教材「かみなりさま談義」考(1)
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(2) 一 教材「かみなりさま談義」. 佐 野 比呂己. 北海道教育大学釧路校国語教育講座. SANO,Hiromi. Department of Japanese Language Education, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. ) A Study on "Kaminari-sama Dangi" ( 1. 教材「かみなりさま談義」考(1). 概 要. 考 察 を 加 え よ う と す る も の で あ る。 「 か み な り さ ま 談 義 」 は、 昭 和 三 十 年. . 「柳田教科書」と略す。 〕に所収されている教材である。柳田教科書の単元設定、. 学年前期用)』 (柳田国男監修 昭和三十年度(一九五五)版 東京書籍) 〔以下、. . 高等学校一年上(高等学校第一. (一九五五)に発行された柳田国男監修高等学校用国語科教科書に所収されて. 教材選定にあたっては、監修者である柳田国男の考えがかなりの部分で反映さ. . いる教材である。本稿では、柳田監修国語科教科書における「かみなりさま談. れている。本稿では、随筆「かみなりさま談義」について、教材として分析・. 東条操の「かみなりさま談義」は、『国語. 義」の位置づけを確認し、 「かみなりさま談義」の筆者である東条操の人と業. 考察するとともに、柳田の教材選定意図もあわせて論じたいと考える。. 本 稿 は、 東 条 操 の 随 筆「 か み な り さ ま 談 義 」 に つ い て、 教 材 と し て 分 析・. 績を整理し、その年譜を附した。加えて、資料として稿末に、柳田監修国語科. 「かみなり様談義」は、柳田教科書の「一 随筆・随想」に置かれた教材で. 1. 教科書教材本文を掲げた。教材として「かみなりさま談義」を研究する上で、. ある。この単元の教材配列は次の通りである。. 3. その前提となるものである。. 2. 一 浅春随筆(栃内吉彦) 二 大蛇・小蛇(片山広子) 三 地図をいろどる(鏑木清方). -1-. . 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第43号(平成23年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.43(2011):(1)-(14).
(3) 佐 野 比呂己. 四 かみなりさま談義(東条操) 五 ろくをさばく(三淵忠彦). 二 筆者・東条操 . 1 教科書、及び指導書 「かみなりさま談義」の筆者・東条操について、柳田教科書には次のように . とう じょう みさお. ◇東 条 操 =〔一八八四―〕東京都の生まれ。国語学者。東京大学卒業。 4. 著書に「方言と方言学」 「国語学新講」などがある。. 柳田教科書の教師用指導書には、 「筆者・原典」の項目おいて次のような記. 2 東条操年譜. ここで、操の年譜は作成し、「かみなりさま談義」を研究する基礎とする。. 次の資料を参照し、年譜の作成を試みる次第である。. ●東条操『最近の国語学と方言学』筑摩書房 昭和三十五年(一九六〇)八 月. 6. 東 京 府 士 族 東 条 義 明 の 死 跡 を 相 続 す る が、 中 学 卒 業 ま で. 7. の講義「帝国語の発達」. 9月、文部省国語調査委員会嘱託。. として見たる東海道中膝栗毛」。. に啓発され、方言研究の道を選ぶ。卒業論文は「方言資料. 国語学、方言学を専攻。上田万年. 7月、東京帝国大学文科大学文学部国文学科卒業。. 3月、東京府立第一中学校卒業。. 3月、清華小学校高等科卒業。. は村松を称した。. . 長男として生まれる。. 京 都 台 東 区 柳 橋 一 丁 目 ) に 狂 歌 の 宗 匠 村 松 秀茂 と 母 い う の. 月. (一九九七)七月. 歳 0. 記 事 日、東京隅田川の代地川岸、浅草新片町四番地(東. ● 徳 川 宗 賢 編『 東 条 操 著 作 集 』 第 五 巻 別 巻 ゆ ま に 書 房 平 成 九 年 . 年 明治. 一八八四. 明治. 一八八五 明治. 一八九八 明治. 一九〇四 明治. 一九一〇. 14. 大正2年(一九一三)まで。第二次全国方言分布調査に 従事。. -2-. 12. 記されている。. 述が見られる。. 東条操〔トウジョウ ミサオ〕国語学者。一八八四年(明治一七)東京 都に生まれた。一九一〇年(明治四三)東京大学文学部国文学科卒業。 旧制静岡高校、広島高師を経て、現在、学習院大学教授、国立国語研究 所 評 議 員。 柳 田 国 男 と と も に、 わ が 国 方 言 学 界 の 指 導 者 の ひ と り で あ る。著書に「大日本方言地図(附国語の方言区画) 」 「方言と方言学」 「全 国方言辞典」 「日本方言学」などがある。これらはわが国方言学の最高 5. の水準を示すものである。. 教師用指導書において、操の著作を「わが国方言学の最高の水準を示すもの である」と評価していることに注目したい。指導書の編著者に岩淵悦太郎、林 大の名があることからも首肯できるところである。. 1 14 20 26. 17 18 31 37 43.
