著者
金子 俊夫
著者別名
Kaneko Toshio
雑誌名
経営論集
巻
39
ページ
51-70
発行年
1993-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005697/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaJohnBright
と1840年代初期 の不況
金 子 イ変 夫 目 次 はじめに1.JohnBright と1841年の不況2.1842 年Rochdale の労働者に対 する演説3. 「栓抜 き暴動(PlugPlot )」について おわりに 51 は じめに イギ リスにお け る1838年 の夏 より842 年 の夏 に至 る。4年 間 は大 不況 の時期 で あった。この不況 は農業 にお ける不振 による穀物価格の 高騰 が出 発点であっ た。 すな わち,1838 年 の7 月末 に近づ く と小麦 の全面的 な収穫 不足 が支 配的 状 況 とな り, クォータ ーあ た りの週平均 小麦価格 を1 か月 の間 に68 シリング2 ペ ン スから77 シリング へ とloシリング近 く上昇 させたので あっ た(1)。 また そ の不十分 な国 内在 庫が明 らかにな り食料品価格 を高騰 させ るに至 り, 綿織物 製 造業の産業 資 本家 は彼 らの労 働者 に対 し生活 を守 るに必要 な, より一層 の 高賃 金を確保 せざ るを えな くな り, そのためには現在 の穀物 法 が大 きな障 害 となっていっ た ので あ る。 く わえて この穀物法 が原因 とな り欧米 諸国,特 に アメ リカの産業 資 本が イギ リ スの海外 市場 を著 し く浸 食 し始 めたた め, さ ら に不況は製造業 全般 に拡 大 し, 高賃金 はおろ か, 労 働賃金 の引 き下げ, 雇用 の減退を まね き, 労働者 階級 は二 重の困窮 に陥っ たのてTあ っ た。 このよ うな状 況 の中でManchester の綿織物 製造業者 は1838 年9 月 に重商 主義 の遺物 とし ての穀物 法 を廃 止 し,保 護貿易か ら自由貿易 への 転換 を図 る た めにManchester 反 穀物法 協会 を設立 し,翌年3 月には各地 の団 体 を統合させ,反 穀物法同 盟 に発展させ たので あっ たノ2)。 しかし不況 は弱 まるこ とを知 らず, とくに1841 年 か ら42年 は沈滞 した景気 に よ り多 くの 消費者の需要 は最低 点 にあ り,頂 点 に達 し た。1841 年の初 めに 入 る と,1840 年 に綿織 物製 造業 の原料 であ る綿 花の輸 入 量 が1839 年 の約1.5 倍3)に達 した こ とも手伝い,景気 の回復 が見 られ るので は,とい う期待感 が強 まっ た。 しか しなが ら1841年の後半 に入 る と, 今 や一 般的 となっ た不況 は予想 を裏 切 っ て, ます ます その度あ いを強 めてい き, 年末 には, 商業 にお け る逼迫 は 極 限 には達 し てい なかっ たが, ほ とん どすべて の生 産者層, とりわけ製 造業 地 方 の職工 た ちはかつ てないほ どの 困窮 を経 験 した。 しか もい かな る改 善の 兆 し も見 いだ す こ とので きなかっ た彼 らの不 満 は翌1842 年爆 発す るのであっ た。 す な わち6 月 にイギ リ ス中部地 方で 始 まっ た労働者 の騒動が8 月に入 る とその勢 いを増 し,Lane ・ashire,Yorkshire,Cheshire の諸都市 に広 がって いっ た のであ る。とくにManchester 周 辺で 始 まっ た綿織 物製造業労働 者の スト ライキ は深刻 な もので あっ た。 その指導 者 はChartists であ り,い わゆ る「栓抜 き暴動」(「点火 栓抜 き暴動」で は な く)にまで 発展したので あっ た。Manchester の綿織物 製造業 者 に よ り組織 さ れた反穀 物法同盟 は これごに対 処 すべ く同 盟の指導 者の1 人であ るRochdale のJohnBright を派遣し, 彼 の 演説 に よりこれを鎮圧 したのであ る。 本稿 におい て,1838 年 に始 ま り,1842 年 まで 継続 した不況 の中で, 特 に最 後 の2 年 間 にお け る不況 の状 況の なかで, 反穀物 法同盟 の活動 をJohnBright に焦点 をあ て, いか にこの危機 を乗 り切っ た かを明 らか にしたい(4)。 犬 1.JohnBright と1841 年の 不況 自由 貿易運動 にお け る2人の偉大 な指導 者 とし てRichardCobden ,JohnBright をあげ るこ とに誰 も依存 は ないで あろ う。 しかし2 人の名前 は1838年9 月「Manchester 反 穀物法協会 」設立時 の メンバ ー表 のなかにはなかっ た。Bright の名前 は設立 メンバ ーI 名の1 人で あ るArchibaldPrentice が編集 長 を務 めてい る「ManchesterTimes 」 の10 月13 日付け に,最初 の特別委員 会(37 名)の委 員 とし て報 じ られた(5)。 彼 はManchester の居住者で ない唯一 のメン バーで あっ た。 さ らにCobden の名 は1週 間後 に同 委員会の追加委員31 名 の中 に見 いだす こ とがで きる。 し かし彼 らが協会の 発足 時か らのメンバ
JohnBrightと1840年代初期の不況53 −で なかづだ として も, 彼 らの活動 はすで に活 発化 し てお り, その後 も一貫 し て継続 され るのであ る。Bright は成 人 にたっ した1832 年の選挙法 改正運動 よ り公的活動 を スタ ートさ せてお り,Cobden も協会 の発足以前 から穀 物法 廃止 運動 を推 進 して きた(‰Manchester 反 穀物法協会 は,講 演会 の開 催,小冊 子の発行, 新 聞 への論文 発表, 議会 請願な どの方法 により活動 を活発化 させて いっ た。そしてCobden は協会が結成 さ れて以 来, 穀物法 廃止運動 の指導 者 とし ての頭角 を現 した。1838 年12 月,Manchester 商業会 議所 の総会 にお いて講 演 を行 い,「穏 や かな 態度で,論 理的で,簡潔 な演説 を行 い,親 しみ深 くかつ力強 い ものがあ る。(7)」 と,好評を博したのであ る。Bright も翌1839年2月2日,反穀物法集会がRochdale の屋外で 開か れ, 数千 人の 参加者 を前 にし て, 自由貿易 問題 に関 す る最 初 の 演 説 を行っ た。「穀物法 は国 家の商業 な らび に製造業 を結果 的 に破 滅 させ, 競 争相 手であ る外国製造業 を 発展さ せ る。 それは ほ とん ど大部 分の国民 に有害 かつ 圧制的影響 を もた らし√特 に労働 者階級 は土 地所有 者 による独 占で 悲痛 な る損害 をこお むっ てお り, こ れは 単 に1 つ の政 党の問題で はな く, 全ての 人々 の問題であ る。 これは食料品 問題で あ り, た らふ く食 べ られるか とい う 問題で あ ‰ 上多数 の労働者 階級 と貴 族階級 の問題 であ る/8)」と,優 しいが説 得力 のあ る口調で 語 りかけ, 更 に,「Rochdale の フランネ ル製造業 の1/5 が ア メ リカに輸 出 さ れていた が, 穀物法 に より関税 が課せ られてか らは, 以 前の ように多 くの織物 を送 るこ とがで きな くなっ たノ9)」 と, 実状 を説明 し,「工 業 の権利 を守 るのが政府 の義 務であ り, 穀物法廃止 を要求 す るこ とは労働 者 階級の利益 を援助 す るこ とで あ る。