<論文>1836年から1838年における自由貿易運動
著者
金子 俊夫
著者別名
Kaneko Toshio
雑誌名
経営論集
巻
21
ページ
139-159
発行年
1983-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005809/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1836 年 か ら1838 年 に おけ る 自 由 貿 易運 動
金 子 俊 .夫 1。はじめに2. 1838年以前の動向3. Manchester 反穀物法協会の結成4. 結び 139 ! は じ め に ・。 \ ‘丿尚 ・ London。 に 反 穀 物 法 協 会 が1836 年 に 結 成 さ れ た が , そ の 年 の イ ギ リ ス に お け る 農 業 状 態 の 不 振 は 厳 し い 状 況 を 物 語 っ て い る 。 \ / \ そ れ 以 前 の1832 年 以 降1835 年 末 ま で は 豊 作 が 続 き , 必 然 的 結 果 と し て 小 麦j の 価 格 は1831 年 に 年 平 均 価 格 で66 シ リ ン グ4 ド ソ ス で あ っ た も の が , 翌1832 』 。・I | ・- 1’ 年 に は58 シ リ ン グ8 ペ ン ス に 下 が り, 1833 年 は52 シ リ シ ・ グ11 ペ ン ス に, 1834 年 に は46 シ リ ソ しグ2 ペ ン ス に・, さ ら に1835 年 に は39 シ リ ン グ4 ベ ン ス に ぎ で ㎜ s II 1 落 込 ん だ の で あ っ た り 。 そ し 七 月 平 均 価 格 が 下 落 の 最 低 点= に 達 し だ の は1835 年12 月 で35 シ リ ン グ4 ペ ソ メ で あ っ た2) 。 週 平 均 を 見 て み る と,12 月 最 後 の 週 よ 翌1836 年1 月 の 最 初 の 迦 に は34 聊V V グj レl 人 ン ろ に 萱 で す 落 し た 。 小 長 の ’ I ぺ I % % ・ | 』 消 費 は 大 き く 増 加 し た に も か か わ ら ず , 産 出 高 が そ れ を 大 幅 に 上 ま わ9 た■ip で あ っ た 。 と く に1834 年 か ら1835 年 め 小 麦 の 消 費 は 目 立 つ 允 も の が あ っ 肩 。 人 ロ と く に 製 造 業 人 口 に 対 す る 雇 用 が 拡 大 し , な お か つ 十 分 な 賃 金 を 取 得 す る こ と に よ り , 小 麦 消 費 が 大 き く 増 大 し た 。 ま た 不 作 が 原 因 し て , 馬 鈴 薯 , 燕 麦 ( ガ ラ ス 麦 ), 大 麦 等 の 価 格 が 概 し て 高 か っ か こ と が そ れ を 助 長 し9 ∧ 燕 麦 ・ 大 麦: の 平 均 年 価 格 は 第1 表3 り と よ れ ば1832 年 か らl836 年 に か け て は 小 麦 が 下 落 しX い る に も ノか か わ ら ず 、: 燕 麦 ・ 大 麦 ぱ 騰 貪 傾 向 を 続 けX い る6 そ の 他 のI _J-ゝtタ-fhltヽA r = = ・ ・. /- : − ふ 一 人‘r-T-t > "、 −'− ぷ4 ●4-lj ..一 乙 ∠ − ..、 ・ L ・ ■・ | -'Ir ・ ・ .. 1 小 麦 消 費 増 大 の 要 因 と し て , 家 畜 の 食 用 と 七 七 心 使 用 療 , 麦 芽 , 蒸 留 酒 心 製 \ . ‘ / ≒ − j l , . ‥‥‥,y .. 。 L t 造 用 と し て 使 わ れ た 丿こ と が 指 摘 で き る . び)X う な 膨 大 な 使 用 に も か か お ら ず, 1832 年 か ら1835 年 霞= 々 の4 年 間 む 小 麦 め 生 こ産 量 が 異 常 に 多 か し っ た た 略 に.供給過 剰 となっ た のであっ た4)。 そ の 結果, 1835年 の小 麦生 産は抑 制され, 種 まき の減少は 例年 の4 分 の1 から5 分の1 へ と激 減さ れ, 大 麦・ ガラ ス麦 に 作 付を 転換し , 小麦 の発 育状態 も良好 でない とい り・=・ュ ースも流れ たこと も手 伝い1836 年以後 小麦 価 格は上 昇 傾向を見, 第1 表 に よれ ば年平 均価 格で48 シ リン グ6 ペン スに達し , 更に秋に は60 シ リン グを 超 過 す る こ と も あ っ た 。 1835年 と1836 年 の年末価 格を比 較す る と1.6 倍以 上 に 高騰し た のであっ た5)。 第1 表 穀物の年平均価格
Years Wheat Barley Oats I Years wheat Barley Oats
1763 1764 1765 1766 1767 1768 1769 1770 1771 1772 1773 1774 1775 1776 1777 1778 1779 1780 1781 1782 1783 1784 1785 1786 1787 1788 s. d. 36 li 41 鴎48 0 43 u 57 4 53 9i 40 8 43 6 登48 7 52 ’352 7 54 3 49 10 39 4 46 11 43 3 34 8 36 9 46 0 49 3 54 3 50 4 43 1 40 0 42 5 46 4 s. d. 26 5 26 1 29 2 29 4 26 9 20 9 21 1 23 4 20 1 17 6 17 8 23 2 31 3 28 8 24 9 25 1 23 4 22 8 5. d. 12 2 16 8 17 8 18 4 17 0 15 5 16 1 15 7 14 5 ミ13 2 14 1 15 7 20 5 18 10 17 8 18 6 17 2 16 1 1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 S。d.96 1186 3 74 6 67 10 56 1 44 7 53 4 63 11 68 6 58 8 58 6 60 5 66 3 64 3 66 4 58 ・852 1146 2 39 4 48 6 55 10 64 7 70 8 66 4 64 4 57 3 s. d. 49 4 53 10 45 9 33 10 26 0 21 10 31 6 36 4 40 0 34 4 37 7 32 10 32 6 32 7 38 0 33 1 27 6 29 0 29 11 32 10 30 4 31 5 39 6 36 5 32 10 27 6 s. d. 32 5 32 5 28 2 24 2 19 6 18 1 22 n 24 10 25 8 26 8 28 2 22 6 22 9 24 5 25 4 20 5 18 5 20 11 22 6 23 1 23 1 22 5 25 n 25 8 22 6 19 3
1789 1790 1791 1792 1793 1794 1795 1796 1797 1798 1799 180 )1801180218031804180518061807180818091810181118121813181418151816 2 48 3 9 2 5 8 31 9 3 5 5 4 4 4 5 7 7 5561 ・ 1 9 9 1 a ︶1 829951765 568778909 1 126 109746578 9 9 7 0 3 3 2 7 9 0 0 0 6 1 0 0 3 9 1 4 4 4 5 3 6 1 1 9 4 7 6 698601416979 701 4878318748537111122 221123322222 23322 432 22 630 19 54262 ひ6440684 01396431 1 1 1 3 6 6 一 1 1 7 8 7 9 6 9 8 3 5 1 4 8 9 一 7 8 2 6 8 7 0 32 2 2 3 3 3 3 2 2 3 5 6 3 2 3 4 3 3 4 4 4 6 5 3 3 3 1836年 から1838年 にお け る 自由貿 易運 動 141 6 5 1 9 6 3 5 0 3 5 6 4 6 1 4 6 3 4 7 4 4 5 7 7 6 6 8 7 2 1843 1844 1845 1846 1847 1848 1849 1850 1851 1852 1853 1854 1855 1856 1857 1858 1859 1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 1868 1869 1870 50 1 51 3 50 10 8 9 6 3369 35 8 2 4 2 9 34 59 20 1 59 20 1 1 1 4 9 0 08 032 4 9 6 4 3 3 5 5 01 9 4 38 65 6 5 4 4 434 57 7 6 5 4 4 5 5544 44 4 6 6 4 4 68 88 269 6962 09 1 1 8 6 71 1119 500 57 2933313244312723 忿2833363 4 414234333636353329293740433934 182022232820171618 一1921272725252423a2422212021 4 7 68 866 5 71 01 5 2 0 6 2 59 7 2 1 0 1 1 7 0 1 0 1 1 4 6 8 6 22 2 2 2 2 1836年 ,農業 部 門にお い ては不況 が叫 ばれ たが, こ の不況 は繁 栄 の中 の不 況であ った。 す なわち, 1833年に 特別 委員会が 製造業, 商業, 海運 業 の各界 の調査 目的 で行 なった証 人 審問を見 れば 明ら か で あ り, 最初 の・証人 はMr.Samuel Gurney で彼はLondon をはじ め とす る地 方 の大 都市 で大 規模に 商 売を営 乱 非常 に詳 細な商業 お よび製 造業につい て の全 般 の状 態 について 判 断し りる材 料を有し てお り, 証人 とし て最 も適当 な人物 と認め られ ,5 月14 日に同 委員 会の審問 を次 の よ うに うけ た。
