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近藤みゆきさんについての思い出

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Academic year: 2021

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近藤みゆきさんについての思い出

 

今年の一月六日夜、渡部泰明氏からの電話で、近藤みゆ きさんが旧年の暮れ近くになくなられたことを知った。渡 部氏によれば、夫君近藤泰弘氏から告げられたとのことで あった。みゆきさんが長い間闘病生活を続けておられたこ とはうかがっていたが、この知らせは余りにも突然のこと と 感 じ ら れ、 胸 の ふ さ が る 思 い で あ っ た。 「 令 和 元 年 十 月 十三日」という日付のある、みゆきさん御自身からのお手 紙 を 読 ん で か ら さ ほ ど 経 っ て い な い の に と い う 気 持 ち が あったからである。 みゆきさんが東京大学大学院人文科学研究科国語国文学 専門課程の修士課程に入学したのは一九八三年四月のこと であるが、記憶をたぐると、非常勤講師として週に一齣出 講していた日本女子大学の教室で、私はその二年ほど前か ら、おぼろげながらみゆきさんを知っていたようだ。藤原 定 家 と そ の 時 代 に つ い て ぼ そ ぼ そ 話 し て い た 私 の 講 義 を、 前の方に坐って熱心に聞いている、しかし単位として履修 はしない学生だったと思う。講義の前後に立ち寄った研究 室で、東大の大学院に進もうと考えている学生がいると耳 にしたが、その学生かなと感じた。 その頃は本務校の他に四校で週に計五齣の講義や演習を 担当していたので、混乱しないために各大学でしたことを 手帳に摘記していた。一九八二年の手帳を見ると、夏休み 明けの日本女子大での講義の後、正門前の喫茶店で研究生 三人とおしゃべりをしたとある。その三人とは石川(旧姓 笠)暁子さん、木内郁子さん、そして満田みゆきさんだっ た。石川さん、木内さんは、非常勤講師にも卒業論文の指

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― 41 ― 導をさせる当時の日本女子大の方針で、私が卒論の相談を 受けたことのある卒業生だった。そして私はこの時、教室 の前の方に坐って私の講義を聞いていた学生が王朝和歌の 研究を志していることをはっきり知ったのであろう。 満田みゆきの大学院修士課程の専門科目の答案は、私の 知る限りでじつにみごとなものであった。秋山虔先生が何 かの折にみゆきさんについて、既に専門の研究者のようだ と、私に対して述べられたことも思い出される。研究テー マは平安和歌だから、秋山先生が指導教官になって下さる ものと私は思っていたが、先生は「私は一年後には退くの だ か ら 」 と 言 わ れ て、 私 に そ の 役 を 命 じ ら れ た。 先 生 が 一 九 八 四 年 に 定 年 退 官 さ れ て 鈴 木 日 出 男 氏 が 着 任 し た 時、 私 は 指 導 教 官 を 変 更 す る よ う に と み ゆ き さ ん に 言 っ た が、 提出した履修科目表の指導教官の欄には私の名が書かれて あったので、それ以上言うのをあきらめた。自身の優柔不 断さをさらけ出したことになる。 八三年から翌年にかけて、大学院の私の時間では『袋草 紙』を読んだ。みゆきさんは八三年には和泉式部、八四年 には加賀左衛門について発表している。八五年には百人一 首で紀貫之の歌、各自の研究テーマを取り上げることにし た八六年には、源道済の和歌について報告した。 一 九 八 六 年 は み ゆ き さ ん に と っ て た い そ う 重 要 な 年 で あ っ た。 春 に は 大 学 院 修 士 課 程 を 修 了、 博 士 課 程 に 進 学、 秋 十 一 月 九 日 に は 国 語 学 研 究 者 近 藤 泰 弘 氏 と 新 宿 の ホ テ ル、 セ ン チ ュ リ ー・ ハ イ ア ッ ト で 華 燭 の 典 を 挙 げ ら れ た。 その席でスピーチを求められて何を話したか、私は覚えて いない。ただ、その前後の手帳を見て、その二週間ほど後 に、同じく新宿の高層ビルの中の居酒屋で開かれた、大学 院の和歌を研究しているメンバーのコンパに、新婚早々の みゆきさんも出席していること、源道済についての報告は その半月ほど後であったことを知って、いかにも彼女らし いと、今にして思うのである。 新 進 の 王 朝 和 歌 研 究 者 近 藤 み ゆ き の 名 は、 こ の 頃 既 に 同 学 の そ の 分 野 の 人 々 に 知 ら れ 始 め て い た の で あ ろ う、 一九八八年四月には博士課程を中退、千葉大学に専任講師 として着任した。私にとっても東大国文の先輩である島田 良 二 氏 が 近 藤 さ ん の 学 才 を 見 抜 か れ て の 人 事 で、 「 錐、 嚢 にたまらず」という諺の通りであった。千葉大学から実践 女子大学への転出の時のことはよく知らない。 年号が昭和から平成へと改元された一九八九年一月に刊 行を開始した、岩波書店の新日本古典文学大系では、編集 部は八代集のすべてを書目に収めることにしていた。編集 委員の中で最年長だった佐竹昭広氏は、私に“新古今集を やったら”と言われたが、私は“後拾遺和歌集をやってみ

