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1 号 7 第 要滋大紀
近江盆地周縁山村の研究
丹生谷の場合
小 牧 実宮 畑 巳 年 生
166 卜◎咬君畠同。鳩導。寓。嵩罧巴鵠く一=僧磯窃鋒婁oZ自尽。協Oヨ=W器貯 同嵩齢,oq冒冒。り一︶誌㌶陣90協酔ぽ。目拶開舞。匡開貯①犀一 留昌霧崔αqo国。≡”臨 冒ぎ①o竃貯帥ぎ暫雷まえがき
“ 近江盆地外廓をかたちづくる山村地域の研究を研究室共同のテーマに 選んでから四年目になる。今年は対象地域をこれまでの盆地東部の鈴鹿 山中から湖北の山村に移した。我々はこれまで昭和三二年七月二六一二 九日、八月一六一一八日、九月一七⋮一八日の三回にわたって調査した が、問題は今後の調査に多く残されている。ここでは不十分乍らとりあ えず、現在までの調査の一部をとりまとめて中間報告としたい。 課査に当っては余呉村長谷口甚市氏、同役場の前田達長氏、加茂源三 郎氏、西山氏、森林組合の丹生氏、県技手国友氏、丹生小学校長細川準 三氏、橋詰儀三郎氏、今井己一氏、北部農協組合長阪田繁次氏、尾羽梨 区長久保吉男氏嵐窓区長諸氏その他の方々から種々御配慮御援助をいた だいた。記して厚く感謝の意を表する。 尚、本研究には昭和三二年度交部省科学研究費の補助をうけた。この 点について関係各位に深く感謝の意を表する次第である。︵小牧記︶ 一、T
観 滋賀県東北隅伊香郡の大部分は越前美濃山地につづく準平原化された 山地帯で主に古生層の岩石から成るが、南北に平行して走る少くとも四 つの断層によって五つの地塊山地に分断され、それちは東高西低の形を とって階段状にならぶ。その高度は東部では一〇〇〇メートルを越える が、西部ではせいぜい四〇〇メートル程度にしか達しない。いうまでも なく琵琶湖生成のさい地塊に分れて陥没をみたものであるが、湖の南北 軸中心部に近いほどその度合が大であったためである。これらの地塊は 地形図にも明瞭に認められる。郡内の主な河川はその間を分つ断層に沿 うて流れるがその中最も長大なのは高幸川である。 ︵五万分の一地形図近江盆地周縁山村の研究 丹生谷の場合 (小牧・宮畑)
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琵琶
草津 睾 (町村合併前) 図 略査地域
調第1図
敦賀、横、山、今庄、冠山図 幅参照︶ 盛時川は滋賀県北端、近 江と越前の国境に位置する 北国街道の峠として、早く から著名の栃木峠近くに源 を発する。近畿、東海と北陸 をつなぐ幹線路として昔栄 えていたこの北国街道は栃 木峠−中河内−柳瀬−椿坂 一中郷一木之本をつらねる 柳瀬断層谷を利用して開か れたものである。高時川の 上流も先ずこの谷を流れる が、中河内からは東西方向 の別の断層方向に従って流 路を東南東に変え、犀川付 近からは柳瀬断層とほぼ平 行する断層に沿うて南流、 途中いくつかの支流を合せ て東浅井郡に入り、下流部 は姉川と合流して琵琶湖に 注ぐ。流路四四キロ、その 上中流部は一〇〇〇メート ル前後の山地斜面を刻み、 いちじるしい穿入蛇行の形 を示している。東部には安 蔵山︵九〇〇・一メートル︶9 5 7 1 号 7 第 要 紀
滋大
164 横山嶽︵一一三一・七メートル︶さらにその背後には福井・岐阜との県境 の上谷山︵一一九六・七メートル︶三国力岳︵一一九六・八メートル︶土蔵 岳︵一〇〇ニメートル︶などが南北にならぶ。それらはほぼ同等の高さで いずれも山頂部に平坦面を存して、準平原化された地形の特色を示す。 西部には柳瀬断層谷との間に大黒山︵八九一・五メートル︶と七七頭ケ岳 ︵六九三・ニメートル︶で代表される大黒山地塊がある。同じ準平原地形 であり乍ら東部の山地に比べて低いのはこの地塊の沈降の結果である。 調査の対象としたのはこのような山地にかこまれ丹生谷とよばれる高 時川上流域、昭和二九年旧余呉立並びに向陵岡村と合併して余呉村を形 成するまでの旧丹生村、かつては丹生郷とよばれていた地域である。村 の人口密度一方キロ︸八人という数字が端的に示しているように、ここ はほとんど山地の村で、居住地域としてえらばれているのは川沿いのわ ずかぽかりの平坦地である。 丹生村は上流から下流に、針川、尾羽梨、鷲見、田戸、奥川並、小 原、菅並、摺墨、上丹生、下丹生の一〇の集落から成っている。村民が ムラというとき現代の行政村をさすよりも、自分達が生れ、現在も生活 している自然村をさすことが多いが、ここではこのような村民の意識に 第一義的なムラを部落とよんでおく。 上流の針川、尾羽梨、鷲見、田戸はいずれも麦流との合流点に当る。 鷲見は前川とよぶ支流の作る埋積重にこの川をはさんで位置するが、他 は本流沿いの小段丘に居住地がある。小原の集落位置は山地の緩斜面を 利用している。田戸から奥川並川に沿うて東に遡るとその中流にはこれ に流入する谷川末端の小扇状地に奥川並の部落が立地する。 これら上流部の部落はいずれも小さい。最大の奥川並でも二六戸、鷲 見の二二戸がこれにつぎ、小原の一〇戸を最少として田戸、尾羽梨、蛭川 が各々一四、=二、一二戸となっている。谷深く、いわゆる伊香式入母屋 妻入のカヤブキの家々が一塊りになって並ぶ。傾斜の急な屋根とあるか ないかのピサシ、いかにも素朴な構えである。家屋の屋根にはコバぶき のものもあるが、瓦ぶきはない。すべて雪国特有の景観である。