(4) 教材「かみなりさま談義」考(1). 大正2 一九一三 大正4 一九一五 大正5 一九一六 大正 一九二三. 9月、東京帝国大学大学院入学。 月、東京帝国大学文科大学助手。. 静岡県下の方言調査を行う。. 昭和7 一九三二 昭和8 一九三三 昭和9 一九三四 昭和. 一九三七 昭和. 一九三八. 昭和. 一九四〇. 方言区画論は方言学理念の中核となる。後来の著述の度. ごとに、区画図がさまざまに修正されながら深化された形. 昭和. 6月、 『方言採集手帖』 (郷土研究社). 5月、広島高等師範学校教授。 中国地方の方言調査を行う。藤原与一を初めとして、多. 一九四一 昭和. 一九四四. 一九四五. 昭和 8月、 『簡約方言手帖』 (郷土研究社) 9. 昭和. 7月、 『南島方言資料』 (増補版) (刀江書院). くの方言研究者を学界に送り出す。. . 8. となって載せられている。. . 国語調査委員会廃止後、個人的に整理したもの他による。. 3月、 『大日本方言地図、国語の方言区画』 (育英書院). . 3月、静岡高等学校教授。. 8月、 『南島方言資料』 (宏徳会). 8月、文部省国語調査嘱託。. 5月、神田惣平二女とき子と結婚。. 12 9月、柳田国男、橋本進吉などと雑誌『方言』刊行。. 一九四六. 8月、学習院教授。. 関東地方の方言調査を行う。. 月、『方言学概説』(『国語科学講座』所収 明治書院) . 4月、『本州東部の方言―関東方言』 (『国語科学講座』所収 明治書院). 5月、『国語学新講』(刀江書院). 4月、橋本進吉の招きで東京帝国大学文学部講師。方言学. 最も円熟した時期であり、柴田 武など幾人かの方言研究. を講義。 . 者を育成した。. 6月、『方言と方言学』(春陽堂). 月、東洋大学教授。. 8月、『方言と方言学』(増訂版)(春陽堂). 以後、自由な立場で、多くの後進を誘掖する。. 8月、学習院定年退職。. 3月、国語学会理事。. 1月、『物類称呼』校訂(岩波文庫). 所を長崎東町の自宅におく。. (のち、国語学会に統合)事務 日 本 方 言 学 会 創 立 に 尽 力。. 11. 大正 一九二四 昭和2 一九二七. 昭和3 一九二八 昭和4 一九二九. 昭和5 一九三〇 昭和6 一九三一. 9月、学習院講師。. -3-. 12. 10. 48 49 50 53 54 56 57 60 61 62. 12 13 15 16 19 20 21. 29 31 32 39 40 43 44 45 46 47. 12 13.
(5) 佐 野 比呂己. 昭和 一九四八 昭和 一九四九. 昭和 一九五〇. 5月、 『新修国語学史』 (星野書店). 昭和 一九六一. 一九六二. 昭和. 地方言語研究室の研究活動を支援する。 昭和. 2月、国立国語研究所評議員。. 3月、学習院大学教授・東洋大学講師。 月、 『方言の研究』 (刀江書院). 7月、 『方言採集手帖』 (刀江書院). 4月、平山輝男の招きにより都立大学講師。 9月、 『国語学新講』 (改修版) (筑摩書房) 月、 『全国方言辞典』 (東京堂). 大岩正仲. の協力による。. 7月、 『方言と国語教育』 (文部省). 一九六四 昭和. 一九六五 昭和. 1月、『方言学講座』監修(東京堂). 8月4日、妻・とき子死去。. 月、 『日本の方言区画』(監修・東京堂). 4月、勲三等旭日中授章受章。. 日、死去 。. 9月、 『国語の方言区画』(私家版・未配布) 月. . 『全国方言辞典』の索引と増補を兼ねる。大岩正仲の協力. 左手で字を書く練習をし、 以後左手で執筆を続ける。 きず、. 1月、脳軟化症のために右上半身麻痺。右手を使うことがで. 中心的テーマは、全国的な方言区画論である。学風は中正、穏健で広く. 調査、資料をもとに、体系的な「方言学」を樹立した第一人者で、その. 従来趣味的に扱われる傾向にあった方言について、全国的、組織的な. による。. 国語学会名誉会員。. 8月、 『最近の国語学と方言学』 (筑摩書房). 操の学問に対する姿勢は、藤原与一の解説が詳しい。. ベルの研究を奨励し、昭和期方言学隆盛の基礎を作った。. 支持され、先端的研究を推進、指導する一方、各地研究者のあらゆるレ. 月、 『方言学の話』 (明治書院). 月、黄綬褒章受章。. 9月、 『日本方言区画掛図』 (監修・日本地図教材社). 担当は、国語学者の加藤正信である。. 事典』 (明治書院 平成十九年(二〇〇七)一月)の「東条操」の項目がある。. 操への評価はどうだったのだろうか。最近の評価としては、『日本語学研究. 3 東条操への評価. 一九六六. 77. 月、 『標準語引分類方言辞典』 (東京堂). 月、 『日本方言学』編著(吉川弘文館). 11. 昭和 一九五一. 昭和 一九五三 昭和 一九五四. 昭和 一九五五 昭和 一九五六 昭和 一九五七 昭和. 一九六〇. 18. 36 37 39. 78 80 81 82. 11. 12. 11. 40. 氏の一生は、まさに方言研究の一生である。実地踏査に出むくことは. 11. -4-. 11. 41. 12 12 12. 12. 11. 12. 64 65 66 67 69 70 71 72 73 76. 23 24 25 26 28 29 30 31 32 35.
