 李守鞠~・粟克貞らを遣わ し 交 930 蘇章が封州より楚軍を撃退して後2年経過した大有3年 ( 蹴を攻めさせて曲承美を捕虜としたが, 承美は南漢の国都広州に送られた. 襲は儀鳳楼に登り, 交 駄の伴虜の引渡しを受けたが, このとき承美に, 公は常にわが南漢を偽廷として反抗し続けてきた が, 今却って面縛せられたのは何故かと責めたと ころ, 承美が恐縮して罪に伏したので, 襲はかれ を赦した, 克貞はまた占城を攻め, その宝賃を掠奪して帰国した. )、 楊廷芸が愛州 (故交州府西南八百里) において叛乱を起し、 交州を 攻略 し 翌大有4 年 ( 931 たので、 交州刺史の李進が逃げ帰る事件が発生した, このとき妻は承旨の程宝を遣わして廷芸を攻 めさせたが, 程宝が戦死するに至った, 楊廷芸の手ごわかっ たことを知るべきである, ) 襲は19人の子を王に封じ ている. 卸ち耀枢を邑王に, 亀図を康王に, 洪度 を 秦 大有5年 ( 932 王に, 洪無を晋王に, 洪昌を越王に, 漢弼を斉王に, 洪雅を部王に, 洪沢を鎮王に, 洪 操 を 方 王 に, 洪呆を循王に, 洪 瞳を息王に, 洪適を高王に, 洪簡を同王に, 洪建を益王に, 洪済を弁王に, 洪道を貴王に, 洪照を宜王に, 洪政を通王に, 洪益を定王に封じた. 思うにこれは南漢の国力がよ うやく劣弱となっ てきたので, 諸子を王に封じて国家の体制を強化せんとするための 措置 で あ ろ ) 4月 将軍孫徳成を遣わして楚の蒙・桂2州を攻めたが, 克たなかったと い う 936 う. 大有9年 ( から, その戦闘力の程が 察せられる. ), 交州の牙将談公羨が安南節度使楊廷芸を殺して自立したが, 翌年廷芸の 故 将 大有1 0年 ( 93 7 呉権が交州を攻めたので, 絞公羨は救を 墓に求めた. 要は この乱に乗じて交州を取ろうとする意図 があったために, 大将梁克貞を遣わし, 兵を率いて南下させ} 襲は自らその軍を護り, 洪操を満海 - 38 -.
(11) . 南漢の建国過程と劉巽の政治について. 軍節度使とし, 交王に封じ, 兵を統率して白藤に赴かせた, 時に呉権は, . 既に公を羨殺して交州に 拠っ ていたが, 親ら兵を率いて洪操の軍を迎え戦い, 先ず海口に多数の鉄概を立て悉くその首部を とがらせて, 鉄を以てこれを冒した, 潮水が丁度張っ たとき, 権は軽舟に乗り兵を引い て 挑 戦 し た, 洪操がこれを逐ったが, 忽ち潮が退いたので, 南漢の戦艦が鉄塚にひっ かけられ, 南漢の将兵 は皆覆擬し, 死者は半を過ぐる有様であった, この戦闘で決操は檎えられて殺されたが, 璽 は余衆 を収めて国都の広州に帰還した, 2 ) 4月 劉襲が病み臥床中, 後維者を決定し ょ う 94 この事件があっ て5年ののち即ち大有15年 ( rたとき, 襲の長子と次子は既に早死しており, 順序からいく として, 右僕射王刻 を召しこれを謀っ と, 三子の秦王洪度, 四子の晋王洪無というところであるが, この二人はいずれも鰭窓で後継者と して適当でない, そこで少子の越王洪昌が孝謹で知識があるため,これを立てんとして,決度・洪無 を夫々 琶州・容州に鎮せしめんとする議が定まっ たが, たまたま崇文使講益が襲の病室に入ってこ れを知り, 嫡を立てる場合には年長者を以てするのが建前で, これに違うと心ず叛乱が起ると諌め たので, 洪度が後継者となった, 南漢のためには悲しむべき ことであるが仕方がない, 間もなく劉 ‘ 鰯号は高 祖, 康陵 に 葬 2 ), かれは天皇大帝と議せられ, i 94 翼が在位26年ののち54才で死んだが ( ら れ た,. ① 新五代史巻六五南漢世家, 資治通鑑巻二六三唐昭宗紀天復二年の条, ② 宋の路振の九国志巻-- (楚) 劉昌魯の条. 