村民の 用語に従えば、小原以北のこれらの部落の総称はオクである。①その語に ふさわしくまだいずれも無電灯で夜のことにわびしいムラムラである。 オクに対して菅並以南はシモという。 このシモになると菅並、上丹 生、下丹生いずれもかなり広い埋積谷が開け、ことに上丹生から下丹生 にかけては南北一キロ、東西三〇〇1五〇〇キロの盆地をなす。集落も 大きくなり、菅並八二戸、上丹生一四三戸、下丹生四三戸をかぞえる。 上丹生で合流する摺墨川を遡ると、明治=︸年上丹生から分村した戸数 二二戸の摺墨がある。シモでは同じ伊香式の住居もオクに比べて大きく なり、又平入の家も少くない。ヒサシもその存在が明らかとなる。新し い家には瓦屋根が多いのもオクとの相違である。 しかしシモ、オクを通じてこれらの部落は隣の部落まで近くても一キ ロ、遠ければ四・三キロを距てる。最も下流の下丹生から最も上流の鵡 川まで一五キ冒の道のりがある。集落高距についていえば、この間下丹 生の一八○メートルが直川では三二〇メートルとなる。 この一〇部落に小学校が本校分校合せて五校もある。部落が孤立して 互に遠く児童の通学が困難なためである。この部落の孤立性はその気候 的条件によっていっそう強められる。この地域は裏日本式気候に属し て、年降水量は二六〇〇ミリ以上に及び、ことに秋から冬にかけての降水 量が多い。一〇月日本海をこえて北西季節風が吹きはじめると、時雨が 間断なく降る。ことにオクに甚しく一一月に晴天を二、三日しか数えら れぬ年が多いという。一一月終りか一二月はじめには時雨が雪に変る。 オクでは降雪一〇〇日にも及び、丈余の深雪も稀ではなく、北陸深雪地 帯の一部を形成する。傾斜の急な山麓の道は全く雪に没し、アワや雪崩 による危険も多くて、車はもちろん徒歩による交通も杜絶しがちであ る②。従ってここでは一月から三月まで雪の中の生活を余儀なくされ、 冬眠のような毎日が続く。小学校はさらにふえ、鷲見に冬季のみの分校 が開かれる。近江盆地周縁山村の研究 丹生谷の場合 (小牧・宮畑) 部落民が閉鎖的で部落毎の独立意識をもち、ややもすれば排他的にな り易いといわれるのは、幕政時代以来の伝統を今に伝えるためであろう が、このような地理的条件によってうける生活上の制約も無視出来ない であろう。 二、交 通 路③ 丹生谷に入るには高時川沿いの道もあるが、北国街道の中之郷から東 西に走る断層に沿って開かれた道が、早くから最もよく利用されている。 この道は下丹生に入り、ここから川に沿う道となる。米原・敦賀間に北 陸線が開通したのは明治一五年である。丹生谷の入口下丹生からわずか 二・八キロの中之郷にも駅が設けられ、谷の人々もいち早く近代交通機 関の恩恵に浴することが出来た。 しかし丹生谷内部の交通路はなおしばらく明治以前と相去ること遠く ない状態をとどめた。 もともと湖北は琵琶湖水運に支えられて、古来近畿、東海と北陸を結 ぶ要地に当っていたが、伊香郡のみでなく湖北全般に多い南北の断層谷 の多くは中世から近世にかけて重要な交通路として盛んに利用されてい た④。 柳瀬断層を通ずる北国街道もその一つに外ならないが、之に平行する 路線であるにもかかわらず丹生谷はほとんど交通上に大した意義をもつ ことなく終った⑤。それには種々な理由があるが、最大の理由は、外の 谷の場合とちがい、ここは急傾斜の谷が蛇行して深く連なり、その若い 谷樋に前近代的な技術を以って道路を建設するのは、不可能に近かった ためであろう。 それ故明治初年道らしい道があったのは中之郷−下丹生−上丹生の二 四キロ、谷の入口に近い部分だけであった。ここから上流は西岸山腹に そう山道があるばかりで、牛馬の往来も困難であった。上丹生から無暗 一小原を経て田戸まで八キロに亘り巾六尺の道が東岸に開かれたのはよ うやく明治二三年のことであった。 しかもこの新設の道も二九年の高評川の大洪水によって、交字通り一 朝にして寸断され、とくに田戸・並並間は明治四三年置で再開せず、こ の間の交通は元の山路に立帰らざるを得なかった⑥。木炭一〇〇俵積み の川舟が案出され、下流との連絡に利用されたのもこの頃である⑦。 奥川並一田戸︵四・ニキロ︶の六尺道路は大正二年に完成したが、田戸 −鷲見一尾羽並−笹葺六キロ間に同じ巾の道路が開通したのはさらにお くれて大正末であったという。 新道開通後は荷車︵大八︶が主要な輸送手交となったが、それ以前は 林産物その他谷から出る物資も、谷に入って来る物資もすべて人と牛に よって運搬されていた⑥。その期閲が奥に進むほど長くつづいた。 中之郷−菅並間の道路が拡張されて自動車の乗入れも可能となり、村 の交通にもようやく近代的な息吹きが感ぜられるようになったのは昭和 八年だつた。この自動車路がさらに奥地にまで延長したのは昭和一七年 東洋紡績会社によって米虫、尾羽梨奥山の原始ブナ材搬出が開始される ことになってからである。今針川からさらに上流半明を通り中河内にぬ ける道路の工事が進行中でその完成後は、これまで南部に向ってのみ主 要な交通路の出入口を存していた谷が北部にもそれを開くことになる。 山村の常として、丹生谷の生活も自給自足的な性格を濃厚にもつが、 後にも見るように尚、食料晶自給の可能性を欠く。それ故この地は欲す ると否とにかかわりなく商晶経済の中に入りこま.ざるを得ない宿命を負 うている。それにもかかわらず、谷の口近く、その外には早く近代的交 通機関の出現を見ながら、谷の内部には長らくその生産物−重量貨物た る林産物を効果的に輸送しうる交通路に恵まれなかった。 もともと生産力に乏しい谷ではあり、それが交通路の設定をおくらせ たと見られるが、逆に叉、それによって谷の経済生活の発展をいっそう 阻まれて来たわけである。 我々は次に人口現象の中に谷の経済生活を知.る手がかりを求めよ
