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中国・ビルマの国交樹立について

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(1)

中 国 ・.ビル マ の 国 交 樹 立 に つ い て

、丸 山.鋼 二

The Establishment

of the Diplomatic

Relationship

Between

China and Burma

Koji MARUYAMA

Abstract

China and Burma have been in a friendly diplomatic relaitonship. When PRC was built in 1949, Burma was one of the earlist non-socialist countries that recognized the establishment of the goverment. And China sent the first ambassador to Burma in August 1950, when China sent the ambassadors to Eastern European socialist countries. Premier Zhou Enlai has visited Burma for 9 times,and Ne Win,the top leader of Burma,has visited China for 12 times. Burma, as a neiboring country, is very important for China's diplomacy in Asia. When the border problem was solved peacefully in 1960, the friendship between the two countries was largely improved, which has been maintained until now.

・目 次 は ・じめ に 1。 中 国 外 交 に 占め る ビ ル マの 重 要 性 广 2.改 革 開放 以 後 の 中 緬 関 係 3.建 国 初 期 の 中・国 外 交 関 係 4.中 国 ・ビル マ 国 交樹 立 に至 る ま で 5.1950年 代 の 中緬 関 係 は じ め'に 広 大 な 国 土 を 有 す る 中 国 は 多 く の 国 家 ・:地域 と 陸 上 ・海 上 の 国 境 を 有 し て い る 。 陸 上 で は 、 北 朝 鮮 、 ロ シ ア 、 モ ソ ゴ ル 、 カ ザ フ ス タ ソ 、 キ ル ギ ス タ ソ 、 タ ジ キ ス タ ソ 、 ア ラ ガ ニ ス タ ソ 、 パ キ ス タ ソ 、』イ ソ ド、 ネ パ ー ル 、 シ ッキ ム(1965年 イ ソ ドに 併 合)、 ブ ー タ ソ 、 ビ ル マ(ミ ャ ソ マ ー)、 ラ オ ス 、 べ トナ ム 、 香 港(英 領 植 民 地 、1997年 中 国 に 返 還)の14以 上 の 国 家 ・地 域 と 国 境 を 接 し て い た6海 上 で は 、 北 朝 鮮 、1韓国 、 日 本 、 台 湾 、 フ ィ リ ピ ソ 、 ブ ル ネ イ 、 マ レ ー シ ア 、 イ ソ ドネ シ ア ∼、ベ トナ ム と 水 域 を 接 して い る 。 そ う し た 中 国 に と っ て 、 近 隣 諸 国 と の 関 係 は ま さ に 直 接 的 な 国 際 環 境 で あ る 。 そ れ は 時 に は 、

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米 中 関 係 や米 ソ関 係 と い っ た 厂パ ワ7ポ リテ ィ クス 的 な大 状 況 」 的 国 際 関 係 よ り も重 要 な 厂地 域 的 な小 状 況 」 的 国 際 関 係 で あ る。 と くに東 南 ア ジ ア:諸国 と の外 交 関 係 は次 の3点 にお い て 中 国 に と って 特 別 の意 味 を 持 っ て い た。 第 一 に 、 中 国 と陸 上 の国 境 を接 す る東 南 ア ジ ア諸 国 との 間 に は 、 「植 民 地 支 配 の遺 恨 」 で あ る 国 境 問 題 が横 た わ って い た。 現 在 で は 、 南 シ ナ海 の 南 沙 群 島(ス プ ラ トリー諸 島)の 帰 属 問 題 が 争 点 と な って い る。 第二 に 、 中 国 革 命 の 成 功 と前 後 して 、 東 南 ア ジ アで は共 産 党 に よ る武 装 闘争 が 展 開 され て お り、 そ れ と中 国 と の関 連 が 取 り ざた され て い た こ とで あ る。 第三 に、 東 南 ア ジ ア各 国 に居 住 す る中 国 系 住 民 、 い わ ゆ る華 僑 の 存 在 で あ る。 これ らの 中 国 系 住 民 は しば しば居 住 国 よ り も中 国 に忠 誠 を抱 く存 在 と考 え られ 、 中 国 の 「第 五 列 」 とみ な され て い た。 い まだ に華 僑 問 題 が ク ロー ズ ア ップ され る こ とが あ る。 そ う した 中 に あ って 、 中 国 の対 ア ジ ア外 交 に お い て 、 ビル マ は重 要 な位 置 を 占 め 、 早 期 に 友 好 関係 を 樹 立 す る こ とに 成 功 した模 範 的 事 例 と して 今 日に お い て も しば しば 取 り上 げ られ て い る。 本 稿 は 、 中 華 人 民 共 和 国 建 国 後 の 中緬 外 交 関 係 樹 立 や1950年 代 の 中緬 関 係 を検 討 し、 中 緬 友 好 関 係 が どの よ うに形 成 され た の か を見 よ うとす る もの で あ る。 1.中 国 外 交 に 占 め る ビル マ の 重 要 性 一 般 に 国 家 首 脳 の 外 遊 は 、一度 にい くつ かの国 を同時訪 問す る 「歴訪」型 と特定 の一 力国 のみ を訪 れ る 「単 独 訪 問 」 型 に 分 け られ る。 「単 独 訪 問 」 型 は 「歴 訪 」 型 よ り も特 定 の 国 家 を 重 視 し て い る こと を 意 味 して い る と考 え られ る。 中 華 人 民 共 和 国 の 建 国 か ら改革 開 放 政 策 の 本 格 化 す る ユ980年まで の30年 間 に 、 弔 問外 交 を除 い て 中 国 首 脳 の 単独 訪 問 は 、 わず か に 次 に挙 げ る10例 しか な い(1)。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 1949年12月 一50年2月 、 毛 沢 東 国 家 主 席 ・周 恩 来 首 相 兼 外 相 の ソ連 訪 問 1952年8月 、 周 恩 来 首 相 兼 外 相 の ソ連 訪 問 1958年2月 、 周 恩 来 首 相 の北 朝 鮮 訪 問 1961年1月 、 周 恩 来 首 相 の ビル マ 訪 問 1963年9月 、 劉 少 奇 国 家 主 席 の 北 朝 鮮 訪 問 1964年7月 、 周 恩 来 首 相 の ビル マ 訪 問 1970年3,月 、 周 恩 来 首 相 の ベ トナ ム訪 問 1971年3月 、 周 恩 来 首 相 の ベ トナ ム再 訪 1978年5月 、 華 国 鋒 国家 主 席 の北 朝 鮮 訪 問 1980年5月 、 華 国 鋒=国家 主 席 の 日本 訪 問 こ こ か ら、社 会 主 義 国 の ソ連(2回)・ 北 朝 鮮(3回)・ ベ トナ ム(2回)と と もに 、 ビル マ(2回) が 「儀 典 慣 行 か らみ て異 例 の 厚遇 を受 け る国 で あ り、 中 国 の 対 外 活 動 の な か で極 め て 枢 要 な位 置 を しめ る国 」 で あ っ た こ とを理 解 で き よ う。 中 国 の 対 ア ジ ア ・ア フ リカ外 交 を検 討 した 喜 田 昭 治 郎 は 、 「中 国 の ア ジ ア政 策 とは つ ま る と こ ろ の 『対 ビル マ 政 策 』 で あ る」 と言 明 して い る(2)。 と (1)喜 田昭 治郎 著 『毛 沢東 の 外交 』 法 律文 化 社 、1992年 、59頁 。 (2)前 掲書 『毛 沢 東 の 外交 』90頁 、 注39。

