Title
沖縄のハンセン病問題(3) : 排除を生きる
Author(s)
下村, 英視
Citation
沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of
Humanities and Social Sciences(17): 61-68
Issue Date
2015-03-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19023
〈研究ノート〉
沖縄のハンセン病問題(3)
―排除を生きる―
下村 英視
前稿までの目次 1.人の居場所 2.排除の論理 1)「放浪」に至る理由 2)罪を消す儀式 3.隔離の実際 1)人々の間で行われた隔離 2)隔離の成果 以上、(1) 4.排除の実際 1)身を寄せ合って生きる人たち、これを排除する人たち 2)排除の理由 3)不寛容のこころ 5.価値の秩序 1)行動の合理化 2)憎しみと排除の対象 3)価値にとらわれる人間 以上、(2) 本稿の目次 6.公論と人々の感情 1)全国の療養所 2)公論と人々の感情 3)療養所は人々を救ったか 7.死後にも重ねられる差別 1)病者を葬お送る儀式く 2)人を棄て去ること 6.公論と人々の感情 1)全国の療養所 沖縄では、ハンセン病患者の救済が遅れていた。ハンナ・リデルら外国人の宣教師によるイ沖縄大学人文学部紀要 第 17 号 2015 ニシアティヴのもとに私的なあるいは宗教団体の援助を受けた療養施設が本土において設置さ れ、これに促されるようにして、行政が管轄する公的な療養所の設立が遅ればせながら整えら れて行くようになってからも、組織的な救済はなかなか実現しなかった。 1907(明治 40)年には、全国を 5 つのブロックに分けて療養所の設置が決定されたが1)、沖 縄県は、この 5 つの地区のいずれにも属すことはなかった。これら道府県の連合によって設置 される公立の療養所ではなく、伊豆七島、小笠原諸島がそうであったように、国立の療養所が 計画されていたためである2)。したがって、沖縄県独自の国立療養所が設置されるはずであっ たところ、それにもかかわらず、事業緊縮の政策から大蔵省(当時)において療養所建設予算 が削除されたため、翌年(1908 年)の設立は延期になった。 しかし、この点の不誠実さをついた代議士3)らのはたらきかけによって、療養所の設置が再 び予算化され、さらにその翌年(1909 年 4 月 1 日)、開設の決定がなされた4)。これを受けて、 沖縄県は、場所を真ま和志村天わ し あめ久く樋ひ川がわに選定し、敷地買収に取り掛かった。ところが、沖縄県議会は、 那覇市の将来の発展を阻害するとの理由で、沖縄県にハンセン病療養施設を設置することを拒 んだ。後に設立されるハンセン病患者療養所愛楽園で数期にわたって入所者で組織される自治 会の長を務めた徳田祐ゆう弼すけは、「当時沖縄県会が、沖縄県における国立療養所を設立することにつ いて反対したことは、長い歴史から見ると真に失敗であった5)」と述べるが、既に、ハンセン 病患者を隔離収容するための施設の設立が全国的な規模で計画され実行されていた時期に、議 会が県民の総意を代表する仕方で療養所設置に反対したことには、注意しておかなければなら ないであろう。 そもそも、那覇市の将来の発展が阻害されるというのが療養所設立反対の理由だとされるが、 それでは一体、どうして療養所の存在が街の発展を阻害するというのだろうか。このような素 朴な疑問が問題にされることなく事が運ばれていったところに、ハンセン病問題の根の深さが 認識されねばならない6)。この点をしっかりと考えておきたい。 街の発展が阻害されるとは、これまでなじんできたこの地域の暮らしに変化がもたらされる ことを心配して発せられる言葉であり、それを避けたいと思う者が口にする言葉である。人々は、 自分が手に入れている価値――安心して暮らして行ける街――が損なわれることになるのでは ないかということに不安を感じ、この不安が現実のものにならないようにと事前に手を打とう とした。それが療養所の建設に反対することであった。 そして、今、ここで問題にされなければならないことは、次のことである。それは、療養所 を設置しないという決定が議会でなされたということは、そのような施設をつくらないという ことが公に認められた意見――公論――になったということである。 