1 9 5 7 号 7 第
滋大紀要
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第2図第1表部落別人口戸数変化
昭和29年 人口}戸数 昭和25年 人口1戸数 明治44年 人口1戸数 明治32年 人口1戸数 明治22年 人口1戸数 明治15年 人口1戸数明治5年
人口「戸数部落名
46 S4 Q2 V9 P0 P3 Q6 Q2 P1 P4 W7 ﹁轟 3 198 598 102 366 47 58 115 101 56 74 1715 45 R9 Q2 W1 P0 P2 Q9 Q1 P2 P4 W5 1 3 195 604 96 377 47 55 120 98 67 72 1731 54M2577141526211115謝
281 593 124 441 76 76 147 127 80 77 1972 56Q3081171432201213姻
279 607 127 394 91 63 166 108 56 77 1964 60 S2 R3 W4 P8 P4 R6 Q2 P3 P3 R5 1 ﹂4 262 558 120 357 88 65 187 107 45 66 1857 51浮R379181535201213娚
250 613 117 290 73 66 144 86 55 66 1725 56 Q7 Q3 V8 P8 P4 R2 Q2 P4 P4 X8 1 3 197 501 111 296 66 81 127 89 52 63 1583生生墨並原戸並見梨川
計
丹丹 川 羽合
下上摺菅小田奥鷲尾針
資料 明治5年 壬申戸籍 15年 滋賀県物産誌 22−44年 村政史 昭和25年 国勢調査 昭和29年 村役 場集計 尚この報告の統計数字は最近のものも調査の便宜から合併前の数字によっている場合が多い。 う。三、人口の変遷
断片的な資料ではあるが、谷の人口 について明治以前のものをみると、針 川では元禄二年︵一六八九︶=三戸、 五九人、宝永六年︵一七二一︶一八戸 九一人をかぞえ、上丹生では宝暦初頃 (一 オ五〇頃︶一九七戸、八三〇人に 達した⑨。近江輿地志略︵亨保一九年、 一七三四︶には上丹生二〇〇戸、下丹 生七−八○戸、小原三〇戸と戸数の概 数をあげており、村政史には同じ頃奥 川並でも七五戸をかぞえたという。壬 申戸籍の人口戸数は之よりはるかに少 く、その間の減少ぶりが目立つ。同じ 事実は前に鈴鹿山中でもたしかめられ た⑩。 それは、これら山村の経済的基 礎の不安定性乃至脆弱性を物語るもの であるが、その状態は明治以後も改善 されることなくつづいている︵第2図︶。 壬申以後の人口の変遷をみると、そ の初期のきわめて短期間だけは増加傾 向がいちじるしい。すなわち明治五年 の一五八三人が二四年一九五一人にな り、以後停滞期に入って一進一退をつ づけ、谷の人口圧が早くも限界点に達 したことを示す。大正四年二〇〇〇人近江盆地周縁山村の研究 丹生谷の場合 (小牧・宮畑) をわずかに越えたが、それを頂点にその後は国勢調査毎に減少の数を示 し、大正九年の一九六〇人が二〇年三の昭和一五年には一六三五人に減 少した。この明らかな人口減少は都市の工業発達によって労働力が吸引 され、谷でも離村が顕著となったからである。しかし大正九年以後の隣 村四力村の場合と比較して、人口減少率は丹生村が最大である。それは 内部の生活条件が他村よりもきびしいことの現われとみられる。戦後は 一般農山村の傾向と同じく増加に転じ、昭和二〇年一八八二人に達した が、尚大正九年の人口を回復出来なかった。現在は再び減少の傾向にあ る。 一方戸数もほぼ同じ傾向をたどるが、明治一五年すでに最大の、四三八 戸に達した。その後減少に転じて三〇年代はじめには早くも四〇〇戸台 を割り、現在の三八八戸に至るまでこの線をこえたことがない。 次に問題を村内に限って各部落毎の人口戸数の消長をみよう。もっと も部落毎の統計は、明治時代と戦後のものしかないので、まず表の明治 時代の五時期の推移を見よう。 これによると人ロが最大となった時期は、明治四四年が最も多く七部 落、残り三部落はそれ以前である。しかし戸数が最大になったのが、明 治四四年というのは早川のみで、他はいずれもこれより早い。鷲見、尾 羽梨のように人口は明治四四年最大となったが、戸数はすでに明治五年 が最大で、それ以後は停滞或いは減少しているものさえある。 次に現在の人口は明治時代の人口最小期に比べても、華墨、小原、田 戸、奥川並の四部落では減少しており、その最大期に比べると、これら 四部落ではもちろん、残り六部落でも例外なく減少している。最も減少 率の少ないのは上丹生で、針川、尾羽梨、雪颪は一〇%、鷲見、田戸、摺 墨は二〇%、下丹生、奥川並は三〇%、小原の如きは五〇%に近い。又 現在の人口はシモの四部落に七〇%、オクの六部落に三〇%の分布を示 している。これらの現象は部落毎の生活条件の差を反映するものである が、その点については谷の生産構造が明らかにされなければならない。 