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中央アジアの人口統計

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第58巻第1号(2021年1月)25-38頁

1 はじめに

本稿の目的は,中央アジア諸国の人口統計整備 手法を概観すると共に,ソ連崩壊後の中央アジア 諸国領域に基づく人口統計を構築し,その長期人 口動態を把握することにある. 本稿の構成は以下の通りである.次節では,ロ シア帝国およびソビエト連邦における中央アジ ア人口統計整備の特徴と歴史的展開を概観する. 帝政ロシア最初で最後の人口センサスは1897年 に実施されたが,それは中央アジアについては十 分なものではなかった.当該地域における人口統 計の整備は実質的にはロシア革命後に始まった と言うことが出来る.そこでソビエト連邦の人口 統計について,そして独立した中央アジア諸国の それに関して概観する. ソビエト時代の統計整備に際して生じる問題 は枚挙に暇がない.本土が戦場となった第 1 次世 界大戦・ロシア革命(1917年)直後の内戦・干渉 戦(1918-1922年),1920-1930年代に高頻度に 行われた行政区域変更と頻繁に生じた飢饉,スタ ーリン期に生じた大粛清(1936-1940年頃)とそ れに伴う統計の隠蔽,大規模な人口喪失が生じた 第 2 次世界大戦と戦後の混乱,と列挙できる.ソ ビエト統計に多くの問題があることは良く知ら れているが(島村, 1989),それは人口統計にも 当てはまる. 以上を踏まえて,第 2 節において人口統計の整 備に関わる行政組織の推移等を見たのち,第 3 節 において中央アジアの人口統計を整理する際に 必要な留意点をまとめた上で,第 4 節で中央アジ アの長期人口動態を概観しその特質を抽出する. 本稿の主眼は,公開資料に依拠して獲得可能な限 りの統計を揃える,ということにある1)

2 ロシアの人口統計制度

2.1 帝政期 2) ロシア帝国における人口調査の歴史は古い.そ れは「全国人口調査」(reviziia)と呼ばれる担税民 に関する調査が1718年11月26日3)のピョートル 1 世(大帝)の出した法令(ukaz)によって開始さ れ,10年-15年程度の間隔をおいて実施されたも のであるが(Herman, 1982),しかし,中央アジ ア領域についてはこれは該当しない.というの も,上記ロシア帝国における「全国人口調査」は その最後の回が1858年に実施されているのであ るが,中央アジア全域にロシア帝国の統治が及ん だのは19世紀末頃の事だったからである. ロシア帝国における人口統計の作成方法自体 は,1858年実施を最後とする「全国人口調査」を ベースとし,教区台帳等の記録から得られる出 生・死亡及び移動統計を積み上げるという形によ って行われた.それによって1867年以降,ヨーロ ッパロシア部についての人口動態統計が記録さ れるようになったわけであるが,それは登録人口

中央アジアの人口統計

*

雲 和広

要旨: 本稿の目的は,中央アジア諸国の人口統計整備手法を概観すると共に,ソ連崩壊後の中央ア ジア諸国領域に基づく人口統計を構築し,その長期人口動態を把握することにある.ロシア帝国お よびソビエト連邦における中央アジア人口統計整備の特徴と歴史的展開を概観した上で,得られる 限りの公式統計に基づいて中央アジア 5 カ国の人口史を跡づける. [キーワード:中央アジア,人口,統計,出生率,死亡率] [研究ノート]

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の年齢別データ等詳細を欠いており,そこで調査 による人口把握の必要性が早くから認識されて いた(『欧露部の人口動態』1886年版).だが「全 国人口調査」終了の1858年ののち,調査統計によ る全国規模の人口把握が最初に行われたのは 1897年に実施された帝政ロシア最初で最後の人 口センサスであった. 中央アジア地域については,しかしながら,ロ シア帝国時代において動態統計を得ることは出 来ない.1897年のロシア帝国人口センサスによっ て常住人口が把握出来たと考えられるかも知れ ないが,如何せん中央アジアについては,領域の カバリッジが限定されていた.即ち,ヒヴァ汗国 (現在のウズベキスタン西部・トルクメニスタン 北東部)およびブハラ・アミール国(現在のウズ ベキスタン南部・タジキスタンおよびトルクメニ スタン東部)が調査の対象となっていないのであ る.出生数・死亡数という動態統計はもちろんの こと,人口センサスによって捕捉出来る静態人口 をも欠いており,これら諸邦の一部を含むことに なった一連の諸国家,即ちウズベキスタン・トル クメニスタン・タジキスタンについては1897年人 口センサスにおいても総人口統計を得ることが 本来は出来ないという事に留意が必要である.ま た1897年人口センサスののちも,帝国内務省によ る公式統計には動態統計は公開されておらず, 1904年から1917年までの総人口の系列のみが得 られるが,ロシア帝国のその他の地域の場合と同 様出生数と死亡数とに基づいて計算されている と推測出来るものの,詳細に関する記述が無い. ヒヴァ汗国およびブハラ・アミール国について は,その総人口の数字も無い.革命が生じた1917 年の人口という統計も,登録人口にのみ基づくも のとして得られることは理解出来るが,その正確 性については率直に言って非常に疑わしい4).従 って信頼に足る統計を得ることが出来るのはソ ビエト成立後のことなのである. 2.2 ソビエト期以降の統計組織と人口統計 5) 1917年の革命勃発後,経済システムの再編が急 速に行われ,統計制度に関しても様々な改変が実 施された.革命早々の1917年12月に創設された国 民経済最高会議 VSNKh: Visshii sovet narodnogo

