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近江商人外村与左衛門家と家業 : 「先祖代々伝来記」を中心に

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Academic year: 2021

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近江商人外村与左衛門家と家業

         1﹁先祖代々伝来記﹂を中心に一

      はしがき  本稿は、近江商人の在地性、家督相続、家業としての百姓と他国稼商人の関係など近江商人の存在形態について、近江 国神崎郡金堂村の近江商人外村与左衛門家をとりあげ分析することを目的とする。外村与左衛門家については、すでに﹃近      ︵1︶       ︵2︶       ︵4︶      ︵3︶ 江神崎郡志士﹄、﹃老舗と家訓﹄、﹃五個荘町史資料集Ii近江商人外村家の家訓・店則集成1﹄、﹃外与二百七拾年史﹄、﹃創        ︵6︶        ︵5︶ 業二八○周年記念誌﹄や足立政男氏の研究などにおいてとりあげられているが、ここでは同家の先祖が代々書き綴った五 冊にわたる﹁先祖代々伝恥証﹂を中心に、江戸期における外村与左衛門家の活動状況を歴代当主にしたがって明らかにし ょうとするものである。   ︵1︶大橋金造編﹃近江神崎郡志稿﹄下巻︵滋賀県神崎郡教育会、一九二入年︶四五八一四六〇頁。   ︵2︶京都府編﹃老舗と家訓﹄︵京都府、一九七〇年︶。   ︵3︶五個荘町史編集委員会編﹃五個荘町史資料集1一近江商人外村家の家訓・店則集成1﹄︵五個荘町、一九八九年︶。   ︵4︶﹃外与二百七拾年史﹄︵外与株式会社、一九七〇年︶。   ︵5︶﹃創業二八○周年記念誌﹄︵外与株式会社、一九入○年︶。 近江商人外村与左衛門家と家業 四五

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近江商人外村与左衛門家と家業 四六 ︵6︶足立政男﹁老舗における消費者サイドの経営哲学−外与株式会社﹃心得書﹄に見るI﹂︵﹃市邨学園開学記念論集﹄一九入○年︶。 ︵7︶外村与左衛門家には、﹁先祖代々伝来記﹂として、﹁先祖代々渡家記 壱﹂、﹁先祖代々伝来記 巻弐﹂、文化一〇年﹁先祖代々伝来記 巻三﹂、文政入  年﹁先祖代々伝来記 巻四﹂、天保=二年﹁先祖代々伝来記 巻五﹂の表題が少し異なるものの五冊の]先祖代々伝来記﹂が残されている。一巻は、  慶安五年∼天明三年の初代から六代目までの事柄か記述されており、﹁コレ迄照敬三筆、左ハ浄秋夕筆﹂の炉心もあることから、五代目照敬が初代以  来の外村家に関する事項を当主ごとに年代を追って記し、その後それを引き継ぐ形で六代目浄秋が書き綴ったものと思われる。二巻は、安永七年一   文化九年の六代目浄秋と七代目浄教の外村家に関する事項が年代を追って記してある。三巻は、文化]○年∼文政七年の内容をもち、表紙に﹁文化  十二酉年﹂﹁外村与左衛門得率︵花押︶五十六歳﹂とあるように入代目得候によって編纂されたものであろう。ただし、文政五年七月二二日置八代目   が六五歳で死亡した事項や九代目の相続の記事も含まれている。四巻は、文政八年∼天保七年の内容をもち、表紙に﹁文政入乙酉年﹂﹁外村与左衛門  基信︵花押﹀三十八才﹂とあり、九代目基信の筆になるものであろう。五巻は、天保=二年一慶応三年の内容をもち、表紙に﹁天保十三壬寅年﹂﹁外  村与左衛門応信︵花押︶﹂とあり、一〇代目応信が天保=二年に家督相続して、慶応三年に繁左衛門と改名するまでの事項を記録する。したがって、   これらの五冊に及ぶ﹁先祖代々伝来記﹂は、外村与左衛門家の当主が、同家に関わりの深い家督相続、分家、婚礼、土地譲渡、資産贈与、訴訟、書  上などについて子孫に書き残し、代々伝えていった記録であるといえよう。 初代∼四代目        ︵1︶  最初に、外村与左衛門家の歴代当・王について簡単に示したのが、第1表である。初代から一二代までの当主を示してあ        ︵2︶ るが、初代と二代目については生まれた年も家督相続した年も明らかでない。初代については、﹁先祖代々渡家記 壱﹂の 冒頭で、次のような事柄を子孫に伝えている。      本家承知記 一先祖6代々金堂村百姓相勤、則御地頭観音寺御館様、其節村方慰事年貢銀相調不申節者、 共其時分家屋敷相住居門口杯莚戸也 一宗旨代々浄土真宗二而則顕如上人様御免の真向御本尊御影壁かけ安置平鋼候也 少々銀子取替村用二立れ候、然

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第1表 外村与左衛門家の歴代当主 近江商人外村与左衛門家と家業 代 名 生年月日 家相纐年齢) 死亡年月日(享年)

備考

初代 与左衛門 2代 照玄 慶安5・ 2・16 3代 照意 元和9 慶安5(30) 元禄2・閏正・8(68) 4代 照信 承応3 延宝8(27) 正徳3・ 6・4(60) 幼名岩之助 5代 照敬 天和2 正徳3(32) 明和2・ 3・2(84) 6代 浄秋 享保7 延享5(27) 天明4・ 7・13(63) 7代 浄教 宝暦3・8・12 天明4(32) 天明5・10・24(33) 8代 照秋、得候 宝暦8・10・10 天明5(28) 文政5・ 7・20(65) 7代浄教の弟、復帰 9代 文成、基信 天明8・7・5 文政5(35) 天保13・ 9・20(55) 10代 照成、応信 文政8・正・9 天保13(18) 明治21・ 8・20(62) 慶応3年繁左衛門と改名 11代 照誉、栄信 嘉永6・7・29 明治3(18) 明治34・ 6・24(49) 明治12年退隠 12代 照信、為信 明治11・3・31 明治12(2> 昭和17・ 1・26(65) (註)「外村氏家乗資料 天」(外村宇兵衛家文書)より作成。現在同家で用いられている歴代当 主の数え方と少し異なる。 四七  すなわち、外村与左衛門家の家産は、高一伍伍斗入庫五合で、屋敷一か所 田一反、畑一か所のわずかなものであり、同家はこの高を基礎に農業を営ん でいた小農民であった。二代目には先妻との問に男一人・女四入、後妻との 間に女一人の合計六人の子供がいたが、女子はすべて他家へ縁付き、男子一 人が三代目︵照意︶として跡を継いだ。  ところが、この三代目が奮起して、﹁油田一生間二家三軒立渡し、三軒の寄 見所、田畑高弐拾八石摺斗壱升六合、三ツ分ケ渡、自身者無筆算不知百姓一       ︵4︶ 通二而仏恩ヲよろこび果報仁也﹂とあるように、百姓以外の才能はなかったが 代目 右之跡続与左衛門譲り 高学士七斗入子五合 但 屋敷一ケ所 田壱反︵3︶ 畑一ケ所  すなわち、先祖代々金堂村の百姓を営み、六角氏の支配下でも、村方で年 貢が調達できなかった時には銀子を用立てたりしたが、その住まいは莚戸の ような質素な住居であったこと、宗旨は代々浄土真宗で、信仰深いことが述 べられ、特に﹁先祖6代々金堂村百姓﹂であることを強調している。初代が 二代目︵照玄︶へ譲り渡した財産は次のようなものであった。

