Title
不真正不作為犯論の批判的考察(一)
Author(s)
神山, 敏雄
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 5(1): 29-72
Issue Date
1964-08-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10804
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不真正不作為犯は、刑法学に於ける難問の一つである。さればこそ本罪を解決せんとする試論は多岐に亘る。然し、未だ満 足すべき結論に到達したとは恩われない。それどころか我固に於ては木村博士がナl
グラーに代表される独逸の通説的見解で ある保証人説を採用されたことを契機にこれからが右理論との対決を通じて活発な議論が展開されると思われる。斯かる中に あって、私は従来の独逸と我国の理論を分析、批判し積極的に私見を展開してみたい。従来の理論に於ては、ややもすると全 刑法体系との関連性を看過して ζ とを論ずる傾向があった。しかし、不真正不作為犯の本質を解明するには全刑法体系から立 体的に考察する必要があると思う。このことは本論に於て明らかにされると思われるが、果してその意を満しているか否かは 読者の批判を待つ以外にない。 本論文の概要は、他の法律雑誌に掲載されるととになっているが紙数の関係上、詳細に記述することは不可能であった。そ れ故に本誌には論文の母体を掲載し、思うま h に筆を取ってみたい。今回は学説の分析を主とする。誤訳や誤解も出て来ると 思うが卸叱正を願えたら幸と存じます。 ニ 九目
次
第一章
不異正不作為犯論
第一節違法論に立脚する見地 第﹂項ムドイツに於け石学説 沸 二 項 我 固 に 於 け る 学 説 第二節構成要件論に立脚する見地 第一項ドイツに於ける学説 川 ナi
グラーに代表される保証人前 グエルツエルの見解 っ マ ウ ラ ツ ハ の 見 解 第 二 頃 我 固 に 於 け る 学 説 第三節行為論に立脚する見地 第 一 項 。H
・マイヤl
の見解 第 二 項 我 国 に 於 け る 学 説 第 四 節 カ ウ フ マ ン の 見 解 第 一 項 行 為 論 第 二 項 構 成 要 件 の 構 造 第 三 項 規 範 的 構 造 第四項真正不作為犯と不真正不作 為 犯との区別方法 第 五 項 保 証 人 的 地 位 第ホ項作為譲務の体山系的地位 (以上は本号)。
第二章
第一節 第二節 第三節 第四節第三章
第一節 第二節 第三節 第四節 第五節 学 説 に 対 す る 批 判 の 展 開 違法性説に対する批判 構成要伴説に対する批判 行為論に対する批判 カウフマンの理論に対する批判 聞 か れ た 翼 正 身 分 犯 と し て の 理 論 構 成 ( 私 見 の 展 開 ﹀ 行為者要素としての作為義務 構成要件の機能め統一的把握 不作為と作為の上位概念の統一的把握 共犯体系との関係 間接正犯との関係第一章
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従来の学説は、如何なる根拠に基づき 1 切 ゆ 拘 叩v g
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題となるのは、作為義務の体系的地位である。即ち、その位置附けを違法性におくか構成要件におくかそれとも如何なる地位 をも有しないとするかによって理論は分れる。更らに右の理論の内部に於ても学説は紛糾する。学説の分析順序を左に記すと 次 の 様 に な る 。 不真正不作為論を作為と同等に置く第一の途を歩んだのはわ川l
デシヤクルl
クであった。ルl
デシの理論によると不作為犯 と云われるものに於て不作為と云うのはなく、人間の積極的行為に結果侵害の原因を求める。例えば、母親が授乳せずに赤児 ( 2 ) を殺害する際に、靴下を編んでおれば、その有為が殺人の原因だとする。更らに作為義務は因果関係の条件であるとも解され ︽ S V た 。 しかし、これらの理論構成は批判するまでもなく不当なことが明らかとなる。今日に於ては右理論を主張する者は皆無と思 わ れ る 。 第二の途を歩んだのが違法性の理論である。此の理論は今日に於ても有力であり、我国ではいまだ通説的見地を形成してい ︽ 4 ) る。ドイツに於ては衰退の一途を辿っているのであるが別の面から作為義務を違法性の問題として取扱う学者も楢唱えてきた。 違法性説の代表者たるべl
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シ グ 、M
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、マイヤl
、ずクエルの理論に我々は目を向けることによってドイツの学説の一様 の分析はなされ得るであろう。我国の学説は、牧野博士と木村博士の旧理論、団藤教授、江家博士の諸理論に求めていく。 第三の途を歩んだのが構成要件理論であり、との理論は違法性説を批判した結果生まれてきた。乙れはナl
グラーによって ( 5 v 主張され、現在のドイツの支配的見地の地位を占めている。保証人説の内部に於ても、作為義務の附着した保証人的地位を行 為要素とする説と保証人的地位から作為義務を分離しそれを違法性の要件とする説に分れる。 第四の途を歩んだのがH
、マイヤl
の行為理論である。彼は、従来の義務侵害説を鋭く批判して、不真正不作為犯に於ける ︽ 6 ) 行為は真正な作為であることを主張する。無論、彼の理論も構成要件説の一種であるが、その理論がユニークなので別項で紹 介 す る と と に す る 。︽ 7 ) 第五の途を歩んだのがカウフマシの理論である。彼は従来の理論とは全く異った見解を唱えている。此の理論も出来る限り 詳細に紹介していく。ル
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デシやクルl
クの理論はとりたて、批判する必要もないと恩われるので違法性説から説く乙とにす る。まだまだ文献を漁って学説史的な考察も加えるべきと思うがこれは他日の機会に実現してみたい。 結果防止義務と同様な意味を表現するものに作為義務令官昼E
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としている。それ放に作為 義 務 を 違 法 住 の 問 題 と し て い る 乙 と が 結 論 附 け ら れ る 。 詳 細 は 別 項 で 紹 介 す る 。 註 註 ︽ 1 ) ︽ 4 ) ( 5 ) マ ウ ラ ツ ハ も 作 為 義 務 を 違 法 要 素 と し て い る 。 詳 細 は 別 項 で 説 明 す る 。 ︿ 包 ・ 沼 恒 回H