第2表 農林業従事人口 昭和25年 明治43年 女 人 403 7 410 17 427 男 人141 214 355 140 495 女 人 583 24 607 36 643 男 人338 187 525 114 639 業業 農林 小 計 其他有業人口 計 合 資料 明治43年 滋賀県統計全書 昭和25年 国勢調査 第2表によって、明治四三年 と昭和二五年の有業人口をみる と、他の山村と同様、男女とも 圧倒的に農業及び林業が多い。 この表の資料とした統計の精度 や取り方が同じでないので比較 の結果は絶対的なものといえな いが、この両時期において、男 女別全有業人口中に占める農林 業人口の比率は次のようにな る。女子では九四・四%から九 六・O%へとあまり変らないの に対して、基幹労働力としての男子では八二・二%から七一・八%へとや や低下している。しかしその重要性は依然高い。農業及び林業を分けて みると、女子は両期とも大部分農業人口であるが、男子ではこの間に絶 対的にも相対的にも農業が減少、林業が増加している。割合にすれば男 子では農業は農林合計の六四・八%から三九・七%、林業は三五・二%か ら六〇・三%へと全く逆転の形を示している。もちろんこの表の林業人 口は実際には山仕事もすれば、百姓もする場合が多いであろうが、この 数字は少くとも林業を主業とする男子が増加して農業が女子労働力に依 存することが多くなったことを意味する。同じ半農半林の性格ではある が、その重心が農業から次第に林業へと移行しているわけである。 次に各部落毎の農業戸数と林業戸数をみるならば、第3表のようにな る。農業戸数の全戸に占める比率はシモでもオクでも余り変らないが、 林業戸数の場合ははるかにオクが高い。オクだけについてみれば、農業 戸数が八三戸、オク全戸の八八・五%であるに対して、林業戸数は七八 戸、八一・三%である。しかしこの従事戸数の多少からみてオクで農業 が林業よりも重要であると結論づけることは出来ない。オクでは大抵の
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1 号 7 第 紀 要 大 滋 160 昭和29年 第3表 部落別農業及び林業戸数 林業戸数の割合 (C)÷(A)×100 o/e 26.1 24.5 52.6 64.2 林業戸数 (c)ガ35皿肌
農家の割合 (B) ÷ (A) 一× 100 e/e 84.8 70.6 95.5 88.6 農戸数 (B) 戸39 111 21 72 総戸数 (A) 戸46 143 22 81 40.4 118 83.2 243 292 下丹生 上丹生 摺 墨 菅 並 小計 70.0 77.0 80.8 77.3 8L9 100D7102117914
100.0 84.6 84.7 86.7 81.9 85.7 10 P1 Q2 P9X12
10 P3 Q6 Q2 P1 P4 81.3 78 88.5 83 96 小 原 田 戸 奥川並 鷲 見 尾羽梨 針 川 小計 48.7 189 84.0 326 388 合計 家が農業を 兼営するが 林業は主に 男子が従事 し、家計に おいて占め る比重も高 い。それに 反して農業 は単にその 補助的な意 味をもつに すぎないか らである。 同じ理由で シモでは農 業戸数に比 べて林業戸 数が半ばに達しないが、この場合にも林業が農業の二分の一の重要性し か有しないことを意味するものではない。なおシモの場合でも、林業は 殆んど農業との兼業で行われている。農業は必ずしも林業に結びつかな いが、林業は農業と結びつく度が極めて高いのである。それがこの谷に みられる一つの特色である。四、農業経営
峡谷状の地形の制約をうけて、丹生谷の耕地化率はわずかに一四%、 面積にして一三七町歩であるが、さらに水田はその中五五%、七七町歩 にすぎない。水田化率は隣接の片岡、杉野、余呉各村に比べても一五∼二面4表耕地面積
農家1戸当
田1畑1計
耕地面積
銘53αo㎝詑齢邪錐躯矯輪
30 20m班Uα3α5αβσ3玲詔邪如班U蔦器畑田脇%
計 223.3 590.3 127.1 226.3 32.6 39.0 57.3 45.6 21.7 18.6 137.27 畑 田 115.9 304.8 43.0 75.9 21.3 12.2 7.8 9.3 5.8 3.3 599.3 108.4 285.5 84.1 150.4 11.3 16.8 49.5 36.3 15.9 15.2 773.4 下丹生 上丹生摺墨
菅並
小原
田戸
奥川並鷲見
尾羽梨針川
計 ○%低く、伊香郡平均 の八五%、県全体の九 〇・三%に遠く及ばな い。残りの耕地四五% が畑であるが、これは いずれも傾斜地であっ たり、水の便がえられ なかったり、自然条件 が劣悪なため、やむを えず畑としているとこ ろである。 主食の自給の困難な 場所柄であるので、出 来る限り畑を水田化し たいとの希望は昔から強い。現在上丹生と下丹生の畑合計五〇町程度の 水田化が計画されている。 すでに明治時代にも開田の計画が有り、さらに遡って下士の頃にも同 じ企てが行われたことがある⑪。しかし古来水論の多発地として知られ ている高桶川下流諸村は自村の水不足を深刻化させるものとして、連合 して強硬に反対したため、この計画は実行に移されなかった。現在事情 は必ずしも同一ではないが、そこにはげしい抵抗が予想されつつ、同様 の計画が推進されようとしている点に、村民の根強い水田化への悲願を 知りうる。 ここで農家一戸平均経営面積をみると︵第4表︶平均四・三反、県の七・ 五反はもちろん、伊香郡の五・八反に比べても少ない。この農家一戸平 均面積は部落毎に不同である。最高は立野の六・○反、つづく下丹生五・ 八反、上丹生五・三反など平均以上の部落はすべてシモで占める。シモ で平均以下は菅並だけである。この菅並でも三反をこえるが、オクでは近江盆地周縁山村の研究 丹生谷の場合 (小牧・宮畑) 昭和29年 数 家 農