それならば、庶民はその意見に従わなければならない。ひとつは、設置しないという現実を 受け入れること。もうひとつは、ハンセン病療養所は街の発展を阻害するという考え方を、正 しいものとして受け入れること。つまりは、ハンセン病患者を受け入れる施設は自分たち健康 者の社会にとって好ましくないと考えたとしても、それは正しい、あるいは、正しいと言われ ないまでも、この社会で生きる未来の子供たちのためには容認されるべき理由のあることであ るとして、社会において認められたということである。それは、とどのつまりは、ハンセン病 患者は危険だ、彼らはいる4 4と困る存在だ、できればいないほうがよい、ということを公式に認 めたということになる。
2)公論と人々の感情 公の対場で議論する人たちが下した結論が、療養所をつくらせない、ということであるならば、 人々の個人的な気持ちもこれに呼応する。「3 隔離の実際」(前々稿(1))で見られたような 仕方ではっきりと自覚されることはなかったかもしれないが、自分たちの価値が貶められるこ とについて、なんとなくいやだとか、漠然と不安に感じてきたことも、合理的な根拠を得るこ とができたように思われる。そこでは、それは、そこに集った人々の間で分かち持たれた尊重 すべき意見となる。そうすると、患者を排除しようとした人たちも、ごくごく自然にそのよう な意見に従っただけではなかったか、という理解も可能だ。 このようにして、沖縄県では住民の強い反対から療養所建設が難航したことから、1910(明 治 43)年、沖縄県の療養所は、すでに開所していた第 5 区連合九州療養所(現熊本県菊池恵楓 園)に合併されるという仕方で、処理された(1910 年 3 月 12 日付、内務省令第一号)。これ によって、沖縄県は九州療養所に分担金を納め、患者を送り出すことになる。『沖縄救癩史』には、 明治 43 年から昭和 2 年まで沖縄県が納めた分担金の記録が掲載されているが、その額は、鹿児 島県の分担金額のおよそ 4 割、宮崎県のそれの 8 割弱程度であった7)。直接国税と人口割の合 計が分担金とされているが、各県の人口比率をもとに負担額が決められていることには、理に 適った配慮があると考えられねばならないだろう。 確かに、人口と相関性をもつ応分の数の患者が収容されたのであれば、分担金の負担も納得 できる。しかし、菊池恵楓園の記録に残された沖縄県出身の入所者数は、1910(明治 43)年が 7 名、1918(大正 7)年が 9 名、1929(昭和 4)年が 9 名である8)。一方、菊池恵楓園(九州 療養所)の入所者数は、開園当初、定員 180 名から始まったが、1941 年に国立化されるとき には 1,100 床となる9)。 住むところを失った病者の収容から始まった療養施設への収容は、ハンセン病を病む人すべ てを隔離収容するという方針に従って、入所者数の増大を招いた。これによって、いずれの療 養所もそうであったように、菊池恵楓園 ( 九州療養所 ) も入所者数の増大を見たわけだが、その ような中でも、沖縄県からの入所者数は、19 年間一桁のままであった。そうすると、施設に収 容される沖縄県出身の患者数は他県に比べてはるかに少ないにもかかわらず、分担金は各県の 人口割合に応じて算出されるから、沖縄県としては、過剰負担をしているとの感は否めなくなる。 沖縄からの患者入所者数が、人口割合から推定される人数に遠く及ばなかった理由を、前出 の徳田は次のように説明している。 ① 海上三七四浬の波濤を超えて患者を輸送するときに起こる種々の困難を考慮に入れなかっ た。 ② 言語、風俗、習慣の違う遠隔の地に、充分なPRも行わず、軍手をはめた物々しい警官に よって強制収容したので、つれて行って毒殺するなどのデマが飛び、意外の障害に遇った。 ③ 決定的の誤算は船舶会社が癩患者の輸送を極度に嫌い、輸送に非常な蹉跌を来した10)。 これらのうち、徳田は、2 番目の理由に関連して、人々の間で次のような認識がもたれていた ことを、ひとつのエピソードとして紹介している。 「沖縄からも 7 名(男 6、女 1)が収容されたが、くば笠を被って人目を避けて船に乗るのを見て、 人は袖を引き合い『可愛想につれて行って殺されるそうな』とささやきあったという。こんな 状態であったから、種々の悪条件が重なりあって収容成績は上がらなかった。11)」 患者の送致はうまくいかないにもかかわらず、分担金は納入しなければならない。これでは