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違法論に立脚する見地
第一環 ド イ ツ に 於 廿 る 学 説H
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四 現代の構成安件の樹立者たるずへ
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三 号 n F W 冊 目 同 ) が 存 抗 す る こ と の 徴 で あ るl
多くもなければ少くもない。しかし、明らかに作為のみの表現は、積極 ( 2 ) 的に以められた構成要件に於て、不作為を通じて一つの制限が必要となる。もし構成要件侵害(叶巳z a
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構成要件の実現は、積極的に定式化されている構成要件に於て、原則 ( 5 ) として、違法ではなく特に義務を根拠附けている事情の存在の為にのみ違法である。﹂ べl
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見解によれば、作為による構成要件侵害は原則として違法性を徴表するが、不作為に於ては原則として違法性 を有しないのであるから、作為義務を有しない者の不作為までが構成要件該当の判断を受けることになる。そうして不真正不 作為犯の違法性を根拠附けるのは、あくまでも作為義務である。M
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シグとほぼ同様な思考過程を採っている。彼は、先づ真正不作為犯と不真正不作為犯との関係そ 次の舶︿説 / V o 規定された構成要件の表示機能(宮島町紅白ロ号司ロロE
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にはおかれ得ない。そうして其の根拠を次の 点に求めている。 コつの然止を認めている構成要件は、唯人は何を為すべきでないことを示すだけで、従って人は何を為すべきことを示す そこで水中で危険に{ 7 ) のではない﹂からとする。従って、作為することの禁止は、不作為にとどまる許可を含んでいる。そ ζ で次の ζ とが明らかと なる。構成要件該当の作為が法規又は法体系によって正当と認められることがないならば、 ζ の構成要件該当の作為は違法で あるのに対し、構成要件該当の不作為が禁じられることがないならば、その構成要件該当の不作為は違法ではない。斯様に不 ︽ 8 v 真正不作為犯の領域に於ては、原則と例外は、その場所を取り換えることになる。 以 上 が 、
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E-マ イ ヤ l の論旨であるが、彼は作為義務が違法性の要素である ζ とを明白に論述しているのではない。し か し 、 ﹁構成要件該当の不作為が禁じられることがないならば、その構成要件該当の不作為は違法ではない﹂と云う ζ と は 、 作為義務を有した者の不作為を前提にしていると思われる。さて、M
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グと同じ考え方を 採っている。しかし、規範的構造︿不真正不作為の)に関する彼の見解は高く評価される。ぺlpy
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の理論とは思考過程に 於て著しく異っている。先づ論述脅迫うことにする U 不作為は違法でなければならぬ。違法性をおよそ単なる形式的違法性、構成要件該当性、法規上の正当化事由の不存在と解 するのではなく::超法規的官σ m
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の見解を批判して次の如く論じている。 不真正不作為犯に於ける構成要件と違法性との関係は、作為犯の場・合とは違っており、 ζ h では構成要件は違法性を徴表し ないのであり、反対に特別な法的義務9
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違法性と構成要件該当性との関係は同じでなければならぬ。換言すれば、 構 成 要 件 に 落 ち る 態 度 ( ︿ 伺 同 町 MHR) は 、 正 当 化 事 由 ( 河 内 の 宮 崎 刊 込 山 崎 ロ ロ 関 岡 唱g a
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件 同 1 h岡 崎 同 - h n F H 曲 ・ ﹂ の中に於ては、特に先行々為(
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不作為も H 形 式 . 的 H には違法であり、唯、不真正不作為犯が成立するには特殊な法的義務ω
侵害が必要となり、それが実質的違法となる。彼( ロ
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の中で展開されている。ザワエルと同じ見解は、岡山a - P
内 臼 } ω n F 削除佐官宮等に見られると云われる。 に分析してみたい。 以上に於て、ドイツの代表的な違法性説は明らかにされたのであるが、他の学者の見解の紹介は文献が入り次第他日の機会 註 ( 1 ) 回冊目宮岡-U
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第二項 我国に於貯る違法性説H
牧野博士の理論 博士は、作為義務の法律上の構成につき如何なる地位を有するかについて、それを因果関係の要件とする立場に対立させて 次の如く論じておられる。 -定の行為が罰せらるべきものたるには因果関係の外に更らに行為の違法性が必要である。従って不作為に於ける法律上の ( 1 ) 義務の違反と云えるのは、其の違法性の要件と考えるのである。その迎由として作為の義務なき者と雄も若し其の場合に義務 者の為すべき作為と同一の作為を為したとすれば、其の結果の発生は防止されたに違いないのであるから原因力があると見る のが適切であるとされ、そうすると作為の場合にも結果に対した原因力があっても、それが適法なる限りその因果関係が法 七;1