khoziaistva は統計・人口調査部門を有していた

が,統計の集権化を進めるべく1918年 7 月には中 央統計局 TsSU: Tsentralnoe statisticheskoe upravlenie

の設立が図られた6).同年 9 月には地方支部も設 置されることが定められている7).そして企業・ 機関は統計局が必要とする情報を提出すること が要求され,また統計局の命令を遵守する義務を 負ったのである.だが統計編纂作業の独立性を維 持することよりは,当初から計画経済への寄与を 前提とした位置づけ,即ち当時の「人民委員会」 に従属す る形 を採るこ とが 行われた (Popov, 1988; 山口, 2003).内戦終結後の1923年にはソ 連人民委員会議付属中央統計局となった8).但し そうした組織の設置が図られたとはいえ,実際に は革命後の内戦・列強との干渉戦等により,1920 年代初期に全土の業務統計あるいは調査統計の 収集を行うことは不可能であった9) ソビエトにおける統計制度の画期は1930年で ある.同年 1 月に中央統計局を国家計画委員会 Gosplan の 1 部局とするという形の組織編成替え が行われ(Goskomstat Rossii, 1996),統計作成組 織が計画経済に寄与することを前提とした部局 と明確に位置づけられた.中央統計局は1931年改 称され国家計画委員会附属中央国民経済計算局

TsUNKhU Gosplana: Tsentralnoe upravlenie narodnokhoziaistvennogo ucheta となり,さらに同

様に1941年以降1948年まで国家計画委員会附属 中央統計局 TsSU Gosplana とされた(Goskomstat

Rossii, 1996).それらは第二次大戦前の急激な工 業化,とりわけ1928年からの 5 カ年計画の始動に 際し,統計作成者と統計利用者とが乖離すること となる独立的な統計機関の存在が計画経済実現 の障害となったため,という山口(2003)の指摘 は適切であろう. こののち1948年には国家計画委員会から離れ ソ連閣僚会議附属中央統計局となり,さらに1978 年,ソ連中央統計局として独立した.統計収集・ 作成方法は基本的に現中央アジア諸国もソビエ ト時代のそれを踏襲していると言える.ソビエト 時代の統計は集中性によって特徴づけられる.省 庁別に統計が作成されることはなく,各省庁は企 業・機関の統計報告を中央統計局に対して行い, 中央統計局がそれをとりまとめるという形が採

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られた(Goskomstat Rossii, 1996). ソ連における人口調査については革命から 3 年足らずの1920年,ソビエト第 1 回の人口センサ スが行われた.これは五ヵ年計画に先立つロシア 電化計画の基盤たるべく実施されたが,革命後の 内戦が継続していた折り,ヨーロッパ・ロシア部 に限定されるものであり,中央アジアは全く対象 となっていなかった.1926年に実施されたセンサ スが初めてソ連全土をカバーする調査である.ま た1937年には五ヵ年計画開始後初めての人口セ ンサスが行われたが,そこには1930年代の農業集 団化と大飢饉,1935年からのスターリンによる大 粛清の痕跡が認められ,結果が中央統計局からは 公開されることのないままであった.1939年のも のが通常利用可能なソ連における第 2 次大戦前 最後のセンサスである10).第 2 次大戦を挟み,戦 後最初の人口センサスは1959年に実施された.以 降1970・1979・1989年と順次行われた11).ソ連崩 壊後の中央アジア各国では,数年のずれを伴って はいるものの,ウズベキスタンを除いて次の通り 実施されている.即ち,カザフスタン:1999年お よび2009年;タジキスタン:2000年および2010年; キルギス;1999年および2009年;トルクメニスタ ン:1995年および2012年12),のとおりである. なお暦年の人口動態の記録については市民法 に規定があり,ソビエト時代から一貫して戸籍等 登録機関(ZAGS: Otdel zapisi aktov grazhdanskogo sostoianiya)への届け出が住民の義務となってい た13).戸籍等登録機関(ZAGS)は出生・死亡・婚 姻・離婚等の登記を行う機関である.ソ連崩壊後 の現在もそれが踏襲され,出生は 1 ヶ月以内に, 死亡は 3 日以内にこの機関へ申告するよう定め ら れ て い た . 地 域 間 移 動 を 含 め 住 民 登 録 (propiska)は地元内務省出先機関に対して行う14) これによって1956年以降については,毎年『*** 共和国統計年鑑』に人口統計が公表された15).勿 論,住民登録のみによって地域間移動を完全に捕 捉し正確な地域人口を記録するということは不 可能であった(Kumo, 2003).