沖縄大学人文学部紀要 第 17 号 2015 沖縄県の行政府としては県民に説明ができない。結果として、1928(昭和 3)年には分担金を 納めなくなり、翌年、九州療養所(菊池恵楓園)から完全に脱退してしまった。このように、 九州療養所(菊池恵楓園)に参加するという制度そのものが失敗であったことは、歴代の為政 者がこれを認めるところとなる。 この時から、沖縄本島では、「1.人の居場所」(前々稿(1))で見た 1937 年にMTL相談 所ができるまで、ハンセン病を病む人たちは、放浪生活を余儀なくされる。住民の目を避け、 海岸そばの洞窟などで雨露をしのぎ、患者は息をひそめるようにして暮らさなければならなか った12)。 3)療養所は人々を救ったか ハンセン病患者は、このような状況の中で生きた。生きざるを得なかった。最初に紹介した 古垣さんの言葉(前々稿(1))に戻ろう。手足を伸ばして眠ることができる場所が与えられた。 逃げ惑う必要のない場所が与えられた。この安心感は、何よりも得難いものであったであろう。 二人の男性が、顔を見合わせて微笑む姿は、それを象徴している。 そうであれば、療養所の開設は、ハンセン病患者を救った、と言うべきであろう。実際、青 木恵哉は、いっこうに進まない行政の活動に耐えきれず、自ら土地を求め、療養所の基礎をつ くろうとした。屋部の焼き討ち事件の後、心の底から絞り出すようにして、神に祈る。「一坪で も結構でございます。そこにおれば誰も文句を言わないようなところはないものでしょうか。 13)」この言葉は、強く人の心を打った。焼き打ち事件の直後、当地に立ち寄った林文雄(当時 長嶋愛生園医官、この年の 10 月に開園する星塚敬愛園(鹿児島県)初代園長)も、青木のこの 言葉を引用し、療養所の拡充とそれに伴うハンセン病患者の組織的な収容を急がなければなら ないことを強く訴えている14)。 このように、療養所設立が患者保護の目的をもっていたことは明らかである。そして、古垣 さんの言葉にあるように、それは患者に安心を与えた、ということも事実である。しかし、一 方では、その施設の存在が、ハンセン病を病んだ人たちを抑圧することになった。同じ稿の中で、 古垣さんは次のような言葉を残している。 「70 歳から園の敬老会の祝いを受けた。来賓の方々がわれわれの長生きを褒めてくださるの で、生きていてよかったんだな、と嬉しく思った。しかし、家族がいまでも、自分のことで、 息をひそめるようにして生きていることを思うと、辛い。/ハンセン病は治るようになった。 私も後遺症はひどいけれど、入園以来、一度だって菌など出たことはない。だから、自分たち に対する差別を早くやめて欲しい。そうすれば、家族の精神的な負担、苦痛も薄れていくと思う。 私自身の落度や不埒でなった病気ではないのだから15)。」 古垣さんの言葉に促されて、私たちは再び療養所の存在が偏見と差別を強めたことに思い至 らなければならない。隔離されなければならないほどに危険な人たちという間違った見方と、 そのような忌まわしい病気に罹った者がいることは一族の恥だとする誤った思い。ハンセン病 を病む人たちは、この思いに苦しめられた。家族に迷惑をかけないようにと、自ら家族のもと を離れ、世間の目を逃れて、息をひそめるようにして暮らす。無言の圧力のもとに、このよう に生きることを自ら選ぶように病む人たちを導き、そちらへと追いやった。それは、人の幸せ を追求して行われたはずだった福祉が、本来、救うべき人々を抑圧し、その人間性を奪うこと になったということでもある。
いったいなぜ、そして、どのようにして患者の保護は抑圧に転化したのか。人々の温情は嫌 悪と差別になっていったのか。この問いに答えることは、ハンセン病問題を現代において問う ことの本質的な意味をなし、未来を生きる人々に同じ誤りを繰り返させないための学びとなる。 そしてこのことは、人間理性に潜む本質的な問題――理性そのものの陥穽――を暴く考察とな る。しかし、この点についての論を展開してゆく前に、本稿では、さらなる差別の実態を見て おくことにする。 7.死後にも重ねられる差別 1)病者を葬お送くる儀式 かつて日本では、人が死ねば、最大限の敬意をもって葬お送くられた。