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律上違法ではない。それと同様に、不作為についても因果関係の観念は単なる事実上の観念として ζ れそ取扱い義務違反の問 ( 2 ) 題は其の因果関係が法律上不法なりや否やの価値判断の方から見る方が適切であるとされる。従って、作為が法律の禁止を破 ぶるときに犯罪が成立すると同じく、不作為が法律上の命令を破るときに犯罪が成立する。前者は繁止毎破り、後者は命令を ( 3 v 破る点に於て差異はあるが、共に其の法律を破る点に於ては同一である。 ︽4 V 吏らに博士は作為義務の根拠について我が国固有の立場から公の秩序善良の風俗に求められる。従って不作為に於ては義務 違反が独り其の義務に違反する点のみならず、文其の結果に対する関係に於て公の秩序善良の風俗に反する場合であるとされ ︿ 5 v ヲ @ 。 博士の理論を要約すると次の四点である。 第 一κ
、因果関係と違法性とは別問題であり作為義務は違法性の要件である ζ と 。 第二に、作為義務の根拠を我が国固有の立場から公序良俗に求めたこと。 第三に、作為義務なき者ω
因果関係をも観念し、作為による場合と同様に解する。博士は構成要件該当と云う言葉 ζ そ 使 用 されてないが、思考過程に於てはラベlpy
グ とM
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、マイヤi
の理論と共通性があると解してよいであろう。 第四に、不真正不作為犯の規範的構造を命令と解した乙と。 木村博士の旧理論 構成要件該当と違法性との関係については次の様に論じておられる。 不純正不作為犯に於ても、亦、作為犯と同じく構成要件該当性は原則として違法なることを意味するならば、この点に関す る従来の通説が、作為犯と不作為犯との聞に認めた最後の差別的取扱は徹廃せられねばならぬ ζ と h な る 、 即 ち 、 作 為 犯 に 於 て、構成要件該当の行為・が正当防衛等実質的に違法性を阻却する事由(正当性)なき限り実質的に違法なりとせられるが如 く、不作為犯に於ても、構成要件該当の行為は主当事由なき限り実質的に違法なりと解せられるべき ζ と h なるのである。そ ( ゴ( 6 v して、乙の場合、実質的に違法、正当を決する中心概念は公の秩序善良の風俗であるとされる。 頁らに規範的性質については次の様に述べておられる。 不真正不作為犯の構成要件は、間接には積極的な構成要件的結果を作為によって成立せしめることを禁止していると同時に 叉不作為に因って ζ れを成立せしめる ζ とをも禁止して居るのである。 不作為義務を含むものであり、不作為に因って一定の結果を発生せしめる ζ とを禁止する規範はその結果を防止すべき作為義 務を含むものである。かく考えてみると、積極的な構成要件的結果を実現する乙とは、原則として、不作為義務の進反及び作為 ︽ 7 v 義務の違反、換言すれば違法性を徴表する ζ とを意味するとされる。作為義務の根拠については、牧野博士の理論を詳細に実 証されているが此の問題については、今回は立入らないので省略する。 一定の作為を禁止する規範はその作為に出でざるべき 要するに、牧野博士に代表される説にあつでは、構成要件的結果が不作為によって侵害された場合、当該不作為は原則とし て違違法ではなく司法的作為義務の存在によってはじめて違法性が根拠づけられたのに対じ、木村博士の理論は、不作為も同 様に禁止規範に違反して一一様違法とされる?喰、不真正不作為犯広於ては、特殊の作為義務が公序良俗の風俗から判断され、そ ︽ 8 v れが存在しなければ実質的な違法とはならないとされる。私の理解によると木村博士の理論はザワエルの理論と同一だと思
ら つ 。
(ず 団藤教授の理論 教授は、不作為犯の問題の要点は非類型的な違法性にあるのではなくて、まさしく構成要件該当性にある ζ とを指摘されな がらも、作為義務の取扱いは通説とは別の側面から違法性の問題として独自の理論を展開される。 教授の理論によると、不真正不作為犯の場合に、注意しなければならぬととは、通常の場合と違って、不作為が構成要件該 当性をもっといえるためには、まず、それが違法である ζ とを確めた上で、しかもその違法性が当の構成要件の予想する程 九四
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度、態様であることを明らかにしなければならない点であるとされ、普通ならば、まず、構成要件該当性を明らかにした上 で、その具体的違法性の有無の判断に立ち入る乙とになるが、不真正不作為犯では、構成要件該当性の判断の前提として、進 法性の判断をしなければならない。けだし、不作為は通常は社会生活上みのがされうるばあいが多いω
で、とくに違法なばあ ( 9 ) いでないかぎり、犯罪定型そのものにあたらないとみるべきだからであるとされる。そして、結局、不作為の違法性は、結果 ( 叩 } の発生を防止する法律上の義務に違反する ζ とによって基礎づけられる。しかし、作為義務に違反して違法性の判断を受けて( u v
も、構成要件該当の実行行為と云えない場合には不作為犯は成立しない ζ と に な る 。 江家博士の理論も私の理解によると、団藤教授の理論と同様なこと h 思われる。先づ論述を追う ζ と に し よ う 。 斯様に、一定の不作為が犯罪の特別構成要件に該当する為には、先づ、その不作為が、社会の一般的事情の下において違法 なものであるとと、即ち作為義務に違反するものであることが必要なのであるが、しかし、作為義務違反の不作為が直ちに特 別構成要件に該当するのではない。特に、不作為による結果犯の成立、即ち、不純正不作為犯の成立する為には、義務違反の 不作為と結果との聞に因果関係が成立しなければならない。では、 ときには、それで構成要件に該当すると謂ひ得るであろうか。これを肯定する学者もいるが、しかし、刑法は特別構成要件に 一定の不作為が、作為義務に違反し且つ因果関係を有する 該当する行為には一定の刑を科しているのであるから、 一定の不作為が特別構成要件に該当するとせられる為には、その不作 為が右の法定刑を科せられるに足るべきものでなければならないとされる。 要 す る に 、 一定の不作為が構成要件に該当するには、単に其の不作為が、作為義務に違反し、且つ結果に対し因果関係を有 するのみならず、更らに、その不作為に対し、当該構成要件に該当する行為に科すべき、法定刑を科するに足る反社会性がな ( m M ) ければならないのである。註 A 1 v 牧 野 博 士 ﹁ 不 作 為 の 違 法 性 ﹂ ( 大 正 九 年 V 九