(6) 教材「かみなりさま談義」考(1). . 予見には、今日も人の目を見はらしめるものがある。氏は、わが国の方. な頭脳をもって、よく、日本語方言の全国状態を察知した。その温雅な. 稀であったが、つねに全国諸地方の新旧の方言文献に目をさらし、明敏. 言学の母」と評することもうなずけるところである。. 影響を及ぼしたことがうかがえる。岩淵が「慈母的存在」と評し、柴田武が「方. 操が指導的立場にあり、日本方言学会等の中心として各地の研究家にひろく. 言研究史の近代を開拓して功が大であった、と言える。中央 地 ・方、全 国各地の方言研究者にとって、氏は慈母的な存在であったとも言える。. 日本における方言学の確立に功績があり、主に各地の方言文献を基に全国に. わたっての研究を行い、日本の方言の学問的研究を体系化した。その学問の中. 4 東条操と文学 . 年譜にも記した通り、操の父は狂歌の宗匠村松秀茂である。操は、父につい. て、幼い頃の文学とのふれあいについて次のように記している。. 父の村松秀茂は趣味の広い人で、文学を嗜み大槻如電、幸堂得知、永. 井素岳などという人達と親交があり、本町側狂歌の判者としては文の屋. このことについて、岩淵悦太郎は次のように述べている。. り蔵にあったので、八犬伝や田舎源氏は小学生の頃からの愛読書であっ. に至る。. . た。. れは、直接、教室で先生に教えていただいたものだけではない。方言に. ば、「歌舞伎好きは大変なもの」であったそうである。. 源氏物語に魅力を感じ、近松と泉鏡花に熱中したというし、岩淵悦太郎によれ. 加えて、操が第一高等学校の生徒であった時代には、菊池寿人教授の課外の. 志すものは、すべて、先生の指導を受けるために先生の門をたたいたの. 大正十三年(一九二四)三月、操は旧制静岡高等学校に勤めることになる。. ある時、先生は教室で、(中略)ある作品を朗読して聞かせて下さっ. とがあったという。. ようである。「文学者というイメージ」を持つにあたって、次のようなできご. て操は「言語学者というよりも、むしろ文学者というイメージ」を持っていた. 個人的に操のもとで「万葉集」の講読にも参加したというのである。岩淵にとっ. 近松作品、「大鏡」、「源氏物語」などの講読の講義を操から受けたという。また、. 当時の教え子には岩淵がいる。岩淵によれば、「国語概説」の講義や「奥の細道」、. 22. 先生の周辺には、常に多くの方言研究者が集っていた。師事した。そ. 22. 者を育てている。. を名乗っていた。こんな父の好みから、和学書の外、丸本や草双紙かな. . また、藤原が操を「慈母的な存在」であったと評するように、多くの方言学. 核は方言区画論であった。方言区画論はその後改訂され、今日なお使用される. 11. 11. だ。東條先生という一人の方言学者が出たことが、その後の日本の方言 研究を大きく動かしたことになる。. 同様に藤原は次のように述べている。 先生は、全国各地に、その地域の研究にはげむ研究者を育成されまし. 22. -5-. 11. た。その数が大数にのぼります。多くの研究者が、等しく先生をお慕い したことは言うまでもありません。. 22. 11 11.
(7) 佐 野 比呂己. たことがある。先生の語調にふと何か異様なものを感じて顔をあげて見 ると、先生は涙を浮かべて読んでおられるのであった。一見静かな先生. 5 東条操の性格 . の態度の奥底に、文学青年のような情熱がひそんでいたようである。. 22. は、旧制高校時代、自分の将来について父・京助に次のような相 金田一春彦 談をしたことがあるという。. 「ぼくは学者になってもいいけれど、お父さんのようなお金の心配を. 1 大藤時彦「柳田先生と国語教育」(『教室の窓』第十一巻第十号 東京教育. 研究所 昭和三十七年(一九六二)十月 七頁). 2 教材としての「浅春随筆」について考察を試みたことがある。本稿と合わ せてご参照いただければ幸いである。. 「教材「浅春随筆」考」 ( 『釧路論集』第三十九号 北海道教育大学釧. 路校 平成十九年(二〇〇七)十一月 一―一三頁). 教材としての「大蛇・小蛇」について考察を試みたことがある。本稿と合 . 3. わせてご参照いただければ幸いである。. 一―一一頁). . 平成二十年(二〇〇八)十一月 . 「教材「大蛇・小蛇」考(1)」 (『釧路論集』第四十号 北海道教育大 学釧路校 . 「教材「大蛇・小蛇」考(2) 」 ( 『北海道教育大学紀要(教育科学編) 』. しなければならない学者にはなりたくない、誰かお手本になる人はいな いでしょうか。 」父は私の顔をまじまじと見つめていたが、「そうだな。. 第五十九巻第二号 平成二十一年(二〇〇九)二月 一―一六頁) 4 二二頁頭注. 東条操君がいい。あの人は私とちがって言語学科へ進まず国文科に進ん だから、大学を出てもすぐ就職出来た。静岡の高校の先生をやっていた. 5 「国語」研究会『「国語」指導の研究 高等学校一年 全』(東京書籍 昭 . 和三十二年(一九五七) 一八頁) . が、この間広島の大学へ移った。今にきっと引っ張られて東京に出て来 るだろう。あの人は特に才のある人ではないが、まじめな勉強家で人の 本もよく読む。性質が謙虚で人柄もいいから、誰とでも円満につきあっ. 幕末・大正時代の狂歌師。文廼屋秀茂。天保十四年(一八四三)江戸日. 6 村松秀茂 むらまつひでしげ 一八四三―一九二三 天保十四―大正十二. 本 橋 室 町 の 酒 屋 石 関 家 の 生 ま れ。 い う と 結 婚、 三 代 目 三 河 屋 重 八 を な の っ. ている。上田万年先生に特に可愛がられているから、あの人をお手本に 」 するといい。. たが、たまたま豪商糸平の知遇を得て操出生時は田中銀行に勤めていた。. た。維新後酒店を閉じ、名も操、後に秀茂と改める。信濃の会計吏となっ 」がないというから、京助 藤原によれば「先生のおはらだちに際会したこと. 性文筆を嗜み狂歌を一生の楽しみとし本町側判者として文廼屋を号した。. 「文廼屋秀茂」『日本人名大辞典』 (上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・. 三浦朱門監修 講談社 平成十三年(二〇〇一)十二月). 上田万年 うえだかずとし 一八六七―一九三七 慶応三―昭和十二 . が評するように「誰とでも円満につきあって」いける人物であったことがうか. 7. その後、上野伊香保温泉で旅館をいとなむ。大正十二年(一九二三)八月. 注. がえる。加えて、徳川宗賢は「慈愛に満ちた、しかも芯の強い、優れた研究者・. . 十七日死去。八十一歳。通称は熊次郎。別号に看森堂、香山人。. 22. 教育者」であったとしている。操の温厚な人柄がうかがえるところである。. 22. 22. -6-. 22.
