Title
基地に消えた村
Author(s)
嘉納, 英明
Citation
琉球大学教育学部教育実践総合センター紀要 =
BULLETIN FACULTY OF EDUCATION CENTER FOR
EDUCATIONAL RESEARCH AND DEVELOPMENT(12):
117-165
Issue Date
2005-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8421
琉球大学教育学部教育実践総合センター紀要第12号2005年3月
【授業記録】
基地に消えた村
嘉納英明*
ApartofGinowanvillagewastakenoverbyUS
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KANOHideaki 内容 総合学習で「基地に消えた村」に取り組む 戦前の宜野湾村に注目したいきさつ 戦前の宜野湾村の姿 記録1子どもが語る戦前の宜野湾村一神山の集落・並松街道・軽便鉄道・ 安仁屋の集落・祭と行事・事件と事故一 記録2元村民の証言を聴き録る 1)字宜野湾の生活 2)字神山,字安仁屋の生活 3)宜野湾並松・市場・軽便鉄道・事件 記録3金城功さんと軽便鉄道について語り合う 記録4佐喜眞昇さんと字神山について語り合う制作く大型紙芝居>基地に消えた村一るん太とクロの探検一
むすび-宜野湾村の姿に迫った子どもの学びとは何か- BGQ■ 『■■△(叩尭】(更()・知一一△ 5. ■●、● (吟叩》毎J0()(亜)(叩『〉 数であり,週3時間ほどの授業である。現在, 学校で学んでいる算数や国語などの教科は,あ らかじめ学習内容が定まっていて,しかも教科 書がある。これらの教科について言えば,書店 に行けば参考書や資料集などもバラエティに富み,なんとなく取り組みやすい感じがするが,
「総合学習」は,教科書はもちろん,参考書や資料集,あるいは手引きとなるものは,厳密に
言えば,そろっていない.個々の子どもが自分総合学習で「基地に消えた村」に取
1 り組む 平成14年度から「総合学習」が導入された。 小学校3年生から高校生までの子どもたちが, 自分で調べてみたい,追究してみたい課題を見 つけ,これを解決するための方法を考え,様々 な解決方法を使って解き明かしていくという, これまでの学校の学習内容とはひと味違った学 習が入ってきた。年間で105~110時間の授業時 窯琉球大学教育学部附属小学校教諭 -117-元村民に対する子どもの聴き録り調査によって 明らかになっていく。インスタントカメラやデ ジタルカメラ,録音機器を準備しての聴き録り である。聴き録った録音テープを文章化し校正 するという地道な活動を子どもたちは続けた。 「証言者が.皆さんに語っているように文章化 していくことが大切だ。」と話し,子どもは補 足的な説明を付け加えたり,再度,聴き録りを しながら,基地の中で生活していた人々の証を まとめた。 「記録3」は,沖縄大学非常勤講師の金城功 さんを招待し,意見交流の場を設けた。学級の 子どもの約1/3が宜野湾村に通っていた軽便 鉄道に関心をもち,追究活動をしている中,研 究者との交流を通じて,軽便に対する幅広い知 識や見識にふれ,学ぶことの面白さを子どもた ちに肌で感じとって欲しかったからである。金 城さんには,軽便鉄道に関する子ども相互の意 見交流の場面の参観後,子どもの質問に答えて 頂いた。 「記録4」は,基地に呑み込まれた村(神山) について学んできた子どもの報告及び交流会で ある。この交流会には,宜野湾市立博物館長の 佐喜眞昇さんに参観して頂いた。 「制作」は.「総合学習」のまとめとして制 作した紙芝居のことである。主人公・るん太が 戦前の宜野湾村にタイムスリップし,そこで様々 なひとやモノと出会い,村の様子をるん太の視 線で描いている。当然,ストーリーから紙芝居 の絵の構成に至るまで,子どもの調べた内容が 反映されている(次頁「基地に消えた村」の活 動プラン,参照)。 「記録l」から「制作」は,子どもの学びの 軌跡であり,これらを総括する意味で,「9. むすび-宜野湾村の姿に迫った子どもの学びと は何か-」をまとめた。ここでは,基地に消え た村を総合学習のテーマに据え,ほぼ一年間か けて追究してきた子どもが,何を学び,どのよ うな力を培ってきたのかについて考察した。 なりの課題を見つけることに意味があり,しか もそれを自分自身で,あるいは,仲間と共に解 決していく方法が求められているのだから,あ らかじめ学ぶもの,学ぶべきものと準備された 教科書の類は,ないのである.したがって, 「総合学習」の創設は,教師にとっても子ども にとっても心待ちにされていたものであると同 時に不安が入り交じるものである。「総合学習」 は,学校や教師,子どもたちに活動内容は任さ れ,創意工夫に満ちたユニークな学習活動が期 待されているのである。実際,全国の学校にお いては,地域の課題や子どもの問題意識から出 発した「総合学習」が展開され,着実に実を結 んでいる。 私は,この「総合学習」は,教師と子どもが 協同的に学びたいとする課題を共にとらえ,追 究していく時間を共有することのできる魅力あ るものであると考えている。平成15年度,琉球
大学教育学部附属小学校の6年生の担任として,
子どもと共に,かつて普天間基地のなかった頃 の戦前の宜野湾村(現在の宜野湾市)で生活し ていた人々の暮らしぶりや集落の様子について 学ぶ機会を得た。普天間基地が形成される前の 集落(字)に焦点をあて,そこに生きる人々の 生きざまに迫り,基地に呑み込まれた村の人々 の姿を子どもの視点から再生することで,郷土・ 沖縄に対する思いや願いを深め,地域への愛着 心を育みたいと考えたのである。 本稿は,なぜ,戦前の宜野湾村に注目したの か,そのいきさつから書き始め,また,読者の 理解を助けるために戦前の宜野湾村の輪郭をス ケッチした。「記録1子どもが語る戦前の宜野 湾村」は,宜野湾村について調べてきた子どもの中間報告会の模様である。ここでは,いかに
も小学校の教室で授業参観しているような気分 で,臨場感あふれる,子どものやりとりを味わっ て欲しい。話し合いの中で特に大切なことがら については,囲み記事にした。 「記録1」で浮き彫りになった子どもの疑問 や課題点は,「記録2元村民の証言を聴き録る」 に引き継がれる。図書館の本や資料,部分的な聴き録りだけでは明らかにできなかった点が,
-118--「基地に消えた村」の活動プラン(全45時間)-
F可宮司普天間基地が建設される前そこは,宜野湾村と呼ばれ集落(字・ムラ)があった。村
内に住む人々の生活の様子や伝統行事,自然環境などについて追究し,子どもの視点から
集落の実像に迫ることで,郷土に対する関心と愛着,共感的な態度を培いたい。①昔から,普天間基地はあったのか。普天間基地ができる前は,何があったのか。
五月 U ②何をどのように調べていくのか,活動内容と追究方法について話し合う。 ふれる U 六月 ③安仁屋に住んでいた方から,戦前の宜野湾村内について話を聞く(共通学習)。 ↓ 七月 ④個々の追究課題をもとに,グルーピングを行う→追究の見通しと方法について話し合う。 ↓ ⑤宜野湾市立博物館を見学する(共通学習)。f
↓⑥追究課題に応じた方法を考え,活動を展開する。
