東南 アジア研究 8巻4号 1971年3月
資 料 ・研 究 ノー ト
ビ ル マ 国 軍 史
(
その
3)
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国軍 解 体 の危 機 1948年 1月4日の ビル マ独 立 と と もに , ビル マ軍 に顧 問 と して留 まっ て い た英 人将 校 が 去 っ た。457) そ して47年8
月29日に調 印 され た ボ ウ ・レッ ヤ - :フ リー マ ン協 定 に基 づ く英 軍 事使 節 団 に とっ て代 え られ た。458) 新 生 ビル マ軍 は こ うして 次 第 に英 軍 式 に 整 備 され てい っ た。459) と ころが , この新 しい軍 隊 は独 立 と同時 に解 体 の危 機 に さ らされ る。危 機 は ,赤 旗 , 白旗 両 共 産 党 の武 装 蜂 起 , ア ウソサ ンに よっ て つ くられ た人 民義 勇軍 の反 乱 ,軍 隊 内部 か らの左 翼 系 部 隊 の脱 逃 , カ レン人 の蜂 起 に呼 応 した カ レン人 部 隊 の 寝 返 りな ど,各 方 面 か ら迫 っ て きた。 カ ソデ ィ ー協 定 に基 づ く新 軍 の編 成 に際 して は,選 ば れ な いPBF
兵 士 の ほ うが 多 か っ た。 彼 らは ,大 半 が 郷 里 に帰 っ て行 っ た 。 しか し,職 は な か っ た。460)ア ウ ンサ ンは こ うした元PBF
兵 士 達 の生 活 安 定 を図 り,合 わ せ て秩 序 の維 持 ,復 興 な どに役 立 た せ るた め, 45年 12月1日, 「人 民義 勇軍」(
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, 略 称PVO)
を組 織 した。461)PVO
は次第 に大 きな組 織 とな り, い つ の間 に か
AFPFL
の "私 軍 " の よ うな存 在 に なっ て きた。462)紘 本 部 は ラ ン グ ー ンに お か れ , 配 下 の 司 令 部 が 各 県 に 設 け られ た 。 や が て, 全 国各 地 の村 落 に 下 部 組 織 が で きあが っ た 。P
VO
の構 成 は ,今 や ま るで軍 隊 そ っ く りに な っ て きた。463)彼 らは *大阪外国語大学 ビルマ語学科 457)Ti
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・322・ 458)Ca
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567:ビルマ語訳全文がHl
aMyo,pp
・238-242にある。 459)Ti
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323・ 460)BoTha
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70. 463)BurmaandtheInsurrections,p.8. 534大 野 :ヒル て国軍 史 (そ の 3) 軍 服 を着 用 し, 新 規 応募 者 に軍 事 訓 練 をほ ど こしたっ464) 帽 章 に は
PBF
の孔 雀 印が 用 い られ た 。 や が て そ の兵 力 は, 10万 を越 え る状 態 に なっ た.465) 確 か に,P
VO
は第 二 次 大 戦 の 「落 し 子 」 で あ るo指 揮 官 クラス の 中 に は , 戦 時 中味 わ っ た栄 光 の再 現 を夢 み る者 もい た0466'PBF
の 旧兵 士 か らな る こDP
VO
の存 在 は , 今 や重 大 な問 題 となっ た。467) 総 督 はP
VO
の解体 を 企 て468), 制 服 着 用 ,軍 事教 練 の禁 止 令 を 出 した。469' けれ ども, こ うした措 置 は実 効性 を もた な か っ た rP
VO
の 司 令官 は ア ウ ンサ ンで あ り,参 謀 部 に は ボ ウ フムー ・ア ウ ン, ボ ウ ・ラヤ ウ ン, ボ ウ ・ジ ソ ヨ-, ボ ウ ・タ- ヤ -な ど新 軍 に 加 わ らなか っ た 「志 士 30人 」 の一 郭 が 参 画 して い た 。 ボ ウ ・ トウン リン, ボ ウ ・テ イ ン ダ ンな ど ミソ ガ ラ- ドン士 官 学 校 の 出身 者 も加 わ っ て い た o 彼 らは , い ず れ も実 戦 の経 験 を もつ ベ テ ラ ンば か りで あ っ た。 この頃 , 共 産 党 に分 裂 の兆 が 現 わ れ た。 共 産 党 指 導 者 の一 人 タキ ン ・ソウほ , 日本 軍 が 退 い て連 合 軍 が 戻 っ て来 た時 か らす でに , 「ビル マが 独 立 す る まで は 闘争 を継 続 す る必 要 が あ る」 こ とを主 張 して い た。470' タキ ン ・ソウに率 い られ る一 派 は, 英 国 との妥 協 をい っ さい拒 否 し て い た。 彼 らに とっ て は ,帝 国 主 義 者 に対 して ほ人 民 戦 争 が あ るだ け だ っ た〔471) 一 方 , タキ ン ・タン トゥ ソに率 い らjLる多 数 派 は ,AFPFL
の組 織 内 に留 まっ て ビル マの共 産 化 を図 ろ う と して い た。472) タキ ン ・ソ ウほ , 46年2
月 に 開 か れ た党 大 会 で, タン トゥ ン とテ ィ ンペ ーを 「帝 国主 義 者 と妥 協 す る 日和 見 主 義 者 」 と非 難 した,
4
7
3
) け れ ども, ソウ一 派 は , しょ せ ん少 数 派 に す ぎなか っ た 。 "トロッキ ス ト" の熔 印 を お され た タキ ン ・ソウ, タキ ン ・テ ィ ン ミ ャ474)ら7
人 は , ビル マ共 産 党 を脱 退 , 新 た に 「赤 旗 共 産 党 」 を結 成 した。 タン トゥ ソ, テ ィ ンペ ー ら多 数 派 は , 「白旗 共 産 党 」 と よば れ た。475' 赤 旗 共 産 党 は46年7
月 非 合 法 化 され ,地 下 活 動 に転 じる。
4
7
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)
一 万 , ビル マ独立 が タキ ン ・ヌお よびAFPFL
を 中心 に着 々 と進 め られ るに伴 い, 白旗 共 産 党 も不 満 を抱 きは じめ て きた。 彼 らは , ビル マ独 立 の イ ニシ アチ ブを と るの は共 産 党 だ と 自 負 して い た。 共 産 党 は,AFPFL
を公 然 と非難 し始 め た。477' タン トゥ ンは, ア ウ ンサ ンを 日 464)MgMg(1961),p.72・ 465)MgMg (1969b),p.271・466)BurmaandtheInsurrections,p.T,
467)CとIdy,p.519. 468)Ibid" p.521. 469)Collis,p.264;Trager,p・72. 470)MgMg (1961),p・63. 47D Tinker,p.20. 472)IbLd.,p.20.
473)BurmaandtheInsurrections,p.2;Cady,p.527.
474)47年赤旗脱党,49年白旗入党,60年逮捕,帰順 . ThakinTin Mya:ll'Iyawaddy,1962.Åug.,pp. 123-137.
475)Cady,p.527;Tinker,p.20;Trager,p・97;MgMg(1969b),p.277. 476)MgMg(1958),p.134;Cad),,p.527;Tinker,p.20;Trager,p.97. 477)Butwell,p.50
東 南 アジ ア研 究 8巻4号 和 見 主 義 者 と き め つ け , 総 督 の 行 政 参 事 会 に 加 わ るの は 裏 切 り行 為 だ と言 っ て攻 撃 し た046年
9月26
日結 成 され た 新 行 政 参 事 会 に タ ン トゥソが 選 考 か ら洩 れ た478)こ と も一 因 で あ っ た 。 10 月10日,A FPFL は 副 総 裁 タキ ン ・ヌの 提 案 を 受 け 入 れ479), 共 産 党 の 除 名 を 決 議 し た0480) 1 月以来 A FPFL の 事 務 局 長 を務 め て き た481)タ ン トゥ ソ は,10月13日そ の 職 を 追 わ れ た0482)英 連 邦 諸 国 の 中 で は は じめ て の 共 産 党 閣 僚 タキ ン ・テ ィ ンペ ー ほ, 10月22
日 しぶ しぶ 閣 僚 を 辞 任 し た。483)共 産 党 除 名 の 波 紋 は ,PV O に も影 響 を お よば した 。 ボ ウ ・テ イ ン ダ ン (ミソ ガ ラ ー ドソ士 官 学 校 1期 生 ), ボ ウ ・ア ウ ソ ミソ の 率 い る共 産 系 PV O484)の =赤 軍 " が ,P
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か ら 離 脱 し た。485)4
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月
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日, ア ウ ソサ ン, タキ ソ ・ ミャ , ウ ∼ ・バ チ ョ ウな ど行 政 参 事 会 員7
名 が , ウ-・ソ ー の テ ロに 倒 れ た。
486) 事 件 直 後 現 場 に か け つ け た ア ウ ソサ ンの専 任 副 官 ボ ウ ・ トゥ ソ フ ラは , 次 の よ うに 語 っ て い る。487) 「時計を見た ところ,ち ょ うど10時35分になっていた。そ の時,将軍の部屋の方か ら ドカソ, ドカソとい うものす ごい爆発音が起 こったので,私 とボ ウ ・タンウィンほ腹ばいになって身を伏せた。先程鳴 り響いた 爆破音にほんの少 し遅れて ダヅダッダヅとい う自動式機関銃 の音が続け ざまに聞 こえて きた。その時になっ て,われわれは "しまった,大臣達 が襲われた" と悟 り,私は将軍達 のいる会議室 の方-,ポ ウ ・タンウィ ソほ私 の部屋の外- と即座に とび出した.将軍の部屋に通 じる扉を開けた瞬間私が 目撃 した光景は,私に と って一生忘れ られぬ 無残な ものであった。 部屋中ひっそ りと 静 ま りかえっていて きな 臭 い硝煙が漂 ってお り, 先刻 まで ビルマの将来を熱心に討議 していた 大臣達 が ゴロゴロ倒れていて 見 るに耐 えない光景であっ たO最高幹部のア ウンサ ン将軍は,腰 かけていたテーブルの上座の方 で哀れに も椅子 と一緒に倒れ仰向けに な っていた。床 の上には35口径 と45口径 の銃弾 の薬 きょ うが散 らば っていたO加害者達 と向 き合 う位 置に坐 っていたため,最初の銃撃 から逃れ腹ばいになって辛 うじて死の危険か ら免れた ウ- ・バジャン, ピョ-7' ェ- ・ウ- ミャ, ウ- ・アウソザ ンウェ -各大臣 と秘書官 ウ一 ・シュニボー連は,あたふた と隣室 の ウ一 ・ シュニボーの部屋-逃げ込んでいたo」 加 害 者 の 一 人 コ ウ ・ ナウ カ (事 件 当 時 犯 人 側 の 運 転 手 , 現 在 終 身 懲 役 刑 服 役 中) は , 次 の よ うに 述 べ る。488) 「4人が政庁の建物に入 って行 ってか らしば ら くして,パチパテパチパチ とい う音が聞 こえて きたので, や ったな とい うことが分かった。音はあ ま り大 き くなかった。 ドカン ドカンとい うよ うな音ではなかった。 478)Tinker,p.21;Collis,p.283. 479)HlaMyo,p.367;MgSoeMg,p.86,115.480)MgMg(1961),p.128;Butwell,p.50;Trager,p.64,77;HtinÅung(1967),p.307. 48D MgMg(1961),p.71. 482)Tinker,p.22. 483)Mg Mg (1961),p.128; タキ ン ・ティンぺ-は 現在 ウ一 ・ティンペ- ミイ ソと名の り,国営新聞 「ポ ウダタウン」紙編集長兼作家 として活動 している。 484)BoTheinSwe,p.199. 485)Ibid.,p.199;MgMg(1969b),p.282;ボ ウ ・ティンダンほ後逮捕,帰順 したoThuriya,1948.7.29. 486)Foucar,p.201;Cady,p.557;Collis,p.289;HtinÅung(1965),p.124;HamTin,p.109;
MgMg(1958),p.111;MgMg(1961),p.84;MgMg(1968),pp.57-58. 487)BoHtunHla,p.89;大野 徹 (1967),p.50.