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りわ け 、1950年 代 末 か らの 中 印 国 境 紛 争 に よ って 中 国 の ア ジ ア外 交 に お け る イ γ ドの 戦 略 的 価 値 が低 下 す るに と もな い 、 イ ソ ドネ シ ア と と もに ビル マ の 重 要 性 が高 ま っ た 。 中 国 の 孤 立 化 を 破 る 先 駆 け と な った ジ ュ ネー ブ会 議(1954年)や ア ジ ア ・ア フ リカ会 議(1955年)以 後 、 ビル マ は 中 国 の 対 ア ジ ア政 策 の拠 点 と して 中 国 の 儀 典 慣 行 で も唯 一例 外 的 な扱 い を受 け る 国 とな った 。 周 恩 来 首 相 に よ る2回 の 単 独 訪 問 以 外 に も、 中 国首 脳 陣 は外 遊 時 に 「一 時 逗 留 」 の 名 目で た び 齟 た び ビル マ入 り し、 ビル マ 要 人 と非 公 式 会 談 を頻 繁 に持 って い る。 周 恩 来 首 相 は上 述 の2回 の 単 独 訪 問 を 含 め て 、1954年 か ら65年 ま で の11年 間 に 計9回 ビ ル マ を 訪 問 して い る(1)。 そ の ほ か 、 劉 少 奇 、 宋 慶 齢 、 陳 毅(1964年12月 、外 相 と して 単 独 で 訪 緬)、 郭 沫 若 ら中 国 の 国家 指 導 者 も ビ ル マ を訪 問 して い る。 劉 少 奇 は1959年 の 国 家 主 席 就 任 後 、 国 家 主 席 と して1963年4月 と1966年4 月 の2回 ビル マ を訪 問 して い る。70年 代 に復 活 した都 小 平 副 総 理 や鄒 穎 超 全 人 大 副 委 員 長 が 文 革 の混 乱 収 束後 に最 初 に訪 れ た の も ビル マ で あ った(登B副 総理 は1978年1 .月と11月 に ビル マ を訪 問)b 周 恩 来 が 生 前 訪 問 した 国家 は 、 ア ジア11力 国 、 ア フ リカ10力 国 、 ソ連 ・東 欧8力 国 の 計29力 国 で 、 の べ64回 に及 ぶ 。 そ の訪 問 回 数(国 境 通 過 を含 ま な い)を 国 別 に見 る と、 ベ トナ ム ・ビル マ 各 6回 、 北 朝 鮮 ・パ キ ス タ ソ ・ア ル バ ニ ア各4回 、 イ ソ ド3回 、 イ ソ ドネ シ ア ・ポー ラ ン ド ・ル ー マ ニ ア ・エ ジ プ ト各2回 で あ る(2)。彼 の 最 後 の ビル マ訪 問 と な る1965年 まで の 中 国外 交 に お い て ビル マ が重 要 な位 置 を 占 め て い た こ と が理 解 で き よ う。 ま た 、 ビル マ か ら も しば しば 要 人 が 訪 中 して い る。 実 力 者 ネ ・ウ ィ ソの訪 中 は1955年 か ら85年 ま で の30年 間 に12回 を 数 え て い る(3)。初 代 総 理 ウ ・ヌ も7回 訪 中 して い る(4)。 こ う した 両 国 首 脳 の盛 ん な相 互 訪 問 に つ い て 、 中 国 外 交 書 は 「両 国 指 導 者 の 相 互 訪 問 は す で に伝 統 に な っ て い る」 と表 現 して い る(5)。 (1)周 恩 来 首 相 の9回 の ビ ル マ 訪 問 は 次 の 通 り。1954年6月28日 一29日 、 第1回 訪 緬 。1955年4月14日 一16日 、 第2回 訪 緬(苓 ソ ド ソ 会 議 の 往 復 の 際 、 ラ ン グ ー ソ に 立 ち 寄 る)。1956年12 ,月10日 一20日 、 第3回 訪 緬 。 1960年4月15日 一19日 、 第4回 訪 緬(イ ソ ド訪 問 の 途 次 訪 問 。 陳 毅 副 総 理 兼 外 相 と 章 漢 失 外 務 副 大 臣 が 同 行) 1961年1月2日 一9日 、 第5回 訪 緬 。1964年2月14日 一18日 、 第6回 訪 緬(陳 毅 外 相 同 行)。1964年7月10 日 一11日 ・ 第7回 訪 緬(陳 毅 外 相 同 行)。1965年4月3日 一4日 、 第8回 訪 緬 。1965年4月26日 一27日 、 第 9回 訪 緬 。 この ほ か 、 ビ ル マ の 国 境 通 過 が2回 あ る。 (2)裴 黙 農 厂首 脳 外 交 的 風 範 」(田 曽儡 ・王 泰 平 主 編 『老 外 交 官 回 憶 周 恩 来 』 北 京 ・世 界 知 識 出 版 社 、1998年 、 56頁)。 な お 、 周 恩 来 が1949年 の 建 国 時 か ら1976年1月 の 逝 去 ま で の 間 に 会 見 し た 外 国 首 脳 は 計539人 、 の べ 3万3,770回 に 及 ぶ 。 こ れ は 彼 が 生 前 行 な っ た6,620回 の 外 国 人 客 会 見 の57%を 占 め て い る 。539人 の う ち452 人 は96力 国 の 国 家 首 脳 で 、 内 訳 は ア フ リカ32力 国129人 、 ア ジ ア20力 国205人 、 ソ連 ・東 欧9力 国71人 で あ る 。 (3)ネ ・ ウ ィ ソ の12回 の 訪 中 は 次 の 通 り(王 介 南 ・王 全 珍 著 『中 緬 友 好 両 千 年 』 雲 南 ・徳 宏 民 族 出 版 社 、1996 年 、183-186頁)。1955年9月23日 一10月7日 、 第1回 訪 中(ビ ル マ 軍 事 友 好 代 表 団 を 率 い て)。1960年1月 24日 一29日 、 第2回 訪 中(首 相 と し て)。1960年9月28日 一10 .月13日 、 第3回 訪 中(ウ ・ヌ首 相 の 訪 中 に 国 防 軍 総 参 謀 長 と して 同 行)。1961年3月28日 一31日 、 第4回 訪 中(国 防 軍 総 参 謀 長 と して 訪 ソの 途 次 立 ち 寄 る)。1961年10月10日 一15日 、 第5回 訪 中(ウ ・ ヌ首 相 の 訪 中 に 国 防 軍 総 参 謀 長 と し て 同 行 、 中 緬 国 境 問 題 議 定 書 を 締 結)。1965年7月24日 一8月1日 、 第6回 訪 中(革 命 委 員 会 議 長 と して)。1971年8月6日 、2日 、 第7回 訪 中(革 命 委 員 会 議 長 兼 総 理 と して 、 非 公 式 訪 問)。1975年11月11日 一15日 、 第8回 訪 中(大 統 領 と して)。1977年4月27日 一5月12日 、 第9回 訪 中(大 統 領 兼 国 務 委 員 会 主 席 と して)。1977年9月16日 一17日 、 第10回 訪 中(大 統 領 と して 北 朝 鮮 訪 問 の 途 次 立 ち 寄 る)。1980年10月20日 一23日 、 第11回 訪 中(大 統 領 と し て)。1985年5月4日 一9日 、 第12回 訪 中(社 会 主 義 計 画 党 総 裁 と して)。 (4)ウ ・ ヌ 首 相 の7回 の 訪 中 は 次 の 通 り。1954年11、2月 、 第1回 訪 中 。1956年11月 、 第2回 訪 中(AFPFL 総 裁;と して)。1957年3月 、 第3回 訪 中(雲 南 昆 明 訪 問)。1960年1月 、 第4回 訪 問 。1960年9、0月 、 第5 回 訪 問(国 境 条 約 調 印)。1961年4月 、 第6回 訪 問(雲 南 訪 問)。1961年10月 、 第7回 訪 問 。 (5)田 曽 佩 主 編 『改 革 開 放 以 来 的 中 国 外 交 』 北 京 ・世 界 知 識 出 版 社 、1993年 、71頁 。

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2.改

革開放以後の中緬 関係

1979年 の 中 国 の 改 革 開 放 以 後 も、両 国 の 国 家 元 首 に よ る相 互 訪 問 は 続 い た 。1980年10月 、 ネ ・ ウ ィ ソ将 軍 は ビル マ連 邦 社 会 主 義 共和 国 大 統 領 と して 、 中 国政 府 の招 きに よ り中 国 を友 好 訪 問 し、 登区小 平 、李 先 念 、葉 剣 英 、 郵 穎 超 ら中 国指 導 者 と会 見 して い る。1985年5月 に は 、 ネ ・ウ ィ ソ は す で に大 統 領 職 を退 い て い た が 、郵 小 平 中 共 中 央 顧 問 委 員 会 主 任 か ら中 国 の 友 人 と して 再 訪 す る よ う招 待 され 、 ピル マ社 会 主 義 計 画 党 総裁 と して夫 人 と と もに訪 中 した。 これ は ネ ・ウ ィソ に と っ て 第12回 目 の 、 そ して 最 後 の訪 中 で あ った 。 1984年10-11月 、李 先 念 国 家 主 席 の招 待 に よ り、 サ ン ・ユ大 統 領 が 中 国 を公 式 に 友 好 訪 問 し、 郵 小 平 主 任 、李 先 念 国 家 主席 、郵 穎超 副 委 員 長 ら と会 見 した。 この時 、 サ ソ ・ユ 大 統 領 は 、 中 国 ・ ビル マ 間 に は何 の 問題 も存 在 して い な い し、 た と え 問 題 が現 れ て も両 国 は 友 好 、理 解 と同情 の 精 神 に基 づ き、 相 互 訪 問 を 通 じて 解 決 で き る と述 べ 、両 国 の友 好 関 係 を 讃 えた 。1985年3月 に は、 サ ソ ・ユ大 統 領 の招 きに 応 じて 、李 先 念 国 家 主 席 が公 式 に友 好 訪 問 し、 ビル マ指 導 者 と数 万 人 の 各 界 の 民 衆 の熱 烈 な歓 迎 を 受 け た。 訪 問 中 に、 中 国人 民 の ビル マ人 民 へ の 情 誼 を 示 す べ く、 李 先 念 国 家 主 席 は ビル マ政 府 に屋 内劇 場 の建 設 を贈 呈 し、 姫 鵬 飛 国務 委 員 が 議 定 書 に調 印 した。 国 家 元 首 の相 互 訪 問 以 外 に も、両 国指 導 者 の 往 来 は 盛 んで あ った。1979年1月 、 中 国 政 府 の 招 きに よ り、 マ ウ ソ ・マ ウ ソ ・力総 理 が 中 国 を公 式 に友 好 訪 問 し、両 国 総 理 に よ って 中 緬 経 済 ・技 術 協 力'協定 が調 印 され た 。 こ の訪 問 に応 え て 、1981年1月 、 趙 紫 陽総 理 が ビル マ を 訪 れ た。 マ ウ ソ ・マ ウ ソ ・力総 理 は の ち1986年4月 に 、2回 目 の訪 中 を行 って い る。1982年 、 ウ ・チ ・ラ イ外 相 が 訪 中 し、1984年2月 に 、 ウ ・チ ・ライ 外 相 の 招 き に よ り呉 学 謙 国 務 委 員 兼 外 相 が ビル マ を訪 問 し、 サ ソ ・ユ 大 統 領 お よ びマ ウ ソ ・マ ウ ソ ・力総 理 と会 見 した。 同 年6月 に は 、 ビル マ 副 総 理 兼 計 画 ・財 政 相 ウ ・ ト ゥソ ・デ ィ ソが経 済'協力 ・友 好 訪 問 代 表 団 を率 い て 訪 中 し、登区小 平 主 任 、 李 先 念 国 家 主 席 、 万 里 総 理 代 行 を拝 謁 し、1961年 中緬 経 済 技 術'協力協 定 の 補 充'協定 に調 印 した 。 1987年5月 、 ビル マ政 府 の 招 きで 喬 石 副総 理 が 友 好 訪 問 し、 ウ ・ トゥソ ・デ ィ ソ副 総 理 と双 方 の 経 済 貿 易'協力 の 強 化 に つ い て 会 談 した。1988年 、 ウ ・ トゥ ソ ・デ ィ ソ副 総 理 が再 度 訪 中 し、 中 国 の 改革 開 放 の 経 験 を聴 取 し、 中 国 と の さ ら な る経 済 協 力 強 化 の希 望 を 表 明 した。 同 年 に は ウ ・イ エ ・ゴ ソ外 相 も訪 中 して い る。 そ の ほ か 、 議 会 ・貿 易 等 の 面 で も相 互 の 往 来 は頻 繁 に な され た。 議 会 間 の交 流 で は 、1984年12 月 、 ビル マ 人 民 議 会 の招 き に応 じ、葉 飛 副 委 員 長 が 中 国 人 民 代 表 大 会 代 表 団 を 率 い て 初 め て 訪 問 した。 この ほ か 、 陳 慕 華 国 務 委 員 兼 対 外 経 済 貿 易 相 や 鄰 建 秀 紡 織 工 業 相 、 呉 文 英 紡 織 工 業 相 、 王 濤 石 油 工 業 相 、 李 夢 華 国 家 体 育 運 動 委 員 会 主 任 、 魏 玉 明 経 済 貿 易省 副 大 臣 、 和 志 強 雲 南 省 長 な ど が ビル マ を訪 問 し、紡 織 業 、 石 油 探 査 ・開 発 、雲 南省 と ピル マ との協 力 問 題 に つ いて 協 議 を行 な っ たQ と くに経 済 協 力 や 国境 貿 易 の 面 で は顕 著 な 進 展 が 見 られ た。1985年 、 王 文 東 経 済 貿 易 相 補 佐 が 率 い る中 国 政 府 経 済 代 表 団 が 訪 問 し、 ビル マ側 と経 済 技 術 協 力協 定 を締 結 した 。1988年7月 に は 、 雲 南 省 の朱 奎 副 省 長 が 国境 貿 易 代 表 団 を率 い て 訪 問 し、 ビル マ側 と商 品 を相 互 購 入 す る 国境 貿 易 協 定 を締 結 す る と と もに 、 同 年10月 よ り両 国 間 で 国 境 貿 易 を始 め る こ と を決 定 した 。 この 国 境 貿 易 の合 法 化 に よ り、 両 国 の 国 境 貿 易 は 飛躍 的 に増 大 して い る。 1988年9月 の ビル マ で の 軍 事 クー デ ター 以 後 も、 中 国 と ビル マ は正 常 な外 交 関 係 を保 持 して い