「 あ な たの観察 では, 産業 界の状 況をい かに お 考えにな ってい るか, 委員 会の ために話し て 頂け ませ んか 。」 「 現在 の目に見え る状況 からい え ば, 私は産業 界は健全 な状 態にあ り, 多 くの方 面におい て 適当 の繁 栄を 享受し てい ると思い ます。」 「 現在 の状 態を ,以 前 の時期 と比較し てそ うぉ っし ゃるので す か。」 「 そう です, 私は彼ら の現 状 を以 前 の時 期 と比 較し てい ってい るの で す 。 たし かに われわ れは,〈以 前 より も〉よ り大 き なとはい わない までも同程度 の 繁 栄 の時代 に, 現在い る のであ り ます。」 「 ど うい う基 準を とって, あ な たのい わ れ る繁 栄の明白 な証拠 とさ れるの です か。」 十 「 破 産がい ちじ るし・く少 ない こ と, 額面 で は い く ぶん少額 ながら総 額 では 相当 の額に達す る為替 手形 が非常 に多 く 出 まわり, これ と同時に 王国 のほと ん どあ らゆ る地方 から貨 幣が大 量に 供給 されてい ること です。 さらに, も う1 つ の特徴 とし て, こ の ような手形 の支 払 が, きわ めて規 則的 に行 なわれて い るこ とを, つけ 加え まし ょう。」 「 あ なたは, 最近 の12 ヵ月 が, 特殊 の事 情の影 響 のない どの12 ヵ月 とくら べ ても,むし ろ普通 の繁 栄 より以 上 のも のであ る と,お 考え です か。」 「 私は この12 ヵ月 は事実完 全 な繁 栄 の12 ヵ月 と呼 んで よい も の だ と考え ま す 。」 「 現時 におけ る特殊 な様相 とし て, 資 本の投資を 好 まない 風潮あ るい は投 機 にむ か う傾向 があ るとい うことが でき ます か。」 「 私 自身 の理解 懲は, 商 業 的お よび 産業的 事業に すす んで む か う風潮 があ り, 現 状におけ る傾向は,むし ろ興 奮 と漸次的 な 価格高 騰 の方 にむ かってい ます。 それ が最後 にはあ る程 度逆 方向に 転 ず るでし ょうけ れ ども。」 「 そ れ では, もし 事業に 投ず れ ば, 資 本に たい す る収益 の見込 は十分にあ るの です か。」 ニ 「 一 般的にいうて,十資 本は十 分な 収益を 実 際挙げ てい ると私 は 思い ます。」 「 あ な たの観察さ れた と ころ では, 現 在 の時 期につい て , 資 本の傾向は, 以 前 の時代 とお なじ よう に 永 続的 投 資を 求 めてい ますか ,あ るい はむし ろ 暫 定 的 かつ短期 的 な投資を 求め てい ます か。」 「 私 は暫定的 投資 だけ でな く永続的 投資 に もむ か うだけ の大 量 の資 金 が 存
在し てい ると思い ます6)。」 1836年か ら1838年に おけ る 自由 貿易運 動 143 以上のように産業において好況が続い た中で1836年以降不況が始 まったの である。この不況が反穀物運動にどのような影響を 与 え て い くの であろう か, そし て1838年9 月 のManchester 反穀物協会結成 に至るまでの過程を本 稿で明らかにし てみたい。 注
1 )D.G. Barnes, A History of the English Corn Laws froTn 1660 ∼18 64, 1961 √pp. 298.2
) 拙稿「Sliding Scale 法から反穀物法協会設 立へ の過 程」 経営論集, 第20 号, 51頁。 ト )
この価格は12 月の月間平均価格とし ての最 低であ る。3
)Leone Levi ,History of British Commerce and of the Economic Prog ‘ ress of the British Nation 176 3 ∼1870, 1872, p. 499.4
) こ の間 の状況につい ては拙稿,前掲論文, 57∼58 頁 参照。5
) 拙稿「Sliding Scale 法から反穀物法協会設立へ の過 程」 経営論集,第20 号, 1982 年,51 頁。 白6
)Thomas Tooke, A History ,of Price and of the State of the Circulation, from 1793 to 1856. 藤塚知義訳『物 価史』 第2 巻 , 東 洋経済新報社, 昭和
55年, 224−225 頁。
つ ぎに 審問を受けた証人は,著名な銀行家(そし てジ ョ ーン ズ ・ p イ ド 商 会 Firm of Jones, Lloyd, and Co. の長)であるル イス・i==・イド氏(Mr. Lewis Llo- yd)
であ った。彼は,その豊富な経験と知識 に よって, また 首都の商業界お よび ラン カシ ャーその他全 国諸地方の製造業 との手広い関 係に よって,きわめて広範 囲 にわた る観察から,彼の結論を引き出すことのできる人であり,ここで問題に されている諸点にかんし て最高の権威と考えられ てよい 人であ る。つぎに かかげ る ものは ,彼の証 言から の若 干の抜粋であ る。-「 あ な た は1==・ソ ド ソ の 銀 行 家 で す か 。」 「 そ う で す 。」 , 「 あ な た は 同 時 に マ ン チ ェ ス タ ー で も 銀 行 家 を し て お ら れ ま す ね 。」 。 ■ ■ ・ 「 そ り で す 。」 「 あ な た の お 仕 事 は 広 い 範 囲 に わ た っ て い ま す か ら , あ な た は 首 都 お よ び か の 大 製 造 業 地 方 の 産 業 の 一 般 的 な 状 態 に よ く 通 じ て お ら れ る で し ょ う0_ト Γ私 は 製 造 業 者 で も 商 人 で も あ り ま せ ん 。 私 は 単 な る 金 融 業 者 で , 私 の 目 に ふ
れる受取 と支払〈の勘定〉から 判断し 得 るにすぎませんヵ\ それら はたし かにかな りの広い範 囲にお よんでい ますから,それによって一 般の産業 の状態をあ る程度 洞察することは可能です。・」 「あなたの観察なさった ところで は, 産業の現状を以前 の時 期と比較し てどう お考えですか,それが健全な状態にあるとお考えです か,あるいは不健全な状態 にあるとお考えですか,この委員 会のために話し て下さい ませ んか。」 「私は, 以前のい かなる時 期にも, それが現在におけ るほ ど着実で健全な状態 にあったことを ,かつて知りません。」 「 そのような状態の証拠 とし てお考えになるものは 何で すか, こ の委員会のた めに話し て下さい ませんか。」 「投機が見られたい こと,供給に十 分見合 うだけ のき まった需要 があ る こ と, 手 持ち在庫の蓄 積がな く,し か も在 庫の処分のために無理な手段に うった えると い うことがない ことです。そし て流 通し ている為替手形 も健全 な事業取引にもと づいてお り,私のかつ て知 ってい るい かな る時 よりも健全な性質 のものだと,私 は 思い ます。」 「何かの事業に乗 り出そ うと望む 人が, 優良な担保をもってし て も融資を得ら れないとい うことがあ ると信ずべき理由を,あなた はお持ちですか。」 「全くあ りませ ん。 資本は非常に 豊富なのですから, その投資 白を 見いだすこ とが唯一 の困 難です。現在では ,優良な担保を手にし ている人が賃金を 得られな い とい りこ とは ,決し てあ りませ ん。事実,妥当な担保とい えるものであれば, われわれは 喜んで 融資 の申込 みを受け てい ます。」(同, 228―229頁) 「あなたが受け ていら れる融資 の申込 み は, 一般に以 前 よりも健全な取引に も とづい てい ると,お 考えですか。」 「そ う思い ます。 諸価格は 穏当 なところ ですが,損失 の危険はきわめ てわ ず か なものになってい ます。利 潤は 小さい です が,危険 もこれに相当し て小さい もO です。 私は 産業 界も また 例年 にな く着実で健全な状態に あ る の だ と思い ます。j(iWl, 228−229 頁) 2. 1838年以前の動向 1836 年の初頭は,例外なく,絶え間なき繁栄の時期であった。商業も製造 業も農業も伸長し ていた。 鉄道・鉱山・あらゆる種類 の株式が熱望し て購入 された。資金は豊富で,銀行家たちも資 本家たちも, 年利2 パーセントか3 パーセントで,手形の割引を申し 出た。わが大商人や 小商人や製造業 者たち に差し 出された大きな誘惑にもかかわらず,投機は部分的にし か行なわれな かった。砂糖と絹 が,ある程度その対象であり, また種々の企画された鉄道 の遂行のために鉄その他の金属がその対象であった刀。