488)U Hla :HlaLmg knitlutha,1957.
大野 :ビル マ国軍 史 (そ の 3) よ く葉 の茂 った マ ンゴーの木に石 ころを投 げ,それをち ょっ と離れた所で聞いてい る程 度の音であ った. ど うな ったのだ ろ う。彼 らだけが射 ったのだ ろ うか,それ ともお互 いに射 ち合 ってい るのだろ うか,そ う思 っ てい る と間 もな く階段を彼 らが小売 りに駆 け降 りて きた。」 危 機 一 発 で 死 を 免 れ た 閣 僚 の 一 人 ウ - ・バ ジ ャ ン は , 次 の よ うに 述 べ て い る
っ
459) 「犯人達 が聞入 して来た10時30分頃,閣僚会議の担 当秘書官は ウ一 ・オ ンマ ウンであ った。 (中略) 当 日 私 が坐 っていた席は,犯人連 が入 って来た扉 と向い合せに な っていた。守衛 を突 きとは し罪を押 し開けて入 って来た軍服姿 の3,4人 を見た瞬間,私 は将軍 の ところへ緊急連絡に来たのだ ろ うと思 った,何 とい う奴 らだ, 作 法 もろ くにわ きまえていない。 閣僚会議の庸-来 る とい うのに, 銃 を外に 置 くことさえ していな い。今後 こ うい うことは しない よ う,将軍に注意 して もらわねば, と思 った。そ の瞬間,先頭 の男が コの字 型 にな った議場 の入 口か ら中にはい り込み,仁王立ちにな った まま将軍めがけて発砲 した。将軍は腕 で防 ぐ よ うに して立ち上 り,何事 か叫んだ。 しか し何 と言ったのか よ く分か らなか った。犯人連 が射 ち続 けている と,将軍ほ着後の机 の方- とよろめ き,机 と机 の問に倒れ で 事切れた。将軍が射たれ てい る時, ウ一 ・シュ ニ ボーと ピョ-ブェ - ・ウ- ミャは,会議室 の隣にあ る ウ一 ・シュニボ ーの事務室に逃げ込 んでいた。私は 犯人達 が発砲 したのを見た途端床 の上に うつ伏せに な り,左隣に坐 っていた ウー ・ア ウンザ ンウェ-の手を 引張 って,二人共床 の上に伏せた ままにな っていた。(中略)犯人達 は坐 ってい る人だけを射 った。 ウ一 ・ア ウンザ ンウェ ∼と私 は,横たわ った ままだ ったので,死んだ とで も思 った のだろ うかあ ま り射たなか った。」 同 じ く危 う く助 か っ た ウ - ・ア ウ ソ ザ ソ ウ ェ - 紘 , 次 の よ うに 述 べ る0490) 「銃 声が止み犯人達 が出て行 って静 ま りかえ った時,それ まで うつ伏せになった ままの私 とウ一 ・-・lジャ ンとは立 ち上が って周 閏を見回 した。私が憶 えてい る光 景は, 開閉40フィー ト位 の会議室一面こ まるで霧が かかった よ うに硝煙 が も うも うとたち込めてお り,床 の上には弾が散乱 していた。 ボ ウ ・アンヂ ョ一通 りに 向か って コの字型 に並べ られた机 か ら少 し離れた床 の上に, ア ウンサ ン将軍が仰 向けにな って倒れ ていた。 机 の右側 では マイ ンプン藩主 のサオ ・サ ン トタンが椅子に腰 を力材
仇の上に手をついて 口を開けていたが, 口か らほ ドク ドグと血 があふれ 出ていた。机 の左側に席を 占め ていた タキ ン ・ミャは,一番 左端 の机の
下で 仰 向けにな っていたが,死 んでいるよ うだ った。 ウ一 ・ラーザ ク,デ ィー ドゥ ・ウーバチ ョ ウ, ウ一 ・バ ウ ィ ン, マ ン ・バ カイ ンな どは,いずれ も椅子の上に腰 かけた まま首を うなだれひ っそ りとしていた。 ウ- ・ ラーザ クとデ ィー ドゥ ・ウ-バチ ョ ウの二人は まだ絶命 してお らず,かす かに息を していた。」 暗 殺 に 使 わ れ た 銃 は ,M-
3
とい う番 号 の 入 っ た 自動 小 班 と軽 機 関 鎌 で あ る 。 この 点 に つ い て ボ ウ ・ク ー ヤ ー は 次 の よ う に 述 べ る。491) 「対 日抵抗戦に踏み きった後だったOわれまっれ第6管 区の L/- ウェ-郡に米軍機4機が飛乗,落 卜傘 で武 器 を投下 して くれた。 (中略) 届いたのは, とて も軽 くて役に立 つ軽機 関銃 であ った。M-3とい う.番号が つ いていた。 (中略) この間, ア ウンサ ン将軍 ら民族指導者 の暗 殺に使われた武 器を,写真で見た二小型 機 関銃 だ った。それは,われわれが対 日抵抗 戟当時使用 した M-3機聞銃 であ った。 (中略)歴 史 とい うもの はむ ごい ものだ。」 ア ウ ソ サ ン の 亡 骸 は 病 院 に 運 ば れ , そ れ か ら タ ー ワ レイ ン の 自宅 に 送 り届 け られ た ( そ の 模 様 を ボ ウ ・テ ィ ン ス エ ー (現 在 桑 門 に 入 り, ア シ ソ ・メ ー タナ ウ イ トウ デ ィ と称 す)は
次 の よ うに 述 べ る。492) 489)U BaCyan:LanzinThadin,19677.15;MgMg(1968),pp.65-67. 490)U AungZanwai:LanZinThadin,1967.7.15;MgMg(1968),p-69. 491)BoTaya:HanihauJaddy,1969.3.27.東南 アジ ア研 究 8巻 4号 「1947年7月19日は曇 ;)だ った。当時 ラングーン地区の PVO指揮官を していた私は,市 内の治安状況を み るため10時半す ぎに ラウソウィッの本部を出た。.ス-i,一 ・パ ゴダの近 くまで来た時, ラングーン紀の記 者 コウ ・チ ョ- ミインがバスを降 りて大声で駆け寄 って きた。彼は-ア-ア言いなが ら, 『ボ ウ ・ティンス エー。将軍達が政庁内で射殺 された。知 ってますか』 と言 う
。
『本当か。では直 ぐ病院-行かなければ』私達 は心配 しなが ら病院-駆けつけた。病院に着 いた頃,一台 の救急車が外来患者診察室の南側に来て止 った。 車 内にほ,指導者達の見 るも無残な死体があった。 タキ ン ・ミャ,マ ン ・バ カイソ,デ ィー ドゥ ・ウ-バチ ョ ウ,マインプン藩主な どであった。ディ ドゥ ・ウ-バチ ョウとマイソプソ藩主の二人は まだかすかに息を していたので,漬 ぐ病院に運び込んだ。将軍の亡骸 は,すでに病院の一室に安置してあった。 ド- ・キ ンチ 一,ボ ウ ・レッヤーな どが帰 って行 った後,私達 PVOの者はボ ウフムー ・ア ウンと一緒に死顔を見,本部 へ帰 って勢揃いした。そ こ- タキ ン ・ヌがや って来 て会議を開 き,私に将軍の死体を洗浄す る こと,亡骸 を クー ワL/イ ンの将軍宅-送 り届け る こと,国葬 を行な うことな どを命 じた。将軍の亡骸は タ- ワレインの 自 宅 で解剖 され,内臓や脳梁な どを取 り出した後, また縫 い合わ された。その後 アル コ-ルで拭 き, アル コー ルに浸け られた。」 ア ウ ソサ ン らの 死 後 , ラ ン ス 総 督 は 制 憲 議 会 議 長 タキ ン ・ ヌを よん で組 閣 を 依 頼 した。493) ピイ ン マ ナ - に い た ネ - ウ イ ン は , マ ウ ソ マ ウ ン, イ ェ - トゥ ツ らを 引 き連 れ , 急 い で ラ ン グ lソに 戻 っ て来 た O ネ ー ウ イ ン, マ ウ ソ マ ウ ン , イ ェ - トゥ ツ ら軍 関 係 者 と ボ ウ フ ム - ・ア ウ ソ , ボ ウ ・七 イ ン フ マ ン らの PVO, ウ - ・バ ス - - , ボ ウ ・ア ウ ソ ヂ - らの 社 会 党 代 表 とが ラ ン グ ー ン のP
VO
本 部 で タキ ン ・ヌ , ボ ウ ・レッ ヤ ー ら と協 議494), 14名 か らな る タキ ン ・ ヌ 内 閣 の 誕 生 とな っ た。495)P
VO
は , 今 や6
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千 の 人 数 を は こ る巨 大 な組 織 に な っ て い た。496) ア ウ ソサ ンの 死 は , そ のP
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に 大 き な衝 撃 を与 え た。P
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の統 一 は もっ ぱ らア ウ ソサ ン に 依 存 して い た。497)そ れ だ け に ア ウ ソサ ンが い な くな れ ば , 組 織 に ひ び が 入 っ て来 る。 ア ウ ンサ ンの 死 後 ,P
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は ボ ウ フ ム - ・ア ウ ソ, ボ ウ ・ポ ウ ク ソ, ボ ウ ・セ イ ソ フ マ ン な どに よっ て統 率 され て い た。498) だ が そ れ は , も は や 単 一 の 組 織 体 で は あ り得 ず , 内 部 に 左 右 の対 立 を は らむ 不 安 定 な 組 織 に 変 わ っ て い た 。 新 生 の タキ ン ・ヌ 内 筒 に は , 重 大 な 脅 威 が 迫 っ て い た 。 そ れ は , タキ ン ・タ ン トゥ ソ の 率 い る 白旗 共 産 党 か らで あ る,AFPFL
か ら除 名 され て は い た も の の , 共 産 党 は 当 時 まだ 合 法 政 党 で あ っ た 〔 共 産 党 は ,47年10月17日に 調 印 され た 「ヌ ・ア ト 1)-協 定」499)に 真 向 か ら反 対 し た0500) 彼 らは , ヌ ・7 11i)-協 定 を 「帝 国 主 義 者 - の 屈 辱 的 な 売 り渡 し」501)で あ り, 「偽 の 独493)Collis,p.289;Cady,p.558;MgMg(1958),p・112;Htin Åung(1965),pp・124-125;Trager,
p.90;HamTin,p.109;MgSoeMg,p.105.