○宜野湾市立博物館見学と職員へのインタビュー ○宜野湾市役所文化課職員へのインタビュー ○戦前宜野湾村に住んでいた方々へのインタビュー ○宜野湾村の遺跡を歩く(駅跡・軽便橋・宜野湾並松跡の今・基地に消えた安仁屋集落) U⑦インタビューした内容を文章としておこし,まとめる。
コハ
月 ③子どもが思い描く戦前の宜野湾村(中間報告会) U ①意見交流会I(金城功さん-沖縄大学非常勤講師) 十月 U 発信する 、意見交流会Ⅱ(佐喜反昇さん-宜野湾市立博物館長) ↓ 十一月十二月 ⑪宜野湾村の遺跡を歩く(駅跡・軽便橋・宜野湾並松跡の今・基地に消えた安仁屋集落) ↓ ⑫発信活動に向けて(ポスター作り).まとめ方,方法の検討・資料,情報の取捨や整理 U いかす 大型紙芝居の制作と発表 U 月 今までの活動を振り返り,今後の活動に生かす。 月 -119-隣
ストーリーをもとに紙芝居を制作 大型紙芝居のストーリーを話し合う 大型紙芝居の校内発表会の様子2.戦前の宜野湾村に注目したいきさつ
戦前の宜野湾村に注目したきっかけとなった のは,社会科の授業であった。6年生の社会科 では,日本国憲法を学習するが,私は,憲法と 沖縄の基地を関連させた授業が仕組めないかと 考えた。つまり,沖縄の基地の教材化である。 国土面績のわずか0.6%しかない沖縄に,在 日米軍基地の75%が集中している事実。特に沖 縄島には,極東最大の米軍基地である嘉手納飛 行場が鎮座し,同飛行場の南側には,県内移設 問題で揺れる普天間基地(宜野湾市)がある。 学級の子どもの半数が宜野湾市から通い,普天 間基地を身近に感じている実情から,これを地 域素材のひとつとしてとらえ.教材化できない かと考えたわけである。当然,普天間基地をめ ぐる問題として,爆音問題,墜落事故の危険性, 県内移設問題についても取り上げ,これらは, 日本国憲法の平和的生存権との関連で追究させ たかった。この授業の目標は,「戦後,日本国 憲法が制定され,民主的な改革が行われたこと について理解し,平和で豊かな世界を実現して いくためには,沖縄の基地問題を始めとする国 内外の残されている諸問題に気づくことができ るようにする」である。子どもたちは,『あた らしい憲法のはなし』(文部省作成)の挿絵か ら,「戦争放棄」の考えを読み取り,日本が独 立を回復したものの,沖縄が引き続き米国の直 接支配下におかれ,基地建設が進んだことにつ いて関心をもった。続いて,日米両軍の熾烈な 戦闘があった嘉数高台から普天間基地を展望し, 同時に,基地の歴史と機能,役割,問題につい て市役所の基地渉外課職員の説明を聞いた。宜 野湾市の面柚の25%が基地に占められ,基地と 隣り合わせで生活している市民の実態を子ども たちは実感したのである。 子どもたちは,米軍基地の建設のために強制 的に土地が取り上げられたこと(土地闘争)や 石川市の宮森小学校にジェット機が墜落した事 件について調べたり,具志川市川崎の墜落事故 に遭遇した方への電話インタビューにより,沖 -120-繩の基地被害の実態に迫った。こうした学習活 動を通して,基地をめぐって様々な事件・事故 が起こったことや未だ解決の見通しがついてい ない問題があることにも気づいていったのであ る。子どもたちが基地をめぐる今日的な問題と して話し合いの末に集約したのは,普天間基地 の県内移設問題であった。子どもたちは,普天 間基地の県内移設問題について次のように考え た。 ・町の真ん中に基地があって飛行機の墜落事 故があると大変だ。 ・安保条約があるので基地を海外に移すのは 無理だ。 ・名護市の辺野古沖はサンゴやジュゴンがい るので反対だ。 ・県内移設問題自体に反対。安保条約があっ ても日本国憲法を第一に考えるべき。 移設問題をめぐってそれぞれの立場から意見 をたたかわせ,沖縄の基地問題が複雑で難しい 問題だということをあらためて認識したのであ る。子どもが出した結論は,「普天間基地は名 護市に移設しないで,事故や事件が起こらない ようにするように努め,安保条約についても見 直していく」ということであった。(詳細は, 嘉納英明「日本国憲法と沖縄の基地問題」『教 育』NOL710,国土社,2005年3月,100~107頁 を参照のこと)。 湾市三年』参照)。大正期,宜野湾市は,宜野 湾村とよばれ,14の集落から形成され,大豆や さつまいも,米,田いもなどが栽培されていた。 また,ケーピン(軽便)鉄道が走り,村内には 駅もあったのである。戦後,米軍により強制的 に土地が接収され,基地が建設されたことで, そこに住んでいた人々が立ち退きされ,村内に あった,神山,新城などの集落は,基地に呑み 込まれ,消えた。この事実は,「昔から基地が あった」と考えていた子どもを大いに揺さぶる ものであった。 そこで,私は,普天間基地の歴史をさかのぼ り,昔の村の姿に接近することが大切だと考え た。普天間基地内にあった村(集落)の名前と 場所を資料で調べたり,関係者の話を聴いたり することでイメージをふくらませ,また,基地 周辺に見る村の面影をフィールドワークをして 発見したり,確かめたりするのである。基地に 消えた集落に住んでいた方々を特定し,聴き録 りを通して村に伝わっていた伝承文化や芸能, 豊かな自然環境について気づかせたい。それは, 普天間の固有の社会,風土,文化などについて そこに住んでいた人々の記憶を共有することで もある。現在,基地の外に住む元住民の願いと 子どものそれをつきあわせることは,今後の普 天間基地のあり方を考える大切な学習活動とな るはずである。また,『今・昔の普天間~新し いまちづくりを目指して~』(企画・内閣府沖 綱総合事務局,平成13年度)のVTRも大いに 参考になった。これは,基地がなかった頃の昭 和の宜野湾をGIS(地理情報システム)とCG (コンピュータ・グラフィック)を駆使して再 現したものである。子どもが追究してきた基地 がなかった頃の普天間像とCGにより再現され た普天間を重ね合わせることも刺激的である。、 巨大な基地の壁に阻まれ,これまで見えなかっ た村の実像が,子どもの追究活動を通して少し ずつ浮かび上がってきたことは喜びと感動を与 えた。また,基地内に確かにあった村の伝統や 行事,自然環境が基地建設により消えてしまっ たことに対して,子どもたちは,あらためて郷 土に対する愛着と共感を感じたのである。 普天間基地の県内移設問題を考える ところで,普天間基地の学習の中で,子ども の関心をひいたことは,普天間基地の建設以前, そこには集落があり,豊かな艇業地帯であった という事実である(副読本『わたしたちの宜野 -121-