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― 42 ― たい”と言って、それが認められた。新古今集はそれまで に二つの出版社で校注をしたことがあるので、この時は王 朝和歌の中に兆してくる中世的なものを後拾遺集あたりか ら探ってみたいと山気を出していた。そして、平田喜信氏 と共に、分担して本文を作り、注釈を加えたが、作者や詞 書などに見える人名や地名の解説、先行注の調査などにつ いて、数名の若手の研究者に協力してもらった。この時作 者の伝記や経歴などについて、最新の研究成果を結集して くれたのが、 近藤みゆき氏と武田早苗氏(平田氏の協力者) であった。そして新古典大系『後拾遺和歌集』は一九九四 年四月に刊行できた。丁度私が定年で東大を辞し、最初に 教職に就いた白百合女子大学に再就職した時であった。 その三年後、私は明治書院を版元とする和歌文学大系全 八十巻という、向う見ずな企画を発足させた。このシリー ズでは勅撰二十一代集のすべてに加注することを目標の一 つと定めた。その中で後拾遺集の担当は近藤みゆきと決め た。 み ゆ き さ ん は 喜 ん で 下 さ っ た と 思 っ て い る。 そ の 時、 病魔が忍び寄っていたのかどうか、知る由もなかった。本 文は仕上げたが加注は困難であると御本人から知らされた 時 は 愕 然 と し た。 出 来 上 っ て い る 本 文 原 稿 を 送 っ て 頂 き、 注釈は新古典大系版で詞書登場人物の解説を担当された松 本真奈美さんに依頼し、御両人の共著とすることをみゆき さんに承諾して頂いた。 近年岩波書店は、完結してから大分経った新古典大系の うちとくに主要な古典の文庫本化を進めているが、その一 環 と し て、 八 代 集 の 手 始 め に 後 拾 遺 集 の 文 庫 版 を も く ろ み、その実現を私に求めた。共校者の平田氏も既に逝去さ れ、一人で新古典大系版を見直すには余りにも年を取り過 ぎてしまったと痛感しながら、何とか文庫版『後拾遺和歌 集』の刊行に漕ぎ着けたのが、昨年の九月だった。そして こ の 小 文 の 初 め に 記 し た、 み ゆ き さ ん か ら の お 手 紙 と は、 その文庫版をお送りしたことへの返信であった。そこには 新古典大系本の作業をした日々が懐かしく思い出されるこ とや、病のため現在は十分に研究ができない残念さなどが 書かれてあった。 今 改 め て こ の お 手 紙 を 読 み 返 し、 『 古 代 後 期 和 歌 文 学 の 研 究 』( 二 〇 〇 五 年、 風 間 書 房 )、 『 王 朝 和 歌 研 究 の 方 法 』 ( 二 〇 一 五 年、 笠 間 書 院 ) の 遺 著 の そ こ こ こ を 開 き 見 て、 思い合わされることは少なくない。そしてこの両書が今後 の王朝和歌の研究者を永く啓発し続けることを疑わない。 近藤みゆきさんは明るくて茶目っけもある、魅力的な人 だった。今でも思い出されるのは、彼女が大学に入った年 の 秋、 奥 州 平 泉 へ の 国 文 学 研 究 室 旅 行 で、 山 中 玲 子 さ ん、 谷知子さんと共に、彼女が女性トリオのキャンディズよろ

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― 43 ― しく、振りを交えてその持ち歌を歌ったことである。そし てその二十年後には、この三人と渡部泰明氏が幹事となっ て、昔の院生諸氏が私の古稀の祝いと称して、新宿御苑近 くの割烹で宴を開いてくれ、 それから歌舞伎町のカラオケ ・ バーに移って、昔のキャンディズの歌と踊りが再演された のであった。 数年前、丁度七十代を過ぎて八十代に入った頃、何度か 出たり入ったり、病院のお世話にならざるをえない病を経 験してからは、私は人々の前でしゃべったり、講義のよう なことをしたりすることはやめた。ただ週に一度、和歌文 学大系の仕事で明治書院に通うことは続けてきた。天気が 良い朝、そして気力がある時は、新宿東口から区役所通を 抜けて、通称職安通に面した小さなビルの二階にあるその 仕事場まで歩いて行く。その道筋、 新宿区役所の少し先に、 三十数年前、旧院生諸氏にくっついて行き、皆の熱唱に感 嘆したカラオケ・バーのビルがある。その前を通ると、皆 若かったのだなあと、その時のことなどが思い出されるの だった。 しかし、今年の三月以降は、週に一度の仕事場通いもや めざるをえない世の中になった。そして今では自宅で人々 の原稿や校正刷などを読んでいる。現在取りかかっている のは、四人の女性達と共に校注する古今和歌集の原稿整理 である。そして、いずれは近藤みゆきさんが病躯をおして 作成された本文に松本真奈美さんが注釈を加えられる後拾 遺和歌集も、和歌文学大系全八十巻のうちの一冊として公 刊されることであろう。それがいつのことか、私がそれを 見届けることが出来るかどうかはもとよりわからないけれ ども、今後どのように変容するか見当のつかないこの国の 文化にとって、そのような古人の心を探る営為が意味のあ るものであり続けることを信じたい。 近藤みゆきさんが王朝和歌文学研究の分野で残された足 跡を顧みながら、そんなことを考えている。 (くぼた   じゅん・東京大学名誉教授)

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