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合九石五斗弐升七合、仏だん道具添L、三男の勘馬には﹁隠居分﹂として、﹁弐問半二四間壱軒、田畑直入石三斗九升二合、        ︵5︶ 外二出作壱反﹂を譲り渡し、自分は隠居して三男の勘馬と同居したようである。  四代目は、第1表のように延宝入年︵一六入○︶に二七歳で家督を相続したが、父親の三代目は元禄二年︵﹁六入戸︶ま で存命で四代目を見守っていた。元禄五年目一六九二︶の暮れには前述の隠居高を四代目の持高に繰り入れ﹁揚馬拾八石五       ︵6︶       ︵照信と照敬︶ 手入升九合、外二出作弐反﹂となった。ところが、四代目は﹁元禄五壬申年六月よりゑきれい大病二て、親子長吉二人十 第2表 寛文4年の金堂村における外村与左衛門所有地 三面 歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩4489874800180850624262602  12212111   11222221  112 畝 畝畝畝道号  畝 8   ρO rD 1 1 π﹂     2反 反       反 謀反一    ユ      2    1 1田田田田田田田田田田畠田田畠畠畠畠畠畠畠敷敷青青上上上上上上上上上上下上上上上上上上上上屋屋下屋 横縦 字       し   川    川    ん       木畠こ   ふ け  う  田ばで  れ後   の中ノけ   り田ふ  り  反んん本か之   ちの堂ふ   う石こ う柳上ばぼ足な堂   つ上新 (註)寛文4年3月目金堂御縄水帳」(「外村氏家乗資料  兵衛家文書)より作成。 地」外村宇 農業に精をだし、その結果三軒の家を建て、 田畑高二八石一斗一升六合の高持ち百姓に まで成長した。寛文四年三月の﹁金堂三縄 水帳﹂によれば、与左衛門町分として第2 表のように示され、合計上田九反三二︵一二 筆︶、畑六畝二入歩︵物断︶、屋敷一三二四歩 ︵四筆︶があり、一町以上の土地を所有して いたことになる。三代目はこの財産を三つ に分け、岩之助のちの四代目︵照信︶には、 ﹁本家弐間半二四間壱軒、小屋壱軒﹂﹁代々 渡真向如来、仏だん添、高長石壱斗九升七 合、外二出作壱反﹂、二男の善右衛門には﹁弐 間半二四書家壱軒、少分はた元手、田畑高 近江商人外村与左衛門家と家業 喜入

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     ︵照信︶       ︵7︶ 一月迄煩、      親三十九歳、        其比6持病ありて力はたらき成不申候しとあり、病気がちであった。それが、﹁按ずるに、長男の       ︵8︶ 照敬翁が元禄十三年、十九歳の比より商業に志を立てられしも、是等の事情の一因となりしにあらじゃ﹂とあるように、 五代目︵照敬︶が後述するように若くして自立し、商業の道へと足を踏み入れる誘因となったようである。   ︵1︶外村与左衛門家の歴代当主の数え方は、現在同家で用いられているものとは少し異なり、本稿での一二代目は一四代目に当たる。   ︵2︶﹁先祖代々渡家記 壱﹂︵外村与左衛門家文書︶。   ︵3︶同右。   ︵4︶同右。   ︹5︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂、﹁外村氏家乗資料 地﹂︵外村宇兵衛家文書︶。なお﹁外村氏家乗資料﹂の内容と性格については、拙稿﹁近世における    近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵﹃彦根論叢﹄第二六二・二六三号、一九入九年一二月︶註9参照。   ︵6︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。   ︵7︶同右。   ︵8︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。 二 五代目  五代目︵照敬︶については、﹁正徳四甲午年十二月裏手三十三歳、妻十七才位田村五平の娘おいち、先祖代々渡真向如来       ︵1︶ 仏だん道具添、高弐拾弐石倉斗八升三合、外二出作弐反﹂とあり、五代目は正徳四年︵一七一四︶に三三歳で、位田村五平 の娘おいちを妻に迎え、当時の持高は二二石一斗八升三合で二反の出作もしていた。そして、﹁此翁こそ外村家の礎石を築       ︵2︶ 立て給ひし主公﹂というように、五代目が外村与左衛門家の近江商人としての基盤を築いた人物であった。近江商人とし て初めて商業に従事したようすは次のように苦難に満ちたものであったことを自ら述べている。         ︵元禄=二年︶ 一長吉替名長次郎、十九歳時黒子二思付、手前藤右衛門二人組合、布買問屋善兵衛殿ヲ頼、白銀少もなし、布壱駄仕入、明 近江商人外村与左衛門家と家業 四九

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近江商人外村与左衛門家と家業 五〇        ︹庫︶ 石並行、小売、ひめぢゑ藤右衛門行、所々参、売レ不申、缶子大坂江帰り、問屋ヲ頼候得共払へ不乙、藤右衛門二面持、 さかい二而売仕廻帰申候、其後算用仕上見所、六百目前そん、手前分三百目、是を何とぞ親二知慮申無様こと存出時、お くり殿其外三所程二て内証借り調、問屋善兵衛殿ヲ相済申候   ︵元禄一四年︶ 一手前廿歳半商もそん故、迷惑二思て、田入反少々日分周置、言外日用やとい、暮二指引算用見候時、是もあい不申候て

享献肇離少々はた仕入心付麻藁つ、かり玉野仕入・廿二歳毒茸少々元手出来・麻三衷三軒町伝奮門十二・指

銀二二、それより段々仕入、利助ヲ頼、出来布質物二入、やす二二出、金田五兵衛殿銀借用、布晒上、夏二成候時、在所  二而次郎右衛門頼、致借用銀子調、質物の晒、先様ノ御手紙申請出、此方二而売、又者伊庭村甚左衛門三江出来道外買、少 々つ・売行、先様江も心安四面二編成候而、其後留置弐貫目つ・も致借用、丹後二元利返済、段々借商仕入也  ︵中略︶ 一正 ヘ⊃纒ヌ面四月晒布弐箇、此時磯部六右衛門殿、頼弟子二、名古屋ごふく町五丁目近江屋伝六殿方江書状壱通申請参       ︵3︶ 候、商行はじめ也  すなわち、五代目が正徳三年︵一七一三︶に三二歳で家督相続する以前に、病気がちな四代目に頼らず自立した活動を始 めた。まず元禄=二年︵一七〇〇︶一九歳で、商業に乗り出した。それは、藤右衛門と共同で行なった。元手金もなしに、 布買問屋善兵衛に頼み込み、布一直を仕入れ、明石や姫路へ販売に行ったが売れず、兵庫・大坂へ持ち帰り、堺において 売り払ったが、結局六〇〇睡余の損失となり、自分の損銀分三〇〇目は親に知れないように内緒で調達し、善兵衛に支払 ったという。このように親に知れずに三〇〇目の損金を補唄できる自由な資金が、家督相続する以前の五代目に存在した ことは、五代目が近江商人として活動する上で重要であろう。元禄一四年︵一七〇一︶には、商売では損失を被ったので、

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農業経営に乗り出し、田入窮余を人を雇用して経営したが、これも結局利益を出すには至らなかった。自己の企業行動の 中で商業の道だけでなく、人を雇用してまで新たな農業経営を積極的に展開しようと試みたことは、五代目の企業者精神 の旺盛さをうかがわせる。そして、元禄一五年目一七〇二︶には、玉苧を仕入れて翌年には少し元手ができ、麻や布を買 い、それを晒に出したりして、売り捌き、借金をしながらしだいに商売を押し進めていった。正徳三年︵一七一三︶には、 名古屋へ晒布を商いに行き、その後布商人としての基盤を固めることになった。  このような与左衛門の商業活動は、領主への金堂村明細帳には次のように商人として記載されるようになる。 一享保八面卯年御領石原清左衛門様様支配所、手前四十二才、其節村中明細帳御取野遊候時、庄屋寄合上二曲百姓何程職人 かせぎ商人何程委細二付上候様二有之候時  商人二人付上置候       与左衛門四十二さい、七郎兵衛、此人者大坂へ行跡仕廻 ︸享保九甲辰年松平甲斐守様御領分、掬又前之通明細帳御取被遊候 一御公儀様預血慈悲是迄手前廿一才時よりはた仕入商いたし候所二、別て今度卯辰両年迄、明細帳御悉曇遊候付上置候商人        ︵4︶       与左衛門四十三才  伊左衛門  七兵衛  享保八年︵一七二三︶の明細帳には商人として、与左衛門と七郎兵衛の二人があげられている。翌享保九年の明細帳の取 り調べでは、与左衛門は二一歳半ら﹁はた仕入商﹂をしており、明細帳には伊左衛門・七兵衛とともに商人としてあげら        ︵5︶ れる。そして、享保九年七月の﹁諸色明細帳﹂には次のように記されてい亮ようである。 庄屋五郎右衛門、年寄太右衛門の名にて 近江商人外村与左衛門家と家業 五一

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近江商人外村与左衛門家と家業 五二 一家数百六十軒  内 百四十三軒 本百姓、十七軒 水呑

一人数七百廿三人内三百廿一人男、三百九十三人女、九人僧

︸商人五人 内 二人布商人  与左衛門、増兵衛         一人米屋商人 吉右衛門        二人編笠商人 七兵衛、七郎兵衛  そこには、金堂村家数一六〇軒、人数七二三人のうち、商人は五人︵布商人二人・米屋商人一人・編笠商人二人︶であり、 与左衛門は増兵衛とともに布商人として把握されていた。そして、享保一一年︵一七二六︶には次のように近隣諸国だけで なく、苦労をしながら東海道筋から江戸にまで足を伸ばしていった。 一町