3 人口統計の整理に関わる留意点

革命後のソビエト連邦に関する人口統計の問 題は何よりもデータの獲得可能性にある.既述の 通り人口センサスはその初期,1926・1937・1939 年に,そして戦後第 1 回のセンサスが1959年に実 施されているが,その間を連結させるに足る情報 は公式統計では得られない場合が多い.1917- 1921年は革命・内戦・干渉戦で本土が戦場となっ ているため極めて扱い難い.同様のことが1941- 1945年の第 2 次世界大戦中にも該当する.1930年 代は農業集団化による混乱と大規模な飢饉の発 生に加え,さらに大粛清が生じたが,この時期の 人口統計は極めて得がたい.端的に言って1920年 代末期から1940年代全般については,人口統計の 公表がほとんど行われていないという実情があ る. そのような背景を鑑みて,本稿ではソビエト時 代の中央アジア人口統計については公式統計の とりまとめを第一義として積極的な独自推計は 断念し,その基盤たり得る獲得可能な限りの数字 を挙げることに主眼を置くものとする.利用する のは刊行されたソビエト連邦全体,あるいは各共 和国に関する公式統計である.なお1956年以降は 恒常的に統計の公刊が行われるようになってお り,1950年まで遡って比較的容易にデータを得る ことができる.但し,それは総人口・総出生数・ 総死亡数に限っての事であり,男女別のそれを得 がたいという問題を有していることを付記して おく. 本来,考慮すべきは行政区画の変遷である.革 命勃発後やソ連の成立前後,そして1930年代及び 第 2 次世界大戦に関わり様々な行政区画・領土の 変化が生じた.戦争に関わらないもののみに限定 しても,ソ連を構成した民族共和国の成立に伴っ て大きな制度的変更がなされている.1920-1930 年代の変更の多くは帝政期において定められて いた行政区域を民族分布に従って変更するとい う指針で行われた著名な「民族・共和国境界画定」 とその後の民族共和国設立とに伴うものである16) そのうちのいくつかの,大きな規模であったもの としては例えば次のような経緯がある. -現カザフスタン・キルギスは1917年のロシア 共和国成立以降1936年までカザフ自治共和国・キ ルギス自治州あるいはキルギス自治共和国とし て「ロシア共和国」に含まれている.

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-現ウズベキスタン・タジキスタン・トルクメ ニスタン・カザフスタンの一部は,革命後「トル ケスタン自治共和国」として1924年までロシア共 和国内に包含されている. -1924年まで,現ロシア連邦領オレンブルク州 は上記カザフ自治共和国に含まれていた.該当す る期間について,これをカザフ共和国のそれから 除外する必要がある. -1925年にカラカルパク自治州がキルギス自 治ソビエト社会主義共和国(現在のカザフスタ ン)に設置されたが,1932年にはカラカルパク自 治ソビエト社会主義共和国としてキルギス自治 ソビエト社会主義共和国から離れ,そして1936年 にはウズベクソビエト社会主義共和国管轄の下 に移管されている. これらは1920-1930年代の統計から現中央ア ジア各国領域の人口統計を導出する上で不可欠 の配慮である.しかしながらソ連時代に刊行され ている公式統計は既に,その調整を行った上での 数字をとりあげており,利用者にとっては比較的 扱い易い17) だが大きな問題は,ここで改めて繰り返してお きたいのだが,そもそもソ連時代には統計の公開 自体が非常に限定的だったということである.総 人口・総出生者数・総死者数こそ1950年以降は基 本的に得ることが出来るものの,その男女別の数 字はほとんどの国についてソ連末期,1970年代後 半になってようやく恒常的に得る事が出来るよ うになったに留まる.乳児死亡率はソ連全体でも 公開は限られており,共和国別の数字は更に獲得 が困難なものとなっていた.そのことは追って図 によって示される18) 1991年12月のソビエト連邦解体後,中央アジア 各国はそれぞれの制度構築を行うこととなる.と はいえ人口統計の整備について,率直に言ってソ ビエト連邦時代と比較して大きな変化は生じな かったと言って良い.カザフスタン19),ウズベキ スタン20),キルギス21),タジキスタン22)そしてト ルクメニスタン23)という全ての中央アジア諸国 において,ソビエト連邦と全く同じ ZAGS(「戸籍 等登録機関」,本稿注13参照)という名称のまま の機関で,出生・死亡・婚姻等縁戚関係の記録を 行うことが定められている. そのような記録によって,ソ連時代には中央ア ジアの各連邦構成共和国統計局は先述した通り 『***ソビエト社会主義共和国の国民経済』と題す る統計年鑑を1950年代後半以降ほぼ恒常的に刊 行した.またソ連崩壊後には,各国の統計局がそ れぞれの統計年鑑を刊行している.独立国家共同 体統計委員会(CISSTAT)も,それらをとりまと めた統計を刊行するようになっている.しかしな がら,トルクメニスタンは CISSTAT への情報提供 を2000年以降一切行っていないと見られ24),直近 年について CISSTAT の刊行物で情報を得ること は不可能なのである.これは人口統計に限った状 況ではなく,全般的に同じことが言えることに留 意されたい25)

4 若干の検討

ソビエト連邦時代,そして新生中央アジア諸国 の人口統計を整備した結果が図 1 から図 7 であ る.少しくこれらを概観しよう. 4.1 総人口の推移:図 1 先述の通り,帝政ロシア最初で最後の人口セン サスは1897年に行われた.これがこの地で実施さ れた最初の人口センサスでもあり,当該地域にお ける近代的な人口記録はここに始まった.とはい え,それはある程度の領域をカバーしたものの, しかしながらそれは十全なものではなかった.従 って1897年の総人口については後年に実施され た人口センサスにより遡及推計されたものであ る. 1897年の帝政ロシア人口センサスでは中央ア ジア 5 ヶ国にあたる領域の人口は総計で約1,000 万人であったことが判る.1917年のロシア革命お よびそれに引き続く国内戦の影響は大きく,1920 年代初めには国内戦の影響などで総人口は減少 した.ソ連が成立した1922年の年初には新経済政 策(ネップ)の導入等で相対的な安定期に入り, ソ連初の全国規模の人口センサスが実施された 1926年には当該領域の総人口が1,350万人を超え た. しかしながら1928年の 5 ヶ年計画開始以降,ス ターリン期には統計が著しく限定され,総人口や