第5表
経営規模気球細1反飯、協
自 小 作 別自作原作灘囎小作
別 業 兼383 14
14 23 55 12 18 108 1 9一 − 噌⊥ 5 1139254205852941 2179
42323463
4 7 12 14 8 12 57 12016 310
10専判麟陛臨二種
2161524
245305444
213 47
訂弱旭60鰯mU20199U80獅
840239899821158127362
1 23 U2 P6 R1?P3141 10圃
a皿B70皿mu羽p9η紹謝
893222
22 下丹生 上巳生 摺 墨 菅 並 小計 小 原 田 戸 奥川並 鷲 見 尾羽梨 針 川 小計 合 計 が五八戸︵二三・九%︶、三反未満六三戸︵二五・九%︶となる。 べてオクでは七〇%近くが三反未満で、それ以上も経営面積最高で七・ 六反であり、いちじるしい階層分化はみとめられない。 この経営規模に支配され易い専業兼業別農家数を同じ表でみると次の 三反以上は小 原のみ、他は いずれもそれ 以下で、最低 は針川の一・ 六反である。 このように シモの農業経 営規模は相対 的に大きく、 オクの場合は 小さいが、第5表によれ
ばシモでは耕 地一町以上の 経営農家も一 四戸︵五・八 %︶をかぞえ る。これにつ づく五反∼一 町層農家が最 も多く一〇八 戸︵四四・四 %︶三∼五反 これに比 ようになる。専業農家二二戸︵全農家の六・七%︶はすべてシモにある。 三〇四戸︵九三・三%︶の中、 第一種第二種の区分はそれぞれ一四二戸 ︵四六・七%︶、一六二戸︵五三・三%︶である。これをシモ、オクに分け るとシモでは第]種三二戸︵五九・七%︶、第二種八九戸︵四〇・三%︶オ クではそれぞれ︸○戸︵ 二こ%︶、七三戸︵八七・九%︶である。 シモでは比較的第一種が多いのにオクでは圧倒的に第二種が多いわけ である。 自小作別に見ると全般に自作が多く、二四五戸︵全農家の七五・二%︶ をかぞえ、ことにオクでは八三戸中三戸を除いてすべて自作である。シ モでは自作兼小作、小作兼自作が相当数あり小作もある。しかしオク、 シモを通じて戦前から大地主とよびうる農家はなく、農地解放による耕 地の所有権の移動は不在地主のもの以外は殆んどなかった。@
ホ器講総計鷺㎜
第6表 米生産高騰1勲睡高
石 ユ。45 1.44 1.08 1.24 0.65 0.64 0.55 0.30 0.55 0.50 1.19 反 108.4 285.5 84.1 150.4 11.3 16.8 49.5 36.3 15.9 15.2 773.4 下丹生 上丹生 摺 墨 菅 並 小 原 田 戸 奥ffl並 鷲 見 尾羽梨 針 川 計 農業経営の中心は米作に おかれており、水田は一 毛作であるにかかわら ず、反当収量は極めて低 い。たとえぽ、昭和二九 年度産米についてみれぽ 県平均二・四石、伊香郡 平均一・七石に対して、 丹生村は一・二石足らず、近接の杉野余呉に比べても僅かではあるが及 ばず、郡内はもちろん、犬上郡脇畑村を除いて県内を通じても最低位に とどまっている。この一・二石という収量は昭和二五年以降五年間の平 均収量に等しく、谷がこの年とくに不作だつたというわけではない。 部落毎では、下丹生の一・四五石を最高として、シモの部落ではすべ て一石をこえるが、オクではこれにはるかに及ばず、最高の田戸でも ○・四六石、最低の鷲見はわずか○・三石である。︵第6表︶ たださえ零細な経営規模のオクの農業はこれによっていっそうシモと957
1 号 7 第紀要
大 滋 158 の開きを強めているわけである。もちろん実際には反当収量はこのいわ ゆる官庁統計の数字を上廻るであろうがそれにしても大して高くはない であろう。 このように反当収量が低い主な理由として、灌概用水としての谷水が 冷いこと、山が深くて日照時間が少いこと、気温も湖岸の低地に比べて 低いこと、要するに村民の言葉でいえば〃オテラシが悪い”ことがあげ られる。それもオクほどきびしくこの気候条件の制約をうける。冷水灌 概は米作阻害の最大の原因であるが、明治初年には針川に稗田五反が存 在していた。稗田はシモの上丹生にもあったという⑩。 冷水に耐えうる稗がとくに水の冷い水田に作られたわけであるが、現 在でも水口には時としてヒエを植える。又水田への谷水の直接注水を極 力さけ、その水温を高めるようテミゾとよばれる導水溝を設けてある。 しかしそれも谷の気候条件に対しては弱々しい抵抗でしかなく、オク誰 その感が深い。 シモでは自給肥料の外、金肥を施すが、オクでは専ら自給肥料に限る こと、シモでは役畜の使用もみられるが、オクではほとんど人力のみに 頼ること、又その人力もシモでは男中心の場合が多いのに、オクでは田 植の頃を除いてほとんど女子ばかりであるなど、オクでは祉会的条件も 米作のみならず、一般に農業生産力の発展には不利に働いているのであ る。 