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九 一 頁 牧 野 博 士 前 掲 ( 2 v 九 四 頁 ( 3 V 牧 野 博 士 前 掲 九 五 頁 ( 4 V 牧 野 博 士 前 掲 二 二 頁l
一 一 一 ユ 頁 参 照 ( 5 ) 牧 野 博 士 前 掲 コ コ 二 頁 ( 6 ) 木 村 博 士 ﹁ 刑 法 解 釈 の 諸 問 題 ﹂ ︽ 昭 和 三 十 二 年 ︾ 二 二 八 頁 木村博士前掲主主頁 木 村 博 士 ﹁ 不 作 為 犯 に 於 け る 作 為 義 務 ﹂ 牧 野 教 授 還 歴 祝 賀 刑 事 論 集 七 一 頁 以 下 参 照 団 藤 教 授 ﹁ 刑 法 綱 要 ﹂ ︽ 昭 和 三 十 四 年 V 九 九 頁 団護教授前掲一OO
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頁 江 家 博 士 ﹁ 江 家 議 男 教 授 刑 事 法 論 文 集 ﹂ 第 三 八 頁1
三 九 頁 ︽ 7 ) ︿ 8 V ︿ 9 v ︿ 叩 V( u v
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第二節
構成要件理論に立脚する見地
不真正不作為犯の本質は、構成要件にある ζ とを主張する理論にも、種々あるが特に本節に於ては、ナl
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﹀を中心に分析してみたい。 ナl
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の保証人説の出現以前のドイツに於ては、不真正不作為犯の本質は違法性にあって、作為義務は違法性の要件と ( 1 ) したのが通説、判例であった。ナl
グヲl
の理論は、作為義務と規範との混同を排除して作為義務を構成要件の客観的メルク
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とする ζ とによって画期的なものとして評価される。 四四 我固に於ては、違法性説が通説となっているが、ドイツに於ける保証人理論の影響を受けて漸次その理論が有力になりつ h あり、不真正不作為犯を論ずるに保証人説を無視する乙とは許されない状態にある。しかし、我固に於て、小野博士が不真正 不作為犯の本質は構成要件該当性にある ζ とを指摘し、しかも本犯は一種の真正身分犯だとした ζ とは我国の刑法学界の誇る ペき功績とされている。それでは次に学説を概観する ζ と に す る 。 第一項 ドイツに於げる学説
H
ナl
グヲーに代表さ・れる保証人説用保証時義務を行為要素とする﹀ ( 2 ) ナl
グラーの保証人理論は、ドイツの支配的地位を占めている。ナl
グヲl
の論文が手に入らず間接的にマクラツハ、グエ ル ツ エ ル 、 H 、マイヤl
、カタフマン等の論述を借用して保証人理論を概観する。 さて、全べての不作為が、勿論、作為と同価値とされるのはなく、それが為には、保護された法益の為に保護の要請に対し て、社会的関係に於て義務附けられた者の特別な義務関係が存在せねばならぬ。それ故に、結果防止が義務附けられた者は、 ( 3 } 保護法益を侵害しない為に法的に保証人として特色鮒けられねばならね。それで、行為者が社会的秩序に於ける彼の地位の為 に、結果防止に対して彼が義務附けられている保証的機能(のR
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を有している場合にのみ、構成要件的結果 ( 4 V に同等に置かれる。換言すれば、不作為に の不防止は構成要件的結果の積極的惹起と不法内容的(官ロ5
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戸 ロ M 声旦血刷﹀が危険に曝されている構成要件該当の結果の防 ( 5 v 止をする義務をもって、保証人にあてがうときに作為者と同等に立つ。そして従来まで個々バラバラに列挙していた結果防止 義務を保証人的地位(の雪尚早口洋ロロロ肉)と云う法的像によって構成要件的メルクマールとして明らかにした点に功績がある。 マクラツハは、特に此の保証人的機能は単なる救助義務から結果防止義務を区別し、真正不作為犯から不真正不作為犯を区別 ( 6 ) する為ω
もっとも安全な手段であると云っている。保証人説の最も特徴ある要素は、上述の如︿、特別な結果防止義務を含んだ保証人的地位を構成要件の客観的な
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-とする ζ とである。此の共通的で一般的な作為義務が構成要件に位置附けられるとしても、それが果して行為要素 とされるのかそれとも行為者要素とされるかについては争いがある。ナl
グラーはこの点については前者としていた様であ る。グエルツエルは此の ζ とを次の様に云っている。 ナl
グラl
は、此の問題の所在を、構成要件該当性にしかも不作為の保証人的地位にあることを指摘したが、しかし彼も亦 ( 7 ) ︿ 8 ) ?構成要件的行為にあるのではなく、行為者要素公営冊目。伊良忌n
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富 市 同 町 民 泊 目 ﹀ に あ る こ と を 見 途 っ て い た と す る 。 る の で あ り 、 要するに、ナi
グラ!の見解によると、特別な結果防止義務を履行しない保証人の拒絶がその不作為を構成要件の本質にす ( 9 ) その結果、当該不作為は構成要件該当の作為と同価値とな石。 以上の如く保証人的地位を構成要件の客観的メルクマールとする ζ とによって次の様な効果が明らかとなる。即ち、不真正 不作為犯の主観凶構成要件め構造は、故意犯にあっては結果防止義務の存在に関する認識が必要となる。そして作為義務の存 在と範国についての錯誤は、故意を阻却する構成要件的錯誤(叶a
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と云う決定的な結論が得られる。此の場 合に、もし、法律上の義務の不認識が避け得られたならば、不作為犯が過失により犯され得る限り、行為者は過失責任に問わ れ る 。 ζ h で注意すべき ζ とは、作為義務の認識について、不作為者は特別な法的概念を認識する必要はなく、俗人の範聞に( m )
於ける司同色町言印三g
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で 充 分 で あ る 。 以上に於て、保証人説の客観的、主観的構造が明らかにされた。此の理論は、作為と不作為の同格性を構成要件該当性の段階に 於て解決するのであるが、此の理論によってはじめて不真正不作為犯の構成要件該当性が問題になったのではなく、因果説(ルI