たとえその人が、生前、 さしたる功績がなくても、慎ましく質素に暮らし、それが、人の目にはみすぼらしく感じられ たとしても、死ねば、生前のその人を知る人たちは、その時ばかりは正装に身を整え、葬列を くみ、鉦や太鼓を打ち鳴らし、悲しい中にも晴れやかに生前のその人を忍んで、野辺送りの場 所へと足を運んだ。道を行く人々は立ち止まり、敬意をもって頭を垂れ、道をあけ、葬列を見 送った。こうして死者は最大限の敬意をもって葬お送くられたのだった。 しかし、ハンセン病を病み、病の中に死んで行った人々の葬儀は、このようではなかった。 ハンセン病を発病した者は、家族と別れて生きなければならなかったし、死後も、その縁を切 られた。このことにまつわるいくつかの慣習を、『沖縄救癩史』から拾ってみよう。 大河隆は、第3編の「2.因習」の中で、次のように述べる。「癩は大昔から消滅することな く宮古の村々、島々に存在し続けている。そして神罰の病として忌避し、嫌悪する人間社会の 観念も、又消え去ることなく科学の時代の今日まで頑強に人々を支配している。/宮古では、 癩を病んだ者が死ぬと絶対に同族一門の墓には納めない。神の怒りに触れて搏たれた者を同族 として葬り、神の前に送るわけにはいかないのだ。そんなことをしようものなら、再び一族の 上に神罰が下ると信じられているのである。/天刑を受けて穢れた者は、死ねば無縁であるこ とをその遺骸の始末において示さなければならない訳である。16)」 「天刑を受けて穢れた者」、このような見方は、大河が原稿を執筆していた当時(1964 年)も、 宮古一般にあり、ハンセン病を患って死んだ人たち(療養所に入所することなく死んだ患者) は、当時の因習によって処理された。ハンセン病を病む人たちの生は、悲惨をきわめた。そして、 死を迎えてもなお、死に続く儀礼においてもそうだった。人間だけに起こる、死に伴われる儀礼。 葬儀。その仕方についても、病者のそれは多くの人のものとは異なっていた。この点を、『沖縄 救癩史』は、次のように教えてくれる。 「(病者の)屍体は、人目に触れる恐れのない阿旦樹や雑木林の奥深く埋めたり、主のない荒 れた古墓に放棄したりする。中には一門の墓近くに埋めて土饅頭をつくるところもある。これ は最も同情されたやり方だが、ひどいのになると古むしろやボロ布で屍体を包み、怒涛逆巻く 断崖絶壁から海底深く投げ捨てるという惨酷な方法もある。これは伊良部村の S 部落で、戦前 まで行われていた慣習である。17)」 「真っ黒に煎り焦がした豆を、葬り捨てた癩者の遺骸にうしろ向きになって投げつけると言う ならわしもある。これは穢れた者の霊をこの世のつながりから完全に追放するのがその狙いで、 癩患者の霊魂がこの世にウロウロしていたら、その祟りで一族から次々と癩が出ると信じての ことである。この黒焦げ豆が芽をふき出したら、再びこの世に戻って来てもよいという次第。
沖縄大学人文学部紀要 第 17 号 2015 この因習も現在完全には消えていない。/治療薬とてない昔の癩者は、悪化するに任せた醜悪 な姿を世人に曝していたことであろうから、その嫌悪を助長しいよいよ偏見による因習を深め ていったことは十分に想像のつくことである。/こうして悪循環が重ねられた因習の下で生き ていた患者は、悲惨の極みをつくしたに違いない。畠の片隅に、林の奥に、或いは光の指さな い土倉の中に、家族が人目を忍んで持ち運ぶ食物でようやく露命をつなぎ、生ける屍となって 次第に腐っていき、遂に死に至ったであろう。彼らが等しく思ったことは、生まれて来るので はなかったと言う、生への呪いであったに違いない。18)」 大河の記述は、宮古を中心としたものであるが、ハンセン病者に対する沖縄一般の因習につ いて、同書第 2 編の筆者、友川光夫、新木太郎、山田次郎、南山正夫は、次のように述べている。 「死亡すると龕ずしには乗せず、棺のまま棒に吊るして、裏口から、裏口のないときは、壁や石垣を 取り壊して、夜間こっそりと近親者だけで野辺送りするのが普通であった。しかも、先祖代々 の墓に合葬することは決してなく、人の近寄らない海岸や山中などに穴を掘って埋め、土盛り をせずその上に平たい大石を置き、崖を利用した横穴の場合は門口をつくらず厳封した。地方 によっては逆埋にし、甚だしいのは逆埋めにする前に、黒縄といって『くろつぐ』の繊維でな った(綯うた)丈夫な縄で縛し上げるという非道なことをするところさえあった。