丹生谷の農業の一つの特色は谷の外ヘデサクを行うものがかなりある ことである。余呉湖付近やその他にわずかの永田を購入したり小作した りする。出作地に近いシモばかりでなく、オクの部落でも大抵一戸や二 戸の出作農家がある。田植収穫などの農繁期には耕地近くの農家に宿泊 して農作業に従事するが、その間の見廻りや手入れには自転車を主に利 用する。労力にも経済的にも浪費が多いように見えるが、実際には自村 内の自然条件の悪い水田を作るよりも出作の方が有利であるという。し かし出作分を加えても、この谷の生産量を以てしてはようやく村の消費 米の半を賄うに足る程度である。配給台帖による農家三二二戸中、完全 農家四四戸、準完全農家三二戸、受配農家二四六戸、オクの奥川並の完 全農家=戸の例外をのぞいて、完全、準完全共にすべてシモにある。 ワ ’第7表主要畑作物生産量昭和29年 生産高 牧 積1反 面 68.0石 13.5 1589貫 3.7石 10.2 22.2 10,888貫 4.3斗 3.0 183貫 5.6斗 5.0 6.5 209貫 159,9反 44.7 6.8 6.6 20.4 34.2 52.1豆豆藷麦三種薯
鈴大小甘大小菜馬
ソバ、ヒエなども自給食料として作られていた。 通畑よりも焼畑で作られることが多かったらしい。 とよんでいる。シモでは現在山畑を作る家は軒並あたりに数戸あるが、 他の部落ではもう殆んどない。 オクでは昔の面影はないといわれながらも、山畑を作る風はまだかな り残っている。山畑を作る場所は昔からきまっていて、そこをハダレと よぶ。八月に入ってから盆までの間に長らく休ませていた適当なハダレ を焼く。そのあとを荒けずりして第一年目はソバか、カブラをまく。第 二年臼アワ、第三年目、第四年目に小豆を作る。もっとも第二年目以降 はアワやトウモロコシをうえることも多い。第四年目が終ると、放置さ れてあとは地力の回復がはかられる。しかし小原のように第一年目のカ ブラしか作らなくなったところもある。尾羽梨などではハダレに杉の植 林が進行中である。 なおオクでは主食自給のため、山林に自生するトチやバイ︵カヤ︶ の実も利用されている。部落有林の広いオクではトチやバイの採取に 谷の農業は通じて自給的色彩がこ く、畑も叉主として自給食料生産の 場所になっている。作付面積順にあ げると大豆、馬鈴薯、小豆、菜種、 小麦、大麦などである︵第7表︶。米 と同じく反収はオクほど低い。忠類 が比較的少いのは冬の積雲が深く、 その生産に適しないためで、田戸以 北では麦は全く作られない。 明治初期から中期にかけては、ア それらは水田や普 ここでは焼畑を山畑近江盆:地周縁山村の研究 丹生谷の場合 (小牧・宮畑) は部落毎のきまりがあり、毎年口あきの日までその採取は許されな い。トチの口があくのは秋の彼岸の入り頃で、バイの口もその翌日頃 あく。トチは隔年にしか出来ないが、量も多く、貯蔵も出来るので、 主食の一部にくり入れられる。 その苦味をとるのは、かなり厄介で、主婦の大切な、熟練を要する 仕事となっているが、苦味をとったトチは少量の儒米とまぜて餅にす る⑲。仕事のない冬中は食事前に先ずこれを食べて節米をするのであ る。バイはそれほど多くないので、主に間食に用いる。それ故バイモ ギはどこでも女の仕事であるが、トチ拾いは男子が中心となる。鷲 見、田戸などのようにトチ拾いを一家一人に制限するところもある。 トチの食料としての重要性をうかがうことが出来る。 この外奥川並では昔は栗の口もあったという。鷲見では今もフキ、 ヨモギにも口がある。ヨモギはクズ米とまぜて代用食のダンゴとな る。フキはワラビなどと共に乾燥して長い冬ごもりのさいの副食とす るが、オコナイ、講などのムラ寄りの場合、神前にささげる神聖な山 菜でもある。 このような山村自生の食料採取は、昔ほどの真剣さで行われていな い。森林の伐採が進んで、木の実の採取が困難となったためもあろう が、山畑衰微の場合と同じく、容易に食料を外部に求め得るようにな つたこと、ことに一般的に.生活が向上して嗜好も変化したためと見ら れる。 丹生の自給的性格の農業の中にあって、例外的に商品化をめざしてい るものに養蚕がある。伊香郡の養蚕は長い歴史をもつと伝えられ⑭、丹 生谷でも早くから行われて来たものであろう。 滋賀県物産誌によると明治一五年頃、どの部落でも養蚕が経営され、 全体で一五〇〇貫程度の繭が生産されていた。しかしその発達はそれ以 後のことである。朋治四四年頃には、繭は米、木炭と共に﹁本村の三大 産物の一なり、本業︵養蚕︶の盛衰は本村の経済上、多大の影響を及ぼ 昭和初期主要生産物価格
第8表