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出生率,そして死亡率などの数字が秘匿されるも のとなった.なお限定的に公開されている1939年 人口センサス結果では1,660万人超の人口が記録 され,第 2 次大戦前までの人口増加を見ることが 出来る26) ソ連全体の人口動態に第2次世界大戦がもたら した影響は多大なものであり,それは1939年( 1 億 9 千万人)よりも 1 千万以上少ない1950年の総 人口( 1 億7850万人)に如実に現れているが,中 央アジア領域についてもその影響を色濃く見る ことが出来る.中央アジア地域でも1940年から 1950年の10年間にかけて総人口の伸びは20万人 を下回っており,これは1950年の 1 年間にカザフ スタンのみにおいて見られた総人口の増加数よ りも小さい.年ごとの総人口推移を公式統計で捉 えることが出来ないうらみがあるものの,第二次 世界大戦終結後1949年までの期間においては確 実に第二次世界大戦開始前の総人口を下回って いたと言うことが出来るのである27) そののち,ソ連時代は開発政策に伴うソ連他地 域からの大規模な人口流入(とりわけ現カザフス タンに対するもの)や高い自然増加率の下で,中 央アジア地域の総人口は安定的に増加を続けた. ソ連最後の1989年人口センサスでは,中央アジア 地域全体の総人口は5,000万人にわずかに及ばな いものの4,900万人を超えるに至った. ソ連崩壊前後より,巨大な規模の地域間人口流 動が生じた.これには局地的紛争により生じた 「強いられた移住」も寄与しているが,顕著なの はカザフスタンからの大量の人口流出である.動 態統計(出生・死亡等申告による統計)では,自 然増加率は純増であるにも関わらず,カザフスタ ンの総人口は多い時で30万人以上減少している (1994年・1997年).同国の総人口は最盛期の1989 年(1,654万)から最縮小期の2002年(1,485万) までの間に170万人減少した.これは旧ソ連の「処 女地開拓」と呼ばれた開発政策に沿って多くカザ フスタンに居住していたロシア人が大規模にロ シアへ帰還したことによるものが大きい. カザフスタンについて,総人口の推移や後に見 る粗出生率の低さ等その動態が他の中央アジア 諸国と異なっていることが目を引く.この背景に あるのはカザフスタンの有する民族構成等歴史 的経路であると考えられる.カザフスタンの一帯 は中央アジアの中でも19世紀半ばという最も早 い時期にロシア帝国の統治下に入っていた.ロシ ア革命後の最初期はキルギス自治ソビエト社会 主義共和国28)としてロシア・社会主義連邦ソビエ

図1 中央アジア

5 カ国における総人口(人)

出所:各種公式統計集より筆者作成.以下全ての図について同じ.データの詳細は雲(2019)の通り.

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ト共和国の 1 構成地域であり,またその当時の自 治共和国の首都オレンブルクは元来中央アジア 征服のためのロシア帝国の軍事的要衝であった. そしてオレンブルクは追ってロシア共和国に移 管されていることは前述の通りである(Sulkevich, 1940). 更に具体的には,カザフスタンの民族構成は他 の連邦構成共和国と大きな相違を見せていたこ とを指摘せねばならない.ソ連末期において,ソ 連の全15共和国の中で唯一,名称民族(titular nation,共和国の名を冠することとなった民族) がその領域内の人口構成で過半を占めていなか ったのである.即ち,ソ連最後の人口センサスで 見れば,カザフスタンにおけるカザフ人比率は 39.5%,そしてロシア人の比率は37.6%であった のである(キルギス:名称民族51.9%,ロシア人 21.4%; タジク:名称民族62%,ロシア人7.6%; トルクメン:名称民族71.4%,ロシア人9.5%; ウズベク:名称民族71%,ロシア8.3%,全て1989 年ソ連人口センサスの値)(Anderson and Silver, 1989).従って出生率等の推移にロシア民族の傾 向が大きく反映されることが想定され得るので あり,他の諸国と相違を見せることになったのは 不思議ではあるまい. カザフスタン以外の国々については概ね一貫 して,またカザフスタンについても2002年以降, 総人口の増大が見られる.そしてそれはウズベキ スタンでは年率 1 %超,タジキスタンでは年率 2 %を超えるような水準で拡大していることが 確認出来る. 4.2 都市化:図 2 1913年において,ソ連全体もそうであったが, 中央アジアにおいて都市人口が総人口の30%を 超える地域は 1 つも無かった.乾燥しておりオア シスが点在したウズベキスタンの都市化率はソ 連時代初期にはむしろソ連全体よりも高い水準 にあったことが判る. ソ連全体では革命前後における都市化率の低 下は見られたものの,その後基本的に一貫して都 市化率は上昇を続ける.1960年頃までソ連全体に 比肩する都市化率を見せ,また中央アジア全体で も1970年頃以降最も高い都市化率を示したのは カザフスタンであるが,これはカザフスタンに対 する民族的ロシア人の大量の流入があったこと が大きな要因であろう.他方綿花栽培が急激に拡 大し,また農村部において都市部よりも遙かに高 い出生率を見せていたウズベキスタンでは1960

図2 中央アジア

5 カ国における都市化率(%)