(10)」 と,演説 を行 い,協会 内で の地 位 を固 めた。 そしてBright ぱ最初 から同盟 の活動 に貢献 した。しかし彼 は, 彼 の公的活 動 の開始 と,Cobden との友情 の始 まりを1841 年 の9 月13 日 と言っ てい る。Bright がCobden に会っ たの は この日が初 めてで はない。 彼 らの面識 は1838 年 に始 まっ てい る。教育 問題 に関 す るRochdale での集会 に興味 を持っ た若 きBright はManchester のCobden に講演 を依頼 した のであ る。Cobden は同意し,出席 した。そしてBright の演 説 を彼 は聞 い て,賛辞 を送 り,行 動 を共 にし, 穀物法廃 止を勝取 る まで 頑張 らないか, との誘 いを うけた こ とが あっ たのであ る。Bright はCobden の再 度 の勧 誘 に感 動 したので あった。 すな わち1841年 にBright は愛妻 マーガ レ ット と死別 し悲嘆 の どん底 にあっ た
時,Cobden はLemington に居 る彼 を弔 問 したので あっ た。Br・ightは悔や みの言葉で 慰 め られた後, 次 のよ うにCobden に説得 さ れた。 「イング ランド には, 今 こ うしてい る間 に も, 妻 が, 母 が, そして子供 が 飢 えで死 んで い る多 くの家庭 があ る。 あ なたの悲 しみが 和 らいだ時,私 はあ なた に私 と行動 を共 にす るこ とを勧 めたい。 そして我 々 は穀物法 が廃止さ れ るまで我 々の運動 を決 してや めません(11)。jBright は後 に述懐 してい る。 「私 は彼 の言っ た, 多 くの家庭, とい う表 現 が大げ さで ないこ とを知 り彼 の招聘 を受 け た。私 は, 誰 かがや らねばな らない仕事 が あ る, という こ とを 私 の良 心 に感 じ た。 その時 から我々 がした決意 の た めに活 動す るこ とをやめ なかっ た。 ㈹」 この純朴 な, 博愛主義 が彼の今後 を成功 に導 いた ので あ り, この精神 は彼 の宗教 的思 考 に影響 さ れて いる と言 える。 彼 のおい た ちを振返っ て みる。JohnBright は1811年11 月16 日,Rochdale のGreenBank で 生 まれた。
彼 は紡績業 を営 む工場主で あ るJacobBright の次 男で あっ た。父Jacob はDerbyshire の紡 績業 者であ るWilliamHolme の徒弟 であっ た。そして1802
年,Holme の2 人 の息子がRochdale に移 り,工 場 を建 設,Jacob も同行 し2 人 の息子 に雇用 さ れすこ。 そし て彼 の 息子のJohnBright が誕生 す る2 年前 に自分で工場 を始 め, 独立 し, やがて成功 した。 彼 は事業 におい て機敏で, 厳格 に対応 し た。 し かし,公 正で, 哀 れみ深 い気 質で, 気前 が良 く, この厳 しい時代 にお いて, 他の紡績工場 と比較 して, 労 働者 への対 応は情 け深い点 で有 名であっ た。 彼 は教会維 持費に対 し商品 が差 し押さ えられ る まで支払い を一 貫 して拒否 す る とい う頑強な抵抗 によ り頭角 を現 し, 社会 革命運動の指 導的 地位を得 た(13)。JohnBright が持っ てい る敬 虔 な る精神, 曲 げ ない意見, 自由教義 に基づ く博愛主 義 は親譲 りで あろ う。 彼 の父, そして彼 の祖先 は数代 に わたっ て非国教 徒で あ り, クェ ーカ教徒 の家柄で あっ た。 この宗派 は, 山上 の垂 訓を 文字 どう り守っ て, 絶対的 戦 争反対, 兵役拒否 とい う非戦主義 を主張 し, 更 に教会 には洗 礼 も聖 餐 もな く, 礼拝 儀式 の順序 もない。教職 者 もお かない。 各人 が霊 に感 じ て祈 りかつ 語 る, とい う非常に 簡 素化 さ れた宗 教であ る。 また, 奴隷解放, 男女 同権 , 国 際協調 による世 界 平和 な どの社会 改 革の面で の活発 な実践 もこ のフレ ンド 派 の特徴であ る(14)。
JohnBrightと1840年代初期の不況55JohnBright は彼が育てられた宗教的・政 治的思 想 と伝統 に対 し忠 実であっ た。 このよ うな クェ・―カー教の教義 と,その教 育 を受 けたJohnBright の思 想 は反穀物法運 動 と共 鳴す る ところが多 い。 か くして,JohnBright の活動 が,Cobden の激励 を受 けて再 び活発化 す るのであ るが, とりわけ目立つの は1842年で あ ろ う。1841 年の ほ とん どが個 人的 問題 に心 を奪 われていた け れ ど も,Bright は運 動 を全く忘 れた わけで はなかっ た。反 穀物法 同盟 の 「議 会 選挙 を独立的 に闘 う」 とい う方 針 の もとに,同盟 の候補者支援 の た めの選 挙活動 を展開 してい た。 大彼 はWalsall (Birmingham の北部)の補 欠選 挙で は「同盟 の方針 を貫 く」 と主張 して闘っ たが,同盟 の候 補者であ るJ.B.Smith ぱ落選 した。 しかし8 月 の総選 挙で は上 位当選 を果 たした が,Bright には 別 の問題 が生 じた。Rochdale において同盟の候補者 として北アイル ランド人のSharmanCrawford の両氏を決 定 す るた めRochdale の自由党 を説得 す るの に大 きな役 割 を演じ た。彼 は きめこ まかい選挙区組織 を作 るこ とを奨 励 し,「同盟 は単 なるWhig 党で はない」 とアピ ールす るこ とがTory 党 との闘 いを可 能 にす る, と主張 し選挙運動 に没 頭 した。そうぃ う支持 を得 たCrawford は やっ とのこ とで選 出 さ れた。Bright はCobden に「我 々は時代 を動 か すこ とを楽しみ にし,明 るい未来 の到来 を確信 し てい る」 と, 喜 びを伝 えた(‰Cobden もその時 の 選 挙でStockport か ら当選 し,自由 貿易問題 で議 会 の指 導 的役割 を演じ るこ ととなっ た。 しかしなが ら1841年8 月の総選挙 は全体的 に見 るな らば, 同盟 としては不 本意であっ た。Melbourne 自由党内閣が穀物法改正 を含 む関税 引下げ政策 を 発表 し,すな わ ち1828年 の スライデ ィング ・ スケール(SlidingScale )を廃 止 し,8 シリング の固定関 税の導入, ならび に砂糖 関 税 ・木材関 税を大幅 に 引下 げる とい う もので,独 占的傾向の 強い商品 に対 す る関 税引下 げを実施 し よう としたので あ るが, こ れに対 し不信任案 が出さ れ自由 党内閣 は崩壊 し, 代っ てRobertPeel ひき い る保 守党内閣 が誕生 した ので あっ た。 同 盟 に とっ て は自由貿易 とい う綱 領 の もとで は自由党 の方が相 入 れるもの があったので あ る。 か くして総 選 挙は強力 な保守党政 府 を作 り,首相Peel は穀物 法廃止 め態度