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アシに代表される)に於ても、因果的行為が問題になっている故に当然構成要件該当性が前提とされている。それでナl
グラ ーの新発見は、構成要件該当性に於て、作為と不作為を同格にしようとする点にあるのではなく、犯行に該当しない不作為を構 ( U ) 成要件から排除する為に、新しい構成要件のメルクマール即ちの回目E
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因果性又は 作為の把握によって達せられるのではなく、特別に附加した構成要件のメルクマールによるのである。それはナl
グラーによ ると構成要件の拡張ではなく、むしろ目的々に導びかれた拡張的条文解釈守電R
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( 盟 ) の方法に於て、構成要件を正す乙とを意味する。 最後に指摘しなければならぬ ζ とは、不真正不作為犯の規範的構造である。ナl
グラーによると、不真正不作為犯は││真 ( 臼 ) 正不作為犯に対しll
禁止規範に違反した行為であるとされる。 ( M V マワラツハも独逸刑法第一版では保証人説(ナl
グラl
の﹀に立脚していた。規範的構造についても次の様に述べている。 不真正不作為犯の基礎となっている規範は、まさに作為犯の場合と同様に禁止規範である。 ( 臼 ) 守の為に積極的作為を命じているとする。 一方作為義務は、禁止規範の遵 ︿m v
彼 の ﹁ の 富 田 島 民 湯 島 仲 田ω
昨日常日伊丹明﹂の中に於てはより明確に右のことが論述されている。 註 ︿ 1 ) 独 逸 の R G は 結 果 防 止 義 務 を 初 め は 犯 罪 行 為 の 問 題 と し て い た が 、 後 に は 違 法 性 の 問 題 と し た 様 で あ る 。 し か し 、 BGH は 保 証 人 説 に 立 脚 し て い る と の 乙 と で あ る 。~ ~
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を行為者要素として作為義務を保証人的地位から分離している。しかもグエル 四 五四 六 ヅエルは不真正不作為犯を真正身分犯とたし点に特色がある。彼の論述を追うと次の如くなる。 作為構成要件の場合は、 斗 削 箆 耐 弘 骨 吾 目 F 同 削
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で あ る 宅 。 ζ れに反して、構成要件該当の結果を防止しない全ぺての人(街防止出来たにも拘=ら り ( 1 ) ず)が、明らかにその為にのみで当該作為犯の行為者としてみなされるわけではない。従って不真正不作為犯に於ては、此の 行為者の確定が必要である。行為者性(
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根拠附けなければならぬ。ある一定の行為支配力のある者によって、構成要件的結果を防止しないことのみがその人を作為犯 ︽ 2 ) 一種の真正身分犯ハ2
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巾邑色町宮)である。例えば、真正身分犯 は、構成要件的態度とは独立に特別な行為者的メルクマールによって の行為者にする。不真正不作為犯は、其の点に於て、 に於て、委任された他人の私的秘密を裏切っても原則として刑法的には無関係である。しかし、弁護士、医師、薬剤師にとっ ては、此の行為は違法である。こ h では、常に侵害された法益に対して、はじめから一定の密接な関係がある人が行為者とし て問題となる。従って、不真正不作為犯に於ても、原則として、行為支配力のある者が構成要件該当の結果を防止しなくても 刑法上は無関係である。こ h では、はじめから法益に密接な関係ある一定の行為支配力ある者にとってのみ構成要件該当の結 果の不防止が作為犯の違法となる。斯様にして不真正不作為犯にあっては、行為者の態度の違法性は、先ず特別な行為者的メ ルクマールの附加する乙とによって根拠附けられる真正身分犯の構成要件的特徴と同じくする。しかし、法的に規定されてい る真正身分犯の場合は、客観的行為者的メルクマールは、法上の構成要件の中に具体的に叙述されている(例えば、弁護士、 医者、裁判官等)。乙れに反して、全べての不真正不作為に於ては、作為構成要件(田市問。宮口明師S
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の変形を通し て不作為者決定の為の特別な行為者的メルクマールは、法的に規定された構成要件からは得られない。何故ならば、ほとんどの ︽ 3 ) 作為犯は行為者として唯、無名の H 者 H のみを認めているからである。斯くの如く、グエルツエルは、不真正不作為犯を身分犯 として構成するが、身分を形成するのは、作為義務を含んだ保証人的地位ではなく、それが分離された保証人的地位である。 乙 の ζ とは後に明瞭になる。今一度彼の結論に目を向けよう。不真正不作為犯の場合に、裁判官は、構成要件を補充する ζ と自体によって、 見可ねばならぬ。裁判官は、作為犯の法的構成要件から唯、構成要件該当の態度のみを直接的に引出すことが出来る。これに 反し、不作為者自身のメルクマールは苦労して引出さねばならぬ。それ故に、不真正不作為犯の構成要件は一部のみ法律上の
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-を 発 ものであり、これに対する他の部分は盲目的構成要件(
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にして、裁判上のものである。此の点に国法上に於 けるが如く、学説上の関係に於ても不真正不作為犯の決定的な問題がある。乙 h では、罪刑法定主義ω
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-は、法律的には決定されない。此の摂拠から不真正不作為犯に 対する憲法的疑問が常に主張された。解釈論上、不作為者について、書かれざる構成要件的要素ぞ充分なる決定をもって解釈 す る ζ との危険性(裁判官にとって)は法律的に規定された構成要件の叙述の不備に由来する。此の解釈論上の困難は、一定 の規定が欠けていることにあるのではなく、そのことの性質による。規定された構成要件にあり得る全べての不作為者を遺漏- 一