炭 木 繭 米 円 66,925 55,570 39,954 35,646 31,728 円 29,093 39,031 44,433 15,706 15,752 円 38,927 38,929 37,758 25,396 23,032 昭和2年 3 4 5 6 資料 昭和7年度選定農山漁村経済 更生計画書 二次世界大戦中は食糧増産奨励による桑園の荒廃を招き、 戸数二一五戸、繭の産額は明治初年と同じく一五〇〇貫程度となってい る。養蚕戸数はシモに集中して、オクでは富川、尾羽梨はじめほとんど その影を消してしまった。 ここでは冬の降雪による被害を少くするため桑は立木作りのものが多 く、桑園の大半は二段耕作が行われ、大豆、小豆の畑作物が間作されて いる。丹生谷の桑園は現在一七町歩、昭和三年の九六町歩に比べるとそ の二割にも達しないが、それでもかなり広い。それは上記の二段耕作に 基く。桑は普通畑の外にオクではハダレにも盛んに作られた。オクでは 養蚕の最盛の頃にも桑の余剰を生じたので、シモの部落ばかりでなく村 外にもそれを売りに出たという。 五、林野の利用 すしといわれているが⑯、他の養蚕 地と同じく養蚕業の最も活況を呈し たのは第一次世界大戦後であった。 大正末年頃からやや衰えたが、それ でも昭和二、三年頃には繭の生産毎 年五〇〇〇貫をこえ、金額では木 炭、米と伯仲している︵第8表︶。し かし、昭和五、六年の恐慌による生糸 の輸出不振、それに基く値下りに影 響されて養蚕は急激に衰え、村民の 経済生活に大きな打撃を与えた。第 現在では養蚕 丹生谷には広大な林野があるが、その面積はシモよりもオクに広い。 人口ではシモとオクでは七ケ月の比率であるが、林野面積はそれとは逆 にご一対七の比率を示している。いうまでもなく農地の少・ないオクの生活 は豊冨な林野に対する依存度が強い。先に見たように小原や田戸の人口1957
号 7 第滋大紀要
156 減少がいちじるしいのは部落内に利用しうる山林が比較的少ないためと 見られる。 林野のうち圧倒的に多いのは薪炭林である。この薪炭林で生産される 木炭は谷の林産物中米んど独占的な位置を占める。谷の林業は炭焼きに よって代表され、林業戸数一八九戸の中、九割以上が製炭に従事してい る。 この薪炭林の外、一五〇〇町歩に近い用材林がある。シモの上丹生、 下丹生などでは植林も見第9表林野面積
計 町 307.66 743.39 161.14 1271.30 133.38 225.52 1166.92 1226.66 1907.50 1615.06 8763.53 野 用材林1薪炭林1竹 林1原 町 2.38 5.20 1.29 49.52 4.33 27.41 32.17 29.94 23.52 13.49 189.22急86 皿面伍価
.09 2.66 町 224.04 642.27 157.49 1184.65 126.04 189.48 1125.87 782.84 1227.58 1445.86 7096.26 出1 80.41 105.06 226 37Dl 7.61 8.32 8.82 413.38 656.40 155.62 1475.39 下丹生 上丹生 摺 墨 菅 並 置 原 田 戸 奥川並 町 見 尾羽梨 針 川 合計 源として長らく放置されていた。昭和一七年以来、 は王子製紙会社によって大規模な開発が進められているが、 の経営面にも労働面にもこの事業には何ら参画することがない。 この広い用材林の存在にもかかわらず、オクの住民の林業は依然として 殆んど炭焼きに限られている。 さて林野の所有形態をみると、それはどの部落でも大部分、持山とよ られ、早くから用材の伐 出も行われている。これ らの部落では同じ林業の 中にも炭焼ぎの外、森林 業者、伐出業者なども一 〇人余をかぞえる。しか し用材林も実際にはオク に多い。鷲見、針川、9尾 羽梨の三部落だけでも谷 の用材林の八○%をもつ が、その大部分が奥山の 原始ブナ林で、伐出のた めの資本も交通路もない ままに、いわば眠れる資 東洋紡績会社、戦後 地元民はそ 従って び明治以前から個人が占有している私有林と、サンカイとよぶ部落共有 林から成っている⑯。明治以後一〇部落中、六部落はサソカイの一部を 部落民に平等に永代分割しこれを塩山とよんでいる。 この谷の私有林は第10表に見る如く所有者数は三〇〇人に近い。しか し階層化が進んで中には︸○○町をこえる山林地主もあるが、大部分は 第10表 私有林の所有形態 1呈薄皮爵略論騙【18缶118蒔ll蹴8碕賀。皇 40 W5 Q0 T7 P0 P0 Q5 Q0 P1 P1 1 1 − ∠− 2 1 1 1 ﹂4 2 7 6 8 1 1 3 11 P5Q5213 1
6838224 11
51658
1 8 9 5 2 9 5 5 4 6 3 29 P0 P6S26525
下丹生 上丹生 摺 墨 菅 並 小 原 田 戸 奥川並 鷲 見 尾羽平 針 川 1 1 2sg刈
81
8 合計 79 1 32 1 59 1 35 1 40 1 26 零細な山林をもつにす ぎない。山林の集中化 はシモほど大である。 シモが早く山林の個人 的占有化をみたからで あろう。零細な山林所 有では多くの人がそれ だけで恒久的な生産を 行うことは不可能であ るが、各部落ともサン カイが広く、例外もな いではないが︵たとえ ば下丹生︶、サンカイが 部落に存する林野の少. くとも半、多いところ では九〇%以上を占め るために、零細な山林 所有者も山仕事を割合 容易につづけることが出来る。 このサンカイは、もと部落民が一時的に占有して用益することだけを 認めていたものであるが、明治一五、六年はじめてシモの下丹生、上 丹生、摺墨などでその一部が永代分割され、これにより各部落実測面積 にして二 一町内外の割書をえた。このうち下丹生、零墨の割山は用材及び薪炭材の用益権のみについてで、土地そのものの所有権は依然部落 にあり、絶家、他出などの場合は用益権は自動的に部落に復帰する定め であるが、上丹生では所有権も個人に移った。それが山林の特定個人へ の集中度を高くしたという。 小原以北ではサンカイの分割はおそかった。それは奥川並の大正初年 が最も古く、鷲見、針桐では昭和三年に実施されたが、残りの三部落で はまだこれが行われていない。