は示 さなかっ た。 しi し1841 年 のこの時期 の国 の状 態 は悲 しむべ きもので あっ た。 その年 の後 半 は 一 般の不況 は衰 えを見せ るどころ か, むしろ強 まっ て いっ た。 集 め られたあ る統 計 に よれば,Leeds に々い て,20,936 人以上 の人々 が週 給11 ペ ン ス3/4ペ ニ ーで あっ た こ とを物語っ てい る。1テ)aisley(Glasgow の東) の町で は,全人 口の1/4 が飢餓 の状 態で,Manchester のあ る地区で ぱ,1,029 名の258家 族が週1 人 当 り わず か7 ペン ス半の平均収 入であ る,とい う報 告が あ り(18)その他,多 くの機 械 の遊休,多 くの失業 者数等 が主要 都 市か ら報 告さ れてい る。 =1841 年 の終 り近 くに, この不況状 況を調査す るため,同 盟 は委 員を任 命し た。12 月16 日 にManchester で 製 造業 地区 の不況 を考察 す る集 会 が開か れ,Bright は, 雇用不足 と賃金下 落 によ るフランネル製品 に対 す る需要減退 とい うさけ ることので きない影響 を受 け, ほ とんどフランネル貿 易 が全滅 してい るRochdale の実 情を報 告 す るた めに参加した。 トBright は次の よ うに説 明 して い る。 ‥し 上 「我 々 は我 々の まわりに広 がっ てい る不況 を知っ てい る。 悲 惨 な状 況 は全 ての貧 し い人の家 々で 見つ け ら れるノ 貧 しい人々, と彼 らを呼 ぶ こ とを私 は 恥 ずかしかっ た。しか し現在 それは全ての労働者 に適用 さ れ る言葉で あっ た。 貧困 の出発点 は労 働者で あ る と認 識 すべきであ る。厳 しい貧 困 や極度 の貧乏 ぱ労働 者の家庭 の一 番のy ンボフレで あ る。 その結果 不満 が国中 に充満 してい る。 この よう な状 況下で は君 主 も貴 族社会 も安 全で はない。 この ような状 態 が この国 の美 し い景 観 を破壊 し,かつ て最 も力強 かった国家 を も破壊 す る。(17)」 そして この集会 は次 の よう な決議 を採択 した。 つ 一.Manchester を 中 心 とす る地 域 は 綿 貿 易 と それ に関 連 す る多 くの 分 野 に従事 してい るが, 全般 的 に不 況 に見舞 われてお り,その継 続斯 間 はLancashire の歴 史 に於 て, い まだ かっ て 比較 す る もの が な い ほ ど の 長 さ で あ る〇・ 一 .雇 用 主 と職 工 を取 り ま く人 口状 態 は 大 い に悪 化 して い るこ とは, こ の 集 会 以 前 か ら 明 ら か で あ る. ご 犬 一 .建 物, 機 械 な ど の 固 定 資 本 は1835 年 以 来,1 /2 近 べ 価 値 を下 げ て い 名. −≒ 資 本 家 の 投 資 収 益 が 長 期 間停 止 して い る.. !.・ ・ 一 .破 産 と負 債 の 返 済 不 能 は 驚 異 的 に増 大 し て い る.
JohnBright と1840年代初期の不況57 一 。商店 主 は 多大 な損 害 を こ う む っ て い る。 一 。労働 賃 金 は 全般 的 に下 落 し て い る。 一一。数多 くの 熟 練 工 や援 助 を 必 要 とし て い る職 工 は, 完 全 に又 は部 分 的 に 失 業 して い る。 一 。貧 困, 病 気 , 犯 罪 , 死 亡 率 が 一 層 貧 し い階 級 に侵 入 し て い る。 一.Lancashire の 多 く の町 か ら集 まっ た 代 表 者 の 意 見 で は,こ れ ら全 て の 弊 害 は現 在 その 厳 しさ が 軽 減 さ れ る こ とな く存 在 し て い る。 一 。こ の社 会 的 大 不 況 を 改 善 す る明 確 な展 望 は存 在 し な い(≒ この ような調 査 に乗 り出 した の は, 先 の選 挙の結果 で あっ た。 勝利 したTory 政府 に対 し反穀物法同盟 は何 のた め らい もなく反対 するこ とので きる自 由 な立場 にな り,急進派 やChartists と提 携 し,彼 らの支持 を取 りつ けよう としたのであ る。 た とえば,Worcester では1842年2月に,自由貿易主義者 と急進派 とChartists の結合 による,集会 が「全国 の困窮状 況 を調 査 す る」 とい う目的で 開 かれた。 そして熟練工 や職工 と共 に, 困窮 し, 不満 を もっ た貧民 た ちの群集 が大 ホー ル一 杯 に集 まっ たのであ る。 そしてこの集会 で地元 の反 穀物法 派の候補 者が 新 しいTory 政 府 を攻撃 し, 次 の よう に聴衆 の支持 を求 めた。Tory 政府 は全国民 か らの搾取 とい う大 目的 を達成す るた めに, 商人 と農 民 を, 雇用者 と被 雇用者で あ る労働者 を, す な わち常 に人 間 と人間 とを闘 わ せ てきた。さらに彼 らぱ我国の困窮 を治 す方法 は移民であ ると主張 している(19>。 しかしこの試 みはChartists との統 合 とい う当初 の目的 を満足 させ る もの で はなかった。 集会で は穀物法 反対 の決議 と同 時 に,人 民憲章 の6 項 目 に反 対 す る決議 も圧 倒的多数で 採 決 して し まっ たのであ る。 2 。1842 年Rochdale の労 働者に 対す る演 説 こ の頃よ り反 穀物法 同盟 とChartism とが再 び理論的,武力的闘争 を激 し く繰返 したので あ る。もちろ んChartists 運動 は1836 年頃 よりすで に勃興 し,1839 年に も激 し い対立 を見 てい る。Chartism の本質 か らみて も当然 の現象 だっ たので あ る。 両者の間 には階 級的対立意識 が存在 したので あ る。 反 穀物法同盟 は中産 階級 の運動 であ り, 生活 費の低減 を求 め, ひい ては生
産費の低減 を実現す るために低物価を希望 する ものであ るのに対 し,Chartists は労働 者階 級の運動 であ り,10 時 間労働法 の成立 を希望 し,1834 年 の新救 貧 法 に反対 し, よ り良 い労働条件,生 活条件 を求 めて, 社 会改 革 を実現せん と す る もので あ り,次 の ように主張 している。 「穀物法 の撤 廃 は悪 くはないが, 人民憲章 が獲得 さ れれば穀 物法等 の悪法 は撤 廃 さ れる。 自 由貿易論者を助 けるために人民 憲章 の運動 を放棄 して も, 彼 らは人 民憲 章を獲 得す るた めにChartists を援 助 し ないで あ ろ う。彼 らは 穀物 法 の撤廃 を要求 す るが, こ れは我々 のた めで はな く,彼 等 自身のた めに で あ る。 安 い穀 物 を, と言っ て い るが, こ れは低 い 賃 金, を 意味 する もの だ。(20)」Chartists は彼 らの最 大の目的で あ る普通 選挙運動, 工場 法運動, 救 貧法 改 正問題 に対 す る関心 が, 同盟 の活動 によ り薄 れ るこ とを大 い に懸 念七たので あ る。 ここに双 方 の対 立基盤 があ る。 それは雇用 者 と被 雇用 者 の間 に存在 した敵 意を表現 した もので ,対 立の多 くは教義 ・教 条の う えの問題で はなかっ た。 経 済的・政 治的 論争 は双方の 日常生活 の中で の深刻 な対立 か ら生じ た もので あっ た。 