4V なく具体的に記述することは原則として不可能である。がしかし、少くとも現行法上は次の様な基準をあたえるとする。即 ち、真正身分犯の構成要件から例えば訴訟依頼人の為の弁護人、被後見人の為の後見人、監禁維持の為の監視人等の様に当該 法益の為にそれを守るべき所の、はじめから脅かされた法益に対して密接な関係にあり、行為支配力のある者のみが問題とな るととが明らかとなる。此の法律的基準は、解釈論上、国法上、不真正不作為犯の問題を緩和する。即ち、記述されている法 律から次の ζ とが結論される。不作為としては、脅かされている法益とはじめから密接で特別な生活関係にある者のみが、法益 の不侵害の為の保証人となる。脅かされている法益に対して実際の保証人的地位を占めており、此の地位にあって防止出来た A一
5 ) に拘らず、構成要件該当の結果を防止しなかった者のみが、不作為者である。 以上の如く、グエルツエルは、保証人的地位を行為者的メルクマールとして構成し、現行法との関係に於ては、真正身分犯 の間接的な基準ーによって行為者を決定せんとする。しかし、これまでの論述の中で作為義務の体系的地位については全然タツ 四 七四 八 ずしてない。作為義務の問題が明確になるのは、責任の段階に於てである。そ ζ では次の如く述べている。 不作為者が、法益と彼が結びつけられている生活関係(彼の保証人的地位)を認識するならば、そ ζ から客観的に彼の結果 防止義務が生ずる。不作為者が、保証人的地位を認識しているにも拘らず結果防止義務を有していないと信じていたならば、 ( 6 ) の状態にある。彼の此の論述は、まぎれもなく作為義 彼は命令の錯誤(の O V O 仲 田 町 円 宮 自 ) 、 即 ち 禁 止 の 錯 誤 ( ︿
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務を違法性の要素とする乙とをもの語る。保証人的地位と作為義務を分離する考え方は彼にはじまる。 人も知る如く、目的々行為論に於ては、違法性の認識は、故意の要件ではなく、責任の要素として体系づけられる。グエル ツエルは、如何なる根拠に基づいて作為義務が違法性に関係附けら'れるかについては、何も明言してない。 国 マクラツハの新説 マワラツハは、前述の如く﹁刑法総論﹂の第一版ではナl
グ ラl
の保証人説を全面的に支持して来た。しかし第二版に於て は旧説を改めた。乙の新説は、グエルツエルの理論と全んど同じであるが其の根拠がグエルツエルより明確である。以下彼の 論述を追う乙とにする。 作為義務の附加した保証人的地位を客観的構成要件の書かれざるメルクマールとする見地は、構造的にも刑事政策的にも誤 ( 7 v っている。保証人的地位ハの由自己g
切 窓 口 ロ ロ ち の 概 念 は 、 結 果 防 止 義 務 ( 開 民 。 広 話 回 u d ﹃g
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として理解され得る。此の意味に於ては構成要件の客観的メルクマールとしての故意の範囲に入る。第二のもの は、此の保証人的地位から導びかれる結果防止義務(国民。E
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若宮の宮)と同様な意味である。此の結果防止義務が 構成要件に吸収されて客観的構成要件メルクマールに属すると云う考え方には従う ζ とは出来ない。結果防止義務を導びく事実的事情は、結果防止義務から分離すべきである。後者は、演叩称され、独立させられた前者の結果である。 ζ h に於て、相違 ( 8 ) ー なる表現にも拘らず(聞ち、グエルヅエルの
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、グエルツエルと同じである。従って、又 作為義務は構成要件以外に存在し、会事件を特色づける︿白宮内各市E
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乙であるからその作為義務は故意の外に存在す る。それ故に、不真正不作為犯に於ては、禁止の錯誤の対象は、不作為者に属する作為義務である。作為犯の金一事件の場合に ︽ 9 ) 於ける行為の違法性は、行為の命令に相当する。即ち、不真正不作為犯の場合の行為義務(結果防止義務)に相当する。 マヲラツハは、右の如く旧説を改めたのであるが、其の理由を次に述べてみたい。これは真正不作為犯に於ける行為義務の 考え方の変化と共に旧説を改めざるを得なくなった。 即ち、彼は第一版に於ては、真正不作為犯の行為義務を客観的構成要件のメルクマールとしたのである。その結果、行為義( ω )
務の不認識は故意を阻却するとした。しかし、第二版では次の如く改説した。 真正不作為犯の必要的地伎の基礎となるのは行為義務である。その行為義務は、彼の行為能力の認識に於てその地位を見落 す人にも該当する。行為義務(行為に対する命令)は、実際、構成妥件上の必要な地位に廿基搭いているがしかしそれに対して独 立 し た 犯 罪 罪 唱 要 接 素 ( 官 回 叩 巴- z z
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﹀ 活 の 具 体 化 で あ る 。 こ の ︿ 川 号 口 吾 首 一 回B
刊 呉 昌 弘 ︽ 日 ) は故意の範側外にあり、それに関する錯誤は、禁止の錯誤の原理に従う。その理由は、行為 者に自分の地位については明らかに認識あるにも拘らず、行為義務までも認識することを要求するならば、それは非社会的人間 ( 路 ) に忍び難い特権をあたえることになるからとする。そこで、不真正不作為犯に於ても右の真正不作為犯に於ける根拠を引用し 合 ご て、作為義務を独立の︿2
可 向 島 刊 ロ 回 目 。 岳 民 豆 、 即 ち 河 内n v
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仲としている。 マクラツハに於ては、以上の如く、グエルツエルよりも保証人的地位から作為義務を分離せしめる理由を積極的に展開した のであるが、保証人的地位そのもω
の体系的地位の位置づけに関しては峻昧である。 四 九組(同) Welzcl , Das deut3che Strafrecht , 5. A, ufl. , 1956 S , 167. (同) Welzel , a , a , 0 , S , 168. (何) Welzel , a , e.