/祭りは 1 回きり、葬送のときか、所によっては初 7 日にこれを済ませ、立ち去るとき、墓の付近に炒り 豆を蒔き、或いは松丸太を植えて、これが芽を出したとき帰って来いと言い残して立ち去るの であった。勿論その後は一切かえりみない。19 )」 龕ずしには乗せなかった。龕ずしとは、ここでは輿こしのことである。輿こしとは、屋形の下に二本の轅ながえをつ けた乗り物、轅とは、棒である。一定の長さをもったその棒(轅)を肩に担ぐように図られて 造られれば、輦れん、腰のあたりに捧げ持つように整えられれば、手て輿こしと呼ばれる。いずれも尊い 人を乗せて運ぶために工夫されたものである。肩に担ぐにしろ、腰のあたりに捧げ持つように するにしろ、ある高さ以上にとどめ置かれるための工夫であり、それによって、敬意が払われ ていることが、担ぎ捧げもつ者にとっても、それを見守る者にとっても明らかに意識されている。 それは、同じく担ぐことであったとしても、棒に吊るして担ぐこととは、異なる。吊るして運 ぶことは、物を運ぶことである。ただの荷物を、目的の場所まで運搬することである。そこに 敬意はない。ハンセン病で死んだ者は、人々の敬意を受けることなく、葬送の儀が行われたと いうことになる。 2)人を棄て去ること そもそも、葬儀とは死者を葬お送くる儀式である。この世4 4 4とは私たちが生きている現実の世界、 あの世4 4 4とは死者が暮らす世界。死後の世界へと死者を送り出す儀式が、葬儀であるならば、死 者は死なない。別の世界で生きることになった死者といったん別れて、これまでとは異なった 仕方で付き合うことになる。そして、そのためのけじめの儀式が葬儀だ。それは、この世での 暮らしの終わりではあっても、それですべてが終わるのではない。そうではなく、あの世の者 たちとこの世の者たちとの新しい付き合いの始まりでもある。 しかし、ハンセン病で死んだ人との別れの儀式は、絶縁のそれであった。伐採されて丸太に 加工された松の木。その木を植えたからといって、そこから新たな枝が出てくるはずはない。 炒られた豆が水の潤いに遇おうとも、新たに芽吹くはずがない。それは、亡くなった人たちを 手厚く葬お送くるこの地方――のみならず、ほんの少し前の日本のあらゆる地域で見られたことだ
が――の人々が、ハンセン病を患って死んだ者たちに対しては、別の扱い方をしたということ である。 そして、彼らにかけられたその言葉――「帰って来い」――は、人並みの埋葬の儀礼を果た すことができず、それどころか、非道ともいえる扱いをしなければならなかったことに対する、 そのような自分に対するいいわけではなかったか。「帰って来い」というひとことを言うことに よって、自分の非道さを覆い隠し、その非道さが意識された時には拭い去ることのできなかっ たであろう自責の念をもたずにすむように、その振る舞いを曖昧なものにしたのではなかった か。 死者に向かって投げかけられたこの言葉は、死者を慰めるようでいて、実は、そうではなく、 ハンセン病ゆえに生前差別を受けた者が、その死後においても差別されねばならず、その差別 を容認する自分の冷酷さに苦しまなくてよいようにするための言葉、つまりは、自分を慰める ための言葉に他ならなかったのである。 しかし、自分の非道さに苦しみ、かつ慄きながらこのような振る舞いがなされたとするならば、 そのことがいかに身勝手であったとしても、まだ少しばかりの人間性を感じることができるよ うに思われる。ところが、次にみられるように、大正の中ごろ、宮古のある集落で実際に起こ った話として、大河が記すエピソードには、それすらない。 「生きながらえることの苦しさに耐えかねて自殺を決意した癩患者がいた。そのことを知った 家族や親族の者たちが、その患者のところに寄り集まってそうした決意を祝し、早急に決行す るよう酒宴を開いて促した。その人は自ら墓を掘って用意したが、さすがに恐怖の為決行できず、 日を延ばしていた。それと見た親族の者たちは、いろいろとせき立てた。遂に追い立てられて 墓に入ると、家族や親族たちは御馳走を墓の中に差し入れて帰った。10 数日過ぎて妻が行って みると、腐らん死体となって墓の出口に手をかけたまま倒れていた。自分で死ぬと言って死ん だのだから、誰にも呪いのかかる筈はないと家族や親族一同祝盃をあげつつお互いでたしかめ 合った。20)」 死ねば無縁。生のさなかにあっても絶縁。ハンセン病者の死に臨む人々の態度は、絶縁の行 為であり、宣言であったと言ってよいのではないか。