近世在地修験と地域社会―秋田藩を事例に―
著者
松野 聡子
学位授与大学
東洋大学
取得学位
博士
学位の分野
文学
報告番号
32663乙第218号
学位授与年月日
2017-03-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00008953/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja109 氏 名( 本 籍 地 ) 松 野 聡 子(埼玉県) 学 位 の 種 類 博士(文学) 報 告・ 学 位 記 番 号 乙第218号(乙文第88号) 学 位 記 授 与 の 日 付 平成29年3月3日 学 位 記 授 与 の 要 件 本学学位規程第3条第2項該当 学 位 論 文 題 目 近世在地修験と地域社会―秋田藩を事例に― 論 文 審 査 委 員 主査 教授 博士(文学) 白川部 達 夫 副査 教授 博士(文学) 神 田 千 里 副査 教授 博士(歴史学) 岩 下 哲 典 副査 慶應義塾大学助教 博士(文学) 上 野 大 輔 松野聡子「近世在地修験と地域社会―秋田藩を事例に―」は、近世在地修験の実態を地 域社会との関連で解明した研究である。修験は中世では山岳に籠もり修行を重ね、そこで 得た呪術的能力で加持祈祷を施し、人々の信仰を集めた。そのことは大きく変わらないも のの、近世になると修験の多くは里に定着し、農業を営みながら宗教活動を行うようにな る。本論文ではそうした修験のあり方を在地修験と称している。近世では、東北地方にそ の信仰が強く、秋田藩領域では、仏教寺院より修験寺院が多く存在した。 本論文は全体がⅢ部で構成されている。Ⅰ部「秋田藩における在地修験者統制」は、修 験の宗教活動の範囲である「霞(掠)」の統制とその統制上の特徴、修験者と藩主の御目 見え儀礼である殿中儀礼のあり方を通じて、藩の修験統制を解明している。第1章では、 修験の霞(神官は託宣と称した)を藩が霞(掠)状を発給して公認したこと、霞は所持堂 社に関する祈祷・守札・幣帛や堂社別当棟札など上霞と湯立・遷宮・祝詞など神楽を中心 とした下霞、個人的な病気平癒祈祷などの帰依勤方とに分けられ、神官や修験の担当範囲 の棲み分けが行われたこと、霞(掠)状で霞の所持権が認定されたので、近世後期にはこ れが物権化して売買された実態を指摘している。第2章では、藩主にたいする年頭御礼の 実態分析を通じて藩が領内の寺社の寺格秩序を編成した様相を明らかにした。さらに天和 期には、それまで佐竹家の分家の出自をもつ修験今宮家がその統制を任されていた体制を 否定し、藩の寺社奉行が修験統制を掌握し、そのもとで統制が整備されたこと、安永・寛 政期にこれがさらに進められ、佐竹氏が秋田に入封して以来、認めてきた秋田十二社とい
110 う特別の寺格を抑えて藩の支配統制を強化したことを指摘する。 第Ⅱ部「秋田藩領の在地修験寺院と地域社会」では、近世中期以降を中心に修験寺院が 地域社会の中で、修験道から脱却して修験宗へと自己のアイデンティティを確立しようと した様相を雄勝郡大沢村上法寺喜楽院および平鹿郡大屋町新田両学寺の両修験文書から明 らかにする。修験史料は明治維新の廃仏毀釈およびその後の社会変動で失われており、そ れが実態解明をはばんで、先行研究の限界になっていた。本論文では両修験文書を初めて 分析して、修験寺院の実態を具体的に解明し、大きな成果をあげている。第1章では、両 学寺が自らの門前百姓を関連寺院と争いながら、藩に交渉し、菩提旦那に認めさせる過程 を明らかにした。修験道はその存在が曖昧で、近世では他の仏教寺院のように寺請の主体 とされなかったので、菩提旦那を一般的にはもたなかった。そこで近世後期になると、本 寺醍醐寺三宝院などをはじめとして、自らを修験宗であると主張し、一派引導権を確立し ようと運動した。両学寺の動きはこれに沿っており、秋田藩では前例のないできごとで、 そのことは菅江真澄の旅行記にも記録されている。その後、喜楽院では当主の死にあたっ て一派引導による葬儀を両学寺はじめ周辺修験の協力で執行しており、修験宗への自己確 立の努力が試みられたことが明らかにされる。