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る。 と くに1989年6月 、 中 国 で 天 安 門 事 件 が発 生 し、 中 国 も先 進 諸 国 か ら経 済 制裁 及 び 人 権 問題 へ の批 判 を 受 け る よ うに な る ξ、 国際 的 に孤 立 化 の状 況 に あ る両 国 の 関 係 は よ り緊 密化 した 。 天 安 門 事 件 後 の1989年10月 、 ビル マ 軍 事 政 権 ・国 家 法 秩 序 回 復 委 員 会(SLORC)委 員 兼 陸 軍 総 司 令 官 タ ソ ・シ ュエ 中 将 が 、 ビル マ 友 好 代 表 団 を率 い て訪 中 した。 彼 を 迎 え た 李 鵬 総 理 は、 両 国 の 友 誼 は 両 国 の先 輩 政 治 家 に よ って 切 り開 か れ た もの で あ り、 我 々 は この 関 係 を非 常 に大 事 に して い る、 中 緬 爾友 好 関係 は 平 和 共 存 五 原 則 の上 に 引 き続 き発 展 させ る こと が で き る と強 調 した 。 同 年11月 には 、 和 志 強 雲 南 省 省 長 が代 表 団 を率 い て 第2回 目の 訪 問 を行 な い 、雲 南 と ビル マ の経 済 技 術 協 力 お よ び国 境 貿 易 問題 等 に つ い て 会 談 し、 会 談 紀 要 に調 印 した 。 双 方 は炭 鉱 の 開 発'協力 錫 鉱 山 の共 同 探 査 な ど6つ の 協 力 協 定 を も締 結 した。 1990年 に は い る と、 両 国 の往 来 は著 し く増 加 し、 ビル マ を訪 問 した 中 国 の 代 表 団 は66に も達 し た 。 そ の主 な もの は 、 馬 慶 雄 副 大 臣 率 い る中 国 放 送 テ レ ビ代 表 団 、劉 徳 有 副 大 臣 率 い る 中 国 文 化 代 表 団 、 張 学 東 副 大 臣 率 い る 中 国 機 械 電 機 代 表 団 、 孫 永 福 副 大 臣 率 い る中 国鉄 道 代 表 団 な ど で あ 一 る。 そ の ほ か 中 国麻 薬 取 締 代 表 団(1990年8月 とU月)の ビル マ 訪 問 もあ った。 他 方 、 中国 を 訪 問 した ビル マ軍 事 政 権 要 人 に は 、 畜 牧 水 産 相 兼 農 林 相 チ ・シ ュ エ 中将 、宣 伝 文 化 相 兼 内 政 宗 教 事 務 相 フ ォ ソ ・ミ ソ中将 、 ビル マ ・オ リソ ピ ッ ク委 員 会 主 席 ・建 築 相 兼 合 作 社 相 ア ウ ン ・イ エ ・チ ア オ 中将 、 空 軍 司 令 官 テ ィ ソ ・ ドゥ ソ中 将 らで あ る。 1991年1月 に は 、 ビル マ政 府 の 招 きを 受 け て 、 羅 幹 国 務 院 秘 書 長 が 中 国 政 府 代 表 団 を率 い て ピ ル マ を訪 問 し、S:LORC議 長 ソ オ ・マ ウ ソ大 将 や副 議 長 タ ソ ・シ ュエ 上 将 と会 見 した 。 訪 問 中 に 、 羅 幹 は ビル マ に贈 呈 した屋 内劇 場 の竣 工 式 に 出席 し、劇 場 引 渡 証 書 に調 印 した。 同 年8月 は 、楊 尚昆 国 家主 席 の 招 待 に よ り、 ソオ ・マ ウ ソ議 長 が初 の 外 国 訪 問 と して 訪 中 し、 江 沢 民 総 書 記 、楊 尚 昆 国 家 主 席 、 李 鵬 総 理 とそ れ ぞ れ 会 見 した 。 ソオ ・マ ウ ソ議 長 は江 沢 民総 書記 、 楊 尚昆 国 家 主 席 、 李 鵬 総 理 の ビル マ 訪 問 を招 請 し、 中 国 側 は これ を 受 諾 した。 ソオ ・マ ウ ソ議 長 に随 行 して きたSLORC秘 書 長 チ ソ ・ニ ュ ウ少 将 と ウ ・オ ン ・チ ア オ 外 務 副 大 臣 は そ れ ぞ れ羅 幹 国 務 院 秘 書 長 、徐 敦 信 外 務 副 大 臣 と双 方 の関 係 及 び共 通 に 関 心 を も って い る国 際 ・地 域 問 題 に つ いて 意 見 を交 換 した 。 この 訪 問 期 間 中 に 、西 側 先 進 国 が ほ ぼ 全 面 的 に対 ビル マ 経 済 協 力 を停 止 して い る中 で 、 中 国 は援 助 額5,000万 元(約940万 ドル)の 新 しい 中 緬 経 済 技 術 協 力 協 定 を締 結 した 同 年9月 に ビル マ 貿 易 相 ア イ ボル の招 きを 受 け 、雲 南 省 の 金 人 慶 副省 長 が ビル マ を訪 問 し、雲 南 省 と ビル マ の経 済 技 術'協力 問題 につ い て広 範 に意 見 を 交 換 した。11月 に は 、 中 国 航 空 宇 宙 工業 相 の 林 宗 棠 が ビル マ を 訪 問 し、航 空 運 輸 ・航 空 技 術 ・国 際 衛 星 通 信 等 の分 野 に お け る両 国 の協 力 の道 を探 った 。11月 に は 、 何 其 宗 副 総 参 謀 長 が 率 い る 中 国軍 事 友 好 代 表 団 が ビル マ を 訪 問 した 。 これ は 、 ビル マ を訪 問 した 十 数 年 ぶ りの 中 国 高級 軍 事 代 表 団 で あ り、 両 国 の軍 事 協 力 の進 展 を う か が わ せ た 。 1992年5月 に は、 ウ ・オ ン ・チ ア オ外 相 の 招 請 に よ り、 楊 福 昌 副 大 臣 が 外 務 省 官 員 団 を率 いて ビル マ を訪 問 し、 ビル マ外 務 省 と初 め て の 協 議 を行 な っ た。 チ ン ・ニ ュ ウ秘 書 長 と ウ ・オ ソ ・チ アオ 外 相 が一 行 と会 見 した。 双 方 は そ れ ぞ れ の国 内 の 情 勢 と対 外 関 係 を紹 介 し、 両 国 関 係 及 び共 通 して 関 心 を も って い る国 際 問 題 に つ い て 意 見 を交 換 した 。 双 方 は外 交 官 の 接 触 を増 や し、外交 機 関 間 の 往 来 と協 力 を増 加 させ る こ とで 一 致 した 。 同年6月 、 兪雷 ・公 安 省 副 大 臣 が 中 国 麻 薬禁 止 代 表 団 を率 い て ビル マ を訪 問 し、 中 国 ・ビル マ ・国 連 の 三 者 が ラ ン グー ソで麻 薬 禁 止 協 力 協 定 に正 式 に 調 印 した(1)。 (1)前 掲書 『改 革 開放 以 来 的 中国 外 交』70-77頁 。

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この よ う に、 中 国外 交 に 占 め る ビル マ の重 要 性 は1990年 代 に お い て も変 わ って お らず 、 か え っ て そ の重 要 性 を増 して い るか の よ うで あ る。1993年2月 、 ビル マ軍 事 政 権 成 立 後 初 の 最 高 レベ ル の 要 人 と して 、 銭 其 深 外 相 が ビル マ を訪 問 した の に続 い て 、1994年12月 、平 和 五 原 則40周 年 を記 念 して 、 李 鵬 首 相 が民 主 化 運 動 の鎮 圧 や 人 権 抑 圧 に よ り国 際 社 会 か ら強 い批 判 を受 け て い る ビル マ を公 式 訪 問 し、両 国 の 蜜 月 ぶ りを 見 せ つ け た。 こ う した ビル マ との相 互 訪 問 は 、 天 安 門 事 件 に よ る経 済 制 裁 を受 け て い た 中 国 に と って 中 国 外 交 の空 白 を 埋 め る もの で あ った(1)。 一 方 、 ビルマ側 で も政 治 ・経済 ・軍事面で の中 国との関係 が依然 と して重 要で あ り、1999年6 月 に は 、 ミャツ マ ー軍 事 政 権 ・国 家平 和 発 展 評 議 会(SPDC)の キ ソ 。ニ ュ ソ第 一 書 記 が9閣 僚 を引 き連 れ て 北 京 で朱 鎔 基 首 相 と会 談 し、 両 国 の友 好 協 力 関 係 の強 化 で一 致 した 。 で は 、 こ う した両 国 の 友 好 協 力 関係 は ど の よ うに形 成 され て きた の で あ ろ うか。 次 に 、 中 華 人 民 共 和 国 建 国 時 の 国交 樹 立 に ま で遡 って 検 討 して み よ う。

3.建

国初期の中国外交関係

1949年10月1日 、 中華 人 民 共 和 国 の 建 国 を宣 言 した 毛 沢 東 は 、各 国政 府 に 対 し外 交 関係 の 樹 立 を呼 び か け た5建 国 され た ば か りの 中 国 に と って 、 中 国 正 統 政 府 と して諸 外 国 か ら国 際 的 な 承 認 を 獲 得 す る こ とが最 初 の外 交 課 題 で あ った 。 そ の た め 、 国 交 樹 立 の前 提 条 件 と して 「平 等 ・互 恵 、 領 土 主 権 の 相 互 尊 重 」 及 び 「国 民 党反 動 派 と の関 係 断 絶 」 い う・条 件 が 付 され て い た だ け で あ る。 ア ジ ア近 隣 諸 国 で た だ ち に中 国新 政 府 を承 認 した の は 、 同 じ社 会主 義 陣営 に属 す る朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国(49年10月4日)と モ ソ ゴル 人 民 共 和 国(49年10月6日)で あ った 。 非 社 会 主 義 国 で 最 初 に 中 国政 府 を承 認 した の は ビル マ(49年12月6日)で あ っ た([表1]参 照)。 建 国後2ヶ 月 経 っ て い た と は い え 、 非 社 会 主 義 国 の ア ジ ア近 隣 諸 国 で 最 初 に新 中 国 を承 認 した の が ビル マ で あ った とい う事 実 は そ の 後 の 両 国 の 関 係 を象 徴 す る もの と な った。 これ に続 い た の は イ ソ ド(49 年12月30日)、 パ キ ス タ ソ(50年1月5日)、 セ イ ロ ソ(現 ス リ ラ ソカ 、1月7日)や ア フガ ニ ス タ ソ(1月12日)で あ った 。 これ らの 諸 国 は 旧英 領 植 民 地 で あ り、 旧 宗 主 国 で あ る英 国 が 香 港 を 引 き続 き植 民地 と して確 保 す る とい う 目的 を もっ て 、ま も な く(50年1月6日)中 国政 府 を 承 認 しよ う と して い た こ と と関 連 して い た 。 1950年1月 に な る と乱 承 認 国 が急 増 し、 ノ ル ウ ェー ・デ ソ々 一 ク ・フ ィ ソ ラ ソ ド ・ス ウ ェー デ ソの 北 欧4力 国 の ほ か 、 ス イ ス ・オ ラ ソ ダ と イ ス ラエ ル が 相 次 い で 中 国 を承 認 した。 この よ うに 中 国 が 外 交 活 動 を展 開 しよ うと して い た 矢 先 の6月25日 、 朝 鮮 戦 争 が 勃 発 した 。 新 中 国 の 外 交 活 動 の 陣 容 と態勢 が と との い つ つ あ った 時 に、 中国 の 国 家 安 全 保 障 を 根 底 か ら脅 かす 事 件 が 発 生 し て 、 ア ジ ア冷 戦 の 渦 中 に 取 り込 まれ た た め 、 中 国 は 外 交 活 動 の手 足 を 縛 られ て しま っ た。 「抗 米 援 朝 」 こそ 、新 中 国 の政 治 外 交 の 中心 的 な課 題 を な した 。 朝 鮮 戦 争 を 契機 と して 、4月13日 の イ (1)天 安 門 事件 に よ る経 済 制裁 を受 けて い た90年 代 前半 、中 国 は対 東 南 ア ジア外 交 に活 路 を見 い だ して い た。 た と えば 、1978年 以来 反 目 して い たベ トナ ム との間 で 、1992年2月 の 銭其 深 外 相 お よび 同年11月30日 一12月 4日 の 李鵬 総 理 の訪 越 を通 じて、 外 交 関係 の 正常 化 を果 た した。 これ を受 けて 、93年11月 ベ トナ ムの レ ・ ド ク ・・ア イ ソ大 統 領 の初 の訪 中 、94年11月 江 沢 民 の訪越 とい う国 家元 首 の相 互 訪 問 が実 現 した。 また、95年11 月 に は ド ・ムオ イ共産 党書 記 長 が訪 中 し、 党 関 係 に お い て も関 係 を 回復 した。 こ う した 締 め括 りと して 、 1995年12月 、 李 瑞環 中国 人 民政 治 協 商 会議 主席 が カ ソボ ジ ア ・ミャ ソマ ー ・マ レー シア ・シ ソガ ポー ル ・タ イ を歴 訪 した。