出所:出所:図 1 に同じ

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年代以降都市化率がむしろ低下していった. ソ連末期の1990年において都市化率が40%を 超えていたのはカザフスタン(57.1%)・ウズベ キスタン(40.4%)そしてトルクメニスタン (44.9%)であり,キルギス(37.5%)とタジキス タン(32.1%)ではソ連時代を通じて都市化率が 40%を超えることはなかったのである.ソ連初期 に比較すればある程度都市化は進んだとも言え るが,ソ連崩壊後は全ての中央アジア諸国におい て都市化率の低下が見られ,また先進諸国で見ら れる75%を超えるような数字には比べるべくも ない.中央アジア地域はムスリム居住地域を多く 抱えており29),また共和国間の分業化において綿 花や小麦等の生産に重点を置かれ,都市化が相対 的に進んでおらず産業構造が労働集約的である ことは,次項に見る出生率の高止まりに寄与する と考えられる30) 4.3 出生率・死亡率の推移:図 3・図 4 高出生率・高死亡率で人口が安定した状態か ら,急速に死亡率が低下すると共に人口増加率が 上昇し,遅れて出生率も低下を始めてやがては人 口増加率も小さな値になる,という人口転換が中 央アジアではいつ見られたのか.合計特殊出生率 の長期的推移を追うことが出来ず,粗出生率・粗 死亡率で見るほかないため困難ではあるが,1940 年には各地とも出生率が死亡率を大きく上回り, 自然増加率は 2 %程度の値を示していた.1960年 以降は全ての国で粗死亡率 1 %を下回るように なり,他方1950年代・1960年代には粗出生率が 3 %台の後半にまで上昇したことから,3 %前後 の自然増加率を観測するに至った. 出生率について見ると,カザフスタンを除いて ソ連崩壊(1991年)の直前に至るまでおおよそ 1940年と大きな差の無い粗出生率を見せている. そしてその値はソ連全体の平均値を大きく上回 っていた.ソ連総人口の50%前後がロシア共和国 のそれであり,ソ連全体の数字はかなりの程度が ロシア共和国の動向によって左右される.そのよ うな比較の上で,中央アジア諸国における出生率 の低下はソ連時代には依然として進んでいなか ったということが想定され得よう.なおカザフス タンについては,1939年人口センサスの時点で既 にロシア人の人口がカザフ人のそれを凌駕して おり,その状況は1979年センサスまで続いていた ことがカザフスタンの低出生率に大きく影響し

図3 中央アジア

5 カ国における粗出生率(対1,000人)

出所:出所:図 1 に同じ

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ていると考えられる. 1980年代末まで高い水準を維持していた粗出 生率であるが,それはソ連崩壊直前から一気に低 下し,最貧国タジキスタンを除いて1980年代まで のソ連全体とさして違いのない2.0%近辺まで落 ちる.しかしながら2000年以降,体制転換不況の 克服とそののちの相対的安定成長期に入って,い ずれの国においても粗出生率に上昇傾向が見ら れることも確認出来よう. 粗死亡率は,1.4%-2.2%という水準にあった 1940年を起点とすると,1950年代初頭には既に 1 %未満-1.5%未満にまで低下しており,大き な改善が見られたものと言える.しかしながらそ のことが同時に,あまり低下の見られなかった粗 出生率と相まって高い総人口の自然増加に帰結 していたことは明らかである.その後,1970年代 においてはソ連全体の平均が中央アジア地域を 上回るが,これは中央アジア以外の地域で相対的 に速く進んだ人口の高齢化を表しているに過ぎ ないものと考えられる.ソ連崩壊後のカザフスタ ンについても同様のことが言えるであろう. 4.4 乳児死亡率:図 5 乳児死亡率は衛生環境や文化度を測る指標と なる.中央アジア地域はソ連末期においても乳児 死亡率が高いことが示される.1980年以降概して 低下しているものの,それでも先進国の 9 パーミ ル(1995-2000年)程度と比べるならば,タジキス タンは40パーミル・カザフスタン・ウズベキスタ ンそしてキルギスが20パーミル前後(2000年)等 とかなり高い水準にある. さて乳児死亡率には,中央アジア諸国の人口統 計が抱えている重大な問題が顕著に表れており, そのことに言及せねばならない.図 5 にはソ連全 体の乳児死亡率および中央アジア 5 カ国それぞ れの乳児死亡率を示している.ここで異常な数値 が目を惹く.1940年,中央アジア諸国の乳児死亡 率は,いずれについてもソ連全体で計算した乳児 死亡率を下回っているのである.同じことは1950 年・1951年についても該当する.そののち,1950 年代半ば以降カザフスタンとトルクメニスタン の乳児死亡率はソ連全体よりも高くなるが,キル ギスの乳児死亡率がソ連全体よりも高くなるの は1961年であり,そしてタジキスタンでは1962年 になって初めてソ連全体の乳児死亡率よりも高 い数字を示す.そしてそれ以降,データが得られ る年次については中央アジアの全ての国におい て,乳児死亡率は常にソ連全体のそれよりも高い 値を見せているのである. これが意味するのは,1960年代に至るまで中央

図4 中央アジア

5 カ国における粗死亡率(対1,000人)