1836年から1838年に。おける自由貿易運動 l-ts 製 造業 ・ 商業 に お い て か な り活 況 を 呈し て い た が ,1836 年 末 からiss? 年 に な る と 農業 不 況 に み ま わ れ , 穀 物 価 格 も1836 年10 月 に は1 ク ォタ ー当 り46 シ リン グ4 ペ ン ス で あ っ た も の が12 月 に は57 シ リン グ9 ペ ン スに , 翌!837 年1 月 に な っ て も57 シV ン グ代 を 維っ持 す る よ うに な っ てし ま っ た 。 す な わ ち1836 年12 月 か ら1837 年6 月 は し め ま で の 期 間 , 最 大 の 不 況 に 突 入し た の で あ っ た 。ニす な わ ち 貿 易 分 野 に も影 響 を お よ ぼし 始 め た の で あ る。 第2 表 斗 に よれ ば , 輸 入 額 に お い て1835 年 約4,903 万 ポ ン ド, 1836年 約5,730 万 ポ ン ド と増 大し ,輸 出 額に お い て も1820 年 以 来 順 調 な伸 び を 示 し, 1835年 約9,116 万 ポ ン ド, 1836年 約9,761 万 ポ ンド と 拡 大し て き た が, 1837 年 に は 輸 入 額 , 輸 出 額 が そ れ ぞ れ 約5,476 万 ポ ン ド, 8,578 万 ポ ン ド へ と減 少 し てし ま っ た の であ る。 そ の 結果 , 貿 易 会 社 の 倒 産 が 発 生し , 特 にAmerica 貿 易 に 従 事 す る 主 第・2表 イギ リスの貿 易 (単位:千ポンド) Years 1801 1802 1803 1804 1805 1806 1807 1808 1809 1810 1811 1812 1813 1814 1815 1816 IMPORTS 31,786 29,826 26,623 27,820 28,561 26,900 26,734 26,796 31,751 .39,302 26,510 26,163 37,755 32,987 27,432 of the ・・u.Kingdomofficial value £ 24,928 25,632 20,468 22,687 23,377 25,862 23,391 24,611 .33,542 34,062 22,681 29,509 EXPORTS chandise 一 一official value £ 10,438 12,776 8,074 8,989 ,7,688 7,782 △7,674 5,838 12,835 9,507 犬6,223 9.,718 ufactuei es of theu. Kins dom official value 且 \ 回 九 回
Records destroyed by fire. 34,207 42,880 35,715 19,366 14,749 25,481 53,5.73 58,629 49,195 Records not complete for these years・ 38,077 4Q,875 ,37,246 37,275 47,371 48,439 ,3,2,891 41,717 45,494 51,610 41,654
1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 1843 1844 1845 1846 1847 1848 1849 1850 1851 1852 1853 30,834 36,885 30,777 32,472 30,838 30,531 35,798 37,468 44,209 37,814 44,908 45,167 43,995 46,300 49,728 46,611 45,944 49,365 49,029 57,296 54,762 61,258 62,048 67,493 64,444 65,253 70,215 75,297 85,298 75,934 90,922 93,547 105,884 100,469 110,485 109,331 123,099 40,111 42,702 33,534 38,394 40,832 40,243 43,827 48,730 47,151 40,966 52,222 52,788 56,218 61,152 60,686 65,025 69,987 73,835 78,360 85,220 72,540 92,454 97,395 102,707 102,179 100,255 117,877 131,558 134,599 132,313 126,310 132,619 164,528 175,437 190,658 197,177 214,327 10,292 10,860 9,905 10,056 10,630 9,228 8,604 10,205 9,169 10,076 9,831 9,947 10,620 8,548 10,745 11,045 9,834 11,562 12,798 12,392 13,235 12,712 12,796 13,774 14,723 13,586 13,956 14,398 16,279 16,303 20,041 18,377 25,559 21,874 23,729 23,328 27,745 50,403 53,562 43,439 48,949 51,462 53,470 52,430 58,935 56,320 51,042 62,053 62,735 66,838 69,701 71,431 76,070 79,821 85,397 91,157 97,612 85,779 105,165 110,191 116,481 116,903 113,842 131,833 145,956 150,878 148,615 146,172 150,996 190,087 197,311 214,388 219,505 242,072 41,818 46,471 35,211 36,424 36,655 36,966 35,357 38,423 38,871 31,537 37,181 36,813 35,843 38,272 37,164 36,451 39,667 41,619 47,372 53,294 42,069 50,062 53,234 51,406 51,634 47,381 52,279 58,584 66,111 57,787 58,842 52,849 63,596 71,368 74,449 78,077 98,934
1836年から1838年における自由貿易運動 147 だ っ た6 ない し7 つ の 綿 花 商 会 が 支 払 を 停 止し た 。 ま た , こ の 不 振 は 労 働 者 階 級 に も波 及し 始 め, 雇 用 の 減 少 ・ 食 料 価 格 の 高 騰 が 彼 ら に 貧 困 を も た らし , 近年 最 大 の 金 融 市 場 の 逼 迫, 商 業 界 の 信 用 喪 失 とい う商 業 危 機 を も 現 出し た 。London に お い て 「 反 穀 物 法 協 会 」 が 結 成 さ れ た の は , こ の よ うな 状 況 下 に お い て であ っ た 。 London 反 穀 物 法 協 会 は1836 年 に74 人 の 設 立 会員 を も っ て 翌1837 年 か ら 活 動 を 開 始し た 。 穀 物 法 に 対 す る 反 対 運 動 は1815 年 の 穀 物 法 が 施 行 さ れ て 以 来 , 様 々 な時 期 に 勃 発 し , 拡 大し た。 特 に 食 料 の 高 価 格 の時 期 と , そ れ に 続 く貧 困 期 に 活 発 化 し た の であ っ た 。し かし1836 年 頃 ま でり 反 対 運 動 は 地 方 的 で, 散 発 的 運 動 で あ っ た た め, London 反 穀 物 法 協 会 が 組 織 さ れ た時 は 一 層 目立 っ た 。 そ の主 な 代 表 的 ノソ バ ー とし て はFrancis Place を は じ め とし , 次 の 人 々を あ げ る こ と が で き る9)。 j