494)MgSoeMg,p.116;MgMg(1968),p.83;MgMg(1969b),p.291;MgMg(1969a),p・192-3. 495)その メンバ ーについては,HanTin,p.110. 496)Trager,p.100. 497)Cady,p.559;MgMg (1969a),p.198. 498)MgMg(1969b),p.300;MgMg(1969a),p.198. 499)協定全文は,MgMg(1958),pp.192-195に ;ビルマ語訳文は,HlaMyo,pp.31ト316にある。 500)Cady,p.572;Trager,p.97. 501)Tinker,p.26;Cady,p.573. 538
大野 :ビル て国軍史 (その3) 立 を受 け 入れ た」5Gニ)と言 っ て 非 難 した 。 非 難 の焦 点 は , 協 定 の 中 の幾 つ か の 条 項 (独 立 後 に お け る英 軍 事 使 節 団
v
j ビル マ常 駐 , ビル マ の 海 港 お よび空 港 - の 英 船 ,英 航 空 機 の 乗 り入 れ , 過 役 英 人 官 吏 へ の年 金 支 給 , 接 収 され た 外 国 企 業 - の補 償 な ど) に あ っ た,503' 共 産 党 は協 定 に は批 判 的 だ っ たが , 憲 法 制 定 に 加 わ り ビル マ の 独 立 を歓 迎 した 。504) しか し この党 路 線 は , 独 立 後 直 ぐに変 わ っ た 。 そ れ は48年 2月 イ ン ドの カル カ ッ タで 開 か れ た東 南 ア ジ ア共 産 党 会 議 の 直 後 か らで あ る, ニL7/)会 議 に は , ビル マ共 産 党 か らも タキ ソ ・タ ン トゥ ソ, タキ ン ・フ ラ ミャ イ ン (ボ ウ ・ヤ ン ア ウ ン),タキ ン ・ア ウ ンデ ー, タキ ン ・/ミテ ィ ン テ ィ ン らが 出 席 した。505)彼 らは ,帰 国 後 い っ そ う攻 撃 的 に な り,
「力 に よる政 府 打 倒」「
AFPFL
と政 府 指 導 者 の一掃 」506)を 主 張 し は じめ た。 共 産 党 の この 「武 装 闘 争 路 線」507)は , 党 内 に 強 い影 響 力 を もつ イ ン ド人 ゴ シ ャ ル の主 張 ,「
AFPFL
は 英 帝 国 主 義 者 の手 先 に な り下 が っ て い る。 わ れ わ れ はAFPFL
を 打 倒 し, 貢 の 人 民 故 健 を樹 立 しな け れ ば な らな い 」 に 基 づ い て い る0
508)この 間 の事 情 に つ い て , タキ ン ・テ ィ ンペ ー は 次 の よ うに 述 べ る。509) 「1948年の独立f
_後, ゴシャルが帰 って来た。 ゴシャ′Lが起草 した政治路線は "内戦 "路線であった。 ビ ル マは,い まだ半轄民地,半封建国の ままだ。独立は偽 りにす ぎない。そ して, この偽 りの独立は AFPFL が資本主義者 と結託 した結果 もた らされた とい うのが,彼 の見解であった。」 ゴ シ ャ ル の意 見 は , 48年 2月 18日の党 中 央 委 員 会 で正 式 に 採 択 され た〔510) 武 力 に よる政 府 打 倒 の キ ャ ンペ - ン は , こ う して 大 々 的 に く り広 げ られ る, 3月27日, ラ ン グ - ソの バ ン ドゥ ー ラ公 園 で人 民 大 会 が 開 か れ511), タ ン トゥ ソが 出 席 した 。 タ ン トゥ ソ はAFPFL
とPVO
を 非 難 し, 武 装 蜂 起 を よび か け た。512) 政 府 は 直 ちに逮 捕 令 状 を 発 し たO 翌28日午 前 2時 , 警 察 が 共 産 党 本 部 に 琵 み 込 ん だ 時 , タ ン トゥ ン と ゴ シ ャル は す で に ピイ ソ マ ナ - に 飛 ん だ 後 だ っ た。513) そ して , 共 産 党 の "武 装 革 命 ''は す で に 開 始 され て い た の で あ るO ウ ー ・ヌは , そ の 前 後 cTJい き さつ を 次 の よ うに語 る0
514) 502)MgMg(1958),p・134;Tinker,p・26;ButWell,p・96・ 503)MgMg(1961),p・128;Cady,p・573;MgMg(1958),p・134;MgMg(1969a),p・197. 504)MgMg (1961),pl128;Trager,p197;1947年の制憲議会選挙では党員7名を当選 させ てい るo Cady,p.500. 505)HlaMyo,p・369; ビルマ共産党の路線変更が コ ミンフォルムと何らかのつなが りを もつ らしい こと は Trager,p.97;MgMg(1958),p.134等にある。 506)MgMg(1958),p・134;Butwell,p・96・ 507)MgMg(1961).p・128・508)BurmaandikeInsurrections,pp・4-5;Tinker,p・34;MgMg(1958),p.135. 509)TheinHpeMyint:BoTahtaung,1968・10.ll
510)B7↓γmaandtheIllSurreCiions,p・5;Tinker,pl34;MgMg(1958),p.134;ButWell,p.96.
511)Cady,p.583;Tinker,p135;Johnstone,p・41・
512)Tinker,p.35;ButlVell,p.97.
513)Cady,p・583;Tinker,p・35;MgMg (1958),p.135;Butwell,p.97;MgMg (1969a), p.202.
東 南 アジ ア研 究 8巻 4号 「1948年3月27日,私は共産党が地下活動に転 じるとの知 らせを受けて残念に思 った。地下に潜 る必要は な い。不平 や不満があれば私に言 ってほしい。で きるだけの ことはす るとい う呼びかけを行なった。私は共 産党 の代表に会お うと思 って,ボ ウ ・レッヤーを団長 とす る使節を出した. タン トタンは来なかった。話 し 合 いたければ,そち らか ら出向いて来い と言 うので,ボ ウ ・レッヤ-らを タン トケンの所に向かわせた。だ が彼 らは,会 えずに引 き返 して きた。共産党が地下に潜 ったのはその翌 日,3月28日であった.」 共 産 党 の武 装 蜂 起 は ,
P
VO
に も影 響 を お よば きず に は お か な か っ た 。P
VO
は2派 に 分 裂 し た。 この 分 裂 は , 直 接 的 に は タキ ン ・ヌ に よっ て提 案 され た1
4
項 目の左 翼 統 一 戦 線 結 成 とPVO
の吸 収 に対 す る評 価 の違 い に 基 づ く。 ヌ案 支 持 の少 数 派 は 「黄 色P
VO」
と よば れ , 批 判 的 な 多 数 派 は 「白色P
VO」
と よば れ た。
5
1
5
)
ボ ウ ・ボ ウ ク ソ, ボ ウ ・ラ ヤ ウ ソ, ボ ウ ・ポ ンチ ≡ - , ボ ウ ・テ イ ソ ウ ィ ソ, ボ ウ ・ トゥ ソ リン らに 率 い られ る 白色P
VO
は , 6月26日地下活 動 に 転 じた。516) ボ ウ フ ム ー ・ア ウ ソ, ボ ウ ・セ イ ソ フ マ ン, ボ ウ ・ ミソ ガ ウ ソ, ボ ウ ・ボ ン ミイ ソ ら の黄 色P
VO
は ,AFPFL に 留 まっ た。
5
1
7
)
政 府 見 解 に よれ ば , 「白 色P
VO
は , タ ソ トゥ ソ の策 謀 の犠 牲 に な っ た」
5
1
8
)
の で あ る。 だ が , 共 産 覚 はP
VO
に 対 して 冷 淡 だ っ た 〔 共 産 党 は , 彼 らを 「支 持 者 の い な い 盲 目的 愛 国 者」
5
19)と こ きお ろ して い た 。 ビル マ共 産 党 上 ビル マ 本 部 は そ の宣 伝 文 書 「わ れ わ れ は な ぜP
VO
と戟 うか 」 の 中 で, 次 の よ うに 批 判 して い る。
5
2
0
)
「悪魔 ヌ政府, ファシス ト政府,AFPFL政府の弾圧に抗 して ビルマ共産党が武装蜂起 してか ら,ち ょ う ど 1年た った。 最近, ビルマ共産党の拷導に よって民主主義を愛す るP
V
O,官吏,学生な どが,政府の弾 圧 に反対 して次 々にたち上が っている。 だが校滑な AFPFLと社会党の悪漢共は, 安寧の維持,選挙の勝 利5
2
1
)
とい う餌を 目の前にぶ ら下げて, ポ ウクン, ラヤ ウン, ソーマ ウソ, ティン 1)ンな ど動揺 しているP
V
O の指導者連を,『平和使節団』 とい う誤 った道に導 いてしまった。P
V
O の指導者は,闘争の中で流 さ れ た血 も忘れ,喜んで 『一飯 の義理』に報 いた。 これ らの指導者は,下 ビルマで流 されたP
V
O の新鮮な血 杏, ヌと共に 美味 しそ うになめ 始めている。P
V
O は, と うと うヌの手下にな り下が ってしまったのだ。 (中略)P
V
O の諸君。 われわれは 2月 と 3月に君達 の指導者 ポ ウ ・ラヤ ウソに,AFPFLと戦 うP
V
O と共 産党 の統一戦線結成を提案 した。だが革命に怖 じ気づいた ラヤ ウンほ,社会党の ウ∼ ・ウィンに脱帽 してい たず らに時を浪費 し司令部を割 ってしまった。彼は団結の よびかけをその足で踏みつぶ してしまったのだ. 君達 の指導者は,統一な ど望んでいない。われわれ と団結す る代わ りに, ヌ政府に忠誠 を誓い君達の血を売 り渡 している。君達に多 くの血を流 させ ているのほ彼 らなのだO(中略)真の革命的P
V
Oよ,平 和を希求 し 家 族の生命を護 り自由 と民主主義を愛す るP
V
O よ。釆たれ ./ われわれに加わ り, ヌ政府を打倒 しよ うで は ないか。人民を迫害す るな。誤 りは直 ぐになお した まえ。 二心 ある君達の措導者達を蹴 とはせ。AFPFL 政府を倒そ う。われわれ と共に民主統一戦線を結成 しよ うではないか。われわれの革命成功のために。」515)BurmaandikeInsurrections,p・21;Foucar,p・229;Cady,p・587;Trager,p.100-102;Mg
Mg(1969a),p.204.