出所:出所:図 1 に同じ

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アジア全土に亘って乳児死亡を正しく捕捉する ことが出来ていなかった,という事に他ならない と推察される.経済開発水準の大きな相違を鑑み れば,1940年や1950年代においてタジキスタンの 乳児死亡率がソ連全体のそれを実際に下回って いたと想定するのは率直に言って無理がある.こ れは単にタジキスタンにおいては,ロシア共和国 を中心とするソ連全体に比較して,乳児死亡を把 握出来ていなかったということを意味すると考 えるほうが妥当なものと思われる.また中央アジ ア全ての地域において,1960年頃から1970年代半 ばにかけて乳児死亡率が上昇したような数字が 得られているが,これもまた単に,捕捉率が改善 した結果を示すものと考えられるであろう31) これは重大な問題を惹起する.事は乳児死亡率 に留まらないのである.乳児死亡率が正確に捕捉 されていないという状況は即ち,第 1 に出生を把 握出来ていないということであり,同時に死亡も 把握出来ていないことを意味する.従って,結局 のところ更に話は翻って,出生数/出生率,死亡 数/死亡率もまた正確ではない,という事に他な らない.それは1960年以前についての人口動態の 数字を収集することの意義を限定的なものとさ せると言えるかも知れないのである. そのように推測することは可能であるが,しか しながら統計局が把握しているのはこれらの数 字のみであり,その代替物は無い.前後の出生率 や人口センサスによる年齢構造および生命表等 から推計を行う事が必要となるのであるが,それ は本稿の課題を超えている.ここでは初期ソ連に おける中央アジア地域の乳児死亡率統計が如実 に示す問題点の存在を指摘するに留めておく. 但し全く別の側面で,このことはソ連時代の統 計を肯定的に評価する可能性をも示唆する.1960 年代から1970年代にかけての中央アジアにおけ る乳児死亡率の(恐らくは捕捉率の向上に起因す る見かけ上の)上昇は,社会主義体制の優位性を 喧伝しようとする政府であれば,好ましい現象で はあるまい.しかしながらその数字をそのまま公 開していたという事から,そうした数字を出来る だけ隠蔽しようという姿勢を有していたとして も,虚偽を示そうとするものではなかった,とい う事を含意する.そうであるならば,ソ連の統計 作成部局の作業は,事象の把握能力において信頼 性に欠けるものであったとしても,反面,把握し た限りの事実を記録しようとしていたという点 で信頼し得る,という解釈も可能であろう.

図5 中央アジア

5 カ国における乳児死亡率(対新生児1,000人)

出所:出所:図 1 に同じ

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4.5 性比・人口ピラミッド:図 6・図 7 旧ソ連全般に言えることであるが,第二次世界 大戦の影響は深く,戦死した男性の割合の多さか ら,総人口で見ると女性の比率が極めて高い. 1939年,総数では全ての中央アジア地域において 男性が女性を上回っていたが,1959年には全ての 地域で女性の方が多くなっている.これは例えば 1959年におけるウズベキスタンの性比を見れば, 35歳以上の男性の割合が極端に小さいことから 看取出来る.このことは戦後に労働力不足を引き 起こし,女性の社会参加を促す,あるいは強いる ことにもなったと言えるであろう.以降戦争の影 響は漸減していく.人口センサスではなく登録人 口による推計値であるが,2000年の同国の人口ピ

図6 1959年 1 月 1 日のウズベキスタンの人口ピラミッド(現在人口)

出所:図 1 に同じ

図7 2001年 1 月 1 日のウズベキスタンの人口ピラミッド(常住人口)

出所:図 1 に同じ

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ラミッドは高出生率・高死亡率の国に典型的な 形,即ちほぼ三角形を描く.だが同時に 0 - 4 歳 人口の小ささから,2000年の少し前に出生率の低 下が進んでいたことが読み取り得る.但し,出生 数はこののちほぼ増大し続けることから,2000年 近辺の出生数の減少はソ連崩壊の混乱によるも のであったのではないかと考えられる.中央アジ ア人口動態の近代化は未だ緩慢なものであると 言えるかも知れない.

5 おわりに

本稿は中央アジア 5 カ国における経済統計を, 公開されている公式統計に基づいて収集するこ とを意図した.しかしながら本稿の図を見ての通 り,欠損値が多数残されている.結局のところ, 1950年以前については通時的な動態を捉えるこ とには大きな困難がある.データがほぼ不在とな っている革命後から内戦終結までを包含する 1915-1923年,そして欠損地域が多いままのデー タしか得られない,五カ年計画の開始・農業集団 化・大粛清・第二次世界大戦を含む1927-1949年 にこそ大きな変動が生じているであろうことは 明らかなのである.勿論,これらの時期は最も混 乱が激しかった期間であり,仮にデータを得られ たとしても信頼性に欠けることが想定される.先 述の通り,平時であった1950年以降においてさえ 乳児死亡を捕捉することに極めて難があったと 思われる状況を鑑みれば,これ以上を望むことは 無いものねだりとすら言えるのかも知れない. ソ連崩壊後の新生中央アジア諸国について,欠 損値が再び急速に増大することもまた目に付く. これはトルクメニスタン・タジキスタンそしてウ ズベキスタンについて見られることであるが,タ ジキスタン・ウズベキスタン32)は総人口・総出生 数および総死亡数を公開しているものの,それを CIS 統計委員会に報告しなくなっているため,各 国の統計局による情報から直接データを得る必 要がある.そしてトルクメニスタンについては, CIS 統計委員会への報告を行っていないのみな らず,全般的にデータを公開しなくなっているの である.当該地域の情報を得る上で直面する困難 は,ソ連時代の水準に比肩するものがあるとすら 見られ,今後の改善を待つほかないであろう. (一橋大学)