議会 にお い ては,Peel 保守党政府 は穀物法 を改正 し,新 しいSlidingScale を登場 させた。Cobden は必死 に最後 まで これ に反駁 したのであ るが下院を 通過 して し まっ た。上 院 にお いては, 地主階級 を裏切 る もの として保守的農 業 階 級か ら反 対 を受 けたが,つ い に成立した ので あっ た。 客観的 にこの 新穀物 法 を見 た場合, 関税を引下 げた ものであ るので,一歩 自由貿易 の方向 に前進 した ものであ る。 一 方議 席を もた ないBright は院外で不況化 におけ る反 穀物法 運動を積極的 に推 進させ てい た。1842 年 になっ て も不況 ぱ継続 し,困窮 は全般的 な もの へ と広 がっ ていっ た。 春 には, 工 業 地 帯 で の窮状 につ い て,政 府 の注 意 を喚 起 す るた めの政 治的 キ ャ ンペ ー ン が あ ら た め て な さ れて い た。 改 革 を 要 求 し た同 盟 の 請願 とChartists の請 願 が議会 に提 出 さ れたが, そっ けない対 応 し か示 さ れず, 効 果 は見 られなかっ た。 困窮 が最 も激 しかった のは, イギ リ ス経済 の基幹産業 で あ る綿織 物工業 にお いてであ り, その結果 スト ライキが頻 発 した。 すなわ ち,この時期 の スト ライキ におい て,Chirtists はLancashire,Yorkshire,
JohnBright と1840年代初期の不況59Cheshire の大 都 市 に お い て労働 者 に大 きな影 響 を与 え て い た。彼 らの 運 動 と 労 働 組 合 の 活 動 との 間 には 密接 な相 互 関 係 が 存 在 し て い た ので あ っ た。 スト ラ イ キはChirtists に とっ て 賃 金 の上 昇 問題 ば か りで な く, む し ろ 人民 憲章 の 要 求 で あ っ た。 ト そし て8 月 に入 っ て 事 態 は 深 刻 化 し た。それ はManchester 周 辺 で 始 まっ た 綿 織 物業 労 働 者 の スト ラ イキ で あ り, その指 導 者 はChartists で あ り, ス ト ラ イキ 労 働 者 の 集 会 で 人民 憲 章 の支 持 が決 議 さ れた の で あ っ た 。8 月8 日,Stalybridge (Manchester の 東 )の 工 場 労 働 者 は 賃 金 引 き下 げ に 反 対 して スト ラ イ キ に入っ た。スト ラ イキ は 周 辺 の町 々 に広 がっ た。Ashton-under-Lyne
(Manchester の北 東 ),Dukinfield (Manchester の 東 南 ),を
合 せ て23,000 人 が 参 加。そし てHyde(Manchester の 東 南 )の織 工9,150 人 が 午 前 中 に は 加 わ り, 午 後 に ぱOldham(Manchester の 北 東 ) の織 工 の 大 部 分 が こ れ に な らっ だ。 労 働 者 ぱ大 挙 し て,Oldham,Ashton,Manchester へ と行 進 し, 途 中 各 工 場 の 作業 中 の 労働 者 を 勧 誘 し, ま た工 場 の 蒸 気機 関 の ボ イ ラー の栓 を 抜 い て ま わ り, ボ イ ラ ー を 空 に す る こ と に よ り操 業 を妨 害 し た 。 い わ ゆ る「PlugPlot (栓 抜 暴 動 )(21)」 で あ っ た 。2 ・3 日 の う ち に5 万 人 がManchester で スト ライ キ に入 っ たo 。 このスト ラ イキの波は数 日後 には南Lancashire 全 域 に, さ ら にWestRiding,Staffordshire の坑 夫 の他,midland 地 方 に も拡 ま り, ゼ ネ ラル スト ラ イキ の 様 相 を 呈 し始 め た。 も ちろ ん ,Rochdale に も拡 大 し た。Ashton の 集 会 に 参 加 し た 労 働 者 は8 月n 日Rochdale に向 け出 発 し た。 旗 を もっ た 人 夕 が 先 導 役 をつ とめ, 行 進 者 の頭上 に は 棒 にさ した パ ン が み ら れ, 一 緒 に 行 けば , 必 ず 何 か食 べ物 が 手 に入 る,と叫 んだ ので あっ た。更 に01dam か ら の一 群 と,Shaw(Rochdale の 南 )か ら の一 群 が 列 に加 わっ た。11 時 頃,Bright の工 場 に到 着 し た。彼 ら はボ イ ラー か ら 水 を 抜 き去 り,大 集 会 を 開 い た。Bright は その 模 様 を次 の よ う に報 告 し て い る。6 千 人 か ら8 千 人 が い て,彼 ら は賛 美 歌 や,Chartists 賛 歌 を 歌 っ て いた 。 演 説 者 の 言 葉 ぱ 激 し くな く, 単 に1840 年 の 水 準 の 賃 金 と,10 時 間 労 働 を要 求 し た呪 そし て彼 の 印 象 に よ れば ,扇 動 者 はChartists で , 彼 らが 演 説 の 中 で 行っ た賃 金 の上 昇 要 求 よ り も, 他 の 目 的 を 持 っ て い た。 人 民 憲章 の 要 求 なので あ
る。Bright は8 月17日 に彼 らを前 に演説した。 これがかの ゛AddresstotheworkingmenofRochdale''' であ る。 : この演説の構成は主 として次のような問題から成っている。 1 2 3 4 5 スト ライキの問題点 賃金問題 人民憲章獲得の困難性 中産階級における政治力の欠除Chartists 指導者の批判 彼 は演 説 の 冒 頭 にお い て,1. 「 スト ラ イキ の 問 題 点 」 を,労 働 者 の現 状 と スト ラ イ キ へ の 経 過 過程 を分 析 し た 後 に次 の よ う に的確 に指 摘 し て い る6 「 諸君 は苦 悩 し て い る。 長 い こ と苦 悩 を受 け て きた。 諸君 の 賃 金 は 長 年 に わた り引 き下 げ ら れ て きた 。 そ し て 諸 君 の境 遇 は徐 々 に し か も着 実 に悪 化 七 て い る。 諸君 の苦 悩 が 不 平 を生 み 出 し て い るの は当 然 の こ とで あ る。 そし て 諸 君 は, い か な る計 画 で も援 助 の 希望 を与 え て く れ る もの に は熱 心 に頼 っ た。Ashton やOldham の 同 胞 労 働 者 は賃 金 の上 昇 を求 めて スト ラ イ キ に突 入 した。 彼 らは こ の 町 に なだ れ込 ん で 来 た。 そし て スト ラ イ キ を 諸 君 に強 要 し た 。 疑 い もな く一 部 の 諸 君 は望 んで い た が, 諸 君 の 多 くは スト ラ イ キ人 の 参
加 は好 まな かっ た。彼 ら はBacup やTodmorden (Rochdale 近 郊 の 北 の村 )