3.戦前の宜野湾村の姿 宜野湾市は,1671年に14の村(野嵩,普天間, 安仁屋,新城,喜友名,伊佐,大山,真志喜, 大謝名,字地泊,嘉数,我如古,宜野湾,神山) で構成する,宜野湾間切(間切:現在の市町村 の行政区域)として出発した。明治時代前後に は,首里や那覇に住み,琉球王府に仕えていた 士族層の人々が地方の農村に移り住むようになっ たのである。これらの人々のことを屋取(ヤー ドゥイ)と呼び,宜野湾間切はもちろんのこと, 現在の北谷町や具志川市などにも数多くの屋取 があった。宜野湾間切では,真栄原,佐真下, 志真志,長田,愛知,中原,赤道,上原がそれ にあたる。1908(明治41)年には,「沖縄県及 島襖町村制」の公布によって,これまでの間切 という呼び方から町・村の名称が使われ,宜野 湾間切も宜野湾村となった。宜野湾村では,昭 和10年代に屋取部落が旧部落の14行政区から独 立していき,沖縄戦前には22行政区となった。 村内には,南の嘉数から北の普天間宮までの約 5.8kmにわたって2,900本余の松並木がのびる, 宜野湾並松(ナンマチ)があり,1932(昭和7) 年には国の天然記念物の指定を受けた。「普天 間宮略記」によれば,首里から普天間への道は, 王の参詣道として,さらに17世紀後半に宜野湾 に寓居(かりずまい)していた尚貞王(1645~ 1709)の世子,尚純(1660~1706)によって普 天間宮から浦添の沿道に松並木が植えられ,宜 野湾並松,普天間街道などと呼ばれた,とある。 その宜野湾並松も戦災と戦後の松食い虫の被害 を受け消失した。また,村の西側は那覇から嘉 手納までの軽便鉄道が走り,村内には,大謝名・ 真志喜・大山の3つの駅があった。大山駅は有 人駅,他の二駅は無人駅であった。 戦後,部落によっては戦前までの居住地が普 天間飛行場とキャンプ・ズケランの米軍基地に 接収され移動を余儀なくされた。なかでも,安 仁屋部落は,キャンプ・ズケランに接収され, 行政区域名も消滅し米軍基地下に眠る村である。 また,戦前,宜野湾並松街道沿いの闘牛場で賑 わった神山部落は,大部分の元の居住地は,普 天間飛行場下にある。1964(昭和39)年,行政 区再編で愛知区と合併し19区となった。 【参考図書】 ・宜野湾市教育委員会文化課編『ぎのわん市の 戦跡(第2版)』2003年。 ・宜野湾市教育委員会文化課編『自然とヒト』 2003年。 ・宜野湾市教育委員会文化課編『ぎのわん自然 ガイド』2002年。 .「普天間宮略記」(普天間宮より入手)
〔現在
地に消えた村」 ,普天間飛行場 山,キャンプ. 消えた安仁屋の もの追究活動の ている。 -122-4.記録1子どもが語る戦前の宜野湾村
一神山の集落・並松街道・軽便鉄道・
安仁屋の集落・祭と行事・事件と事故一
2003年9月,「総合学習」の中間報告会と称 して,これまで調べてきたことを学び合う機会 をもった。神山や安仁屋の集落の様子や並松・ 市場のこと,村内を通っていた軽便鉄道,村内 の事件のことなど,子どもが追究してきた多様 なテーマとそれについての学びを出し合い,意 見交流の場とした。以下,いかにも小学校の教 室で授業参観しているような気分で,臨場感あ ふれる,子どものやりとりを読み取って欲しい。 進行役は,みちるさんである。 ひとし沖縄には昔から台風がよく来るよね。 台風が過ぎ去った後に,並松まで行っ て,あの松の葉っぱを取って,まき代 わりに火をおこしたりして,料理を作っ ていたそうです。 あきひとひとし君の報告に付け足しですけど, 松の葉はよく燃えるから,それを燃や して米やイモを炊くときに使っていた というのを聞きました。 たかふみ枯れていなくても,何日か外に出して 枯らしてから使っていた,と聞きまし た。また,昔,神山は,基地にとられ るまでは宜野湾のほぼ中心にあったん だけど,基地にとられてからは,その 周りのフェンス沿いのほうに家を建て て住むようになったそうです。FiiJm棄露1
あき神山は10世帯ぐらいあって1世帯につ き10人から12人ぐらいの家族だったそ うです。それと,先祖代々の土地がた くさんあって,新しい土地も多いとこ ろだったそうです。 みお1世帯に12人ぐらい?そんなにいた んだ。 さほ神山では農業がうまくいっているとい うことがわかって,なぜうまくいって いるのかを調べたら,神山には,多く の共同の井戸があって,そこからきれ いな水をひいて,食物を育てていたこ とと,さっきあきさんが言っていたん ですけど,先祖代々の土地を受けつい でいたので,1人1人,広い畑で野菜 を栽培していたことが,農業がうまく いった理由だということも聞きました。 たいち共同の井戸というのは他の集落には, なかったのですか? さほそれについては,まだよく調べていな いんですけど,たぶん宜野湾にそうい う共同井戸がたくさんあって,神山に もあって,神山はその共同井戸がほか の村よりたくさんあったんじゃないか と思います。 みちる神山のことについて他に何か知ってい る人,お願いします。 〔神山〕宜野湾並松街道沿いにあった闘牛 場は,神山の自慢のひとつであった。神山の 中心部には,赤瓦葺きの村屋(ムラヤー)が あり,製糖小屋(サーターヤー),共同の泉, クムイ(ため池),ウタキなどがあったが, すべて戦争で燃えた。元の神山は,普天間基 地内にあり,1964(昭和39)年,行政区再編 で愛知区と合併し19区となった。IIi畷i寵|
きりこ昔の宜野湾尋常高等小学校の校歌の中 に,「国宝ナンマチ青々と」という言 葉があって,小学校の時からその並松 のことをみんな知っていた。つまり, 小学校の頃から,並松のこともちゃん と勉強していたそうです。 みちる宜野湾尋常高等小学校の校歌の中に並 松についての歌詞があって,それで, 小学生の時から並松のことは,みんな 知っていたということですね。 ゆうきその並松は今から数えて500年前に作 られたそうです。 みちる500年経っていた?その500年の歴史の 中で何か出来事はなかったのですか? ゆうき途中で松が枯れたりして,植え換えと -123-もっとある? きりこうん,もっとある。 あきひとなぜ,並松は,首里まで続いていたの ですか? みお首里から普天間神宮まで並松があった のは,首里の王様が元日とかにお参り に行くための道に使われていたからで す。 たいち並松街道には3,000本から3,300本の松 が植えられていました。 あやかたいちさんは松の数が3,000本ぐらい あったって言ってたんですけど,植え 替えとかしていたら,2,000本とかに 減ったりしなかったんですか? たいち多分,1本が枯れて同じところに植え るから,2,000本に減ったりとかはな いと思う。 のぶたか松の本数が3,000本から3,300本ってあ るんですけど,それはどこからどこま で植えられていたんですか? きりこ宜野湾の普天間神宮から宜野湾村の端っ こまでかな。宜野湾街道には,松はあ るけど首里まではのびてなかったと思 う。 ひとし王様の道だったって言っていたけど, 王様だけしか通っちゃいけなかったの? みお王様だけの道だけでなくて,平日は学 生さんとか,荷物を運ぶ人とか,いろ んな人とかが通っていた道なんだけど。 王様が来るときやお祝いをするとき, お参りをするときとか,そういう大切 な日は王様の家来が大勢来たらしい。 多分,王様は,毎日通ってたわけでは なくて,元日とか大晦日とか,みんな が,普天間神宮に行ったりするときと かに通っていたと思います。 担任並松街道について,他に質問がある人 いませんか? あきあやかさんは,並松街道周囲にある市 場で,米や酒を売っていたと謡いてい るけど,もう少し,詳しく説明して下 さい。 黒板に書き出された子どもの学び カコがありました。 植え換えと力〕は主にどういう人たち, だれが行ったのですか? 周りの住民が強引に働かされたらしい です。 並松は500年の歴史があると聞いたん ですけど,植え換えとかしたら,それっ てまたOから数え直すんですか? 最初に植えられてから500年と数えて います。 並松は,観光の名所でした。その並松 の隣の広場に市場があって,ほかの所 から来た人たちが土産とか,また,景 色がきれいだったから写真などを撮っ たりしていたそうです。 景色がきれいって言っていたんだけど, 並松の側は畑だったんでしょう? 松の並びがきれいだったんだと思いま す。 普天間朝英さんから聞いた話では,並 松の長さは,4.5kmから5kmだった, という話を聞きました。 正確には,5,272mでした。 付け足しの説明ありますか? 並松は,普天間神宮から首里の方まで 続いていました。 あっ,首里までではないよこれ。首里 までの長さが51272kmではないよ。宜 野湾だけの長さです。 並松が宜野湾にあったまでの長さが, 5,272m,首里までの長さまでいくと ひかり ゆうき あやか ゆうき みお ゆい みお まさき きりこ みちる ゆうき きりこ みちる -124-