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ソ ドネ シ ア に よ る承認 を 最 後 に外 国 か らの 政 府 承 認 通 告 は1955年 ま で 途 絶 え 、 ま た 国 家 承 認 が 得 られ た に も かか わ らず 国 交 樹 立 は1954 年 まで 延 期 され た もの も あ り、 中 国 が 積 極 的 な 対 外 活 動 を 推 進 す る 制 約 と な っ た 。 1950年 前 半 まで に、 中 国 は計25ヶ 国 か ら承 認 を得 る こ と に成 功 し た が、 社 会 主 義 諸 国、 ア ジ ア近 隣 諸 国 、北 欧 中 立 諸 国 な ど に限 られ て い た 。 イ ソ ドネ シァ が1950年4月 に 中 国 を 承 認 した 後 、50年 代 半 ば ま で 、 朝 鮮 戦 争 勃 発 に よ る ア メ リカ の 「中 国封 じ込 め 」 政 策 の圧 力 もあ り、 中 国 を 承認 し外 交 関 係 を樹 立 す る. 国家 は な か った。 また 、 国 家 承 認 は即 国 交 樹 立 を意 味 す るので は な く、 国 家 承 認 か ら国 交 樹 立 まで は 一 定 の 交 渉 の期 間 を必 要 と した 。 と く に 旧政 権 を 打 倒 しそ れ を全 否 定 す る立 場 に あ る革 命 政 府 と して 、 中 〔表1〕 建 国初 期 にお け る中国新 政府承 認 ・国交 樹 立状況(1949-56年) 国 名 国 家 承 認 国 交 樹 立 大 使 派 遣: ソ連 49年10月2日 49年10月3日 49年11月 王 稼祥 ブ ル ガ リ ア 49年10月3日 49年10月4日 50年8月 曹 祥仁 ル ー マ ニ ア 49年10月3日 49年10月5 .日 50年8月 王 幼平 ハ ソ ガ リ ー 49年10月4日 49年10月6日 50年8月 黄 鎮 朝鮮民主主義人民共和国 49年10月4日 49年10月6日 50年8月 倪 志亮 チ ェ コ ス ロ バ キ ア 49年10月5日 49年10月6日 50年9月 譚 希林 ポ ー ラ ソ ド 49年10月5日 49年10月7日 50年7月 彭 明 治 モ ソ ゴル人 民 共 和 国 49年10月6日 49年10月16日 50年7月 吉 雅泰 ドイ ツ民主 共 和 国 49年10月27日 49年10月27日 50年10月 姫 鵬 飛 ア ル バ ニ ア 49年11月21日 49年11月23日 54年9月 徐 以新 ビルマ 連邦 49年12月18日 50年6月8日 50年8月 姚 仲 明 イ ソ ド 49年12月30日 50年4月1日 50年9月 袁 仲 賢 パ キ ス タ ソ 50年1月5日 51年5月21日 51年9月 韓 念 竜 イ ギ リ ス(1) 50年1月6日 54年6月17日 54年 宦 郷(代 理) セ イ ロ ソ(ス リ ラ ソ カ) 50年1月7日 57年2月7日 57年6月 張 燦 明 ノ ル ウ ェ ー 50年1月7日 54年10月5日 55年6月 王 幼 平, デ ソマ ー ク 50年1月9日 50年5月11.日 50年10月 耿 膝(公 使) イ ス ラ エ ル 50年1月9日 57年2月7日 ア フ ガ ニ ス タ ソ 50年1月12日 55年1月20日 55年6月 丁 国 鉦 フ ィ ソ ラ ソ ド 50年1月13日 50年10月28日 51年3月 耿踏(公使兼) ス ウ ェ ー デ ソ 50年1月14日 50年5月9日 50年9月 耿 踏 ベ トナ ム民 主共 和 国 50年1月15日 50年1月18日 54年9月 羅 貴 波 ス イ ス 50年1月17日 50年9,月14日 50年12月 馮 鉉(公 使) オ ラ ソ ダ(2) 50年3月27日 54年11月19日 55年8月 謝 黎(代 理) イ ソ ドネ シア連 邦 共 和 国 50年4月13日 50年4月13日 50年8月 王任 叔 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 55年1,月2日 55年5月 伍 修 権 ネ パ ニ ル 55年8月1日 55年8月 袁 仲 賢(兼) ア ラ ブ ・エ ジ プ ト共 和 国 56年5月30日 56年7月 陳 家康 ア ラ ブ ・シ リ ア 共 和 国 56年8月1日 56年12月 陳 志方 ア ラ ブ ・イ エ メ ソ共 和 国 56年9月24日 58年5月 陳 家康(兼 〉 [出 所]倪 忠 文 ・譚 慕 雪 編 『中 華 人 民 共 湘 国 建 国 史 手 册 』 北 京 ・新 華 出版 社 、1989年 、377 -379頁 。 喜 田 昭 治 郎 著 『毛 沢 東 の外 交 』 法 律 文 化社 、1992年 、139頁 。 (1)中 国 と イ ギ リス との 外 交 関 係 は{1954年6月 に代 理 大使 級 の 交換 が 合 意 され 、 大 使 級 の外 交 関 係 に格 上 げ され た の は1972年3月13日 で あ る 。 (2)中 国 と オ ラ ソダ との 外 交 関 係 は 、 イ ギ リス とほ ぼ 同 様 の 待 遇 を 受 け 、1954年11月 に 代 理 大使 級 の交 換 が 合意 され 、大 使 級 の 外 交 関係 に格 上 げ され た の は1972年5月18日 で あ っ た。 そ の後 、1981年5月5日 に代 理 大 使 級 に格 下 げ され た 後 、1984年2.月1日 に大 使 級 の外 交 関 係 に戻 って い る。 国 は外 交 を 担 う人 材 を 欠 き、 大 使 を は じめ と して 外 交 官 を これ か ら養 成 しな けれ ば な らな い 状 況 に あ った 。 そ う した 中 国 に と って 、大 使 館 の設 置 や 大 使 の派 遣 に は通 常 よ り も時 間 を必 要 と した こ とは 容 易 に理 解 で き よ う。 1949年11月 に 初 代 駐 ソ連 大 使 と して 王 稼 祥 を派 遣 した後 、 東 欧 社 会 主 義 国 に大 使 を派 遣 した の は50年6月 か ら9月 に か け て で あ った 。 ビル マ や イ ソ ドに 大 使 が派 遣 され た の も同 じ時 期 で あ っ た。 この こ とを み れ ば、 中 国 が ピル マ と早 期 に外 交 関 係 を も ち、 ソ連 以 外 の東 欧 社 会 主 義 国 とほ ぼ 同 時 期 に大 使 を派 遣 した こ とは 、 中 国 が ビル マ との外 交 関 係 を重 視 し社 会 主 義 国 並 み に扱 った

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こ とを示 して い よ う。 が一 方 で 、 中 国 の ビル マ に対 す る対 応 は 必 ず し も熱 烈 な もの で は な く、 ソ連 同 様 、 当初 は 冷 淡 で あ っ た よ うで あ る。 建 国 当初 、 中 国 共 産 党 が主 導 した 革 命 に よ って 樹 立 され た 中 華 人 民 共 和 国 は、 ビル マ 、 イ ン 鹽ド、 パ キ ス タ ソな ど の 「民 族 主 義 政 府 」 を 「蒋 介 石 」 と変 わ る こ との な い 帝 国 主 義 の カ イ ライ 政 府 で あ る と い う認 識 を持 って お り、 当初 は 東 南 ア ジ ア を 中心 に 共 産 党 の武 力 革 命 を支 援 す る姿 勢 をみ せ て い た。 現 実 に ベ トナ ム を は じめ 、 フ ィ リピ ソ、 マ ラヤ 、 ビル マ な どで は共 産 ゲ リラに よ る武 装 闘 争 が行 わ れ て い た 。 これ は 当 時 の 中 国 の 国 際 認 識 で あ る 「二 大 陣 営 」 論 か ら導 き 出 され る必 然 的 な 結 論 で あ った 。 中 国 共 産 党 は 国 際 情勢 を社 会 主 義 陣 営 と帝 国 主 義 陣 営 の 「二 大 陣 営 」 の対 立 ・抗 争 とい う枠 組 み で と らえ て 、 「向 ソー 辺 倒 」 政 策 を 採 用 し、 社 会 主 義 陣 営 に 傾 斜 す る あ ま り、 い ず れ の 陣 営 に も 属 さ な い 「第 三 の道 」 は あ りえ な い と決 め つ けて いた 。 さ ら に は 「中 立 主 義 」 は世 界 の 平 和 ・民 主 陣 営 を弱 め 、 帝 国主 義 陣 営 の 反 動 勢 力 を助 長 す る と 否定 的 にみ て さ え い た。 民 主 人 士(中 国 国 民 党 革 命 委 員 会)と して 中 国 中 央 人 民政 府 副 主 席 に 就 任 した宋 慶 齢 は 、1949年 12月 に 「私 た ち が 『真 』 の 二 字 を 必 ず 付 け加 えね ば な らな い の は 、 ア ジ ア に は偽 の 独 立 国 が あ る か らで す 」 と述 べ て い た。 こ う した認 識 は 、50年 代 半 ば に 活 発 に平 和 共 存 外 交 を 展 開 す る周 恩 来 を は じめ とす る 中 国共 産 党 首 脳 の 当 時 の 共 通 した認 識 で もあ った 。 そ こに は 、 「国 際 的 平 和 民 主 陣 営 と帝 国 主 義 侵 略 陣 営 が 対 立 して い る間 は 、 い か な る 中 間 陣 営 も絶 対 に 存 在 しな い 」(1949年 9月 の 周 恩 来 の 発 言)と い う国 際 認 識 が 根 本 に あ っ た。 こ う した 国 際 認 識 を基 本 と して 、 「武 装 闘 争 こそ 多 くの植 民地 ・半 植 民地 の民 族 解 放 闘争 の 主 要 な形 態 で あ る」 とす る劉 少 奇 テ ー ゼ が49年 11月 の ア ジ ア ・オ セ ア ニ ア労 働 組 合 会 議 で 打 ち 出 され て い た(1)。 この よ うに、 建 国初 期 の 中 国 は独 立 した ば か りの ア ジア諸 国 に疑 い の 目 を 向 け 、 む しろ武 装 闘 争 に活 路 を見 い だす 傾 向 が 強 か っ た。 そ れ ゆ え 、 中 国 と ビル マ と の 国 交 樹 立 も厳 格 な 前 提 条 件 が つ け られ た 。 中 国 政 府 は ビル マ 政 府 の 外 交 関係 樹 立 の 通 知(1949年12月16日)に 対 して 、 周 恩 来 外 相 は 返 電(1949年12月18日)の な か で 「国民 党 反 動 派 の残 党 との 関 係 断 絶 」 を 前提 と して の 国 交 樹 立 で あ る こ とを求 め た。 ビル マ 政 府 か らの承 認 通 知 電 報 が北 京 に届 い た 時 、 毛 沢 東 は ち ょ う ど ソ連 と の交 渉 の た め に モ ス ク ワに 滞 在 中 で あ っ た。 ビル マ と の 国 交 樹 立 問 題 は 新 中 国 の 外 交 政 策 に か か わ る重 大 事 と判 断 した北 京 指 導 部 は 、 モ ス ク ワの 毛 沢 東 に 指 示 を求 め た 。 毛 沢 東 は12月19日 、 工 作 を 主 宰 して い た 劉 少 奇 宛 に 、「国 民 党 との 関 係 断 絶 」 を確 認 す る必 要 が あ り、 まず ビ ル マ 政 府 の 代 表 を 北 京 に 呼 び 、協 議 した 後 に外 交 関 係 の樹 立 を決 定 す べ きで あ る と指 示 して い る ② 。 資 本 主 義 国 と の国 交 樹 立 に あ た っ て 、 中 国 は この よ うに 「国 民 党 政 府 と の関 係 断 絶 」 を条 件 と し、 ま ず は 代 表 の北 京 派 遣 を 求 め 、 国 交 樹 立 に つ い て 交 渉 し、 国 民 政 府 に対 す る態渡 を 確 認 した 上 で 、 国 交 樹 立 の 日時 と大 使 交 換 の協 議 を行 な う とい う 「談 判 方 式 」 を通 常 は採 用 した 。 ビル マ や イ ソ ドな ど大 多 数 の 国 家 に対 して は 、 こ う した方 式 が実 行 され た 。 が 、 イ ソ ドネ シアや フ ィ ン ラ ソ ドに対 して は 、 こ う した 「談 判 」 を行 な う こと な く国 交 を樹 立 (1)太 田勝 洪 。朱 建 栄編 著 『原 典 中 国 現 代史 第6巻 外 交 』岩 波 書 店 、1995年 、43頁 。 劉 少奇 テー ゼ の性 格 につ いて は、 岡部 達 味 が 『現代 中 国 の対 外 政策 』 東京 大学 出版 会 、241-243頁 にお いて 適切 に分析 して い る。 (2)中 共 中央 文 献 研究 室 編 『建 国 以 来 毛 沢 東 文 稿』 第1册 、 北京 ・中央 文 献 出 版 社 、1987年 、193頁 。 邦 訳 、 『原典 中国 現代 史 第6巻 外 交 』43頁 。