の 人 々 を, 彼 らが 諸 君 を もて な し た よ う に もて なす こ とを主 張 し た。 彼 ら は 諸 君 に対 し勇 気 が 無 い と言 い, そ し て 諸君 の た め に彼 らが 行 動 し た の と同 様 に, 諸君 が 他 の 人 々 の た め に 活 動 す るこ とを 拒 否 す る な らば , 同 胞 労 働 者ヵ^^ 持 っ て い る諸 君 に対 す る良 い 評 判 に 諸君 は ふ さ わ し く な いで あ ろ う, と言 っ た。 諸 君 は侵 略 勢 力 とな っ た。 諸 君 はBacup やTodmorden の 平 和 な村 に 行 き, 同 胞 の労 働 者 に仕 事 を 止 め る よ う強 要 し た。 彼 らの妻 や 子 供 に与 え る 影 響 を諸 君 は考 えな か っ た 。 諸 君 は, 全 て の正 義 と自 由の 原 則 に絶 えず反 対 し, 彼 らのパ ン を奪 っ て し まっ た。1840 年 に賃 金 は上 昇 し,1 日10 時 間 労 働 は 諸 君 が 主 張 した 要 求 で あ っ た。 し か し こ の地 域 で の スト ラ イキ が 強 要 ざ れ た時 , こ れ らの 要 求 は断 念 さ れ た。 そし て 人民 憲 章 が 立 法 化 さしれ る まで 労 働 拒 否 を主 張 し た。9 」
JohnBrightと1840年代初期の不況61 不況の 中で の強要 によ るスト ライキ参加であ るこ とを容 認し, 彼 らの意志 を転 換さ せ る余地 を残 す という温 情 を発揮 した もので あ る。 しか しなが ら, ストライキ に参加す るこ とは彼 らの最大 の 目的で あ る人民憲章 の獲 得を断 念 す る もので あ り, かっ, 賃金問題 ・労働 条件問題 の解決 を放棄す る もので あ るこ とを厳 し く指摘 した。 そして次 に2. 「賃金問題」 に及んで い る。 「諸君 の多 くは議会条例 も, 又多 くの条例 にお いて も, 賃金を高 く維持 す るこ とはで きな いこ とを十分知っ てい る。 諸君 は貿易が長 いこ と悪 く, その た めに賃金 は上昇 で きないこ とを知っ てい る。 もし諸君 が賃 金の上昇 を強要 す る決心を してい るの ならば, 雇用主 に雇用 を強要 す るこ とはで きない。 貿 易 は利益 を伴 わ ねばな らない。 さ もな け れば長 くは継 続さ れない。 賃金 の上 昇 は今や利 益 を破壊 す るだ ろ う。 炭坑夫 やキャ リコ・プ リン タ ーの中 に有力 な実例 があ る。 炭坑夫 の賃金 は多 くの他の職業 の賃金 ほ ど低 くは ない。 しか し彼 らは苦 しんで いる 。 なぜ な ら彼 らは週 の うち2 ・3 日しか雇用さ れてい ない。キ ャリ コ・プ リンタ ーの賃金 は2 ・30 年 間 に1 度 しか減 少 していない。 彼 ら も現 在週2 ・3 日の仕 事 しか もっ てい ない。 他 の労働者 と同様 少ない賃 金であ る。 もし彼 らが賃金を2 倍 にす るた め団 結 して も, 規則的 な雇用 の増 大 が獲得で きないならば,何 も得 るこ とぱで きないであ ろ う。 賃金 を上昇 さ せ る諸君の 試み は成功 しない。 その よ うな試 みは最終 的 には常 に失敗 し, 家 族 は破産 す るIに違 いない。 この時期 に労働時 間 を減少さ せ るこ とぱ同様 に不 可能 なこ とで あ る。 実際 には それは賃金 の上昇で あ り, 失 敗す るに違 いな い。労 働 に対 す る大 きな需 要 なしに賃 金の上 昇 はない。 そして労働者 が不足 す るまで ぱ諸君 が労働時 間 短縮 を強要 す るこ とはで きない。゛」Chartists が, 労働時 間が減 少さ れた多 くの例 を引用 し て,その 結果 は全 て 賃金 の上昇 を見てい る,と主張 し てい るこ とに対 す るBright の主張であ り, 彼 は労働時 間 と賃金の関係を否定 は してい ないが, その前提 として海外貿易 の発展 を強調 してい るので あ る。 貿易の 発展 を阻害 す る要因 を除去 し,安 い 市場で購入 し, 高 い市場で 販売 し, 可能 な限 り生 活 を安 楽 にし, 不 必要労働 を避 け, 労働 を軽減 す るこ とが労 働時 間 を短縮 す る。 現 在の貿易制度 こそが 労働 の交換価値 を人為的 に減少 さ せてい る。 したがっ て穀物法 は廃止され ね ば な らない, という論法 であ るl。 貿易 が不振 の現 状で ぱ労働の機会 は与えら
れないし4 賃金 は引上 げ ら れない。 賃金を引上げ れば利 益 が減 少 す るからで あ り,賃 金引上 げ につ なが る労働時 間の短縮 を否定 した ので あ る。 さ らに演 説の終盤 にお いて次 の ように補足 してい る。 「穀物法 の支持 を諸君 に訴 える人 々は諸君の敵であ る。 穀物法 の廃 止を急 ぐ人 々は諸君 に苦悩 を与 える期 間を短 くす る。 あの無 慈 悲 な法令 が存在 す る 間 は諸君 の賃 金 は下 落 す る。 それが廃 止さ れる時, 賃 金 は上 昇 す る。 た とえ イギリ ス中 の雇用者 と労 働者 が賃金 を下落 させ ない とひざ まづ い て誓っ た と しても, 穀物法 が続 く限 り賃金 は確実 に下落 す るだろ う。 もし穀 物法 が廃 止 さ れない なら, 現在 の賃 金相 場 に諸君 の賃金を継続す るこ とがで きる力ぱ地 球上 に存在 しな い。(26)」 次 に3. 「人民 憲章獲 得の困難性」 について次 のよ うに論 じてい る。 「諸君の演 説者や指導 者 は諸君 に対 し,賃 金問題 を断 念 し, 人民 憲章 の主 張 を勧 め る。 自然 の法則 は人民 憲章の獲得 に対 し, 賃金 の強 制的 上昇 に対 し 彼 らが反対 す るような, 障害 は起こさ ない。 しかし憲章 の獲 得 は今 や, 力で 賃金 を上昇 させ るの と同 じ位,不 可能であ る。(27)」Chartists は1838 年 に「人民憲章」を宣言して以 来 その実 現方法 を討議 し, 議 会請 願を中心 として推 進 す るこ とを決定 していたが, 議 会 が請願 を拒否す る場合の手段 として, 労 働組合 と密接 に連 絡 を とっ て, ゼ ネ ラル・ スト ライ キ に訴 えるこ とを討議 して いたのであ る。 かつ て彼 らの 請願書 が議 会 に送 ら れる とすぐ に,Birmingham を中心 に した暴 動を計 画し たが弾圧 を受 け指導 者の逮捕を見 た こ とがあっ た。 今 回のChartists 運動 に於い て も,反 穀物 法同盟 は自分 白身の た めに「安 い穀物 」を要求 してい るので あ り, こ れは「低賃金」 の要 因 とな る。 彼 らの ゴ マかし に耳 を貸 して はな らない。 諸君 の人民憲章 の獲 得 に固守 し ていなさ い。 諸君 に とっ て選挙権 がな ければ 諸君 は完 全 な奴隷で あ る, とい うはげ ま しの言葉が基 盤 になっ て い る。Rochdale の スト ライキの集会でChartists は, 「人民 憲章 なしで は諸君 は公正な一 日の労働 に対 する公正 な1 日分の賃金 を獲 得 す るこ とはで きないだ ろ う。o 」 と, 労働 者 に対 し演 説 してい る。 こ れを受 けてのBright の人民 憲章獲得 の可能性 の否定 であ っ た。 次 にBright は, 第4 の,「中産階級 にお け る政 治力 の欠除」 を述 べ,労働