あやか米やお酒っていうのは,今のたばこみ たいに,許可が下りないと市場の中で は売ることができなかった。 担任なるほど,許可が必要。市場で売ると 言っても,お酒とか米は許可が必要っ てことだね。 あきひと許可をとるっていうのは,どこに許可 をとるんですか? あやか役場の方から許可をもらうと思う。 のぶたか役場のどういう人達に,今だったら何々 課とかあるんですけど,どういう人達 に許可をとったんですか? あやかそこまでは分かんないけど,今でも許 可を取る所があるので,役場にもあっ たってこと。 けんいちなぜ,許可をもらわないといけないん ですか? あやかお酒はとにかく年齢制限があったんじゃ ないかということと,お米はあまりに も貴重だから,高く売ったり買ったり とかしてたら困るから,ちゃんと許可 をもらう必要があった。 みお普天間の土はマージと言って,赤土の ことなんです。そのマージの土で作っ たイモはおいしくて,評判が良かった らしい。西原の方で作った,ジャーガ ルって言うネズミ色の土は,たくさん 作れて豊富なんですけど,水っぽくて。 市場にもジャーガルで作ったイモがた くさんあったんだけど,なかなか売れ なくて困ったみたいです。 あやかだいたい植えてたものはサツマイモな んです。マージの場合は,雨とか梅雨
の時期になったら,少し水っぽくなっ
て,評判が落ちる時もあるし,ジャー ガルのイモは,雨が続いた時には全く 良くなかったらしいです。時期によっ てイモの価値が違うということがわか りました。 ことね市場には葉野菜も相当売られていたよ うです。もちろん,自分の畑で作った 野菜を市場で売りに出していました。 担任自分の畑で作った葉野菜がいっぱい, 市場の中で売られてたということだね。 並松街道について調べた人で他の報告 はありませんか。 きりこ野菜の市場と肉の市場が分かれていて, 野菜の市場は宜野湾村宜野湾にあって, 肉市場は普天間にありました。 あやか今の普天間高校から神社に行く所とか, 神社の周りは,普天間市場と呼ばれて いて,そこでは肉とかも売ってたらし い。5月4日の「子どもの日」とか}ま, 玩具も売っていたそうです。 みおきりこさんが言っていたように,市場 は,馬場がある所,宜野湾村の役所が ある所に野菜の市場があって,あやか さんが言ってたように,肉の市場とか, 子ども向けのおもちゃとかお菓子とか 売ってるのは普天間市場でした。5月 4日になった時に,軽便に乗って那覇 まで買いに行く人もいれば,近くの普 天間市場で買う人もいる。野菜の市場 には子どもに人気のあるような物はな くて,当時は遊び道具はあんまり売っ てなかったから,旧の5月4日の子ど もの日には,親が子どものために軽便 で買いに行ったり,普天間市場に買い に行ったりしたそうです。 担任どういった玩具があったんだろう? あやか女の子はまりつきのまりとか,羽つき の羽とか,男の子は駒とか。 ゆうきまいさんが書いたカードには,大きな 祭典があるって書いてあるんですけど, どんな祭典ですか? まい大きな祭典というのは,旧暦の9月15 日の例大祭のことです。 きりこ例大祭は,人々の幸福のために祈りを 捧げる祭りで,その日は那覇の王様も 一般の人も,たくさんの人が集まった みたい。 話は変わりますが,役場の周りが中心 部で,一番にぎわってた所でした。郵 便局が1軒,普天間に床屋が2軒,菓 -125-いる駅弁があったみたいだけど。ゴー ヤーチャンブルーは人気だったらしい。 駅弁の中にもいろいろ種類があったけ ど,ゴーヤーチャンプルーが一番人気 だったんだね。 駅弁の値段はどれくらいでしたか? 安仁屋では,約20銭だったそうです。 安仁屋の弁当の値段はわかったね。だ いたい20銭だったそうです。 大山など大きな駅以外は駅長もいなく て,無人駅で,店などもなかった。有 人駅は店とかもあったらしいけど,こ れといってお菓子など特別なものは売っ ていませんでした. 大山とか那覇とか大きな町以外,大き い駅以外はすべて無人駅ですか? 無人駅は,お客さんとかいるんだけど, 駅員というか,駅長さんとか,そうい う切符を売る人はいなかった。 切符売る人はいなくて,軽便に乗って 中で車掌さんに言って買っていたよ。 無人駅では駅内では売り買いがなかっ た。 大きい駅では,駅内でいろいろ売り買 いしていたんだけど,無人駅だと,切 符も買えないから,乗って降りるとき に車掌さんとかにお金を払って降りて いた。 軽便に乗るときのお金って,いくらぐ らいするんですか? 牧志から那覇ぐらいまでの距離が,24 子屋が1軒,酒屋が1軒。商店が4軒 ぐらいあって。普天間神宮の辺りには 風呂屋があった。風呂屋は普天間神宮 の所とあと1つ,2つあるんだけど, 普天間神宮の所に1つあって,あと1 つは分かんない。酒屋の名前は島袋酒 屋。 けんいち市場で働いていたことに関連するんで すけど,当時は働いていたって言うよ りも,自分達で今のフリーマーケット みたいに売っていたということなんで すけど。20歳前後の女の人達が,蝋ガ ンシナっていうのを頭に乗せて売りに 行って,男の人達は許可をもらって米 とかを売っていた。 ※ガンシナ…女性が荷を頭に乗せて運搬する際 に用いるリング状の敷物。素材の 稲わらを頭の大きさより少し小さ めにリング状に丸く作る。 みちる あきひと あいり みちる ゆい たかふみ のぶたか のりひろ 〔宜野湾並松街道〕かつて宜野湾村内には, 南の嘉数から北の普天間宮までの約5.8kmに わたって2,900本余の松並木がのびる,宜野 湾並松があった。1932(昭和7)年には国の 天然記念物の指定を受けた。「普天間宮略記」 によれば,首里から普天間への道は,王の参 詣道として,さらに17世紀後半に宜野湾に寓 居(かりずまい)していた尚貞王(1645~ 1709)の世子,尚純(1660~1706)によって 普天間宮から浦添の沿道に松並木が植えられ, 宜野湾並松,普天間街道などと呼ばれた,と ある。その宜野湾並松も戦力資材で伐採され, また,戦後の松食い虫の被害を受け消失した。 みちる のぶたか
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たいち ゆい|褒耐畷圖