(8) 教材「かみなりさま談義」考(1). 転じた。明治二十三年(一八九〇) 、さらに言語学を深く研究するため渡. チェンバレンに師事して、この師から言語学の手ほどきをうけ、国語学に. こ と に 演 劇 学 を 志 望 し た が、 の ち に、 当 時 大 学 の 講 師 で あ っ た B・ H・. 月卒業、大学院に進み英語学授業嘱託となった。はじめ近世文学のうち、. 学予備門を経て帝国大学文科大学和文学科を明治二十一年(一八八八)七. 日江戸大久保の名古屋藩下屋敷に生まれた。父は虎之丞、母はいね子。大. 明 治 か ら 昭 和 時 代 に か け て の 国 語 学 者。 慶 応 三 年( 一 八 六 七 ) 正 月 七. どがある。作家円地文子は娘。. 著『大日本国語辞典』(冨山房 大正四~大正八年(一九一五―一九)な. 学の十講』(通俗大學會 大正五年(一九一六)六月)や、松井簡治の共 . 明治二十八年(一八九五)六月、明治三十六年(一九〇三)六月) 、『国語. 後進を育てた功ははなはだ大きい。著書に『国語のため』全二巻(冨山房. きない学者である。自身の学問的業績は多くないが、よく学問を鼓吹し、. 近代 的な 学問 の啓蒙 時代 を築 いた偉 大な 人物の 一人 として 忘れ るこ とので. 誘掖など、その指導的な役割は大きなものがあった。明治における日本の. 「上田万年博士追悼録」 『国語と国文学』第十四巻第十二号 東京大学 . 欧し,当時言語学の本場であったドイツで,ブルークマンやオストホフら の一流学者のもとに学んだ。明治二十七年(一八九四)帰国し、帝国大学. 國語國文學會 昭和十二年(一九三七)十二月 . 上田万年講述、新村出筆録、古田東朔校訂『上田万年 国語学史』 (シ. . 文 科 大 学 内 に 初 め て 国 語 研 究 室 を 設 け た。 ま た、 国 語 調 査 委 員 会 の 設 置. リーズ名講義ノート)教育出版 昭和五十九年(一九八四)二月. 教授に任ぜられ、博言学の講座をうけもった。明治三十一年(一八九八). ( 明 治 三 十 四 年( 一 九 〇 〇 ) 。 の ち に 国 語 審 議 会 に 改 組〈 昭 和 二 十 四 年. 語学の生みの親というべき人である。それまでの国学者の研究に対し、西. に拠って、近代科学としての日本語研究を国語学として確立し、現代の国. 都港区南青山)の竜泉寺に葬られる。ドイツ留学によって得た印欧言語学. 十二年(一九三七)十月二十六日没した。七十一歳。東京府赤坂区(東京. 学長その他の位置にあって、教育界・学界の長老として仰がれたが、昭和. 授を退官して名誉教授の称号を受けた。日本音声学協会会長・国学院大学. 三十二年(一八九九)文学博士となり、昭和二年(一九二七)東京帝大教. 国語調査委員会会長として教育家・国語政策推進者として活動した。明治. 9 橋本進吉 はしもとしんきち 一八八二―一九四五 明治十五―昭和二十. (『日本人名大辞典』). 堂出版 平成八年(一九九六)七月―平成十四年(二〇〇二)九月)など。. 『昭和日本語方言の総合的研究』(春陽堂書店)『日本語方言辞書』(東京. 作に『瀬戸内海言語図巻』 (東京大学出版会 昭和四十九年(一九七四))、. 月二十三日死去。九十八歳。愛媛県出身。広島文理大(現広島大)卒。著. とづき、現代の生活のなかの方言を考察した。平成十九年(二〇〇七)十. 広島方言研究所を主宰。専門は日本語方言学。日本各地での実地調査にも. 昭和二十四年(一九四九)広島大教授、昭和四十七年(一九七二)退官して、. 8 藤原与一 ふじわらよいち 一九〇九―二〇〇七 明治四十二―平成十九. ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく日本語. 明 治 後 期 か ら 昭 和 時 代 前 期 に か け て の 国 語 学 者。 明 治 十 五 年. (一九四九〉 )に尽力して、国語政策、国語調査にかかわる。文部省専門. の系統論、国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、国語. (一八八二)十二月二十四日、福井県敦賀郡敦賀町晴明(敦賀市相生町). 昭和、平成時代の国語学者。明治四十二年(一九〇九)一月六日生まれ。. の研究・調査の指導・促進と、国語政策の啓蒙に実績が多かった。「国語」. に橋本謙吉・さわの長男として生まれた。代々の医家であったが、五歳に. 学務局長、国語調査委員会主査委員、文科大学学長、神宮皇学館長、臨時. という用語の定立、国語研究室の創設・充実、国語調査委員会での後進の. -7-.