Archibald Prentice (Manchester), George Grote(M.P.),
W. Molesworth,J.A.
Roebuck (M.P.),John Marshall (Leeds) 。
William Clay,
Joseph Hume (M.P. ),Richard Potter (M.P. ),Colonel Thompson (M.P. ), かれらは明敏性,論理的な洞察性にすぐれており,思想においても妥当性 を有し ていたが,民衆組織を 盛上げ牽引し ていく能力はなかった。し たがっ てこの協会の成果にはほとんど目立ったものはなかった。穀物法反対のキャ ンペ ーン活動を積極的に展開し, また当時社会問題化していた選挙制度につ いても,London に集中し 七い る急進派を支持し ,資金を投入し活動し たが, 民衆の感情をふるいたたせることは出来なかった。 後 のManchester での反 穀物運動に登場し たRichard Cobden のような才能を もった指導者が存在し なかったこと,そし て経済的 ・政治的状勢においても期が熟し ていなかっな ことなどが原因し たのであろ う。 またLondon とい う都市は当時このような 組織にとっての最良の中心地ではなかったため,活動 そのものはその後活発 化せず,理論化集団的色彩が強かった。なぜなら穀物 法反対運動 の旗手は新 興工業都市であ り,- し たがって場所的にはManchester の方が適し ていたの
♂へ _ / | であ った10)。 Sydenliain卿は苦悶し て1841 年 に次 の よケに 述懐し てい る。 「 自由貿易論 者 はMr レPitt 以 来 雄弁 家型 もってい なか っ恕 。我 利 ま真実 と 名士 とい くつ か の論 証を もって こつ こつ と活動し た。し かし 問 題を高揚し , 人 々の関 心を 高める こ とぱ 出来なか った。」11)
一 方 議会にお いて も1836 年にCharles Villiers に よるSliding Scale 法 乃 再 検討を 求 めた動議に 引 続い て,1837 年3 升16 日William Clay( 下院議員)に よ り不 況を緩和 さ せ るため議 会に , 小麦1 クォータ ー当 り10 シ リン グの 一 定 関税を 採用す る動 議が提 出さ れた。穀物 価 格は1836 年12 月, 1837年1 月に57 シ リン グ以 上に 騰貴し た社 会状況を考 慮し て の提 出であ った。ノこ の動 議は下 記 政府 閣 僚10 名12)を 含む89 名 の賛 成支持 型得たが ,反 対 者134 名 に より否決 され でし まうた。 Lord Howick,
Lord Morpeth,Sir George Grey,Mr.
John Parker,Sir R. Rolfe ,
Mr. C.P. Thomson,Sir Henry Parnell,Mr.
Labouchere,Mr.
J.A. Murray,Mr.
W. Cooper,
し か し な が ら , 議 会 内 外 に お い て 穀 物 法 に 対 す る 反対 機 運 が 高 ま りつ つ あ ジつこ九 と とば 見 の が す こ とは で き な い であ ろ う。1837 年 の 小 麦 の 収 穫 ぱ 過 去6 年 続 い た 豊 富 な 産 出額 が 続 い た最 後 の 年 であ 力 √ こ ○間 は外 国 か ら の供 給 なし に イギ リ ス国 民 の 消費 を 十 分 ま か な うこ と が で き た13)。 す な わ ち 春 め天 候 不 順 右6 月 以 降 は 回 復七 ,小 麦 の:成 育 に好 適 ・とな り, 8 月 か ら9 月 初 め にか け て 大 雨 に=もか か わ ら ず 北 部 で も:良 い状 態 で 心 配 た く ,Essex そ の他 の大 穀 物 生 産 諸 州 で 若 干 の 心 配 が な ざ れ た 程 度 であ って け 好 収 穫 が 得ら れ た 。 その 結果 小 麦 の 月 平均 価 格 が10 月 に は51 シ すソうグ4 ペ ン スに 下 落 し ,11 月51 シ リ ン グ6 ペ ン ス,∇12月51 シ すン グs ぺ^ ス ど低 価 格 を 維 持 し た 。 し か し こ の 比 較 的 良 好 な 状 態 万もま 恚 な ぐ 悪 化し て い うした 。 1838 年t 方 に ぱ 厳 し い1霜 が降 万り,ニ2:月 い う'狸 い 続x,ヽ・・ごた,。 春 は 不 順な 笑 侯 がy 続 き√ 夏 は 雨 期 之丿な っ丿だ 。 収 穫 ぱ 遅 れ,い1837年 か ら句 在 庫 は 不 足し て き/だ。 丁 月よ以降小麦 価 格 は 上 昇 し, 白7丹20 甘 め 価 格 が右8シV 。ン グ含 ぺ^ ニスで あ ふた1836年から1838年における自由貿易運動 149 も のが ,8 月24 日に は77 シ リン グに , そし て そ の 後 数 週 間 は15 シ リン グ以 上 下 降 し た が , そ れ も一 時 的 下 落 に 過ぎ ず9 月15 日 に は73 シ リン グに 達 ごし た 。 そ し て 関 税 が1 シ リン グに 引 き 下 げ丿ら れ , こ の名 目関 税 で保 税 倉 庫 か ら 約1,500,000 ク ォー タ ーの 小 麦 が 匿 内 市 場 に 導 入 さ れ た の で あ る。 こ の巨 大 な小 麦 量 は 市 場 相 場 を9 月21 旺に は61 シ リン ダ10 ペ ン スに 下 落 さ せ , 関 税 も22 シ リン ダ8 ペ ン スに 引 き上 げ ら れ た 。 こ の間 議 会 に 於 て も反 穀 物 法 運 動 を 発 展 さ せ る絶 好 の 機 会 であ っ た が ,3 月16 日 にC. Pelliam Villiers に よっ て1828 年 のSliding Scale 法 の効 果 を 考 察す る動 議 が 下 院 に 提 出 さ れ た に 過 ぎ ず , ほ と ん ど運 動 ら し き も のは 展 開 さ れ な か っ た 。 彼 の 動 議 は 穀 物 法 の 廃 止 では な く, Sliding Scale の再 検討 を 求 め で二に 過 ぎ ず, 論 述 過 程 の 中 でWilliam Clay に 非 難 さ れ た 。「 救 貧 法 に 対 し190,000 人 が 反 対 し てい る よ うに, 24,000 人 以 上 が 穀 物 法 の 廃 止を 請 願 し て い る。」 とい うClay の問 に 対し , 彼 ぱ 「 人 々は 穀 物法 廃 止 の 請 願を 行 な お な い 。 な ぜ な ら 彼 ら は そ の よ うな 行 動 が 無 益 であ る こ とを 悟 っ てい る か ら であ るo 」 と不 明 瞭 な 答 弁 を し た 。 ほ と ん ど議 会 の審 問を 受 け る,こ とな ぐ 反 対300, 賛 成95 で 否 決 吝れ。てし ま っ た14)。 注
7)Thomas Tooke , A‥History of Price, and of the State of the Circulation, from 1798 to 1856 ・
藤塚知義訳『物 価史』第2 巻,東 洋経済新報社,昭和55 年。S