516)BurmaandtheInsurrections,p・8;HanTin,p・120;MgMg(1969b),p.308;Cady,pp.588 -589;Foucar,p.229;Desai,p.280;Butwell,p・101;Trager,p・102;MgMg(1969a),p.204. 517)BoThe主nSwe,p.211;MgMg(1969b),p・308・
518)BurmaandtheInsurrections,p.7. 519)Butwell,p.97;MgMg(1969b),p.300. 520)BurmaandlheInsurrections,pp.46-47・
大 野 :ビル 、守甘草史 (そ の3) 48年 10月 ,
P
VO
は 政 府 の和 平 使 節 ウ一 ・トゥ イ ソを受 け 入 れ , 合 意 が 成 立 した と述 べ て無 条 件 降 伏 す る こ とに な っ た(5122)ラン グ- ソ刑 務 所 に収 監 され て い た 白色P
V
O
の ボ ウ ・テ イ ソ ウイ ン, テ ィ ン リン, トゥ ン 七 イ ン, ア ウソ ニュ ン, ニュ ソ マ ウン らは , 獄 中 か ら平 和 声 明 を 発 表 した0523)け れ ども,PVO
の反 政 府 運 動 は これ で幕 を お ろ したわ け では ない っ ボ ウ ・ラヤ ウン, ソー マ ウソ, ポ ンチ ョ ー らほ1950年 5月12月 に も- た ん帰 順 して い る524)が , 彼 らが そ の 戦 術 を武 装 闘 争 か ら議 会 闘 争 に転 換 した の は,1958年7月 に なっ て か らで あ る。525) 独 立 直 後 の ビル マ の 「国 家 保 安 評 議 会 」 は, ス ミス ・ ドゥ ン将 軍 , シ ー シ ョ ウ将 軍 , チ ャ ー ドゥ旅 団長 , テ ィ ン トゥ ツ旅 団長 , トゥ ソ フ ラア ウソ 少 将 な どに よっ て 構 成 され て い た。
5
2
6
)
テ ィ ン トゥ ツは, 48年8月 に 編 成 され た Union Auxiliary Force の総 指 揮 官 で あ り527), トゥ ソ フ ラア ウ ソほ 警 察 庁 長官 で あ っ た。528) 彼 らは右 派 とみ られ て い たO 左 派 の結 集 が 図 られ たp ネ- ウイ ンの部 下 達 は, ネ - ウィ ソに政権 を とる よ う働 きか け た〔529) クー デ タ-計 画 柾 は , ボ ウ ・テ イ ン ダ ン, ボ ウ ・ア ウソ ミソ らの
P
V
O
赤 軍 も同 意 した 。 社 会党 員 の一 部 も賛 成 した ( 共 産党 の武 力 闘 争 路 線 に 反対 して, 48年 3月26日脱党 した330)ウ一 ・テ ィ ンペ - (現 在 ウ- ・テ ィ ンペ - ミイ ン と名乗 っ て い る) に も働 きか けが行 なわ れ た。531) ビル マ 国軍 の "革 命 " 大 深 が ,8
月10日ラ ン グ ー ンに集 結 して クーデ ターを起 こす とい う噂 が 流 れ た。 タイ ェ ッ か らは ボ ウ ・セ イ ンテ ィ ンの率 い る第 1小銃 大 隊 が 参 加 す る(途 中, イ ェ ー トゥ ッ中佐 の率 い る第3
小銃 大 隊 が これ に合 流 して ラ ン グー ンに 向 か う とい うの で あっ た っ532) け れ ども, 北 部 軍 管 区 司令 官 か ら参 謀 次 長 に 昇 進 したば か りの ネー ウイ ン少 将 は , と うと うみ こ しを上 げ な か っ た一,533) 第 1, 第3大 隊 に 呼 応 して, 他 の部 隊 も参 加 し よ うと して い た のだ が , ネ ∼ ウィソ が 動 か な か っ た た め各 大 隊 の隊 長 もそ の ま まに なっ て し まっ た。534) 計 画 は つ ぶ れ た。8
月8
Ej, 第 3大 隊 が 地 下 活 動 に転 じて行 っ た。 大 隊 長 の ボ ウ ・イ ェ - トゥ ッほ涙 を流 しなが ら隊 と 行 動 を と もに した。535) 同 じ 日, 第5
大 隊 の大 隊 長 ボ ウ ・ゼ - ヤ も,単 身地 下 に潜 っ た,536)結 局, 1948年
8月 8日の この "革命 " に, 実 際 に部 隊 単 位 で 参加 した のは ミソ ガ ラ- ドンに駐 屯 522)BL・ErmaandtheZnsurreciio;7S,P.48;Tinker,p.38;BLltWell,p.101.523)Th7iriya,1948.10.15;1948,ll.23.
524)lianTin,p.124;Trager',p.114;Tinker,p.48.
525)llanlhau)addy,1958.8.12;Yangon,1958.ll.6;Johnstone,p.125,130.
526)MgMg(1969b),p.308. 527)Tinker,p,323. 528〕MgMg,(1969b),p.3〕8. 529)Ibid‥ p.309;MgMg(1969a),p.205. 530)HlaMyo,p.360にその脱覚声明が掲載 されている0 53D MgMg(1969b),p.309. 532)IbZd.,p.311.
533)Ibid.,p.311;Tinkel-.P.323;MgMg(1969a),p.205.
534)MgMg,(1969a),p.309. 535)Ibid.,p.310.
東南 アジア研究 8巻 4号 し て い た第
3
大 隊 と, タイ ェ ッ ミョ ウに 駐 屯 して い た 第1
大 隊 の2
個 大 隊 だ け で あ っ た。537) プ ロ- ム まで来 て停 止 した 第1
大 隊 に , ボ ウ ・イ ェ - トゥ ヅ の第3
大 隊 が 合 流 した 。 だ が 彼 ら 紘 , 今 で は "反 乱 軍 " と よば れ る こ とに な っ て し まっ た0538) 反 乱 軍 の兵 力 は ,2
個 大 隊 合 わ せ て, わ ず か2
千 名 程 度 に す ぎな か っ た0539) そ して , この反 乱 部 隊 は8
月1
0
日政 府 に 忠 実 な 軍 隊 の攻 撃 に あっ て 四 散 す る。540) 第3
大 隊 の ボ ウ ・ニ ュ ソ マ ウ ソ 以 下30
名 の兵 士 は投 降 した が541㌧ "反 乱 指 導 者 " の熔 印 を お され た ボ ウ ・ゼ ー ヤ と ボ ウ .イ ェ ー トゥ ッ ほ , ビル マ共 産 覚 の 中 に 飲 み 込 まれ て ゆ くO 赤 旗 , 白旗 両 共 産 党 , 人 民 義 勇 軍 (白色PVO)
な どの蜂 起 , 国 軍2
個 大 隊 の反 乱 とい う ビ ル マ 国 軍 の屋 台 骨 を大 き くゆ きぶ っ た一 連 の事 件 に 追 い 打 ち を か け る よ うな衝 撃 が きた 。 カ レ ン族3
個 大 隊 が 寝 返 りを うっ て 反 徒 側 に 加 わ っ た の で あ る。542) カ レン国 の建 国 を要 求 す る カ レン人 達 は, す でに48年8月 頃 か ら不 穏 な動 きを見 せ て い た が543), 翌49年1月 に は イ ソ セ イ ソ を 皮 切 りに 各 地 で そ の武 装 組 織「
KNDO」
が 蜂 起 した 。 カ レン族3
個 大 隊 は そ れ に 呼 応 した の で あ る。 ネ ー ウ ィ ソ将 軍 は , そ の時 の 窮 状 を 次 の よ うに 述 べ て い る0544) 「BIA,BDA 系の兵士で編成 された 3個大隊の内,第3大隊が地下に転 じた48-49年頃, 軍の増強を図 ろ うとして も直 ぐには で きなかった し, 武器 も満足になかった。 (中略)空軍には Tigermoth や Chi p-munk ぐらいしかなかったし,海軍に も ML が 8隻か10隻あるだけだった。」 ラ ソ グ ー ソ陥 落 寸 前 まで追 い つ め られ た ウ 一 ・ヌ は,2
月1
日残 っ て い た カ レソ人 部 隊 を武 装 解 除 し, カ レン人 将 兵 を す べ て解 職 拘 留 した。545) ス ミス ・ ドゥ ソ, チ ャ ー ドゥ, シ ー シ ョ ウな どカ レン人 高 級 将 校 は依 然 と して政 府 に 忠 実 で あ っ た が , も は や 彼 らに 軍 の指 揮 権 を任 せ て は お け な か っ た 。 参 謀 長 の職 は, ネ ー ウィ ソ中将 が 引 き継 い だ。546)ネ ー ウ ィ ソ将 軍 は チ ョ ー ソ ウ少 佐 (現 大 佐 ) の率 い る ピイ ソ マ ナ ー の第4
大 隊 を デ ル タに 送 り込 んだ 。 バ テ ィ ン で は ボ ウ ・サ ンチ ー (現 大 佐 ), ボ ウ ・ミソ テ ィ ソ (現 大 佐 ), ボ ウ ・フ ラボ ン (現 大 佐 ) らが 町 の守 備 を指 揮 した。547)KNDO
の ラ ン グ ー ン攻 撃 を 防 ぐた め, ラ ン グ ー ン大 学 の構 内 に大 砲3
門 が す えつ け られ た o ビル マ国 軍 に あ る大 砲 とい えば , そ の3
門 だ け で あ っ た 。 ボ ウ ・イ ェ ∼ トウ 537)Zbid.;BurmaandikeInsurrections,p.23;Cady,p.589;Foucar,p.229;Trager,p.102. 538)MgMg(1969b),p.311;数人の将校が軍隊を政党化 しよ うとした とい うのが政府見解である。BurmaandtheInsurrections,p.9.