牲二日立・布弐駄・.飛八日冒せき原二泊久奥村半七・外衆三人出合咄・半七被婆様二者ふけいき近国

斗、東下者売申候被致咄候付、一人の商人、それ下身物影ク候ハ・、半対馬ヲ頼、同道二而東海道江参候様にと、咄合相 談二成候而、手前帰村、奥村喜左衛門子半七所へ行頼、同道にて津嶋行、それより東海道罷越、江尻三嶋小田原意解少々 つ・売、江戸迄何得心もなく参候時、雪幕義二付入仁人安兵衛と申仁出合頼、世話二而てつほう町宇田川孫右衛門荷物付 参候、四五日之内に少々商直流所、問屋不かつて、断申出、何とも分別二三不乱候時、本町壱丁め百足屋手代二入門兵衛 と了いとこ所論行、右之次第咄相談致候時、私参候而荷物引〆、飛脚二渡、なごや送り為登仕廻申候、籾売払布代金十年       孫右衛門そん四両壱歩、       半七日用賃金弐歩遣、外二       罷申候、       入豊丘ハ衝⋮段々断山1、        三年之内二為石匙筈二極、 ふと申候付、 +弐両壱歩江戸二・かしそん〆+七両・右江戸迄上下三+日程半七生宿悪敷者と不存頸迷惑至極二戸誌 ここで注目されるのは、東海道や江戸への進出を意思決定するにあたっては、関ケ原の宿で奥村半輪などの情報によっ

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て決断しており、江戸での宿や荷物の世話は入興商人の安兵衛に依頼するなど近江商人の情報網を十分に活用した行動で ある。近江商人が全国的に活躍して行く基盤は、このような近江商人間のネットワークが大きく作用していたようである。 特に外村与左衛門家のように後発の近江商人にとって、新しい商域での活動に際しては、先発近江平入の蓄積基盤は重要 な要素となり、それがまた次の近江商人を呼び込む誘い水となったものといえよう。その結果が、全国的な近江商人の活 躍となって現れたのである。  享保一九年目一七三四︶には、五代目の弟長次郎が二九歳で独立し、﹁諮問半二四間 家一軒、小屋一軒、仏だん壱かさ       ︵享保二〇年︶ り、諸道旦ハ、はた元手少、=局拾六女早平入升四合渡ス、右之早渡卯年号迄入用大もや二てまかない致候、長次郎二相渡 ︵7︶ 申候﹂とあるように、高一六石七下風升四合と家・小屋・仏壇とともに、﹁はた元手少﹂を譲渡している。  五代目には、男二人・女六人の合計入人の子供がおり、それぞれは次のような経過をたどった。 一女二人

女男女男

人人人人

  ︵8︶ 以上入人 おすわ おかね 幼名長吉 およつ 幼名与吉 おいよ おすよ おゆき  当村縁付  八まんをばた町縁付 次名長二郎 世持与左衛門  当村縁付 替名重次郎 廿入歳世持候  北町屋縁付  北之庄縁付  奥村縁付 跡持 近江商人外村与左衛門家と家業 五三

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近江商人外村与左衛門家と家業 五四  女子は、金堂村へ二人、北町屋へ一人、北之庄へ一人、奥村へ一人、入幡小幡町へ一人といずれも金堂村周辺の商家・ 農家へ縁付いている。長男の長二郎は、与左衛門の跡継ぎとし、次男重次郎は導入歳で世帯をもっている。そして、寛延 二年︵一七四九︶=月、五代目が六八歳の時に、﹁右祖先より遺訓滑石存慈悲堪忍第一半被了簡せ候、地下村なみ百姓心        ︵9︶ 得末々夜直守可被申候、是迄実子惣領跡持家伝書登記﹂とあるように、先祖よりの遺訓を守り、百姓としての心得を忘れ ないよう、惣領跡立に申し伝えて行くように書き記しており、一人前の百姓であることが他国稼ぎの商人として活動する 条件であるという近江商人としての在り方を示している。   ︵1︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。   ︵2︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。   ︵3︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。   ︵4︶同右。   ︵5︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。延享元年﹁江州神崎郡金堂村明細帳写﹂︵外村左衛門家文書︶によれば、家数﹁六〇軒、商人二人︵与左衛門、七郎兵     衛︶で、﹁後索右商人五人と書付有之候﹂、﹁耕作之外男女かせぎ男ハ編笠、女ハ春期﹂とあり、これは享保九年の﹁諸色明細帳﹂をそのまま踏襲した     写しのようである。なおこの史料は、五個荘町史編さん委員会編﹃五個荘町史﹄第三巻 史料1︵五個荘町役場、一九九二年︶二九四∼二九八頁に     掲載されている。   ︵6︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。   ︵7︶同右。   ︵8︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。   ︵9︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。 一一

齪Z代∼七代目

六代目︵浄秋︶については、次のような記述がある。

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六代目 一延享五戊辰年二月十五日、幼名長吉、次名与三郎、通名与左衛門、  世為持譲り、妻北之庄村彦左衛門娘、入月廿四日、十七才死 一先祖代々渡真向如来仏たん道旦ハ添 一高四拾石六升壱合  辰之毛付   加弐石三斗八升九合 西テ利平6入  合四拾弐石四斗五升 己之毛付   外二出作弐反        ︵1︶  次妻、寛延弐己巳十一月十七日祝言、位田村久五郎娘、十六才 廿七才  六代目は、延享五年︵一七四八︶に二七歳で家督相続し、妻は神崎郡北庄村彦左衛門の娘であったが、その年一七歳で亡 くなり、後妻には寛延二年︵一七四九︶に神崎郡位田村久五郎の娘が一六歳でなっており、いずれも金堂村周辺の村との通 婚であった。家産としては、四二七四斗五升と出作地二反を継承した。⊥ハ代目の商人としての活動については、次のよう であった。 一手前上州絹商売、名古屋表二而初メ田下義、去ル元文三下年十七才二巴候、初而上州麻仕入西下り、郵信悪年二而出来悪       ︵元文五年︶       ︵元文四年︶ ク、直段も高直二而、文金百両二而麻五太買調登り中主、未年半宜ク出来仕、大下り、申年上州江下り申候節、高崎市、松

井鴇二婿日電斗買調未±月名古屋・持参仕り売申候時少量せん有之・︵輯譲て麟暦七月仕芸子候・右

八月弐はん絹壱太仕入、名古屋壮重町井筒屋八郎左衛門殿と申方二而直売一=二四年之問仕候所、白木屋徳右衛門方毛布之 義前々6直売被成工事、絹之義直売被成型事南至義二血肝間、何とぞ手前方江御出笹下候様二と、以人相頼被申恒業、得 其意絹之義二限り、白木屋徳右衛門殿相頼申候事 近江商人外村与左衛門家と家業 五五

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近江商人外村与左衛門家と家業 五六    ︵浄秋三二歳の時︶ ↓名古屋表宝暦三酉年忌白木屋徳右衛門願主二宣布直売之義被相願、絹布問屋付二致候様二被為帯出候二付、絹之義当分相

休ミ・布霧類清鑑復も、鰹ゲ京。屋九八郎頭兜虫案実手前一重対自売酒盛二相談二・相頼申候鳥

      ︵2︶ 絹茂少々宛売申而可然存付、其後絹初メ、明和三丙戌年6年三度宛売屋候  すなわち、元文三年︵一七三八︶に一七歳で初めて上州で絹や麻を仕入れ、名古屋で売却して以来、明和三年︵一七六六︶ に至るまで、しだいに名古屋での販売基盤を拡大していったようすがうかがえる。その後六代目は、病身となったようで、 ﹁安永五丙申年五月手前少々病気二付無心元詰、書置黙認、田畑商元金惣十郎、与三郎仕分ケ致置濡事、其後与三郎居宅        ︵3︶ 蔵屋鋪存命之内普請仕度思付、土蔵壱ケ所壁間三問、かちや村多郎右衛門二言申候﹂とあるように、安永五年︵一七七六︶ には、書置を認め、子供の惣十郎︵後の七代目、当時二四歳︶と与三郎︵後の八代目、当時一槍紀Vに対し、田畑と商元金を 分割し、与三郎のために居宅蔵屋敷の普請をする算段をしている。さらに、六代目は自分が年老い病身であることを理由 に、代官に対し、次のように自分の他国稼商人としての継目を惇に継がせたい旨願い出ている。 一先年他国往来商売、親与左衛門より明細管粥書上、我等継目御代官吉崎仁右衛門様江御世ケ奉申上候、今年迄無故障御慈 悲之上仕来り申候、依之惇共江右他国往来御願申上候書付之趣     乍恐以書付御願奉申上候 一先即諾村明細帳二奉書上黒餅、私義ハ為渡世当所産物布他国江商売仕来り申正儀、偏二御役所様以御慈悲、百姓相続、他 国往来仕建軍難曲仕合二奉存留、然所私義追々及老年、病身二品成、諸事不自由二御座候而、他国往来客先用事等量相勤 二二付、三七十郎、与三郎と申者、是迄之通不相変他国往来商売為仕、百姓相続仕度奉願上候、何卒御慈悲之上、右悸共 是迄之通他国往来商売之儀、御赦免被為下士候ハ・愚輩仕合二可奉存候、以上