)Leone Levi, History of British Commerce and of the Economic Prog' ress of the British Nation 1763 −1870, 1872, p. 492.9
) か れらに加えて64 名。 計74 名や 委員に より組織さ れ た。全 メヅ バーの氏名は, Archibald Prentice, History of the Anti-Corn-Law League, 1968, pp.49 −50 ,参照のこと。
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1 1 1 1
拙 稿 「 イ ギ リ ス 穀 物 法 反 対 運 動 前 史 」 経 営 論 集 , 第19 号, 1982年, 47頁 。 John Motley, The IMe of Richard Cohden, 1903, p. 143. Archibald Prentice, op.cit.,
p. 54. し か し9 月 に 外 国 産 輸 入 小 麦 の 比 較 的 わ ず か な 量 一 約150,000 ク ォー タ ー − が 保 税 倉 庫 か ら 国 内 消 費 む け に 放 出 さ れ た 。 注 目 ざ れ る べ ぎ こ と は , こ の外 国 産 小 麦 の普m が 収 穫 の 大 部 分 の 取 入 れ が 終 わ る4 で はノ起こ ら な か っ た こ と/で あ:る。。/し た が っ て 最 終 の:収 穫 の作 高が , つ ぎ の 収 穫 期 ま で の小 麦 の 需 要 を ま か,な う の に 十 分 で な い こ と に な り そ う,だ と わ かっ た か
ぎりにおい て以外には,外国産小麦 の放出が求められた ことはな かった 。(Tho- mas Tooke, 藤塚知義訳,前 掲書 ,243頁。)
すなわちこの ような放出は国内産の小 麦在庫不足を補充する 目的 で行なわれた のではな く,保 税倉 庫から の放出関 税が引き上げら れるとい うニ ュースが流れた た めに投 機的性格を もって国内市場に出された のである。14
)Henry Ashworth, Recollection of Richard Cohden and Anti Corn £α『 League, 1876, p, 21. 3. Manchester 反 穀物 法協 会の結成 1836 年 から1838 年におい て 特徴的 に みられ た現象は, 農業不 況に よる不十 分な 収穫 とそ れにづ づい た小 麦の高 価格,そし て商工 業 の不 振 であ った。 穀 物法に 対し 比較 的無 関心 の年 が続いた 結果, 地方的 な散発 的な 反穀 物法 運動 は生じ た が, 組織 的運動 が みられ なか ったために 穀物法に変 化 は見 ら れなか うた。 。’ この時 期は廃 止運動 が弱 か ったにもか かわら ず, 次 の4 点を 明確に 指摘す るこ とができ るであ ろ う。 \ まず 第1 に, 1828年 のSliding Scale 法 は1815 年 の穀 物 法 より一歩 自由貿 易 の方 向に進 んだ ものであ った が,穀 物輸 入業 者が 自分達 に とって 最 も有利 な状況 の もとで穀物を 輸入す る ことが でき, かつ 価格を ご まかす こ とができ た。 第2 に, 1833年 の特 別委員 会 の報告は, 農業 労働者は 小麦 価 格が高 かった 時 よ りも低 かっ た時 の方が一 層裕 福であ った とい う報告をし てお り, これは 労働者 の反 乱に よ り証 明さ れてい る。 第3 に, 1836年 の委 員会 とFit 乞williamの証言はtenant 達は 彼ら が 支 払 うべき地代以 上 の高い地 代を 支 払 っ て お り, この地代 は1828 年 のSliding^Scale 法を 基準にし て決 めら れてい る とい うこ とを 明らか にし てい る。 第4 に, 1834年 の 救貧法 ,十 分 の一 税,道 路税 制, 州税 は農業 に対 す る税 負担を援 助し てい る15)。 かくし て1838 年3 月 √商人 と製 造業 者の会合 がManchester で開 かれ,穀 物法 廃止をい かに 運動し て 獲得す る かが検討 された。 これ がき っかけ とな っ
て(The Liberal Press よ\も,これら の運動を 助け るために よ り幅の広い活動
た 。
1836年か ら1838年 に おけ る 自由貿易 運動 151
Arcliibald Prentice一 急進 党 新聞“The Manchester Times ” の編集 者。 William Weir ― “The Glasgow Argus ”つの編集 者 で,後に“The DailyNews
”の編集者に な り, 7月, 8月,9 月と積極的 に活動 をし ,Manche-ster Anti Corn Law Association の成立 に指 導的地 位を 占め た。 十 Colonel
T 、P. Thompson ― 『穀 物法問 答』(1827年)の著者 でHuskisson 等 の自 由貿 易運動 者 に 影 響 を 与 え , そ の 著書ぱManchester Anti CornLaw League
” 設 立時 の指導 書 であ った。 Ebenezer Elliott
− 『穀物 法詩』(1831∼41 年)の著 者。 Thompson と共に
民衆 教育面 で活躍。 \ Richard Cobden
― 反穀物 法運 動の 中 で最も重 要 な人 物 の1 人 で あ り, “Manchester Anti Corn Law Association ” の 結成 時に は 名前 は 見ら れな
かった が, まもなく‥加盟し た。 ニ レ ニ
1838年6 月にな ると穀物法に反対する運動はかなり活発化し,講演会が開
かれ, 若い薬学生のDr. Birnieや後に廃止運動の中で大きな力を発揮したAbraham Walter Paulton らがBolton 劇場などで演説を行ならていた。出
席者も多く,評判も良かった。8 月に小麦価格が77 シ リン グに達し た時,つ
いにLancashire とYorkshire で真剣な運動が始まりレ9 月にFrancis Place はChartistの友人に次のように手紙に書いてい る。
「あなたが当地にきて以来,私かあったところの誰 もが穀物法り 廃止 に 賛 成してい るJ 彼らは,作物は不十分で,パンが高いので,活発な行動を開始
するには丁度よい時期だと主張し てい る。」16) ト
そし て1838年1 月10日にManchester 急進党 の特別小集 会 がYork Hotel
にて開催され, Dr. JoTan Bouring が LiverpoolからBlackburn へ行く途中Manchester
を通るのでそこで講演をすることとなった。 彼はヨーロヅパ諸
国との自由通商を促進す ることに大いに努力し,最近商業使節団員 としてド イツから戻ったばかりの熱心な自由貿易論者であった。この講演会は目立っ たものではなく,議長をA. Prentice, 副議長をPhilip Thomson が務めた。 約60名の参加者に講演し た内容は次のようで,完全に 自由貿易主義を主張し
だ もの であ った。
穀 物法jに よ りj創フり咄 さ れた人間:・の不幸 の量を, また そ れに よっ∧て 打ち こわ