奥川並ではサンカイの八五%、鷲見では 九六%が分割され、各戸に四〇町以上の山を割りあてる徹底ぶりである が、針川ではその面積二〇%弱、各戸二〇町足らずである。オクでも分 割は地上権に限るが、その地上権もさらに限定され、トチその他の食料 や下草の採取については旧慣に従っている。もっとも奥川並だけはこれ らの用益権も個人有に帰している。 ここで主題をもとに返して、割山以前に行われ、現在でもサンカイ未 分割の部落や、寒山をしても尚広大なサンカイをもつ部落で行われてい るサンカイの一時的占有の慣行についてながめてみよう。 奥川並では大晦日にサソカイのどこでも各自の望む窯場に叉になった 木の枝をかけ、これをカギをかけるといい、それによって窯場とその付 近の原木占有権を生じた。針魚でも秋木の枝をカヤで窯場につるし、こ れをカマの口をしめるといい、現在でも割山以外のサンカイで製炭する ときは、この方法によっている。鷲見では部落の寄合で希望を述べて承 認を求めた。 サンカイ未分割の尾羽梨では、もとはクジ引きによって各自の窯場を 公平にきめていた。広大なサソカイをもつにかかわらず、林道建設以前 は往復に不便なため、炭焼場所が限られていたからである。奥山林道の 完成した現在では自由に窯場を設定しうるよう規定が変更されている。 ただし製炭は一家族一ヵ所に限る。鷲見でももと同様であった。この規 定は他の部落では、昔はともかく、最近ではないようであるが、労働力を 雇用してのサンカイでの炭焼きは谷を通じてどこでも禁止されている。 このようなきわめて素朴な占有権の設定法に対して、田戸・小原や、 シモでも菅並などの残りの未分割部落や比較的広いサソカイの残ってい る上丹生・摺墨などでは毎年一定の炭焼山について部落内の希望者を集 めて入札を行っている。前記の入札によらないサンカイ占有の場合にも やマテが部落に対して支払われるが、入札の場合はそれが高くなる。シ モほどそれは高く、オクでは〃ただみたいな”山手がシモでは製品価格 の三分の一にも及ぶという。 この入札方法はそう古いものではなく、田戸なども、もとは奥川並同 様カギカケを行っていたという。これらの部落がいずれも住民の割に山 林の少ない土地であることが注意される。このように占有の方法は部落 毎に違いを示しているが、サンカイの存在によって各人はたとえ私有山 林がなくても、特定の個人に隷属することなく、製炭に従事出来る。現 在でも製炭には霊山をふくんでサソカイがもっともよく利用されるが、 これが部落の共同体的構造、構成員の等質性を現在にまで維持させるの に大きな力となった。林野中におけるサソカイの比重が大であればある 程その傾向が強いわけである。 丹生谷の製炭はすべて家族の労働力を中心として自営的に行おれてい る。製炭業者には稀に専業者もいるが、ほとんどは農業との兼業を行っ ている。 谷の山仕事がはじまるのは三月の末である。その頃居住地近くの雪が 消える。人々は先ず近くの山に入って薪を作る。主に自家消費用である が、オクでは夏でもイロリの火を絶やさないので、莫大な燃料が必要で ある。この薪作りに一ヵ月を要する。それが終って四月の中下旬になる と遠山の雲も消えて、人々は炭焼きの窯ごしらえにとりかかる。 窯場は二∼三年に一度移動する。カマウチは大仕事で、ことにそのハ チアゲ︵窯の頂部を作ること︶は男手が少くとも二人前いるので、手が 足りない家では互にユイによってこの作業を行う。窯は大きいもので一 二〇俵、小さいもので五〇俵、普通八0∼一〇〇俵の炭が焼ける。窯の
7 5 9 1 号 7 第 要 紀 大 滋 154 着手から完成までには一ヵ月くらいかかる。カマウチをしない場合で も、原木集めや山塞搬出の便からたいていの窯は谷底近くにあるため、 雪のふきだまり場となり被害をうけ易く、カマごしらえに手間を食う。 生産にとりかかるのは五月も末近くなるが、六月は田植が行われ農繁 期となるので炭焼きは休む事が多い。七、八月が終り、九、十、十︼月 と木炭の需要期に向うにつれて生産は本格的となる。オクではどこでも 秋の収穫は婦女子の仕事となり、男子は製炭に専念する。 十一月九日のヤマコが終ると、もうあまり原木伐りはしない。それま でに伐りためた原木を焼き、残りの時間は雪の来ない内に山から製品を 運び出すのに費すのである。十二月に入るとカマジマイをする。雪の降 り具合でそれには遅速がある。シモとオクでは同一ではないが、この谷 で炭焼きの出来るのは約半年である。 その間はげしい労働がつづく。昔から一シヨイ一俵と云い、大人一入 の運びうる原木︵二〇∼二五貫︶から一振︵四貫︶の木炭が出来るとさ れているが、実際にはもっと多くの原木が要るという。この原木の運搬 から木立て、炭蓋し、還魂、表装、搬出などに至るまですべて家族ぐ るみの経営であり、昔はさらに家から車の入るところまで二里でも三里 でも肩で木炭を運搬した。男は四俵︵ただし五貫俵︶女は二俵、二六俵 が標準であったという。現在この最後の労働からだけは解放されている が、普通の仕事着ではその重労働に耐えられないので、木綿布をさいて 緯糸とし、自家製の麻糸を経糸とした仕事着を着用する。これをオクで はサクリ、下ではシャクリな 木炭生産量 俵 1,100 工工,GOO 2,000 20,000 2,000 3,500 10,000 12,000 zoeo 8,000 第11表