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した。 イ ソ ドネ シ ア連 邦 共 和 国 の成 立 は1949年 末 、 つ ま り中 華 人 民 共 和 国 の 建 国 後 の こ とで あ り、 した が って 国 民政 府 と の外 交 関係 を もっ て い な か った か らで あ る。 そ の上 も と も とイ ソ ドネ シ ア の オ ラ ソ ダ か らの 独 立 闘 争 を 中 国 は支 持 して い た の で 、 中 国 が イ ソ ドネ シ ア連 邦 共 和 国 を承 認 し た 時 に 、 中 国 側 か ら平 等 ・互 恵 及 び領 土 ・主 権 の相 互 尊 重 の 原 則 の上 に正 常 な外 交 関係 を樹 立 す る希 望 を 表 明 して い た 。 イ ン ドネ シ ア が これ に 同意 し、 両 国 は照 会 の交 換 を行 うだ け で 大 使 交 換 の 協 定 に 素 早 く達 した 。 フ ィ ソ ラ ン ドは1950年9月 に駐 イ ソ ド大 使 を駐 中 国大 使 兼 任 と させ たい 意 向 を伝 え て きた 。 中 国 は フ ィ ソ ラ ソ ドが 台 湾 の 国 民 政 府 と外 交 関 係 を も って い な い こ と、 及 び国 連 に未 加 盟 で 、 国連 に お け る中 国 の 議 席 問 題 に関 わ りの ない こ と を考 慮 し、 「談 判 」 を経 な い で 大 使 を交 換 す る こ と を 決 定 した(1)。 そ の他 の 国 家 とは 「談 判 方 式 」 を も っ て 国 交 樹 立 を協 議 した 。 そ の 結 果 、 イ ギ リス ・オ ラ ソ ダ の よ うに 、 交 渉 が数 年 に延 び た だ けで な く、 国交 樹 立 で は な く代理 大 使 の交換 とい う関 係 に終 わ っ た も の もあ る。 「談 判 方 式 」 が 最 初 に適 用 さ れ た の は12月19日 の毛 沢 東 の指 示 に 見 られ る よ うに 、 ビル マ に 対 して で あ った 。 しか し、 中 国 の要 求 に対 して 、最 初 に 北 京 に代 表 を送 っ た の は イ ソ ド で あ っ た 。 そ の た め 、 国 家 承 認 が ビル マ 政 府 よ り12日 遅 れ た イ ソ ドが 、 ビル マ に2ヶ 月 先駆 け て 「談 判 方 式 」 で 最 初 に 国 交 を樹 立 した 国 家 と な っ た。 4.中 国 ・ビル マ 国 交樹 立 に至 る ま で ビル マ の 独 立 を担 った の は反 フ ァ シ ズ ム人 民 自由 同 盟(AFPF:L)で あ った。 「反 フ ァシ ズ ム 人 民 自 由 同 盟 」 は 、 日本 の 占領 か ら脱 す る た め に、1944年8月 、 ビル マ 共産 党 の提 唱 に よ り ピル マ 独 立 軍 ・人 民 革 命 党 ・ビル マ 共 産 党 の 三 大 政 治 勢 力 に よ って密 か に結 成 され た 抗 日民 族 統 一 戦 線 組 織 で あ っ た。 当初 、 総 裁 に は ア ウ ン ・サ ソ将 軍 が 、 ビル マ共 産 党指 導 者 タキ ソ ・タ ソ トソ が 総 書 記 に就 任 した。 人 民 革 命 党 は1936-38年 の 学 生 運 動 の リー ダー や 「我 ら ビル マ 人協 会 」 の 指 導 者 、 ビル マ 独 立 軍 指 導 者 、 一 部 の青 年 官 吏 に よ って 日本 占領 期 に結 成 され て い た。 まだ 独立 運 動 を 闘 っ て い た19 46年11月 に ビル マ共 産 党 が 自 由 同盟 か ら排 除 され たた め 、政 党 と して は ビル マ社 会 党 と 名称 を変 更 し公 開 活 動 を行 な って い た 人 民 革 命 党 の み が 残 って い た。1947年7月 の ア ウ ソ ・サ ン将 軍 の 暗 殺 後 は 、 ビル マ 社 会 党 が 自由 同盟 の 主 導 権 を 握 る こと に な る。 1948年1月 に ビル マ が 正 式 に独 立 す る前 の1947年10月27日 、 ビル マ 臨 時政 府 は 中 国 国 民 政 府 と 大 使 を交 換 し相 互 に大 使 館 を 置 く こ と を決 定 した 。 ビル マ は初 代 大 使 と して ウ ・ミン ト ・テ イ ソ (UMyintThein呉 敏 登 〉 を 派 遣 し、 中 国 国 民 政 府 は 淙 允 檀 を駐 ピル マ大 使 に任 命 した 。1月 4日 に 行 わ れ た独 立 式 典 に は 国 民 政 府 か ら葉 公 超 外 務 次 官 が 特使 と して 出 席 した 。 同 日、 中 国 国 民 政 府 と ビル マ連 邦 政 府 との 問 で 国 交 が 正 式 に樹 立 され た。 そ の 後 、1948年10月29日 、 国 民 政 府 は ビル マ の ラ シ ョー に 領 事 館 を置 き、 ビ ル マ が雲 南 省 昆 明 に 総 領 事 館 を設 け る こ と に 同 意 した。 しか し、 す で に政 権 の 命 脈 が 尽 きて い た 国 民 政 府 に は そ れ 以 上 の 対 ビル マ 外 交 を行 うだ け の 余 裕 々よな カ・っ た(2)。 (1)韓 念 竜 主 編 『当代 中国外 交 』 北 京 ・中国 社 会 科学 出版社 、1988年 、9-10頁 。 (2)前 掲 書 『中 緬 友好 両 千 年』133頁 。