たかひろ軽便鉄道は,第2次世界大戦までは盛 んだったそうです。 たいち戦争が終わったら盛んではなかったん ですか? たかひろ戦争で軽便鉄道は完全に壊されました。 いちろう駅弁が売られていた所は,大山駅など -部だけで…,大山駅以外にもいろ 個々の学びの出し合いと意見交流の場 -126-銭で,この料金は1日に働いた給料の 約半分の金額でした。 たくみ大山の自治会から聞いた話では,大山 の駅長は,古波蔵恵公さんという人で, 駅長の息子さんの名前は,恵昭さんと いうそうです。 けんいちたくみ君に付け足しで,古波蔵恵公さ んは80歳ぐらいに亡くなって,今,生 きていたら100歳こえているはず。 たいち駅長には制服とかあったんですか? LI0ういち帽子や制服はちゃんと決まっていたそ うです。写真を1回見たんだけど,そ の写真が白黒だったからわからない。 長袖。スーツみたいな感じ。 けんいちそのスーツは,どこの駅の駅長さんで も着けていたのですか? のぶたか多分。みんな着ていたと思う。 みちる駅関係で働いていた人は,みんなjMfて いたの? のぶたかパートの人は着てないよ。話は変わる けど,大山駅は,那鯛一嘉手納線の大 事な駅で,那覇から来る軽便も,嘉手 納から来る軽便もすべて,大山で入れ 替えていました。 しりういも主な乗客は,学生とさとうきびと,あ とは,買い物に行くおばさんとかが, 主に乗っていました。 けんいちしゅういち君に付け足しです。乗客の 中の学生とか毎日乗る人は,今のパス 券を束にして買っているみたいに,1 ヶ月分の切符を買っていました。つま り,定期券でした。 たいちその定期券はどこで買うんですか? のぶたか那覇などの大きな駅で,定期券を買っ ていました。 たかふみその定期券は1枚,普通乗ってから買 う券より高いんですか?安いんですか? けんいちインタビューした人の話では,少しは 安くなると言っていました。 0んさく昔の軽便鉄道の乗る料金と,今のパス の料金,パス賃よりは安いと思う。 けんいち昔の軽便鉄道の値段は今のバス賃より 安いっていうんですけど,24銭という のは昔で例えると.1日の給料の半分 だから,今のパス賃が,1日の給料の 半分ではないので,軽便鉄道の値段が 高いと思う。 みちるあの今の値段で言ったら,軽便の方が ちょっと高い。ちょっとどころじゃな い。かなり高い。 ゆい軽便鉄道はパスよりは高いと思うけど, 昔の人は,バスみたいな気分で軽便鉄 道を使っていたのではないかと思う。
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〔軽便鉄道〕沖縄の軽便鉄道は,那覇(現 在のパスターミナル)を起点に,①南風原, 大里を経由して与那原の港まで行く与那原線 (1914年開通),②那覇港まで行く海事連絡線 (1914年開通),③安里,内間,大謝名を経由 して嘉手納まで行く嘉手納線(1922年開通), ④東風平,高嶺を経由して糸満の港まで行く 糸満線(1923年開通)の4つの線路があった。 1945年の戦火により停止するまで旅客列車と して,また,サトウキビを運ぶ貨物列車とし て住民に「ケイピン」の愛称で大いに親しま れた。厩i三颪5棄露I
ひなこ「ウフゲーナー」という方言が安仁屋 に昔あったそうです。安仁屋は海から そう遠くはなかったけど,安仁屋の人 は海に行って魚をとるのを嫌っていま した。理由は,ただで魚を取って,食 べることができたからで,「ウフゲー ナー」をした人は,村八分にされたり しました。「ウフゲーナー」っていう のは,海で魚をとってきて,ただで, 働かずに食べること,という意味だそ うです。 いつきひなこさんに付け足しですけど,安仁 屋は,海に面していて,魚を捕って生 活することも可能だったけど,それは, 腕を遊ばせているという意味で「ウフ ゲーナー」といって,あまり良いよう -127-場所らしくて。イモばっかり食べてい たのでは体がもたないってことで,朝 は「ミーフハヤー」ていうご飯を食べ て,11時に「シテイミテイム」ていう ご飯を食べて,3時に,「アシパン」 ていうご飯を食べたそうです。夜の7 時か8時ごろに.ポロポロしたジュウ シーとイモを2個ぐらい食べていたそ うです。 みちる1日4回食事をとっていたみたいです ね。 ひとしある特別な日と力]だったりしたら豪華 な料理とかを食べたりするんですか? いつきお祭りがあってその時だけ,ちゃんと したご飯が出てくる。 には見られなかったみたい。 担任海に行って魚を捕って,それを売ると いう生活は,安仁屋では評価されなかっ たということかな。だから,魚を売っ てなかったんじゃないかということだ ね。 たかふみひなこさんが言っていた「村八分」っ て何? ひなこ「村八分」というのは,火事と葬式の 時以外は,助けないということです。 みちるひなこさんといつきさんの話から,魚っ ていうのはあんまり庶民的な食べ物で はなかったいうことになるんですか? 担任今までの話を聞いてみると,庶民的な 食べ物ではなかったということになる ね。その辺はどうなんだろう。 きりこ多分,市場で魚を売っているのじやな くて,訪問販売みたいな感じで売って いたのかな。頭の上に丸いガンシナを 髄いて,その上に魚をのせて…。 担任なるほど。市場には魚はそんなになく て,おばちゃん達がガンシナにのせた 魚を売りに来たということだね。 のぶたか捕れる魚が少ないんだったら,他の場 所から売りに来る人もいるだろうし, 那覇とかからいっぱい魚を持ってくる 人達もいるだろうから。 ひなこ話によると,軽便よりも客馬車の方が 安くて,軽便は,普天間から那覇まで 25銭で,客馬車は10銭だったから,客 馬車をよく使っていたそうです。 あやか軽便の話ではないんですけど。お金に 関することで,昔,「1銭まちや」と いうのがあって,l/100(100分の1) 円で今よりも大きいパンみたいなもの が買えたそうです。 みちる今のパンぐらいのものが,1銭で買え た。じゃ,1銭は今の価値にしてみる と結構していたんだね。今でいう,だ いたい100円かそんなもんぐらいの価 値だった。 いつき安仁屋というところは,生活しにくい 〔安仁屋〕戦争前の安仁屋は,宜野湾村内 で最も小さな集落であった。住民はサトウキ ビ,イモ,田イモなどの農産物を生産し,ウ タキ,拝所,製糖小屋(サーターヤー)など があった。戦後は米軍基地に接収され,1964 (昭和39)年,行政区再編成で行政区として の名称はなくなった。
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ひろか麦の大祭と稲穂祭のことなんですけど。 それは,-番数の多い行事で,この麦 の大祭と稲穂祭は,年に3.4回あっ て,必ず15日にある行事で。盆踊りと エイサーのつながりは,最初,盆踊り を。首里の芸人が踊っていたのを,い ろんな集落の若者達が,それを見習っ て,自分達で考えて作ったのがエイサー ということです。 担任なるほどね。宜野湾村,非常におもし ろいねb明治の時代に首里の芸人が踊っ てたのかな?それをまねして青年達が やったのがエイサーだということです ね。 しゆうひかりさんの,宜野湾の年中行事って 何ですか? ひかり2月には春分の日の彼岸があると。そ -128-れから3月にはサンガチャー遊びと言っ てね,これは女子が集落の1ヶ所に集 まって,踊って楽しむと。サンガチャー 遊びというのがあったと。もちろん3 月の15日にはシーミー。それから,5 月4日。さっき出てきたな。沖縄の方 言でユッカノヒ。 みちるユッカノヒって,これは,豊作を祝っ て船を競争させる日です。 担任ハーリーだね。 みちるそう,ハーリーする日で,それで,そ こでお菓子を売ったりとか’そういう お祭りがある.