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安永七戌転入黙諾九日 江州神崎郡金堂村 与左衛門判  五十九才     御代官様 右之通相違無御座候、 与左衛門奉願上候上被為仰付被下墨候ハ・難墨差興野候、以上 庄屋 喜十郎判 年寄 忠丘ハ衝⋮判 右之通差上ケ申候所、早速御聞届ケ被下難有奉存候、       御代官様堀江伝大夫様 銀二両       御手代三人 銀五匁六分一人        銀壱両ツ・弐人 依之当日 庄屋礼 酒一升     銀一両 書役弐人 三匁ツ・ 同心↓人 弐匁弐分 右御礼二廻り申候也       ︵5︶    八月廿九日  これによれば、前述したように親の五代目与左衛門の時に、明細帳に﹁他国往来商売﹂と書上げ代官へ届けており、当 地の産物である布を他国へ販売して生計をたててきたが、自分も年老いて、他国往来商売ができなくなってきたので、惇 の惣十郎と与三郎に跡を継がせたいことを庄屋・年寄を通じて代官へ願い出た。ここで注目されるのは、﹁百姓相続、他国 往来気候﹂﹁他国往来商売為仕、百姓相続仕度﹂とあるように、単に近江商人としての他国往来商売の許可を得るだけでな く、先祖代々の遺訓にも見られたように常に百姓相続を行なうための他国往来商売の許可であったことである。百姓相続 の他国往来商売であったからこそ、領主も近江商人の他国での活動を許可したのであろう。また、他国往来商売は、無制 近江商人外村与左衛門家と家業 五七

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近江商人外村与左衛門家と家業 五八 限に行なわれたのではなく、親から子へと引き継がれる場合には、このような届けが出されたようである。そして、それ は村役人である庄屋・年寄を通じて、領主側へ届けられ、その御礼には金銀や酒が村役人をはじめ代官・手代にいたるま で、贈られた。このような手続きを踏んだ上で、近江商人しての活動が許可されたのであり、近江商人といえども、村共 同体の一構成貝として存在していたのである。  このように六代目は、安永五年︵一七七六︶に病身を理由に家産の分与を子供の惣十郎と与三郎に対して次のように書き 置いた。     ︵6︶

    覚

         ︵精︶ 一親子兄弟中能家業を情出し、御年貢上納専一二納メ毎年勘定可仕事 一家屋鋪諸道具一切跡式惣十郎二譲り、兄弟苦慮相応二仕分ケ世話二可仕候事 一与三郎義年廿六才論及縮緬惣十郎二壱所二女、随分渡世商事面出し、相談之上相勤三十郎二相随ひ可申事 一与三郎中能随分情出し申候上ハ、七六才二書眉候乱僧土蔵墓所家壱軒諸道具不自由目無之七二基唇面直証様可仕事 一与三郎名古屋仕入金之内、五百両分与三郎二譲り、左候ハ・いつ迄も兄弟不相等相続可有事 一与三郎義元手金五百両廿六才二及申止口・、三拾才迄之内毎年百弐十五両ツ・四年二相茎立申事 右早世急度相守相続分銀不相応之事仕間敷候、万一与三郎身持単二博変好色或ハ不実之類有之候ハ・、其時之斗二塁右之 元手金引立可捨者也、随分出置之上斎灯家業をはげみ候ハ・、繁栄之基先祖迄之言為孝行者也、傍而書置如件 外田畑高付壱冊ツ・有   安永五丙申年六月書之       与左衛門㊥       五+五才 右之菰被為世渡重織、此面四二高附]冊無相薫煙極月に相渡し申候、乍型名古屋仕入金分子此方二預り置申候、為其傍而 如件

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天明四甲辰正月 日   与三郎殿 惣十郎㊥  すなわち、家業に精を出し年貢上納に努めること、与左衛門家の家督は惣十郎に譲るが、惣十郎は兄弟の世話をするこ と、与三郎は二六歳になるまで三十郎と同居し、惣十郎に従って商事に精を出すこと、与三郎が一生懸命働いているなら 二六歳になるまでに土蔵一か所・家一軒・諸道具などを用意すること、名古屋仕入金のうち五〇〇両は与三郎へ譲るが、 二六歳になってから毎年一二五両ずつ四年間に分割して渡すことを取り決め、万一与三郎の身持ちが悪く、不実であった ならその元手金を引き上げるようにとのことであった。その後六代目は天明元年︵一七八一︶に至っても存命であったた め、改めて惣十郎と与三郎に対し、家産について次のような取り決めを下した。 安永五丙申年六月我等大病二三生死無心二合受付、右申年身上家財譲り証文井二与三郎廿六才二相成申候ハ・仕分ケ高元手 金書置候所、別紙高付置候、然処、今年天明元丑年暮迄存命仕候思付、明年寅年より仕分銀相渡し出精居候様二思付、名古 屋仕入商事惣十郎与三郎両人二為重、弐季勘定仕合而、利銀玉十郎六歩、与三郎四歩割合可申事、左候へ春楡迄も相応二中 能ク、商事も無滞可被相勤事二候、依之別紙委細 =局弐拾三石壱斗弐升九合 惣十郎 =局拾五石六斗八合    与三郎 家壱軒 土蔵壱ケ所 諸道具      ︵天明二年︶ 右之通二仕分、寅年より出精可仕候事       ︵7>   天明元年辛丑十二月廿七日書置 近江商人外村与左衛門家と家業 五九

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近江商人外村与左衛門家と家業 六〇  すなわち、天明二年︵一七八二︶から名古屋仕入商は惣十郎与三郎両人に任せ、二季勘定で、利益の六割が惣十郎、四割 が与三郎に与えられ、両者仲良く励むようにとのことであり、持高は高二三石一斗二升九合が惣十郎へ、高一五石墨斗八 合と家一軒・土蔵一か所・諸道具が与三郎へ分与された。両人以外の男子は、﹁安永六丁酉年正月二六日晩七つ半時誕生石    ︵8︶ 二男子与市﹂の安永六年︵一七七七︶に生まれた末子の与市︵後の初代外村宇兵衛︶以外は、五人とも一∼五歳で亡くなって おり、この時点での家産分与は両者のみに限定された。ただし、ここで分与された高は、宝暦三年2七五三︶の持高四九 石五升入合と出作二反のうち、同四年に前述した六代目の弟重次郎へ高一九石四斗入升入合・出作地一反と三〇貫目を分   ︵9︶ け与えた残りの与左衛門家の持高であった。  六代目は、天明四年︵一七入質︶七月に、七代目︵曲事︶が上州方面へ行商に出ている間に死亡し、七代目は急遽旅先か      ︵10︶ ら近江へ戻ったようであり、当時の与左衛門家の行商活動範囲がうかがえよう。七代目は、安永四年︵一七七五︶に伊左衛 門の仲人で四郎右衛門の娘おもみを嫁にもらう約束をしていたが、六代目が亡くなった翌天明五年二七八五︶一〇月二四        ︵11︶ 日暮五ツ時に、三三歳の若さで亡くなり、外村与左衛門家の将来が危ぶまれたかに思えた。しかし、前述したように六代 目には宝暦早年︵一七五入︶生まれの男子︵後の入代目︶と安永六年︵一七七七︶生まれの男子︵後の初代外村宇兵衛︶とがお り、両氏により外村与左衛門家の新たな展開が見られたのであった。   ︵1︶前掲﹁先祖代々渡家記 壱﹂。   ︵2︶同右。   ︵3︶同右。   ︵4︶六代目の外村与左衛門浄秋の子供︵男子入人、女子四人の合計]二人︶については、前掲拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂第2表    参照。   ︵5>﹁先祖代々伝来記 巻弐﹂︵外村与左衛門家文書︶。   ︵6︶天明四年正月﹁惣十郎与三郎へ書置覚﹂︵外村与左衛門家文書︶。