(9) 佐 野 比呂己. をついで国語学科の主任教授となり、昭和十八年(一九四三)停年退官。. (一九二七)文学部助教授、昭和四年(一九二九)教授、上田万年のあと. 年 教 授 の も と で 東 京 帝 国 大 学 国 語 研 究 室 に お い て 助 手 を 勤 め、 昭 和 二 年. な る。 明 治 四 十 二 年( 一 九 〇 九 ) よ り 昭 和 二 年( 一 九 二 七 ) ま で 上 田 万. 法研究をもって学者としての道を歩み出した。国語調査委員会補助委員と. 国大学文科大学言語学科を卒業。卒業論文では係り結びをテーマにし、文. して父を失った。第三高等学校を経て、明治三十九年(一九〇六)東京帝. た。それによって品詞・活用・接続・構文などに新見を披瀝した。この説. 位は、理解が容易であり、その整然たる文法体系は特に教育界に歓迎され. 体系をたて、学界 教 ・育界に大きな影響を与えた。文節という文法上の単. 的側面を重視した文の構成要素としての「文節論」を展開し、新しい文法. (一九三一))によって世に橋本文法として知られる。文および語の外形. 学 校 の 文 法 教 科 書 と し て 著 さ れ た『 新 文 典 初 年 級 用 』 (冨山房 昭和六年 . 店 昭和二十六年(一九五一)十月)など)一方、その文法理論は、中等. 、『上代語の研究』岩波書 (岩波書店 昭和四十一年(一九六六)一月). かがわれるように、厳密な文献批判に基づき、慎重かつ徹底した研究態度. その研究は国語学のほとんどの領域に及ぶ。国語学の音韻史・文法論をは. によって公にされた論述は精緻を極める。古文献の紹介、校定、刊行など. の大綱は、のちに文部省編の国定教科書に採用され、現在に至るまで、高. 刊行会編 岩波書店 昭和二十一―五十八年(一九四六―八三))として、 . じめとする諸分野について、多数の画期的な業績を挙げ、実証・理論にわ. 網羅刊行され、著書、論文、講義案はほぼ収められている。音韻史の研究. にも尽力し、 『校本万葉集』、 『南京遺文』(大正十年(一九二一)十月) 、 『契. 等 学 校 以 下 の 教 科 文 法 の 中 枢 を 成 し て い る。 た だ、 教 科 書 と い う 制 約 上、. で、いわゆる上代特殊仮名遣いを解明し,上代語研究に大きく貢献した。. 沖全集』 (朝日新聞社 大正十五年(一九二六)一月―昭和二年(一九二七). たって、爾後の国語学発展の基礎を築き、多くの優秀な国語学者を養成し. まず上代の国語を表記した文献を精査して、キ・ケ・コ以下十三類の仮名. 十 一 月 な ど の 編 纂 を 主 宰 ま た は 共 編 し、 さ ら に 古 典 保 存 会 に よ る 古 書 複 製. 橋本自身の学説と同一ではない。その文法学説は『国語法要説』(明治書. に甲乙二類の区別あることを実証し、それが上代の音韻の別を反映してい. 事業の功績も大きく、諸文献についての周到な解説などと併せて、その文. た。昭和九年(一九三四) 「文禄元年天草版吉利支丹教義の用語について」. ること、文法体系や語源研究の上にも大きな関係があることを明らかにし. 献 学 的 学 識 の 深 さ が 窺 わ れ る。 ま た、 契 沖 そ の 他 の 語 学 関 係 の 学 僧・ 学 者. 院 昭和九年(一九三四)十二月)などに示されている。 『校本万葉集』 (共. た。奈良時代の音韻だけでなく、文法、語義などの研究をも飛躍的に進歩. などについての伝記研究に、非凡な業績が挙げられていることも見逃せな. によって文学博士の学位を授与された。また、昭和十九年(一九四四)に. さ せ た。 天 草 版「 ど ち り な き り し た ん 」 に お け る 日 本 語 ロ ー マ 字 表 記 に. い。総じて、橋本は、明治以後における国語学・文献学の分野の中で、最. 編 岩波書店 昭和六―七年(一九三一―一九三二))、『古本節用集の研. よって室町時代末、江戸時代初めの音韻組織の再建を試みた。さらに、悉. も傑出した学者であって、その所論の大部分は学界の定説となり、その実. は、全国的規模の「国語学会」を創立し、会長の任にあたった。その国語. 曇、韻学の研究成果を踏まえて、平安時代の文献を渉猟して、音韻史の資. 証的、論理的な研究方法は、爾後の学界の指針・基礎となって今日に及ん. 究』(共著 東京帝國大學 大正五年(一九一六)三月)にその一端がう . 料を求め、上代から近代に至る国語音韻史の全体像を闡明した。(『国語音. で お り、 そ の 影 響 は 計 り 知 れ な い も の が あ る。 昭 和 二 十 年( 一 九 四 五 ). 学上の業績は、没後『橋本進吉博士著作集』全十二巻(橋本進吉博士著作. 韻の研究』 (岩波書店 昭和二十五年(一九五〇)八月)、『国語音韻史』. -8-.