さ れた人 間 の満足量を 見 積 るこ とは不可 能万であ る。世 界 中 の どこで も, 私は
悪 疫 流行地を見 た。 数年前 私は 自由貿易 の利 益にFrance を 導 ぐた め派遣 さ
れ た(我が政府は時 々立派な運動の仕事に従事する)。 そし て 刺 激が非常に 強 かっ
た0 ・で, もし 商業 規則 が修 正 されなyかった なら, 南France は 北France を
分離 す る と威赫 し た。 それは多 少修正さ れた。 そし て修 正の結 果France の 輸 出は3 倍に な った のを 見た( 大歓呼)。し かしNormandy とBrittanny に 入 り 九時, Norman やBritans は何 と言っ たか:? もち ろ ん彼らは 言 った, 「 我 々の穀物を 認 め よ。 そし てし か る後に我 々は誰 がFrance へ のあな た方 の製 造品 の・輸 入を妨げ るこ とが でき るのかjど うかわ=か るだ ろ う。」(歓呼)。彼 らは 言った ,「 我 々の中には あ なた方が 我 々に送 って く れる衣 服を我 々自身 着 るこ とを 望 んでい る者が多 数存 在し , そし てあな た方 の中には我 々の穀 物 を 欲し てい る空 腹な者 が多 数存在し てい る。前述 の言葉 は貿 易に おい て全て の 雨にあてjは まる。我 々は イギ リス製造業品 に課 す る関 税 の増加に 同意し た 小German 国家 に よ り課 せられた 弊害につ いて 語 る十 分 な理 由が あ る。 彼 ら:は もっそ も有害 な 言葉 であ る「 互恵 主義」 を ロに す るあ る高貴 な紳士 の助 言に 従 づてい た 。買 う人は なぜ互恵主 義を 売 るのだろ う。 そし て売 る人 は 互 恵主 義を 買 うのか。 そし て もし あ る政 府が破 壊的 政府 とな り, そし て国 と国 の通商にお い て「互恵主 義 」万を 倒す勇気 を 持った なら, 不 正手 段 で勝 と うと す るであろ う。 諸君 の代表 者 であ る正し い 高貴 な私の 友 人 が高 く立 派 な使命 を 尊重 す るこ とを 私は 希望す るぺ歓呼)。 そし て彼 はあ た か も政府 が商人にい かに貿 易をす るかそし て製造業 者 がいかに 仕事を す るか を 教え てい る全 ての 規則を 法令 全 書 から抹 消す るであろ う=・こ とを 望 み ます。 紳士 諸 君,Prussia は 何を語 うた でし ょ うか ? 疑い なくPrussia の,目的 は 商業 より政治 であ っ
た。 なぜ ならPrussia は力=Iで獲 得し た非常 に多 くの小 国iを 支配し た 。そし て
小S の政治に干 渉し ながら, 彼ら の商 業利 益に影 響を 及 ぼし た 。,私はPrus-sia
が大 きな ミスをし た と信じ てい る。理 由はPrussia は 小 国を 打 倒 す る 十 分な力を% う てい ず, そし て 小国はPrussia がはか らず も早 くに一 緒に 結 ん だ所 の「つ え の 束」=であ り, 彼らはPrussia {-こ条件を 指示 す るこ とが できた。
1836年からl838年における自由貿易運動 163 し かしPrussia 連邦 はい う,「我 到 来あな た方 の製 造業 品 の輸 入に対し て 法 律を制定 す るこ とを望 ん でい ない一 我 々の穀物 や木 材を買 い なさいI そ う すれ ば我万々は あ な た方 の製造業 品を具 うだ:ろ ヶ。」 そ七 て多 くの人が 私に 言 ‰ 「我 々はあ なた方 の法 令を 転換 させ る た め の1 つの手 段 とし てこの連邦 を維 持す る(そのとおり)l。もし 私に でき るなら,あ るい はPrussia 大臣に いか な る影響力を もノも づてい るなら , 私は言 う,「England から 商品 を買 いなさ い , そ うす れば 疑い もな く英 国人ぱ 自分 達に とって適 当,な良い 価 格をつけ る だろ う。な ぜ なち 私は もし 価値 回収 が出来 な い なら , 我 が商 人 は 商品 を長 期 間販売 す る とは 思わ な い。JIIそし て私は全 て の国の法 令 改定 の方 法が諸 君の 法令 を改 定 す ることを信じ∧る。諸君 が望 む ものを許可 し , 希望 す るものを安 い 条件 で買 い なさい。 これら,穀 物法の存 在の結 果, 今 や 重大 な事 態が生じ た 。 誰 も農業 から 引上げ ら れた資本 量 を見 積るこ と は でき ない 。理 由は,我 々の 商品 を買 う他 国か ら我。々・が商品 を買 わない結 果, 製 造業 に対し て適用さこれ る から であ る。 他 日Danube を下 りなが ら■■, 高貴 なHungarian は 私に 次の よ うに 話し た 。我 々はEnglish 市場 のために 穀 物生 産 の 考え を 全 ぐやめた,そ し て我 々は 我が 資本 を製 造業に 転じ た, 我が穀 物を我:々が販 売 出来 ない よう に(そのとおり)。 そ の:国 には 豊富 な穀物か あった。 し かし 人 々が使 用し うる。 に十 分な 衣服 はなか った, そし て そ れ だ か らAustrian 政 府は貿 易を奨励 し, English 製造業 を阻 害し , そし て彼ら右 身 の製 造業 を奨 励し た(そうだそ うだ)。そし て これは穀 物 法が あら砂 る分野 に もたらし た状 況 であ る:(そうだ, そうだ)。 私は それが い われてい るのを聞い た。そし て外 国 穀物 の輸 入は低賃 金を 避け るこ とが できない 方法こであゐ・迪 いう こ乏 が 労 働者に あ る影 響を与え てい るよ うに 思え る=。 私は 言 う, もし賃 金を 上昇さこせ る どん な確 か な方法が あ るとし ても, それは外 国穀 物 の承認に よるもの であ る(歓呼)こ=。 穀 物法を取 消 す聡 明さを持 った2: つの 国は どこだ ろ うマ それら はHollamd とSwitzer-land だ:。 そ こ では賃 金はEurope ニ0い か かる,国 よ りも 高い(そう だ,。そう だ)。 そし てそれは 不変の 実例 である 。 労働に対し多 く/の需 要 が必要 とされ る所 で は賃金偉 ほ と んど常 に上 昇し , そし て労働 に対 す る需 要は 常 に,穀 物におけ る外 国競争 の導 入 で導か れ る。Switzefland 。は2 世代 前,丿6 ∼8 年 毎に生じ る大人 口回集 団万の移住 で, そし て飢 餓 のこ限 界を 人 口が弱 めて い る とい う=ことで 極端な悲惨 さ と貧困 の状態 にあ るとヤ うぃことは真実 で あ る。 未開拓 の荒れ た