JohnBrightと1840年代初期の不況63 者の忍耐を期 待 した が問題 点 のあ る演 説部分であ る。 次 の よ うで あ る。 「貴族社会 は力 強 く,堅 い信念 を もっ てい る。 だが残 念 なが ら中産階級 は い まだ全国民 に対 し,政 治力 を拡大 す る安 全性 を見 きわ め るに十分 な知識 を 有 していない。 労 働者階級 は彼 ら自身で それ(政治 力) を得 るこ とはで きな い。腕力 を諸君 は賢 しこ く も受 け入 れない。 それは不道徳で あ り, そして諸 君 は武器 を持っ ていないし, また組織 もない。 道徳 の力 ぱ有権 者 を通 じての み発揮し うるが, い まだ 確信 さ れていない。 人民 憲章 の 原則 ぱいづ れうちた てられるだろ う。 しか し その日が来 るには,何年 も,何 か月 も要す るか もし れない。 その 日が来 る まで 諸君 は怠惰で あっ ては ならな い。 諸君 の生活 の唯 一 の手段 は諸 君 白身 の 労働 の産 物 か ら な る。 残 念 な が ら諸君 には妻 子が い る。 誰 もが 飢 えてい る。 そし て諸君 は生 きねば な らない。 そし て そのた めに は働 かねば なら ない。))」 と,い う もので あっ た。 この部分 は 自らの問題点 を明 らかに し, 責任 を労 働者 に転稼 してい るこ とは明 白で あ る。 同盟 に対 す る支援 を期 待 す ると同時 に, 職場 に復 帰 し, 生産 労働 に邁進 す るこ とを奨励 した もので あ るが,消極 的 すぎた。 労働者 の 目標で あ る人民 憲章 の獲 得の困難性 は彼 らの組織力・政 治力のなさ に基因 し, 遠 い将来 であ り, それまで 労働 を して待 て という労働 の有 効性 を訴 え る論法 で は労働者 の合 意・支持 を得 るこ とは困難で あろ う。 そしてChartists 指導者 の批判 をした後で,スト ライ キに走 っ た彼 らの事 情を好意的 に理 解 し, 彼 ら に対 し責任 を追求 す るこ と無 く, 温情的 に仕事 へ の復帰を呼び かけた。 まさ し くBright の宗教的思 想 に より育 成 さ れた博愛 主義 の表 れで あ り, 問題 の平和的 解決を常 に志向 してい る表 れで あ る。更 に 続 けてい る。` 「我が町 の同胞 諸君, 諸君 は今 週は熱 狂的であっ た。 諸 君 の行動 は,否定 しなかっ たご とく平 和 を好む もので あっ た。 そして私 は 諸君 に関 す る知識 を もち,諸君 を熟 知 し てい るので,諸君 に期待 した。我 々は誤 りを犯 しや すい。 諸君は誤 ちを犯 した。 しかし それは運命 を決 める もので はない。 それは取戻 せ るだろ う。 私 は 諸君が知識 人で あ ると信 じてい る。 で なけ れば 演説をしな い。知識人 としての 諸君 と何 もせず にい るこ とはで きず, さ り とて力で賃金 を上昇させ るこ とは 永久 にで きない。 今 すぐ 憲章 を得 るこ とはで きない。 そ れでぱ諸君 は何 をすべ きか。 諸君 の仕事 に戻 りなさい。 誤 りを認 め るこ とぱ 誤 りの中で主張 す るこ とより一層気貴い ものであ る。 そして誤 りを捨 てれば,
真 実に一 層近 づ くので あ る。仕 事 を取戻 す際 に諸君 は政 治を改良 す る希望 を 捨 ててはい けない。あ きらめは現在 の運動以 上の嘆 き となる。 希望 をよ り幸 福 な日が来 る まで大切 にして下さ い。 そして諸君 と諸君の子供達 は幸せ な 日 を楽 しむで あろ う。(30)」 犬 次 に,5. 「Chartists 指導 者の批判 」 をしてい る。 ノ 「諸君 の雄 弁家達 は声を大 に して, 諸君 の数や力 について 説明す る。 そし て もし諸君 が変 らない信 念 を もっ て い るな らば, 驚 くよう な結果 を約 束す る。 彼 らは諸君 をあざ む く。 恐 ら く自分 自身を もあざ むいて い るで あろ う。 彼 らのあ る者 はご まかしで どう にか生 きてお り, あ る者 は彼 らのリーダ ーシ ップ の栄 光 に満足 してい る。 彼 らは諸君 に大い にお べっ かを使 い, 雇用者 を ひ どく中傷 し てい る。 諸君の政 治的 自由を苦 心 して獲 得 しよう どしてい るふ りをし てい る。 彼 らは政 治的 自由 が選挙団体 としての中産階級 を通じての み 得 られるこ とを知っ てい る。 過去4 年 間, 彼 らは諸君 の眼前 に, 現在で は得 るこ とので きない目的 を掲 げ た。 そして それを探 し求 めるこ とを主 張 した。 続 いて 実際 の 目的 を妨 害 す る た めに絶 えず活 動 した。 彼 らは実体 を悪 く言 い, 名ば かりの もの を絶 賛 した。 彼 らは貴族社会 の強 奪の打倒 のた めに1 人 で 諸君 を助 け るで あろ うし, また助 け るこ とがで きる人々 に対 し, 諸君を怒 らせ るこ とに絶 えず努力 した。 彼 らは嫌疑 と不和の増大 に成功 し, そし て不 和 が彼 らの多 くを生 きさ せた。 彼 らは諸君 の週給7 ∼8 シリング を永続さ せ るた めに最善 を尽 くし た。 そして その結果彼 らは その3 ∼4 倍 の収 入を享受 しf>。(31)」Chartists の指導者 はManchester に到着 した時,この スト ライキの拡大 のあ とにぱ全般的 な蜂 起 が続 くで あ ろ うし 続 くべ きであ る, と確信 し てい た。 ゆ えに彼 らはさ らに スト ラ イ キを 拡 大 し な ければ な らなかっ た ので あ
る。 事 実この 間に スト ラ イキ はLancashire からPennin 山脈 を横切っ てYorkshire へ と拡大 していた。各地 にお いて新 しい支 持者が加 わり,工場 の 操業 は停止 していっ たので あっ た。 一 方Bright はこ のよ うな状 況 を鎮圧 す るた めに, スト ライキの責任 を その指導 者 に与 え, 彼 の欲望 を暴露 したので あ り, すで に明 らか にした「職場 への復 帰」 を次 の要求 としたので あ る。 最後 にBright ぱ,自由貿易 が労 働者 の苦 悩 を除去 す るとし, 貿易 発展の た めに飢饉 の撲滅 を実現 しなけ れば ならず, その味方こ そが同盟で あ ると演説 した。 す な わち,
JohnBrightと1840年代初期の不況65 「自由 への一 歩 は貿 易の 自由で あ り,工業 の自由で な ければ ならな い。我 々は不公平 な飢饉 を終 えさせ ねば なら ないj それが貿易 を破壊 し, 諸君 の労 働, 賃金,安 楽 そして独立 の要求 を破壊 してい る。 貴族 階級 は反 穀 物法 同 盟 を彼 らの最大 の敵 と考 えてい る。 イギ リ スの無 慈悲 な貴族社会 の最 大の敵で あ る同盟 ぱ必然 的 に諸君 に とっ て最 も頼 りにな る味 方で あ る。゜2)」 以上 のご とくBright の演 説 ぱ, その 中 に問題点 もあっ たが, 効果 的で あ り,彼の助言は機敏に続 けられた。い くつ かの地域で暴動が生じたが,Chartists 運動 は当初予想 さ れた よ うな結果 を招 かずに静 まっ た。 反穀物法同盟 は, 穀物法の廃止 によっ て国内食料価格 の下 落が もたらさ れ, こ れによっ て賃金 を引 き上 げ るこ とな く窮迫 を救済 し, さ らにイギ リス製造 業 品の貿易の新 た な可 能性 を開 き,それによっ て国内 全般 の繁栄 を促 進さ せ, 労働 者の賃金増 大 を図 るこ とが可 能 とな る,とい う論理 をChartists に理解 さ せ るこ とが目的であっ た。 安 いパ ンの ために見事 な演 説をし た とい うこ と はBright の同 盟 の運動 に対 す る主 なる貢献で あった。 