*) 本稿は科学研究費補助金基盤研究(B)「ロシアに おける人口減少の研究:大規模個票データとミクロヒ ストリーの融合」(課題番号: 19H01478)及び一橋大学 経済研究所共同利用共同拠点事業(令和二年度・同経済 制度研究センタープロジェクト)による成果の一部で ある.極めて示唆に富むコメントを下さった尾高煌之 助先生並びに匿名の査読者二名に深謝申し上げる. 1) 本稿と同様の試みとして邦文では,カザフスタ ンに限定したものであるが岡 (1999) がある.また雲 (2014) 第 2 章,Kumo (2019) はロシアについて同様の 作業を行っているが,対象は更に広く,19世紀半ばから のロシア帝国公式統計を用いると共に,ソ連初期につ いても文書館資料を用いて統計を構築しており,本稿 とは趣旨が異なっている. 2) ロシア帝国の人口統計調査制度の詳細について は,雲 (2014) 第 2 章を参照されたい. 3) 露暦. 4) ロシア国立経済文書館のアーカイブ史料で1917 年の人口統計を確認したところ,それは「1917年のあり 得る人口数 veroiatnaia chislennost’ naseleniia」となってい る(『文書館資料 RGAE F.1562, Op.20, D.1a』).筆者が 本件をモスクワのロシア連邦統計局本部内で人口統計 担当者 4 名に質問したところ,1917年について正確な 数字は把握していない旨言明した. なお初期ソビエト時代における中央アジアの人口 統計の不正確さについては,追って第 4 節において乳 児死亡率の推移を下に記述する. 5) 本節は,雲 (2014) の第 2 章を大幅に修正したも のである.

6) Dekret soveta narodnikh komissarov o gosudarstvennoi statistike ot 25 iulia 1918.

7) <Polozhenie ob organizatsii mestnikh statisticheskikh uchrezhdenii> ot 3-go sentiabria 1918 g.

8) <Postanovleniia korregii TsSU> ot 17-go iulia 1923. 9) それは例えば,1920年に試みられた人口センサ スがヨーロッパ・ロシア部のみをカバーする迄にしか 至らず他地域での調査を実現出来なかったこと等に示 される.また同様の側面を1919-1920年の工業センサス に関わり山口 (2003) が指摘している. 10) 但し1937年・1939年人口センサスについては, 集計表が 1 冊刊行されたに止まっている.地域/男女 別人口・中等/高等教育修了者男女別/地域別,産業別 /男女別/地域別就業者数・地域別/民族別構成等が 掲 載 さ れ て い る .Poletaev and Polskii (1992) お よ び Polyakov, Zhiromskaya, Tyurina and Vodarskii (2007) を参 照.1937年センサスでは,1926年センサスののち10年以 上を経ているにも関わらず人口の伸びの停滞が顕著で あり,そこに大粛正の影響が現れていたことが指摘さ れる.このことにより,その統計局主担当者が粛正され

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るに至った.そこで1939年に再度人口センサスが行わ れる事となったが,その経緯自体が1939年人口センサ スに恣意的な歪みを生じさせた可能性も指摘されてい ることに留意を要する(Andreev, Darskii and Kharkova, 1998). 11) ソ連の人口センサスについては Clem (1986) 及び森 (1977; 1979; 1980; 1983) を参照されたい. 12) 国際連合ウェブサイト,https://unstats.un.org/ unsd/demographic/sources/census/censusdates.htm,2018年 10月31日アクセス. 13) ZAGS は出生・死亡・婚姻・離婚等の登記を行 う機関.ソ連時代もソ連崩壊後でも名称は同一である. 司法省の管轄下にある.Kodeks o brake i seme RSFSR ot iunia 1969 goda 参照.ZAGS の設置は1917-1918年にか け,それまでの教区台帳に代わるものとして規定され た.だが内戦の混乱等から1919年末にようやくヨーロ ッパ・ロシア部の都市を満たし,1923年でも全土の都市 部 の み を カ バ ー す る に 過 ぎ な か っ た と い う (TsSU SSSR, 1928a).ソ連時代も現代中央アジア各国でもロ シア語による名称は同一である.1917-1918年にかけ て,帝政期において恒常的に出生や死亡が記録されて きたそれまでの教区台帳に代わるものとしてこの機関 が設置された.しかし,内戦の混乱等から1919年末によ うやくヨーロッパ・ロシア部の都市を満たし,1923年で も全土の都市部のみをカバーするに過ぎなかったとい う(TsSU SSSR, 1928a).そして1926年段階においても, 中央アジア・コーカサスでは十分な ZAGS の設置がで きていなかったとされる(TsSU SSSR, 1928b; TsSU RSFSR, 1928). 14) 住民登録は ZAGS とは異なり内務省管轄であ る.ここで日本の「戸籍」及び「住民登録」との類似が 想起されよう.なおソ連時代は半月以上の居住を行う 場合,共に 3 日以内の申告が求められていた.住民登録 を行っていないことが発覚した場合,ソビエト時代に は罰金10-50ルーブルを科せられることが定められて いた(1974年-).但し住民登録制度が実効力を持つよ うになったのは1932年のことであったという(Andreev et al., 1998). 15) 出生等登録・住民登録とも完全な補足はあり得 ないが,届出を行うべき種々のインセンティブが存在 することは言うまでもない.Matthews (1993) を参照. 16) スリケーヴィチ (1941) が簡便にとりまとめて いる. 17) 当時の行政区画(ソ連崩壊後においては国境) の変遷については,少なくとも1950年代半ば以降にソ 連あるいは中央アジア諸連邦構成共和国統計局が刊行 した公式統計を利用する限りにおいて,特段の留意を 要しない.問題が顕在化するのはそれ以前,とりわけ戦 前やロシア帝国時代を扱う場合であるが,本稿は原則 としてそれを対象とはせず,またそうした時期の統計 を採集する場合でも,公式統計により領域の調整を済 ませたものを収録することを原則としている. 18) 図の作成の下となっているデータは全て雲 (2019) に示している.