資治通鑑巻二六七梁太祖紀開平四年十二月の条, 新五代史巻六 五南漢世家には, 劉巽が劉昌魯らを殺したとある, これは十国春秋巻七三の劉昌魯伝に「広東志云. 乾化三年 劉巌取高州, 殺劉昌魯, 此志之誤.」とあるように誤りとすれば, かれは九国志にいうように, 永順軍節度副 9 0 ) に卒したことになる, 26~93 使兼行軍司馬になり, 天成中 (. 2月, 藁が容州を攻めたとき, 龍巨昭は長沙にいたらしく, 嫌彦章が容 ⑨ 新五代史巻六五南漢世家. 乾化元年1 州を榛知していたが, 結局巨昭が逐われて勢力を失ったことを示すものであろう,. ④ 資治通鑑巻二六〇唐昭宗紀乾寧二年の条, 同巻二六二唐昭宗紀光化三年九月~十月の条, 九国志巻--(楚) 李填の条, 新五代史巻六六楚世家, 種巨墜の条, ⑥ 九国志巻-- (楚) 罷巨昭の条, 五代史記注巻六六楚世家引くところの湖網故事の・ ⑥ 資治通鑑巻二六八梁太祖紀乾化元年十二月の条, ⑦ 旧五代史巻-三五椿偽列伝, 資治通鑑巻二六六梁太祖紀開平元年七月の条, 全書巻二六八梁太祖紀乾化元年 十二月 戊午の条,. ⑥ 旧五代史巻-三五椿偽列伝, 資治通鑑巻二六九梁均王紀貞明元年の条, ⑨ 新五代史巻六五南漢世家, 資治通鑑巻二七〇梁均王紀貞明三年八月の条, 十国春秋巻六二趨光高伝. ⑩ 五代史記注巻六五南漢世家の注に引く清異録. 十国春秋巻五九南漢中宗本紀乾和九年の条. ⑪. これについては適当な史料が見当らないが, その子最の時代に 「乾和九年十二月, 陰令. 彦饗. 以兵入海,. 掠商買金串, 作離宮遊猟,」 (十国春秋巻五九中宗本紀) とあるのによって, 藁の時代にも掠奪が行なわれた ことが察せられる, ⑫ これについても, 適当な史料が見当らないが, 五代史記注巻六五南漢世家の末尾の注にあるように, 劉銀の ときに兵に真珠を採取さ ・せたことがあるので, 遡って藁の時代にも, 真珠の採取が行なわれたであろうことが 禦せられる,. ⑱ 新五代史巻六五南漢世家, ⑭ 十国春秋巻五八高祖本紀乾化三年十月の条, 貞明元年八月の条. ⑮ 新五代史巻六五南漢世家, ⑮ 旧五代史巻-三五椿偽列伝, 新五代史巻六五南漢世家. - 39 一.
(12) . 田. 中. 整. 冶. ◎ 東都事略巻二三劉銀伝. 新五代史巻六五南漢世家. ⑩ 新五代史巻六五南漢世家. ⑩ 十国春秋巻六一烈宗女増減公主伝. 6,. あ. と. が. き. 唐末清海節度使となっ た劉隠は, 広州を根拠地として南漢国の基礎を固め, その異母弟の劉聾が 兄を援けて嶺南地方に次第にその勢力を拡大し, 東方では慮氏と西方では楚の馬股と争っ て遂にそ の所領を併せ, 広州を首都として南漢国を建てた. 南漢はその国初には, 32州の属州を数えたが, 襲のときに34州となり, 大いにその雄勢を南海地方に誇示した, 劉襲の政治は要約していえば, そ の性格からくる刑罰の苛酷な実施と誉修を好むあまり数多い宮殿の造営に専念したことに尽きるの であるが, 南漢がその届州を4 7州に拡大して更に強力になるには, 劉最劉銀の時代を待たねばなら な い の で あ る. (1958,3, ) 31. - 40 一.
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