そうであればまた、ハンセン病を病んだ 人たちを隔離すること、社会から隔絶された療養所という空間に排除することもまた、その施 設が設けられる前から、人々の心の中に馴染むことのできるようなものとして、あらかじめ備 わっていたことになるのではないか。それを、これら病者を葬お送くる儀式について残された記録は、 語っている。 病者たちの隔絶された生と死を違和感なく受け入れていた人々は、療養所の設立とともに、 病む人たちをそこに隔離し、そして、時の経過とともに、病む人たちがそこに生きていること を忘れた。それは、心を痛めることなく自分の生活空間から病む人たちを除くことであり、つ まるところ、棄て去ることであった。 註 1)第 1 区:関東、甲信越、11 県、第 2 区:東北、1 道 6 県、第 3 区:近畿、中部、2 府 10 県、 第 4 区:中国、四国、8 県、第 5 区:九州 7 県というように、道府県連合立の療養所の設立が 決定され、実際に 1909(明治 42)年には、設置された。 2)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.48
沖縄大学人文学部紀要 第 17 号 2015 3)山根正次。癩予防法案審議特別委員長、代議士以前は警察医官。 4)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.55 5)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.56 6)この点については、前稿「沖縄のハンセン病問題(2)――排除の論理――」の4.2)排 除の理由、および5.1)行動の合理化、で行った考察が役に立つ。 7)この数字は、『菊地恵楓園 50 年史』に記載されたものを転記したものであると記されている(上 原信夫編、『沖縄救癩史』、p.57)。筆者は、元資料である、『菊地恵楓園 50 年史』を入手できて いない。 8)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.57 9)『ハンセン病をどう教えるか』編集委員会、『ハンセン病をどう教えるか』、解放出版社、 p.20。 10)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.56 11)上原信夫編、『沖縄救癩史』、p.56 12)沖縄本島での療養所設立が滞る中で、宮古島には 1931 年に国立の療養所(宮古南静園) ができる。それでも、沖縄県が九州療養所から脱退して、3 年の歳月が流れている。なお、 MTL とは、Mission to Lepers の略記号。キリスト教各派連合によるハンセン病患者のための 救済機関のことである。 13)青木恵哉『選ばれた島』、渡辺信夫編、1972 年、p.240。青木恵哉『選ばれた島』には、こ の版のほか、編集を経ていない筆者のオリジナル版(1958 年)がある。しかし、このオリジナ ル版は、今日手に入りにくいため、読者の便宜を考えて広く出回っている渡辺信夫編集版の頁 数を記すことにする。また、2014 年には、佐久まさみの編集による新しい版が「いのちのこと ば社」から刊行されている。合わせて参照していただきたい。 14)屋や部ぶ、安あ和の焼き討ち事件が、一九三五(昭和一〇)年六月。この時、台湾をはじめ海外わ のハンセン病療養施設を見て回った帰りに沖縄を訪れた林文雄は、事件の後の生々しい状況を 目にする。林は、沖縄県庁をはじめ他の主要な都市(那覇、首里、名護、大宜味、金武)で「沖 縄救ライ」について講演し、屋部の事件にふれて村民の暴虐非道を糾弾した(『選ばれた島』、 p.252 ~ p.258)。その後、日本MTL長島支部から発行されたパンフレット(No.2)に「この 暴虐を座視せんや」と題して、沖縄の問題点を論じ、沖縄におけるハンセン病患者の救済が急 がれることを訴えた。 15)国立療養所沖縄愛楽園『開園 50 周年記念誌』国立療養所沖縄愛楽園発行、昭和 63 年 11 月 10 日、p.229 16)上原信雄、『沖縄救癩史』、大河隆「第 3 編 宮古の癩と救癩」、p.204 17)上原信雄、『沖縄救癩史』、p.204 ~ p.205 18)上原信雄、『沖縄救癩史』、p.205 19)上原信雄、『沖縄救癩史』、p.199 20)上原信雄、『沖縄救癩史』、p.205