彼 が演 じた重要 な役 割 のL つ は,士 気高揚 とい う役 割であ っ た。穀物法 廃止 とい う正義 感 に燃 え て, 運動 ぱ勝利 しなけ れば とい う態 度で引 き受 けた。勝 利 の時 はすぐ に来 る だ ろう と繰返 しCobden に話 してい た。並 みはず れたイギリ スの人 口発展, 近代的交通機関, 同盟 の激 しい運動 が そう思 わせたので あっ た。 3 。「栓抜 き暴動(PlugPlot )」 につ いて1842 年 はスト ラ イキの年で あ り, 不 況 は全般的 な もので, 困窮 の度合 いが もっ とも頂点 に達 しだ のは, イギ リ スにお いて基幹産業 の位 置 を占 めてい たLancashire の 綿 織 物 製 造業 にお い てで あ っ た。 しか もこ の スト ラ イキ はFeargusO'Connor を指導 者 とし て,人民 憲章 と賃金の引 き上 げ を目的 とし たChartists 運動であっ た。反 穀物法 同盟 は,穀物 法廃 止を勝 ち取 るた め に は大衆運動 を指導 し,味方 に引 き入れ る必要があっ たので あ る。ここ にBright の力 が試 ぎれたので あっ た。 十 スト ライキはManchseter を中心 とす る近郊 諸都市 に広 がっ た。スト ラ イ キ に参加 した労 働者 は8 月11 日,Rochdale を行進 して午 前11 時頃Bright の 工 場 に到着 し,彼 らは工場 の動 力源 となっ てい る蒸気機 関のボ イラーの水栓 を抜 き去 りボ イ ラー を空 にし, 生産 を停止 させ るので あっ た。 このよ うにこ の時 のスト ライキ は,水栓 を抜 き回 る とい う形式 の暴動 に発展 し,「栓抜 き暴
動」 と呼ば れたのであっ た。 し か し な が ら この「栓抜 き暴 動」 は, わが国 にお い て は「点 火栓抜 き暴 動(34)」 と呼 ば れ,1842 年 の スト ライキの代 名 詞 となっ てい る。 点火栓 とは, 原動機 としての熱機 関で あ る内燃機 関にお いてピ ストンの上 下 運動 に必要 な シリンダ ー内で燃焼 をお こな うた めに混 合気 に点火 をお こな う ものであ る。 普通 の型の 内燃機 関 には, 蒸気機 関 と同 じ よ うにシリンダ ー とピ ストン と があっ てク ラン クにつ なが れてお り, 高圧 の蒸 気 を送 り込 む か わりに,ピ ス ト ンの動 きにつ れてシリンダ ーの一 方の側 に空気 と燃 料 とを吸 いこみ, シリ ンダ ー のな かで燃焼 (爆 発)させ, 高圧 のガ スを作っ てピ ストン を動 かすの で あ るo。この燃焼(爆発)の際 に点 火栓( スパ ー クプ ラグ)で 火花を飛 ばし 点火さ せ るので あ る。 こ れに対 し蒸気機関 は, 蒸気の持っ てい る熱 エ ネルギ ー を外部のボ イラー で 作 り, その高圧蒸気 を機 関の シリンダ ーに導 入 し,ピ スト ンを上 下させ, 回 転運動 に変 える外然機 関の原動機 であ る。 ピ スト ンを動 かす熱 エネルギー を機 関の外 部で すで に作っ てし まうので, 点火 栓 は不 必要 なので あ る。 まさ しくこの蒸気機 関が,1842 年 の スト ラ イキ時代 にManchester を中心 とす るLancashire 地方 の綿織物製 造業 に一 般的 に普 及 していたので あ る。 しか し蒸気機 関 は, ボ イラーの装 置が大規模で , その大 きさ が全装置の半 分以上 を占 め, しか も効率 も悪 く, さ らにボ イラー には爆 発事故 の危険性 が あ り, 労働 者 に とっ て恐怖の的であっ たので, ボ イラー を必要 とし ない内燃 機 関の発明 が望 まれていたのであ る。 もしこの よ うな内燃機 関 が発明 さ れれば蒸 気機 関 よ り もは るか に小さい も の となり, は るか にたや すく運転 に移 るこ とがで きるで あ ろ う。 す なわち, 外燃 機 関で あ る蒸気機 関の場合 にぱ, 水 を火 にか けて沸 かすこ とが時間のか か る過程で あ るの に対 して, 内燃機 関で ぱ可燃 性 蒸気 と空気の混合物 に火花 を接 触さ せ るだ けで 爆 発を起 こすこ とがで き るのであ る呪 この内燃 機 関 が発 明さ れ,初 めて実 用化 に成 功 し たの はド イツ人のOtto で あ り,1876 年o の こ とであ る。したがっ て,点 火栓で 作動 す る内燃 機 関は1842 年 には存 在 し ないので あっ て, その年 の騒動 は「点火 栓抜 き暴 動」で はなく, 蒸気機 関の 単 なる水 栓を抜 くこ とに よりボ イ ラーを空 に し,工 場生産 を停止 さ せ る「栓抜 き暴動」で あ る。
JohnBright と1840年代初期の不況67 また こ の こ とは 次 の よ う な記 述 か ら も明 ら かで あ る. … …theplugshadbeenremovedfromtheboilers,hencetheTlugPlot' 冊. … …enforcingclosurebyrakingoutboilerfiresanddrawingboilerplugs,(hencethename'PlugPlot'giventothesediturbances. 押 … …therioters'wouldproceedtodrawthewaterplugsofthesteamboilers,andthus,withoutpersonalviolence,theywouldputanendtotheworkingofthemills'.Thetacticgavethecampaignitsname,'thePlugpiof( “ … …plug-drawing(emptyingtheboilers,andsostoppingthemills) 叫 お わりに 十 か くして, 自由 貿易主 義者 としてBright はChartists と同盟 関係 とい う もう一つ の活動 範 囲で 重要 な貢献 をした。 両者 の関係 は最 も敵対 す るもので あっ たが,Bright の精 力的 努力 がなかっ た なら, 一層 悪化 していたで あろ う。1840 年代 の初 期 におい て,完全 なChartists の数 は少 なかっ たが, ほとん ど全ての労 働者 がChartists の支持 者で あ る と考 えられ ていた,Bright は反 穀物法同盟 が民 衆運動 のリーダ ーで あ るため には,彼 ら潜 在的Chartists を 味 方に引 き入 れ ねば と考 えていた。 これは難 問で あ るが, 重要 なこ とであっ た。特 にChartists が,同盟 の集会 を妨害 す るこ とを楽 しむよ うになっ てい たので なおさ らで あっ た。 そしてChartists との討論 の中で,Bright は穀物 法廃 止 は男 性選 挙権 より 重要性があ る と主 張 した。 大土地所 有者の圧 制 と利 己主義 が飢饉 と選挙有権 者の限定を作 り出し た。 したがっ て それらを倒す た めに 第1 に なすべ きこ と は穀 物法 を除去 す るこ とで選挙法 改革 は その次で あ る, と説 明 した。 すなわ ち,穀物法の廃 止 は国 内の食料価格 を下落さ せ, それ に よっ て賃金 の増加を 必要 とするこ とな く困窮 を救済 し, そして また イギ リ ス産の商 品の新 たな海 外 市場 を開拓 し, 貿易を促進 し, それ によっ て全般的 な繁栄 を増 進し, 労働 者であ る民衆 は その収 入を増加さ せ るこ とがで きるであ ろ う, と考 えたので あ る。