539)Zbid.,p.312;BurmaandtheInsurrections,p.23.
540)BurmaandtheZnsu-rrections,p.23;Cady,p.589;Tinker,p.37;MgMg(1969a),p.206.
541)MyammaAlin,1950.8.31. 542)大野 徹 (1970)
,p.
546. 543)Zbid.(I),p.380.544)1968年 9月21日に開かれた部隊長会議でのネ∼ウィン演説。 LohthaPyiihuNeZin,1968.9.22;Bo Tahiaung,1968.9.23.
545)Tinker,p.324;Foucar,p.235;MgMg(1969b),p.315;ビルマ軍は有能な指揮官を多数失 う 結果 となった。rye,p.
2
3
6
.
546)Thuriya,1949.2.2;MgMg(1961),p.315;Tinker,p.40;Foucar,p.235;Johnstone,p.50. 547)MgMg (1969b),p.315.
大野 :ビルて国軍 史 (そ の3) ソ (現 大 佐 ) が それ を指 揮 した。548) ボ ウ ・イ ェ - トゥ ッが 抜 け た後 の第
3
大 隊 は, 有 名無 実 で あっ た っ わ ず か しか 残 っ て い な い兵 士 を チ ッ ミャ イ ソ少 佐 (現 大 使) が 指 揮 して い た。549) ボ ウ ・マ ウ ンチ ョ ー (現 大 佐 ), ボ ウ ・セ イ ン ミャ (現 大 佐 ), ボ ウ ・テ イ ンチ ョ ー (現 大 佐) の率 い る3
個 中隊 は, 著 し く兵 力 が 不 足 して お りわ ず か1
80
名 ぐらい しか い な か っ た(550) ネ - ウィ ン将 軍 は, 他 地 区 に散 在 して い る諸 部 隊 を イ ソセ イ ン の戦場 に送 っ た o ア ラカ ソ地 方 で 回教 徒 の 非合 法 団体 「ムジ ャ ヒッ ド」551)と戦 っ て い た 第5大 隊 (チ ョ - ゾ-大 佐) は, 飛 行 機 で イ ソ セ イ ソへ 送 られ たO ソ- ミイ ソ少 佐 (後 大 佐 , 解 職) が 大 隊 副 官 をつ とめ, そ の下 で ボ ウ ・ア ウンペ ← (現 大 佐 ), ボ ウ ・フ ラモ ー (現 大 使 ), ボ ウ ・マ ウソル イ ソ (現 大 佐) らが 各 中 隊 の指 揮 を とっ た 0552)マ ウ- ビン で は, ボ ウ ・タンセ イ ソ (現 大 佐 ), ボ ウ ・オ ンペ - (現 中 佐 ) らの第 4大 隊 が KNDOに 包 囲 され て い た0553)対 KNDO戦 に は, 以上 の ほ か バ ン ク-ル 少 佐 (現 大 佐 ) の率 い るチ ソ族 第 1大 隊 , セ イ ン ウィ ン少 佐 (現 準 将 ) V3率 い る ど)i,マ連 隊 第4
大 隊 , ボ ウ ・チ ∼ テ ィ ン (現 大 佐 )の率 い る第5
大 隊 の残 りの 中隊 , ア ウ ソヂ ←大 佐 のBTS
第1
大 隊 , ブ レー ク大 佐 (後 準 将 ,退 役 ) の指 揮 す るBur
maAuxi
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な どが 参 加 し た〔554) チ ョ ー ゾー大 佐 (後 準 将 , 解 任 ) が 参 謀 長 と して前 線 の指 揮 を とっ た。555)チ - マ ウソ 少 佐 (後 大佐 , 解 任) が 参 謀 で あっ た 。 カ レソ族 の "内 乱" は, 指 導 者 ソ- ・バ ウー ヂ - め 死 に よっ て下 火 に な る。 バ ウ∼ ヂ ー は, - - マ ウ ソ中佐 (現 大 佐 ), セ イ ソル イ ソ少 佐(
現
大 佐 ) らの率 い る ビル マ連 隊 第3
大 隊 の攻 撃 に あっ て,1
9
5
1
年
8
月 射 殺 されUた。556)4
9
年
4
月1
日国 防 相 , 内 相 , 兼 副 首 相 に任 命 され た557)ネ ー ウ ィ ン将 軍 は, 翌 50年 9月 8日, 辞 任 して軍 隊 に 戻 っ た。558) カ レン族 の "内乱 " を契 機 に, ビル マ 国軍 の戦 闘 力 が 強化 され た01
9
年2
月 か ら4
月 に か け て行 な わ れ た イ ギ リス お よび イ ン ドか らの武 器 援 助 に よっ て,新 しい大 隊 が 増設 され た 。 カチ ソ族 が そ の 中心 に な っ た , カチ ン ・ライ フル銃 隊 は,3個 大 隊 か ら6個大 隊 に ふ や され た 。シ 548)Ibid.,p.317. 549)Zbid.,p.319. 550)(bid" p.319. 551)イスラム州の設立を要求する回教徒の政治組織。 45年にはすでに活動を開始 している。 最盛時には, 化貝 2万を数えた。 アーメ ド・フセイン,アブ ドウル ・カセムなどがその指導者。 党員はイン ド系住 民の ローヒンヂャ一族。1960年から61年にかけて帰順したo LIioonNeZin,1945.ll.23;Myamma Alin,1954.ll.28,1961.ll.16;Mandaing,1961.7.6;M_va,Luaddy,1961AL1g,pp.21J1226. 552)MgMg(1969b),p.321. 553)Zbid.,p.324. 554)Ibid.,p.321. 555)Ibid.,p.322,・チョ-ゾーほ1956年 9月首相命に よって解任 された。M
yammaAlin,1957.5.27. 原 因は共産晃への通謀であるoThissaNezin,1957.8.15.ちなみにチョ-ゾ-は1944年当時 ビルマ共
座 556)大野 徹 (1970),pp.555-558. 557)MgMg,(1969b),p.328. 558)Zbid.,p.337.東 南 ア ジ ア研究 8巻 4号 ヤ ン ・ラ イ フル銃 隊 3個 大 隊 , カ ヤ 一 ・ライ フル銃 1個 大 隊 も新 設 され た0559) 1949年 2月 に は 6個 大 隊 しか な か ゥ た ビル マ 国軍 も,1952年 1月 に は9個 大 隊 とな り, 翌 53年 に は41個 大 隊 に ふ え た。560) これ は もっ ぱ ら, 非 正 規 軍 の正 規 軍 編 入 に よっ て達 成 され た 。 50個大 隊 も の軍 隊 を維 持 す る最 大 の難 関 は, 将 校 の確 保 で あ っ た 。 将 校 は49年 か ら50年 に か け て大 量 に 任 命 され た。561)中 隊 長 は大 隊 長 に昇 進 した。562) 部 隊 長 お よび高 級 将 校 と して の訓 練 を受 け る た め, マ ラヤ, 香 港 , オ - ス トラ リア, ニ ュ ー ジ - ラ ン ドな ど, 外 国 に 派 遣 され る 者 も あ っ た。563) 1955年 , シ ャ ン州 ヤ ッサ ウ町 の近 くに士 官 学 校 が 開設 され た。564) 生 徒 は そ こで4年 間教 育 と訓 練 を受 け, 大 学 卒 と同 じ資 格 が 与 え られ た。565) た だ し卒 業 後 は尉 官 に 任 命 され , 最 低
5
-1
0年 間 は軍 務 に 服 す る こ とが 義 務 づ け られ た。566) (3) 政 治 に手 を染 め た軍 隊 1958年 1月29日か ら4日間 , ラ ン グ ー ン でAFPFL
第 3回全 国大 会 が 開 催 され た。567) 大 会 準 備 委 員 を務 め た 副 首 相 ウ- ・バ ス エ ー は , 開 会 演 説 の 中 で, 「分 裂 を策 謀 す る者 は, い か に 親 しか ろ う と, た とえ親 友 で あ ろ う と, 断 固 これ を や っ つ け る」 と述 べ て568),AFPFL
内 部 に 分 裂 の徴 候 が あ る こ とを 明 らか に した 。AFPFL
の分 裂 は, 同 年4
月 頃 か ら 目立 つ よ うに な っ た。
5
6
9
) そ れ は, ウ 一 ・ヌ (首 相), タキ ン ・テ ィ ン (農 相) 派 と, ウ 一 ・バ ス エ ー (副 首 相), ウ 一 ・チ ョ ー -ェ イ ソ (工 業 相) 派 の対 立 で あ っ た。570) 各 地 で両 派 の衝 突 が 続 発571), ウ - ・ヌ内 閣 は激 しい 非 難 に さ ら され る よ うに な っ た。572)6
月3
日 =ス エ - ・ニェ イ ソ" 派 の 閣 僚15名 と次 官22名 が 辞 任 した。573) 同 月22日 "ス エ ー ・ニェ イ ソ" 派AFPFL
の 中央 執 行 委 員 会 が 開 か れ , ウ 一 ・ヌお よび Hヌ ・テ ィ ン= 派 の党 員 が 除 名 され た。574) 席 上 , ウ 一 ・バ シ ,_- レー は, 「ウ- ・ヌ は, ア ウ ソサ ン の死 に よっ て偶 然AFPFL
の総 裁 に な っ た だ け だ 。 559)Tinker,p.325;少数民族部隊の現在の編成については本稿p.562参府。 560)Ibid.,p.326-327;ビルマの軍隊は,1949年か ら50年にかけて強化 されてい るoPye,p.236. 56D Tinker,p.328. 562)MgMg(1969b),p.325.5
6
3
)
Ibid.,p.325;Tinker,p.327. 564)MγammaAlin,1955.2.9;1955.2.17;MgMg(1969b),p.346.5
6
5
)J
I
J
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mmaAl
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,1955.2.9. 566)_MyammaAlin,1955.2.ll. 567)Donnison,p.156. 568)ウ一 ・バスユー演説の全文は Yangon,1958.2.1にある0 569)Trager,p.174.570)MgMg(1961),p.211;Desai,p.291;Butwell,p.198;HtinÅung(1967),p.322;Johnstone,
p.120;矢野,p.444. 571)Johnstone,p.130. 572)Desai,p.291.