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中 国 で 中 華 人 民 共 和 国政 府 が樹 立 され た と き、 ビル マ 社 会 党 の指 導 者 達 は1949年10月 、総 部 執 行 委 員 会 会 議 を開 き、 中 国 情 勢 の変 化 を 検 討 し、新 中 国 政 府 承 認 の声 明 を発 表 す る こ と を 決議 し た。 こ の決 議 に は副 首 相 兼 外 相 の ウ ・カ ウ ・ネ イ ソ(UKyawNyein呉 覚 迎)執 行 委 員 だ け が 賛 成 しな か った とい う(1)。 ビル マ政 府 首 脳 に は 、 中 国 に 理 解 を示 す3人 の 人 物 が い た 。 初 代 総 理 ウ ・ヌ(1907、995)と ウ ・バ ・ス ェ社 会 党 書 記 長 と ネ ・ウ ィ ソ将 軍 で あ る。 新 中 国 政 府 承 認 の 決 定 が 本 当 に10月 に な され て い た と した ら、 国 家 承 認 の 通 知 が約2ヶ 月 後 の12月18日 で あ った の は な ぜ で あ ろ うか。 そ れ は 中 国 に理 解 を 示 す 指 導 者 を含 め て 、 ビル マ が 中 国 に大 き な懸 念 を 抱 いて い た こ と を意 味 して い る。 ビル マ の 懸 念 とは 、2,000kmに 及 ぶ 国 境 問 題 の ほ か、 武 装 闘争 を 展 開 す る国 内 の 共 産 ゲ リラ問 題 で あ っ た 。 1949年12月 、 ウ ・エ ・マ ウ ソ外 相 は 中 国 を早 急 に承 認 す る理 由 を次 の よ うに述 べ て い る。 「我 々 は 、 中 国 政 府 を早 急 に承 認 せ ざ る を得 な い で あ ろ う。 これ は 、 親 友 と して 付 き合 うた め で は な く、 単 に事 実 を認 め る こ と にす ぎ ない 。 我 々 は 、 ビル マ に共 産 主 義 が広 ま る こ と に神 経 質 に な ら ざ る を得 な い 。 従 来 中 国 ・ビル マ 両 国 国境 地 帯 で は 、 相 互 襲 撃 事 件 が 発 生 して い た が 、 中 国 政 府 が 樹 立 さ れ た 結 果 、 この 種 の襲 撃 事 件 の意 味 合 い が変 わ り、 政 治 的 イ デ オ ロギ ー の色 彩 が 強 ま ろ う。」(2) 中 華 人 民 共和 国 の 建 国 と と も に、 ビル マ 国 内 の 左 翼 勢 力 と華 僑 団 体 は ビル マ 政 府 に 、 新 中 国 を 早 急 に承 認 す る よ う強 く要 求 し始 め た 。 ビル マ 華 僑 の 問 も、 中 国 本 土 の 国 共 内 戦 に合 わ せ て 国 民 党 系 と共 産 党 系 に分 裂 して い た。 親 共 華 僑 の り一 ダ ー と して活 躍 して い た の が 、 戦 後 創 刊 され た ラ ソ グ ー ンの華 字 紙 『新 仰 光 報 』 を経 営 して い た 徐 四 民 で あ った 。 彼 は ビル マ 全 国 ジ ャー ナ リス ト協 会 副 会長 に就 任 した り、1948年1月4日 に 挙行 され た ビル マ 独 立 式 典 に 『新 仰 光 報 』 責 任 者 、 ビル マ 華 僑 代 表 と して 出 席 す るな ど、 ビル マ の 政 界 に も通 じて い る人 物 で あ った 。 『新 仰 光 報 』 は旗 幟 を 鮮 明 に し、 在 ビル マ 国 民 党 機 関 紙 『国 民 日報 』 や 中 国 遠 征 軍 の 残 留 した 政 治 工 作 員 が創 刊 した 『先 声 報 』 な ど と論 戦 を 展 開 して い た。 徐 四 民 は 、 中 華 人 民 共 和 国 の 建 国 方 針 を 話 し合 った ユ949年6月 の全 国政 治'協商 会議 の 準 備 会 議 に ビル マ 華 僑 代 表 と して 招 請 され て い た(3)。 この 歴 史 的 な大 会 に 出席 した 彼 は 、建 国 の 時 期 が近 づ く と、 公 衆 に推 され て 建 国 を 祝 う 「万 人 慶 祝 大 会」 の 準 備 を進 め て い た 。 本来 は ラ ソ グー ソの パ ゴ ダ公 園(白 塔 公 園)で 開 催 す る 予 定 で あ っ た が 、 の ち ラ ソ グー ソ市 庁 舎 講 堂 に 改 め られ た。 当 日は 各 団 体 の 少 数 の代 表 が 参 加 で きる だ けで 、多 くの人 は 講 堂 の外 に 集 ま り整 然 と大 会 の模 様 を耳 にす る だ け で あ っ た。 ま た 、 双 十 節(中 華 民 国建 国 記 念 日の10月10日)を 祝 うの か新 中 国 の 建 国記 念 日(10月1日)を 祝 うの か 、 青 天 白 日旗 を 掲 げ るの か五 星 紅 旗 を掲 げ るの か が 、 ビル マ 華 僑 の 問 で 争 点 と な った 。 ビ ル マ 華 商 会 の な か で も、 国民 党 員 の 李文 珍 会 長 と徐 四 民総 幹 事 と の 問 で激:論と な っ た。 李 文 珍 は 、 ビル マ政 府 が現 在 ま だ新 中 国 政 府 を承 認 して い な い こ とを理 由 に 、 これ ま で通 り双 十 節 に青 天 白 日旗 を掲 揚 す る 「現 状 維 持 」 を主 張 した 。 これ に対 して、 徐 四民 は た だ ち に 立 ち上 が っ て 、 異 議 を唱 え た 。 彼 は 、 「我 々 は 中 国 入 で あ り、 五 星 紅 旗 を 掲 げ るか掲 げ な い か は 、 外 国政 府 が 中 国 を (1)建 国 初期 の中 緬 関係 につ い ては 、戚 基 耶 基 紐著 『四 個時 期 的 中緬 関 係』 雲 南 ・徳宏 民 族 出版 社 、1995年 、 66-69頁 に よ った。 (2)佐 久 間平 喜 著 『ビルマ(ミ ャ ソマ ー)現 代 政 治史[増 補版]』 勁 草書 房 、1993年 、162頁 。 (3)徐 四 民 は 、1954年 に も中華 人 民 共 和 国 の第 一 次 憲 法 を制 定 した 第1回 全 国 人 民代 表 大 会 の 人 民代 表(国 会 議 員)に ピル マ 華僑 代 表 と して 選 出 さ れた 。

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承 認 して い る か ど うか は関 係 な い 。 これ は我 々 自身 の こ とで あ る。 中国 国 内 の 数 噫 の 同胞 が 新 中 国 の誕 生 を 歓 迎 して 、 五 星 紅 旗 を あ まね く掲 げて い る。 我 々 海 外 同胞 は 、五 星紅 旗 を掲 げ て 我 々 の 新 中 国 へ の慶 祝 と熱 愛 を示 し、 ま た 旧政 権 に対 す る憎 悪 と唾 棄 を示 す 権 利 が あ る。」 と主 張 し た 。 双 方 が 激:論を展 開 した後 、最 後 に記 名 投 票 を行 っ た結 果 、 李 派5票 、 徐 派15票 、 棄 権5票 と な り、10月2日 に五 星 紅 旗 を掲 げ る こ と とな った 。 ピル マ華 僑 の 間 で は、 す で に 中 共 派 が優 勢 と な って い た の で あ る。 こ う して10月2日 に ビル マ で は五 星 紅 旗 が 掲 揚 され た が 、 これ は 非 社 会 主 義 国 で 最 も早 く五 星 紅 旗 を掲 揚 した 出 来 事 で あ った 。 著 名 な華 僑 陳 嘉 庚 が主 催 す る シ ソ ガ ポ ー ル の 華 字 紙 『南 僑 日報 』は こ の ニ ュースを報 道 し、 また 社 説 「ピルマ華 僑 に見 習 ろ う」を発 表 した ① 。 ウ ・バ ・ス ェ社 会 党(自 由 同 盟)書 記 長 は い まだ 国 共 内 戦 が戦 わ れ て い た1948年3月 、 ラ ン グー ンの 華 字 紙 『新 仰 光 報 』 の 創 刊3周 年 に 寄 せ て 寄 稿 し、 「中 国 の 民 族 独立 解 放 運 動 は か つ て 我 々 の反 帝 独 立 闘 争 の 模 範 で あ り、 そ れ が我 々 に与 え て くれ た経 験 教 訓 の価 値 は掛 け替 え の な い 宝 で あ る」 と述 べ 、 中 国 革 命 に 対 す る賞 賛 と支 持 を表 明 して い た。 1949年10月 に 五 星 紅 旗 を掲 揚 す る 問題 で ビル マ 華僑 社 会 が分 裂 した 時 、 華 僑 社 会 の リー ダ ー徐 四 民 と陳 吉 福 は ウ ・バ ・ス ェ書 記 長 を訪 れ た 。 か れ は そ の場 で 華 僑 が五 星 紅 旗 を掲 揚 す る こ と を 積 極 的 に支 持 す る こと を表 明 し、 華 僑 社 会 に大 きな影 響 を与 え た。 こ う した こと も、 ビル マ 社 会 党 が新 中 国 承 認 を 表 明す る背 景 の一 つ とな っ た。 また 、 上 述 した よ うに 、 中 国 に疑 い と 懸 念 を抱 きつ つ も、 新 中 国 に理 解 を 示 す3人 の ビル マ 人 首 脳 が 中 緬 国交 樹 立 を後 押 し して い たd当 時 総 理 で あ った ウ ・ヌ は 、 中 国 が 抗 日戦 争 を戦 って い た1939年12月 、 ビル マ 親 善 代 表 団9名 の一 員 と して 、昆 明 を経 て 重 慶 を訪 問 した こ とが あ った 。 彼 らは重 慶 で2回 蒋 介 石 と会 見 し、 日本 軍 の 侵 略 を受 け て い る中 国 人 民 に 対 す る ビル マ 人 民 の 同 情 と声 援 を表 した 。 代 表 団 の帰 国 後 、 ウ ・ヌ は 中 国 で の 見 聞 を 『芳 隣 中 国』 とい う旅 行 記 に ま と め 出版 す る な ど 、 中 国 に理 解 を 示 す 政 治 家 の 一 人 で あ った。 ネ ・ウ ィ ソ将 軍 は 中 国 で は 、 周 恩 来 首 相 と並 ん で 「中緬 友 好 を建 設 した も う一 人 の建 築 士 」 と称 され 、 ウ ・バ ・ス ェ も 「中 緬 友 好 に 貢 献 した 総 理 」 と頌 え られて い る。 ビル マ政 府 が 中 国 承 認 に傾 く中 、 こ う した ビル マ華 僑 の声 に推 され る形 で 、 駐 ビル マ 中 国 大 使 館 の新 中 国 政 府 へ の 帰 順 が な され た 。12月17日 、 ビル マ北 部 に近 い 中 国 雲 南 省 で 国 民 政 府 軍 の 中 共 側 へ の寝 返 り(反 乱)が 起 こ った 。 また 、 そ の前 日(12月16日)に は 、 国 民 政 府 駐 ビル マ 大 使 徐 允 檀 は ビル マ政 府 の新 中 国 承 認 に 呼 応 す る か の よ うに、 北 京 に 密電 を打 ち 、周 恩 来 首 相 兼 外 相 に対 して 中 央 人 民 政 府 の 指 導 を受 け入 れ 全 館 員 を 率 いて 国 民 政 府 を離 脱 す る希 望 を伝 え た 。12 ,月26日 に は 、 ビル マ の48の 華 僑 団 体 が連 名 で 、 中央 人 民 政 府 が早 急 に ビル マ に大 使 を 派遣 す る よ う求 め る電 報 を送 っ た。 この 電 文 は心 臓 病 を患 い 死 の 危 機 に あ った 『新 仰 光 報 』 総 編 集 の邱 巴 寧 が 筆 を と り、 彼 の絶 筆 とな った もの で あ る。 1950年1,月2日 に 至 って 、 周 恩 来 首 相 の返 電 が 届 いた 。 周 は 国民 政 府 か らの離 脱 を歓 迎 す る と 伝 え、 「一 致 団 結 し、 持 ち 場 を守 り、 現 状 を維 持 し、 公 物 文 書 を保 管 し、 命 を 待 つ 」 よ う指 示 し た 。 北 京 か ら の返 電 は す ぐに ビル マ の 各 新 聞 で 報 道 され 、 ビル マ 、 と りわ け華 僑 社 会 の 中 で 賛 否 両 論 の 非 常 な 反 響 を 引 き起 こ した 。 ビル マ 政 府 の 国家 承 認 の通 知(12月16日)と これ に対 す る周 恩来 外 相 の返 電(12月18日)に 続 い て 、 12月19日 の毛 沢 東 指 示 に従 っ て 、 周 恩 来 外 相 は12月21日 、再 度 ビル マ 政 府 ウ ・エ ・マ ウ ソ外 相 宛 (1)章 梅 鶴 著 『心 路 歴 程:徐 四民 従仰 光 、 北京 到 香 港 』北 京 ・中国 工 人 出版 社 、1994年 、95-96頁 。