山 々から なる大変 小さ な国 で, そし て人 々は悲し い 無知 の状 態の中にい る。 そ こで何 が生じ たか ? 人 々は より多 くの政 治的思 想を 得,そし て政 治的知 識 の獲得に それらを 応用し た。そ の政 治的知 識 は彼ら に合理的 商 業法令を与 え , そし て今やSwitzerland の賃金 水準 となっ てい る。 商 品 価格に関し て は, ここ では 賃金水準 よ りも30 ∼40 % 高い(そのとおり)。 私はSwitzerland でい くつ もの職 人 の例を 見 た そ こでは 自由貿易 が一 般的に 採 り入れら て い る結果日用品(商品)は一般に安い。 一 手工業は1 月10∼14シ リン グを得 七い る(歓呼)。 Holland はWellington 卿が上院 で穀物法に反対し て語った ように,食料の供給を外国に依存す るとtヽう屈辱性を減らし うる1 つの国。Holland は全ての国に依存してい る。 Holland はいつから不足したので あろ うか ? 私はあえて言 う。かつていかかる国の穀物倉庫も十分いっぱい だったとい うことはなかった。そこでは誰 もが賃金水準を知っている。なぜ なら彼らはあら ゆるわずかな価格の変動をしっており,一塊のパソが彼らに そし て彼らの家族にどれほど費用として負担 となるであろ うかを見積ること ができるからである。し かし 今や,穀物法がおおいかぶさろうとし てい る時 にー なぜなら私は世論 の中で彼らは立上ることができ るとは信じていない ので一 我 々は,もし 穀物法が全く存在し なければ,我 々が得たであろ う貿 易利益の1/20をも得ないだろ うとい うこ とがわかる。私の信念はもしこの国 が外国から小麦を100万あるいは200万 ク ォーターを 輸入したならレ 消費はそ の範囲に増大するだろう。なぜなら穀価の低いそし て貿 易が健康的で繁栄的 である所でのいかなる消費増大も驚異である。 1/5だけ 消費が増大し た地方 はたくさんある。し かし200 万 クォーターの増大をするのは1/10 であり,そ して穀物の200万 クォーターの導入は,支払のために400 ∼500 万 の製造品の 輸出が必要であ/る。私の友人( 議長であるが)はEgypt に生じたいくつかの実 状を引合に出し た。それは問題を再び言及する た め の 自分自身の復唱であ る。し かし事実は大変おもし ろい ので再び言及するために弁解せねばならな いO Egypt あな た方に よく知 られ てい るが 3,000 がら4,000 年の間 世 界の穀倉地帯だった。 イスラエ ル民族 の祖先の時において世界の穀倉地帯だ った。・そしてPliaroah の時代から今日まで穀倉地帯だった。その人 にlが7∼800 万だった時でさえも自身の消費のために十分であったばかりでなく, モ の余剰生産物は地中海を通ってあらゆる地域に散らばり,そし てそれらの過
1836年から1838年における自由貿易運動 155
剰 供 給 食 料 はEgypt の人 口以 上 だ っ た 。 Pasha (Turk の文武 高官の尊称) とい う男 は 大 変 な イン テ リ で 目立 ち, 議 論 す る 能 力 が あ り , そし てTurk で か つ て 会 っ た 中 で誰 よ り も す ぐれ て お り, 国 家 利 益 の た め に 活 動し , 生 産 的 国 家 は外 国 穀 物 を 決し て望 まな い とい う信 念 の も と で 穀 物 の 輸 入 に 反 対 し , 重 税 を 課し てい た 。 そし て ど こ に で も 起 る よ うに 次 の こ と が 起 っ た 。 い か な る生 産 へ の妨 害 も生 産 を 苦 境 に 陥 ら せ る。 そ し て 資 本 は , そ れ 自身 各 妨 害 に よっ て苦 境 に 陥 り , 他 の 部 門 に 適 用 さ れ る 。 そし て 私 がEgypt に い た 時 , 人 々 は 絶 対 的 に 飢 饉に お ど さ れ た 。 そし てCairo で穀 物 は ど うし て も 手 に 入 れ る こ とは で き ず, Pasha の 専 制 的 命 令 で さ え もほ と ん ど 手 に 入 ら な か っ た 。 私 はPasha に モ の 問 題 を 話 し た , そ し て 彼 に 言 っ た 。 彼 の 側 近 ら に よ っ て ま ど わ さ れ た , そ し て 他 の 君 主 の よ う に 単 な る お べ う か 使 い に 囲 ま れ て い た。 彼 らは 彼 に 本 当 め と と よ り も うそ を 話 し た。 私 は 彼 に 国 は 全 く 飢 え に お どさ れ てお り, そし て もし 現 存 制 度 を 続 け た な ら , 彼 は お そ ら く反 乱 め 状 態 の巾 で 彼 の軍 隊 を 見 る だ ろ う。 な ぜ な ら , そ れはEngland 同 様Africa で も本 当 の こ と で あ っ た か ら だ , 反 乱 は そ れ ほ ど恐 ろし く は な か っ た と言 っ た 。 彼は そ し てChandos ス タ イ ル で 大 変 勇 まし く 戦 っ た 後 あ き ら め て 穀 物 を 輸 入 さ せ る こ とが よ り良 い 方 法だ と思 わ れ る と 言 っ た 。 そ し て ど んな 時 で も い か な る 関税 なし に 港 の外 に 出 せ るこ とが よ り良 い と思 わ れ る と 言 っ た 。 私 は 彼 に 確 か め る た め ま も な く 有 利 な 結 果 に な る こ と が わ か るだ ろ う, と言 っ た。 私ぽ そ の よ うに 言 う理 由 があ っ た , な ぜ な ら そ れ は 当 時180 ゼ ア ス タ ー(Egypt 貨幣)だ っ た 。 し かし こ のあ どそ れ は70 ピ ア ス タ ーに 下 が っ た 。 そ れ 以 後 穀 物 は 自 由 に 出 入 りし た , そ し て 私 は 穀 物 の輸 入 に か わ っ て 輸 出 す るEgypt を 去 った 。 そし て 私 は 妨 害 行 為 は 再 び 続 け ら れ な い と 信 じ, Egypt は 以 前 そ う であ っ た よ うな 豊 か な 国 に な る であ ろ うこ と を 疑 わ な い( 歓呼)17)。
こ の他Colonel p. Thompson とA. Prenticeが演 説 を行 なっ た。こ の集会 から反穀 物 法協 会が出発し ,一 連 の反穀物 法運 動 か展 開さ れ 同盟 へと発展し
て行 くの であ ら だ。す なわち この集 会 で反 穀物 法 協会 はManchester で組織
す るこ とを 決議し た のであ った。 そし て小麦 価 格は1838 年9 月15 日再び高騰 し73 シ リン ダに達し,150 万 ク ォー ターの小麦 が ク万オーダ ー当 り1 シ リン グ0 一 名目関税 で市 場に 出さ れたに もかか わらず, 価格は 上 昇を 続け た。 穀物不足
が価格の暴騰を引起してい るのであるが,こ れらの現象が=やがてManchester
での反穀物法協会の結成に導1いた。
注
15)D.G.Barnes, A History of the English Corn Laws from 1660 ―1864, 1961, p. 235.16
)Norman Mccord, The Anti-Corn Law League 1838 −1846, 1968, p. 34.17
)Archibald Prentice:, History of the Anti-Corn Law League, 1968。pp. 65-69. 。 4. 結 ぴ 1838 年第1 回の会合か9 丹24日=:, 同じYork Hotel で開かれたか,出席 者 はわずか下記の7 名であっだ'^K Edward Baxter, Andrew Dalziel, Archibald Prentice, Philip Thomson.