573)HlaMyo,p.134;Donnison,p.157.
574)LIanthau,addy,1958.6,23. 544
大 野 :ビル て
甘
草史 (そ の 3) AFPFL分 裂 の被 告 第 1号 は ウ 一 ・ヌで あ る」 と言 っ て 非難 した 〔 =ヌ ・テ ィ ン" 派 は, 6月9
日に上 程 され た下 院 の不 信 任 案 を1
2
7
対1
1
9
で退 け た575)が , クー デ ター の心 配 を感 じて い た 。 一 方 "ス - - ・ニェ イ ン''派 は政 府 の弾 圧 , 暗 殺 を恐 れ たっ576) しか し軍 は動 揺 しなか っ た。577)ネ - ウィ ソ将 軍 の下 , 固 く団結 して い た,578)彼 らは,政 治 とは程 遠 い存 在 で あっ た〔579) 政 治 的紛 争 へ の介 入 よ りも, まず 共 産 党 そ の他 の反政 府 組 級 との 戦 闘 に 精 力 を注 い でい た。580) AFPFL の分 裂 は, 第 1回選 挙 が 終 わ っ た1950年 頃 か ら始 まっ た っ分 裂 は, 第 2回選 挙 が 終 わ っ た1956年 , い っ そ うそ の速 度 を早 め た。581) そ して1958年 , 独 立 以来 一 貫 して政権 を担 当 して きた AFPFL は, つ い に "ヌ ・テ ィ ゾ ' (また は清 廉) 派 AFPFL と "ス - - ・ニェ イ ン" (また は安 定 ) 派 AFPFL に 分 裂 して し まっ た0582) 当 然 , 軍 内部 に も波 紋 が 広 が っ て き た 〔軍 は, 「法 を遵 守 す る。 憲 法 に従 っ て合 法 的 に成 立 した政 府 に従 う。 政 争 に は関 与 しな い」 との方 針 を とっ た0583) と ころが 8月31日 "清廉 " 派 AFPFL の大 会 が 開 か れ , 軍 に "公敵 第 1号 " の レッ テル が は られ た。584) 一 方 , 軍 の高 級 幹 部 達 は, ウ一 ・ヌが 合 法 「左 翼」 の協 力 を得 て議 会 の運 営 を行 な っ て い る585)の み な らず , 反 徒 の共 産 党 に和 睦 の提 案 まで して い る586) こと を知 っ て, 大 い に驚 い た,587) ネ - ウィ ソ大 将 , テ ィ ンペ ー準 将 , ア ウ ンヂ -, マ ウ ソ マ ウ ソ, ア ウ ソ シ ュ-, テ ィ ン マ ウ ソ らの諸 大 佐 は,社 会 党 の指 導 者 ウ - ・バ ス - -, ウ- ・チ ョ 一 二ェ イ ソに 党 の結 束 を促 した。588- こ う した軍 の動 きに対 し, 清 廉 派 AFPFL は準 軍 隊 組織 の UnionM ilitaryPoiiceを活 用 した 。UM P は, 清 廉 沢 ボ ウ ・ミソ ガ ウ ンの滑 揮 下 に あ っ た。 彼 は , マ ン ダ L,- の UM P を ラン グー ンに移 動 させ よ う と した の で あ る,589)
9月
2
2
日, ボ ウ ・ミソ ガ ウ ンは ウ一 ・ヌに面 会 して軍 が クーデ ターを起 こす とい う情 報 を確 か な筋 か ら得 た と告 げ た 。 ウ一 ・又は ネー ウィ ソに連 絡 を とろ う と したが , ネ ー ウィ ソはパ ーテ ィ ーに 出 席 して い て い なか っ た〔590) 翌 日ウ- ・ヌは, マ ウ ソ マ ウ ソ大 佐 に会 っ た っ ネ - ウ
ィ ソ将 軍 暗 殺 の噂 , 政 府 に よる国軍 の解散 , 帰 順 した PVO(人 民 同志 党 ) に よる正 規 軍 編 成 5T5〕Tit,liこE、r,P.62;Trager,p.175;Johnstone,p.123.
5TG)MFI.1g(1961),p.212. 5言)ButWelH,p.203;Pye,p.231. 578)Mgl工g(1961),p.212;MgMg (1969b),p.344;HtinÅung(1967),p.325. 579)D
(
,'ユillis(,n,p.157;ただし,高級将校の大 、['・-は 「ス-- ・ニェイン派」びいきであった。Pye,p.248. 58.3〕Desと立 p.291;Johnstone,p.12T. 58D ME:Mig(1969b),p.351. 582)分裂の経過については,欠野 暢 『タイ ・ビルマ現代政治史研究』が詳しい。 583)Trager.p.178;MgMg (1969b),p.361;MgMg(1969a),p.242. 584)ELItlVei1,p.203. 585)lTUFが ヌ ・ティン派を支持 した。Johnstone,p.211. 586)ButWell,p.201,Trager,p.178;Pye,p.239. 587)Desai,p.291.588)MgMg(1969b),p.352;MgMg (1969a),p.235. 589)Butwell,p.204;Johnstone,p.134.
東南 アジア研究 8巻 4号 な どの噂 が あ るた め, 全 部 隊 が 警戒体 制 に入 っ てい る とマ ウソマ ウソほ語 っ た。591
)2
4
日, マ ウ ソマ ウソ, ア ウソヂ -の両大 佐 が ウ一 ・ヌ と会 談 , ネ ー ウィ ソ暫 定 政権設 立 に つ い て合 意 が 成 立 した0592) 9月26日, ラン グー ンの町 は軍 隊 に包 囲 され たO そ して軍 隊 は, そ の外 側 をUMP
に包 囲 され てい た。593) こ うした緊迫 した状 態 の中 で, ウ一 ・ヌ と ネ ー ウィ ソの間 では 書 簡 のや り取 りが 布 なわ れ たO ウ一 ・ヌほ,(1)清 廉派AFPFL
は, ネー ウィ ソ将 軍 が 首 相 となっ て新 内 閣 を組 織 し,1959 年4
月末 日までに 自由に して公正 な選 挙 を実 施 す るた め の準 備 を と とのえて くれ る ことを強 く 要 望 してい る。(2)ネー ウィ ソ将 軍 が 首 相 を引 き受 け る とい うの であれ ば,憲 法 第5
7
条 に基 づ い て10月28日上 下両 院 の開会 を行 な う よ う大統 館 に勧 告 し, 開会 当 日私 は首 相 の職 を退 き, ネ ー ウィ ソ将 軍 を首相 に選 出す る よう議 会 に提 案 す る日 3)ネー ウィ ソ内閣 に は, 清 廉派AFPFL
の 党 員 を含 め る必要 は ない 。㈲ 公正 に して 自由な選 挙 が実現 で きる よ う, 公務 員 お よび軍 人 を政 治 に介 入 させ ない よう配慮 してほ しい。 (5)軍 隊 は規律 あ る組 織 として,不 当 な圧 迫 ,迫害 ,弾 圧 な どを行 なわ ぬ よう取 り締 まっ てほ しい。 (6)暴行 ,強奪 ,強 盗 ,誘 拐 ,殺 人 等 の犯 罪 に は強 力 な取 締 りを望 むo (7)国民 は治安 の安 定 を望 ん でい る, ネ- ウィ ソ政府 が , この国 内和 平 の実 現 に成功 す る ことを願 う。 (8)外交 面 に お け る積極 中立 政策 の推 進 を切望 す る,と要 望 した。594' これ に対 しネ ー ウイ ンは, (1)重 大 な職 務 をに な う ことに た め らい を感 じるが ,首 相 が望 む の で あれ ば 国家 のため最 善 を尽 す覚悟 で あ る。 (2)下 院 か ら首 相 に選 出 され れ ば ,1959年 4月末 ま でに 自由 かつ 公正 な選 挙 が で きる よ う,必要 な措 置 を とる ことを約 束 す る。(3)新 内閣 の閣僚 に は いか な る政 党代 表 も加 えない ことを約 束 す る。(4)公 務員 ・軍 人 の政治介 入 を禁 止 す る。 (5)軍 人 の不 法行 為 に は特 に気 を配 る。 (6)犯 罪 の抑 制 に努 力 す る。(7)国 内和平 実 現 のた め努 力 す る。 (8)新 内 閣 は積極 中立 政 策 を推 進 す る, と回答 した0595) こうした約 束 が成 立 した後 , ウ一 ・ヌほ ラジ オを通 じて 国民 に声 明を 出 した。596) す なわ ち 事 態 の収 拾 ,法 と秩 序 の回復 , 自由 な選 挙 の実 施 のた め597', 中立 派 の ネー ウィ ソ将 軍 に 出馬 を要 請598),管理 内閣 の組 閣 を依頼 した とい うの で あ る。 10月28日議 会 が 開かれ599), ウ一 ・ヌ の報 告 を受 け た600)議 会 は, ネ ー ウィ ソの 出馬 を了承 した。601)ネ- ウィ ソ将 軍 は しぶ しぶ なが 591)Ibid.,p.205. 592)Ibid.,p.206. 593)Ibid.,p.205.594)全文が,HlaMyo,pp.443-444に,英訳文は,IsTrustVindicaiedP,pp.543-544にある0 595)HlaMyo,p.445;ZsTrustVindicated?,p.544.
596)Johnstone,p.135;HlaMyo,p.443;ZsTrustVindicated?,p.542. 597)MgMg(1961),p.212;Donnison,p.157;HtinÅung(1967),p.326. 598)Donnison,p.157.
599)Ibid.,p.157. 600)Trager,p.180.