,
0 , S , 168. (可・) ,九 T elzel , a , a , 0 , S , 169. (凶) Welzel , a , a , 0 , SS , 169 内.., 170. (<0) Welzel , e.,
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トモミ士事宮特設 'i き誌ミキ J、と-\j....)いニI{l;手書翌日~ 命 中主主 QG 沢恭(蜜主要斗' >< ~者主要雲斗)ド崎 、(l ' J 心 1伊豆ゃいニf'Q~ョ ' -" ~ '~~司令 Q 、 E益活〈三安宅当時 1駕君主_)いニ ト 。。市長会 , -"ミ P.\..! 探査号室-=1端帯当怒りやニ い 8~ 苦境 è:!!' 書 ~~8 護者 \ '-'~1{l 0 ~空費 Q 三 手 Eま!d:!主要旨 ~8 議 終ベ J~ ト(l ~8 心'穏を吉田担金 Q 導路ベ J~ ト(l ~Q~ い号のベ J~ 1'{l (S,
174)。
(ト) Maurach , Deutsches Strafrecht , 2. Aufl. , 1958 , S , 471. (∞) Maurach , a , a , 0 , S , 47 1. 一(0'>) Maurach , a , a; 0 , S , 472. (ヨ) Maurach , Deutsches S fT afrecht , 1 , Auf l., 1954 , S , 233. 〈コ) Maurach , Deutsches Strafrecht , 2. Aufl. , S , 469. (出) Maurach , S fT afrecht , 2. Auf l., S , 469. (出) Maurach , S fT afrecht , 2. Auf l., S , 482.第二項 我国に於砂る学説 t ~ 小野博士の理論 我固に於ては、小野博士が始めて不真正不作為犯の本質は、構成要件該当性にある ζ とを主張され、しかもそれが独逸の学 説の引用ではなく、独自の理論を展開された所に高く評価される。以下博士の論述を追うことにする。 不作為は、私見によると徹頭徹尾構成要件充足の理論に属する問題である。特に謂ゆる不真正不作為犯の問題は如何なる条 件の下に不作為が或る犯罪の構成要件に該当する﹁実行﹂行為として見られるべきであるかと云う点に其の中心を置くもので ︽ 1) ある。我固に於ては、従来、不真正不作為犯の本質は、違法性にあると説かれていたが、﹁併しながら違法なる作為必ずしも 罪とならざる如く、違法なる不作為必ずしも界とならざること勿論である。違法なる作為が罪となるためには、其の構成要件 該当なることを要するが如く選法なる不作為が罪となるにも、其の構成要件該当なることを要する。不作為犯︿不真正)が問題 ( 2 ) となるのは、私見によれば其
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違法性の故ではない。其の困難は実に構成要件充足の点にある﹂。即ち、﹁それは構成要件に該 当する実行々為として認めるべき不作為があるこを必要とすると云う思想を基本としなければならぬ。而してその為には、第一 に行為者が事実上結果防止の可能なる地位にありたること、第二に行為者が其の結果の防止に関して法律上特に義務づけられ た者たることを必要とするものとれずる。此の第二の点は単に一般的違法性の外其の特殊的法律的義務の論証され得る ζ と を ︽ 3 ) 要するの意味である。即ち叫不作為犯は一つの身分犯であると考えるのである﹂。斯様に﹁一定の構成要件的結果の発生を防 止すべき法律上の義務を負担する者が不作為犯の主体となり得るが、此の場合法律上の義務と云うのは当該刑罰法規に内含さ ( 4 ﹂ れた道義的義務と云う意味に解しなければならぬ﹂。更に法律上の義務に反すると云う外に構成要件的行為でなければならぬ ζ とは勿論であるが、その判断に対しては、健全な国民的道義観念に即して、しかし、やはり国家的刑罰法規の解釈として 考えなければならぬ。これは非刑法定主義ω
行われる我が刑法ω
下における当然の要請である。即ち、不作為犯の問題は結局 五五 ︽ 5 ) 刑 罰 法 規 の 解 釈 、 殊 日 比 説 ( の 類 般 的 解 釈 D 問題である。以上に於て小野博士の論旨は明らかにされたと思われるが作為義務の体 系的地位については、私の理解によると行為者要素にあるのではないかと思う。勿論か﹄る推論が許されるかは問題があろう。 木村同士
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新説 木村博士は、旧説を改め、我固に於てはじめて独逸に於ける保証人説辛採用された。博士は次の如く論述している。 作為義務あるが刊の作為義務に違反する不作為をもって作為犯の構成要件的行為たる作為と法的に同一と解する思想が妥当とい うことになり、共の様に解することは、罪刑法定主義に違反した類推解釈ではなく構成要件の正しい意味を目的論的解釈によっ ( 6 ﹂ て明らかにしたものということになり、従って、小野博士のいわれる様に必要な類推解釈でもないといわねばならぬ。そして ﹁何となれば、従来の違法性説によると、保証人的地位にない者の不作為 も亦構成要件該当と解さねばならないことになり不合理であるのみならず、又、不作為の違法性について作為の場合に対し特 ( 7 ) 殊な性質を持つとせられるが、其の理由を十分に説明する事が出来ないからである﹂。文不真直不作為犯に於ける作為義務は、 ( 8 ) 命令規範に反するのではなく、禁止規範に反する ζ とが前提となっている。作為義務の構成要件内部に於ける地位もナl