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11 10 9 8 7 前掲﹁先祖代々伝来記 前掲﹁先祖代々渡家記 前掲﹁外村氏家乗資料 同右。 前掲﹁先祖代々伝来記 巻弐L。 壱L。 地L。 巻弐﹂。 四 八代目  八代目︵照秋、得候︶は、すでに天明三年︵一七八三︶一〇月九日に﹁与三郎家移り、諸道具相渡し、高宛口卯暮より仕    ︵1︶ 分ケ申候﹂とあるように、与三郎として諸道具・田畑高を分け与えられて独立し、翌=月一二日には北町屋の太郎兵衛       ︵2︶ の仲人で、北町屋治左衛門家の妹とみ︵二〇歳︶を嫁に迎えていた。このようにすでに独立した与三郎を再び与左衛門家の 跡継ぎとして戻すこととなったのであるが、一方、七代目の妻おもみとその子供与蔵に対しては、次のような取り決めを 行なった。 一天明六丙午三月廿三日に兄貴様子宮参り仕上曲名附与蔵と相附、右宮参り申上二心与左衛門家相続之義、おもみ井子もん与  蔵、右之通二而ハ何分跡式組成候得ハ、母人様、四郎右衛門様一家衆中謡講御相談被成下候而、手前二与左衛門家跡式相  出仕候而、則新屋方へ手前之申請候分、何遍入替二与蔵へ相譲り可申候様二御銘々様被仰附候得ば、是ヲ手前一人して不  承知と申越而ハ、御銘々様へ御思召之程相立様申候、かへって無礼二様存立故、畏入申候、夫故事之通、取為替証文仕置  候間、可為其心得事       与左衛門跡       与三郎︵花押︶ 午家入替ハ三月廿七日也 近江商人外村与左衛門家と家業 六一

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近江商人外村与左衛門家と家業 六二   写書  取為替預り証文之事 ]元手金千両也 ︸高十五石六斗八合   譲り之分也 一同弐升九合也     よつ屋鋪、是ハ手前買申候余慶也       代五百拾匁也、与三郎6譲り 一家屋鋪井右高附一冊  〆 右者親司様右被為下候面、然ル所此度兄左衛門様死去早成候二三、与左衛門跡式之儀、四郎右衛門様初、母人一家衆中期不 及申、相談之上畳へ与左衛門跡相続仕候而、則新屋譲り金井高附言入替申候様二二仰附候得ハ、別紙親司様高下家屋鋪共入 替二相渡申候、掬又金子之儀上手前方二憾二預り野心候、尚又与蔵出情次第瓦書時成共、此証文と引替二金子虎児可申候、 為後日証文侃而如件、写也   天明六丙午年      与三郎㊥     おもみ殿     与蔵殿  天明七未五月廿四日死去、法名幻夢、三才 右之通遣し置申候故、金子相渡申候節、此証文請取可申事也 右之証文請書左之通此方へ証文一通取置申二間、件之証文者此方末々二言迄大切二致置落居候   写書  為置証文之事 一此度与左衛門死去二極跡相続難成候二付、其元新屋方三角入替二相頼申候処承知被虐、海蝕附家屋鋪諸道具幽居請取申  候、尤金子之儀ハ其元預り手形 通言二預り申訳、吉上ハ右預り以手形ヲ金子引替二請取可吉名、為後日証文幕電半畳   天明六丙午年      新家主 与蔵 判       請人  四郎右衛門判       ︵3︶     与三郎殿

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 すなわち、天明六年二七八六︶三月には七代目の遺児与蔵が宮参りをしたものの、与左衛門家の相続は七代目の妻おも みと生まれたばかりの与蔵とでは困難であるとして、与左衛門家の今後について六代目の妻や四郎右衛門など親族で相談 した。その結果、与三郎が与左衛門家の跡式を相続するのがよいということになり、すでに父親の六代目から新屋として 譲り受け、独立していた与三郎の財産と七代目から与蔵が跡式として引き継ぐことになる与左衛門家の財産とを交換する こととなった。与三郎がすでに六代目から譲り受けていたのは、元手金一〇〇〇両と高一五石六斗八合であり、ほかに与 三郎自身が買い求めた屋敷︵高二升九合、代五一〇匁︶があり、それらを含めて交換することになった。ただし、金子につ いては、与三郎が預かることとした。しかしながら、遺児与蔵は、天明七年︵一七八七︶五月二四日にはわずか三歳で死亡 し、結局与三郎が入代目与左衛門をそのまま相続することとなった。  入代目の近江商人としての活動については、寛政二年目一七九〇︶には次のように領主から諸商人の取扱商品・値段・仕 入先・販売先など業務内容を報告するよう指示があり、その活動状況を代官へ届けている。 寛政弐戌五月御公儀様6諸商人委細書附差上ケ申候斎日無為仰付候目付、     乍恐以書附奉申上候 一此度諸色売買之儀、青馬売先書附奉差上ケ借間被為仰付奉畏候、依之私商内筋子儀、

 一近江晒壱疋二上      上三拾匁

 一近江さつま中土併壱反二丁      上弐十匁

 ︸適地壱分脚付       上十七匁

 一紅嶋桔梗嶋壱反二付      上十弐匁

御地様6申渡し有之候故、手前共此通鼻血 左二買直轄仕奉差上候  中廿四匁  下十五匁  中十五匁  下十弐匁  中十壱匁  下七匁  中十匁   下九匁 pt fi” a fl! 右〆買仕入元直段附、売先之儀者名古屋伝馬町京口屋九八郎方へ差送り売捌キ申候、中二名古屋江不向之品者大坂北革 近江商人外村与左衛門家と家業 六三

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近江商人外村与左衛門家と家業 六四  屋町嶋屋助作、長又、半平、奈五此四軒へ差送り売捌キ中条、尤売直段、右買元二順し六朱位利足二相成り蒔田 一和州中繰綿信州向六貫目作り       仕入所  郡山豆腐町  紙子屋伊兵衛  銀百目心付五〆百匁かへ、代銀百拾七匁六分四厘      同 材木町  久宝寺屋吉助  右荷物送り所       信州松本本町三丁目  白木屋孫右衛門

       同本町弐丁目浜松屋彦右衛門

一和州繰綿六〆目作り壱本       同   本町壱丁目  大坂屋藤七  諸懸り物引テ手取代銀百廿四匁八分      同 諏訪本町     亀屋長右衛門  右之通二御座候 一上州麻買元壱把二付代銀三匁6段々四匁迄、此麻目方百拾五匁  需品上州丹生原村五郎兵衛方二等去冬仕入元直段二御座候、売先者近辺在々布仕入方へ売捌候、例年壱割方も利足有之  候得共、此節相庭追々引下ケ申候故、損失参り申候得共、相庭之儀日御座候ヘハ、損金仕候而売捌キ申候 右者御百姓相勤、手透之家業二相求メ売買仕様、此段御吟味脇付奉申上様、以上  寛政二翌年五月       神崎郡金堂村       与左衛門 右以書附奉申上候通相違無御座候、以上   ︵4︶ 御代官様 庄屋 喜十郎 年寄 源治郎  これによれば、﹁近江晒﹂﹁近江さつま井紺併﹂﹁袴地﹂﹁紅嶋桔梗嶋﹂のような商品を買い入れ、名古屋伝馬町の京口屋九 八郎へ送り、売り捌いていたが、名古屋へ不向きな商品は大坂の北革屋町の嶋屋助作・長又・江平・櫛型の四軒へ送って、 売り捌いていた。大和の繰綿は、郡山豆腐町の紙子屋伊兵衛、材木町の久宝寺屋吉助から仕入れ、その送り先は信州松本

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本町の白木屋孫右衛門・浜松屋彦右衛門・大坂屋藤七、諏訪本町の亀屋長右衛門であった。上州麻は、上州丹生原村の五 郎兵衛から仕入れ、近江近在の布仕入方へ売り捌いていたことがわかる。そして、ここでも﹁右者御百姓相勤、手透之家 業二相求メ売買仕払﹂とあるように、このような商業活動はあくまで本業である百姓稼の合間の余業として行なっている ことを強調する。  しかし、与左衛門家を継ぐことになった八代目も、病身であったようで、弟の与市の援助を受けねばならなかった。与        ︵5︶ 市は、一六歳で元服し、宇兵衛と改名し、享和二年二八〇二︶に﹁宇兵衛儀廿六才二相成申候二付、位田久右衛門殿娘な        ︵享和二年︶       ︵6︶ みとの嫁二取、戌二月三日祝言仕候而、中村之新家二住居さセ申候、尤新家移り者旧冬仕候﹂とあり、二六歳で神崎郡位田 村の松居久右衛門の娘なみを嫁に迎え、新家には前年の享和元年に移り、独立した。その際、入代目は病身のため、宇兵 衛の分家に当たって宇兵衛や親族に対し次のような書き置きを残している。      手前病身二付書置申譲り証文載 =兀手金千両也  先達而手前新屋へ申請候通年々割合相渡し可申事 一家壱間蔵壱ケ所 一別紙高附︸冊  此高十弐石八斗七升五合也  〆享和弐壬戌年二月三日祝言仕候而、仕方書奥二委細印置ク 右之通弟与市江仕分ケ遣し申候、然上者何角引請与吉ヲ見育被露見而、与吉廿才二相成り北鮮迄ハ其元何素引請被下歯而、元 手金不足牛立不売候様二出情支配之戸部入候、与吉廿才二およひ申候節勘定下面手前仕置之通相摺出無下頼上候、廻章大そ ん仕候時者、勘定面不足仕候事も可有之候、左候爵ハ年々勘定引平し候所二而、若不足有之候ハ・、手前勘定仕置候表ヲ引 立相撃可被季候、尚又掌上有記田・其元分二請取被成可石下候、右之仕法二而相続之程頼入候、万一与吉博変不実雑事候ハ ・、其元与左衛門跡式乍太義相続頼入候、為其書置伍而如件 近江商人外村与左衛門家と家業 六五