あやか黒板のカードに,F5fJ両Zr弓;5両『|と
|爾可害]って書いてあるんだけど。そ
れはどういうものですか? ひかり7年ごとに,虎の年,猿の年に種遊び と称して,稲の種子蒔きの日で,旧暦9月15日頃に,集落の西と北のはずれ
にある遊び庭で開催された。初日が衣 装調べとリハーサルで,本番が3日, 最終日が打ち上げで,5日間続けて行 われたのがムラあしびで,綱引きは, 新城の綱には特徴があり,め綱,お綱 とも3本の綱を接続して1本の綱にで きるように工夫されており,綱引きの 後,3本に取り外して,保管するには 大変便利だったって。 しゆう麦の大祭,稲穂祭ってなんだろう? ひかり麦の大祭,稲穂祭っていうのは,豊作っ て言うのかな,野菜とか米とか人間が 食べるものを,いっぱいとれるように 祭をするのです。 村長反対派にいる人が賛成派にいる人 を好きでも,家族とかに会いに行った ときに反対されて,結婚できなかった し,行事とかも同じ集落なのに半分に 分かれてしまって,行事も一緒にやら なかった。 今の話に付け足しなんですけど。もと もと集落が別々だとあまり結婚とかIま できなかったらしい。一応村長さんの 反対派賛成派関係なく,昔も一応,集 落が違うと結婚できなかったりしたん だけど,そのときは同じ集落だろうが, なんだろうが,もう賛成派と反対派で 結婚とか,仲間割れが激しかったそう です。また,話はちょっと飛びますが, そてつ地獄っていって,けつこう有名 な話なんですけど。これは資料で調べ て,かなり昔なんですけど,第1次世 界大戦の時に,あの日本が参戦する前 の話なんですけど,日本が参戦する前 はヨーロッパがアジア市場をほぼ総取 りをしていたんだけど,ヨーロッパが 戦争中になって,輸出輸入をしなくなっ たから,日本が代わりにアジア市場に でてもう独占して,砂糖が値上がりし て沖縄のさとうきび農家とかIよすごく もうけて,でも,何年かたって第1次 世界大戦が終わると,ヨーロッパがま たアジア市場にもどってきたから,全 然輸出ができなくなって日本は困った。 沖縄の砂糖が全然売れなくなって,だ んだん,貧乏になってきて,しかも, 台風とかの被害とかも重なって,借金 とか抱えて,人々はイモとか米とかも 食べられられなくなって,命を落とす かもしれない毒があるソテツを食べて 飢えをしのいだそうです。ソテツって いうのは,実とか幹が食べられる植物 なんですけど,でもその植物は毒があっ て毒をぬぐっていうか,調理方法を間 違えると,あの中毒を起こしたりする 可能性があるそうです。実際に愛知県 みちる團牢Z軍詞
あやか「シルークルー」という事件があって, 「シルークルー」というのは,村長派 と村長の反対派の考え方で,その考え 方の違いで政治の争いが起こった事件 です。考え方が違うと結婚もできない ことがあったそうです。というのは, 村長反対派と賛成派に分かれていて, -129-の中学校で,ソテツは食べられるといっ て.焼いて食べたら中毒を起こしてし まって,腹痛とかを起こしたことがあ るそうです。 ソテツってあれ? ソテツっていうのは,あの中学校の運 動場の通りにあるヤツ。 真ん中にダイダイ色みたいのがある。 そうそう,黄色いみたいのがある。 ねばねばするよ。虫かご作れるよ。葉っ ぱで。 皮を剥いで,幹の部分が食べれるけど 毒がある。 その毒で,死んだりしますか? この毒がひどいと死にます。さて,海 外移民についてひろかさんの報告をお 願いします。 旧宜野湾村から海外移民がいつからか 始まっているか明確ではないんですけ ど,1908年に第1回のブラジルの移民 が始まって,一応県から行った人が, 325名とか,そういうことを調べまし た。沖縄県史という本に載っていたん ですけど,1935年には,フィリピンに 61229人の県民がいて,その中で宜野 湾村の人が355人いた,ということを 調べました。 付け足しなんだけど,ブラジルには移 民者が余りに増えたからかわかんない んだけど,「ブラジル移民禁止令」と いうのが,県民に出たことがあるそう です。ひろかさんが言ったのをまとめ ると,県が貧乏だからといって,外国 や内地にでる人が増えて,ブラジルと か南米の地域に移民する人はたくさん いた,ということなんですけど。また, 少しかわいそうな話なんですが,お金 がないということで,子どもを売った りとか’男だけが出稼ぎにいったりと かしていたんだけど,もうそれでも足 りなくて,別の安定した職ができると ころを探して移民したそうです。 〔シルークルー事件〕娘が他の字に嫁ぐ場 合,「馬酒(ンマザキ)」や「家捜し(ヤーザ レー)」と称して,娘の家から出身字に罰金 を納める内法があった。1916(大正5)年頃, この習俗の存続をめぐって党派的な対立感情 があったという。この問題は村会議員選挙の 争点となり,結局,内法の存続を主張した側 が選挙に勝ったが,これが「シルークルーの 争い」の引き金になった。当局派を「シルー (白)」といい,反対派を「クルー(黒)」と 呼んで,その後十数年間にわたって深刻な対 立が続いた。 たいち みちる 全員 みちる 全員 みちる たかふみ みちる 5.記録2元村民の証言を聴き録る 1)字宜野湾の生活 ①話をしてくれた人玉那覇昇さん ②話を聞いた人あき・ゆい・さほ ③話を聞いた日2003年9月18日(木) 一昔,宜野湾村では,どんな遊びがあったん ですか? 戦争の頃.ちょうど小学2年生だった。だか ら,私達が小さい頃の遊びは,男の子はね,木 のぼりをしましたね。屋敷の周りには,たくさ んの木が植えられていたからね。特に,ユーナ の木やガジュマルでよく遊んだね。ただ高く登 るというよりも,木の上で鬼ごっこをやったり したよ。枝から枝へ,渡っていってね。それか ら陣取りもよくやった。 冬の寒い時にはね,何枚も上から重ねてゆか たを着ていたから,1枚1枚はがしてね,遊ん だね。これを方言でシームナーアカセーといっ て男の子も女の子も1ヶ所にまるくかたまって ね,その上から,みんなの着ていた若物を1枚 ずつかぶせて,全部包んで分からないようにす るわけね。そして中に誰がいるか名前を当てる わけ。さわったりして当てたね。中には,我慢 できなくて笑ってしまって当てられる人もいた ね。当てられた人は外に出るわけ。冬だから寒 いよ。だからみんな中へ中へと入りたいわけね。 中もみんなの体で温められているからね。これ がシームナーアカセー。アカセーというのは, ひろか みちる -130-
「誰が入っているか当てなさい」という意味な んだけどね。それから広場ではね,缶ケリなん かもあったね。また男の子はね,あのカタツム リの殻をね,山で集めてきて,それをおたがい に持って,つぶし合いをするわけ。小さいのも あるし,大きいのもある。大きいのになると, 2~3cmぐらいあるかね。こういうのは山の中 の石の下でよくカタツムリの殻があって,だか らみんな友達一緒になって,石をころがしなが らね,いっぱい集めてきて,そしておたがいに 持ってね,カタツムリのいちばんてつぺんのと がっている所をおたがいに合わせてね,力いっ ぱいおしつぶすわけ。そして,つぶれた人が負 け。そんな風にして最後に残った人が「勝ち」 と。 それから,粘土遊びね。パーランクーといっ ていたけどね。今もパーランクーってあるさ。 エイサーの時に使う。粘土であんなパーランクー みたいなものを作ってね,石の上,あるいは木 の板の上にね,上からパァーンと打ちつけると, あの中に入った空気が,押しつぶされて皮の部 分がね,薄くしてあるから土がはね飛んでね, 爆発みたいにして大きな穴があくんだ。この穴 の大きさでね,誰のものが大きくあいたかとい うことで勝負していた。このパーランクーの作 り方にもよるし,また皮の部分の薄くしている 部分,それにもコツがあってね。勝った人の土 をもらうわけ。それで,土をもらった人は,粘 土の量が増えるから大きいヤツが作れるわけね。 そういうような遊びをやったり,それから粘土 では,牛だとか,家だとか,兵隊さんの形とか ね,そういう形を作って遊んだりしよったね。 粘土遊びをする時には,粘土を取りに行かない といけないよね。小川に上質な粘土があるから, 取りに行ってね。そこでも遊びがあった。粘土 は取るだけじゃなくて,その川の近くで遊んで ね。粘土を投げつけたり,くっつけたりしてね, それぞれが泥んこになってね。 他にも小鳥を捕まえて,遊んだ。年上の4年 生か5年生のお兄さん達が鳥カゴ作りを教えて くれたね。竹で作った鳥カゴのことを,方言で, ソーミナークーと言ったけどソーミナーとい うのはね,メジロのことを言うんだよね。クー はそのカゴのことをクーといいよったね。先ぱ い達がね,竹を切るのも選ぶのも教えてくれた ね。あまり若い竹はダメだよとか,色もちょっ と黄ばんだ方が上等だよ,といってね。そして 細くこういう風に小刀,方言ではシーグと言っ たかね,これで削ってね。鳥カゴを作って,そ れを木の上につるしてメジロがよく食べるもの, 「こんなのがメジロはよく食べるよ」と言って 先輩たちが教えてくれてね。木の実をむいてね。 鳥カゴに入れてそれを食べにきた所をブタが閉 まるようにしてね,メジロを取って遊ぶ。これ