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に 、代 表 を北 京 に送 り・国 交 樹 立 問 題 に つ い て交 渉 す る よ う求 め る電 報 を送 った 。 この 時 、 周 恩 来 の電 報 は中 国 語 の電 信 コー ドを用 い て い た た め 、 ビル マ 外 務 省 で は訳 出 ず る こ と が で きず 、12月 26日 に な って 南 京 の元 ビル マ 大 使 館 が 南 京 市 軍 事 管 制 委 員 会 外 事 処 に 問 い 合 わ せ 、 中 国 語 の電 信 コー ドの提 供 を依 頼 す る とい う出 来 事 が あ っ た。 1月18日 、、ビル マ政 府 は 、 す で に 中 華 人 民 共 和 国承 認 を声 明 した 日に 国 民 政 府 と の 外 交 関 係 を 断 絶 し、 ラ ソ グ ー ソの大 使 館 を閉 鎖 した こ と を通 知 す る と と もに 、元 駐 南 京 大 使 館 一 等 書 記 官 兼 駐 昆 明総 領 事 の ウ ・ビ(呉 辟)を 交渉 代 表 と して 北 京 に派 遣 す る こと と した。 当 時 昆 明 に い た ウ ・ ビが北 京 に到 着 した の は約3ヶ 月 経 った4月26日 の こ とで あ っ た。4月29日 に、 ウ ・ビは 中 国 外 交 部 に 挨 拶 に い き、交 際 科 長 韓 叙 の 引 き合 わせ で 章 漢 夫 外 務 副 大 臣 と会 見 した 。5月5日 に 、両 者 は2回 目 の会 談 を お こな い 、 章 漢 夫 は 交 渉 を次 の2段 階 に分 け て行 う方針 を説 明 した 。 まず 国 民 政 府 残 留 集 団 と の関 係 断 絶 お よ び 国 民 政 府 の在 ビル マ 資 産 問 題 とい う国 交 樹 立 の た め の 先 決 問 題 を協 議 し、 そ れ が解 決 した 後 に 、第 二 段 階 と して大 使 交 換 の交 渉 を行 う とい う もの で あ っ た。 1週 間後 に、 双 方 は再 度 協 議 を行 い 、 ウ ・ビは 口頭 で 中 国 側 の提 出 した2つ の 先 決 問 題 に つ い て 回 答 した 。 中 国 は この 回 答 に 満 足 し、 大 使 交 換 の交 渉 に進 ん だ。5月19日 、 章 漢 夫 は ア ジ ア局 副 局 長 陳 家 康 と交 際 科 科 長 韓叙 を伴 って ウ ・ビと第4回 目の 交 渉 を行 な った。 章 漢 夫 は 初 代 大 使 と して 姚 仲 明 を任 命 した こ と とそ の経 歴 を読 み 上 げ た 。 ウ ・ビは非 公 式 に 、 南 京 に い る ウ ・ミ ソ ト ・テ イ ソ大使 をそ の ま ま新 中 国 大 使 と して 赴 任 させ る こ と を提 案 し、 中 国政 府 は この 提 案 を 了 承 したbこ う した手 順 を踏 ん で 、6月8日 、 よ うや くだ が 順 調 に両 国 は正 式 に 国 交 樹 立 を 宣 言 し た 。 ウ ・ミソ ト ・テ イ ソ大 使 を は じめ ビル マ 大 使 館 員 た ちは 南 京 か ら北 京 に 移 り、 元 ベ ル ギー 大 使 館 が使 用 して い た 建 物 を新 しい 大 使 館 と した 。8月7日 に ウ ・ミ ソ ト・テ イ ン大 使 は 毛 沢 東 国 家 主 席 に 国 書 を 手 渡 した。1951年 に ウ ・ミソ ト ・テ イ ソ大 使 に替 わ っ て 、前 駐 タ イ大 使 兼 駐 イ ソ ドネ シ ア大 使 の ウ ・ラ ー ・マ ウ ソが新 大 使 と して 赴 任 した 。 初 代 駐 ビル マ 大 使 に任 命 され た の は 、 山 東 省都 ・済 南 市 の 市 長 兼 党 書 記 だ った 姚 仲 明 で あ る。 か れ は謝 黎 、孟 英 両 参 事 官 、 李 萍 総 領 事 、 李 岱 武 宮 ら一 行34名 を率 い て 、 中 国招 商 局 の船 舶 「海 利 号 」 で ラ ソ グー ソ に8,月28日 に 到 着 した。 新 大 使 を 歓 迎 す る た め に 、 ラ ソ グー ソ華 商 会 は296 の 華 僑 団体 を集 め て歓 迎 準 備 会 を 組 織 し、 華僑1万 人 が 沿 道 で 出 迎 え た。 姚 仲 明 は1958年1 .月ま で の7年 半 と い う長 期 に わ た っ て ビル マ 大 使 を つ と め 、 任;期最:長の大 使 と も言 わ れ る(1)。 中 国 政 府 は 通 常 、 国 交樹 立 に合 わ せ て 友 好 国 に 新 華社 分 社 を 置 い て い た。 これ に倣 って 、 ラ ソ グー ソ に も新 華 社 分 社 が設 立 され 、新 華 分 社 代 表 兼記 者 と して 王 昌 運 が 派 遣 され た 。 そ の後 、緬 中 友 好 協 会(会 長=シ ソポ博 士)が1951年10月20日 に、 中 緬 友 好 協 会(会 長=鄭 振 鐸)が1952年5月11日 そ れ ぞ れ 設 立 され た。 (1)中 国大 使 が1958年4月 に姚 仲 明 か ら李 一 氓 に交代 した の は 、 ビル マ 自 由同盟 が ウ ・ヌの 廉 潔派 と ウ ・バ ・ ス ェの強 固 派 とに分 裂 し、 ネ ・ウ ィソ将 軍 が 「看守 内閣 」 を組 織 す ると い う ビル マ の 内政 の変 化 を考 慮 した た め で あ る。 同時 に、新 華 社 代表 も王 昌 運 か ら解 力失 に交 替 した(前掲 書 『四個 時 期 的中 緬 関係 』85頁)。 同 じ く1963年9月 に中 国大 使 が 李 一氓 か ら耿踏 に交代 した の も、1962年3月 に ビル マ で クー デ ター に よ りネ ・ ウ ィ ソ将 軍 が全 権 を 握 る ビル マ連 邦 革 命 委 員会 が政 権 を掌握 した こと を考 慮 した か らで あ る。耿 踏 は解 放 軍 の 将 軍 か ら外交 官 に 転 じた人物 で 、す で に外 務 副大 臣 を経験 して い た。 また 、中 緬 国境 問 題 の解 決 に 貢献 し た と ビル マ側 か らも見 な され て い た 人物 で あ る。 大 使 の 交 代 に合 わ せ て 、新 華 社 代 表 も于民 生 に交 替 した (前掲書 『四個 時 期 的 中緬 関 係』馳97頁)。

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5.1950年 代 の 中 緬 関 係 早 期 に国 交 が樹 立 さ れ た に もか か わ らず 、 中 国 と ビル マ との そ の後 の外 交 関係 は 見 る べ き進 展 が 当初 は 見 られ な か っ た。 国 交 樹 立 とい う事 実 の み が 先 行 し、内 容 の あ る外 交 は展 開 され て い な か っ た 。 そ れ は 、 建 国 当初 の 中 国 の最 大 の外 交 課 題 は 隣 接 地 域 で 起 こ っ た朝 鮮 戦 争 とイ ソ ドシ ナ 紛 争 で あ り、 そ れ 以 外 の外 交 を展 開 す る余 裕 は な か った か らで あ る。 中 国 ・ビル マ の外 交 が展 開 され る の は 、1953年 に 朝 鮮 戦 争 が停 戦 し中 国 が独 自 に平 和 共 存 外 交 を押 し進 め始 め て か らで あ る。 そ れ は 、 ビル マ側 の 中 国 に対 す る 「疑 心 暗 鬼 」 の態 度 に 起 因 す る もの で も あ った 。 両 国 の 間 に は 2,000kmに 及 ぶ 国 境 問 題 の ほ か 、 武 装 闘争 を展 開 す る国 内 の 共 産 ゲ リラ問 題 が あ っ た か らで あ る。 また 、 ビル マ に侵 入 した 国 民 政 府 軍 残 留 部 隊 の問 題 も存 在 して い た。 ビル マ に 赴 任 した姚 仲 明大 使 の 任 務 は 、 国 境 を接 す る ビル マ との善 隣 友好 関係 を発 展 させ 、帝 国 主 義 国 が ビル マ に軍 事 基 地 を設 置 して 中 国 の国 家安 全 保 障 を脅 かす こ とを 防 ぐこ とで あ っ た。 また 、 朝 鮮 戦 争 の勃 発 と米 軍 第 七 艦 隊 に よ る台 湾 海 峡 封 鎖 に よ っ て 、 ビル マ の華 人 社 会 に お いて も、 親 台勢 力 が騒 ぎ立 て 、 時 に 暗 殺 事 件 な ど の テ ロ活 動 を起 こ して い た。 姚 仲 明 大 使 は か な りの 精 力 を こ う した 国 民 政 府 の 残 留 勢 力 へ の対 処 に割 か な け れ ば な らな か った。 中 国 の対 ビル マ 外 交 は 、 周 恩 来 自 らの行 動 と直 接 の指 示 に よ り晨 開 され た。1954年6 ,月の 周 恩 来 の 初 の ビル マ 訪 問 は 、 「平 和 五 原 則 」 を 国 際 社 会 に示 し、 世 界 に大 き な反 響 を もた ら した 。 こ .れに対 す る返 礼 と して 、 ウ ・ヌ総 理 に よ る初 の 中 国 訪 問 が 同 年12月 お こな わ れ た。 ウ ・ヌ総 理 一 行 は17日 間 も中 国 に逗 留 し、 広 州'・漢 口 ・北 京 ・瀋 陽 ・長 春 ・鞍 山 ・大 連 ・南 京 ・上 海 ・杭 州 等 を訪 れ 、広 東 を経 て帰 国 した。 ウ ・ヌは12月10日 の告 別 式 の 席 上 「友 誼 の道 を11日 歩 い た後 、 我 々 の 疑 い と恐 れ は 消 え た」 と述 べ 、 両 国 の友 好 関 係 の進 展 に 自信 を深 め た 。 ウ ・ヌは訪 中 の成 功 を 感 じて 、 帰 国 後 『中緬 友 誼 録 』 の 出 版 を指 示 した 。 そ こ に は 、 ウ ・ヌの 「中 緬 友 誼 」 を 含 む7人 の訪 問 記 が収 録 され て い る(1)。 周 恩 来 の ア イ デ ア に よ り、 ビル マ と の友 好 関係 を発 展 させ るた め に、 まず 民 衆 を 引 き つ け や す い文 化 ・芸 術 面 で の交 流 促 進 が 図 られ た 。1955年 、 文 化 代 表 団 を 派 遣 した の に続 い て 、 翌 年 に は 中 国 芸 術 代 表 団 が 訪 問 した 。 同年 に は 郭 洙 若 を団 長 とす る全 国 人 民 代 表 大 会 友 好 訪 問 団 も訪 問 し た。 これ に は 、 宋 慶 齢 や廖 承 志 も参 加 して お り、 徐 四 民 ら ビル マ 華 僑 と座 談 会 を行 って い る 。孫 文 未 亡 人 の宋 慶 齢 の ビル マ 訪 問 を提 案 した の は 周 恩 来 で 、両 国 の 友 好 関 係 の 深 化 と中 国 の影 響 力 拡 大 を 意 図 した も の で あ った 。 宋 慶 齢 の ビル マ 訪 問 は 、 ビル マ側 で ア ウ ソ ・サ ソ将 軍 夫 人 が 自 ら 接 待 に 参 加 した り、 宋 慶 齢 が ビル マ 女 性 界 と 会 見 して 鼓 舞 す るな ど、 きわ め て 良 好 な影 響 を 生 み 出 した 。 周 恩 来 自身 、 宋 慶 齢 の対 外 活 動 が作 り出 した 影 響 は何 人 も取 って 代 わ る こ とが で き な い と語 って い る(2)。 両 国 は 軍 事 面 に お い て も相 互 の 信 頼 関 係 を深 め るべ く、 軍 事 代 表 団 の 相 互 訪 問 が な され た。 1955年9月23日 一10月7日 、 ネ ・ウ ィ ソ将 軍 は ビル マ 軍 事 友 好 代 表 団 を率 いて 第1回 の 訪 中 を お (1)そ の 中 で 、 ウ ・タ ソの 厂私 の 見 た新 中国 」 とア ウ ソ ・ジ大 佐(総 理 の計 画 秘書)の 「友 誼 一平 和 」 が人 目を 引 くもの で あ っーた。 前掲 書 『中緬 友 好 両 千 年』139、40頁 。 (2)姚 仲 明 「憶 周 恩 来 同志 我 深 感 受教 育 」(田 曽佩 ・王 泰平 主 編 『老外 交 官 回憶 周 恩 来』 北 京 ・世 界 知識 出版 社 、1998年)238頁 。