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近江商人外村与左衛門家と家業 月  日 六六 与左衛門跡目 与三郎︵花押︶     与市殿 替名宇兵衛事 尚々与市博変相美事不培之筋有之髄脳・、先達而親父様御証文之通元手相渡し申間敷候段、 右之通二而如何可有之候哉、御銘記方御相談被成下候様二半願上置、右之仕法二而不興表構 偏二く奉願上候、為其奥書傍而如件    月  日     一家衆中様 右之通高附一冊証文母人様認メ差上ケ置申候へ者、左様二可被相心得候 随分可為出情事 ・、何分不金替家相続仕候様二 与左衛門 与左衛門 与市殿  すなわち、与市︵宇兵衛︶には、元手金一〇〇〇両、屋敷一軒・蔵一か所、高一二石入斗七升五合を分け与え、自分の子 供である与吉︵後の九代目基信の兄、寛政一三年一七歳で死亡︶が二〇歳になるまで、その支配を引き受けてくれるように頼 み、もし与吉が索変など不実な行為があれば、与市が本家である与左衛門の跡式を引き継いでほしい旨を書き置いた。そ して与市も博変や相場に手を出すなどの不培な行為があれば、元手金などを引き渡さないことになるので、十分に出精す るようにとのことであった。  このような事情から、八代目は宇兵衛に商業上の支配をある程度任せる形で、経営を行なった。その内容は次のような ものであった。

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右二付ロニ委細書置相記等等通元手金相撃、籾又商内方人数互二不都合故、相談之上将亥子丑寅五ケ年之間一所相働相続可 宜存候而左之通      定   此通証文↓通宇兵衛へ遣し置 与左衛門分 一文銀五百貫目  但六拾匁金立二而 宇丘ハ衛へ譲り銀預り分

一同六拾貫目 同断

 惣高合五百六拾貫目也  商内算用方仕来之通   此銀子二而商内取引利分帳面通之内   利〆高三ツ割  弐ツ分 与左衛門       士匂ツ分  宇丘ハ衛       〆    但し、年々入用者自身持仕利分之内請取払可申事 右之通割合二時戌亥子丑寅年迄五ケ年之間一所二黒角出華墨働、両家共相続可被致候様専=一存候、尤召抱人猶有之者、右 利分明内二而相渡し可諸候、猶又五ケ年過削節者預り銀六拾貫目井三ツ割壱ツ分通利分注ケ年之間都合銀高勘定相渡し可申 候、然上者此方取引先故障無之候様二随分商売大切二相働可被申候、為後日之伍自署件   享和弐壬戌正月      与左衛門判     宇兵衛殿  商内何角別二仕候記ス  文化十癸春6別二致ス委細奥二相記し申候  ︵中略︶ 一宇兵衛儀身上仕分者先年音量、夫右互二商売方取引壱集二仕来十ケ年創立、則文化十癸享年正月江別二仕置丁付渡し高      左二相記申候 近江商人外村与左衛門家と家業 六七

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近江商人外村与左衛門家と家業 六入 享和二壬戌年相記申候鳥、十年之間二二商売一型下仕着目、酉正月6諸色別二仕候而、元手金茂仕合能割合ヨリ相増同悦善 事、銀高〆三百五拾九貫弐百五拾四匁六分弐厘也 右年々勘定互致候右和とし帳面壱冊ツ、両方一章奮門記置申候・有誌       ︵9︶  この間の事情についての詳細は、前稿で述べたので、ここでは簡単に見ておくことにしよう。すなわち、与左衛門家と 宇兵衛家とが享和二年二八〇二︶から五年間共同で事業を行なうことで、与左衛門家職〇〇貫目・宇兵衛組重〇貫目︵与 左衛門家から譲り渡した一〇〇〇両︶の出資で商いをし、その利益は三分の二が与左衛門、三分の一が宇兵衛という比率で分 けられることとなった。そして、宇兵衛家の元金と利益は五年間後に渡すという約束であった。しかし、五年を過ぎた文 化四年目一入〇七︶になっても、事業が順調であったため、もう少し共同で事業を継続することとなったものの、文化一〇 年︵一入一三︶からいよいよ宇兵衛家が与左衛門家より独立して商業を営むこととなった。その際の宇兵衛の資産は三五九 貫二五四匁六分二厘にまで急増していたのである。  そして、文化一〇年︵一八一三︶一〇月には、与左衛門および宇兵衛は、次のように両者の事業について述べている。      ︹10︶

     口書       与左衛門

一百姓之間々に関東辺絹布買調、当地問屋へ差為登、商売仕来候処、病身二相成、弟宇兵衛二商売向組置候処、今般御吟味  之上、松坂屋方へ直売仕候趣承之奉驚入候、右宇兵衛江申付方不行届不念之段奉恐入候   文化十酉十月      江州神崎郡金堂村        与左衛門       百姓 右之通少茂相違無御座候、以上        組頭  ︷示丘ハ衛

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   御しかり二而相済       江州神崎郡金堂村       百姓 宇兵衛 ﹂百姓之間々上州奥州江罷下り絹布買調、御当地江持登り五条高倉東へ入松坂屋とみ手代新兵衛へ、右之品々与左衛門名前  ヲ以売捌キ申候、尤問屋之外二而売捌候下田不相成候段御触等割不様存組立申上様得共、年来問屋取引仕候上者存問敷様  ハ無之申訳難立奉恐入候 右之通少茂相違無御座候   文化十年酉十月      宇兵衛 右宇兵衛奉申上候通相違無御座候、以上       組頭付添  ︷示丘ハ衛        ︵11︶  この史料は、上州や奥州で仕入れた絹布を問屋外であるのに京都の松坂屋へ売り捌いたという京直売一件の中での口上 書であるが、これによれば、与左衛門家の名前で商売をしているが、与左衛門は病身のため、実際は弟の宇兵衛に商売を 任せているとのことであった。ここでも与左衛門は﹁百姓之間々に関東辺絹布買調﹂、宇兵衛も﹁百姓之間々上州奥州江罷 下り絹布買調﹂と述べ、また両者とも江州神崎郡金堂村﹁百姓﹂と肩書に付けており、商業活動は行なっているものの、 自らの本業はあくまで﹁百姓﹂であり、商業活動は百姓の合間の余業として強調したのである。   ︵1︶前掲﹁先祖代々伝来記 巻弐﹂。   ︵2︶同右。   ︵3>同右。   ︵4︶同右。   ︵5︶﹄番 先祖代々伝来記し︵外村宇兵衛家文書︶。外村宇兵衛家に関する経営については、前掲拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂、拙     稿﹁明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大新経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二四号、一九九〇年=一月︶、同﹁近江商人外村宇 近江商人外村与左衛門家と家業 六九