1842 年の この時期 にCobden はBright に議 会入 りを進 めた。傑出的 才能 を もっ た演説者 は自由 貿易 運動 に とっ て計 り知れない ものがあっ た。 そして1 年後 の1843 年7 月,Durham 市 の下院議 員 に当選 した。 か くしてBright ぱ彼 の穀物法 観 に従 い, その後 はCobden と共 に議 会 内 から反 穀物法 運動 を展開 し, 穀物法廃 止 に向 けて 邁進 す るので あ る。丿 ( 注 ) へ 犬 (1)ThomasTooke,AHistoryofPrices,and (Longman,London,1848,p.411&p.413.(2 )1838 年 か ら39 年 の 不 況 に つ い て は , 拙 稿 「1839 年 に お け る反 穀 物 法 運 動 」 経 営 論 集 , 第38 号,1992 年,10-14 頁 参 照 の こ と。(3)ThomasTooke, ゆ 。cit,p.435.(4 ) す な わ ち, 反 穀 物 法 運 動 乱1838 年9 月 に反 穀 物 法 協 会 が 成 立 し た 時 期 を 第1 期 と し , 反 穀 物 法 同 盟 に 移 行 を 推 進 し た1839 年2 月 以 降 を 第2 期 と し , そし て 第3 期 を , もっ と も深 刻 化 し た 不 況 期 に お い て 本 格 的 活 動 を 実 践 し た1841 年 ・42 年 と し , こ の 第3 期 に お け るJohnBright の 活 動 に 焦 点 を お て て み る 。 ニ (5)ArchibaidPrentice,HistoryoftheAnti-Corn 一LowLeague,vol.1,FrankCass &Co.Ltd.,London,1968,p.73. (6)Cobden の 反 穀 物 法 協 会 結 成 以 前 の 活 動 の1 例 と し て ,次 の こ と が 指 摘 で き る 。1837
年 秋BritishAssociation の 会 議 がLiverpool で 開 催 さ れ,Porter を は じ め
と す る 経 済 学 者 も 討 論 に 参 加 し た 。RichardCobden も 参 加 し て お り ,会 合 の 後 , 彼 の 友 人 で あ るHenryAshworth に 次 の よ う に 語 っ た 。「 我 々 は 何 を な す か お 教 え し ま し ょ う。我 々 はManchester 商 業 会 議 所 に 穀 物 法 廃 止 運 動 を 進 め る に あ っ た て , 一 役 買 っ て も ら う の で す 。」1838 年2 月Cobden は 運 動 を 活 発 に 進 め る た め にManchester 商 業 会 議 所 の 説 得 を 試 み た 。会 議 所 は す で に 穀 物 法 に 対 し反 対 の 異 議 を 唱 え て い た が , し か し そ れ だ け で も う 一 歩 進 ん だ 段 階 に は 進 展 し て い な か っ た 。( 拙 稿 「SlidingScale 法 か ら反 穀 物 法 協 会 設 立 へ の 過 程 」 経 営 論 集レ 第20 号,1982 年,62 −63 頁 。) し ◇ (7)ArchibaldPrentice, ゆ 。ぷ 。p.81. つ , (8)GeorgeM.Trevelyan,TheLifeofJohnBright,ConstableandCompanyLtd.,London,1913,pp.30-31. (9)GeorgeB.Smith,TheLifeandspeechesoftheRightHon.JohnBright,M.P 。vol.1,HodderandStoughton,London √1881,p.l39. (10)Ibid 。,p.139. 尚
JohnBright と1840年代初期の不況69 (11)FrancisWatt,TheLifeandot 加ionsoftheRightHon.JohnBright,JamesSangster&Company,London,p.22. 叫 印 哨 司Joa い G (15) C.A.Vince,JohnBright,Blackie&Son,London,1897,pp.14-15. Ibid.,p.9. 「世 界大百科 事典・6 」平 凡社,1971 年,530-535 頁。KeithRobbins,JohnBright,Routledge&Keganpaul,London,1979,p.31. (16)GeorgeB.Smith,op.cit.,p.146. (17)Ibid.,p.148. (18)Ibid.,pp.148-149. (19)DorothyThompson,TheChartists,PopularPoliticsintheIndustrialRevolution,WildwoodHouse,England,1984,p.273 / 剛DonaldG.Barnes,AHistoryoftheEnglishCornLawsfrom1660-1846,AngustnsMKelly,NewYork,1961,p.249. (21) 「PlugPlot 」は「栓 抜 き暴動 」であっ て,今日一般 的 になっ てい る「点 火栓抜 き暴動」で はない。 この こ とにつ いてぱ次項 にて明 らかに したい。 詣KeithRobbins ,op.cit.,p.37. 皿Ibid.,p.37.(24 )HJ.Leech,ThePublicLettersoftheRightHon.JohnBright,M.P ・,SampsonLow,Marston ,Searle,&Rivington,London,1885,pp.334-335. 帛Q 刀 剛 剛 剛S3-SS ^35353S3. お り 川 μ 爪 印 C O . r o c r j . 曲 ︷ 哨 吟 ^3- £2-Ibid.,pp.335-336. Ibid.,n.339. Ibid.,p.336. DorothyThompson,op.cit ・,p.288.HJ.Leech,op.cit,pp.336-337.Ibid.,p.338.Ibid.,pp.337-338.Ibid.,pp.338-339. 『工場 の蒸気機 関 の点 火栓 (plug )を抜 いて廻っ た。こ の運動 が「点 火栓抜 き 暴 動」(PlugPlotRiot) と呼ば れる理由であ る。』(古 賀秀 男著「チャー チ スト運 動 の研究」 ミネルヴ ア書 房,1975 年,76 頁。) 『紡績・紡織機 の 蒸気 機関 の点 火線 を引 き抜 く「点 火栓引 き抜 き争議 」に席捲 さ れた。』(熊谷次郎著 「マン チェ スター派経済 思想史研究」 日本経 済評論 社,1991 年,29 頁。) 「科学の辞典」 岩波 書店,1985 年,318 頁。 「科学 と発見 の年 表」 丸善 株式会 社, 平成4 年,249 頁。
㈲ 富塚清著「内燃機関の歴史」三栄書房,昭和57年,2 頁。 帥KeithRobbins,op.cit.,p.37.
㈲WendyHinde,RichardCobden,AVictorianOutsider,YaleUniversityPress,NewHavenandLondon,1987,p.llO.
纏NormanLongmate,TheBreadstealers,St.MartinsPress,NewYork,1984,p.158.