19) Zakon Respubliki Kazakhstan o brake i sem'ye Soderzhaniye ot 26 dekabrya 2011 goda № 518-IV [2011 年12月26日付「結婚と家族に関するカザフスタン共和 国法」]

20) Postanovleniye Kabineta Ministrov Respubliki Uzbekistan <Ob utverzhdenii Pravil registratsii aktov grazhdanskogo sostoyaniya>, 14 noyabrya 2016 g., № 387. [2016年11月14日付第387号「市民の現況登録規則の承

認に関するウズベキスタン閣議決定」]

21) Zakon Kyrgyzskoy respubliki ob aktakh grazhdanskogo sostoyaniya ot 12 aprelya 2005 goda № 60 [2005年 4 月12日付第60号「市民の現況登録に関するキ

ルギス共和国法」]

22) Zakon Respubliki Tadzhikistan o gosudarstvennoy registratsii aktov grazhdanskogo sostoyaniya 2006g. № 4 [2006年第 6 号「市民の現況国家登録に関するタジキス

タン共和国法」]

23) Zakon Turkmenistana <Ob utverzhdenii i vvedenii v prinyatii semeynogo kodeksa Turkmenistana> (Vedomosti Medzhlisa Turkmenistana, 2012 g., № 1, st. 9)[2012年トル クメニスタン議会布告第 1 号第 9 条「トルクメニスタ ン家族法の承認と採択について」のトルクメニスタン 法]] 24) トルクメニスタンは独立後の1990年代以降,治 安機関を通じて統制を行い,非常に強い独裁体制の下 にある.基本的な統計の公開をも行っておらず,また外 国人研究者の研究目的による入国を拒否してきてお り,その状況に大きな変化は無い(地田, 2011).2018 年の「国境なき記者団」による『世界報道自由ランキン グ』では,北朝鮮が最下位の180位であり,トルクメニ ス タ ン は エ リ ト リ ア に 続 い て 178 位 と さ れ て い る (https://rsf.org/en/ranking,2019年 1 月22日アクセス).な おトルクメニスタン統計局が国連人口基金(United Nations Population Fund, UNFPA)との間で2017年に調印 された協定に基づき人口統計分析やデータ処理の協力 が行われているという情報もあり,また現地文書館に 統計が存在する可能性があることは言うまでもない が,公式統計に依拠するという本稿の趣旨に基づきそ れらの現地における利用可能性は勘案しない(UNFPA と の 協 定 等 に つ い て はhttps://www.stat.gov.tm/halkara Taslamalar, 2020年11月16日閲覧.本項目につき査読者 の一人に深謝する). 25) 世界銀行等はトルクメニスタンの数字も公開 しているが,それらはあくまでも推計値に過ぎない.公 式統計の収集を旨とする本稿では,そうした数字は取 り上げない. 26) この時期の統計の隠蔽には,1936年-1939年を 中心とする大粛正の影響を隠す意図があったものと指 摘される(Andreev, Darskii and Kharkova, 1998).また 1937年センサスの抄録によれば,1937年の中央アジア 人口は1500万人を僅かに下回るものであったことが記 録 さ れ て い る (Polyakov, Zhiromskaya, Tyurina and Vodarskii, 2007).しかしながら,1939年については文書 館で数字を確認出来たものの,1937年人口センサスに

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ついては数年間に亘ってロシア連邦統計局局員が文書 を文書館から持ち出したままにしており,実際の数字 を確認することが出来なかったためここで言及するに 留めておく. 27) 戦前の1939年-1940年の 1 年間で,中央アジア 全体で40万人以上の総人口の増加があり,1950年- 1951年の 1 年間では60万人近い人口増が見られている (統計表 1 ).1950年の中央アジア総人口1720.8万人は 1940年の1705.4万人を20万人上回るに過ぎず,数字の 得られない1949年の総人口が1940年のそれを超えてい るとは想定し得まい. 28) ここでの「キルギス」は現在のキルギスのこと ではなく,カザフのことを示している. 29) ソ連時代,イスラム教に対しては抑圧的政策が とられたが,それはロシア正教に対するものと同様で あり,公式には認められないもののムスリムの規範が 維持され続けたことは指摘される(Allworth, 1994; 岩 倉, 2017). 30) ム ス リ ムの 出 生 率 の 高 さ に つ い て は Burner (2012)参照. 31) 中央アジアにおける人口統計の補足率の問題 を最初に指摘したのは Jones and Grupp (1983) である. 但しその指摘のみに留まっており,本文中の以下に続 くような解釈は見られない. 32) タジキスタン・ウズベキスタンもトルクメニス タンと同様に,強い権威主義的統治によって知られる (中村, 2006).2018年の「国境なき記者団」による『世 界報道自由ランキング』では,トルクメニスタンは180 カ国中の178位であり,ウズベキスタンは同165位・タジ キ ス タ ン は 149 位 に あ る と さ れ る (https://rsf.org/en/ ranking,2019年 1 月22日アクセス).

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