第2章では、文久2年(1862)の全国的 な麻疹の流行の中で、麻疹に効験があると日頃から信仰されていた喜楽院は、周辺修験の 協力を得て、除病祈祷を執行した。これには周辺地域から3日間に5万人が群集したとい われる。その様相が具体的に明らかにされ、秋田藩の合理的施薬政策だけでない、伝統的 な民衆救済が行われたことが対比的に明らかにされる。喜楽院は、これを足がかりに新た にその伝統化をはかるなど、いわゆる伝統の創出が試みられたとする。第3章では、これ らをふまえ、同様な立場にあった神職の動向と関連させながら修験のアイデンティティ確 立の努力が、明治維新に向けて行われたことを明らかにしている。それは神職に見られる 集団化現象と方向は同じであったとしている。 第Ⅲ部「秋田藩における在地修験寺院の寺院経営」は喜楽院の寺院経営を解明したもの である。第1章では、上法寺喜楽院の修験寺院としての展開が堂社経営と関わらせながら 明らかにされる。近世初期から上法寺は、民衆の願望をとらえてさまざまな堂社を造営し て、人々を参詣に導くように工夫した。この堂社造営は同寺の所持する山林を伐採して行 われたが、それには藩の許可が必要で、その申請文書から、堂社の造営過程が明らかにさ れた。また近世中期からは、修復が問題になったこともわかる。さらに近世後期では、材 木資源の維持のために植林が行われ、この地域に養蚕が広まると、これに関わる堂社の建 立のために寄進が募られたことも指摘している。第2章は、喜楽院が堂社再興のために文 久3年に開始した頼母子講の実態が分析されている。講の範囲は喜楽院の霞の範囲からそ の周辺、さらにはこれまで喜楽院と信仰関係が薄かったものの経済的に繁栄していた地区 の有力者へと広がっていたことを明らかにしている。第3章では、喜楽院が修験者として
111 地位を保つために行われる入峰修行とこれに関わる諸問題が検討されている。修験者は近 世でも霊山に籠もり修行することで、その資格が認められた。喜楽院は、吉野の金峰山寺 を起点にして入峰修行を行い、これにより本寺醍醐寺三宝院から各種の資格を認定された。 近世後期では本寺の励行にもかかわらず修験の入峰懈怠という現象が高まったが、喜楽院 はほぼ代替わりごとに入峰修行を行い、相応の官位を認められた。具体的には27代当主 快命の記録などが残っており、これにより藩の許可、旅行、京都・吉野での本寺関係者と の交渉、江戸の藩主への御目見え(同院はその資格があった)、藩重役への御礼、地元と の関係など実施過程が明らかにされた。第4章では、修験の相続と藩主に対する継目御礼 が検討された。修験は妻帯が認められ、親子相続するのが一般であった。またその寺院と 称するものも居宅は一般的な農家の造りで、在地修験は日常は農耕に従事する農民的性格 が強かった。このため寺院も家産として相続されたが、それでも相続には村の承認のもと で藩への届けが必要であった。さらに上級の修験は藩主への継目御礼を行った。これによ り藩主を中心とする主従秩序の中に、修験も取り込まれていた実態を具体的に明らかにし ている。 以上、本論文の価値は、秋田藩における近世修験の実態解明を在地史料の発掘により飛 躍的に深めたところにある。東北地域の近世宗教史研究では、先行研究として田中秀和『幕 末維新における宗教と地域社会』(清文堂出版、1997年)がある。同書でも秋田藩の修験 が採り上げられているが、全体に藩政史料を利用した概括的なもので、個別具体的な実態 分析は本論文が最初のものといってよい。今後、近世宗教社会史の全体像の再構成を目指 して、どのように発展させていくのかが課題として残るとしても、本論文は近世在地修験 のあり方を個別具体的に深めることで、秋田藩のみならず、近世の修験研究や宗教史研究 に確かな拠り所を創ったといえる。また近世の地域社会研究にも貢献する業績であり、そ の点でも評価することができる。本論文は、歴史学の成果としては十分なものであり、ま た文学研究科(史学専攻)の博士学位審査基準に照らしても妥当な研究内容であると認め られる。従って論文評価に基づき、本審査委員会は全員一致をもって松野氏の博士学位請 求論文は、本学博士学位を授与するに相応しいものと判断する。