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近江商人外村与左衛門家と家業 七〇  兵衛家の雇用形態L︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二一二号、一九八九年九月︶参照。 ︵6︶前掲﹁先祖代々伝来記 巻弐﹂。 ︵7︶同右。 ︵8︶同右。 ︵9︶前掲拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂一七三∼一七六頁。 ︵10︶文化]○年﹁先祖代々伝来記 巻三﹂︵外村与左衛門家文書︶。 ︵11︶この問題についても、前掲拙稿コ近世における近江商人外村宇丘ハ里家の経営L一七七∼一八○頁参照。 五 九代∼一〇代目  入代目は、文政五年二八二二Vに六五歳で亡くなり、天明入手七月五日に生まれた九代目︵文成、基信︶へ家督を譲る        ︵1︶ ことになる。九代目は、文化=年︵一八一四︶に久左衛門の世話で位田庄右衛門の娘いと︵一六歳︶を嫁に迎えた。そし て、文政九年二八二六︶には、九代目は、信州高遠藩の内藤大和守への大名貸金返済に対する訴えの中で、次のように自 らの家業について述べている。 信州内藤大和守様引合附不申、無拠御公訴覚悟二而、御地頭様へ御願則      乍量器書付御願奉申上候      神崎郡金堂村        与左衛門 右私義御百姓野業之作間、呉服、繰綿商売渡世二仕、御百姓相続仕難有仕合二奉存否、右二付京都へ出尊王仕、関東取引仕 候、然ル処、右商内遠国取引融通二付、於京都、両替仲間へ加入仕居候処、五ケ年已前、午暮信州高遠内藤大和守様御領 分、鉾持村外九十五ケ村6金子借用致度趣、口入世話人を以被相頼候野付、両替仲間へ出向振込金之内年賦済之引合二而、 右門々6引当等為致、貸渡し有之置処、則彦再開御領分神崎郡位田村久左衛門義も同様仲間二冥加雪景居候間、世話方二相 当り、必殺人名当之証文取置申候、然ル処、右金子初年6返済無給、元金四千五百両相帯磁壁二付、段々先方へ罷越、度々

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催促及盲評申候玉露、彼是不実而己申居候、将明不申世間、無拠此度位田村久左衛門、私両人江戸表へ罷下り、江戸町御奉 行様へ出訴仕度奉存学習、乍曲筆之笹葺聞済被成下、当御屋敷様へ御記翰被成下置候様奉願上候、尤私義此節足二腫物出 来、遠路罷下り候義難渋仕候間、総名代権八と超絶罷出牢度、乍恐此段御聞済落成下風様訴願上候、以上   文政九戌三月       神崎郡金堂村        外村与左衛門        庄屋 武左衛門        年寄  +郎兵衛     御代官様        ︵2︶ 右之通御願申上候処、郡山表へ御尋之上御聞済相成  ここにおいても、﹁御百姓野業之作間、呉服、繰綿商売渡世二連、御百姓相続仕﹂とあるように、百姓が自らの家業であ り、その農間余業として呉服・繰綿商売をしていると冒頭で述べているのである。ただし、このような百姓を旨としてい る名目的な主張は、特に領主である郡山藩に対する願書においてであり、領主側にしろ、近江商人側にしろこのような本 音と建前の使い分けがなされていたのであろう。九代目は、絹糸や紅花の購入にも力を入れていたようで、そのような売 買が相場の混乱や買い占めなどとなり、従来の売買に不都合が生じたため、今後そのような強引な取引はしない旨次のよ うに述べている。

    差入皇札載

一裏方手代共諸国糸絹出生興国々江差下し買方野鶴欝欝、相場混雑可致趣二相成果而ハ、江戸両御織殿御用糸絹御調進、井京 都西陣御召御織物之御下間二相成、就而者糸道虚無候大勢之者可及難渋義二付、以来国方へ四聖、糸織買方点画ハ・、江 戸両御織殿、井西陣御召御用等二品差支相成不潔候様、其御仲ケ間融業御示談、其筋二五イ可申候、万一此末相違之買方 近江商人外村与左衛門家と家業 七一

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近江商人外村与左衛門家と家業 致御差支之義有之候ハ・、  天保六乙三年四月 如何体二隠居聞立言、柳申分無御座候、    京都和糸絹問屋         御仲ケ間中    御糸御用達京都和糸絹問屋年寄代    江戸駿河町 宮下五郎兵衛殿 右書附、相談之上熊谷半右衛門、松居久左衛門、 七二 為後日差入置候一札伍而如件       江州神崎郡金堂村        外村与左衛門 大橋半右衛門、此衆中δ同様銘々認自差出し置着工直話

    御請藻

一私儀紅花出産之国々6紅花買取、京都紅花屋共和糸共へ売渡来季二王、其御用所様紅花御用之節ハ、御買取も即下候様奉 願候所、御構届被成下、則御出入樽屋中へ被仰付、右荷物相預置、紅屋方二而御選雷獣下、則御用二相成増候段、冥加至 極難有冬至候、然る処、右御用紅花取扱仕候故を以て、国方買荒し、又ハ買〆等不正之愁思仕、却而御用御差支之筋ハ勿 論、世上之紅花融通不平相成下等量儀、堅く仕間敷候、猶又此度被仰渡候趣委細奉畏候、尤此上共弥正路二売買可仕候、 侃而御曲繭如斯御座候、 以上  天保六百とし      江州  外村与左衛門印    京都後藤様御用所  天保=二年︵一八四二︶九月二二日には、九代目が五五歳で死亡し、一〇代目は実子与兵衛︵照成、回信︶が一入歳で相   ︹5> 続した。そして、弘化二年︵一八四五︶には領主である郡山藩の江戸中屋敷が類焼した。その際、郡山藩領の近江商人が二 〇〇両の献金を行ない、外村与左衛門家一族もその中に含まれていた。それは、次のようなものであった。

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一弘化二乙巳正月廿四日、江戸新堀御殿様御中屋敷御寺焼山付、献金仕度左二     乍恐以書付申上候 一金高弐百両也  内金八拾壱両也  外村与左衛門一統       内訳 ◎拾六両弐分也 介三拾三両弐分也        舞拾両也    外二拾四両也        □七両也    右ハ一統衆積立金□□□付と申       差上中墨、以上 同金四拾弐両也 同金弐拾弐両也 同金拾七両也 同金弐拾八両也 同金拾両也 ︵6︶ 〆 中村治兵衛一統 須田彦次郎 中村四郎兵衛 塚本茂右衛門 川嶋源左衛門 竹中忠右衛門 金拾四両つ・  これによれば、外村与左衛門家一統は献金二〇〇両のうち八一両︵四〇・五%︶を拠出し、二位の中村治兵衛一統の四二 両を大幅に上回っており、当時郡山茶請の中でも大きな勢力を占める近江商人であったことがわかる。外村与左衛門家一 統の中では、本家である外村与左衛門家︵︿外︶が三三両二分で、主導権を握り、外村宇兵衛家︵◎︶が一六両二分でこれに 次いでいる。しかし、ここで注目されるのは、二十衆積立金しとして一四両が献金されており、外村一族の共有の財産が 存在し、そこからこのような緊急を要する場合に拠出されたということである。このように外村一族の結束は固く、それ 近江商人外村与左衛門家と家業 七三

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     近江商人外村与左衛門家と家業      七四 が外村一族の繁栄をもたらしたものといえよう。そして、このような領主に対する献金などを通じての貢献が、近江商人 としての他国での活動を保証するものであった。次に示すのは、外村与左衛門家が、文化三年︵一八〇六︶の八代目から弘 化二年︵一入四五﹀の一〇代目にいたる、領主に対する献金などの貢献と領主よりの拝領品などを列記したものである。        ︵7︶     乍恐以書附奉申上候   但し半紙之長面二而書上申候 文化三寅年 一帯刀苗字 一御紋附麻御上下壱巻 右御講取繕世話方被仰付成就仕候二付、為御賞志被下之置候 文化十五寅年 一御紋附麻御上下壱巻宛  与左衛門 宇兵衛 両人江 一御米拾三石       当村庄屋方へ年々御下 右祖父与左衛門井気書宇兵衛、従両人以墨黒奉申上候金弐百両吉上仕、利足と被為思召、右米年々庄屋方へ御下ケ被成下、 村方困窮人江配当致候、御上下者両人江被下置候 右ハ天保八酉正月 一御酒御肴 右父与左衛門井宇兵衛両人6前年金弐百両永上若書節6御拾三招餌、庄屋方江年々御下ケ被成下難有、尚又天保七年甲九月 金弐百両永上仕候二付、於御屋鋪御酒被下置候 文政弐卯年 一機留御袴地壱反 右ハ当座御用金四歩方銀御取替奉申上候二付、為御賞志被下之土掘

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文政五午年 一父与左衛門継目奉願上候処、帯刀苗字御免被仰付候 文政拾弐丑年 一代々帯刀御免 右ハ若殿様御下向二付献上金仕候二付、御免被仰付候 天保五午年 一大庄屋格 一御紋附御帷子 「{ ヲ巳日改一紙改 右被為在御任官候節、献納金仕、為御賞志被下之置候 天保拾壱子年 一葉菱御紋附麻絹御上下壱巻 右文政八酉年御講講元世話被仰付無滞満講、為御賞志被下之置候 天保十一子年 一御紋附黒羽二重御小袖壱重 一奈良晒壱疋 右御為筋調達金仕井御貸附世話方被仰付候瑚、為御賞志被下之置上 天保十三寅年 一私儀、天保十三寅年十二月継目奉願上候処、帯刀苗字宗旨一紙改星霜付置 天保十三寅年 一弐人扶持 右泉涌寺御講駒込御屋鋪御類焼日光御名代、右三ケ所莫大之御入用之由奉承知、亡父与左衛門6献納金馬蝉、    近江商人外村与左衛門家と家業      七五 依勤功為御賞