(10) 教材「かみなりさま談義」考(1). な 著 作 に『 文 禄 元 年 天 草 版 吉 利 支 丹 教 義 の 研 究 』 ( 東 洋 文 庫 昭 和 三 年. 一 月 三 十 日 没。 六 十 四 歳。 墓 は 敦 賀 市 松 島 二 丁 目 の 来 迎 寺 に あ る。 お も. 治書院 昭和五十四年(一九七九)二月)など。 (『日本人名大辞典』). 三十二年(一九五七)六月) 、編著に『全国方言基礎語彙の研究序説』(明. 九十六歳。鹿児島県出身。著作に『日本語音調の研究』(明治書院 昭和. 大 岩 正 仲 お お い わ ま さ な か 一 九 〇 九 ― 一 九 七 二 明 治 四 十 二 ― 昭 和. (一九二八) 、 『国語学概論』 (上下巻 岩波書店 昭和七年(一九三二) 十月―昭和八年(一九三三)一月) 、 『古代国語の音韻に就いて』(神祇院 昭和十六年(一九四一)三月)などがある。 橋本進吉博士還暦記念会編『国語学論集 橋本進吉博士還暦記念』岩 波書店 昭和十九年(一九四四)十月. 柴田武 しばたたけし 一九一八―二〇〇七 大正七―平成十九 昭和後期―平成時代の言語学者、国語学者。大正七年(一九一八)七月. 十四日生まれ。国立国語研究所所員、東京外大教授をへて、昭和四十三年 (一九六八) 東大教授。昭和五十四年 (一九七九) 埼玉大教授。日本方言学、 社会言語学、地名学など幅ひろい分野を研究し、言語地理学の研究は国際 的にも注目された。平成十九年(二〇〇七)七月十二日死去。八十八歳。 愛知県出身。東京帝大卒。文学博士 (東京大学)(昭和四十四年(一九六九))。 著作に「糸魚川言語地図」 (秋山書店 昭和六十三年―平成七年(一九八八 ―九五) ) 、「日本の方言」 (岩波書店 昭和三十三年(一九五八)四月)など。 ( 『日本人名大辞典』) 平山輝男 ひらやまてるお 一九〇九―二〇〇五 明治四十二―平成十七 昭和、平成時代の国語学者。明治四十二年(一九〇九)八月十六日生ま れ。昭和三十七年(一九六二)都立大教授、のち母校国学院大の日本文化 研究所教授。日本音声学会会長などをつとめた。全国四千ヵ所以上の地域 で方言のアクセントの実態調査をおこない体系化をすすめた。平成二年 (一九九〇)文化功労者。平成六年(一九九四) 『現代日本語方言大辞典』 (共編 明治書院 平成四年(一九九二)三月―平成六年(一九九四)六 月)で毎日出版文化賞特別賞。平成十七年(二〇〇五)八月十七日死去。. 12 四十七. 昭和の国語学者。方言研究者。明治四十二年(一九〇九)一月十六日、. 東京・芝に生まれる。昭和六年(一九三一)東京外国語学校独逸語学科卒. 業。 昭 和 十 六 年( 一 九 四 一 ) 京 城 帝 国 大 学 法 文 学 部 文 学 科 卒 業。 時 枝 誠. 記、 小 林 英 夫 よ り 薫 陶 を 受 け る。 同 年 朝 鮮 公 立 高 等 女 学 校、 昭 和 十 七 年. (一九四二)徳島県立徳島中学校教諭を経て、昭和十八年(一九四三)海. 軍予科士官学校教官。戦後、昭和二十年(一九四五)東洋大学講師、昭和. 二十二年(一九四七)千葉師範学校教授を務め、昭和二十四年(一九四九). 千 葉 大 学 へ、 文 理 学 部、 人 文 学 部 教 授 を 務 め る。 在 職 中 の 昭 和 四 十 七 年. ( 一 九 七 二 ) 六 月 十 九 日 肺 性 心 の た め 死 去。 六 十 三 歳。 言 語 音 韻 関 係、. 文 法 関 係、 国 語 史 関 係、 方 言 関 係、 国 語 問 題 関 係 の 論 文 を 数 多 く 残 す。. 著書には『文語文法概要』 (東京堂 昭和三十四年(一九五九))がある。. . . 小学館. 昭 和 五 十 一 年( 一 九 七 六 ) 三. 『 全 国 方 言 辞 典 』、 『標準語引分類方言辞典』を東条操に協力して発刊し たことでも知られる。 『日本国語大辞典』(全二十巻. 月 ) 最 終 巻 の「 編 集 後 記 」 の「 方 言 」 の 項 に 倉 島 長 正 に よ る 次 の よ う な 記述がある。. 方言、約四万の原稿は、故大岩正仲氏が全部執筆された。そして、. それは、完全原稿とでもいうべき内容のものであったが、(中略). なお、ここに方言原稿の完成するまでの経緯を述べておきたい。 「大. 辞 典 」 の 方 言 項 目、「 全 国 方 言 辞 典 」「 分 類 方 言 辞 典 」 な ど を 手 が け. ら れ た 大 岩 氏 は、 夙 に 方 言 大 辞 典 と で も 呼 ぶ べ き 畢 生 の 大 著 を 計 画. -9-. 10 11.