大野 :ビル て同軍 史 (その3) ら も引 き受 け602), 政 治 家 を 含 まな い603-内 閣 を組 織 した,604)そ れ は, 州 務 相 を除 い て わ ず か9 人 の 内 閣 で あ っ た0605)州務 相 を 含 め て も閣僚 の数 は13人 に す ぎな か っ たっ606) 当 時 , 軍 の指 導 者 は 次 の よ うな人 達 に よっ て構 成 され て い た 。607' ネ - ウ ィ ソ大 将 , テ ィ ン ペ -準 将 , タ ンペ ー準 将 , ク リフ ト準 将 , マ ウ ソ マ ウ ン大 佐 , ア ウ ン ヂ -大 佐 , チ - マ ウ ン大 佐 , チ ッ キ ソ大 佐 , キ ン ニョ ウ大 佐 , チ - ウ ィ ソ大 佐 , エ ー マ ウ ノ中佐 , ウ ィ ソ中佐 っ しか し ネ - ウ ィ ン は, これ らの高 級 将 校 を 閣僚 に は 加 え な か っ た。608) 軍 人 に は, もっ ぱ ら物 価 の安 定 と当 時 著 し く悪 化 して い た治 安 の 回復 に専 念 させ た 。 この よ うに , ネ - ウ ィ ソ は軍 人 を表 面 に は 出 さな か っ た け れ ど も, 重 要 な政 策 は もっ ぱ ら参 謀 会 議 で決定 した 。 ネ ー ウ ィ ソ内 閣 の意 志 決 定 機 関 は =閣 議 " で は な く, ア ウ ソヂ 一, マ ウ ソ マ ウ ン らに よっ て 構 成 され る ``参 謀 会 義 " だ っ た の で あ る。 しか も ア ウン ヂ 一, マ ウソ マ ウソ, テ ィ ン ペ - な どの高 級 将 校 は , 政 府 の経 済 諮 問 委 員 会 の メン バ ー で もあ っ た。609) ネ ー ウ ィ ン管 理 内 閣 の機 構 と運 営 とは , 日本 軍 政 時 代 の それ に ぎわ め て よ く似 て い る。610' 日本 が ビル マ を統 治 して い た頃 , 国 政 に は 直接 手 を 出 さな か っ た。 上 部 か ら下 部 に至 る まで, 行 政 機 構 は す べ て ビル マ人 官 吏 の手 中 に あ っ た 。 だ が 日本 軍 司 令 官 に は ,責 任 あ る ビル マ人 官 吏 を監 視 し制 御 し得 る将 校 が い た O 当 時 , ごル マ 人 官 吏 は , 日本 人 の承 諾 を得 な け れ ば 何 も で きな か っ た 。 ネ ー ウ ィ ソ政 府 は 同 じや り方 を踏 襲 した 。611)あ らゆ る行 政 組 織 に軍 人 が 送 り こ まれ た0612) そ の組 織 と配 置 将 校 との関 係 は 次 の と お り。613) 中央 保 安 評 議 会 -マ ウソ マ ウ ン大 佐 (現 駐 ク メ-ル ,ラオ ス大 使),バ タン大 佐 ,チ - /、ン 中佐 連 邦 軍 警 察 部 隊- ミソ テ ィ ン大 佐 , クン ニサ イ ン大 佐 陸 水 運 輸 庁- チ ョ ー ソウ大 佐 (現 革 命 評 議 会 員 ) 鉄 道 局- キ ン ニョ ウ大 佐 (65年 退 役 ) ビ ル マ 航 空 - ク リフ ト準 将 (63年 解 任 , タイ 国 -亡 命)
電
信 庁 - バ ニー大 佐 (現 駐 イ ス ラエル 大 使 ) 国 民 登 録 局 - チ ッ ミヤ イ ン大 佐 (現 駐 デ ン マ - ク, ス - - デ ン, ノル ウニ -大 便) 602)Butwell,p.207;MgMg (1961),p.212.603)Hanthawaddy,1958.10.15;Johnstone,p.140. 604) Yangon,1958.ll.1;Trager,p.180. 605)MgMg(1969b),p.372. 606)従来は閣僚が30人 もいた。Trager,p.181. 607)Trager,p.133;これ らの高級将校には政党政治家 と密接な開床を もっている者が多い0rye,p.234・ 608) もっとも, 後,内閣を一郭改造 して, ティンペ-準将 と国防省軍需 局長 ウ- ・ティーノ、ンの両名を閣 僚に加えた。MgMg(1961),p.213;MgMg(1969b),p.380;MgMg(1969a),p.260・ 609)Butwell,p.212. 610)Johnstone,p.141. 611)Desai,p.293.
612)Donnison,p.158;Trager,p.182;MgMg(1961),p.213;Pye,p.245.
613)Trager,pp.397-398;MgMg(1969b),pp.373-376;MgMg(1969a),pp.253-256.
東南 アジア研究 8巻 4号 測
量
庁- フラア ウン中佐 (現 大佐) 経 済 系 官 庁- ア ウソヂ -大佐 (後 準将,63年 解任) 農 地 開 発 庁- チ ∼ ウィソ大佐 (後 過役)林
野
庁- チ ーマ ウソ大佐 (後 解任)燃
料
庁 - ミャ ウィソ大佐 (後死亡) 農 産 物 販 売 庁- ミャ タウン中佐 (現 バ トゥ-下 士官学校長)港
湾 局- ソー ミャティン中佐 (現 陸 水運 輸庁長 官) ビ ル マ 製 薬 業 - メ -バ ー大佐 , フ ラノ、ソ大佐 (現 革命評議会員) 工 業 開 発 公 社 - - -チ ョ ウ中佐 労 働 局- チ ッカイソ中佐 (現 労働 省局長) ラングーン市長 - トゥ ソセイソ大佐 (後駐 日大使 館武官, 64年 死亡) ネー ウィ ソ内閣 の 主要 な役 割 は, 法 と秩 序 の回復 と6
か月 以内 の総 選 挙実 施 の 二 つ であっ た0614) だが それ は,予定期 間 の6
か月 では無理 であっ たO それ に ネ- ウインは国会議 員 では なかっ た。 議会 は憲 法 を一部修 正 して期 間 の延長 を認 め615), ネ- ウィ ソほ1960年 の4
月選 挙 まで首相 の座 に と どまっ た。616) この間, ネー ウィソは様 々な方 面 で成果 を挙 げたO ラン グ-ンの過 密住宅街 の解 消, 衛星 都 市 の建設 , 物価 引下 げ, 治安 の安定 , 公務員 の綱 紀 粛正等 々。617)人 々はネ- ウィ ソ将軍 に感謝 し軍 政 の延長 を望 んだ0618) だ が これ らの事 柄 は, すべ て 軍 隊 をバ ッ クに行 なわれ た の であ る。619)(4)
政権 を掌握 した軍 隊 独立後3回 目の総 選 挙 の内,下 院議員 の選挙 は1960年 2月6日,上 院議員 の選挙 は同 月9日 に行 なわれ た。620) ネー ウィソ暫定 内 閣は, 明 らかに反 ウ一 ・ヌ的 であっ た。621)高級将 校 の多 くは ヌの復 帰 を望 んでい なかった。 しか しネー ウイン将軍 は,58年10月31日の施 政方針 演説 で 言 明 した622)ように, 軍 の中立性 を堅持 した0623) 選挙 は ウ- ・ヌの圧 倒 的勝利 に終 わ った0624) 614) 9月30目付のネ∼ウィン談話。Hanthawaddy,1958.9.30. 615)Johnstone,p.140;Donnison,p.157.616)Desai,p.293;Trager,p.185.
617)MgMg(1961),p.214;Trager,pp.183-184;Butwell,pp.209-210;Donnison,p.159. 618)Desai,p.295;もっとも理想とは異な り,現実の政治は厄介であった。高級将校は若手将校から批判 され だ したoPye,p.232. 619)Johnstone,p.141. 620)MgMg(1961),p.215. 621)Butwell,p.212;そのためウ一 ・ヌ復帰後,軍管区司令官の準将2名,旅団長の大佐9名が解任され ている。Mandaing,1961.2.7. 622)Yangon,1958.ll.3. 623)MgMg(1969b),p.399;MgMg (1969a),p.275. 624)Desai,p・295;HtinÅung(1967),p・326・ 548
大野 :ビルマ国軍史 (その 3) 下 院 で は, 安 定 派 が わ ず か に34議 席 しか確 保 で きな か っ た の に対 し, 清 廉 派 は 156議 席 も獲 得 した。625) 安 定 派 の掃 導 者 ウ- ・バ ス エ ー も, ウ∼ ・チ ョ - ニェ イ ン も, ともに 落 選 した,626) 56年 の総 選 挙 で は 47議 席 も 獲 得 した 左 翼 の NUF も627'今 回 は ほ とん ど姿 を 消 して し まっ た0628' 高 級 将 校 に敬 遠 され て い た ウ∼ ・ヌが , ふ た た び政 権 の座 に 返 り咲 い た の で あ る,629' 1960年 3月 16日に再 登 場 した ウ- ・ヌ内 閣630)紘, 選 挙 ス ロー ガ ン の実 現 に取 り組 んだ O モ ソ, ア ラカ ソ両 州設 立631)の予 備 段 階 と して, 61年
4
月 お よび5
月 に モ ソ州務 相 , ア ラカ ソ州 務 相 が 任 命 され 632', 非 仏 教 徒 の間 か ら強 い反 対 が あっ た633'に もか か わ らず 憲 法 が 改 正 され て 61年8
月17日仏 教 の 国教 化 が 断 行 され た0634' ウ∼ ・ヌの意 見 は, あ る面 で は こ う して貫 徹 さ れ た もの の, 政 治 的 に は 相変 わ らず 不 安 定 な状 態 が続 い た。 反 徒 の活 動 は, 以前 に も ま して活 発 に なっ た。 少 数 民 族 と の融 和 , 団結 も課 題 で あ っ た 。 チ ソ族 や モ ソ族 の間 か らは 「州」 設 立 の要 求 が 高 まっ て きたO 北 で は カチ ソ族 が 蜂 起 した0635' 彼 らは 「カチ ン独 立 軍」 (
王
くⅠ
Å)
と名 乗 り, カチ ソ族 の 自由 と独 立 を要 求 して きた。636'南 部 で は , カ レン族 の反 政 府 組 織 KNDOが 活 動 を強化 した。 彼 らの地 盤 は, デ ル タ地 帯 とテ ナ セ リム地 方 で あっ た。637) これ ら少 数 民 族 の 中 で最 も尖 鋭 な の は, シ ャ ン族 で あ っ た。638' シ ャ ン 州 は従 来 33の H藩" で構 成 され , 各 藩 と も 「ソー プ ワー」 と よば れ る藩 主 (また は土 侯 ) の統 治下 に あっ た。639) 独 立 後 , ソ- ブ ワ一連 は そ の統 治権 を ビル マ政 府 に譲 渡 す る よ う要 求 され て い た 。 ソ- ブ ワ-の り版 籍 奉 還 " は52年 10月26日に予 定 され て い た640'が ず るず る と引 き延 ば され , 実 現 した の は ネ ー ウィ ン管理 内 閣下 の 59年 4月24日に なっ て か らで あ る。641' この "版 籍 奉 還 " に よっ て ソー プ ワ-達 は行 政 , 司 法 , 租 税 等 の世 襲 的 特権 を喪 失 した, それ まで の33藩 は解 体 され , 釈625)Tinker,p.92;Donnison,p.160.