はもう先輩たちも一緒になって教えてくれた遊
びだったねえ。 一昔の家の様子を教えて下さい。 宜野湾の場合はね,まあ神山もそうだね。畑 と家は遠かった。わりとね,字宜野湾の場合は, 区画整理がされていたように思えますね。屋敷 も今私が住んでいる屋敷の大きさぐらいのが多 かった。屋敷内にも,毎日食べる程度の野菜畑 は必ずありましたね。また,屋敷内に家畜も飼っ ていた。屋敷内に,小屋を作っていましたから。 豚小屋や牛小屋,馬小屋もあって,だから屋敷 はただ住むだけじゃなくて.家畜を養う場所で あり,毎日の野菜を作る場所でもあったから, わりと広かったわけ。 一昔,農業で働く人の様子を聞かせて下さい。 字宜野湾の農業はね,昔は先輩たちから聞い てまとめたところによるとね,うまくいってた そうです。村内では字宜野湾は豊かな農村だっ たそうです。そして,ヤンパル国頭あたりは 玉那覇昇さんの話を聞く -131-できて,池の水と混ぜると,早く腐ったようで す。この時,海にいる食べ物にならない小動物 も一緒にくんできてそれも全部混ぜて肥料を作っ ていたそうです。 それから耕す時には,「イーグーナー」(ユイ マール)というので畑仕事が行われていたそう です。ユイマールは,特に力仕事ね,さとうき びの収種とか植えつけね。また,集団でやると, 競争心が出てくるから能率が上がる。1人でや るより,近所で競争しながらやった方がいいと 思ったから,それでユイマールをよくやったそ うです。畑を耕したり,収種したりする忙しい 時期に,こういう工夫をね,昔の人は,やった みたいですね。 一家で飼っていた家畜の種類等についてもう 少し教えて下さい。 豚は各家庭にいたようですね。あと,ヤギ。 そして牛ね。馬は各家庭にはいなかったね。豊 かな農家にはいたけど。各家庭には,ブタ,ヤ ギ,牛はほとんどの家庭にはいたでしょうね。 数は各家庭で2~3頭ぐらいいたでしょうね。 また,子豚専門で豚を飼っている所もあったね。 上等な母ブタを探してきて,それに子豚を産ま せて乳離れしたら,売るという感じで,それを 専門に行っていた所もあったそうですね。ヤギ もほとんどの家庭で飼っていましたね。あとニ ワトリね,ニワトリもほとんどの家でね。でも, ニワトリはそんなにたくさんではなくてね,放 し飼いでした。エサなんかも特にやるんじゃな くて,自分で探して,でも大きな農家では小屋 を作ってエサをやっている所もあったかもしれ ない。卵をどこに産むかわからないから足に長 いヒモをつけていたそうです。どこに隠れてい るのか分かるようにしていたよ。 -どんな農作物を作っていたのですか。 さとうきびが1番大事な農作物だった。あと は,サツマイモ。サツマイモといってもたくさ んの種類があったよ。今の時代の紅イモのよう なものもあった。それから大豆ね。大豆から豆 腐を作っていた。特にさとうきびは,一番の現 金収入源だったね。だから砂糖は作っても,自 分達は食べないね。これは売り物だから。でも, 畑が少ないでしよ?それから「次男三男」って 分かる?昔は畑や財産は兄弟の中では長男が財 産を受け継いだそうです。だから長男以外の人 達は畑もないからね。自分でいろいろ工夫して 生活しなければいけないからそういう次男三男 とか,ヤンパルのね,畑の少ない人達は,向こ うに行って儲かって来ようという人が多くいた そうです。その人達がどんな風にして仕事をす るかというと,畑仕事を手伝うわけ。特に地主 さんは土地,畑をたくさん持っているので,家 族だけではもう間に合わない。ヤンパルから来 た人は,地主さんから前もってお金を受け取る。 1カ年分とか,場合によっては5カ年分とか, まとまったお金を貰って,そして自分の子ども を給料の代わりにその農家において,その子ど もは,農家の家で寝泊まりしながら仕事をする わけ。ずっと5年も10年も働きよったそうです。 これは方言では,イリチリーというけどね。こ れはよくあった話だね。 -農業をする上で工夫というのはあったんで すか? これはウチの親,あるいは先輩の話なんだけ どね,肥料作りはね,これは色々工夫したそう ですね。どんなものが肥料として使われていた かというとね,まず,堆肥作りね。草木を腐ら せてね,土の中にすりこんで豊かな土にするん だよね。これを競争させてね,商品をつけて立 派な堆肥を作る競争をしたそうです。だから, 各家庭では草木を集めて,積んで腐らせて,堆 肥を作ったねえ。そして木灰,草木を燃やした 後に残る白っぽい粉みたいなもの。あれも仮肥 料といってね,肥料の要素のひとつであるわけ ね。だから昔の人はご飯を炊く時に使うカマド の薪を利用して,燃やして,またその燃やした 後に出てきた木灰を細かくしてね,畑に肥料と して入れましたね。それから,チッソ肥料はね, あの便所の排出物をね,ためて腐らせて,これ を畑にかけてね。だから,昔は,排出物が大事 だから,道ばたにはやらなかったわけ。それか らアンモニアチッソ肥料は,馬,牛の家畜の排 出物だったそうです。でも,足りない時は,他 に排出物をためておいたって。海水を桶にくん -132-
病気した時とか,食欲がないとかちょっと栄養 補給しなければならんなぁ,という時には砂糖 ・をなめさせる。 僕は,戦後の話だがね,この砂糖を隠してあ る場所を見つけてね,こっそり食べていたこと がある(笑)。どこに隠してたかというと,大 豆を入れてある壷,「カーネー」ていってね, この壷に大豆を保管してあるんだが,その深い ところに砂糖をおいていたわけさ。普通,砂糖 は,そのままおいておくと湿気でネパネパして しまうので,長く保管できないから,この大豆 の壷の中に入れておくわけさ。大豆が湿気をす うからね。だから,いつも乾燥した状態で砂糖 や黒砂糖が保管できたんだ。僕は大豆の壷の中 に砂糖があることを知っていたから,少しずつ 少しずつ…(苦笑)。 砂糖の話と言えば,イジメの話になるかな。 ケンカの強いボスがね,「砂糖持ってこい」と 言うわけね。強いヤツにそう言われたらもう恐 いからね。こっそり家から砂糖を盗んであげる わけ。ボスもまた,自分1人では食べないで, 友だちにもあげるわけね。黒砂糖の固まりを持っ てね。「これだけだよ_」と言って,指で印を つけるようにして子分に差し出すんだけど,時 には指までかじられることもあって,「アイタ タタ~」して(笑)。 -普段,どんな食事をしていたんですか。 サツマイモが主食。今のお米と同じようなも の。だからこれはもうどこの家でも栽培してい た。サツマイモは植えて3~4ヶ月ぐらいで食 べられるからね。食事の時にはサツマイモをテー ブルの上に積んでね。あとは味噌汁。味噌汁と いっても野菜だけ入っているもの。野菜はトウ ガン。方言でシプイというでしょう。大根,ニ ンジン,菜つば等を入れていたね。おやつもイ モ。弁当もね,このサツマイモを3個か4個ぐ らい,ハンカチにくるんでね。だから,朝・昼・ 晩それから弁当もイモ。遠足の時にはね,お米 の弁当があった。丸い大きいおにぎり,中に味 噌入れてね。バナナの葉っぱで包んでね。サツ マイモは沖縄の人の主食だったね。沖縄の人た ちの命を救ったのがイモだね。昔は強い台風が いっぱいあったから,台風で農作物がダメになっ ても,イモは3ヶ月ぐらいでは食べられる。 サツマイモとさとうきび,それと大豆ね。そ の他には小豆も作った。穀物はほとんど作った。 