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近江商人外村与左衛門家と家業 志私江被下之置候 弘化二巳年 一大庄屋格 一御紋附麻絹御上下壱巻 右新堀御屋鋪御類焼二付、献納金仕御賞志被下之置候 右御取調二言、帯刀苗字井大庄屋格宗旨一紙改其外御品々、   弘化二巳九月 七六 祖父与左衛門6私二至官金有奉頂戴候通申上候、以上        江州神崎郡金堂村        外村与左衛門印判     御代官様 右之通書上申候、以上  すなわち、領主の下向、屋敷の類焼、御用金などの要請に献金で対応し、その一方で紋付、袴地、小袖、酒肴などの品 物をはじめ、苗字帯刀、大庄屋格まで得ている。このような領・王との関係が、近江商人の他国商売を禁じ、領内の百姓稼 業に従事させ、その商業能力をとりあげてしまうよりは、近江商人を建前として領民百姓として把握し、あくまでその余 業として他国商売を認めている背景として存在していたのである。領主側にとっては、近江商人は他国商売によって領内 へ財をもたらすものとして存在していたのであって、領外へ追い出したり、領内の農業に専従させては意味がなく、あく まで建前は領内の百姓であり、余業として他国商売が存在していたとしなければならなかった。近江商人も、領・王からそ のような保証が与えられて、はじめて他国商売が円滑に進行するのであった。したがって、あくまで建前である百姓身分 を堅持しなければならなかったし、模範的な領民である百姓を演じなければならなかったのである。そして、他国商売は、 領内での︸人前の百姓稼ぎを行なった上でなければ、領主側も認めるわけには行かなかったのであり、それゆえ近江商人

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の遺訓にも百姓稼ぎを疎かにしてはいけないとしていたのであった。       ︵8︶  一〇代目は、嘉永元年︵一入四八︶一一月に近江商人である日野松尾町上組外面市右衛門の娘を嫁に迎え、 八六七︶には代々継承してきた与左衛門の名前を改め、次のように繁左衛門とした。 慶応三年︵一       ︵9︶ 乍恐以書附御届ケ奉申上候 繁左衛門 右者先祖名前二御座候猛省、  慶応三卯二月 此度書面之通改名仕候、此段以書面御届ケ奉申上候、以上︵代官宛︶ 外村与左衛門印  しかし、明治三年︵一入七〇︶には、病気を理由にさらに外村正二と改名し、 代目︵照誉、栄信︶としたようである。 次のように惇の泰次郎へ家督を譲り、       ︵10︶     乍恐御届ケ奉申上候 一私儀繁左衛門名前二御座候処、兼て御届ケ難壁上候病気之処、今以誉田全快難相成候之間、此度相改正二と改名仕、惇泰 次郎へ家名相続相譲り申度、此段御願奉申上候、依之泰次郎儀改名与七郎と歯糞、家名相続相立申度、此段御願奉申藩 候、何卒右願之通御聞済被為成下候ハf難有仕合二奉存候、以上  明治三年旧正月       神崎郡金堂村        外村繁左衛門事改名       外村正二        同     泰次郎事改名       外村与七郎    御出張所様 近江商人外村与左衛門家と家業 七七

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近江商人外村与左衛門家と家業 七入 右御聞済二相成申候二付、御役人衆中へ左二 ︵1︶前掲文化一〇年﹁先祖代々伝来記 巻三﹂。 ︵2︶文政八年﹁先祖代々伝来記 巻四﹂︵外村与左衛門家文書︶。 ︵3︶同右。 ︵4︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。 ︵5︶天保=二年﹁先祖代々伝来記 巻五﹂︵外村与左衛門家文書︶。 ︵6︶同右。 ︵7︶同右。 ︹8︶同右。 ︵9︶前掲﹁外村氏家乗資料 地﹂。 ︵10︶同右。 むすび  以上のように、近江国神崎郡金堂村の近江商人外村与左衛門家の﹁先祖代々伝来記﹂を中心に、近江商人の存在形態に ついて述べてきたのであるが、要約すると次のようになるであろう。  第一に、外村与左衛門家は、初代・二代と高一雪余のわずかな財産を基礎に農業を営む小農民から出発し、三代目は奮 起し農業に精を出し、三軒の家を建て田畑高二八石余の高持ち百姓にまで成長した。五代目になると、商業に従事し近江 商人としての基盤を固めることとなった。その後近江商人としての商業活動が展開され、九代目には、麻布・呉服・繰綿 だけでなく絹糸や紅花まで取扱商品を拡大していった。商圏は、名古屋・信州・上州・江戸・近江・京都・大坂・大和な どであった。  第二に、外村与左衛門家の五代目が近江商人としてのスタートを切ったのは、四代目が病気がちであったため、早くか

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ら自立する道を模索しなければならず、また当時一九歳と年齢が若く企業者精神に富み、先祖代々の百姓稼を守らねばな らないという意志は少なく、金銭的な余裕を含め、失敗しても自分の意志で行動する自由が存在したことによるものであ った。そして、彼が近江商人としてスタートが切れたのは、あるいは切ろうと考えたのは、彼を支える近江商人間のネッ トワークが存在したからでもあった。特に、外村与左衛門家のような後発の近江商人にとって、新しい聖域での活動に際 しては、先発近江商人の蓄積基盤は重要な要素となり、それらが結果として全国的な近江商人の活躍となって現れたので あった。  第三に、外村与左衛門家の初代が﹁先祖6代々金堂村百姓﹂と強調しているように、近江商入といえども、百姓が自ら の家業で、年貢を納めることが第一であり、原則的には余業として他国商売が領主より許可されていたのであり、他国商 売を行なうものの、一方で領内に踏み止まる一人前の百姓であることが他国稼ぎの商人として活動する条件であり、それ が近江商人としての在り方を示していた。領主側にとっても、百姓相続の他国往来商売であったからこそ近江商人の他国 での活動を許可したのであった。したがって、近江商人は他国商売によって領内へ財をもたらすものとして存在していた のであって、領外へ追い出したり、領内の農業に専従させては意味がなく、あくまで建前は領内の百姓であり、余業とし て他国商売が存在していたとしなければならなかった。また、他国往来商売は、無制限に行なわれたのではなく、親から 子へと引き継がれる場合には、村役人を通じて領主側へ届けられたのであり、その御礼には金銀や酒が村役人をはじめ代 官・手代にいたるまで贈られた。  第四に、外村与左衛門家の家としての結合の強さは、六代目から八代目にかけての家督相続と宇兵衛家との関係におい て見られた。六代目は、病身を理由に、名古屋仕入商を息子の惣十郎︵後の七代目︶と与三郎︵後の入代目︶に任せ、利益の 六割を惣十郎、四割を与三郎に与えるというシステムをつくった。また、八代目も弟を宇兵衛家として独立させる際に、 近江商人外村与左衛門家と家業 七九

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近江商人外村与左衛門家と家業 八○ 与左衛門家と宇兵衛家とが享和二年︵一入〇二︶から五年間、与左衛門家五〇〇貫目・宇兵衛家記〇貫目の出資で共同で事 業を行ない、その利益は三分の二が与左衛門、三分の一が宇兵衛という比率で分けることとなった。そして、外村宇兵衛 家は、本家外村与左衛門一族を支える有力な分家となるに至ったのである。さらに、弘化二年︵ 入四五﹀に領主である郡 山藩の江戸中屋敷が類焼した際にも、外村与左衛門家一統は、領内近江商人の献金二〇〇両のうち入一両を拠出し、外村 与左衛門家一統の中では、本家である与左衛門家が三三両二分で、宇兵衛家が一六両二分でこれに次いでいた。そして、 そこには外村﹁族の共有の財産と思われる﹄統衆積立金﹂から︸四両が献金されており、このように外村︸族の結束は 固かった。また、外村与左衛門家の縁組においても、いずれも金堂村周辺の神崎郡や入幡町の近江商人や農家の子弟へ嫁 いだり、そこから嫁を迎えたりしており、その中で外村家の結合を深めていったのであった。 ︹付記︺本稿は、滋賀県神崎郡五個荘町史編さんの過程で収集された外村与左衛門家文書を中心に作成した。ここに、同文書の所蔵   者である外村与左衛門家ならびに史料収集に尽力された五個荘町史編さん室・編集委員の方々に感謝するしだいである。

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