626)Trager,p.187;Butwell,p.222;Tinker,p.62. 627)Butwell,p.223.
628)MgMg(1961),p.195;Trager,p・195.
629)Desai,p.295;HtinALIng(1967),p・326・脚 注 621)の高級将校解任は,ウ一 ・ヌの り昆後人事日 とみてよい。
630)HamTin,pp.140-142;ButWell,p.224.
631)BamaKhit,1958.10.26;Yangon,1958.ll.2;Thamadi;1960.7.27. 632):
My
ammaAlin,1961.4.5.633)Mandaing,1961.8.2;MyammaAlin,1961.8.18.
634)Mandaing,1961.8.24;MyammaAlin,1961.8.18;Butwell,pp・224-225;Donnison,p.161;Mg Mg(1969a),p.289;上下両院の合同議会は, ``仏教国教化=憲法修正案を賛成 324,反対 47で可決
している。
635)MyammaAlii2,1961.8.20;ButlVell,p.227.
636)大野 徹 (1969a)
,p.
111.
637) Yanto,・on,1958.ll.6. 638)Butwell,p.226.639)1969年 BSPP第4回大会におけるネ-ウィン演説,LokthaPyL'tluL,1969.ll.12. 640)Hanthawaddy,1955.6.4;MyammaAlin,1952.ll.ll.
東南 アジア研究 8巻4号 た に
7
県 の行 政 単位 に改 編 され たO642) シ ャ ン州 に 内在 して い た封 建 的社 会 制 度 は こ うして破 壊 され たが , 危 機 は新 た な方 面 か ら迫 っ て きた 。 それ は, シ ャ ン州 の ビル マ連 邦 離 脱 問 題 で あ るo シ ャ ン州 は, 独 立 後1
0
年 目に連 邦 内 に 留 ま るか分 離 す るか に つ い て討 議 す る権 限 を, ビル マ憲 法 に よっ て 認 め られ て い た0643) この離 脱 問 題 は 1957年 に なっ て 急 速 に燃 え上 が っ た。644) ビル マ連 邦 か らの シ ャ ン州 離 脱 の声 は, 特 に ソー プ ワー の間 で強 く645㌧ "大 統 領 " を互 選 し, ``シ ャ ン共 和 国" を建 国 せ よ とい う声 まで あっ た。646) シ ャ ン州 の離 脱 問 題 は,60年 の ウ一 ・ ヌ新 内 閣 の登場 と ともに 「真 の連 邦 制 度 実 施 」 とい う形 で 再 燃 す る。 シ ャ ン州選 出 の上 院 議員
647)の間 か ら連 邦 国家 実 現 を要 求 す る声 が 高 ま り648),6
1
年2
月
2
5
日に は シ ャ ン州 議 会 が 憲 法 修 正 案 の国会 提 出 を決 議 す る と ころ まで発 展 した 。 修 正 案 の骨 子 は次 の とお りで あ る。649) (1) 「ビル マ州」 の新 設 (2) 各 州 に対 す る上 院 議 席 の平 等 な割 当 て (3) 外 交 , 国 防 , 財 政 , 司 法 ,運 輸 通 信 等 を除 く統 治 権 の各 州 へ の譲 渡 (4=) 上 下 両 院 の権 限 の平 等 化 この "連 邦 国家 " 実 現 を要 求 して ビル マ政 府 に武 器 を とる シ ャ ソ人 が 増 大 した。650) シ ャソ 族 の指 導 者 達 は, また もや ビル マ連 邦 か らの シ ャ ン州脱 退 を 口に しは じめ た。651) と ころが ビ ル マ軍 は容 赦 しな か っ た。武 装 反 政 府組 織 を掃 討 す る の ほ, 軍 の任 務 で あ っ たO 軍 は戦 闘機5
機 を使 っ て, 北 部 シ ャ ン州 ラー シ ョ ウ県 内 の シ ャ ン族 反 徒 7首 名 に機銃 掃 射 を あ びせ て潰 走 さ せ た〔652'61年 8月 に も連 続 的 に討 伐 作 戦 を展 開 した。653' ビル マ政 府 も, "連 邦 国家 ''案 を強 行 すれ ば シ ャ ン州 - の交 付 金 を停 止 す る654)と言 っ て圧 力 を加 えた 。 と ころが , ウ 一 ・ヌほ シ ャ ン族 に好 意 的だ っ た 。7
月
1
1日の記 者 会 見 で, ウ 一 ・ヌは次 の よ うに述 べ てい る。655) 「シャン案はシャン州政府が勝手に作 ったのではな く,憲法改正について意見があれば遠慮な く申し出て はしい とい うビルマ政府の要望に基づいて作成 された ものだ。その点を認識する必要がある。彼 らは民主主 義的権利を行使しているだけだ。われわれがそれに腹を立てる理由はない。」 642)Yangon,1958.1.5・ 643)大 野 徹 (1964),pp・80-81・644)Mandaing,1961.7.14;MyammaAlin,1957.8.3,1958.8.13・ 645)MyammaAlin,1957.8.14・
646)IIanthawaddy,1958.10.20・
647)シャン族の ソープワ-ほ 自動的に上院議員になることが認められている. ビルマ憲法第154粂第 2項。 648)Butwell,pp.226-227;Trager,p・197;Donnison,p・161・
649)HlaMyo,pp.448-449. 650)Butwell,p.227;Trager,p・195・ 651)Butwell,p・240・ 652)MyammaAlin,1959.ll.29. 653)MyammaAlin,1961.8.15,1961.8.18・ 654)Mandaing,1961.7.1・ 655)Ibid.,1961.7.121 550
大 野 :ど′l,て同軍 史 (そ の3) 軍は ウ- ・ヌの こ う した態 度 に少 なか らず 驚 い た。656) 危 機 は 別 な面 か らも迫 っ て きた, それ は与党 の 「連 邦 党 」 内 に お け る派 閥争 い で あ る。連 邦 党 内部 に は,1960年 2月選 挙 の直 後 か ら タキ ン派 と ウ一 ・ボ ウ派 との対 立 が 生 じて い た0657)メ キ ン派 に は タキ ン ・テ ィ ン, タキ ン ・チ ョ ー Tlウ ン, タキ ン ・パ ン ミャ イ ソ な どが 属 し, ウ - ・ボ ウ派 に は ウ- ・ウ ィ ン, ボ ウ ・ミン ガ ウ ン, ボ ウ フム - ・ア ウン, ボ ウ フ ム - ・バ ラな どが い た「655) 両 派 の対 立 は激化 の一 途 を た どっ た が , 62年 1月27日の党 大 会 で タキ ン派 が勝 利 を制 した。659) ビル マ連 邦 の危 機 は も う一 つ あっ た 。 それ は シ ャ ン州北 部 に い る残 存 国府 軍 で あ るっ1949年 末660)か ら
5
0
年 に か け て雲 南 省 か ら ビル マに侵 入 して来 た661)国府 第8
軍 の2
個 師 団662) (兵 力1
万2千 )663'は, 53年 3月 ビル マ政 府 が 国連 に提 訴 した664)こ とに よっ て 約 6千 名 が 台 湾 に送 還 され た665'が , そ れ で も まだ7
千 人 程 度残 留 してい た。666) 彼 らは シャ ン州北 部 か ら東 部 にか け て 勢 力 を伸 ば し, ビル マ政 府 の頭 痛 の種 となっ て い た 。軍 は61年 1月 に 「メ コン作 戦 」 と よば れ る大 規 模 な掃 討 作 戦 を 展開 し, シ ャ ン州 内 の国府 軍 飛 行 場 や 司 令部 を 占思 した。667) 同年2
議 デ モ隊 が ア メ リカ大 使 館 に押 し寄 せ る反米 デ モに まで発 展 した1
669) 軍 は シ ャ ン州 内 の残 存 国 府 軍 が ア メ リカ の後 押 しで 中共 に反 攻 し よ う とす る動 きを 見 せ て い る こ とを憂 宿 した〔670) そ して1962年 3月 2日,兵 士 を満 載 した戦 車 , 自動 車 が ブ ロー ム通 りを ラ ン グー ンに 向 か っ た。671)午 前 2時 , 大 臣官 邸 の あ る ウィ ソ ダー ミー ア地 区 が 包 囲 きれ た。672) 首 相 ウ一 ・ヌ, 大 統 領 マ ン ・ウイ ン マ ウ ン, 上 院 議 長 サ オ ・クソチ 一,下 院 議 長 マ ン ・バ サ イ ンお よび連 邦 覚 の 閣 僚 , シ ャ ン州選 出 の上 院 議 員 サ オ ・シ ュ- タイ な ど46人 が逮 捕 され た〔673) 午 前5
時 , ミン 656)Donnison,p・162・657)MyammaAlin,1961.ll.16;Trager,p・192;Butwell,p・232;Johnstone,p・155;HtinAung (1967),p.326・
658)ButWell,p.233.
659)Tra貰er.p.197;Butwell,p・239・
660)BoKyaw Zaw,p・206;Thuriya,1953.2.26・ 66D Trager,p・114;Donnison,p・146・
662)KuomintangAggressio,iinBurma,pp・3-5・
663)Ibid‥p・5;MgMg(1969a),p・228;Butwell,p・182;Donnison,p・146・ 664)Kuominiang AggressioTLinBurma,pp.23-24.
665)NIgMg(1958),p・152;Butwell,p・183・
666)Mandaing,1961.4.21;MyammaAlin,1955.3.16,1958.10.19;Hanthawaddy,1958.3.6. 667)JVlrandaing,1961.2.7;LohthaPyithu,1968.3.25・
668)毎 日新聞,1961.2.18.
669)朝 日新聞,1961.2.22;Butwell,p.230;Trager,p.196. 670)Donnison,p.162・
67D Ibid.,p.163;HtinAung(1967),p.327. 672)ThanHpeMyint,p.1.