広い畑を持っていて,植えつけるゆとりがある 所では,小豆や麦とか,里芋とかも作っていた ね。大豆を作っていたから,味噌も自家製で作っ ていたさ。豆腐もね。お祝いの時には,必ず豆 腐。食べ物の話はどっかで調べてるかもしれん けど,唯一のタンパク源は,豆腐だったね。 一昔の家の造りで面白い所はなかったですか。 宜野湾独自の家造りというのは,よくわから ないけど。戦前,字宜野湾は他の字に比べて瓦 葺きの家は多かったといいますね。でもほとん どの家は,茅葺きの家。茅葺きにも種類があっ て,生活が中くらいから上の家では,「ダキガ ヤ」といってね,ヤンバルの山に生えている背 の低い竹に似たそれを買ってこれで屋根を葺い たそうです。これは長持ちする。それから貧し い家は普通のチガヤ,マカヤというけどね,こ の辺に生えている普通のカヤで葺いたね。 -神山にあった主な建物について聞かせて下 さい。 民家ではね,瓦葺きで「イリジヨウ」という 家が裕福な農家で有名で,イチパンザ,ニバン ザ,サンパンザというのがあったよ。台所,奥 にも部屋があって,それと昔は子どもも孫も, みんな一緒に生活してるから,アシャギといっ てね,別の棟もあって,そこも瓦葺きだった。 建物は全て廊下でつながれていて,しかもその 廊下には瓦の屋根もついていた。雨の日でも各 部屋に移動できるようになっていたね。それか ら,馬小屋,牛小屋も瓦葺きだった。 -戦前には大きな事件や事故はなかったんで すか。 泥棒の話はよく問いたさあ。食べ物がよく盗 まれた。だから,大人から月のない晩は「名を 名のれ」とよく言われたよ。「ターセミセーガ ヤー」と言って暗闇の中で挨拶しましたよ。 「私はどこどこの誰々だよ,あなたは誰ですか?」 って挨拶をしなさいって言われたよ。そして, 返事をしない,知らん顔している人は怪しい人っ -133-
警察署はわからんが,駐在所はあったよ。 て言ってね。家に帰って連絡したそうです。怪 しい者が集落内に入りこんでいるというのが各 家庭に伝わって,警戒したそうです。私が中学 生の頃,戦後の話になるがドロボウが入ったの。 非常用の鏑を打ってね。「3回だったら青年会」, 「ドロボウだったら連打」。「鳴りやまないのは, 火事だ-,若いのは集まれ」ってね。その時, 私の父親は男は非常の時は集まらんといかんよ, と言って,一緒に行った。非常の時は子どもで も集めさせられた。昔はみんなで守ろうという 気持ちが強かったから。ドロボウの間でも宜野 湾は恐いよっていう話もあったらしいがね。 災害で一番恐かったのは台風。今みたいに頑 丈な家じゃないから,家の周りにでっかい防風 林を植えてあった。農作物はみんなダメになる からね,食べ物にも困った。けど,サツマイモ はほっといても腐らないから大丈夫だった。 でも,私達にとってはね,台風で嬉しいこと がひとつあった。台風で木からみかんが落ちて いるから。台風の時に落ちたみかんは拾って食 べたね。災害で恐いのは,干ばつも恐かった。 私が経験したわけではないけど,大人から聞い た話によると,7ヶ月雨が降らなくてね。宜野 湾には4ヶ所の共同の井戸があって,その中で 豊富だったのがウブガー(産泉)。普天間基地 の中にまだあるよ。出産の時とか,普通の飲み 水にも使った。干ばつの時には,村中の人々が 並んでくんで,なんとか水を探し求めて。鍾乳 洞(今の飛行場地下)に水がたまっているのを 発見したんですよ。発見したのが,ミーガーと 言ったんだが(新川)。昔の人は水に対して感 謝の気持ちが強いから,時々,線香をあげに行 くよ。今でもウプガーには毎年旧6月25日に掃 除に行ってるよ。 ニワトリを放し飼いにしているから,増える と畑のものを食べたりしたから,ニワトリを放 し飼いにしていたら青年会がもらっていいとい う意味だよって言って,青年会がニワトリをつ かんで,主に罰金したりしたって。雑草も,よ その畑に広がるからよく見張りが来たよ。人を 殺したとか,大きな事件は聞いたことがないね。 警察も見たことはないねえ。今みたいに大きな 2)字神山,字安仁屋の生活
原5F、王落]
關、神山の暮らしぶり
①話をしてくれた人佐喜眞祐輝さん ②話を聞いた人さほ.あき・ゆい ③話を聞いた日2003年7月14日 さほ戦前,神山には,どれだけの人が住ん でいたんですか? 佐喜虞神山には84世帯,167人の人が住んで いたんだ。神山の字は歴史が古かった んだ。 さほ神山の人は働きものだったと聞いたん ですが,一方で,農業もうまくいった ということも聞いています。これと関 係してのお話を聞かせて下さい。 佐喜虞それには,大きく2つの理由があって, ひとつは,神山の人は先祖代々の土地 がたくさんあって,その広い土地を利 用して,農業をやっていたからなんだ。 また,ふたつめは,宜野湾市には,多 くの共同井戸があって,その井戸から, ホースやパイプなどで水を田んぽまで ひき,農業をしていたからだと思うよ。 さほ神山の家の屋根は,竹をさいて作った と聞いたのですが,その竹はどこから 持ってきたんですか? 佐喜虞お金持ちの人は,瓦を使って.それ以 外の人は,ヤンパルから持ってきた竹 や野に落ちている葉をうまく使って屋 根を作ったんだよ.|証言可神山の暮らし
①話をしてくれた人宮城真吉さん80歳 ②話を聞いた人ゆい・さほ.あき ③話を聞いた日2003年6月26日 神山の人々は,さとうきびを作ったり,家畜 を飼ったりしていて,村には働き者が多かった ので,お金持ちがたくさんいたよ。住んでいた 家は,茅葺きで,屋根はヤンバルからとってき た竹をさいたもので出来ていたんだよ。 -134-神山の人々が農業がうまくいっていた理由は 主に3つあってね。ひとつめは,先祖代々の大 きな土地を受け継いでいる人がたくさんいて, たくさんの土地を農業のために使うことができ たからなんだ。ふたつめは,神山には,たくさ んの共同井戸があったから,その井戸から水を 田畑にひいて,みんなで使っていたからなんだ よ。そして,最後のひとつは,神山はもともと 防風林で緑豊かだったからなんだ。また,田畑 で作った作物は,売りに行ったり,余った物を 家で食べたりしていたよ。 私は直接経験してないけど,従兄弟が経験し たんだけどね。飛行場の真ん中あたりに,神山 という集落があってね,そこの入口の所に闘牛 場があって,そこで石の粉をとっていた。その 石は何をするかというと,その頃はアスファル トというものがないから小学校の中庭にしいて 重い物で固めて,ドロンコにならないようにし ていたわけ。8年生(今の中2)が石粉を宜野 湾小学校まで担いで。その石粉がね,神山の入 口あたりにたくさんとれる所があるわけ。とこ ろがその石粉は山みたいになっていて,その下 から取っていったわけ。そしたら,上からくず れるでしよ。大正14年,その時の高等2年生が 石粉をとっていた時にパーつと崩れてきたわけ。 喜友名の人が1人亡くなった。それから何十名 という人が石粉を担いでいるから担いだまま石 に押しつぶされてね。助かったけど,ケガした さあ゜私の従兄弟も片足なくなっていたよ。 今から話すことが事件になるかどうかわから ないけど,師範学校を卒業して,どこの学校に 勤めるかまだ決まっていない時に,お姉さんを 殺してしまった話がある。そのお姉さんは,公 にしてはいけないのかもしれないが,精神異常 者でね,よくお母さんをいじめたものだから, このやろうと言って,その弟が上から覆い被さっ たら,息ができなくなって姉は窒息死してしまっ たわけ。その後,学校が立ち上がって弟をかば おうとしたわけね。わざとじゃないから,救お うといって。でも,救うためには弁漣士が必要 でしよ?弁甑士はお金が高いから,誰もお金を 出せない。その時に,ある弁艘士が無料で弁讃 してあげましょうといって,色々と手続きをし て,本当なら20~30年監獄に入るんですが,執 行猶予ですんだわけ。本人は,「姉さんを殺し てしまったんだから,どんな罰を受けてもいい。」 と言った。その後,海軍になって,サイパン沖 で船がしずんで亡くなったけどね。 今でも政治家は2つに分かれているでしょう? 昔も,政友会と民政民党と2つあったんだけど, この争いはすごかった。非常に有名でしたよ。 シルークルー闘争と呼んでいましたね。私が小 学校1年生の時に,綺麗な羽織袴を藩た人が教