(11) 佐 野 比呂己. が 検 討 さ れ、 四 十 一 年 か ら 四 十 四 年 に か け て、 約 四 万 項 目 を 全 く お. 合わせて資料の充実をはかる計画を立てられた。 (中略)執筆方法等. の計画をお話すると、その方言項目の執筆を全面的に引き受けられ、. されて、資料集めにかかっておられた。そして、 「日本国語大辞典」. 徳川宗賢「大岩正仲先生を偲ぶ」 『語文論叢』第二号 千葉大学人文. 部国語国文学会 昭和四十八年(一九七三)三月 九二―九三頁. 荻原浅男「大岩教授の思い出」『語文論叢』第二号 千葉大学人文学. 遺志を継承しようと決心したのは十余年前のことである。. 昭和四十八年(一九七三)三月 九四―九七頁 . 学部国語国文学会. 「大岩正仲教授略年譜、主要論文・著作目録」『千葉大学人文研究』第. . 典 の 方 言 原 稿 が 他 の す べ て の 分 野 に さ き が け て 完 成 さ れ た 頃 に は、. 三号 千葉大学人文学部 昭和四十九年(一九七四)三月 五八―. 一 人 で 執 筆 さ れ る 一 方、 資 料 の 補 充 に 力 を 注 が れ た。 そ し て、 当 辞. お 手 元 の 資 料 カ ー ド も か な り な も の に な り、 い よ い よ 方 言 大 辞 典 の. (『国語学』 大岩正仲「方言」 (・ 年における国語学界の展望(特集)). と思えばかえって慰めになる。. 早呑込みしていらっしゃったのは、安らかな往生の因縁ともなったも. を喜んでいて下さったが、日本言語地図の校正刷を見て実物の完成と. う で あ る。 (稿者注…大岩が担当)方言辞典も順調に進捗しているの. れた。病床で念頭にあったものは方言辞典と日本言語地図とだったよ. だけ、御元気な頃には多少あった俗念も消え失せて全く純化して居ら. 晩年は寝たきりで何もできなかったが、お邪魔すれば話は方言の事. 大岩正仲は操の最晩年の様子を次のように述べている。. 六〇頁. あ る。 然 る に、 そ の 執 筆 に か か ろ う と さ れ た 時、 不 運 に も 病 に 臥 せ ら れ て し ま っ た。 昭 和 四 十 七 年 六 月 十 九 日、 帰 ら ぬ 人 と な ら れ た 大 岩 氏 の 書 斎 に は、 膨 大 な 方 言 資 料 が 残 さ れ た の だ っ た。 こ の 辞 典 の 原 稿 執 筆 の た め に、 ご 自 身 の 大 著 に 着 手 さ れ る の が 遅 れ た の で は な か ろ う か と い う 責 め を 感 ず る と と も に、 こ の 辞 典 の 第 一 巻 を す ら ひ もといていただけなかったことが悔やまれてならない。 (一〇頁) 大岩の残した膨大な方言資料は、徳川宗賢らに引き継がれ、『日本方言 大辞典』 (全三巻 小学館 平成一年(一九八九)三月)の発刊につながっ ていった。徳川は、 『日本方言大辞典』の「はじめに」で次のように述べ ている。 この辞典は、諸先輩の残された千を超える各地の方言集を参考にし て成った。その基礎となったものは、故大岩正仲教授の収集された方 言カードである。大岩教授は 『全国方言辞典』(東条操編、東京堂出版、 一九五一年) に深くかかわってこられた。さらにその前後に『大辞典』 (平凡社、一九三五年) 、 『日本国語大辞典』 (小学館 一九七六年) という二大国語辞典の方言項目の執筆にあたられた。教授はこれらを もとに大方言辞典を計画しておられたのであったが、不幸にして、志 なかばに不帰の客となってしまわれたのである。おもえば不肖私がご. 『国語学大事典』東京堂出版 昭和五十五年(一九八〇) 藤原与一「東条操」. 一月. 『日本語学研究事典』明治書院 平成十九年(二〇〇七) 加藤正信「東条操」. 第七十三集 国語学会 昭和四十三年(一九六八)六月 七三頁. 41 42. 九月. 『 国 語 学 』 第 六 十 九 集 国 語 学 会 昭 岩淵悦太郎「東條操先生の思い出」. 和四十二年(一九六七)六月 八頁. 藤原与一「東條先生の思い出~共時論的素描~」『東条操著作集 第5巻. 別巻』徳川宗賢編 ゆまに書房 平成九年(一九九七)七月 二〇七頁 . - 10 -. 執 筆 に か か ら れ る た め、 特 別 の 原 稿 用 紙 も お 作 り に な ら れ た よ う で 13. 14. 15. 16. 17.