グラ 保証人説の妥当な根拠としては次の如く云われる。 ー の 調 印 論 に 立 脚 さ れ る 。 ( 9 ) 大塚教授も保証人説を採用されている。 註 ( 1 ﹂ 小 肝 博 士 ﹁ 犯 罪 構 成 要 件 の 浬 論 ﹂ 附 和 九 年 知 二 三 六 頁 ( 2 ) 小 野 博 士 前 掲 第 二 三 八 頁 。 ( 3 ) 小 野 博 士 前 掲 第 二 三 九 1 二 四O
頁 小 野 博 士 ﹁ 刑 法 講 義 ﹂ ( 昭 和 三 十 一 年 V 第 一O
二 頁 ︿ 4 )︽ 5 ) 小 野 博 士 前 掲 第 一
O
四 頁 6、
・
'
木村博士法学セミナー(一九六一年四月号)第一六頁 木村博士﹁刑法総論﹂(昭和三十四年)第一九六頁 ︿ 7 ) ( 8 ) 木村博十前掲法学セミナー一五頁参照 9 木村博士前掲総論第一九六頁参照 ( 附 和 三 十 八 年 V 第 一 ニ ム ハ 頁 大 塚 教 授 ﹁ 刑 法 概 説 ﹂第三節
行篇論に立脚する見地
第一項H
・ マ イ ヤl
の理論 H-マ イ ヤl
の理論は、不作為と作為とは全く相異なるものではなく、不真正不作為と云われているのは実は真正な作為であ ると考察するのである。彼の理論も、構成要件的行為を中心に理論を展開するので、前節の構成要件理論と同列に置かれるの ゃあるが、しかし、彼の理論は‘保証人説とは全く異っており、従来の義務侵害一回理論を鋭く批判して得られた故に、現代に於 ける行為論としてのニュl
クな存在を浮彫にする必要上、本節で取扱う ζ とにしたのである。彼の理論が無視されないのは、 ルl
デシやクルi
ク等に見られた不自然な行為論を克服した故である。我固に於ても既にH
・マイヤ!の理論は知られている が、私は断片的でなく出来るだけ詳細に分析したく思う。以下彼の論述を追う ζ と に す る 。 先づ、不真正不作為の考察方法として次の様に述べている。 ﹁ 不 作 為 と 作 為 は 、 行為の自然主義的構造ハS
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に依つては区別されない。此の区別を通じて展開された問題の体系的地位は構成要件理論にある。 何故ならば、構成要件の記述の原則的範囲をきっぱり極める乙とが妥当であるからである。特に不真正不作為は違法性の理論 五五 回 に於て論ぜられる必要はない。違法性が構成要件の前に来るならば、それは罪刑法定主義の原則に反する ζ とになるだろう。そ の間一題の解決に対する救助策は構成要件理論に於てのみ発見することが許される ζ とを自ら示す﹂﹂。そうして不作為の行為性 に関しては、不作為は、意思実現(巧邑
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で あ る 。 作 為 ( ﹂ ﹁ ロ ロ ﹀ と 金 く 同 様 な 行 為 ( 回 目 邑 ロ ロ 巴 で あ る 。 ( 2 V 不作為は、行為者の態度(︿間島問符)が意思によって支配され文は支配可能である場合にのみ存在する。作為(斗z
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であるのに対し、不作為は一般意思 ( ﹀ 口 一 宮 目 。 宮 急5
の要求を満足させる力を振い起さない所の意思の薄弱(巧ロr
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である。しかし、不作為と作為 との聞の外部的相異はそれ自体としては重要ではない。何故なちば、法律は独特の物理の時聞に於て、子供らしい力学を教える 積りはないからである。積極的に違法の目標に向けられた身体運動(問。弓2
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巴は、実際に、その都度、最少限度の 法に敵対する意思の努力を必要とする。身体の不活動待。弓R
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を必要とする場合に、法的意味に於て純粋な作為(向島丹市帥↓
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ロ)として把握すべきである。それで栄養をあたえる ζ とや扶養を拒絶する ζ とによって子供を 殺す母親は、少くとも子供を溺死させる時と同様な意思力を振い起さなければならぬ。それ故に、法仲上の用語は、はじめか らこの種の不真正不作為を構成要件の記述の中に引き入れたのである。如何なる範囲まで此の種の不真正不作為が、構成要件の 記述によって表現されている観念形象の下に落ちるかは、乙れについての本来の言葉の使用 ( S V によって決定される。 官 民 主 的n
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例えば、栄養をあたえない乙とによって子供を殺す母親、手術を突然中止する医者、軌道にある障艇を故意的に放置する線 路番人等が、自然的経験的人聞に於て生ずる救助する意思の衝動を抑圧すべきでなかった ζ とに冷酷になっている ζ とは勿論 ( 4 ) あり得る。ー乙の様な抑止は、まさに先づ法的に一般意思に対する能動的反抗として評価すべきである。g
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は 、 H 殺す H H 火を放つ H H 曲 加 持 す る H 等の下で、およそ積極的な身体の運動による斯様な結果の侵害のみを意味するのではない。 ζ れらは熱心に論争さるべきではなく、個々の構成要件が記述している範囲の広さ は、最終的にほ、各論に於てのみ明らかにされる。とれらの場合に於て、抽象的、概念的思考の可能性は中止し、