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こ な った 。10月5日 に は 毛 沢 東 主 席 の接 見 を受 け 、 朱 徳 元 帥 の主 催 に よ り歓 迎 パ ー テ ィ が 催 さ れ た(1)。 この 訪 中 を通 じて 、 ネ ・ウ ィ ソは 、 「私 は 中 国 に来 る前 は 、 ビ ル マ の 安 全 に つ い て疑 念 を抱 い て い た 。 しか し、 中 国 に 来 て か ら自分 の 目で 中 国 の実 際 状 況 を見 て 、 私 の疑 念 は完 全 に打 ち消 され た。」 との 感 想 を漏 ら し、 「中 緬 友 好 へ の 貢 献 」 を 表 明 す る に い た っ た(2)。1956年12月 には 周 恩 来 の 第3回 ビル マ訪 問 に 合 わ せ て 、 葉 剣 英 を 団 長 とす る中 国 軍 事 友 好 代 表 団 が ピル マ を 訪 問 して い る。 ま た 、 ビル マ で は 仏 教 が 国教 と定 め られ て い る こ と を考 慮 して 、 周 恩 来 は 適 時 に ビル マ仏 教 界 と関 係 を打 ち立 て て お く こ とが 必 要 で あ る と考 え 、趙 朴 初 を数 名 の 高 僧 と と もに ビル マ に 派 遣 し た 。 ビル マ か ら中国 の仏 牙 を ビル マ で 敬 仰 で きる よ う依 頼 され 、1955年10月 ビル マ 仏 教 代 表 団 が 送 られ て きた。 代 表 団 一 行12人 は、 ビル マ 仏 教 協 会 副 会 長 ・ビル マ最 高裁 判 所長 官 の ウ ・テ イ ソ・ マ ウ ソ(呉 登 貌)団 長 と 、 ビル マ 仏 教'協会 秘 書 長 ・世 界 仏 教 総 会 副 会 長 ・ビル マ最 高裁 判 所 判 事 の ウ ・チ エ ン ・ トソ(呉 千 呑)副 団長 に率 い られ て い た。 周 恩 来 は10月3日 夜 に は 自 ら仏 教 代 表 団 及 び 同 時 期 に 訪 中 して い た文 化 代 表 団 を歓 迎 宴 に招 待 した。 ビル マ 仏 教 代 表 団 は贈 り物 と して 、 釈 迦 牟 尼 玉 仏1尊 と三 蔵 経1部 を 中 国 仏 教 協 会 に献 呈 した。 ビル マ 仏 教 代 表 団 は10,月4日 、 北 京 の 広 済 寺 に赴 き、 仏 牙 を拝 領 した 。 中 国 仏 教 協 会 は仏 牙 護 送 団(団 長=趙 朴 初)を 特 派 した 。10月 15日 、 仏 牙 輸 送 の専 用 機 が ラ ソ グー ソ空 港 に到 着 す る と 、 バ ・ウ大 統 領 が ビル マ仏 教 代 表 団 よ り 仏 牙 を受 け 取 り、 特 設 の専 用 車 に 安 置 した。 バ ・ウは 「ビル マ は パ ガ ソ王 朝 以 来1000年 間 、 ず っ と中 国 か ら仏 牙 を お迎 え し、敬 仰 す る こと を希 望 して い た。 そ れ が 毛 沢 東 主 席 と周 恩 来 総 理 の 誠 意 に よ り、 つ い に実 現 した」 と述 べ 、 中 国 に謝 意 を表 明 した 。 仏 牙 の 専 用 車 は仏 教 儀 仗 隊 と楽 隊 に導 か れ て 、 ラ ソ グー ンの 和 平 塔 に運 ば れ、 大 聖 窟 内 に 安 置 され 、1956年6 .月まで8ヶ 月 に わ た っ て 人 々 の敬 仰 に供 され た。 空 港 か らは、 仏 牙 を敬 仰 す る善 男 信 女 が 十 数 キ ロに わ た って 大 通 りの 両 側 を埋 め た 。 ビル マ の仏 教 徒 は 中 国 が 自分 た ち に仏 宝 を仰 ぎ見 る貴 重 な機 会 を 与 えて くれ た こ とに 感 激 した 。 この 盛 況 は ラ ソ グー ソで 空 前 の もの で あ る と言 わ れ る。 多 くの仏 教徒 は 感 動 して 、 「中 国 の仏 牙 を拝 む こ と が で き る と は、 私 の一 生 の 中 で最 も幸 福 な瞬 間 で あ った。 我 々 は永 遠 に 中 国 政 府 と中 国 人 民 に感 謝 す る。」 と述 べ た(3)。 こ う した相 互 訪 問 を通 じて 、 両 国 の 関 係 はユ960-61年 に一 つ の 頂 点 を迎 え た。 両 国 の 国境 問 題 を 解 決 した1960年 は 「中緬 友 好 年 」 と して 史 書 に記 録 さ れ る一 年 と な っ た。1960年 か ら61年 に か け て 、 両 国 の 総 力 を あ げ た大 型 友 好 訪 問 団 が相 互 訪 問 を く り返 した 。 まず1960年9月28日 か ら10 月4日 ま で 、 ビル マ 国 家 指 導 者 や 地 方 各 界 代 表 お よび 中緬 国境 合 同 委 員 会 ビル マ側 委 員 と そ の 家 族 か らな る政 府 代 表 団(軍 事 代 表 団 、貿 易 代 表 団 、文 化代 表 団 、体 育 代 表 団 、 新 聞 代 表 団 を 含 む)、 計350人 余 りが 北 京 を訪 問 した。 中 共 中央 主 席 毛 沢 東 や 劉 少 奇 国家 主 席 が ウ ・ヌ総 理 や ネ ・ウ ィ ソ将 軍 ら と接 見 した 。10月1日 、 つ ま り中 国 の国 慶 節 の 当 日、 北 京 の 人 民 大 会 堂 で 周 恩 来 総 理 と ウ ・ヌ総 理 が 中緬 国 境 条 約 に調 印 した 。 ま た、 ビル マ の 国賓 た ちは 建 国11周 年 式 典 を 観 閲 した 。 (1)こ の時 期(1955年9月 一10,月)には 、 ほか に仏 教 代表 団 、 文化 代 表 団 、郵 便 電話 代 表 団 も訪 中 して いた 。 こ れ に続 い て 、10-11月 には サ ッカー ・ビル マ代 表 チ ー ム と商 品調 達 代 表 団が訪 中 した。 (2)前 掲 書 『中緬友 好 両 千 年』184頁 。 (3)前 掲書 『中緬 友 好両 千 年』216-218頁 。 この中 国仏 牙舎 利 の ビル マ展示 は改革 開放 の時 代 に も再 び行 わ れ 、 1994年4月20日 か ら6月5日 まで の45日 問 、 ラ ソ グー ン とマ ソダ レー 両都 市 で展 示 され、 ピル マ人 口の10分 の1に 相 当 す る計450万 人 が 中国 仏牙 を拝 ん だ。

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ビル マ 政 府 は10月1日 、 国境 条 約 の 調 印 を祝 って 、 中国 政 府 を通 じて 、2千 トソの 米 と1千 トソ の食 塩 を ビル マ 国 境 地 帯 に住 む100万 人 の 中 国公 民 に 贈 った 。 そ れ に続 いて 、 ビル マ政 府 の 招 きで 、1961年1月2日 か ら9日 まで 、 周 恩 来 が 率 い て 、計437 人 の 大 代 表 団 が ラ ソ グ ー ソを訪 問 した 。 大 代 表 団 は、 政 府 代 表 団 の ほ か 、 軍 事 代 表 団(団 長=張 愛 萍 副 総 参 謀 長)、 雲 南省 代 表 団(団 長=劉 明輝 副省 長)、 国 境 合 同委 員 会 中 国 代 表 団(団 長=姚 仲 明)、 仏 教 代 表 団(団 長=喜 饒 嘉 錯 副 会 長)、 体 育 代 表 団(団 長 ・=魯挺 大 佐)、 文 化 芸 術 代 表 団 (団 長=張 致 祥対 外 文 化 委 員 会 副 主 任)、 新 聞工 作者 代 表 団(団 長=康 矛 召)、 映 画 代 表 団(団 長 =陳 播)の8つ の 代 表 団 を伴 って い た 。 政 府 代 表 団 には 、 陳 毅 副 総 理 と張 茜 夫 人 、 羅 瑞 卿 副 総 理 兼 総 参 謀 長 と夫 人 、 李 燭 塵 軽 工 業 相 、 耿 飃 外 務 副 大 臣 、 雷 任 民 対 外 貿 易 副 大 臣 、張 致 祥 対 外 文 化 委 員 会 副 主任 、 蔡 廷 楷 体 育 運 動 委 員 会 副 主 任 、 栄 毅 仁 紡 織 工 業 副 大 臣 ら が含 ま れ て い た。 これ は 、 中 国 の建 国 以 来 最 大 規 模 の友 好 訪 問 団 で あ っ た。 訪 問 期 間 中 の1月4日(ビ ル マ 独 立 記 念 日)、 ラ ソ グー ソ で双 方 は 国境 条 約 の批 准 書 を交 換 し た。 この歴 史 的 な偉 業 を祝 って 、 中 国 政 府 は 中 国 の 国境 地 帯 に住 む ビル マ公 民120万 人 に240万 メー トル の 布 と60万 個 の 大 皿 を 贈 った 。 ビル マ で は 国 を 挙 げ て の 歓 迎 を受 け、 「中国 は ビル マ の 最 も よ き隣 国 で あ り友 好 国 で あ る」 「中 緬 両 国 人 民 は パ オ ポ(胞 波 、 ビル マ 語 で 兄 弟 姉 妹 の 意)で あ る」 「中 緬 両 国 人 民 は 子 々孫 々友 好 を続 け て い こ う」 とい うス ロ ー ガ ソが 人 心 に深 く染 み込 ん で い っ た 。 ビル マ の 新 聞 も「ビル マ の全 国民 衆 は 中緬 友 好 万 歳 の 海 洋 の 中 に浸 って い る」と形 容 し癒(1)。 こ う して 、 中 緬 友 好 の基 礎 が 固 め られ 、 パ オ ポ友 好 関 係 は 両 国 の 指 導 者 と国 民 の胸 に歴 史 的 記 憶 と して刻 み 込 まれ 、 今 日に 至 っ て い る。[1999年10月6日] 【本 稿 は文 教 大 学 国際 学 部1996年 度 共 同 研 究 費 に よ る研 究 成 果 の 一 部 で あ る】 (1)前 掲 書 『中緬 友好 両 千 年』165頁 。

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