W.A. Cumning μain。James Howie,
James Leslie,
し かし 閉会 まぎわにWilliam Rawson がLiverpool から 会に参 加す るた
めか けっけ ,協会 の 目的につ い て 会員七討 論をし てい る。 なお 彼ぱ 後 に「 反 穀 物 法伺 盟」 の 収入役に就 任し た のである。当 時 この 会に参 加し た人 達 の名, 前 はManchester 外 部では ほ とん ど知 ら れてい=なか った の=であ るが「Anglo-Saxon 民 族を 特徴づけ る雄 々し い 決 定に よ りj 合 法的 手段 であ ら ゆる独占を 打 倒し , 騒動 や 流血 の惨 事を 起さ ず, 世論 の力だけ で, 深遠な 革命を 成功さ せ る。」19)こ とを 決議:L, 外 部々こ向廿 て運動を展 開し て 行 くので あ ゴ だQ。ま た年会 費 も5・マ ジッ クの少 額に 決定 され。 社 会の どの階 級の誰 もが参 加し や すい よ うにし た。,か くし て9 月 排 日 の集 会に つ:づこい て「 反穀 物法 協会」=はManehester 犬で結成 され る べき であ るこ とが決議 さ:れ, ここに「Manchester 反穀 物法 協会」 は成立し た。, ト 第2 回 目の会 合が1 週 間後 の 月曜 日に に開 催。され 次の7 名石 出席し た20)。
W.A. Cunningham,James Howie,Archibald Prentice,Philip Thomson. 1836年 からl838年に おけ る自由貿易 運動 157Andrew Dalziel,James Leslie, William Rawson, 前回 の会合以来, 約50 名 の加 入者 がみら れ 出席者は 大 きな 目的を 達成す る まで,まだ 微弱 なこ の会 は消滅七 な いこ とを=確 信し た。Prentice は編集長を
務めてい る新 聞“Manchester Times ” の10 月6 日号に ,「 穀物法 問題に関しManchester
の鴇 人 ・製 造業 者は無関 心 で あ るとこい う考えは 彼ら の思 想表 現 の組織 が存在し なかっ たことから生 じ てい る。彼ら は 商業 会議所 が活 動を 開 始す るこ とを期待し てい たが,:会議 所 は7 年 間に1 通 の請願 書で満足し, そ の後7 年 間は眠 りに 陥っ てい る よう に感じ てい るo 新回し い協 会の必要 性が多 数の最も有力 な自由貿易 論者を 参加 させ , 木曜 冊 の集 会 では100 人近 ぐが会 員とし て 入会し た ことを うれし く思 ってい る。来 週木 曜 日の会合 ではそ の会 員数 と地方的 勢力 で直ち に強力な 協 会に すべ く各既会 員がそ れぞ れ6 名の会 員名簿 を持 参す ることこを信じ てい る。」21)と書 い てい いる。10月13旧 の同新 聞に は次 のような臨 時委員 会 の メン バ ーが 広告さ れ, 翌週31 名が追 加さ れ た22)。 ANTI-CORN-LAW ASSOCIATION. PROVISIONAL COMMITTEE.
Elkanah Armitage, Cromford Court.John Bright,
Rochdale.Robert Bunting, Ardwick Green.James
Chapman, York-street.w. こRレCallender, Mosley-street.J £.Dyer, Burnage.Walter Clarke,
Duke-street.John Dracup, Chapel-street, Salford,Peter Eckersley, St. Mary's Gate.J.G.
Frost, Water-street.George Hadfield, Fountain-Street.Thomas Harbottle, Norfolk-Street.Andrew Hall,
Brown-street 。 /
JasレHampson, Great Ancoats-street .Thomas Hopkins, Broughton Lane.James
Howie, King-street.Wm. Harvey, New Cannon-Street ・Alexander
Henry, Portland-street.James Kershaw ,High-street.Thomas Lockett
/Richmond Hill.Thos.
Mollineu!χ,AnGoats スCresGent.James Murray, Ancoats Hall ・Robert Nicholson, Market-street.Aaron
Nodal, Dbwning-street.
Robert Philips, jun., Church^Street.Thomas Potter, GeoEge 唱treet.
Ducie Place.
S.P. Robinson, Tipping's Court.Jonathan Rawson, Cromford Court.w. Rawson, New Brown-Street.Absalom
Watkin, High-street.George Wilson, Shudehill.
Henry Wilson, Walton's Buildings. Richard Wilson, Market Place. C.J.S. Walker, Longford.T.H.
Williams, Greenheys.Henry Wadkin, SHort,street.
John Benjamin Smith Treasurer.
臨時委員会の追加メン バー
James Ashworth, High-street.
Andrew Bannerman, Market-street.Jno. Brewer,
Newmarket Buildings,Matthew Binns, Cannon-Street.Tames Carlton, New High-street.Richard Cobden, Mosley-street
・Edmund Dodgshon, York-Street,
Cheetham.
Edward Evans, Market-street, (Nicholson and Evans.)
John Henry Fuller, 24, Bridgewater Place.Jeremiah Garnett, Guardian office, Market-Street.J.S
, Grafton, Mosley-street.Edward Hall New Brown-Street.Joseph Heron, Princess-Street.James Hudson.John Hyde, Oxford Road. William Lockett, Ricliraond-street.
William Labrey, Market Place.
John Mallon, Oldham-street.Henry Marsland, Fountain-Street.William Neild, Friday-street.John Nay
lor. Piccadilly.John Ogden,
Marsden-street.John Shuttleworth, New Market Buildings.Robert Stuart, Pall Mall.Charles Tysoe
, New Cannon-street.John Edward Taylor, Market-street.John Whitlow, Market Place.John Wilkinson,
Shakspere-street, Ardwick.
■ Wliitehouse, Fountain-street.Samuel Watts, New Brown-Street.Willian Woodcock, 26, Pall Mall.
そ の後 会員 の増 大につ れて協 会 の 目的を 明確 にし , 組織化 す るため1839 年1 月28 日, Newall's Buildings でJ.B.Smitli を議長 とす る会合を 開き,11 ヵ条から な る決議 を採択し , そ の第1 条におい て, 本協 会 ぱManchester 反穀物 法協 会 ”と呼 ぶ, と宣言し た。
(1983年2 月21日)
j
注18
1836 年 か ら1838 年 に お け る 自 由 貿 易 運 動 159
19)D.G. Barnes, A History of the English Corn Lavas from 1660-1864, 1961, p. 240.20
)Archibald Prentice, 砂。臨。p.72.
なおこれまでのメンバーの中に,かの有名なRichard Cobden, John Bright の名前は見えたい。Cobden は外国におり, Brightは初年度は活動的役割を演 じていなかった。
270
翻 Ibid, ,pp, 72-73.Ihid.,