(12) 教材「かみなりさま談義」考(1). 国 文 学 者。 元 治 一 年( 一 八 六 四 ) 十 月 二 十 日 盛 岡 生 ま れ。 東 京 大 学 予. 菊池寿人 きくちひさと 一八六四―一九四二 元治一―昭和十七 . 備門を経て明治二十三年(一八九〇)東京帝国大学文科大学国文学科に入 学。正岡子規と和歌を競う。明治二十六年(一八九三)大学を卒業、同時 に大学院に進む。明治二十九年(一八九六)大学院を修了し、陸軍東京中 央幼年学校教授。明治三十一年(一八九一)第一高等学校国文科教授、明 治三十三年(一九〇〇)主任教授となる。大正八年(一九一九)校長に就任。 大正十三年 (一九二四) 校長を退官 (講師として在職) 。昭和八年(一九三三) 講師を辞任。昭和十七年(一九四二)九月三十日逝去。七十九歳。主著に. 野菊と旅と一高と』紫波町 菊池寿人先生 . 『万葉集精考』 (中興館 昭和十年(一九三五)七月)がある。 藤井茂『菊池寿人の生涯. いわぶちえつたろう 一九〇五―一九七八 明治三十八―昭和. 注. 十六. 岩淵悦太郎「東條操先生の思い出」 一頁. 昭和、平成時代の国語学者。大正二年(一九一三)四月三日生まれ。金. 田一京助の長男。名大助教授などをへて昭和三十四年(一九五九)東京外. 大教授。昭和四十九年(一九七四)上智大教授。のち武蔵野女子大、玉川. 大の客員教授。音韻史を専門とし、日本語のアクセントの史的研究をすす. めた。邦楽、童謡にも造詣がふかく、昭和五十八年(一九八三) 『十五夜. お月さん―本居長世人と作品』(三省堂 昭和五十七年(一九八二)十二 . 月 ) で 毎 日 出 版 文 化 賞。 平 成 九 年( 一 九 九 七 ) 文 化 功 労 者。 平 成 十 六 年. (二〇〇四)五月十九日死去。九十一才。東京出身。東京帝大卒。著作に. 『日本語』(岩波新書 昭和三十二年(一九五七)一月)、『日本語音韻の. 研究』(東京堂出版 昭和四十二年(一九六七)三月)、 『平曲考』(三省堂. 平成九年(一九九七)五月)など。(『日本人名大辞典』). ―一九九九 昭和五―平成十一. 藤原与一「東條先生の思い出~共時論的素描~」 二〇七頁. 川宗賢編 ゆまに書房 平成九年(一九九七)七月 二一〇―二一一頁. 金田一春彦「東条先生に学んだこと」『東条操著作集 第5巻 別巻』徳. . 昭和五十三年(一九七八)五月)、『日本の方言地図』(中公新書 昭和 . 六月六日逝去。主な編著書に『日本人の方言』(筑摩書房 言語生活叢書. 授。国語学会代表理事。第二十一期国語審議会委員。平成十一年(一九九九). 程修了。大阪大学文学部教授を経て学習院大学文学部日本語日本文学科教. 文 学 科 国 文 学 専 攻 卒 業。 学 習 院 大 学 大 学 院 人 文 科 学 研 究 科 国 文 学 修 士 課. 家十代当主(伯爵家)徳川達成の次男として生まれる。学習院大学文学部. 学者。学位は文学博士。日本語の方言研究の第一人者であった。田安徳川. 昭和五年(一九三〇)十一月二十七日、東京府生まれ。言語学者・国語. 徳川宗賢 とくがわむねまさ 一九三〇. 注. 26. 27. 伝記刊行会 昭和五十九年(一九八四)七月 岩淵悦太郎 五十三 昭和時代の国語学者。明治三十八年(一九〇五)十二月十四日生まれ。 一高教授などをへて国立国語研究所にはいり、昭和三十五年(一九六〇) 所長。国語学会代表理事、国語審議会委員などをつとめる。現代語の科学 的研究、当用漢字表の改革などにつくした。昭和五十三年(一九七八)五 月十九日死去。七十二才。福島県出身。東京帝大卒。著作に『現代日本語 ―ことばの正しさとは何か』 (筑摩書房 昭和四十五年一月)『語源散策』. 岩淵悦太郎「東條操先生の思い出」 一頁 . 岩淵悦太郎「東條操先生の思い出」 二頁. (毎日新聞社 昭和四十九年(一九七四)十月)など。 ( 『日本人名大辞典』). 注. 注 . 16. 17. 『国史大辞典』吉川弘文館 平成一年(一九八九)九月 柴田武「東条操」 24. 金 田 一 春 彦 き ん だ い ち は る ひ こ 一 九 一 三 ― 二 〇 〇 四 大 正 二 ― 平 成. 『方言の研究』刀江書院 昭和二十四年(一九四九) 東条操「方言と私」 25. 16. 28. 十二月 二〇六頁. 18. 16. - 11 -. 19. 20. 21. 22. 23.
(13) 教材「かみなりさま談義」考(1). 五十四年(一九七九)三月)がある。妻の徳川陽子は物理学者。娘の松方 冬子は日本史学者。. . 平成十一年(一九九九)十二月. 一一―一六頁 . 真田真治「徳川宗賢博士年譜および著述目録」 『国語学』第一九九号 国語学会. 23531235)による成果の一部である。. - 12 -. ※尚、引用に際し、旧字については、適宜新字に改めた。. ※本稿は、科研費・基盤研究 (C).
(14) 教材「かみなりさま談義」考(1). - 13 -.
(15) 教材「かみなりさま談義」考(1). - 14 -.
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